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2007年11月

2007.11.28

マスコミ報道の一面性

  防衛庁の汚職問題を初め官庁や地方自治体職員の不祥事が頻繁に報道される。その報道を見聞する度にまたかという思いにさせられる。

  過日目が不自由な病人が市の職員から公園に置き去りにされるという事件が報道された。その限りでは市職員の対応はひどいと思ったものだが、今日の産経新聞のコラムで報道された事実は寡聞にしてテレビや新聞では報道されなかった。

  筆者の近所にも生活保護を受けながら一寸体調が悪いと救急車を呼んで自家用車代わりに利用している嫌われ者がいる。そのことと考え合わせてこのコラムの寄稿者の憤慨の気持ちはよく理解できる。

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2007.11.21

人の皮膚から万能細胞

 京都大学再生医科学研究所の山中伸弥教授らが人の皮膚細胞から万能細胞を作ることに初めて成功したというニュースは久々に明るい気持ちにさせてくれた。

 米国のウインスコンシン大学でも胎児などの皮膚から作った万能細胞のことを20日発表したという。どちらの方が世界初の万能細胞として認定されるのであろうか。興味深々である。

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2007.11.16

沖縄戦を子供達にどう伝えるかのシンポジュウム

  大東亜戦争で沖縄が本土の盾となって戦い多くの犠牲がでたのは痛ましいことである。その事実を後世に伝えることは大切なことである。集団自決に軍の命令があったか否かについて議論が行われている。軍命令はなかったとする説が次第に有力になりつつある。そう主張する人達のシンポジュウムが開かれたという記事を読んだ。対立よりも共感をもって処すべきという主張には賛意を表したい。

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2007.11.14

沖縄の集団自決の真相

沖縄の集団自決に軍命令があったか否かについては非常な関心を持っている。

 個人的には沖縄県民の受難の歴史には愛憐の情と感謝の意を捧げるにやぶさかではない。しかし一方では、沖縄県民は過剰反応しすぎではないかという印象を持っている。

 政治目的をもって是が否でも軍命令があったことにしたいと願う集団が暗躍しているという疑いをぬぐいさることができない。

 そんな時に以下のメルマガの所論に接した。共感できる所が多いので引用して記録として残しておきたい。

以下は引用である。

★ 表題: 沖縄の集団自決の真相、お涙や思想で真実を歪曲してはならない 
                    大城 義夫
                    佐藤ライザ qx1x@104.net


◇ 太平洋戦争の末期(1945年3月)、沖縄で発生した民間人の「集団自決」
を巡って、その真相を問う裁判の口頭弁論が、2007年11月9日大阪地裁で実施
されました。

◇ 原告は、元座間味島守備隊長・梅沢裕氏(元少佐90歳)と元渡嘉敷島守備
隊長・故赤松嘉次氏(元大尉)の弟・秀一氏(74歳)であり、被告は、大江健
三郎氏(ノーベル賞作家)と岩波書店であります。

◇ 訴訟の請求内容は、表向き「損害賠償と書物の出版・販売の差し止め」で
す。しかし本音は、集団自決の真相が、「軍の命令」による強制的なものであ
ったか否かを、解明するものと言わざるを得ません。


◇ 佐藤ライザは、2007年10月15日付けの「日本の進路」において、「集団自
決と教科書の記述」を採り上げました。今回は、事件当時、沖縄に住んでいた
大城義夫と共同して、「集団自決の真相」に迫るものであります。


◇ 米軍の攻撃・上陸が迫った当時の沖縄では、非常事態に近づいていました
。ところが、職業軍人(志願して将兵となった人)・徴兵で軍隊に送り込まれ
た人・一般の民間人の間では、意識も処し方も大きく異なります。

◇ 「捕虜になるなら突撃か自決して死を選べ」という思考形態は、軍の中層
部以上に当てはまります。軍人に接していると、最後は「自決」を選択すべき
との気持ち(雰囲気)が漂っていた可能性があります。


◇ しかしながら、大城義夫が知っている範囲では、軍の首領クラス(隊長級
等)の考えと発言内容は、「民間人は、如何なる事態になっても、生き延びる
べき」と記憶しています。「自決命令」の如きものは、断じてあり得ないと思
います。

◇ 反米・反戦(?)思想の大江健三郎氏の論拠は、自分自身で取材・検証し
たものではありません。日本軍の雰囲気(官軍民共生共死??――実態なし)
を文章にした抽象論であり、全く信用できません。従って、自決命令書等の物
証が一点も提出されておりません。


