« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

2009年8月

2009.08.31

日蓮宗不受不施派日題派の供養塔

妹の四十九日の法要に出席するため岡山市加茂へ行った。
法要は不受不施派日題派のしきたりにより営まれた。加茂の集落では江戸時代にキリスト教とともに禁教とされた日蓮宗不受不施派日題派の信徒達が今なお信仰を守って活動している。

この宗派の葬儀には僧侶は出席しないで信徒の中から導師を選出して執り行われ戒名はつけず俗名で墓碑を作るという慣例になっている。従って四十九日の法要も非僧侶である信徒の導師の指揮により営まれた。

この不受不施派日題派の説明は供養塔が建設された時の新聞切り抜きに詳しく紹介されている。

Photo



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.29

ヨセミテフォール

アメリカは規模の大きな国であることが今更のように実感できる。グランドキャニオンを飛行機の上から見学したり、砂漠に作り上げた歓楽街ラスベガスの不夜城に驚いたりした旅はヨセミテ国立公園の見学で終わった。当時の旅日記を繙いてみたら以下のように記述していた。


ヨセミテとはインディアン語で灰色熊という意味である。ここには年間300万人が観光に訪れるそうだ。樹齢2000年のセコニアの木が枯れるので電気自動車での観光を検討中であるという。

広大な公園の山中を走行中、山火事にあった一角を通り過ぎた。相当広範囲に焼け焦げた立木が並んでいた。この山火事の時には延焼防止対策だけで消火活動は一切せず、自然鎮火に任せたという。いかにも広大な国土を保有しているアメリカならではのおおらかな発想だと感心した。

切り立った断崖エルキャプテン、ハーフードームや女性的な滝ブライダルフォール、雄大かつ豪快な滝ヨセミテフォール等を見学。コヨーテを見ることもできた。高原のせいかとても涼しく空気が爽やかである。それに木々が芽を一斉に吹き出し緑が濃淡さまざまに色鮮やかであった。

ブライダルフォール
ヨセミテフォール

Cnv0003



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.28

ノルーウエー/ジョスフォッセンの滝

ノルーウエーでフィヨルドのクルージングをした時は北の最果ての地へはるばる来たものだとの思いに捕らわれた。
周囲の山々は氷河に削られて荒々しい山肌を見せている。その山肌にへばりつくように民家が只一軒建っているのを望見すると人間の意志と営為の逞しさを感じる。

氷河の水が溶けて作り出したジョスフォッセンの滝を見学した時の印象は以下のように綴っている。

ホテルから目と鼻の先の船着場から朝早く観光船に乗り込んでヘルシルト村まで約1時間のフィヨルドクルージングを楽しんだ。

スタート時は山間の朝なので日の光も乏しく何となく薄暗い感じの光景であったが船が進む程に太陽も山の上へ顔を出し、水面を碧翠色に変えていく。

切り立った崖の岩肌を洗うように流れ落ちる滝も幾条か目にはいる。

そうこうしているうちに切り立った断崖絶壁の僅かな空間にへばりつくようにして民家が一戸建っているのが目に入った。
ここで農業を営んでいるのだという。よくもこんな厳しい環境条件のもとで生活できるものだと人間の営為の素晴らしさを知る思いである。

次々に変わっていく景色に見とれているうちにあっという間に一時間のクルージングは終わってしまった。

ヘルシルト村から再びバスに乗りブリクスダール村までやってきた。氷河を見学するためである。

ブリクスダールからはフィヨルドポニーの曳く馬車に乗って登り道を約15分間走行すると、氷の巨大な固まりが山になっている所へ到着した。

ブリクスダール氷河の河口である。河口へ至るまでの道の周囲には樹木や草も青々と繁っている。そして氷河から溶けて流れる川が近くには白い飛沫を上げながら流れている。段差のある箇所ではこれが滝となってその雄姿を誇らしげに顕示して水しぶきを雨の如くふりまいている。

氷河の河口には山頂から流れてきた氷塊が5~6メートルもの高さでうすら青い色を帯びて白色の天然の造形美を見せながら堆積している。一見テープがカールしたかの如き断面を見せているところもある。

我々が見学したブリクスダールの氷河はこの時期には活動しておらず、静止した状態で氷塊となっている河口を見学することができた。ブリクスダール氷河は海抜436メートルのところにある長さ100キロメートル厚さ100メートルにも及ぶヨステルダール渓谷の氷河から流れてきた支流である。

この町で二時間近く時間待ちをしてからミュルダール経由オスロ行きの電車に乗った。車両の横幅が多少広いのか座席は横に五人腰掛けられるようになっている。列車には三つの大きな団体客が競合したが全て日本人であった。

車窓には白樺、から松、樅などの木立が続いていて、時々岩肌を滑るように流れ落ちる滝を散見できる。

また線路に迫っている岩山には岩石の崩落の跡が認められその下には明らかに崩落したと思われる岩石が堆積している。

屋根に草を生やした平屋の木造建築もちらほらと見え隠れする。
トンネルを幾つか通り抜けると途中Kジョスフォッセンの滝の見える所では停車して乗客に写真撮影の時間を与えてくれる。

駅ではないがプラットフォームが設けられていて下車撮影が可能なのである。
乗り継ぎ駅のミュールダールでは再び時間待ちをしてボス行きの電車に乗った。

フィヨルドクルージング 
 ブリクスダール氷河
ジョスフォッセンの滝

Cnv0003



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.27

ケニア・トムソンフォールのビデオクリップ

ケニアへ野生動物を見に行ってから既に約10年が経過した。野生動物の生態を観察しながら草原を四輪駆動の車で駆け巡った頃が懐かしい。
トムソンフォールを見学した時、執拗に民芸品を買って欲しいと迫ってきた赤い衣服を纏った若い女性の逞しい商魂を思い出した。


 結局このロッジで観察した動物は象、ブッシュバック、バッファロー、ぶちハイエナ、犀、狒(バブーン)、いぼ猪、ジャッカル等である。


 七時五十分に出発して途中ニャフルルのトムソンフォールを見学した。あまり大きな滝とは思えなかったが東アフリカでは最大で中央アフリカではビクトリヤフォールズに次いで二番目の大きさであるという。

 ここでは、全身に真っ赤な衣装を纏った女が馴れ馴れしげに話しかけてきて、石彫りの動物像を売りつけようとつき纏うので閉口した。一般にアフリカの売り子達は客の気持ちを考えないで、ただひたすら強引に売りつけようとするから敬遠されて、客は終には品物を見ようともしなくなるということ等は意に介さない。つかず離れずという売り子とお客の間に発生すべき心理的な関係の機微にまでは考えが及ばないようである。

