« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »

2009年10月

2009.10.27

無駄の徹底的排除は先ず衆議院議員の歳費日割り計算から始めよ

鳩山首相の施政方針演説が行われこれに対するマスコミの評価が紙面を賑わしている。
その中で2009.10.27付け産経新聞に掲載された「風を読む」欄の所説と指摘にはまさにその通りと賛意を表したい。
翻って考えてみればこの種の問題は日割り計算が当然と考えている善良な市民にとっては政治の世界ではこのような非常識がまかり通っていたのかとの驚きのほうが大きい。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.10.21

貧困率第四位は数字の魔術にかからずに読むことが肝要

2009.10.21付けの産経新聞にショッキングな見出しが踊っていた。世界の貧困率第4位とは日本の国力も衰えたものだと思いながら読んだが調査対象国が僅か30ケ国だと書いてある。調査対象国の明細は不明であるが世界の極貧国はおそらく入れていないであろうと思われる。

読者の関心を引こうとして記者がつけた見出しであろうがこれはひど過ぎる。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

困難校で奮闘する優れた教師

鳩山新政権になってから学力テストの抽出制とか教員の登録更新制の廃止等、日教組影響下の教育破壊が再燃しそうな兆しが現れ憂慮している。
そんな時2009.10.19付け産経新聞に掲載された教育現場のリポートには優れた教師が奮闘しているのだなとの感慨をもって読んだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.10.16

与那国島が危ない

与那国島が危ないという2009.10.14日付けの産経新聞に触発されて過去の沖縄旅行を振り返ってみた。

【与那国島が危ない】(中)「やられてから、という姿勢」
【与那国島が危ない】(下)「ここは日本。屈辱的」


沖縄へは過去四回行っているが旅の記録は平成10年4月12日に夫婦で旅行した時のものしか残っていない。

この時の旅では西表島まで行っているが与那国島へは立ち寄っていない。そして単なる気楽な観光旅行客という意識しか持っていなかったので国の安全、領土の保全にまで意識が廻っていなかった。

鳩山新政権が発足して以来その外交政策にはあやふやなものを感じているだけに今回の「与那国島が危ない」という産経新聞の企画は日本の社会に対する時宜を得た警鐘として評価したい。


平成10年4月12日(日)
京都から横浜へ引き上げてきてから初めての夫婦二人での遠出である。鶴見駅より京浜急行で羽田空港まで行った。
婿殿と次女は留守番である。彼らは15日からベルギ-へ旅行の予定である。
那覇空港ではバスが迎えに来ていたが乗客は僅か7人だから極めて贅沢な旅行といえよう。

守礼の門を横手に見て首里城へは木曳門から入って通常とは反対の経路で城内へ入った。

Lrg_10388341


ここは三回目である。

最初は硝子メーカーに在職中、求人のため高砂工場から出張できたとき。本土復帰一年前のことだからパスポ-トを持ってきたものであった。

次は4~5年前転職後の会社の幹部旅行できたとき。

そして今回。

玉泉洞王国村へ行く途中で通った村で見た昔ながらの建物ではヒンプンまたはヒ-プンと称する衝立のようなものが表門を入ったときに入り口を塞ぐように置かれているのがもの珍しかった。

鍾乳洞は前回みたときの印象が残っており「王様の杯」を見たときは懐かしい思いがした。

但し鍾乳洞の上にある琉球村は全然記憶にない。これは多分その後に客寄せのために出来たものであろう。

ひめゆりパ-クでは沢山のサボテンを見学した。ひめゆりの塔、琉球硝子村と見学してから那覇空港を経て石垣空港へ到着。

空港へはタクシ-が迎えにきており、軽井沢倶楽部ホテル石垣島へ投宿する。まあまあの部屋である。
夕食は和食であったが伊勢海老がついたデラックスなものであった。家内は洋食をとったが料理が出てくるのが遅くて、御機嫌斜めであった。
地ビ-ルの石垣島を飲もうと思ったが置いてないのでしかたなくオリオンビ-ルを飲んだ。家内が「体によくない」と小言を言った。

平成10年4月13日(月)
雨が降りそうな天気である。今日は石垣港から船で西表島まで渡るのだが、春になって海の荒れがすくなくなったので船浦港へ直接接岸するので島内の移動時間が節約できるため、1時間遅く出発するとの説明があった。
従ってホテル出発が9時50分といかにものんびりしている。時間をもてあまして家内はいらいらしている。
折から雨足が強くなってきたようだ。バスには今日から合流する人達も含めて20人ほどに増えた。

水中ジェット船に乗り込んだが沖合が荒れているので欠航になるかもしれないという情報が流れた。
「悪い冗談は止めてよ」などと乗客は呑気なことを言っている。そのうちやはり沖合が荒れているので、航路を変更して大原港へ向けて出航するという。
そうすると船浦港で待機しているバスは陸路大原港まで1時間かけて我々を迎えにくることになるので大原港で若干待ち時間ができることになる。
これが全行程に影響を及ぼすことは避けられない。最初の予定通り進んでいればこのようなことはなかったのにと思うが、そこは気候条件の変化によるものだからしかたのないことである。

船はかなり揺れて気持ちのよいものではない。乗客の中には吐き出す人もいたようでコンデションはあまりよくない。
それでも1時間ほどの航海で無事大原港に到着した。
船浦港までの道中「亀」「はぶ」等を路上に発見することができた。
浦内川ではシ-トを張った船に乗り込みマングロ-ブの原始林を眺めながら激しい雨の中を遊覧した。
「ひるぎ」の群生した状態をマングロ-ブというらしい。このあと激しい雨の中を星砂海岸に一時駐車した。
滝のように雨水が路上を流れる中を合羽を着て私ともう一人の男の乗客が海岸まで走った。

手当たり次第砂浜の砂を掬って予め用意したビニ-ル袋へ詰め込んだ。僅か2~3分の滞在で慌ただしくバスへ駆け込んだ。
浦内川遊覧に先だってレストラン浦内で伝統料理で昼食をした。赤米の御飯は美味かった。

由布島へは水牛で遠浅の海を渡ったが何故か水牛がかわいそうに思えた。本来なら植物園を見学するところだが激しい雨なので、
土産物店で雨宿りしながら土産物を眺めているだけでここの島の観光は終わった。

再び大原港から石垣島へ帰りホテル軽井沢石垣島で第二日目の夜を過ごした。

 平成10年4月14日(火)
 石垣島港を9時に出発して船で竹富島へ行った。

Lrg_17298448


水牛に引かせた車に乗って島内の観光をしたが、赤い瓦で方形の屋根は独特の風物である。

人口は僅か280人程で牧歌的な雰囲気の漂う町並みである。
町並み保存がよく行われていてそのためには町で相当の補助金を出しているということである。

この日はよく晴れて絶好の観光日和であった。

 再び石垣島へ戻り、唐人墓、八重山民族園、泡盛製造所、ミンサ-織等を見学して川内川のグラスボ-トに乗るべく川内湾まできたが昨日来の雨で水が濁っていて海底を見ることができないのでこれは取り止めとなった。このあと龍宮城鍾乳洞、ショッピングプラザを巡って石垣島空港から那覇空港へ帰ってきた。
空港には大田というタクシ-の運転手が迎えにきてくれており、ふみやという沖縄料理の店へ連れていってくれた。

明日は彼の案内で島内観光をするよていである。この日はオ-シャンビュ-ホテルというのに泊まったが部屋の作りが面白かった。
部屋を仕切ってカウンタ-があるのである。 

 平成10年4月15日(水)
 大田さんに明日の観光は任せることにしてあったので、8時50分にホテルへ迎えにきてくれた。ガラスボ-トに乗れなかったのでそれを第一の観光とした。新原ビ-チへ向かう途中、琉球漆器の店へ立ち寄ったがここが家内の気にいって長年求めていたほうじちゃ用の湯飲み茶碗と茶託をかいもとめた。