◇ 現在の沖縄の多数の人間が、「軍命令による集団自決」へ傾いて、デモを
断行したりしているのは、次の三つの理由が推測できます。

 1、「軍命令」とすれば、遺族補償を手にできるとの思惑です。
 2、軍を悪者にすることによって、相対的に自分達を、格好良く見せるため
です。
 3、反米精神の表現形態の一つです。(沖縄には米軍基地があった方が、防
衛上安全であることが、理解されておりません。)

◇ 理由の如何を問わず、1945年3月に沖縄の地で「集団自決」を断行した方
々は本当に気の毒と思います。しかし、「お涙」や一部人間の「思想」を優先
して、真実を歪曲しては、絶対に「不可」であります。

(日本の進路、No.0353、沖縄の集団自決の真相、完)

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2007.11.13

フェルメール展を見てきた。

 
フェルメール展 を見てきた。

 日展を見るつもりで出かけたがフェルメールの牛乳を注ぐ女が展示されているので日展はやめてこちらを見た。

 それにNHKの迷宮美術館でフェルメールの話を聞いたばかりだったので迷わずフェルメール展の方を選択した。

 デンハーグのマウリッツハイス美術館を訪問した折りにデルフト風景と真珠の耳飾りの女はここで見ていたが、牛乳を注ぐ女とは今回初対面である。デン・ハーグを訪問したのは平成13年4月であったからもう5年以上の時が流れた。

 今回は作品説明のイヤホーンを借りてゆっくり見ることができた。 
 作品解説も至れり尽くせりで名画を堪能した。

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市場取り締まり強化の北朝鮮労働党の内部文書

 北朝鮮労働党が市場取り締まりを強化しているという内部文書が産経新聞に掲載された。
 物資不足で外国からの援助物資や軍の物資まで横流しされて闇市に出回っている様子を窺い知ることができる。
 一般大衆は政府の言うことは信用しなくなっている様子であり金王朝は倒壊寸前であるとの印象を受ける。
 惨めなのは一般大衆である。
  

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2007.11.11

華乃会の発表会

 華の会(若柳恵華日本舞踊勉強会)の第2回公演会が日本橋劇場で開催された。

 招待状を高校時代の級友で若柳流名取の雅三津女史から頂いていたので会場へ駆けつけた。この日は雨の日で毎週参加しているボートを漕ぐ会のモーションも中止になったので時間にゆとりを持って鑑賞に駆けつけることが出来た。同級生が11人程声援に集まった。

 若柳雅三津名取の出番の時はここぞとばかり大声で声援した。
 演技も円熟味が加わって幽玄の趣が感じられた。

 日本舞踊にはしきたりとか慣行があるのであろうが、門外漢にはそのような知識は持ち合わせない。

 そこで一般の観客として感じたことを列記してみた。

1.劇場の中へ入って座席に座ろうと思い空いた座席へ行ってみて驚いた。空席の椅子にはハンカチや手提げ袋が置いてあり全て塞がっているのである。舞台で演技が始まってもその席には誰もこない。自分のひいきの演者が出演するときだけ、この席へ戻り鑑賞するのであろう。ために立ち見を強いられてしまった。この自己中心な観客のマナーの悪さは一体なんであろうか。

  会の主催者も開場を視察して空席にハンカチや荷物を置いたまま主のいない席は整理して立ち見の観客に着席させる配慮が必要であろう。少なくともアナウンス位はすべきではなかろうか。

2.舞台に演目の表示がないので現在舞台で演じられている踊りがプログラムのどれに当たるのかが判らない。落語では演題の看板が出されているがあのような方法はとれないものか。
  少なくとも演目についてアナウンスする必要があろう。

3.日本舞踊は観客数の面からいえばマイナーな芸であろう。日本舞踊を普及発展せしめようとするならば素人の一般客にも判り易くとりつき易いように上記指摘の2点は改善しなければなるまい。

 




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2007.11.09

新聞報道の信憑性・・沖縄集会11万人

  終戦時の沖縄集団自決について日本軍の命令があったか否かをめぐって教科書検定が出版社原案を削除した。この削除は不当だとして沖縄で抗議集会が開かれた。この集会に11万人が集まったとの新聞報道があった。その数をめぐって政治的な意図をもって実際の数より過大な報道をしたとの憂国者によるマスコミ批判があった。

  その「マスコミの誤報を正す会」が結成された。との報道を読んだ。

 この記事を補足するようにして
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成19年(2007年) 11月8日(木曜日) 貳  通巻 第1997号 
の記事を目にしたので備忘のため引用しておく。

以下は引用である。 

△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△
 ♪
(読者の声1)貴誌に依れば、知識人、ジャーナリストらによって、「マスコミの誤報を正す会」が結成され、記者会見の運びとでておりました。その後どうなっておりますか。
   (治平)


(宮崎正弘のコメント) 8日午前、衆議院第二議員会館にて十一名の委員(発起人)が出席し、記者会見が行われました。
会見では会の代表をつとめる加瀬英明氏が最初に挨拶、つづいて藤岡信勝氏がパネルを駆使して、先般の沖縄「十一万人集会」の嘘を徹底して暴き、実際は「たかだか二万人もいなかった」ことを実証した。
 参加した全部の記者には十数枚のカラーコピィを束にして、あの十一万人集会をブロックに区切って数を勘定した証拠を提出し、つづいてマスコミ各社に送られた公開質問状を西村幸祐氏が朗読した。
 参加人数は警備会社テイケイが克明にカウントした実数で、18179人に過ぎなかった。警備会社は人数把握に慣れているが、この勘定方法は、写真をブロック別に拡大して、一人一人をマジックでつぶしていくという念入りな作業が行われた。
 この会見には問題のNHK、朝日新聞、読売、毎日、共同、ジャパンタイムズなど、ほぼ全社出席、マスコミの「意識」ぶりを感じさせた。つまり、彼らは気にしているのだ。
 会見は、引き続き各委員から発言の発言があり、三輪和雄、高山正之、茂木弘道、藤田裕行氏らと続いた。
 弁護士の三堀清氏は、「十一万人が嘘であることは、新聞が購読料金をとっている以上、ちゃんとした商品(情報)を売るのが適正行為で、客観的報道は義務である。だから虚偽の数字報道は義務を怠って、一般商行為で言うと「不良品」を販売していることと同じである(ミートボールや赤福と同じラベル詐称行為)。一般的には『名誉棄損』と『業務妨害』でしか告発できないが、無代の民間地上波のテレビを除き、購読者が告発することはできる」とした。
 また三輪和雄氏は「新聞を取りしまる法律はないが、地上波は『放送法』によって規制をうける。放送法は、公平中立の報道を謳っているからだ」。
 高山正之氏「新聞記者は誤報をもっとも慎む筈であり、わたしも現役時代はそういう教育を受けた。いまの新聞記者は『誤報』の遣り方がかわったのか。ともかく十一万人集会の報じ方は、思惑があることはあきらかだろう」。
 藤田氏は、教育問題へも言及し、問題点を四つ挙げた。
 小生は「南京大虐殺の嘘放送と同様に、この報道は『政治プロパガンダ』である」とした。
最後に西村幸祐委員から「ウェッブサイトを立ち上げ、英字紙を含めてのマスコミ報道のゆがみを、さっと問題にする『誤報ウォッチ』のような運動をネット上で興したい。きょうは、その出発の日でもある」と述べた。
また会の英語名を「CITIZEN‘S MEDIA WATACH」と決めた。
 会場からは質問が産経、UPI、朝日などから山のように飛びだした。

 以上で記者会見の雰囲気がわかっていただけたでしょうか。なお、テレビ朝日のカメラも入っていましたがニュース番組に流れるか、どうかは分かりません。
 桜チャンネル視聴者は、今晩か明日のニュース番組を!


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娘の結婚

少子高齢化がいわれて久しい。
女性は子供を生む機械と発言して物議を醸した大臣もいる。
囲碁会や同窓会などでも嫁がない娘のことが話題になることが多い。
結婚しない女性が増えてきたから孫の数も少ない。同年代の集まりで孫の数を話題にしたことがある。意外なことに4人の孫がいるのは多い方で全然いないとぼやく者やらたった一人しかいないという者が多いのに驚いたことがある。

久田恵女史のエッセイは母親の心理を鋭く抉っていて共感する点が多い。

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世界情勢と日本の役割:平井修一の講演録

 テロ対策特別措置法をめぐる攻防が与党自民党と野党民主党の間で繰り広げられている。
 日本の防衛をどうするか、それにともない憲法改正はどうなるのか、国の根幹を考えなければならない時期にきている。それには先ず日米関係の近年の歴史を調べてみる必要があると感じているときに
渡部亮次郎のメイル・マガジン 頂門の一針  第991号
         平成19(2007)年11月09日(金)

世界情勢と日本の役割:平井修一
という所論を発見した。非常に参考になり蒙を開かれたので備忘のため全文を引用しておくこととする。

以下は引用である。
世界情勢と日本の役割:平井修一
「日本を取り巻く情勢と日本の役割」というテーマで講演を依頼された
ので、以下、話してきた。要旨を紹介する。
・・・・
近年、「日米同盟」などと言われています。以前は「日米安保条約体制」
と言っていたと記憶するのですが、同盟とは「対等」であってこそで、
実体は米国が日本を守り、日本は米国を守らないという、おそろしく間
の抜けた「同盟もどき」だと私は思っています。

「本当に米国は核の傘で守ってくれるのだろうか」と日本はひやひやし
ていますが、米軍艦へ給油もできないヘタレ国を守るはずはない。もっ
とも日本をマッカーサー憲法で去勢したのは米国ですから、米国自身も
忸怩たる思いがあるでしょう。

「日米同盟を米英同盟のように強化すべきだ」という議論があります。
米英同盟が強化されたのはおそらく1930年前後からで、この二国は実は
それまでは大いに殺し合い、警戒し合い、牽制し合い、つまり普通の国
と普通の国の関係だったんです。

米英は1775年から1930年頃までのおよそ155年間は敵対するか牽制し合
ってきた。

アメリカは皆さんご承知のように、そもそもが英国の植民地であり、独
立をめぐって1775~1783年まで米英は戦争状態にあった。それから暫く
して1812~1814年には米英戦争があり、アメリカは英国植民地のカナダ
を盗もうとし、イギリスはインディアン諸部族と手を握って北米におけ
る影響力の回復を狙ったんです。

ウィキペディアを覗いてみたんですが、

<1814年、海軍に輸送されたイギリス陸軍は敵首都の直接攻略のためア
メリカ東海岸に上陸、首都ワシントンD.C.は陥落、大統領官邸も焼かれ
てしまった。

ちなみに戦後、大統領官邸を改修する際に、このときの焼け焦げを隠す
ために真っ白なペンキを塗ったことから、大統領官邸はホワイトハウス
と呼ばれるようになったという有名なエピソードがある>

とありました。「有名なエピソード」とありますが、私には初耳です。

それにしてもホワイトハウスが襲撃されたのですから、911の同時多発テ
ロどころでじゃない。米英は互いに天敵だったんですね。

1861~1865年にアメリカは、自由貿易で英国への綿花輸出を(奴隷制度
とともに)維持したい農業・南部と、保護貿易で英国からの工業製品輸
入を抑え、かつ奴隷解放で安価な労働力を得たい工業・北部とが南北戦
争を戦いました。

イギリスは当然のことながら南部を応援した。イギリスは南部に最新軍
艦「アラバマ号」を供給し、北部はこのために大いに悩まされたと服部
之総著「黒船前後・志士と経済」という本に紹介されています。

南北戦争が終わってから米国はイギリスに賠償を請求し「カナダを割譲
しろ」と噛み付いたんですが、イギリスは「それをするくらいなら戦争
を選ぶ」と一蹴しました。

米英が同盟関係あるいは友好関係にあったのは1930年以降の70年間です
から、両国が外交関係にあった230年間中、いい関係にあったのは3分の1
未満に過ぎないんです。簡単に言えば3分の2はお互いに「いやな野郎だ」
と思っていた。我が夫婦みたいなものです(笑)。

1853年、嘉永6年、鎖国政策の日本の門戸を4隻の黒船をもって強引にこ
じ開けたのはアメリカです。「砲艦外交」と言う。弱肉強食の帝国主義
の洗礼を受け、日本は国際社会の荒波にもまれていくことになります。

日本は1945年、米国の軍門に降って子分になってから60年ですが、日米
外交関係の150年間のうち、戦争・牽制期間は大東亜戦争の4、5年間に過
ぎない。9割以上の期間は日米はいい関係だったんですね。

それなのに今、米国人に「パートナーとして英国と日本のいずれかを選
ぶとすればどちらですか」とアンケートすれば、多分、95%は「英国」
と回答するでしょう。

米英が戦争した南北戦争経験者なんて生存していませんが、日米戦争の
経験者はまだ生存しているから、記憶は枯れてはいない。恨みが残って
いるんです。日本人も同様です、数倍、数十倍の恨みが残っている。

明治早々でも米英の両国の憎悪と敵意は盛んで、日本でも火花を散らし
ました。南北戦争の忙しさでアメリカは明治維新(戊辰戦争)でのプレ
ゼンスがなかった。

米国は「日本を開国させたのは米国だ、それなのに英国が薩長からおい
しい思いをさせてもらっている」とねじこんだ。曰く「東京-横浜の鉄
道利権は、以前に幕府からアメリカが取得したから、新政府もそれを守
るべきだ」と。

イギリスは「鉄道は日本が独力でやります、と米国に回答しろ。建設の
ための公債は英国が引き受ける」と新政府に入れ知恵したから、アメリ
カは手を引くしかなかった。

ところが公債発行でスキャンダルが発生し、明治の新政府は英国一辺倒
から米国にも顔を向けていくことになる(米国がチクったのだろうと私
は想像しています)。

1900年前後、支那は清朝末期で政治が不安定で、外国人を襲撃する義和
団事件やロシアの南下で列強諸国を悩ませていました。

日清、日露戦争で日本は世界の強国のひとつ(帝国主義列強)になり、
欧米諸国とともにアジアに権益を持ったんですね。列強と評価されたら、
それなりの責任が生じます。

自国の権益を守ることはもとより、国際社会、特に支那地域の安定に寄
与することも日本は求められ、そのために日英同盟も結んだ。

幕末以来、日本滞在の長い英国外交官、アーネスト・サトウは同盟締結
の裏で活躍したと聞いております(サトウ「一外交官の見た明治維新」
履歴所載)。

1917年、ロシア革命が起きて世界は共産主義の脅威に直面することにな
ります。帝国主義時代というのは、隙あればかっぱらっていい時代なん
です。ドイツはロシアのドサクサに紛れてシベリヤにおける権益を拡大
しようとする。

それを牽制するために国際(列強)社会から日本と米国は「シベリヤ出
兵」を依頼されるんですが、日本はいやだという。その言い訳がふるっ
ています。

「日本は常に連合国共同目的のために貢献を行う用意があるが、それに
は全部の連合国の全幅の支持に依存する。故に日本は、米国と他の連合
国間の了解が成立するまで、いかなる行動をとることも差し控える」と
答えた。

(民主党の小沢の国連原理主義とは異なり、米国の支援を取り付けるた
めの政治的スタンス、外交戦術なんです)

米国は支那での利権を拡大する上で、この頃から日本を警戒するように
なったのでしょう。強い日本に期待するが、アジアのプレゼンスで米国
と対等な日本、あるいはそれ以上の日本は期待しない。日本を牽制する
ためでしょう、ソ連および中国の共産主義にアメリカは期待するように
なったんです。

1917年のロシア革命後の米国大統領ウィルソンの最初の公式声明趣旨を
紹介しますが、恐ろしいことを言っています(岩間弘「大東亜解放戦争」)

「ここ数週間、ロシアで起こっていることは素晴らしい。今や専制政治
は排除され、寛大なロシア国民が、世界の自由、正義、平和のための戦
列に加わったのである。ここに誉れ高き同盟にふさわしい盟友を得たの
である」

その後、日英同盟は米国の陰謀というか策略で破産し(1923年)、米国
はアジア政策で日本に敵対する蒋介石と毛沢東、ソ連と手を握る。日本
を牽制し、アジアにおける米国の利益を拡大するためです。

1931年、軍閥によって圧迫された清朝の皇帝溥儀(フギ)(万里の長城
の北の満州族の王が、長城の南の支那全土を統治していた)が日本に庇
護を求めると、日本は(英国の側面援助を受けつつ)皇帝溥儀が故郷の
満州で建国することを助けました(ジョンストン「紫禁城の黄昏」)。
満州での利権拡大を狙っていた米国は日本への敵意を一層募らせていき
ます。

1939年、ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まる。英国
は苦境に立ちます。当時のドイツはアメリカと並ぶGDPで、ヨーロッパで
は最強です。

英国はドイツに圧迫され米国の助けを必要とし、米国も大西洋の安全確
保のためには英国を助ける(ドイツに勝たせない)ことが必要だった。

ここに「恩讐の彼方に」米英同盟が形成され、そして(ABCD包囲網によ
り)日本は言われなき経済制裁を受け、反米英の「日独伊3国同盟」へ
と軸足を移し、未曾有の悲惨な戦争に引き出され、そして敗戦に至りま
す。

以来60余年の2007年。世界はアメリカ主導の「パックスアメリカーナ」、
あるいは米ソの角逐した「冷戦秩序」を経て、誰が盟主なのか渾沌とし
た状況になってきました。

EU、ロシア、アメリカ、中共、そして「ペルシャ帝国」などが覇権を競っ
ている。このカオスには距離を置きたい、静かに暮らしたいと日本人の
多くが希望していると思いますが、エネルギーのほぼ100%、食料の55%
を海外に依存し、知恵と勤勉でしか地球で生きる術のない日本は鎖国さ
えできない。鎖国したら明日から亡国が始まりますから。

世界の安定のために、シベリア出兵ならぬ「インド洋出兵」「中東出兵」
が、世界のGDP合計の10%を占める日本の使命だと言われ、それをマック
憲法を盾に「できません」と言い続ければ再び日本は敗戦国になるしか
ないです。

国益を追求し「他策無かりし」と判断した結果の敗戦なら、国民は「再
起三起」、孫子の代で復活します。

しかし、戦わずに尻尾を巻いて逃げたら、日本民族は永遠に立ち直れな
いだろう、と私の父の世代はアメリカと戦いました。今の日本があるの
はその大和魂があったからですね。

軍事に限らず日本が世界の問題でプレゼンスを増す方策を官民あげて考
察し、自己犠牲の精神を発揮すべきだろうと私は思います。「我が身の
生活、暮らし」以前に「世界の安定優先」を掲げるくらいの民族でなけ
れば敬意を表されないだろう、と。

政治家にはその率先垂範を期待したいのですが、世界と付き合う中で何
が日本の国益かを考える人々が少ないようで、少々心配ではありますが、
皆さんとともにしっかりと見守っていきたいと思っております。
・・・・

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2007.11.08

民主党党首辞意撤回と二つの評論

民主党の小沢党首の辞意表明時点での同氏の記者会見での言説には共感を覚えた。
 しかし、一日置いて辞意を撤回するというニュースが流れた。
 この辞意撤回表明を耳にして何と節操のない男か、武士に二言があっていいのか、恥というものを知らないのかという印象を持った。日本人の美学と価値観に合わない。

 何故そういう気持ちになるのか論理的に分析してみなければならないと思っていた所へ
田久保氏と桜井女史の所説に接した。

 筆者が感じていたことを見事に表現している。
 共感するところ大なるものがある。


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2007.11.07

偽装辞任は日本人の美学に合わない

 民主党の小沢代表がまたやってくれた。今度は最近食品業界ではやりの偽装辞任だ。

 敷島の大和心を人問わば桜に匂う山桜花というのが日本人の美学である。

 潔く散ることを日本人は生き方の徳目と信じてきた。

 民主党は、幼稚な神話の世界のレベルにしかまだ成長していないということか?

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日本の教育再生は親の教育から始めなければならない

  戦後の歴史を勉強している。堤尭氏著の昭和の三傑・・憲法9条は救国のトリックだった・・を読んだ。

 この本によればによれば三傑とは鈴木貫太郎、幣原喜重郎、吉田茂であるという。
 鈴木貫太郎は敗色明白な大東亜戦争を終結せしめるため聖断を利用して独断専行の軍部の暴走を抑止し混乱なく終戦した。

 幣原喜重郎は象徴天皇制と軍事力放棄を憲法に盛り込むことを発案してマッカーサーの信頼を得天皇制を維持し社会の混乱を未然に防止した。この時の憲法9条が現代に至るまで大きな課題を残すこととなった。

 吉田茂は経済本位主義で戦後の社会を復興させ且つ再軍備の道を開いたが戦力なき軍隊の定義は禍根を残した。

 さて教育であるが主権在民、基本的人権、平和主義というマッカーサー憲法の影響下で成長した子供達は義務意識をないがしろにし権利意識のみ旺盛な大人に育った。相互信頼という古来より育まれた日本の美しい価値観は顧みられなくなった。

 三尺下がりて師の影を踏まずという教えは完全にくず箱の中へ投げ込まれてしまった。

 産経新聞に掲載された記事は現代教育に投げかけた大きな解決すべき宿題である。

Yabaizonihon3

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2007.11.06

日本人の美徳を語り継がなければならない

大東亜戦争を終結させるためポッタム宣言を日本が受け入れて天皇陛下が勅語を国民に下賜されたのは1945年8月15日のことであった。
当時筆者は父の任地である北朝鮮鎮南浦の日本鉱業の職員社宅で聞いた。
8才であった。

都市は空襲を受ける虞があるというので一週間後には田舎へ疎開することになっていた。
価値ある家財は疎開荷物として送り出し身の回り品だけで生活していた。

父は兵役にあり留守宅には母と筆者、5才と2才の妹が銃後を守っていた。

食料難に喘ぎ高粱と野菜で命をつないでいた。
父祖の地へ引き揚げるまでに1年間の抑留期間があった。
職員社宅から工員社宅へ移され狭い家に二世帯が同居することになった。
疎開荷物は戻って来ず売り食いの竹の子生活も底をつき日々体が衰弱していった。

ようやく1年後に貨物船に乗って父祖の地岡山へ辿りついた時には栄養失調で衰弱しきっていた。

そんな体験があるだけに、
今回目にした一片のパン「幼いマリコに」という記事には身につまされて大きな感銘を受けた。
困苦の中にあっても失わなかった日本人の美徳を後世に語り継がなければならないと思った。

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2007.11.04

「戊申(ぼしん)詔書」についての解説記事に共感

 宮崎正弘氏は中国通として知られる保守の論客である。
時間に暇さえできれば足繁く中国へ渡り中国各地を踏査しマスメデアに載らない情報を提供してくれる。
 
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成19年(2007年) 11月2日(金曜日) 
通巻 第1987号

(((( 今週の書棚 ))))

  ♪
杉原誠四朗『日本の道徳教育は韓国に学べ』(文化書房博文社)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

  日本人がかくも軽い存在となったのは道徳の喪失が原因
     GHQに便乗して「修身」教育を撤廃した犯人を捜せ!


で紹介された道徳教育に関する記事に対して寄稿された(しなの六文銭)氏の
下記所論
は傾聴に値するので収録した。


(読者の声2) 貴誌で取り上げられた道徳教育に纏わる小論です。
1908年、明治天皇の名で発せられた詔書があります。その年の干支から「戊申(ぼしん)詔書」と呼び馴されています。
 日露戦争の後、にわかに台頭してきた自由主義・個人主義、そして社会主義的思想の潮流に危機感を抱いた桂太郎内閣が、天皇制度に立脚する国民道徳を強化する思想対策の一環として、天皇の名において制定したもので、華美を戒め、上下一致、勤倹力行して国富増強にあたることが強調されました。

道徳の涵養を目的として明治天皇が発したものは、他にもう一つあります。

 それは1890年(明治23年)に発布された「教育ニ関スル勅語」です。
「教育勅語」に比べると「戊申詔書」は、その名は薄く存在の軽いかそけきものですが、専門の学者は「教育勅語」と同様に明治国家体制を支えたイデオロギー、特に日露戦後の日本帝国形成期の国民教化政策として、見逃すことのできないものだと云います。
 勅語発布の直接のきっかけは、その4年前の明治19年、明治天皇が東京帝大を行幸したことでした。産学が一体になって技術革新に取組む必要があり、日本の大学教育は理工系を中心とするようになっていました。
 そのとき明治天皇は、大学の何もかもが西洋一辺倒になっていることに驚きこれでは日本の歴史、伝統、文化、精神が吹き飛んでしまうと感じられたといいます。
 西欧の科学教育のみでは人材を作ることができない。道徳を基礎として、その上で西欧の科学を学ぶようにしなければ、真の人材を育成できない。こう憂えた明治天皇は、これからの教育のよりどころとなるものの必要性を感じられたのです。

「戊申詔書」の発布経緯について、「資料近代日本史」は、次のように記しています。

 「日清、日露の両大戦役を経て、我国の地位愈々(いよいよ)重きを加うるに至るや、列国の間には往々我邦の真意を解せず、誤って好戦的国家なりと思惟するものを生じ、国内の人心も亦戦後軽躁浮薄に流れるのを傾向を馴致し、愈々列国の疑念を深からしめた。此の時に方り、10月13日を以て戊申詔書煥発せられ、国民に対して新に一大訓戒を加えられた」

 片山杜秀は『近代日本の右翼思想』の中で、「はなはだ砕いて言うならば、国民が不真面目になってきているように感じられるので立て直すように努力せよと、天皇から命令が出たということである」と述べています。

 日露平和を克復した世相は、資本主義経済の発達と近代産業の発展の中で、有産資本家階級と無産労働者階級の分化・対立を惹き起こし、労働運動・社会主義運動が勃然と起って、これに明治政府は脅威と危機を感じていました。
 文部省は、たびたび訓令・通牒を出して、弊風の打開に努めましたが成果があがらず、時弊は拡散していきました。
 この難局に決着をつけるために明治天皇の名で発せられたのが、「戊申詔書」でした。
戊申詔勅(明治41年10月13日)
「朕惟フニ、方今人文日ニ就リ、月ニ将ミ、東西相倚リ、彼此相済シ、以テ其ノ福
利ヲ共ニス。朕ハ爰ニ益々国交ヲ修メ、友義ヲ惇シ、列国ト与ニ永ク其ノ慶ニ頼ラ
ムコトヲ期ス。顧ミルニ、日進ノ大勢ニ伴ヒ、文明ノ恵沢ヲ共ニセムトスル、固ヨ
リ内、国運ノ発展ニ須(ま)ツ。戦後日尚浅ク、庶政益々更張ヲ要ス。宜ク上下、
心ヲ一ニシ、忠実、業ニ服シ、勤倹、産ヲ治メ、惟レ信、惟レ義、醇厚、俗ヲ成
シ、華ヲ去リ、実ニ就キ、荒怠相誡メ、自彊息(や)マサ(ざ)ルヘシ。抑(そも
そも)我カ神聖ナル祖宗ノ遺訓ト、我カ光輝アル国史ノ成跡トハ、炳トシテ日星ノ
如シ。寔(まこと)ニ克ク恪守シ、淬礪(さいれい)ノ誠ヲ輸サハ、国運発展ノ本
近ク斯ニ在リ。朕ハ方今ノ世局ニ処シ、我カ忠良ナル臣民ノ協翼ニ倚藉シテ、維新
ノ皇猷ヲ恢弘シ祖宗ノ威徳ヲ対揚セムコトヲ庶幾(こいねが)フ。爾臣民其レ克ク
朕カ旨ヲ体セヨ」

「戊申詔書」は全文305文字で、「教育勅語」の315文字とほぼ同じ字数からなっています。
 日露戦役後の情勢認識と、列国と並び立つようになったわが国の心得を語り、国運の発展のために、上と下は心を一つにして、それぞれ忠実に業務に仕え、勤勉倹約につとめ、信義醇厚に振る舞い、華美を避け、荒れて怠惰な暮らしをしないよう、たゆまず心を引き締めよと述べ、この修養は皇祖皇宗の遺訓であり、光り輝く国史に刻まれており、これを一心に守ってゆくことが、国運発展の本だと説いています。

 高須芳次郎の「詔勅謹解」によれば「上流といわず、中流といわず、下流といわず、全国民がその向かうところを一にして、志を合わせ、各自の業務を忠実に守り、少しの怠慢もなく、勤めはげんで、いやしくも奢侈などの風習に染まってはならない。万事質素を旨とすべきである。総じてこの場合、よいと信じたことは必ずこれを実行し、空論放言にふけるべきではない。また人間の当然ふむべき道筋はこれを固く守り、義にそむくようなことがあってはならぬ。従って日常の風俗は、深みあり、厚みあり、清純なるべきで、それが無意識のうちにも、自ずから実現されるようにありたい。(中略)以上のような充実した生活を送るには、精神を緊張して、自らすさみ怠ることをやめ、丁度、天体の運行が、四時正しい活動をなして、休まないが如く、一般国民は、つとめて善を為すことに全心を傾け、しかも一日たりとも、ゆるむようなことがあっては、いけない」という意味となります。

 「戊申詔書」は文部大臣から、その直轄する学校長、府県知事にその捧体を求める訓令をし、各種団体が主催して詔書奉読会が行われました。 詔書を一番強力に支持して、その恢弘を推進したのは内務官僚が参画した大日本産業組合中央会、報徳会、勧業協会などの有力経済団体でした。 詔書で要請された徳目は国家経済の発展と不可分で、奉体すべきは学校の学童生徒より青年大人でした。

 1918年東京日日新聞に連載された『礼儀小言』というエッセイで、森鴎外が、「今の人類の官能は意義と形式とを別々に引き離して視ようとする。 そして形式の中に幾多の厭悪すべき瑕疵を発見する。 荘重変じて滑稽となるのはこの時である。 ・・・ わたくしはこれに反して今人に内省を求めたい。今はあらゆる形式のまさに破棄せられむとする時代である」と嘆き、警世の声を発していたことに、上掲の片山氏の著書は触れています。

 鴎外は、日露戦争後の新時代の風潮のなかで、古い形式が時代遅れと看做され破壊されてしまい、新しい形式がすみやかに創出されないと、好ましくない事態が招来されると危惧していたのです。
 日露平和克復に弛緩した日本人の精神は、内からは軽く薄っぺらになっていき、外からは社会主義・共産主義思想に毒され、日本の指導者のみならず鴎外のような大識者もそれに危機感を抱いていたことが判ります。                      (しなの六文銭)

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2007.11.02

今まさに大東亜戦争の客観的な史実を勉強し東京裁判を検証する時だ

  筆者が中学生の時体育の時間に剣道があったが剣道と呼ぶことは許されず竹刀競技と呼んでいた。更に大東亜戦争という呼称も禁じられ太平洋戦争と言っていた。八紘一宇とともに占領軍の指令により封印されたからである。竹刀競技は間もなく剣道と呼んでもよいことになった。

  筆者が中学、高校と進学した時代には大東亜戦争のことは一切社会科の時間にも歴史の時間にも教室では教えて貰った記憶がない。

  戦後既に60年以上経過した今こそ皇国史観によるのでもなくまた自虐史観によるのでもなく大東亜戦争の客観的な史実を勉強し自らの頭で東京裁判のことを考える時であると思う。

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