トムソンフォール

Photo



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.26

ヴイクトリアの滝

  少年時代にリビングストン探検記を夢中で読んだ記憶がある。当時は終戦間もないこともあって、日本人が外国へ観光旅行するなどとは思いもよらぬ時代であった。
 憧れの探検家リビングストンの足跡が残るヴイクトリアの滝の畔に立っている自分を思い感無量であった。ヴイクトリアの滝の見聞記は以下のように綴られていた。
 

 時間がきてヴイクトリアの滝を見学に出かけた。ここの滝は対岸の道路から眺めるロケーションになっており、見晴らしのよい所に何カ所も観瀑台が設けられているが滝壺の近くまで船で出かけて観察するという仕掛けはなかった。船を浮かべるような池そのものが形成されておらず流れの早い川が谷底深いところに流れているだけなので無理からぬ話である。滝は専ら対岸の通路から眺めるしかない。

 この滝のある川はザンベジ川でアンゴラの奥地に水源を発っし、ザンビア西部を縦断してから、ジンバブエとザンビアの国境線を形成して、その後モザンビーク海峡、インド洋へと注いでいる。滝の最大幅はおよそ1700mあり最大落差は108 mである。
ヴィューポイントは、デビルズ・キャタラクト、メイン・フォールズ、ホースシュー・フォールズ、レインボー・キャタラクト、アームチェァー・フォールズ、イースタン・キャタラクトの6個のパートに分かれている。

 これらのヴィューポイントの観瀑台はそれぞれ光景の異なった滝が観察出来るように設置されている。端から順番に約2時間かけて滝を見物しながら歩いた。今は乾期にあたり滝の水量が少なく岩肌を露出している個所もあったし、滝自体が幾条もの流れに分かれて落下していた。 

 リビングストンが木の刳り抜き舟で渡ったというリビングストンアイランドは鬱蒼とした木々に覆われていてその横を滝が流れ落ちていた。

ヴイクトリアの滝No1
ヴイクトリアの滝No2
ヴイクトリアの滝No3
ヴイクトリアの滝No4


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.25

ナイヤガラの滝

ナイヤガラの滝は世界に冠たる観光の名所である。観賞の仕方は幾通りもあるようだが四つの方法で絶景を堪能した。観瀑の感想は当時の旅日記に次の如く記述している。
 
カナダの東部を流れるセントローレンス川沿いに開けたナイアガラ・フォールズからケベック・シティに至る全長約800kmに及ぶメープル街道はカナダ随一のゴールデンルートである。この道はヘリテージ・ハイウエイ(伝承の道)としても親しまれている。今回訪問した街はナイヤガラ・フォールズ,トロント,オタワ、モントリオール、ローレンシャン高原、ケベックであったが、何れも今日のカナダを代表する諸都市でイギリスとフランスの両文化が巧みに溶け合い或いはその個性を主張しあっていた。折から錦繍のメープル街道を訪ねる旅はナイヤガラの滝から始まった。

この滝はエリー湖からオンタリオ湖へ流れるナイアガラ川中流地点にあり,アメリカとカナダの国境付近に位置していて大自然の驚異を目のあたりに見せつけてくれる。滝はゴート島によって二分されており上流に向かって右側の馬蹄形のものがカナダ滝で幅675m落差54m。左側がアメリカ滝で幅260m、落差51mである。一分間の流水量はカナダ滝で1億5,500tもあり、これは東京都で使用する一日分の水量に匹敵するというからその規模の巨大さが判る。ナイヤガラ川に沿って自動車道路が走っており地の利が便利であることから世界有数の観光スポットとして知られ毎年1,400万人もの観光客が押し寄せる。
 
 この滝を四通りの方法で心ゆくまで観察した。第一番目の方法はごく普通に滝の正面の広場に立って、紺碧の河の流れが瞬時に純白の滝に変わるその雄姿を眺めることである。

 第二にはテーブルロックという場所に立って滝の落ちゆくありさまを横から見ることである。

 第三には霧の乙女号という観瀑船に乗って滝壺近まで近寄って下から滝を見上げることである。

第四には高さ236mのスカイロンタワーに登って滝を上から見下ろすことである。どの方法で見ても視点が変わってまた新しい発見があった。

 しかし何といっても最もスリリングなのは滝壺まで近寄って轟音を聞きながら滝の飛沫を全身に浴びて目の前に見た膨大な水量の落ちゆく様であった。折から太陽の光を受けて立ちのぼる虹には自然の神秘を感じたものである。

 滝の様々な態様を観察し十分堪能してから滝から5km離れたワールプールを見に行った。これはナイヤガラ川が東へ70度流れの向きを変える地点で出来る渦巻きである。ここにはワールプールを鑑賞するためにスパニッシュ・エアロカーと呼ばれるゴンドラが渦の上をゆらゆらと横断している。滝のある地域の道路沿いにはあちこちに「BB」という看板を出した民家が見られた。朝食付きの民宿なのである。一泊3,000円ということであった。

Cnv0003


ナイヤガラの滝=地上の観瀑台から
ナイヤガラの滝=船上からNo1 
ナイヤガラの滝=船上からNo2 
ナイヤガラの滝=高い観瀑塔から


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.24

イグアスの滝のビデオクリップ

ビデオテープに収録した民族舞踊は全てアップした。この作業をしていて思いついたことがある。写真を見ただけでは臨場感の味わえない光景のことて゚ある。滝等その例の一つであろう。

そこで過去の旅を回顧してみるつもりでイグアスの滝、ナイヤガラの滝、ヴィクトリアの滝をビデオクリップにしてアップしてみることにした。その規模において世界最大の滝といわれるイグアスの滝の見聞記は以下のように記述していた。


 11時20分にロビーへ集合してから空港へ向かいイグアスへ飛んだ。13時26分離陸、14時00分着地、15時、迎えのバスでイグアスの滝へ向かう。ガイドは斉藤さんという男の人で旅行社を営んでいる社長らしい。

 滝はアルゼンチン側から見るのであるが、滝壺へ流れ込んでいく様を観察することになる。こちら側からの落差はあまり大きなところまでは見られないが、水量といい流れの数といい規模の大きさに圧倒される。滝の幅は4kmに及び滝の数は300もある。

 生憎の雨で滝を見る前から合羽を着用している。合羽のずぼんを当初着用しなかったので下半身はずぶ濡れで寒くなってきた。慌ててずぼんをはいたが遅すぎた。4~5年前の大洪水で観瀑橋の大部分が流されたので、舟に乗って残っている橋脚まで運んで貰う。その後、流されずに残った橋を歩いて「悪魔の喉笛」と呼ばれる箇所を見学に歩いていく。飛沫が飛んで激しく水煙が上がっているので、合羽で身を固めていても先刻下半身が濡れていたため全身ずぶ濡れである。ビデオカメラを濡らすまいとビニール袋に入れているのだが、どうしても濡れてしまう。

  イグアスの 飛沫千丈 夏涼し

  大地割れ 悪魔の雄叫び 夏涼し
                  
  夏の雨  足元かばい 滝を見る

 このあとイタイプー湖から放流されて流れてくるパラナ川とイグアスの滝、を経て流れてきたイグワス川の合流する地点が三国の国境になっていて、それぞれの国境点に標識が建っている。ブラジル、パラガイ、アルゼンチンの国境である。この国境をアルゼンチン側から見学したのちカリマンホテルへチェックインした。

Photo

     
イグアスの滝No1
イグアスの滝No2
イグアスの滝No3
イグアスの滝No5
イグアスの滝No6


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.23

市民達@カナダ・ケベックの仮装行列のビデオクリップ

アメリカ語圏内でフランス語が飛び交うケベックを散策していて仮装行列に出くわした。
ケベック市内の模様を当時の旅日記から抜き書きすると以下の通りである。

ケベック州の州都ケベックシティは、フランスの植民地拠点として建設された。カナダでもっとも歴史のある町で古くからイギリスとフランスの植民地支配争奪の的となり戦いが繰り返されたところである。イギリス支配下を経た現在も住民の85%以上がフランス系カナダ人というフランス文化圏である。当然に公用語はフランス語で看板の文字も全てフランス語である。ケベック市は1985年に世界文化遺産に指定された町で18世紀の歴史をそのまま閉じ込めたような町である。

旧市街でセントローレンス川を見下ろす位置に建っているお城のような建物シャトーフロントナックはケベックのランドマークであり、フランスのシャンポール城を模して作られた重厚なホテルである。また高台にある星型の要塞シタデルの前面には総督の散歩道と称される遊歩道が設けられておりセントローレンス川の風光をめでながらそぞろ歩きをするのに相応しい場所である。すぐ近くのダルム広場では大道芸人がパフォーマンスを繰り広げており沢山の観光客が群がって楽しそうに眺めている。

カナダ・ケベックの仮装行列
カナダ・ケベックの大道芸人


Cnv0005


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.22

ゴルフと焼き肉パーティーで生命の洗濯@軽井沢

中軽井沢カントリークラブでゴルフを楽しんだ。
学生時代の友人六人が社会人になって5年程経った頃4年間の寮生活を共に過ごした仲間が集まって久闊を叙したのが始まりで六友会が誕生した。年に一回夏、ゴルフを軽井沢でするのが恒例である。弁護士のU氏の別荘へ夫婦連れで押しかけ男はゴルフ、女は観光やショッピングを共にし旧交を温めている。

筆者は単身で長野新幹線を利用して参加した。信濃電鉄の追分駅で馴染みのタクシーに電話をすれば迎えにきてくれて別荘まで連れていって貰える。今年も例年通り追分駅で電話しようとしている所へ客を送ってきたタクシーがある。客が降りて空車となったのでこれ幸便とばかり乗り込んだ。

ところが運転手氏が地元の人でないため、番地を告げただけでは判らないという。近くまでいけば判ると思い鴎友学園寮を目標にして欲しいと言うと運転手氏はあちこちで道を尋ねて連れて行ってくれた。鴎友学園寮までたどり着き運転手氏を返したのはいいが肝心のU氏の別荘がなかなか見つからない。携帯電話で二回も道順を聞いたがたどり着けない。元の鴎友学園寮まで迎えに来て貰うはめになってしまった。結果的には二回もU氏宅の前を素通りしていた。

集合時間までには全員揃い庭で焼き肉、焼き魚・焼き帆立て、焼き野菜を楽しんだ。翌日は星野温泉でゴルフ組と観光組が待ち合わせて、村民食堂で夕食を共に楽しみ今年の生命の洗濯は終了した。

P1080433



| | コメント (0) | トラックバック (2)

2009.08.21

中国のナイトショー

中国の三国志の時代はさまざまな類型の英雄・豪傑が闊歩する面白い時代である。
乱世を秦の王・政が統一して始皇帝を名乗る。始皇帝の墳墓である兵馬俑は圧巻の観光資源である。兵馬俑を見学した時の感想は以下の通りである。


始皇帝も当時の礼制に基づいて即位するや直ちに陵墓の築造に取組み、死後に完成している。紀元前246年に着工して前後合わせて38年間もの月日を要した。陵墓築造に携わった人夫は最も多いときで70余万人が徴発されたという。まさにアジア的専制君主が威信をかけて築造したモニュメントである。

やがて兵馬俑博物館へ到着した。この博物館は始皇帝陵墓の東側から約1.5km離れた地点にあり、史跡を保護するために発掘された俑坑の上に建てられたものである。発見の時間的な順序に従って一号、二号、三号と三箇所に別れてそれぞれ建物が建てられており建物の中では今なお慎重な発掘復元作業が行われているのである。

この俑坑遺跡は1974年初春に井戸を掘る作業をしていた三人の農民によって発見された。発見した農民の一人である楊志発さんは70才余で今なお健在である。博物館内の売店で兵馬俑の案内書にサインをする仕事に携わっている。

三つの俑坑の内最大のものは一号俑坑で東西方向に長方形をなしており、230メートル×62メートルで総面積14,260m2である。坑内には陶俑、陶馬が6,000余点、木製戦車が40余台あり、戦車と歩兵が一体となって編成された長方形の戦陣である。それは前衛、主体、脇、後衛の四部分からなっている。例えば前衛だけを少し詳しく説明すれば、俑坑の最前端には鎧をつけていない軽装歩兵俑が三列あり、横一文字に並び一列は68点で合計204点になる。

 これらの俑はいずれも兜をつけず髪を束ね、下肢にゲートルを巻き手に弓を引き、勇猛で戦上手のように見える。いずれも等身大の俑である。この前衛は殆ど完全に修復が出来ているが中に首のないものが散見される。これは元の資料が破損散逸していて復元できないものである。それにしても小さな破片になって埋もれていたものも相当あったと思われるが、よくもここまで復元したものだと、関係者の気の遠くなるような根気のいる作業には敬服する。兵士俑の平均身長は1.8メートル、馬俑の平均高さ1.7メートルというから秦の軍隊は大男だったのであろうか。俑はいずれも中空の焼き物で元のものは表面に赤、黄、緑の彩色がなされていたという。目の前にある俑はいずれも彩色が剥落して素焼きのように見えるが注意してみると着衣の箇所に原色が微かに残っているのを認めることができるものもある。

二号坑は一号坑の東端、北側にあり一号坑から20メートル離れている。坑の平面は曲尺の形をなし、東西124メートル、南北98メートルで面積約6,000m2である。この坑内には車につけた陶馬が350頭、鞍をつけた騎馬用馬が116頭、各種武士俑が900余点、陶馬が1,400点ほど埋もれており発掘復元されたものは6点だけで、目下発掘復元作業が続けられているところである。

三号坑は一号坑の西端の北側25メートルにあり、平面から見ると凹状をしており総面積500m2で三俑坑中、最小規模である。ここからは陶俑66点、車を曳く陶馬4頭、木製戦車1台が出土した。

兵士俑の顔はそれぞれに異なっており、当時の兵士の表情を活き活きと伝えている。また始皇帝陵内で発見された二組の銅車馬も博物館内に展示されているが精巧に作られたその技術水準の高さと芸術性には驚かされる。

Cnv0004


中国のナイトショーNo1
中国のナイトショーNo2
中国のナイトショーNo3
中国のナイトショーNo4
中国のナイトショーNo5
中国のナイトショーNo6
中国のナイトショーNo7
中国のナイトショーNo8
中国のナイトショーNo9


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.20

河西回廊 裕固族の民族舞踊

シルクロードは東西の物資・文化・文明が行き交った交易路である。西安から敦煌までの河西回廊を旅した時に裕固族の歓迎を受けた。その時の状況は以下の旅日記に感想を記している。

 バスを降りて前方を見ると祁連山脈の山々を後に控えてパオが幾つも並んでいる。裕固族の村落である。手前には地域活性化の目的で観光客誘致目的で建てられたと思われる新しい建物が軒を並べている。中国沿海部の発展に刺激されて山間の僻地にも開発の波が押し寄せてこれから売り出そうという村の意志が窺える。
                       
 この村落へ向かって暫く歩いて行くとジーパン姿でほっぺの赤い若い女性が出迎えてくれてパオ村の方へ誘導してくれた。ほっぺが赤いのは化粧しているのではなく、霜焼けしているのである。パオへ到着すると5人の若い女性が民族衣装を纏って、客人一人一人に白い布を肩にかけてくれて歌を歌いながら杯に酒を酌んで勧めてくれる。
                       
 客人を歓迎する最初の儀式である。みると先程道案内をしてくれた女性も民族衣装に早変わりしている。考察してみると彼女はジーパンの上にスカートをつけているのだ。最初あったとき、なんだかお腹が膨らんでいるなという印象をもったが、スカートの裾をまくりあげて上着の下に隠していたのである。そのためお腹が膨らんでみえたという次第である。

 パオと書いたが我々が招き入れられたのは厳密にはパオではなく、仮設テントにすぎない。ここにも観光を売り物に地域活性化を図ろうとする中国人の悪しき商業主義が垣間見える。田舎者の純朴さを装った狡賢いしたたかさを感じ取ったのは筆者だけであろうか。 パオの中で椅子に着席すると、油で揚げたパンとそば粉を水に溶いたような飲み物が振る舞われた。バターも添えられている。当然の事ながら仮設テントであるから絨毯は一枚もなく、丁度品もない。従って客人は靴を脱ぐ必要もない。

 客人達が全員着席したのを見届けると、彼女達は客人に対し一人三回ずつ酌をしてまわりその都度声を合わせて歓迎の歌を歌うのである。

 歓迎の酌が終了したところで、5人の若い女性達による民族舞踊が始まった。音楽はCDに録音された曲である。三種類ほどの踊りが終了した時点で今度は客人も中に入って踊るよう誘いかけてきた。いよいよフィナーレであるらしい。旅の恥はかきすてとばかりに誘われるままに最初に踊りの輪の中に入っていくと、これに刺激されたように次から次へと客人達も加わり見よう見まねで踊り、楽しく交歓することができた。やがて終わりの時がきて今度は惜別の杯の勧めである。度のきつい白酒をしこたま飲まされて客人達は皆ご機嫌であった。
                       
裕固族の民族舞踊No1
裕固族の民族舞踊No2
裕固族の民族舞踊No3

Photo_2



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.19

中国・川劇のビデオクリップ   

中国の臥龍パンダ保護区でパンダを見学した。その後四川大地震でこのパンダ保護区は壊滅的な打撃を受けて閉鎖され新規に開設された保護区へ移転したというニュースを先日テレビで見感慨一入である。臥龍を訪問した時は川劇を観賞している。その模様は日記に以下の如く記述している。

 この頃からバスの調子がおかしくなりスピードを上げると横揺れがひどくなりだした。この時点では中国の道路というのは舗装が良くなくて道路表面に余程凹凸があるのだな位の認識で未だ車の調子が悪いとは思っていなかった。
 車の速度が遅くなったせいで夕方の「川劇」の鑑賞は幕開き直後にあわてて飛び込むという騒ぎになってしまった。
 「川劇」は琴の演奏、踊り、操り人形、変面、低所潜り抜け等と幾つかの出し物があったが、圧巻は「変面」である。役者が面を付けて出演するのであるが、見せ場見せ場で顔を振り、見栄を切ると今までつけていた赤色の面が青色の面に変わったり、黄色の面が黒色に変わっているのである。まるで手品をみているようでどんな仕掛けになっているのかよく判らない。優れた演技者は一秒間に二十回も面を変えることができるというからその技術は素晴らしい。変面の芸は一子相伝の秘技で最近では後継者難になっているという。

 中国・川劇のビデオクリップ   

Photo



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.18

中国・雲南省の民族舞踊

雲南省には多くの種類の少数民族が多様な伝統文化・伝統風俗を守りながら生活している。魅力溢れる風物に接することができる。旅する人には必訪の場所である。
石林の間一髪と名付けた名所はその素晴らしい命名に唸らされたものである。雲南省民族村訪問の感想は以下のように綴っている。


 最初昆明市内の「雲南民族村」を訪問した。これは見学者用に造られたテーマパークである。昆明市の南8kmに位置し80km2の広大な敷地の中に雲南省に居住する26民族の文化風俗を展示紹介している。

 丁度南アフリカのヨハネスブルグで訪問した民族文化村と同工異曲の公園である。

 公園の入り口には大木があり枝を張りめぐらせている。アフリカで見たバオバブの木に一見似ている。しかし近づいてよく見ると宿り木の葉の中に混じって造花らしい葉っぱがついている。更に仔細に観察すると幹なども巧妙にコンクリートで造られた造木であった。自然が売り物の公園に人工の樹木とは如何なものかと当局の人達のセンスを疑いたくなるような代物であった。

 入り口近くの人口の湖では舟を浮かべて漁師達が投網を打って魚を捕っていた。養殖の川魚だという。


 広大な公園の敷地の中に各民族の民家と生活用具が収納されて展示されていたが、実際に生活している場面は少なくて、南アフリカで見た民族文化村のような迫力はなかった。ここでは拉枯族(ラフ族)、基諾族、ワー族、タイ族のエリアを見学した。

 それでも印象に残っているのは泰族(人偏+泰、タイ族)の寝室である。一つの部屋に三代の家族が就寝するのだというから異様である。今まで部屋の中は他民族には公開されなかったのを観光客用に最近公開するようになったという。覗いてみると大きな部屋が柱で四角に囲って区切られている。その区画内に蚊帳様の布切れで囲われた室がありその中に布団が敷いてある。祖父母用、両親用、若夫婦用、子供用とそれぞれの室に布張りが設けられているのである。各布張りの室の間は廊下のように空間が設けられており、ゆったりとした配置である。部屋の外へ通じる出入り口は三カ所設けられていてそれぞれの世代の専用に供されている。

 最初は新婚夫婦を含めた三代の夫婦の雑魚寝なのかと思い、性生活のプライパシーはどのようになっているのかと心配したが、実際の部屋の中を見て他所事ながら安堵した。それにしても新婚夫婦には残酷な寝室の環境であると思った。

中国・雲南省の民族舞踊 N01
中国・雲南省の民族舞踊 N02
中国・雲南省の民族舞踊 N03
中国・雲南省の民族舞踊 N04
中国・雲南省の民族舞踊 N05
中国・雲南省の民族舞踊 N06
中国・雲南省の民族舞踊 N07

Photo



| | コメント (0) | トラックバック (2)

2009.08.17

中国・「世外桃源」の民族舞踊のビデオクリップを作成した。

水墨画の世界を漂うような桂林の漓江下りを終着港陽朔県で終了した。一泊して翌日「世外桃源」と称する観光地へ行った。
当時の日記を以下に引用する。

 今まで経験した川下りで今回ほど風景を堪能したことはなかった。

 漓江下りの終着港陽朔県で一泊して翌日「世外桃源」と称する観光地へ行った。川に囲まれた田園の中には少数民族が木造の建物に民族衣装を纏って自給自足の生活を送っている。観光客が舟で通ると川べりの舞台へ民族衣装を纏って現れ民族舞踊を踊って歓迎してくれる。
 

周囲には鋸の歯状の奇岩でできた山々が連なり、地味豊かな緑の田畑には折から赤色の桃の花がそちこちに咲き誇っており、木々は淡い緑色の新芽を一斉に萌え出していた。川では女性達が砧を打って洗濯をしていたり、男が投網を打って漁をしていたりする。庭先には鶏や豚が餌をついばんでいる。一見別天地の観があり、陶淵明が桃花源記に描いた理想郷さながらののどかな田園風景が展開されていた。

 しかしよく考えてみれば、彼が描いた桃源郷には現在のように観光客が群れをなして訪れることもなくひっそりとしていたことであろうし、ましてや展示館に伝統の機織り機を持ち込んで若い娘が機織りを実演してみせたりということはなかったであろう。観光事業は手っとり早い外貨獲得の手段である。

開放政策実施以来俄に作られたと思われる休憩所や土産物売り場の建物は新築間もないものであり、トイレが清潔に管理されていた。そして民族衣装を纏った娘はしたたかに写真のモデルになりたがる。ここでも商業主義、拝金主義の汚染が始まっていた。


中国・「世外桃源」の民族舞踊N01
中国・「世外桃源」の民族舞踊N02

Photo



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.16

ルーマニアの伝統舞踊のビデオクリップ

ルーマニアの田舎には日本では見かけられなくなって久しい長閑な田園風景があり時間がゆったりと流れていた。そして興味を引いたのはジプシーを統括する闇の組織の本部がルーマニアには置かれていてそのボスはジプシー世界に絶大な権威を持っているというガイドの話であった。

当時の旅日記には長閑な光景を以下のように書きとどめている。

 朝8時前に出発して一路ルーマニアの首都ブカレストを目指した。
 道中窓外に広がる街道筋の民家を座高の高いバスから庭の中までつぶさに観察することができた。農村地帯なので一様に二階建ての母屋を囲んで庭があり、庭には必ずと言っていいぐらい数羽の鶏が放されて長閑に草や地虫をついばんでいる。傍らにはプルンの木が数本植えられ白い花が満開である。

 どの家にも井戸が掘ってあり井戸には屋根が設けられている。水道はまだ敷設されておらず井戸水に頼っているようである。赤茶色の瓦葺きの屋根の軒下の壁面には薪木が積み重ねられている家が多く、ガスもまだ使用されていないことを窺わせる。

 道路には馬車の荷車に干し草などの荷を満載して往来している。時に二頭立ての馬車もあり、農場へ作業にでかけるのであろうか空の荷車の上には2~3人の農夫や農婦が所在なげに乗っており、すれ違う我々のバスを興味深そうに見つめている。行き交う自動車の数もそう多くはない。

 こうした長閑な田園風景は日本の社会から消えて久しいので一際旅情をそそってあまりある。
 そして不思議なことに13日間のブルガリア、ルーマニア滞在中にモーターバイクが走行しているのを一度も目撃したことがなかった。

ルーマニアの伝統舞踊のビデオクリップ

Photo


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.15

南アフリカの民族舞踊


南アフリカを見学した時の衝撃はヨハネスブルグで下車観光が出来なかったことである。治安悪化のためであるがアパルトヘイトが廃止されて逆差別が始まり白人達が黒人達に迫害されるという事態が発生していて準白人である日本人は被害にあう虞があるという。

当時の日記には以下の如く記述している。

 次にレセディ文化村を見学した。ヨハネスブルグから1時間弱のところにあるこのテーマパークにはズール族、コサ族、ペディ族、ソト族の四部族に関する生活用具や住居、民俗が集められている。
                        
 文化村の入場門の前には四つの民族の人々がそれぞれに動物の毛皮等の民族衣装を纏った半裸体姿で7~8人待機しており、観光客が到着すると文化村の門前で歌を歌い楽器を奏でて歓迎してくれる。   

 この文化村には共同の演芸場と民芸品売り場等が備えられていて、民族舞踊や歌を披露してくれる。民族料理のレストランも設置されている。
   


 彼らの生活する住居もこの近くの林の中に村落の形で保存されていて実際にここで一族が生活しているのである。村落は民族毎に別々の場所に設置されていて、それぞれ5~6戸の住居と家畜小屋の単位からなっており、住居は草葺屋根の竪穴式住居に似た形態で室内には照明もなく床は土間である。中央に火を焚く小さな石組が並んでいるだけで丁度品らしきものもみあたらない。祈祷師の住居が特別に設けられている村もあった。

南アフリカの民族舞踊=オープニング
南アフリカの民族舞踊=足跳ね
南アフリカの民族舞踊=悦びの踊り
南アフリカの民族舞踊=農作業
南アフリカの民族舞踊=清掃の踊り

Photo


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.14

ボーランドの民族舞踊

アメリカのニューヨークで9.11同時多発テロが発生した直後は世界的規模で海外旅行のキャンセルが続出した。ポーランドを訪問したのは9.11事件の1ケ月後であった。
世情不安の中の貴重な来客ということで行く先々のレストランでは歓待され、ビール等の飲み物は全て無料であったことを思い出す。

また人類の歴史に汚点を残したアウシュビッツ強制収容所跡のおぞましい記憶も蘇った。

受けた衝撃も大きく当時の日記にも以下の如く詳細に記述している。

 アウスシュビッツの収容所から車で5分程走った場所にビルケナウの収容所がある。40ヘクタールもある広大な敷地が高圧電線で囲まれており構内には木造平屋建ての収容所が何棟か当時の姿のままで残されている。そしてこの収容所構内を監視するための見張り塔が一定の間隔で立ち並んでいる。この収容所では全体の配置を見張り塔の上から外観しただけであったが、ポーランド国内に50箇所近くあった強制収容所の中ではここが最大規模であったという。

 ニュールンベルグ裁判のときヘス元所長は収容所で約250万人が殺害されたと証言した。犠牲者はポーランド系をはじめとする各国のユダヤ人、反ナチ活動家、共産主義者、捕虜、ジプシー等世界28カ国400万人にのぼるともいわれている。

 アウシュビッツとビルケナウの強制収容所は人間が屑のように扱われ、その死体が資源として利用されたことを証明する場所である。

 これらの収容所はゲルマン民族の優秀性を誇り民族浄化政策を掲げるナチスによって人間性の尊厳に対するおぞましい破壊行為が密かに行われ人類史に汚点を残した場所であった。しかし、同時に人間の尊厳を守り、お互いに助け合う場でもあった。他人の身代わりとなって自分の命を犠牲にしたポーランドのコルベ神父はその最たる聖人であった。

ボーランドの民族舞踊=兵士と娘
ボーランドの民族舞踊=男女
ボーランドの民族舞踊=娘トリオ
ボーランドの民族舞踊=娘と牛

Photo


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.13

サウジアラビアの民族舞踊のビデオクリップを作成した。

サウジアラビアの民族舞踊のビデオクリップを作成した。
再生してみて全然面白くないことを再認識した。当時の日記にも以下のように記述している。

 ホテルに帰って夕食後、民族舞踊を見せるというのでテントに行くと10人程の男達が普段の白装束の衣装にスカーフを頭に被った姿で屯ししきりに楽器の音合わせをしている。

 何時始まるのかと待っていると刀を振りかざした緩慢な動きの踊りらしきものが何時とはなしにだらだらと始まった。音楽は打楽器である。前口上もなければ演じている音楽や舞踊についての説明もない。メリハリがなくしまりのない民族舞踊であった。しかも、男達だけであるから演技に華がない。観光客に民族舞踊をみせるというならもっときめ細やかな心遣いとメリハリが欲しいところである。ショーとしては落第である。中座して寝ることにした。

Photo_2


サウジアラビア=立ち姿の舞
サウジアラビア=座位の舞

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.12

タイバンコク・ナイトショー

過去の旅行で撮影したビデオテープを再生しながらチェックしているとビデオテープの背中に1991.8.2~8.3タイランドと注記してあるテープがあった。

記憶を辿ると経営陣の一翼を担って会社業務に専心し多忙を極めていた時代である。当時の日記を繙いてみたがこの年は日記さえも残っていない。

微かな記憶では当時、ワープロオアシスで日記を書いていて年末に新しいフロッピーに切り換えようとして操作を間違え消去してしまったことがある。

このタイ・バンコクでのナイトショーのビデオは会社幹部の慰労旅行でタイへ一泊二日で旅した時のものであることを思い出した。今にして思えば当時の日記を誤って消去してしまったことが惜しまれる。


タイバンコク・ナイトショー=オープニング
タイバンコク・ナイトショー=踊り
タイバンコク・ナイトショー=キックボクシング
タイバンコク・ナイトショー=村人の踊り
タイバンコク・ナイトショー=村人の踊りと軽業
タイバンコク・ナイトショー=闘鶏
タイバンコク・ナイトショー=縄跳び
タイバンコク・ナイトショー=剣術
タイバンコク・ナイトショー=撃剣
タイバンコク・ナイトショー=村人達
タイバンコク・ナイトショー=伝統舞踊No1
タイバンコク・ナイトショー=伝統舞踊No2
タイバンコク・ナイトショー=伝統舞踊No3
タイバンコク・ナイトショー=伝統舞踊No4
タイバンコク・ナイトショー=太鼓踊り
タイバンコク・ナイトショー=フィナーレ

Photo


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.11

シンガポール=サンセットクルーズのショウ

現役時代には春三月の連休の日に社員の慰安旅行が催されるのが恒例であった。平成4年度の旅行は社員を三組に分けて日時をずらせて実施し会社業務に支障のでないよう配慮されていた。筆者は当初第二陣で参加の予定であったが、高齢の母の逝去があり第三陣に繰り延ばして参加することになった。
 当時の日記を紐解いてみると以下のような記述があった。

 平成4年3月27日(金)
 会社の旅行でシンガポール行き。母の逝去があって第二陣では参加できなかったが、幸い三陣に繰り延べて参加することができた。しかし飛行機が満席のため皆より4時間早いJAL便で一人だけ先に出発することになった。

 シガポール空港に到着したが予ねて打ち合わせの出迎えが来ていない。何度も名前を書いたプラカードを探したが見当たらない。「はやしたうちお」というプラカードは目にしたがまさか自分の名前の誤読誤記だとは思わないから最初から無視していた。迎えは来ていないものと判断してタクシーを拾いホテルへ行こうと考え始めた頃「はやしたうちお」のプラカードの男が「はやしたうちお」さんですかと声をかけてきた。

平成4年3月29日(日)
中略 夕食のサンセットクルーズではショウーもありそれなりに楽しかった。

シンガポ-ル=サンセットクルーズのショウNo1
シンガポール=サンセットクルーズのショウNo2
シンガポール=サンセットクルーズのショウNo3                                                                      

Cnv0003


                                                                             


| | コメント (0) | トラックバック (4)

2009.08.10

スペインのフラメンコショウーのビデオクリップ

スペインではプラド美術館の見学を終え、同行者8人が二列の隊列を組んで公園の前を談笑しながら歩いている時、集団のスリに襲われた。隊列を組んでいるとは言え、間隔が開いていた。先頭を歩いていた家内が三人組に囲まれてリュックサックを剥ぎ取られた。見事としか言いようの無い早業であった。「泥棒」と家内が叫んだので後続の同行者が何事かと事態を認識しようとして一瞬呆然と佇んだ所を第二陣の三人組に最後尾にいた婦人がポーチを狙われた。

その婦人は道路へかがみこんで肩紐を放すまいと抵抗したが刃物で切り取られてしまった。同行の男達が泥棒の後を追いかけたが四つ角を曲がって姿がみえなくなった。地元の住民達は指さして逃げた方向を教えてくれたが反対の方向を指さして泥棒達の逃走に加担した可能性が強い。奪われたリュックサックには土産に買ったTシャツ2枚とプラド美術館の案内書が入っていただけなので被害は大したことはなかつた。ほろ苦い想い出として蘇ってくる。

フラメンコショウを見た前後の日記には以下のように記述しているがスリ事件には言及していない。

狭く混雑している路地を通り抜けてメスキータへ辿り着いた。
メスキータはウマイア王朝のカリフ、アブデラマン一世が785年に着工しその後継者のアブデラマン二世、モハメット一世、アルハケム二世によって次々に増築されてきたものでコルドバ・カリフ王国の栄華を誇るモニュメントである。

中へ入ると薄暗い。しばらくして目が闇に慣らされてくると赤色と白色の縞に塗られた浮輪を半切りにしたような夥しい数のアーチと柱が目に飛び込んでくる。幻想的な光景は薄暗さも手伝って、宗教的で厳粛な気持ちにさせる。縞メノウ、大理石、花崗岩で作られたアーチは総数約850本もあり線条細工のアラベスク模様が施されている。屋外が暑かっただけに室内の涼しさにほっと息をつく。

時代を追って進むほどに僅かずつ様式が変化していくのが判る。そして圧巻はメスキータ中央にあるキリスト教のビジャビシオッサ礼拝堂である。カルロス五世に願い出た教会当局が王の許可を得て市民の反対を押し切ってこのメスキータ中央の屋根を取り払いカテドラルを建設したのである。翼廊と祭壇のある後陣はゴシック様式、後陣のまわりを取り囲む丸天井はロマネスク様式、聖歌隊席と説教壇はバロック様式になっており、モスクの中にキリスト教のカテドラルが共存するという、奇妙なメスキータが出現したのである。つまり1523年から1766年までモスクがキリスト教の寺院として使われるという珍奇な宗教行事が営まれたのである。この珍奇さ複雑さがスペインの国情、文化の特徴であろうか。

スペイン・フラメンコ=オープニング
スペイン・フラメンコ=男女
スペイン・フラメンコ=女ソロNo1
スペイン・フラメンコ=女ソロNo2
スペイン・フラメンコ=格子縞の女No1
スペイン・フラメンコ=格子縞の女No2
スペイン・フラメンコ=女トリオ
スペイン・フラメンコ=男トリオ
スペイン・フラメンコ=男女多数
スペイン・フラメンコ=フィナーレNo1
スペイン・フラメンコ=フィナーレNo2


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.09

韓国の太鼓と舞踊のビデオクリップ

戦前の北朝鮮鎮南浦で出生した筆者は幼児時代に何回か両親の故郷である岡山県へ帰省する都度、関釜連絡船に乗船する為釜山は訪れている筈であるが全然記憶に残っていない。既に70年近くも昔のことなので仮に記憶に残っていたとしてもその光景は著しく異なっていたであろう。そんな感慨に耽りながら釜山の国際市場を見学した後、ショウーを見ながら食事した。旅日記には次の記述があった。


釜山港へ着いてから国際市場とチャガルチ市場を見学した。人口400万人の韓国第二の都市で且つ韓国第一の貿易港釜山の国際市場は「国際市場」という名のビルを中心に大小のビルが犇いて立ち並び、ありとあらゆる商品が取引されている巨大な市場である。戦後の闇市から発展した市場だというが、東京で言えばアメ横の雰囲気であり、表面見た目にはどこの国にも見られる雑然とした中にも熱気のある市場の風景である。チャガルチ市場は港直近の市場なので海産物や魚介類が殆どで、水槽に泳がせている魚も沢山いた。

海鮮鍋の夕食を地酒のジンロウと共にしこたま賞味した後、京釜高速道路に乗って走行すること約一時間で慶州チョースンホテルへ到着した。

韓国の舞踊

Cnv0003


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.08

ネパールの民族舞踊のビデオクリップ

ヒマラヤ山脈の山肌に張りついたような高地の国ネパールは神の存在を実感させて呉れる神秘な自然現象を数々体験出来る国である。
この国で見た民族舞踊にはインドの影響が窺われる。

忽然と山々が雲間に姿を現した時の感動を当時の日記は次のように記している。

翌日早朝にホテルを出てペワ湖に向かった。ボートを浮かべて日の出とヒマラヤの山々を見るためである。湖に到着した時空は曇っており今日は駄目かなと諦めかけていた時、ゆっくりと動きだしていた雲の塊が大きく動いて、雪を被ったマチャプチュレ・右とアンナプルナサウス・左とが突然姿を現した。あさぼらけ時には白い山の姿が赤みを帯びて輝いている。それは実に感動的な一瞬であった。

 ペワ湖では一舟に5人宛が分乗して波の立たない静かな湖面に漕ぎ出した頃丁度日の出の時刻を迎えた。東の空が次第に赤味を増してきて真っ赤な太陽が弧から半円になり真円に形を変えていく刻々の変化はこれまた感動的であった遠くに姿を見せているマチャプチュレとアンナプルナサウスの白い山の姿は実に神々しく厳かであった。残念ながらエベレストは見えなかったが、これらの山々はまさに忽然として姿を現したという感じである。このような不思議とも思える現象を見て古代人は山に神を感じたとしてもその気持ちはよく判ると思った。

ネパール民族舞踊=男女一組
ネパール民族舞踊=男女二組
ネパール民族舞踊=男女多数
ネパール民族舞踊=女一人

Photo


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.07

チュニジアの民族舞踊のビデオクリップ

古代の地中海世界で海上に覇を唱えたカルタゴの地を訪問して盛者必衰の想いを深くした。また砂漠に暮らす人々の生活をつぶさに観察できたチュニジアの旅は懐かしい。
特に印象に残っているのは隊商達が倉庫に使用したというゴルファであり旅日記には次のように記録している。

ゴルファは、石と日干し煉瓦で造った二階建て又は三階建ての土蔵を意味し、外観は土製の巨大な円筒を二段~三段に積んで横に並べたようなものである。今はこの住居でベルベル人達が革細工や陶器、金属細工等の民芸品を観光客相手に売って暮らしている。一見えも言われぬ物珍しい景観である。

チュニジアの民族舞踊No1
チュニジアの民族舞踊No2

Photo


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.06

アメリカ・ラスベガスは不夜城

初めてアメリカを訪問したのは建国200周年の時であった。今は鬼籍に入られた斉藤栄三郎先生を団長とするコンビニエンスストア視察団に参加したのである。今でこそ幼児でもコンビニとは何かを知っているが1976年当時の日本には存在しないシステムであった。今昔の観を禁じ得ない。その頃感じた所感を書き残していないのは残念である。

西海岸を周遊した時の旅日記にはラスベガスも見学しその感慨を以下の如く書き残している。

ラスベガスは豪華で大規模な新しい高級ホテルがそれぞれにテーマを演出して、犇めきあっている時計のない歓楽の街である。ニューヨークの街並を模して自由の女神が佇立しているホテルやとんがり帽子の屋根が色とりどりに沢山ついたお伽の国のホテルとか黄金のライオンが館前に佇む全館緑一色で世界最大のグランドホテルやピラミッド型の建物にスフインクスを配したルクソールホテルなど見ているだけでも楽しい光景である。

不夜城ラスベガスの夜景
Photo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.05

京劇のビデオクリップ

中国へは何回も行っているが秦の始皇帝の兵馬俑坑を見学したのはこの時が初めてであった。
兵馬俑坑発見の立役者の農夫が売店で接客していたのを思い出す。当時の日記には京劇の観劇には触れていないがビデオテープには録画されていた。

中国=京劇乙女の舞
中国=京劇孫悟空
中国=京劇虎退治

Photo


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.04

アテネで鑑賞した民族舞踊のビデオクリップ

西洋文明発祥の地ギリシャを訪問した時にも民族舞踊を鑑賞した記憶があるがどのような踊りであったか思い出せない。
記憶を辿っていくと「オッパー」という掛け声が日本語の「いいぞ」或いは「素晴らしい」に相当するということを知り盛んに「オッパー」を連発したことを思いだした。そして居酒屋のことを「タベルナ」というのも面白いと思ったものである。

民族舞踊については当時の旅日記に以下のように記述していた。

 夕食はアテネ市内のプラカ地区のタベルナ(居酒屋)で民族舞踊を鑑賞ながらギリシャ料理とワインに舌鼓を打った。ギリシャ料理の肉はよく炊き込んで筋や軟骨まで柔らかくなっているのが特徴である。司会者の巧みな誘導に釣られて舞台に上がり年齢を忘れて踊りに興じる同行の人達もあってギリシャの夜を大いに楽しんだ。

ギリシャ民族舞踊=三人の踊りNo1
ギリシャ民族舞踊=三人の踊りNo2
ギリシャ民族舞踊=四組の男女
ギリシャ民族舞踊=男二人のステップ
ギリシャ民族舞踊=女一人腰振り
ギリシャ民族舞踊=女が抜き身の刀を頭上に
ギリシャ民族舞踊=多数男女

Photo


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.03

ニュージランドの民族舞踊のビデオクリップ

ニュージーランドを訪問してからもう10年近くの時が流れた。
ビデオテープの整理をしようととりかかった作業であるが昔の旅を懐古することにもなっている。
ニュージーランドで見た民族舞踊については旅日記に以下のように記述していた。

ロトルアではテ・ワカレ・ワレア・タンガオ・テ・タウア・アワヒ・アオという舌を噛むような名前の国立公園で間歇泉の噴出する状況を観察した。ここはもともと先住民であるマオリ族の人々が温泉の湧き出る神聖な土地としてその領有を争った所である。今は屈指の観光地として賑わっており、この柵で囲われた公園の中にはマオリ族の装飾を施した神聖な集会所も設置されている。公園の中ではマオリ族の女性が龍舌蘭の葉に似たフラットと呼ばれる植物繊維で民俗衣装を織る実演をしている。この夜は民族舞踊を鑑賞後温泉に入り気分よく盃を重ねたので酔いも廻って快眠を貪った。


ニュージランド=出陣の踊り
ニュージランド=男女群舞
ニュージランド=手玉回し
ニュージランド=バトン回し
ニュージランド=女性歌手
ニュージランド=男女歌と群舞
ニュージランド=振り子回し

Photo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.02

ハワイ・サンセットクルーズでのハワイアンダンス

録画済のビデオテープを再生しながら各地で鑑賞した民族舞踊やショウーの場面を探しアップする作業をしている。
還暦を迎えた年に学生クルーのサポートも兼ねてハワイへ遠征しロイヤル・ハワイアン・レガッタに出漕した。
当時の旅日記は詳細を極めているが何故かサンセットクルーズについての記述は漏れていた。しかしビデオテープには画像が残っていた。

ハワイ・サンセットクル-ズでのダンスNo1
ハワイ・サンセットクル-ズでのダンスNo2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.08.01

本場のベノスアイレスでアルゼンチンタンゴを見た

本格的なアルゼンチンタンゴを見学したのは初めてであった。腰から下の動きに
特徴があると解説されたのを覚えている。今改めて当時の録画テープからアルゼンチンタンゴの
場面を見直してみると成程と納得するのである。それにしても悩ましいダンスではある。

時の旅日記には次の様に記録していた。
ラベンタナというレストランでタンゴショーを見た。タンゴは腰から下の動きが活発でかなりセクシーである。踊り子達の体型はすらりとして恰好がよいが、顔貌はあまりよくないと思った。食事は再びビフテキを取ったがとても大きくて半分も食べられなかった。パサパサした感じであまり美味しいとも思わなかった。餌のせいなのだろうか。ホテルへ帰ると12時30分を廻っていた。

アルゼンチンタンゴNo1
アルゼンチンタンゴNo2
アルゼンチンタンゴNo3
アルゼンチンタンゴNo4
アルゼンチンタンゴNo5
アルゼンチンタンゴNo6

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »