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2006年9月

2006.09.15

戦う姿勢の安倍晋三と宗教弾圧が常軌を逸してきた中国

価値観の多様性を認めるところに民主性社会は存立するというのは公理であると思う。一党独裁で価値観の多様性を認めない国家はやがて内部崩壊していくことは歴史的事実が証明している。中国では今、キリスト教に対する弾圧が常軌を逸した様相を呈していることが、福島香織女史のレポートによって報告された。この国も農民の反乱とそれに対する強権発動による弾圧が治世の混乱に拍車をかけ、今また宗教弾圧をせざるを得なくなったところを見ると共産党政権が内政に行き詰まって、断末魔の動きをみせだしたと推測しても間違いではあるまい。本当に北京オリンピックが無事開催できるであろうか。



たまたま日本では安倍政権が発足しようとしている。歴史認識の問題は価値観の多様性を認める民主性社会では当然の帰結として各国それぞれの歴史認識があってしかるべきであろう。

中国や韓国のいう歴史認識を理由にする首相の靖国神社参拝への内部干渉は住む世界が異なる国の寝言にしかすぎないと判断できる国民が日本にも増えてきた。その代表が安倍晋三氏であろうと思う。安倍氏のぶれない信念について触れられた本日の産経新聞の記事にも共感するところが多い。







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2006.09.14

村山談話の出自の卑しさ

  自民党の総裁選挙が近づき三候補が各地で立ち会い演説会を開いているが、安倍晋三候補の独走体制は変わらないようだ。何故安倍人気なのか。これについて桜井よし子女史と潮匤人氏の所論に接しなるほどそうかと共感するところが多かった。

桜井女史の指摘により「村山談話」なるものの出自の卑しさと政治屋達の国家百年の大計を忘れた軽率な判断の産物であったことを知った。

更に若い世代に保守回帰現象があるのは潮氏の分析が正鵠を得ていると思った。









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2006.09.07

内視鏡検査

  二カ月程前に基本健康診断を受けた。その結果をまだ聞いていなかったので薬を貰いに行くついでに主治医の所を訪問した。胃のレントゲン写真をみながら食道に判定できない影があるから内視鏡の検査をしたほうがいいと言う。食道癌でなくなった友人も何人かいるし現在食道癌の手術をしたが転移してもぐら叩きのような治療を続けている或る友人のことが頭に浮かんだ。いよいよやられたかとの衝撃が走った。齢古希に近くなれば何があってもおかしくないが、肉親に癌でなくなった人が一人もいないのでまさかという気持ちもある。

 ままよと覚悟を決めて今日指定の時間に検査を受けに行った。ファイバースコープを口から胃の中へ通すなんて考えただけでも嫌な気持ちであった。だが胃をきれいにする飲み薬を飲んで、口の中にゼリー状の麻酔薬を含んで五分間唾液を飲み込まないように耐えなければならない。この時間の長く感じれらることこの上ない。タイマーがなってやっと忍耐の時間が終わったら今度は口を開けさせられて喉の奥へ向けて麻酔薬を噴霧された。これも唾液は飲み込まないようにという指示である。

 やがて検査室に呼ばれて診察台に横向けに横たわり口に固定台をくわえさせられた。その中を黒い被覆のついたファイバースコープが滑りこんでいく。思っていた程の苦しさはない。唾液は外へ垂れ流せという。飲み込むまいとするから唾液が牛の如く流れでる。医師がカメラを操りながら今カメラが何処を見ていると説明する。写しだされるPC画面を見ながら手際よく検査行為が続く。およそ15分ほども胃の膨満感と戦っている内に検査は終了した。早速医師が撮影した胃内の写真を見せてくれてどこにも異常は見つからなかったと説明してくれた。

  それを聞いてほっとすると同時に自覚症状もないのだから癌などである筈がないと思っていた予想があたって安堵した。それにしても医学の進歩には素晴らしいものがある。内視鏡検査は決して怖いものでも痛いものでもないことが実感として判った。

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2006.09.05

日本に欠けている崇高の概念

 日本の国柄について考えようとする風潮が出てきたことは喜ばしいことである。東京裁判史観や自虐史観に汚染されたいわゆる進歩的文化人が日本の精神界にばらまいてきた毒素がその効果を現しだして、現在の教育の衰退、道徳観念の衰退が進んでいる。恥の文化はどこへいったのだろうかという思いが強い。

 安倍次期総理候補は美しい日本という日本再生のキーワードを提示した。結構なことである。しかし安倍氏の方針に何かもの足らないものを感じていた。そんな折りしも本日付けの産経新聞に新保祐司氏の所説が正論欄に発表された。現在の日本の社会に欠けているものは崇高という概念であるという所説には首肯できるところが多い。

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2006.09.03

教育の荒廃と安倍政権に期待するもの

 9月1日安倍晋三氏が自民党総裁選に立候補を表明し、安倍、麻生、谷垣の三氏で次期総理の座が争われることになった。各紙の世論調査では安倍氏が断然有利の情勢である。
 
 安倍氏が公表した政権構想は次のようなものである。

 

安倍晋三官房長官が1日発表した政権構想「美しい国、日本。」の要旨は次の通り。

 【政権の基本的方向性】


 ▽新たな時代を切り開く日本にふさわしい憲法の制定

 ▽開かれた保守主義

 ▽歴史遺産や景観、伝統文化などを大切にする

 ▽家族の価値や地域のあたたかさの再生

 ▽教育の抜本的改革

 ▽民間の自律と、過度の公的援助依存体質からの脱却

 ▽日本の強さを生かした積極的貢献

この中で特に注目したいのは教育の抜本的改革である。時代を担う若者達を教育する制度自体を改革しなければ日本はやがて衰退の一路を辿るであろう。現代の教育現場の荒廃ぶりはクラウン孝子女史の以下のレポートを読んで慄然とした。

■2006/09/01 (金) 文科省エリートよ、もっと市民の立場で実情を!(3)

中学校では、この能力の格差がますます顕著になるようです。
小学校では、それでも授業の妨害までは行かないようですが、
中学生になると状況はかなり悪くなるようで、
「公立中学校はひどい」というのが教育に関心のある親たちの感想で、
これから中学生になる子どもを持つ親として、不安でたまりません。

よく思うのですが、学校制度を議論する前に、まず、能力別クラス
編成を実行してほしいと思います。
30人以上の理解度のバラバラな子ども達を前に、どんな授業を
すれば全員の学力向上がはかれるのでしょうか? 

わからない授業を聞くために半日も机に縛り付けられたり、
先生の次の指示を待ち続けたりするのでは、勉強が楽しくなるはず
がありません。

学習塾では、能力別のクラスにするのはもう当然のことなのに
「平等な教育」に偏向するあまり、それぞれの個性がまるで伸ばせ
ないのが、日本の義務教育です。

オーストリアに住む友人のこどもは、今年小学4年生を終えて、
9月からはギムナジウムに行くそうです。
ギムナジウムは、大学進学を視野に入れて教育を受けるそうですが、
入学にあたっては、本人の希望ではなく、これからの勉学に足りる
能力や適正があるかを教師が判断するそうです。
ドイツも同じですか?

10才の段階で、将来を決定するのは無理があるようにも思い
ますが、一方では、適正にあった授業を受ける事ができるのは、
うらやましく思いました。

別の友人も、当地の教育制度には満足しており、安心して学校
に通わせている様子で、日本もそうであってほしいと願って
います。

塾に通わなくても必要な学力が身に付くよう、文部科学省エリート
には、もっと市民の実際をみて、知恵を絞ってもらいたいです。

どなたかに聞いて頂きたく、メールをさせて頂きました。

N.K. >>

■2006/09/01 (金) ある若いお母さんからの教育事情レポート(2)

公立学校の特典は、いろいろな階層の子弟が通学
してくることです。
私が村の小学校に通っているころは、すでに50年もまえの
話ですが、皆、貧しく、そこでのびのびと勉強に励んだものです。

先生も怖くて、授業中におしゃべりする子は、チョークを
投げられたり、うろうろする子は廊下に立たされたりしていました。

授業は静かに聴くものと思っていたものです。
勉強のよく出来る子は先生からほめられましたし、
それが得意で、クラスの模範になるよう努力したものです。

今や、日本ではそんな学校は語り草になってしまった
ようですね。

ドイツでは
小学校4年で、能力別というか得意部門別に
クラスを編成して学習します。
かなり古くなってしまいましたが、私はこのドイツの教育制度
について、何冊か、本に纏めました。

そこでN.Kさんより、

<<教育の崩壊についてのコメントが載りましたので、
さっそくメールをさせて頂きます。

いつもクラインさんのメールを読んでは、なるほどと思ったり、
紹介されるリンク先を読んで、意識しないと情報は偏ってしまう
ものだと、目を開かれる思いです。

教育については、夏休みを短縮するなど的はずれがまかり通って
いる判断に憤り、小学生のこどもを持つ親として、これからの
教育に不安がいっぱいです。

子どもは、東京都の区立小に通っていますが、教室の状態は
目に余ります。
ご指摘の通り、
授業中に立ち歩く、ちょっかいを出す、
先生の話を静かに聞けない・・・状態です。

5年生になり、大分良くなってきましたが、それでも私が小学生
の頃とは想像も付かない落ち着かない風景です。

ご指摘では、教師の指導力を問題にされていましたが、
感じるところでは、問題のある教師も確かにいるものの、
むしろ、そうした「指示を守れない子ども」に苦慮している
熱意ある先生方のほうがずっと多いように思います。

授業の進み方も、騒ぐ子どもの注意に時間が取られ、レベルは
低学力の子どもにあわせて進みます。
静かに話を聞いている子ども、理解の早い子どもは、
先生が他の子に注意をしている間、ずっと待っているのです。
待ち時間の何と多いことか!

すでに低学年にして、
計算のできない子、
本がすらすら読めない子と、
問題なく授業について行ける子が教室に混在しているのに、
教師は、それぞれに対応できていないのです。
ー続ー

 

■2006/09/01 (金) 子供の教育よりも、大人の再教育こそ必要(1)

教育は百年の計といわれています。
何をこどもに教えるか。
人間、己を省みても、欠点だらけで、その己が
子供に教える資格があるか、と自問したら、恐らく
明確に答えられる人は数少ないのではないでしょうか。

『ゆとり教育』というのが一時、ブームになった時がありました。
日本の友人がある役職についている偉い大学教授が
息子が通学している学校で保護者向きの講演を行い、
『ゆとり教育』の重要性をとくとくと説いてたそうです。

ところがその教授の子供は3人とも、都内では詰め込み教育で
しられる有名校に通わせていた。

この事実を知った友人は、これが日本の教育の実情よ、と
怒っていました、

こんな大人の偽善を知ったら、こどもが白けてしまうのは
当然でしょう。

何かおかしくなっている。その原因が大人にあるという。
こどもがそれを敏感に感じとってしまうのも分からないではない。

若者たちにはそれを乗り越えて、したたかに生きていく、
そんなコツを学んで大人になってほしいものです。

さてそこで
Hasegawaさんから

<<メールにてコメントさせて頂きます。
今の大人や社会は子供たちに馬鹿にされて当然だと思います。
模範とすべき大人が少なくなってきています。
子供は社会の鏡で大人社会の真似をする。
集団で悪事をする、平気で嘘をつく等は大人がやっていること。

大人こそ真面目さを取り戻さなければならないのでは。

子供の教育よりも、大人の再教育こそ必要なのではないでしょうか。

今の大人に何を言われても腹で嘲笑されるのが落ちでしょう。

自分も三十代で大人ですが、今の大人や社会の堕落、腐敗は酷いと
思います。

子供はある意味大人や社会の餌食、犠牲者だと思う。
顔は明るく笑っていても大人や社会をあざ笑い、悲しさと憎悪に
近い心の複雑な感情も持っているかもしれません。>

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2006.09.01

幹事会

  八月も最終日の31日に東京の中華料理屋で大学時代の寮の幹事会が開かれた。普通学寮の同窓会というのは同年次の旧友達が集まってひらかれるのだが昨日の会は昭和29年に卒業した人から昭和37年に卒業した人達の中、同年次の幹事をしている人達がいわば縦の繋がりで集まった。目的は十月に開催予定の在京舎友会総会を開催するための打ち合わせである。大学には四年間しか在学しないのが普通なので同じ寮で生活したといっても卒業年次が異なると共有する体験も少なくなる。その中にあって寮母とか守衛とかの想い出が繋がりの一つの絆となる。

  中には旧制高校の雰囲気を知っている先輩もいて話しを聞いているだけでも知らない世界に遊ぶ心地がして楽しいものである。

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