ガラスボ-トに乗る場所は昔会社の旅行できたときに経験した場所であった。このあと、松山御殿を見学したが案内人がなかなかの名調子で説明してくれた。昼飯はチャンポンときゃべつの炒めものを運転手の推薦で食べたが美味かった。
那覇空港から帰ってきて沖縄旅行は終わった。運転手の人柄が印象に残っている。 

玉泉洞王国
石垣島鍾乳洞
ひめゆりの塔
竹富島
八重山民族園
新原ビ-チ
松山御殿

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.10.12

裁判員制度についての賛否両説

裁判員制度については賛否両論あって制度が定着するまでには時間がかかるだろうと予想される。
そもそも論からすれば素人がプロに挑戦するという意味合いのある裁判員制度は平成の愚作であると思う。
何れも産経新聞に掲載された賛否両説を切り抜いておくことにした。

Photo


Photo_2



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.10.11

お札を刷らない日銀

2009.10.11産経新聞の日曜経済教室に表記の記事が掲載された。

鳩山政権の経済政策に対する批判的な記事であるが円高が続きデフレが続くと大半の国民が困窮するという理屈が判り易く解説されていて蒙を啓かれた思いで読んだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

功を焦り過ぎる鳩山政権

2009.10.10の産経新聞に掲載された主題の記事には同感である。特に夫婦別姓と外国人参政権に関する皿木氏の意見には全面的に賛意を表したいと思う。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

やせは太り過ぎより短命

「やせ」注意「太り過ぎ」より短命と いう見出しにドキリとした。産経新聞の2009.10.11の記事である。
メタボリックシンドロームが世上の関心事になってから久しい。一見したところメタボに関する新学説が発表されたのかと思った。
よく読んでみるとカテゴリーが「やせ」「普通」「太り過ぎ」「肥満」に別れていてやせと太り過ぎの実測に基づく統計的な比較であった。
読者の注意を引くために記者が案出した見出しは技ありであると思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.10.09

フィッシング詐欺のデータ流出:脆弱なパスワードが多いことが明らかに

インターネットは現代生活に欠かすことのできない便利なツールになっている。
その一方で振り込め詐欺等に悪用するものが後を絶たない。
パスワードの管理には細心の注意が必要だということを認識させてくれる記事を見付けた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.10.08

国益のための領土交渉

2009.10.8付け産経新聞に掲載された桜井よしこ女史のコラム「鳩山首相に申す」の表題の所論には全面的に賛意を表したい。

特に
北方領土はソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して攻め入り、不法に占拠したものだ。
という歴史的事実の指摘は歴史を詳しく知らない若い世代によく伝承し啓蒙しなければならないと思った。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.10.07

鳩山由紀夫首相には「明日もまた会いましょう」とジョークで反論してもらいたい。

2009.10.7付けの産経抄が皮肉を込めて予想したシーンは近い将来、現実化しそうな予感がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.10.05

「心のノート」廃止も 民主反対で 背後に日教組の意向

日教組の跋扈によって日本の道徳教育は駄目にされ、憂国の志を持った人達の努力によってやっと道徳教育「心のノート」が採用され教育現場で成果をあげかけたところへ日教組がまたしゃしやりでてきて廃止しようとしている。嘆かわしいことである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.10.04

船頭多くして船山に登る民主党 & 金(=権力)の切れ目は縁の切れ目の自民党

鳩山政権が来年度予算の編成に着手したことが2009.9.29付け産経新聞に報道された。
問題山積のようで寄せ集め内閣の欠点が早くも露呈し始めたとの印象が強い。
まさに船頭多くして船山に登る内閣である。

平成の徳政令が実施できるのかどうか? 徳政令や八ツ場ダムの建設中止が内閣瓦解の遠因になるのではないかという予感がする。

一方惨敗を喫した自民党の総裁戦は逃げ腰を決め込んだ大物の不出馬で盛り上がらなかった。
弱り目に祟り目の自民党であるとも言えようか?2009.9.29付け産経新聞の指摘は鋭い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

マナーの乱れは社会悪

2009.10.4付けの産経新聞に掲載された 千千玄室氏の"マナーの乱れは社会悪"と題する主張には共感するところ大なるものがある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

オリンピック開催地リオに決定と鳩山政権誕生の類似性

2016年のオリンピック開催地がリオデジャネイロに決まった。このことに引っかけて2009.10.4付けの産経抄の記事はエスプリに溢れていると思った。
特に下記の一節は善良な日本国民の気持ちを代弁している。

▼民主党は「とにかく一度やらせて」と、ひたすら政権交代を訴えた。これが自民党政治にあきあきした有権者をひきつけた。ブラジルのリオも「南米で一度は五輪を」とアピールして、多くの国の支持を得たようだ。最後は民主党同様「地滑り的」圧勝だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.10.03

日本国憲法の読み方

2009.10.3日付けの産経新聞に掲載された「日本国憲法の読み方」と題する意見には全面的に賛意を表したい。

北朝鮮、韓国、中国、ロシア等日本の領土保全に何らかの影響を及ぼす国々がある以上地方参政権といえども在日外国人に参政権を付与すべきではない。帰化するという手続きがあるのだからどうしても参政権が欲しいと願う外国人には帰化してから参政権を付与すれば充分である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

パンダのふんで生ごみの9割減量

2009.10.3付けの産経新聞に掲載された「パンダのふんで生ごみの9割減量」と題する記事には着眼点のユニークさに感心した。素晴らしい研究成果だと思う。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

いさぎよさ失った"大物"

2009.10.3付けの産経新聞に掲載された会田雄次氏の 「いさぎよさ失った"大物"」
と題する記事には全面的に共感する。

1
2


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.10.02

 38度線で聞いた銃声・・・北朝鮮から引き揚げの旅 

 38度線で聞いた銃声・・・北朝鮮から引き揚げの旅  

学生時代の友人から北朝鮮鎮南浦の地図の写しと日本鉱業の鎮南浦製錬所の巨大煙突の写真コピーを貰った。

大東亜戦争前に鎮南浦で生活した人々の親睦会で入手したのだという。

父が日本鉱業の鎮南浦製錬所

で分析技師をしていた筆者は鎮南浦で出生し、敗戦の8月15日には小学1年生であったが大煙突のことは
よく知っていたのでとても懐かしく思った。また地図には筆者が産声を上げた道立病院の位置

も記されており、感慨一入であった。

と同時に思い出すのは38度線を突破して父祖の国日本へ引き上げるための逃避行の苦しい旅のことである。

父は出征していた。銃後には7才の筆者を頭に4才と1才の二人の幼女が残され食料難の中を母は悪戦苦闘していた。

内地への引き揚げは子供3人を引き連れて母子4人が38度線を突破しての難儀な逃避行であった。
敗戦の日から引き揚げ決行の日までの一年強の期間は敗戦国民として祖国へ帰還することのみを待ち続ける忍従の竹の子生活であった。

経路は鎮南浦港から船で大同江を渡り対岸の村へ。船を降りてからは南北国境の38度線まで山野を野宿しながらの徒歩。
38度線越境、米軍のジープで開城のテント村へ収容、仁川のテント村へ米軍のジープで移動し収容。仁川港から貨物船で佐世保港へ、
佐世保港より国鉄線を乗り継いで郷里へ。

昭和21年10月20日に父母の故郷である岡山県の早島町へ母子4人が生還することによって引き揚げの旅は終了した。

この時の様子は自分史の一節に以下のように記録している。

自分史の骨格5・・・38度線で聞いた銃声 早島 潮
                                
国境近くに来た時は警戒も厳しくなり、夜陰に乗じてこれを突破することになった。
昼間山中で仮眠し、暗くなってから腰までつかる浅瀬の川をじゃぶじゃぶ歩いて渡った。
このとき私は母親と妹からはぐれてしまったが、隊列から離れないでついて行けば、家族にはまた会えると必死で衰弱した体で足を滑らせながら浅瀬を渡った。このあと、続けて三十八度線の国境を渡った。この時も私一人で母達の所在は不明であった。
国境警備兵が威嚇射撃をしたため、その銃声は国境突破の一行に悲壮感を与えるのに効果充分であった。

 私が母や妹とはぐれたのは、突然聞こえた銃声が原因となった。
「川を渡ったり、国境を越えるときには、遅れないように、大人の男の人の後について歩くんですよ。和子は母さんが、手を引いていきますからね」
と母が言っていたので、私は知り合いの後藤さんの小父さんの後ろについて、一生懸命歩いた。

そこへ威嚇射撃ではあったが、銃声が聞こえて隊列が乱れ蜘蛛の子を散らすように、岩陰へ隠れるグループや構わずにどんどん行進を続ける
グループとに分かれたのである。私がついて行った後藤さんは行進派だったので私も後藤さんの後ろについてどんどん歩いた。ところが、一時岩陰に身を寄せた母は私達のグループから遅れをとったという次第である。

 国境を無事突破して、小休止したとき母と妹に再会した。私はあまり心配していなかったが、母の方は私の体がマラリヤのために衰弱しているので、私が、皆から落伍してしまったのではないかと、私の顔をみるまでは心配で心配でたまらなかったそうである。

母はこのとき私を日本へ連れて帰れないかもしれないと覚悟したと後に述懐している。

 後年今は亡き母の法事でその時の様子を妹の和子が語って聞かせてくれたが、髪を振り乱して「たかしはおらんか。たかし返事をしなさい」
と発狂したようにあちこち人混みの中を駆けずり廻っていたという。年配の人になだめられて漸く、隊列に戻ったらしい。 

 国境を越えてからの旅は恵まれていた。米軍のジープやトラックが国境線近くに待ちうけていて、次々に開城のテント村まで運んでくれた。
テント村に入る前に頭からDDTをふりかけられて体中真っ白になった。このテント村には一週間抑留された。
テント村は北朝鮮から脱出してくる日本人引き揚げ者を船便の手配が出来るまで収容しておく米軍経営の難民キャンプであった。

 アルマイト製の食器を与えられ、朝、昼、晩と決まった時間に給食があったが、とうもろこしのスープに大根の切れ端や葉っぱが申し訳程度に浮いている粗末なものであった。ほかにも食べ物が支給されたのかもしれないが、私の記憶に残っているのはとうもろこしのスープだけであった。

私達一家は女子供だけの家族であったから、荷物が少なく鎮南浦を出るとき用意した干し飯や煎り豆などの食料は食べ尽くしていたので、給食を有り難く食べるしか術がなかった。しかし、男手のある家族は米や豆をまだ持っており、携帯した飯盒で炊いて美味しそうに食べていた。
それを遠くから羨ましそうに眺めているだけであった。 いじましい話だが、米を持っているグループが座っていた場所の筵の目の中にこぼれて入り込んでいる米粒を叩き出して、二粒、三粒の生米をかじったこともある。

 七日間のテント生活は、殆ど雨に降られたため、テントに閉じ込められて生活したように思う。鎮南浦出発以来、入浴していないうえ、野宿したり、川を渡ったりしたので、着衣は垢と汗で臭くなっており、DDTで入村時に消毒されたにもかかわらず、腰のバンドの下に虱がわいたのを覚えている。

テント生活の中では夜になると、退屈凌ぎに歌合戦をしようと提案する人があり、順番に一家族ずつ得意の歌を披露することになった。

お国自慢の民謡や小学唱歌が多かったが軍歌を勇ましく歌う人もいた。我が家の番が廻ってきたときには、私が小学唱歌の子馬の歌を音程を外して歌い、背筋に冷汗をかいた。何才になっても歌を歌うことだけは苦手である。戦時中に音楽は「ドレミファ」ではなく「ハニホヘト」で教えられ、感受性の強い時期に音楽的な環境に縁遠い生活を余儀なくされていたせいであると自らを慰めている。それにしても、歌が人前で物怖じせずに歌える人が羨ましく思える今日この頃である。

 藤原ていさんの著作「流れる星は生きていた」に比べると私達の国境までの逃避行はまだ、恵まれていた方である。日本鉱業の従業員とその家族を主体としたグループであったから、比較的統制のとれた行動ができたせいか、道中、無法者に略奪暴行されたり、婦女子が凌辱を受けるという悲劇もなく落伍した一家族を除いては、全員無事に国境を越えることができた。朝鮮人の中にも親切な人はいるもので、田舎道で空き馬車を引いていた
「アボジ」が、子供達や荷物を荷台へ乗せて二里程の道のりを無報酬で運んで呉れるということもあった。

我々引き揚げ者のグループが何人いたのか正確には覚えていないが、現在薄れかけた記憶を辿って当時の隊列を思い出してみると四~五百人の人数だったのではないかという気がする。

国境線で落伍した児玉さん一家は丁度我が家と同じような家族構成で、若い母親が三人の幼小児をひきつれていた。

逃避行という異常な状況の中では誰しも自分のことだけで精一杯になり、落伍しそうな家族があっても、せいぜい声をかけて励ます程度のことしか出来ず、悲しく情けない思いをしたのは、私だけではなかったであろう。児玉さん一家もこのときは落伍したが、何か月か後には無事内地までたどりついたという噂を聞いた。

「児玉さんが、落伍したときには、どんなことがあっても、子供達だけは無事内地へ送り届けなくてはならない」と内心決意を新たにしたと後日、母は述懐しているし、内地へ先に復員していた父は、「多分一番下の信子は生還しないであろうと思っていた」と漏らしたことがある。

また、母は私の家内にも晩年、何も財産らしいものは残せなかったが、3人の幼子を誰一人欠けることなく日本へ連れて帰って来たことが母の誇りであるし母の無形の財産であると語ったということである。

 開城のテント村から仁川のテント村への移動も米軍のジープとトラックで行われた。
威嚇射撃をしたり、賄賂を要求する「ロ助」と比較すれば、さらに七日間の徒歩による逃避行のことを思えば、乗り物に乗せて内地へ確実に一歩ずつ近付けて呉れる米軍はまさに地獄に仏の存在であった。

開城から仁川へ向かうトラックを運転していた兵士は黒人で、チューインガムをむしゃむしゃ噛んでいる唇の合間に見える白い歯が、非常に印象的であった。また仁川のキャンプ村へ近付いたとき、通り抜けた茶色い切り通しの崖のうえに仰いだ、雲一つない青空は私の人生の中で感じた最も美しい色の一つであった。

港の海面も太陽に眩しいばかりに輝いており、紺碧の色は苦難を乗り越えて、父祖の国へ確実に近付いている引き揚げ者の明るい気持ちを象徴しているようであった。

 後日、機会があって韓国旅行のとき自由時間に仁川の港を訪問したことがあるが、生憎くの雨で海の色はどす黒く沈んでおり、切り通しの崖も見出すことが出来なかった。

 仁川でもまずDDTの洗礼を受けてからテント村へ入った。ここでは三日間の短い日数であったから、記憶に残る思い出はない。

 停泊中の貨物船に乗り込んで佐世保の港まで玄界灘の荒波に悩まされながらも、一行の気持ちだけは寛いでいた。
しかし、引き揚げ船の中で片桐さんの生後三、四か月の嬰児が栄養失調が原因で死亡するという悲しい出来事があった。
苦しい逃避行の中でもそれまで死者はなかったのに、祖国を目前にしてついに犠牲者が出てしまった。
貨物船の薄暗い船底でお経をあげ、水葬にするという侘しくも悲しい弔いであった。

 佐世保港へついてからも直ちに上陸が許された訳ではない。検疫のため、肛門に注射器ようのものを挿入されて便を採られた。
さらにDDTで消毒されたので、下船までには随分時間がかかった。やっと踏みしめた祖国の大地であった。
このあと港の倉庫で引き揚げ列車の順番を待ったり、帰国手続きのために一晩をあかすことになった。貨物船も狭い場所へ大勢の人がごろ寝をしたが、体を横にして手足を伸ばすだけの場所はあった。ところが、上陸したとはいえ、一晩を過ごした倉庫の中は手狭で、横になるだけのスペースがないため、床に腰を降ろして立て膝をしたまま仮眠するのがやっとの状態であった。積み重ねたリュックサックに背中をもたせかけて、立て膝を両手で抱えこんだ姿で鼾をかきながら一行は、安堵の夢を結んだのである。

 港から倉庫へ移動するとき、妹の和子が風邪をひいて咳込み、苦しがっているので、私が背中を叩いてやったが、なかなか直らず、ぜーぜー咳をしながら泣きじゃくっていた姿が強く頭に焼き付いていて忘れられない。

 厚生省の援護局から内地の紙幣を支給されて、佐世保駅から上り列車にやっと乗り込むことが出来た。博多の駅や下関の駅につくごとに、土地の婦人会の人達が湯茶の接待をして下さっり、「長い道中、御苦労様でした」とねぎらいの言葉をかけて下さったので、やはり祖国はいいなとしみじみ思ったものである。

 引き揚げ列車であったから、佐世保の駅を発車したときには乗客は引き揚げ者ばかりであったが、着く駅ごとに引き揚げ者は少なくなり、一般の乗客が乗りこんできた。一目で引き揚げ者と分かるので、いろいろ話かけてくる人もあり、話を聞いて涙ぐむ老婆もあった。

途中の駅で駅弁を売っているところがあり、早速母が支給されたばかりの内地の紙幣でこれを求めた。中身は稲荷寿司なので、久し振りに御馳走が食べられると喜んで、かぶりついたところが、油揚げの下からでてきたのはお酢のよくきかせてある「おから」であった。
内地だから、稲荷寿司には当然米の飯が使われているものと早合点した私達のほうに内地の経済事情についての認識不足があった。

 爆撃を受けて、生産施設に壊滅的な打撃を受けた日本の経済はまだ復興の緒についたばかりの段階で、米の配給制度は厳然として行われており、駅で売られる弁当に米が使われるような状態ではなかったのである。そのときやはり内地も敗戦国の苦しみを味わっているんだなということを認識した。

 宇野線の早島駅に昭和二十一年十月二十一日未明に到着し駅前で畳表や茣座の卸問屋を営んでいる母方の伯母(母の実姉)宅へ辿りつき、苦しかった北朝鮮鎮南浦からの引き揚げは終わったのである。この日は早島の秋祭りの日であった。母子四人が無事生還できたのは、ひとえに母の頑張りのおかげである。このあと栄養失調に陥っていた母子四人は一か月程の静養の後、健康を取り戻したのである。            


          

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.10.01

10月1日の共感できる新聞切り抜き三点

ジャーナリストの桜井よしこ女史の評論には何時も啓蒙されることが多い。
2009.10.1日の産経新聞に掲載された「日本よ、刎き国となれ」という演題の講演記録には共感する点が多々あった。

<


この記事はファーストレディーの心得違いを突いてよくぞ言ってくれたと共感できる。

この記事により地位協定についての蒙を開かれた。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »