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2014年7月

2014.07.31

中国製食材の危険性の実情

中国の現地事情に詳しい宮崎正弘氏から配信された下記記事を読むと中国製の食材は一切口にしないことが賢明な処世術である。

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成26年(2014)7月31日(木曜日)弐通巻第4305号
    

 期限切れ鶏肉をつかってマック、KFCの経営被害は甚大だが
   このキャンペーンは中国の外国企業排斥が基本の動機ではないのか
****************************************

 最初から意図的である。
 期限切れ食肉加工は米国企業が100%出資の現地法人である。中国のテレビが当該工場に潜り込んで、実際にカメラを回し、「期限が切れている? 死にはしないさ」という工員の会話が録音された。

 画像が放映され、中国ばかりか世界に流れたので、日本でもファストフーズなど、甚大な悪影響がでた。

 しかし、この事件はそれほど驚くことだろうか?
 どぶ川の水で食器を洗い、箸をばしゃばしゃと洗い、つぎの客に出すのは常識。いや、それは日常の風景。屋台だけの話ではない、ちゃんとしたレストランで小生がチト呆れたのはどぶ川の水でスープを作っていたこと。すぐにそのスープを飲むのをやめたが、下痢は三日続いた。

北京の一流ホテルの料理場では、コック長が「客が日本人?」と聞くやフライパンに唾を吐いて、それから料理したと、実際に目撃した元駐在員が語った。中国での駐在が長いと原因不明の食あたり、食中毒は常におこる。原因不明で死んだ人も何人かいるが、中国の医院では死因は特定されない。

 過去四年間だけでも、伊勢丹、ヤマダ電機など数十社が撤退したが、日本企業ばかりではなく台湾企業は一万社近くがすでに撤退した。韓国企業は夜逃げを敢行した。米国も、IT関連、通信機器、コンピュータの多くが人員削減に踏み切っている。IBM,HPなどの動向がそれであり、またスタバも近く撤退を開始するとの情報がある。

 IT関連で言えば、華為技術やZTE(中国通訊)など大手がすでに欧米日の技術に迫り、外国企業が邪魔になったため、様々な妨害、入札阻止などをおこなっている。豪企業リオ・テント、英国企業グラクソ・スミス・クラインなどは、なぜか独禁法抵触といわれて社員が逮捕されるなど露骨に中国企業を保護するためだ。


 ▲米中戦略対話の破綻、海洋リグ撤去への報復の可能性

 この流れが食品産業にきた。
米系企業をとっちめるのは、その背後にもっとどろどろした政治的動機がある。つまり、シャングリラ対話、米中戦略対話で、米中はアジアの安全保障をめぐって激論、中国は四面楚歌となり、完全に米中関係が破綻している事実経過となんらかの関係がある。

 ベトナム沖で掘削を続けたCNOOC(中国海洋石油)は、海洋リグを撤去した。これを中国軍は屈辱と感じており、米国への報復をとんでもない方向からやらかした、とみると整合性がでてくるだろう。

 さらに穿った見方は、この米国企業は進出のさいの諸手続きや認可に関して江沢民派の世話になった。江沢民派をコーナーに追い込む習近平政権にとって、これは戦闘開始の信号でもある、という。
しかしまだ勢力を誇示する上、家来を政治局常務委員に四人も送り込んだ江沢民を最後まで追い詰める意図を習近平が抱いているとは到底考えられず、上海派が牛耳る通信利権に習近平が手を出す前に、胡錦涛――温家宝――朱容基らがもつ「金融利権(銀行、保険、証券)に手を付けるか、あるいは守旧派の李鵬一味が持つ「発電利権」に手を出すだろうからだ。

 ともかく米国企業を絡め手で敵に回した中国は、この結末をいかにつけるのか?

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中国共産党の権力闘争の実態No1

新聞記事は時日の経過により原文が削除されてしまうので、記録として留めるため以下全文をコピペした。


600日かけた「本丸」攻め、江沢民氏との関係悪化が「引き金」に
2014.7.31 09:43
 ■格好の大物、江氏と悪化「引き金」
 習近平体制が発足してから1カ月もたっていない2012年12月6日。中国共産党の党紀違反を取り締まる中央規律検査委員会のホームページに「李春城・四川省党委員会副書記が重大規律違反容疑で取り調べを受けている」という知らせが掲載された。党関係者の間で衝撃が走った。
 唐の詩人、杜甫は「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」という意味の詩を残した。中国共産党内の権力抗争でいつも使われる手法でもある。大物政治家を失脚させるのに、まずその周りから粛清し、丸裸にしてから本丸を攻めるやり方だ。
 「李氏を突破口に、新政権は周永康を狙っている」。そう感じ取った党関係者は少なくなかった。李氏が、胡錦濤政権で序列9位の大物政治家である周・前党政治局常務委員(71)の側近ということはよく知られていた。
 李氏失脚から間もなくして、蒋潔敏・国有資産監督管理委員会主任、李東生・公安省次官ら周氏の腹心といわれる人物が次々と拘束されていく。中国メディアの統計によれば、今年7月までに周氏の元部下や親族など300人以上が拘束されたという。
 そして李春城氏からスタートした周氏失脚劇は、今月29日に終了した。約600日もかかった計算になる。
 習国家主席はなぜ、ここまでして周氏を追い詰めなければならなかったのか。
                  □  □
 共産党筋はその理由を以下のように説明する。
 周氏は2010年11月に重慶市を訪問した際、同市党委書記だった薄煕来氏と会談した。薄氏は当時、幼なじみだった習氏が党最高指導者の候補に選ばれたことに大きな不満を抱いており、習氏の能力を否定する発言を繰り返したという。
 すると周氏も薄氏に合わせて習氏批判を展開した。その会話を、薄氏の側近で同市副市長だった王立軍氏がひそかに録音していた。王氏は12年2月、四川省成都市にある米国総領事館に亡命しようとした際、その録音を米国側に渡した。このことを米国を通じて知った習氏は激怒し、薄氏だけでなく周氏にも恨みを抱き、打倒することを決心したのだという。
 治安・司法部門に大きな影響力を持ち、薄氏の盟友でもある周氏を野放しにすることは、習氏にとってやはり危険だった。また、12年11月に発足した習体制は、政治運動として反腐敗キャンペーンを展開し、「ハエもトラも同時にたたく」と国民に宣言していた。周氏クラスの大物政治家を失脚させることで、国民に対し反腐敗の決意をアピールする狙いがあったともみられている。
 そして重要なことは、江沢民派の重鎮として知られた周氏と、元国家主席である江氏本人の関係が最近良くなかったことだ。
 香港紙などによると、周氏の最初の妻は江氏の親族だが、周氏は2000年ごろ、交通事故と見せかけて殺害した。元テレビキャスターの現在の妻と結婚するためだったとされる。最近、この事実を知った江氏は激怒し、周氏の摘発に同意したという。
 北朝鮮の金正恩第1書記は、権力掌握をアピールするため、叔父である張成沢(チャンソンテク)氏を粛清した。習氏にとって、周氏の失脚は同じような意味をもっていると指摘する声もある。
                   ◇
 中国共産党の大物政治家、周永康氏の失脚が発表された。最高指導部の責任を問わないという長年の不文律が破られ、国内外に衝撃が走った。中国の権力中枢で何が起きたのか。習近平政権の狙いは何か。今後の中国政局にどんな影響を与えるのか。党を揺るがした一大事件を検証する。(北京 矢板明夫)

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2014.07.20

2014年の女傑10人

パワフルな女性2014年の十傑が発表された。

以下は日本経済新聞よりの転記である。

 傑出した人物やリーダー、常識を破る勇者や天井を知らぬパイオニアたち。世界を舞台に活躍する顔ぶれの今年度のランキングを紹介しよう。

順位 名前(肩書)
1 アンゲラ・メルケル
(ドイツ首相)
2 ジャネット・イエレン
(米連邦準備理事会議長)
3 メリンダ・ゲイツ
(ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団)
4 ジルマ・ルセフ
(ブラジル大統領)
5 クリスティーヌ・ラガルド
(国際通貨基金専務理事)
6 ヒラリー・クリントン
(前米国務長官)
7 メアリー・バーラ
(ゼネラル・モーターズCEO)
8 ミシェル・オバマ
(オバマ米大統領夫人)
9 シェリル・サンドバーグ
(フェイスブックCOO)
10 バージニア・ロメッティ
(IBM CEO)
最もパワフルな女性トップ10。初選出のイエレン議長は2位
 ここに並ぶのは、国の元首、金融界やビジネス界のリーダー、富豪の活動家、有名芸能人など、世界に影響を及ぼす女性トップ100人だ。彼らと肩を並べて、起業家やメディア通、科学技術者、慈善運動家もランクインした。資金力やメディアでの露出度、影響力の大きさによってランク付けした。

 「パワー」は、政治力や経済力に比べ、ずっと熱を帯びた言葉だ。女性の最高経営責任者(CEO)がいる大手企業は、全体のわずか5%にも満たない。フォーブスによる「世界の大富豪2014」の1645人のうち、女性は10%を少し上回っただけだ。現職の女性国家元首は14人。そこで我々は視点を変えてみたい。古典的な意味での「権力」をもった人だけでなく、世界へのインパクトと影響力という「パワー」をもったリーダーに注目する。

 「パワフル・ウーマン2014」には、9人の国家元首がランクインした。その9カ国を合わせると国内総生産(GDP)は11兆1千億ドル、人口は6億4100万人となる。9人の国家元首のひとりが、全体の第1位となったアンゲラ・メルケル独首相だ。

 企業CEOは28人で、これらの企業の収益は合わせて年1兆7千億ドルにのぼる。このうち、18人の女性は自分で会社や財団を創業しており、この中には自分の手でビリオネア(10億ドル=約1千億円=以上の資産家)の仲間入りをした最年少のサラ・ブレイクリー氏(43歳、補正下着「スパンクス」を開発)がいる。

 富豪という面では、今年のトップ100人には13人の富豪が入り、総資産額は810億ドルだ。100人のパワフル・ウーマンはソーシャルメディアでも注目で、フォロワーやファンの数は8億1200万人を超える。

 パワフル・ウーマン2014の内側をのぞいてみよう。

■新顔

記者会見するイエレンFRB議長(6月18日、ワシントン)=ロイター
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記者会見するイエレンFRB議長(6月18日、ワシントン)=ロイター
 今年新たにランキングに登場したのは18人。女性として初めて米連邦準備理事会(FRB)の議長に就任したジャネット・イエレン氏は初登場ながら2位に躍り出た。このほかに特筆すべきなのは、米国国連大使のサマンサ・パワー氏、ロシア中央銀行総裁のエリビラ・ナビウリナ氏、ブルームバーグ・フィランソロピーズCEO、パトリシア・ハリス氏、中国の電子商取引最大手、アリババ集団の彭蕾氏、宇宙ベンチャーの米スペースX最高執行責任者(COO)、グウィン・ショットウェル氏だ。

(2/4ページ)2014/7/19 7:00

■殿堂入り

 2004年の第1回にランクインした女性のうち8人が今年も登場した。メリンダ・ゲイツ氏(米慈善家。ビル・ゲイツ氏の妻で、ビル&メリンダ・ゲイツ財団共同会長)、クリスティーヌ・ラガルド氏(国際通貨基金専務理事)、ヒラリー・クリントン氏、インドラ・ヌーイ氏(ペプシコCEO)。さらに、オプラ・ウィンフリー氏(テレビ司会者)、エイミー・パスカル氏(ソニー・ピクチャーズエンタテインメントの共同会長)、英国のエリザベス女王、何晶氏(シンガポール政府系ファンド、テマセク・ホールディングスCEO)だ。

EUサミットに参加するメルケル独首相(7月16日、ブリュッセル)=AP
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EUサミットに参加するメルケル独首相(7月16日、ブリュッセル)=AP
■ナンバー1

 独のメルケル首相は過去のランキング11回のうち10回でランクインし、そのうち9回は第1位に輝いている。最初に第1位についたのは2005年だった。

■女性初

 半数近い人たちが「女性初」という冠で語られる人たちだ。例えば、イエレンFRB議長、米ゼネラル・モーターズのCEOに就任したメアリー・バーラ氏、リベリアのエレン・ジョンソン・サーリーフ大統領(アフリカ初の女性大統領)、ハーバード大学学長のドルー・ファウスト氏、IBMのCEO、バージニア・ロメッティ氏。フォロロンショ・アラキジャ氏はアフリカ出身として初めて一代で富豪の仲間入りをした人物。ナンシー・ペロシ氏は初の女性米下院議長だし、ブレイクリー氏は一代で富を築いた女性として初めて、ビル・ゲイツ夫妻と米著名投資家、ウォーレン・バフェット氏が始めた慈善活動「ギビング・プレッジ」に参加した。

■ヒラリー氏残る

出版記念のイベントで笑みを見せるクリントン氏。国務長官在任時の回想録を6月に出版した(6月27日、アーカンソー州リトルロック)=AP
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出版記念のイベントで笑みを見せるクリントン氏。国務長官在任時の回想録を6月に出版した(6月27日、アーカンソー州リトルロック)=AP
 ヒラリー・クリントン氏の履歴書は、これでもかというほど「初」がついてまわる。米大統領夫人を経て上院議員になった唯一の女性であり、大統領選に立候補した後に国務長官に就任した。現在は一私人で、「ビル・ヒラリー&チェルシー・クリントン財団」の共同設立者だが、世界中でその動向や発言が最も注目される女性の一人であり続けている。世間の予想では、ヒラリー氏は2016年の大統領選で民主党の候補に選出されるとみられており、女性で初めて米大統領に就任するかもしれない。

■IT界の女性

フェイスブックのサンドバーグCOO(左)。夫のデイビッドさんとIT関連のカンファレンスに出席した(9日、アイダホ州サンバレー)=ロイター
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フェイスブックのサンドバーグCOO(左)。夫のデイビッドさんとIT関連のカンファレンスに出席した(9日、アイダホ州サンバレー)=ロイター
 IT(情報技術)業界はランキング内で3番目の勢力となっている。今年のトップ25人のうちIT関連の人物は7人で、シェリル・サンドバーグ氏(フェイスブックCOO)、IBMのロメッティ氏、マリッサ・メイヤー氏(ヤフーCEO)、メグ・ホイットマン氏(ヒューレット・パッカードCEO)らが名を連ねた。IT関係は全体で18人で、スーザン・ウォジスキ氏(ユーチューブの新CEO)、王雪紅氏(台湾のスマートフォン大手、宏達国際電子=HTC董事長で共同創業者)、パドマスリー・ウォリアー氏(シスコ最高技術責任者=CTO)らがランクインした。

(3/4ページ)2014/7/19 7:00

■女性起業家の台頭

 今回特に目立ったのは、自ら起業する創業者やオーナーだ。自分の名前をそのまま使ったブランド名が、高級ファッションの代名詞になっているようなケースも少なくない。例えば、ミューチャ・プラダ氏やトリー・バーチ氏、ダイアン・フォン・ファステンバーグ氏などだ。このほかに、オプラ・ウィンフリー氏、アリアナ・ハフィントン氏(ニュースサイト「ハフィントン・ポスト」創設者)、張欣氏(中国不動産大手のCEO)、キラン・マズムダル・ショウ氏(インド初のバイオテクノロジー企業創業者)などだ。

米国連大使のパワー氏。国連安全保障理事会でシリア危機について発言(5月22日、ニューヨーク)=ロイター
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米国連大使のパワー氏。国連安全保障理事会でシリア危機について発言(5月22日、ニューヨーク)=ロイター
■多様な出身地

 リストに入った女性のうち半数以上(58人)が米国人で、この中には移民であるフォン・ファステンバーグ氏(ベルギー出身)、パワー氏(アイルランド出身)、ウェイリ・ダイ氏(戴偉立、半導体企業マーベル・テクノロジー共同創業者。中国出身)、ウォリアー氏(インド出身)らがいる。次に人数が多いのがアジア太平洋地域で23人が登場した。中南米と中東からは5人、欧州とアフリカからは4人がランクインした。ナビウリナ氏はロシア人として初めてトップ100に入った。

■STEM(理系学位)の面目躍如

 今年のリストをみると、MBA(経営学修士)や法律の学位をもつ顔ぶれと並んで、「STEM」の学位(サイエンス、技術、工学、数学の頭文字をとった言葉)をもつ人たちが多く登場している。医学博士号をもつのは、チリのミチェル・バチェレ大統領や世界保健機関(WHO)のマーガレット・チャン事務局長など5人。意外にもSTEM学位をもつ人としては、メルケル独首相(化学博士)、デュポンCEOのエレン・クルマン氏(機械工学)、アラブ首長国連邦(UAE)のルブナー・アル=カーシミー貿易大臣(コンピューター・サイエンス)、医療関連ソフトの開発会社、エピック・システムズの創業者でCEO、ジュディ・フォークナー氏(数学)などがいる。

■パワーへの階段、一段ずつ

米GMのバーラCEO。大規模なリコール問題の解決に取り組んでいる(6月5日、ミシガン州ワレン)=ロイター
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米GMのバーラCEO。大規模なリコール問題の解決に取り組んでいる(6月5日、ミシガン州ワレン)=ロイター
 忍耐も成功の秘訣のようだ。バーラ氏は1980年、ゼネラル・モーターズ・インスティテュート(ケタリング大学)に入学したところから、GMでのキャリアが始まった。IBMのロメッティ氏の場合、24歳でシステムエンジニアとして入社した。ブラジル国営の石油会社、ペトロブラスCEOのマリア・ダス・グラサス・シウバ・フォステル氏はブラジルの石油ガス分野の巨大企業に30年間、勤め続けている。インドの銀行最大手、インドステイト銀行のトップ、アルンダティ・バタチャリヤ氏は1977年から同行でキャリアを積んだ。

■スポーツウーマン精神

 チーム魂を持っていることや決断の速さ、負けず嫌いという、スポーツウーマン精神はビジネスにも生かされている。ペプシコCEOのインドラ・ヌーイ氏は出身地のインドでクリケットの選手だった。米食品大手モンデリーズCEOのアイリーン・ローゼンフェルド氏はコーネル大学のバスケットボールチームに所属していた。ヒューレット・パッカード(HP)のメグ・ホイットマン氏はプリンストン大学でスカッシュとラクロスの選手だったし、ベス・ブルック・マルシニアック氏(大手会計事務所、アーンスト・アンド・ヤングの公共政策担当の副会長)はパデュー大学で女性では初めてバスケットボールで奨学金を得た。ダイ氏は中国ではセミプロのバスケ選手だった。

(4/4ページ)2014/7/19 7:00

■ロールモデルになる芸能人

スペイン元代表のプジョル氏とともにピッチに現れたスーパーモデルのブンチェンさん。ブラジルW杯決勝戦に臨み優勝杯を披露した(13日、リオデジャネイロ)=ロイター
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スペイン元代表のプジョル氏とともにピッチに現れたスーパーモデルのブンチェンさん。ブラジルW杯決勝戦に臨み優勝杯を披露した(13日、リオデジャネイロ)=ロイター
 有名人であるだけでなく、通常の仕事以外の面で特に注目に値する女性たちがいる。オプラ・ウィンフリー氏はメディア関連のハーポ・プロダクションズに加え、南アフリカに女子校(Oprah Winfrey Leadership Academy for Girls)を設立した。活躍の場を国連に広げているのが、女優のアンジェリーナ・ジョリー氏と歌手のシャキーラ氏。今回初登場の姚晨氏(ヤオ・チェン、中国の女優)はソーシャルメディアでの人気が高く、最近、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の中国での親善大使に任命された。ショービジネスに身を置きながら起業家としても大成功しているのは、ビヨンセ氏(歌手)、ソフィア・ベルガラ氏(女優)、ジゼル・ブンチェン氏(モデル)だ。

■食料、教育……救いの手を差し伸べる女性たち

 企業や国家のトップ以外で今回のリストに登場する女性たちは、主要なNPOや非政府組織(NGO)の代表を務めており、巨額の予算を動かして多大な影響力をもっている。メリンダ・ゲイツ氏やローリーン・パウエル・ジョブズ氏(故スティーブ・ジョブズ氏の妻)、ブルームバーグのハリス氏、国連世界食糧計画(WFP)事務局長のアーサリン・カズン氏、ハーバード大のファウスト氏らだ。フェイスブックのサンドバーグ氏は今年、ギビング・プレッジに参加した。

■昇進、転職でステップアップ

 昨年、メアリー・バーラ氏はGMの上級副社長だったが、現在はCEOに就任している。今回は7位に入り、米国の企業に所属する女性としては最もパワフルな女性と位置づけられた。グーグルのウォジスキ氏も同様に昨年、グーグルの上級副社長からユーチューブのCEOに昇進した。アンジェラ・アーレンツ氏は会社だけでなく担当部門も一新。ファッションブランド、バーバリーのCEOからアップルの小売り・オンラインストア担当の上級副社長に転身した。

■番外だが特筆すべき女性たち

 スペインの富豪でファンションブランド、ザラの共同創業者、ロザリア・メラ氏は2013年8月に死去した。職を離れた人たちには、ジル・アブラムソン氏(ニューヨーク・タイムズ)、ソニア・ガンジー氏(インドの政治家)、ジュリア・ギラード氏(元豪首相)、ジャネット・ナポリターノ氏(元米国家安全保障長官)、キャサリン・シベリウス氏(元米厚生長官)、アン・スウィーニー氏(米ディズニーABCテレビジョングループ社長、2015年1月末で退任予定)、インラック・シナワトラ氏(タイ前首相)などがいる。

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習近平の人物像

習近平の人物像が良く判るメルマガの配信を受けた。以下は渡部亮二郎氏のメルマガ 頂門の一針3370号  2014・7・20(日)
から転載した。


━━━━━━━━━━━━━
13億人民が習近平を見放す日
━━━━━━━━━━━━━


       平井 修一

「習近平とは何者か?」とずーっといぶかっている。習の言う「中国の
夢」は、大清帝国の最盛期のような超大国になるということのようだが、
習のやることなすことはことごとく裏目に出て、ひたすら中共を弱体化し
ているように見える。(これは小生にとっても世界にとってもいいことな
のだが)

マキャベリはフィレンツェ共和国の今後について、メディチ家の下問にこ
う答えた。

<歴史に残るほどの国家ならば必ず、どれほど立派な為政者に恵まれよう
とも、二つのことに基盤を置いたうえで種々の政策を実施した。すなわち
「正義」と「力」である。

「正義」は国内に敵を作らないために必要であり、「力」は国外の敵から
守るために必要である>

これは指導者として当然の国家戦略だが、小生の目に習近平は唯我独尊、
傲岸不遜の誇大妄想狂のように見え、毛沢東のように大人を演じているも
のの、冷静かつ周到な国家戦略が少しも見えてこない。

毛沢東は「パンツ一枚になっても核武装するのだ」と言って国連常任理事
国になった。外交にあたっては「金が欲しいのなら金を、名誉が欲しいの
なら名誉を、女が欲しいのなら女を与えよ」とさえ指示した。

そういう戦略、方針が習からはどうもうかがえない。ひたすらモグラ叩き
のようにバタバタしているように見える。一体全体、習近平とは何者なの
だろう。いろいろな方の論考をチェックしてみた。(かなり長いので、お
時間がないのであれば一気に最後の【結論】にお進みください)

徐静波・中国経済新聞編集長の講演「習近平体制と日中関係の行方」か
ら。(これは習の原点、とても興味深い)

             ・・・

▽極貧の村で懸命に働いた習近平

私は習近平と2回握手し、直接、話もしました。いま「習近平時代」とい
う本を書いています。習近平はどんな人物かについて、3年かけて、本人
や昔の部下などを取材した。習近平が下放された延安市の梁家河村にも
行った。

この村は習近平の人生の原点。習近平の父は50年代に、周恩来の下でずっ
と国務院秘書長を務めた。秘書長とは官房長官。文革で一度倒れたが、文
革終了後に副総理、広東省書記、全人代副委員長まで務めた。

だから日本のメディアは「習近平は太子党」と言っており、それは事実だ
が、習近平の人生はかなり苦労に満ちたものだった。中学を卒業する前に
文革が始まり、父母は収容所に送られ、習には居場所がなかった。当時、
若者を農村にやる下放運動があった。

15歳8カ月の時だったが、中央党校で学習させられていた母親に相談した
ら、父の故郷の延安に行けば、みなが世話をしてくれると言われた。習近
平は北京のほかの若者と列車に乗り、バスに乗り、半日歩いて梁家河村に
着いた。

当時、村の人口は308人。いまは170人しかいない。村名には「河」と付い
ているが、実際には河はない。習近平と他の9人でこの村に入り、人生を
スタートさせた。

豚肉を食べられるのは年1回しかないという超貧しい村。春節に村で2頭の
豚を殺してそれを食べるだけ。いつも食べているのはトウモロコシ、サツ
マイモ。北京でまあまあの暮らしをしてきた習近平にとっては、耐えられ
ないような生活で、3カ月後に習は村から逃げ出してしまった。

最初に延安から車で3時間の父の故郷、富平県に行き親戚を頼った。しか
し親戚は、おまえは「走資派」だから受け入れられないと言った。習はし
かたなく北京に戻った。そこで半年くらい、当時は何もなかった中関村で
下水道工事の仕事をした。

母から、「逃げてはいけない、お前には梁家河村しかいるところがない」
と言われ、習近平は戻った。その時、人生が変わった。

そこで一生懸命に働いた。夜12時まで本を読む。よその話を村人に熱心に
してやった。灯油のランプの下で集まった村人が習近平の話を聞く。

その時の村長が呂さん。いまは70歳そこそこのおじいさん。当時は習の兄
貴分のような若者で、「習はいい人だから、どうしても外に行かせたい」
と考え、習に共産党員になって下さいと声を掛けた。習は3回入党の申請
書を書いたが、父親の関係でなかなか入党できない。

4回目には、村長の呂さんが裏で一生懸命、上に諮り、県の党組織が習の
父親が働いている工場まで出向いて、いま父親が政治的にどういう状況か
を確認して、それならいいということで、ようやく入党が認められた。

紹介者は呂さん。彼は党支部長のポストを習に譲り、自分は村長だけでい
いと言った。それで習は村の最高指導者の党支部長になった。

習が最初にやったことはガス発電。新聞に、人や動物のフンに植物の葉を
入れればガスが出てくると書いてあった。そこで、バスに乗って四川省ま
で勉強に行き、陝西省で最初のガス発電施設、燃料施設をつくった。

北京から一緒に来た9人はいろいろ理由をつけて戻ったが、習は村に最後
まで残った。村長は習に村にずっと残って欲しいと考え彼女を紹介した。
19歳の良く働く若い娘。洗濯、料理など身の回りの世話をさせようとした
が、いつも習が逃げまわり、どうしても恋にはならなかった。

▽「苦難の経験あるので怖くない」

20才の時にトウ小平が復活し、大学教育を復活させた。工農兵の優秀な者
を大学に入学させる。その時、チャンスが来た。延川県に北京大と清華大
の2人分の枠が来た。北京大の枠は県書記の娘が取り、清華大の枠は習に
なった。

大学の入学は9月。7月末に習が村を離れた時、村民は何もないので、たく
さんの卵をお土産にあげた。20人の若者が半日、習と一緒に歩いて県の所
在地まで行った。

夜、いっしょに羊肉のしゃぶしゃぶを食べた。習がトイレに行っている間
に、湯はまだ煮たってないのに、肉はすっかりなくなってしまった。それ
ほど貧しかった。習は中学生から20歳まで、中国の一番貧しい農村で懸命
に自分の青春時代を過ごした。

習が大学を卒業した時、もうひとつのチャンスが来た。父の友人の耿国
防相のところで秘書官として務めることになった。3年半、耿の家に住 み
込み秘書官をやった。毎朝、庭を掃除する。銃を分解して、きれいに掃
除して組み立てる。耿が初めて軍指導者として訪米した時、その段取り
は習がやった。

3年半たって28歳の時、習は仕事を辞めたい、田舎に行きたいと言った。
中南海の仕事を辞めて田舎に行くというのは、かなり勇気のいること。結
局、河北省正定県に行き、県副書記になった。そこで彼の人生がまた変
わった。

北京を離れてから、24年間かけて地方を回り、24年後に北京に戻った時に
は党中央政治局常務委員になっていた。

なぜ、彼の詳しい人生を語ったかというと、昨年(2012)11月、第18回党
大会終了後の記者会見で、私は習のスピーチを聞いた。習はその中で「わ
れわれはいろいろ苦難を味わった。これからどんな困難があっても怖くな
い」と言った。ものすごく自信がある。つまり彼はかなり頑固な人間。す
べて自分で決める。一度決めたことは絶対にやるという性格だ。(以上)

               ・・・

なるほど、大層苦労した根性マンなのだ。自信、頑固、決心を貫くタイプ
だ。

野口東秀・元産経中国特派員(現・日本維新の会国会議員団本部政調会)
の論考。

               ・・・

1.中華民族の偉大な復興

党総書記に就任した習が最初に視察したのは(2012年)12月7-11日の広東
省。トウ小平の銅像に献花する一方、駆逐艦、戦車に乗るパフォーマンス
で「強大な軍隊建設」を号令した。(トウの)南巡講和から20年。第二期
改革開放のPRか。

当地では「中華民族の偉大な復興」をこれまでのように強調し、「戦争の
準備を整え、戦いに勝つことが強大な軍隊を建設するための要で、軍隊の
建設を進めよう」と指摘。

同月13日の南京事件記念日には国家海洋局の航空機が尖閣の上空を侵犯、
海からも領海を侵犯した。同局は「立体的に航行した」と発表。(南
京)75周年を選んで侵犯しており、習指導部と軍首脳の承認で行われたと
みるのが普通だ。

その3か前には海軍艦艇が西太平洋の訓練を終わり基地帰還する際に尖閣
周辺を通過。今後、軍艦艇の尖閣航行を常態化する意図があるとみられる。

問題は、安定した政権になるかどうか。胡錦濤時代は基本は対日外交で
「協調」だった。愛国主義に引きずられる指導者はしっかりとした基盤を
もっていない。その意味で現段階では安定した基盤を習近平がもっている
わけではない。

さらに習政権はほかの派閥に囲まれている、基盤は弱いと言わざるを得な
い。国内的にも民主活動、少数民族対策に強硬政策をとるのは基盤が強く
ない証左だ。

2.長老配慮

18回党大会の開幕日には江沢民はじめ李鵬や万里、曽慶紅など12人の長老
が名を連ね、頂点に江沢民がいた。軍人事は、習近平は軍の基盤の上に立
ち、対日強硬路線をとるとみられているが、軍からは江沢民の影響力がか
なり排除されたようだ。

習政権の成り立ち自体、長老の意見を聞いた結果だ。習の父親、仲勲は胡
耀邦との緊密な関係、共青団幹部との関係、改革派との関係が良かった。
しかし(習近平は)軍に依拠した人物であり、長老に配慮した政治を行う
ものとみられる。(以上)

・・・

習は軍隊を掌握しているが、江沢民派とは反発しており、安定した基盤を
もっているとは言えないという論。確かにそのようだ。

習が主席になる前の週刊現代2012/4/17「弱すぎる男 習近平の悲劇」から。

              ・・・

*失脚した幼なじみ

3月、中国では数年に一度の大きな政変があった。共産党の権力中枢を担
う3つの派閥、太子党・共青団・上海閥のうち、太子党のトップランナー
の一人と目されていた薄熙来が、事実上失脚したのだ。習近平もまた、太
子党に属する。薄熙来の失脚により、習近平の権力基盤はどうなるのか---。

太子党とは、かつての共産党高級幹部の子弟を指す。親の七光りの恩恵を
受けて、党内で異例の出世を遂げたり、若いうちから多額の金銭的利得を
得るなどの特権を持つ人々のことだ。

彼らのもう一つの特徴は、幼少期から幹部専用住宅に住むため、互いに顔
見知りで、広範な人的ネットワークを形成していることである。実際、習
近平と薄熙来も幼い頃から面識があった。

習近平と薄熙来は、薄の方が4歳年上だが、幼稚園の頃から一緒に育っ
た。薄熙来は喧嘩ばかりしている腕白なガキ大将で、一方の習近平は大人
しくマジメな子供だった。

薄の弟が習近平をいじめていたという噂もあった。いわば二人は不良グ
ループとマジメな子グループの代表で、習は薄に頭が上がらないという間
柄だった。そのせいか、今でも習近平は薄熙来をどこか怖がっているふし
がある。仲間でありながら同時にライバルでもある、そんな微妙な関係だ
というのだ。

ではいったい、薄熙来を失脚させたのは誰なのか。

薄は現総書記の胡錦濤、首相の温家宝らにとって邪魔な存在だった。とい
うのも、彼は書記を務める重慶市で次々に保守反動(毛沢東主義)的な政
策を実行に移し、貧しい民衆の不満を煽りながら、現指導部と真っ向から
食い違う政治方針を打ち出した。

薄を潰す決断を下したのが胡錦濤であることは確実だ。胡はずっと「薄打
倒」のタイミングを計っていた形跡もある。

習近平にとっては、胡錦濤がライバルの薄熙来を倒してくれるなら悪い話
ではない。それで、今回の政変では中立を決め込んだ。

ただ、習近平は複雑な心境でなりゆきを見守っているはずだ。薄熙来の失
脚により、太子党全体には少なからずダメージがある。胡錦濤=共青団の
力を見せつけられ、習の政権は発足後しばらく共青団に配慮しながらの運
営を迫られる。習の権力は、スタート前にして既に揺らいでいると言って
いい。

『習近平 共産中国最弱の帝王』(文藝春秋)が話題となっている。中国
残留孤児2世というルーツを持つ著者の矢板明夫氏は、産経新聞中国総局
特派員として北京に暮らす。

習近平の素顔、生い立ち、政治信条は中国国民にさえほとんど知られてい
ないが、氏は同書でその深層に迫っている。

<現在の中国は、改革開放政策で経済的豊かさが増す一方、共産党一党独
裁が続くという大きな矛盾を抱えている。そこで生まれているのが、共産
党幹部と財界の癒着だ。

こうした状況下で薄熙来は、貧しい人たちの共産党・政府に対する不平不
満を煽って、地元の金持ちの共産党幹部を捕まえて処刑し、自らはヒー
ローを演じるという政策を実行していた。重慶に住む貧しい層は、これに
拍手喝采を送った。

2010年に取材で重慶を訪れたとき、日本円で200円ほどの安価なマッサー
ジ店に入った。すると、マッサージ師が「薄熙来は素晴らしい」と褒めち
ぎり始めた。「偉そうな奴ら、悪いことをして金持ちになった官僚は、み
んな彼に捕まった。中国をよくできるのは薄熙来だけだ」と。

薄は捕まえた人を簡単に死刑にしたので、「でも、なにも殺さなくてもい
いんじゃないか」と反論したところ、「お前は官僚の味方なのか。帰
れ!」と怒鳴られ、マッサージの途中で追い出されてしまった。それほど
一般民衆の間には官僚、特権階級への怒りが溜まっていた。しかし、その
薄熙来は排除されてしまった。

習近平が胡錦濤ら長老に選ばれたのは、彼が父祖を否定しない、いわゆる
“赤い子孫”であり、安心できる人物だという理由が大きい。李登輝やゴル
バチョフのような改革派では、せっかく作った国が民主化で潰れてしま
う。薄煕来のように反発をせず、思想的背景もない習近平には、その危険
が少ない>(以上)

               ・・・

【結論】

習と薄熙来が幼馴染とは知らなかった。習の「民衆の間に官僚、特権階級
への怒りが溜まっており、金持ちの共産党幹部を捕まえて処刑し、自らは
ヒーローを演じ、民衆の拍手喝采を得る」という大衆迎合ポピュリズム戦
術のルーツは薄熙来だったのだ。

苦労人、頑固一徹、根性マンの習近平の戦術は、要するに「内にあっては
汚職官僚」、「外にあっては日本」という敵(抵抗勢力)を作り、敵を叩
くことを「正義と力」だとし、国民の支持を集め、中共を自分の思うよう
な「大国」にしたいということだろう。

そもそも「大国」というのは政治、軍事、経済、文化で世界に大きな影響
を及ぼす国ということだが、中共が注目されているのは異常な軍拡だけ
で、経済は確かに世界2位だが国民の生活は「飢えてはいないが楽ではな
い」レベルだし、過去においては中華文明はあったが、中共文化なんて聞
いたことがない。

政治では自由、民主、人権、法治なんて弾圧で後退するばかりで、まった
く最低のレベルだ。

習近平はどういう国を目指すのか、具体的なビジョン、青写真をまったく
示せないでいる。バカの一つ覚えのような汚職叩きと日本叩きに、いくら
無知蒙昧な国民でもいつまでも拍手喝采はしない。

景気は当分悪化するばかりだろうから、世界に続いて国民が習近平と中共
中央を見離す日は近いと言わざるを得ない。分裂は免れないだろう。
(2014/7/17)

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2014.07.18

鏡に映る自身をたたく菅元首相

下記所論は我が意を得たりの思いで読んだ。

注 本来は新聞記事にリンクを張るべきところだが、時日の経過により原文が削除される惧れがあるので渡部亮二郎氏から配信されたメルマガからコピペした。


━━━━━━━━━━━━━━ 
鏡に映る自身をたたく菅元首相
━━━━━━━━━━━━━━


       阿比留 瑠比

その菅を使おうとする中国

溺れる中国はわらをもつかむ-。安倍晋三政権を攻めあぐねる中国の共産
党機関紙、人民日報系の国際情報紙「環球時報」は14日付記事で、集団的
自衛権の行使容認を批判するため、とうとう菅直人元首相のブログ記事ま
で持ち出した。

環球時報の記事は、菅氏が13日付のブログで展開した、こんな安倍首相批
判を引用している。

「自分の思いの実現がすべてに優先し、本気で国や国民のことを考えてい
ない。唯我独尊の危険極まりない政治家である」

これまで中国が好んで、その言葉を引く日本の政治家といえば鳩山由紀夫
元首相だったが、どうやら菅氏も「使える」と判断したらしい。だが、中
国は日本国民が両氏に向ける視線の厳しさには鈍感なようである。

この菅氏のセリフにしても、普通の日本人が読めばどう思うか。野党だけ
でなく身内の民主党議員からも辞任を求められ、東日本大震災の復旧・復
興も進まない中でひたすら延命に努めた、菅氏の首相時代の言動を想起す
るのではないか。

人間は、自分を基準にして他者を判断してしまいがちだ。菅氏が批判する
安倍首相のあり方は、鏡に写った菅氏自身の姿だろう。

菅氏の最近のブログは、安倍首相を感情的に攻撃することに歯止めが利か
なくなっている。例えば7月に入ってからは次の通りだ。

「自己陶酔している安倍さんには、どんな理屈も通じない」(2日付)

「安倍総理が集団的自衛権を強行し、原発を推進するのに共通するのは
『自己顕示欲』と『権力欲』だ」(3日付)

だが、福島第一原発事故の翌早朝、周囲の制止を振り切って英雄気取りで
現場に乗り込み、作業を遅滞させたのは誰だったか。学生時代は目立ちた
がりのアジテーターとして鳴らし、国会議員になると民主主義を「期限を
区切った独裁」と言い切って三権分立を否定し、首相時代には野党幹部に
「権力亡者」と呼ばれたのは菅氏の方ではないか。

菅氏は3日付のブログでは「(安倍首相は)自分の思い通りにならないマ
スコミに対しては、取材拒否など居丈高に権力を行使する」とも主張して
いる。

とはいえ、菅氏は首相時代の記者会見で、産経新聞の質問はめったに指名
させず、たまの機会の質問には、その場で「すり替え」「フェアじゃな
い」などと居丈高に面罵した。首相退任直後も産経のインタビュー申し込
みを拒否していた。

菅氏はまた、安倍政権の集団的自衛権への取り組みを「暴走」と指摘する
が、菅政権をはじめ今までの内閣があまりに安全保障問題に無関心だった
のが本当だろう。マキャベリは、国のトップの心得をこう説く。

「君主は、戦いと軍事上の制度や訓練のこと以外に、いかなる目的も、い
かなる関心事ももってはいけないし、またほかの職務に励んでもいけな
い。つまり、このことが、為政者が本来たずさわる唯一の職責である」

中世ヨーロッパの政治思想を現代に単純に当てはめることはできないが、
国民の生命・財産を守るべきトップが最も心を砕くべきは安全保障問題で
あることは今も変わらない。

もっとも菅氏は首相就任後もしばらく、自身が自衛隊の最高指揮官である
ことも、防衛相が自衛官ではないことにも気付かなかった人物だ。言うも
詮なきことか。(政治部編集委員)
産経ニュース【阿比留瑠比の極言御免】2014.7.17

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2014.07.15

民族舞踊のビデオクリップ付き紀行記

民族舞踊のビデオクリップ

http://hayashima.cocolog-nifty.com/essay/cat554841/index.html

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早島潮の紀行記の全て

今までに訪問した世界の国々の紀行記を纏めた。
紀行記

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自遊人の日々

日常生活を楽しむ中で折節に感じたこと、意見、感想などを分野を限定せずに綴り或いは写真で紹介する。

箴言集

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ツイッター 語れ我が友へ

ツイッター  語れ我が友へ  https://twitter.com/katarewagatomo/status/451252236144766976

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早島 潮の写真集

https://picasaweb.google.com/114521695505861518756

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旅絵で綴る俳句集

アメリカ大陸を訪ねた発句 http://homepage3.nifty.com/Hayashima/america.PDF

アジア大陸を訪ねた発句   http://homepage3.nifty.com/Hayashima/asia.PDF

ヨーロッパ大陸を訪ねた発句   http://homepage3.nifty.com/Hayashima/europe.PDF

オセアニア州を訪ねた発句    http://homepage3.nifty.com/Hayashima/oseania.PDF

アフリカ大陸を訪ねた発句    http://homepage3.nifty.com/Hayashima/africa.PDF

日本国内の史跡を訪ねた発句     工事中 

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価値判断の基準についての一考察                

      
 我々が日常生活を営んでいくうえで、我々の行動を支配し、制御しているものは一体、何であろうか。ある秋の夜半に寝つけないままに考えてみた。そのことを多少整理して記録しておきたい。

 我々の行動を支配しているものは、欲望であり、欲望を制御しているのは理性である。昔から言いふるされた諺に「衣食足って礼節を知る」というのがある。人間の基本的な欲望を食欲と衣装欲にあるとみて、この欲望が充足されればおのずから礼節は行われると考える。逆に礼節をいくら守らせようと教えても、空腹の状態では行われないということである。

 欲望には生物的なもの(食欲、性欲、安全にたいする欲求)から社会的なもの(名誉欲や人に認めてもらいたい欲求)を経て自己実現欲求にいたる重層構造をもっているという説を唱えたのはアメリカの哲学者マクレガーであるが、卓見といえよう。

 欲望が重層構造をもっている点に着眼した所は説得力を持っているが、それでは我々の日常生活において、我々が具体的な行動をとるときに個人にとっては個体の生命維持のために必要な行動であっても社会的には許されない行動もある。社会的に許さ  れる行動であるか否かを制御しているのは理性であるが、その理性が判断の基準にしているものは何であろうか。

 そこで私は、損得、善悪、快不快、真偽、好嫌、美醜、大小、多少、正邪苦楽、悲喜、合理非合理といった言葉の中に隠されている判断基準というものを考察してみたいと思った。

 ある一つの行為を考えてみたとき彼をしてその行為をとらしめた判断基準と言うものがあるはずである。その行為の選択は損か得か、善か悪か、快か不快か、真か偽か、好ましいか嫌いなことか、美か醜か、大か小か、多いか少ないか、正か邪か、苦か楽か、悲しいことか嬉しいことか合理的か非合理的かといったことを総合的に勘案して決められる筈である。どの基準にウエイトを置いて選択するかによって現れる行為の結果がその行為を選択した人のパーソナリティーを表していると見てよいであろう。

 これらの基準は定量的に示すことの出来るものもあれば定性的にしか表現できないものもある。例えば損得の基準は定量的に把握することができる。金額で表示することも出来るしある単位による数量で表示することが可能である。ところが善悪の基準は数量的な把握が難しい。我々が生活していく上でこれらの基準は我々にどのような関わり方をするのであろうか。これらの基準がどのような場面でどのような形で使われているかを具体的に考察してみれば、これらの基準を体系的に整理することができ、我々の日常生活への関わり方を明らかにすることが出来るかもしれない。

 最初に損得について考えてみよう。

 損得の基準を唯一無二の絶対的な基準としている世界は営利企業の経営の場面である。
 通常会社組織で運営されるが、会社設立の目的自体が利益の追求にあることは自明である。ここでは、損得の量が金額で明確に表示される。損をする企業は存続する価値がない。企業は利益を上げ、得をするように行動しなければならない。得をすること即ち儲けることに徹すると時として手段を選ばない反社会的な行為が現れることがある。そこで第二第三の判断基準が援用されることになる。つまり善悪、正邪、美醜等の基準によることになる。損得の基準はよく考えてみると人間のもっとも基本的な欲望を容認することを前提として成り立っている基準であることがわかる。企業活動によって儲ければ人間の持っている過半の欲望はこれを充足することが出来る。つまり、貨幣経済の世の中では、儲けは金銭で分配され分配された金銭で欲望の対象物を購入することが出来るからである。

 次に強弱、大小、多少、遅速という基準を価値判断の基準にしている世界が勝負とスポーツの世界である。

 勝負の世界という表現自体に基準が明示されている。勝つことが唯一絶対の価値でありそれ以外の価値は認められない。勝負を判定する基準として強弱、大小、多少、遅速という定量になじむ基準が用意されている。囲碁、麻雀であれば目数や点数の多少で勝負が決まる。将棋は勝ち負けの形が決まっているので定量的な判断は必要でないが勝負けを客観的に認定することが出来る。スポーツの世界では強弱で判断されるものは概ね格闘技である。柔道剣道、拳闘、レスリングがこれに該当しよう。獲得した獲物や得点の大小、多少で勝負を判定するものは球技に多く、野球、バレー、サッカー、テニスゴルフ等がある。遅速を競うものに徒競争、水泳、自転車競技、スキー、スケート等がある。

 最も判定基準が難しく、客観的な基準の設け難い世界が「真・善・美」の世界である。 先ず真偽については俗にいう嘘か本当かということであるから定量的な判断ではなく黒か白かというふうな定性的な判断になる場合が多い。本物か贋物か真実か虚偽かという判断を迫られるケ-スが多く、判断する主体に豊富な知識と経験がないと判断しにくい場合が多い。天動説と地動説との争いの如く、その社会の科学技術の発達段階の程度によって左右されることもある。

 美醜についても客観的な基準が設け難く且つ定量的な基準が設定困難な世界であり、優れて主観の支配する世界である。美醜を判断する場合に、幾つかの要素に分けて考えることは可能であるが、分析的に判断したとしても定量的ではあり得ず最終的には総合的な主観による判断にまたねばならない。要素としては、形状、色彩、色調、明暗、量感等があり、判断する主体の好みに依存せざるを得ないから多様な価値が併存する世界である。

 正邪、善悪の判断は実定法の範囲内での判断と道徳律の範囲まで踏み込んでする判断との二種類に分けて考える事が出来る。実定法に抵触する行為は通常、邪悪として排除される。そのことに対して違和感を持つ人は少ない。通常的な平均人を前提として法は作られているからである。中には法秩序自体に反対の立場をとっている反体制派の人達もいるのでその人達にとっては実定法が邪悪なりとして排除したものでも、正なりと考える場合もある。逆に実定法が正なり、善なりと判断したことであっても道徳律に照らせば邪悪にうつる場合もある。法と道徳とは概ね大筋においては一致しているが、ときに法と道徳律とが背反することもある。法律は社会現象を後から秩序付けていくという性質を持っているので、今日のように変化の激しい時代にあっては法の価値観と道徳の価値観とが乖離することが多くなってきているともいえる。

 このように考察してくると、日常の社会生活においての判断基準は平均人であれば、
第一に損得の基準を援用し、
第二に真偽の基準で検証し、
第三に正邪、善悪の基準で確かめ、
第四に美醜の基準で最終判断をしているというとになるのであろう。

 この「損得」「真偽」「正邪、善悪」「美醜」という四つの基準にどの程度のウエイトを置いて判断するかは人により異なるところであり、ウエイトの置き方の相違が価値観、人生観の相違となって現れてくるのであろう。結局、得・真・善・美をバランスよく調和させながら、過不足なく援用していくことが大切であるということになるのであろうか。
 そして強弱、大小、多少、遅速という言葉は定量可能な基準として使われ、損得や勝負を判定する補助的な基準であると言えよう。

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夢のコミュニケーション               

       
 ニフティーサーブに加入して1カ月が過ぎた。還暦過ぎてのパソコンビギナーがフォーラムの面白さに取りつかれて、今キーを叩いている。様々な分野のフォーラムが設けられているので、自分が必要だと考えたり、面白そうだと感じたフォーラムの会議室を覗いてみることから、楽しい作業が始まると言えよう。やっとフォーラムの電子会議室で発言できるようになり、せっせと発言しているところだ。パディオという面白い仕掛けが用意されているようだが、楽しみは将来に預けておいて暫くはフォーラムだけで楽しもうと思っている。

 ところで、コミュニケーションというものは将来どんなかたちになるのだろうか。正月も近いことだし、初夢でも見るつもりで、将来の姿を展望してみたいと思って、コミュニケーションの歴史を以下のように考察し、将来の夢を描いてみた。

1.人間の基本的機能拡張欲求と文明の利器

 我々はさまざまな文明の利器に取り囲まれて快適な生活を享受している。この文明の利器の出現過程、発展過程を考察してみると、人間の持つ基本的な機能・・・歩く、走る、跳ぶ、泳ぐ、潜る、見る、聴く、嗅ぐ、話す、食べる等々・・・を拡張したいという欲求に基づいていることが判る。即ち、1~2の例を挙げれば、「もっと遠くへ、もっと速く行ってみたい」或いは「海や河の向こう側へ行って見たい」とか「鳥のように空中を飛んで回りたい」という欲求に基づいて出現したのが、汽車、電車、自動車、汽船、飛行機等交通機関に属する文明の利器である。

 また「遠くのものを見たい」「遠くの人と話してみたい」という欲求に基づいて出現したのが、望遠鏡、モールス信号、電話、ラジオ、テレビ、ファクシミリ、パソコン通信、インターネット等の主としてコミュニケーション手段に属する文明の利器である。
 更に「もっと速く、正確に計算したい、書きたい」という欲求に基づくものが算盤、計算尺、手動計算機、電動計算機、コンピーューター等の文明の利器である。

2.人間の五覚拡張欲求とコミュニケーション

 人間には、嗅覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五つの感覚機能が備わっている。この五覚機能をも拡張したいという欲求を人間は持っている。この五覚機能拡張欲求に応えて出現し発展してきたのが、主としてコミュニケーションにおけるハードウエアとソフトウエアの領域であろうと私は考える。 コミュニケーションと言った場合、「一定の意味内容を言語その他視覚、聴覚に訴える各種の記号を媒介として伝達すること(広辞林)」と定義されている。現在出現している限りにおいては、まだ、コミュニケーションのハードウエアもソフトウエアも、人間の五覚機能拡張欲求に対して、視覚、聴覚の二機能にしか応えていない。即ち、新聞、ラジオ、テレビ、電話、ファクシミリ等の恩恵を日々享受してはいるが、寡聞にして芳香の伝わるテレビ電話等にはまだお目にかかっていない。

3.文化の伝達とコミュニケーション

 文明は前述の通り、人間の基本機能拡張欲求(五覚機能拡張欲求)を契機として出現し、発展する物質的色彩の強いものである。これに対し、文化は文明の発達の成果を取り入れて、人間の精神活動充実欲求を契機として形成された精神的色彩の強いものである。
 現在のコミュニケーションは、五覚機能のうち、視覚、聴覚の二覚にしか訴える力を持たないが、それでも速やかな文化の伝播、伝達という限りない恩恵を人類にもたらしている。

 我々は居ながらにして、チャンネルを廻しさえすれば(我々の欲する番組が用意されているという前提はあるが)世界各国の文化、風俗、習慣に画面を通して触れることができるのである。パリの最新の服飾の流行が旬日を経ずして銀座のみならず日本全国の盛り場の流行となることもあり得るのである。

4.21世紀のコミュニケーションへの期待               

 視覚、嗅覚に訴えるコミュニケーションは20世紀のものであるが、21世紀のコミュニケーションは残された三覚、即ち嗅覚、味覚、触覚をも動員して五覚備わったコミュニケーションになるであろうというのが、私の期待であり、夢である。
 素人考えに過ぎないが嗅覚に訴えるコミュニケーションは近い将来実現するのではなかろうか。

 味覚、触覚に訴えるコミュニケーションは現在研究されているのかどうか知る由もないが、「打ち出の小槌」的なテレビ(テレビとは言わないで別の名前がついているだろうが)が出現して、宮廷晩餐会の味覚を国賓諸賢とともに味わうことができるようになるであろうし、パリで催されるファッションショーに出場したトップモデルの着ているミンクのコートの手触りを、団欒の居間で楽しむことができるであろう。

 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚に訴えるコミュニケーションが実現した21世紀には立体感、臨場感も伝えることが出来るようになるであろう。例えば、我々はナイヤガラの滝をテレビの画面に色彩鮮やかに轟音とともに写し出されても、画面に触れて水の冷たさを感じることが出来ないし、立体感もないので臨場感が伝わらない。然し21世紀のコミュニケーションにおいては、画面に映し出された落ちる水に手を触れれば、水の圧力、水温を感じ、滝壺へは危なくて近寄れないという恐怖心を呼び起こすまでの臨場感溢れるものになっているであろう。

5.コミュニケーションの倫理                     

 コミュニケーションは言うまでもなく、伝える側と伝えられる側(交互に立場が入れ代わる場合も含めて)とから成り立っている。

 五覚に訴えるコミュニケーションが実現し、立体感と臨場感ををも伝えることができるようになるであろう21世紀の社会においては、学校教育のありかた、職場勤務のあり方も現在のものとは相当変わったものになっているであろう。

 学校教育においても職場においても現在のように、毎日一定の場所に、一定の時間集まって授業をし、仕事をするという形態が崩れて、人々は自宅や旅行先でコミュニケーション機器の端末機器を操作して授業を受け、課業をこなすという形態に変わっていることであろう。日常生活でもコンピューターショッピング、コンピューター決済があたりまえになって通貨は姿を消していることだろう。

 このような社会においては、伝える側の倫理と価値観が厳しく問われなければならない。個人と個人とのコミュニケーションはまだしも、人と社会とのコミュニケーション(所謂マスコミ)においては、伝える側に人間の尊厳に基づいた価値観、倫理観が厳しく要求される。また伝える側にも価値のないコミュニケーションは伝えることを許さないという毅然としか姿勢が必要である。

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オアシスと出会った頃1(昭和62年10月10日の日記)      

  
 昨夜から今日の祭日には、念願のワードプロセッサー「オアシスフロムエイト」を買いに行こうと予定していた。夜、寝ていても早く夜が明けて、明日になればよいがとまるで子供が明日の遠足を楽しみにしているような気分であった。夜中に何度か用足しに起きたが、その度にまだ空が暗いのでがっかりした。寝ていても新しいワープロを買いに行っている夢であったり、買って来たワープロを一生懸命操作している夢であったりする。

 三度目くらいに目が覚めたら、漸く東の空も明るくなって待望の朝が来ていた。時計を見ると五時半である。秋葉原の電気製品街が店を開けるのは、多分十時頃からであろうからそれまでの時間は先週の日曜日に切り落とした庭木の枝を焼却炉で燃やすことにした。 庭木を燃やすにしても、朝早い時間で隣り近所がまだ起き出さないうちでないと、煙や灰が舞い上がるので面倒なことになる。近所の洗濯物を灰で汚しでもしたら気まずい思いをすることになる。最初に木の葉を焼却炉の下の方へ入れて、次に木の枝を細かく折り、その上へ乗せる。火付きをよくするために、灯油をこの上からふりかける。こうして置いてマッチで点火すると、激しい勢いで炎が焼却炉の中で活動を開始する。煙突からは白い煙がもうもうと舞い上がる。一度火床が出来ると後はしめたもので、少々湿っている木でも葉っぱでもくべると燃えてくれる。すっかり片付くまで二時間半程費やしていた。

 今日は体育の日で、桂子ちゃんの幼稚園の運動会があるので家族の者は見学に出掛ける予定であると言う。今更、幼児の運動会を見に行く気もないので、家内に車で鶴見駅まで送って貰い秋葉原へ向かう。朝早いので、電気製品街も店を開けていない所も沢山ある。
 一~二軒覗いてみて目指すオアシスフロムエイトの定価と販売価格を比べて歩く。どこも似たようなもので大差はない。どうせ値段が同じなら、大きな店の方が何かと便利であろうと思い、宝田無線電気で十二万八千円の品を十万五千円にして貰って、買うことにした。イメージリーダーとソフトのイラスト集も一緒に買おうとしたが、在庫が無く取り寄せになると言う。一刻も早く試してみたいという気持ちがあるのと、重たい荷物をぶら下げて捜し廻るのも億劫なので、取り寄せて貰うことにした。ソフトの大辞書もまだ発行されていないという。今回求めたオアシスフロムエイトが富士通の製品の中では最新式のものらしい。何れもっと多くの機能のついた機種がもっと安い値段で出てくるであろうが、それまで待っていたのでは結局、何時までも買うことが出来ないので今回思い切って購入したのである。

 今まで使っていたオアシスライトは画面に僅か八文字しか表示されない機種で、昭和五十九年六月の発売のものである。たった三年の間にこれほど機能が増えて使い易くなったのだから、この先どんなものが出てくるのか楽しみである。おそらく次は言語認識のワープロになるであろう。使い古したオアシスライトは志奈にはらいさげることにしよう。
 オアシスライトの初期のものであったが、トミヤの店頭で売れ残ったのをたった一万円で譲り受け、若い頃の記録や、つれづれに書き溜めた原稿を清書して「獅子が谷雑記」と名付けた冊子四巻を編集するのに活躍した。パーソナルユースの懐かしい品であった。

 オアシスと出会った頃2(昭和62年10月11日の日記) 早島 潮
                          
 昨日昼過ぎ、何となく疲労感を覚え、一寝しようかなと思っているところへ賑やかな声がして、運動会へ行っていた家内と志奈、亮子ちゃんとその母が帰って来た。暫く一緒に相手をしていたが、女達の話は取り留めもなく、何時果てるともしれないので、そっと抜け出し、オアシスライトフロムエイトの操作方法をマニュアル片手に勉強を続けることにした。
 風邪でもひいたのか、後ろ頭に鈍痛がする。グラフの作り方を試しているうちに眠たくなってしまった。折り良く夕食の用意が出来たというので、食堂へ下りていくとまだ都支が運動会のあと、学校の図書館へ調べものをしに行ったまま帰って来ないという。最近、誘拐事件や殺人事件等殺伐な事件が多いので、用心にこしたことはないが、もう一人前の大人になったのだから、自分の行動に責任と自覚を持っているのであれば、はたからあれこれ言ってもあまり効き目はない。就床して眠りに入りかけたところへ、都支が帰って来た。八時であった。

 今朝は、目が覚めたのが既に、七時半であった。夜中に二回ほど用足しに起きたが、よく寝たものである。早速、ゴルフの練習場へ久し振りに出掛けた。ニュー鶴見ゴルフは事務所改造工事中であったが、既に打席は満員で暫く順番を待たねばならなかった。やはり早起きは三文の得で、早朝に来なければ、すぐ練習することはできない。暫く振りにクラブを手にしたのだが、ボールを二箱も打つうちに良い球質の打球が飛んでいくようになった。腰をあまり動かさなかったせいか、体の節々が痛くなり、体全体になんとなく疲労感が漂う。

 庭の片隅に切り落とした枝葉で、昨日燃やしきれなかったのがあるので、これを片付けようと作業をはじめると
 「火を燃やすのは止めて下さいよ。ご近所に御迷惑ですから」と家内が大声で抗議するので、折角仕事も佳境に入って来て、焼却炉の火床も出来、残念であったが中止することにした。

 再び、オアシスライトフロムエイトの試運転をしていると志奈が英語のレッスンを終えて帰ってきたので、昨日まで愛用していた古いほうのオアシスライトを譲り渡した。嬉しそうに小脇に抱えて、用紙とインキリボンをついでに強奪して自室へ引き上げて行った。 色々な機能を確かめながら機械を操作していると、つい時間が経つのも忘れて夢中になってしまう。思えば、初めてワードプロセッサーを操作したのは、同じ富士通のオアシス百であった。日本で初めて日本語ワードプロセッサーが登場したのは、昭和54年か55年のことであり、会社で逸早くこれを導入した。当時シャープが書院と称して、漢字の音読み一覧表をライトペンで捜し出して漢字を拾っていく方式の機種を売り出していた。私達の世代は活字人間であったから、これが非常に馴染みやすくスピードも早いのではないかと思っていた。導入にあたり、実際にかな漢字変換方式とペンタッチ方式とを比較してみようということになり、シャープの書院と富士通のオアシス百を並べて皆に操作させ比較してみたことがある。結果はかな漢字変換方式の方が良いという結論になり、オアシス百を採用したのである。当時はビシネスショーにおいてもデータショウにおいても、まだペンタッチ方式による機種が沢山展示されていた。ところが現在ではペンタッチ方式は影を潜めかな漢字変換方式が主流になった。

 会社で導入したオアシス百は、当時の値段で三百万円もした図体の大きなものであったが、何回かのバージョンアップを行い、現在でもまだ活躍している。導入当時は、罫線を引くにしても、縦線、横線、十字、左括弧、右括弧、下向き丁字、上向き丁字、左向き丁右向き丁字等とカーソルをひとこまずつ動かして引いたものである。計算機能、グラフ機能、分類検索機能等も購入後のバージョンアップで次々に拡張してきたものである。

 それが、現在のハンデイタイプのこのオアシスライトフロムエイトには全て備わり、縮小文字縮小表示、イメージリーダー等当時の機種には付いていなかった機能まで付加されているのである。しかも、記憶容量は数倍大きく、フロッピーの大きさも三・五インチの小型になっている。使用されているICの性能が向上したせいであるが、技術革新のスピードを実感として体験した思いである。やがてワープロも電卓が辿ったと同じような運命を辿ってスーパーストアやガソリンスタンドで安売りされるようになるのであろうか。
 
 昼食後、再びワープロで機能確認の操作をしていたが、久し振りでウイスキーをお茶に少しばかり入れて飲んだのが、効き目を表したのか眠くなったので、無為自然を口実として、午睡した。一時間半程の眠りであったが、頭痛もなくなり気分爽快である。再び、ワープロで止まるところなく文章を書き続けているのである。


 オアシスと出会った頃3(昭和62年10月12日の日記) 早島 潮

 今朝は雨である。天気であれば、いつものように三池公園を通り抜けて、歩いて出社するのだが、雨に濡れながら歩く元気もないので、家内に車で送って貰うことにした。
 雨が降って一番喜ぶのは、志奈である。車に便乗して、鶴見駅まで送って貰えるのだから。学生の身で楽な方法ばかり選択する癖がついては困るので努めてバスで登校するように仕向けているが、二番目の子供となると、つい甘くなり、口実を設けては車に乗りたがる。また母親のほうも、理由をつけては車に乗せたがる。今日は、連休明けの雨の日のせいか、何時もより道路が混み、車も渋滞していた。

 会社では支払いの為の準備作業で忙しく、雑用も合間に片付けなければならないので、物事をじっくり考えている暇はない。とにかく片っ端から処理していかないと、先へ進まない。毎日がこの繰り返しである。本質的に経理総務の仕事というのは、毎日の積み重ねの上に成り立っているのだから、致し方ないといえばそれまでのことではあるが、十五年以上も同じことをやっているといい加減飽きてくる。中小企業であるから、仕事の選り好みの出来ないのが辛いところである。まあ、自分の意志で進路変更して選択した道であるから耐えていくしかないのであろう。

 山崎鉄彦君が秋葉原の客先へ出向く用事があるというので、オアシスライトフロムエイト用のカード、毛筆、ゴチック、まる文字、葉書宛名印刷を買って来てくれるように頼んだ。昨日一日で操作方法を殆どマスターしたので新しいことにトライしたいからだ。

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囲碁と将棋と恩師                                         

 私が、世の中に囲碁や将棋というゲームがあることを知ったのは、小学生の低学年の頃であったと思う。多分、北朝鮮の鎮南浦時代も終戦直後から引き揚げまでの極く短い期間のことであろう。この時代の在留邦人は、祖国が戦争に負けたので、早く故国へ帰還できることを唯一の目的にして、竹の子生活を送りながら無聊をかこっていた。囲碁や将棋の出来る人達は、退屈凌ぎに一畳台を表に持ち出して、誰彼となく相手を求めては、勝負を競っていた。相手のいないときは腕白坊主達を集めて、指し方や打ち方を教え、時間潰しをしていた。この時代、私は、将棋を覚え夢中になって指し、相当腕を上げた。囲碁の方は五目並べ程度で本格的な囲碁の手解きを受けたのは、中学生になってからである。

 早島中学に通っていた頃、社会科の教諭に久保田 修先生がおられた。この先生には、感受性の強い時期に色々のことを教えられたし、人格形成の上でも多大の影響を受けたと思っている。この先生が当時囲碁に凝っていて、宿直の日等には弁論部の生徒達の指導を終えてから、宿直室で囲碁の手解きをされた。私の記憶では一回か二回、石の活き死にや「こう」のルールについて教えて戴いたような気がする。

 この先生との触れ合いの中で鮮明な思いでとして脳裏に焼き付いていることがいくつかある。

 その一は、弁論大会で優勝したことである。久保田先生は社会科を教えておられたが、三年生のクラス担任で、進学指導、就職指導もしておられた。当時私は二年生であった。 この久保田先生は早島中学に弁論部を創設され見込みのありそうな生徒を集めてはテーマを与えて原稿を書かせ、これを修正加筆したうえで、演説の仕方を指導された。校内で弁論大会を開き、入賞者を特訓して、天城高校で行われる学区内弁論大会に出場させて初出場にもかかわらず、優勝の栄誉を獲得した。この初出場で優勝したのは三年生の谷本義博先輩であった。

 谷本先輩が卒業してから、白羽の矢を当てられた私は先生の特訓を受けて「三十八度線の思いで」という演題を携えて出場し、天城学区弁論大会で見事優勝し先輩の掲げた「早島中学に弁論部あり」の名声を汚すことなく継承し、次の学年の太田州彦君に引き継ぐことが出来た。この太田州彦君も翌年の天城高校の弁論大会で優勝し、早島中学の名声に磨きを掛けて呉れた。
 なお、この久保田先生は私が早島中学を卒業して30年以上になるが、その後転任された各学校で弁論部を指導され、優勝回数100回近くになり,今では岡山県下では誰一人知らない人のない程、有名な弁論の神様になって定年退官され、奥様の位牌と共に世界の仏跡巡りに精を出しておられると聞く。 

 その二は、谷本先輩達が早島中学を卒業して高校生になった年の夏休みに弁論部で練習した部員達を集めて、天然記念物の象岩で有名な六口島で三泊四日のキャンプ生活を営まれたことである。このキャンプは一年上の学年が主体となって企画されたものであり、高校入試の束縛から解放された高校一年生が青春を謳歌する意味のものであった。幸いなことに、弁論大会で優勝し、先輩の築いた名声を守った私も、仲間に入れてやろうという先生の計らいで私もこのキャンプに参加することができた。このキャンプ生活の中で、私は色々な人生勉強をする機会を与えられた。長いようで短い貴重な青春時代の思いで深い数コマとなったのであるがその一つが、このキャンプで本格的な囲碁の打ち方の基本を教えて貰い、囲碁がどのようなゲームであるかを知ったことである。

 その三は、久保田先生自詠の歌集を中学二年の時、戴き、人それぞれに、その時々の感情や、感傷、印象を歌にしたり、詩にしたり、文章にすることの大切さを教えられた。先生の歌集は、奥様との恋愛時代の相聞歌が中心であったが、非常な刺激と感動を受け、自分も何時の日か必ず、自分の著作、自分の歌集を発行しようと心に決めたのである。

 その四は、先生から人を愛することの大切さ、恋愛感情の素晴らしさということを教えられたことである。どちらかといえば、生真面目で、律儀な性格の私は傍目からは、石部金吉の朴念仁と見られがちである。相聞歌集を下さったり、弁論大会の練習をさせたり、キャンプに誘って下さったりしたのは、私のこのような性格傾向に影響を与えてやろうと意図された教育的配慮があったのであろうと感謝している。「君の年令で好きだと思う女の子がいないことはない。その感情は、何らかの形で素直に表現しなくてはならない。それが文学になり、人間を成長させる肥料になる。もし君の同級生の中に恋愛感情を持っている人がいるなら、何時でも相談にのってあげるし、提灯持ちもしてあげるよ」と言われたことがある。当時から規範意識と道学意識の強かった私は恋愛問題で先生のお世話になることはなかったが、生徒それぞれの個性を見抜いて、適切な助言をされた久保田先生は優れた教育者であると尊敬している。残念ながら、先生とは最初に手解きを受けただけでその後囲碁で対戦したことがない。

 囲碁にしろ、将棋にしろ少年期に覚えれば、相当腕も上がるのであろうが高校時代は囲碁将棋に馴染む機会が皆無で、再び囲碁に触れたのは大学に入学してからである。
 京都大学に入学して宇治寮で生活するようになった時、寮生仲間で腕自慢が娯楽室に集まって、囲碁を打っているのを見て、興味が沸いた。当時寮生の中で初段程度の実力を持っていたのは、猪原伸彦、斉藤万之助、岩見清次松岡直方等の諸君であった。加茂川喜朗、中田克彦、山口英雄、春日 進君等は私と同様に囲碁の打ち方を知っているという程度の初心者であった。斉藤万之助君や猪原伸彦君が対戦しているのを観戦しながら、囲碁の面白さ奥行きの深さを知った。斉藤君に井目置いて何回も対戦したが、歯がたたなかった。

 宇治寮から吉田寮に移ってからは、囲碁の強い新入寮生が加わった。杉山勝彦君、池田裕夫君、池谷 浩君等である。吉田寮で覚え、腕を上げた寮生に高橋 健、沖本一宏、水島章隆、渡辺正美、山本哲彦、大場克彦、八本木 浄、斉賀 修、重川直広、安田清彦君等がいる。昭和61年の秋に安田清彦君の招きを受けて、青山の碁会所でかつての宇治寮、吉田寮の同窓生が数人集まり、旧交を温めたことがあるが、猪原君、安田君、高橋君、水島君、中田君、小生で数局打った。この時は猪原君が日本棋院の六段の免許を貰った祝いも兼ねていた。中田君四段、安田君三段、高橋君初段、水島君初段の有段者ばかりで昔の仲間がそれぞれの道で活躍しながら囲碁でも力を付けているのに感銘を受けた。その中田君も鬼籍に入ってはや7年程になる。月日が経つのは速いものである。

 旭硝子時代には会社で囲碁を打った記憶がない。環境が飲むか麻雀かテニスか野球かというものであったから、自ら機会を求めて囲碁相手を捜し腕を磨くということをしなかった。たまに岳父と四子置いて対戦するぐらいのことであったから、力がつかないのは当然と言えば当然のことであるが、久し振りに同窓生に会って、昔同程度の力で張り合って勝ったり、負けたりしていた相手なのに、実力に差がついてしまった自分を発見したとき、一抹の寂しさを感じると同時に、これからでも遅くないもう少し強くなろうと決意を新たにしたものである。

 ここ12~3年ほど横浜信用金庫潮田支店の同好会から独立した棋道会に入会し、月1回の例会に参加しているが、皆さん強くて中々勝てない。勝っている碁を終盤に凡ミスで負けるケ- スが多い。棋道会に入会したので少し強くなり、せめて3段ぐらいにはなりたいと思って、新聞の棋譜を切り抜いて並べてみたり、解説書を見ながら石を並べているが思うようにいかない。 会社を卒業して自由人の身分になったのだから今度こそ本気で、囲碁に力を入れようと思っているのだが、パソコン通信を始めたり、世界漫遊旅行に出掛けたりとそれなりに忙しい。それでもそろそろ吉田寮の仲間が、会社を卒業する年代になってきたので、つい最近二カ月に一回、京浜地区の同行の士7~8人が集まっては旧交を温めながら囲碁を楽しむ会を発足させた。それにつけてももっと強くなって相手をギャフンと言わせてやりたいと密かにビデオを見たりして、特訓に励んでいる今日この頃である。

 囲碁に関する格言はいろいろあるが、私が最近身につまされて感じていることをいくつか挙げてみることにしよう。
 1) 勝っている碁を勝ちきるのは難しい。優勢な碁には緩みと欲が禁物。 2) 二手攻めたら一手守れ。攻めのみに急だと必ず崩れる。
 3) 切る前に必ず「しちょうは」と顧みよ。無意味な切りは敵を助ける。 4) 巨石を取ろうと思うな。巨石を逃がすと被害が甚大。
 5) 「こういけば、こうくる、そこでこういく」の三手読みの励行。
 6) 目数を数える習慣をつけよ。計算なしでは勝負に勝てない。
 7) 欠け目を作らず欠け目を作らせよ。
 8) 上手を怖がるな。下手を侮るな。

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我が愛用の一品                            

             
 机の上の筆立てに一本の耳掻き棒がある。茶色の革製のサックの中に入れられているこの耳掻き棒は、銀製でゴルフクラブに擬して作られており、永年の使用に耐えて表面が酸化し、黒色に輝いている。耳掻きのサックには、金色の字で、1971.10.19.ホールインワン記念・相模原CCアウト3番147YD:K.S と記されている。今から27年昔、関西から横浜へ引っ越してきてから間もなく、同業者のK.S 氏から記念に戴いた物である。

 1971年10月19日に行われた同業者のゴルフコンペでK.S 氏と同じ組になった私は三番ホールで、KS氏より先にショットしたのであるが、運良くピン側1mにワンオンすることが出来た。

「ナイスオン」の声とともに拍手が沸いた。脱帽して答礼したとき、急に耳が痒くなった。小指を突っ込んでほじくり、痒みが止まった時K・S氏がショットした。この時のショットが見事なホールインワンとなったのである。 ホールアウトしてからのパーティーで、お祝いを述べることになったとき私は耳が痒くなると何か良いことが起こるという即興的なスピーチをしたのである。

 この私のスピーチにヒントを得たということで、K・S氏はゴルフ仲間への記念品として銀製のゴルフクラブに擬した耳掻きを調整し贈呈されたのである。以来、この耳掻き棒は我が愛用の一品となったのであるが、考え事をしたり、判断に迷ったりしたとき、この耳掻き棒を取り出して使用すると不思議に良いアイディアが閃いたり、適切な判断ができるから不思議である。    

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スミスとマルクスの勝負                 

 予てからの念願がかなって、時間や仕事に制約されない自由人として、世界各国を巡り歩く夫婦二人旅ができるようになった。
 メキシコから始まり、東ドイツ、チェコ、オーストリア、ハンガリー、ミャンマータイと廻ったところで、管見にすぎないが、富裕と貧困、発展と停滞、自由と統制、伝統と刷新ということについて考えさせられた。

 東ドイツのドレスデンはエルベ川の川畔に位置する美しい街である。十六世紀以降ザクセン王国の首都として発達したが、アウグスト一世、通称アウグスト強王(一六七十~一七三三) の時代に繁栄した。この王の在位中にドイツバロック建築の傑作、ツヴインガー城やビルニッツ城が建てられた。世界的にも貴重な絵画のコレクションやマイセンの陶磁器の開発と発展も同王の時代に行われた。

文化の都ドレスデンは多くの芸術家を輩出し、かつ迎え入れた。シラーは「ドン・カルロス」をこの地で書き上げたし、リヒャルトワーグナーは「さまよえるオランダ人」や「タンホイザー」をこの地のゼンパーオペラ劇場で初演した。「二人のロッテ」で有名な作家エーリッヒはドレスデンの生まれである。 「エルベ川のフィレンツェ」とも謂われたこの美しいドレスデンの街は第二次世界大戦中の一九四五年二月の空襲で、一夜にして灰塵に帰した。戦後の復興は今なお続いているが、ツヴインガー城始め、多くの歴史的建造物は散乱した瓦礫を集めて、あたかもジグゾーパズルのこまを嵌め込むようにして復元されたのである。 

 それは、それは気の遠くなるような作業であるが、輝かしい歴史と伝統ある文化遺産に誇りを持つ市当局は、根気よく元通りの姿を蘇らせている。フラウエン教会は現在、このような復元工事の最中である。
 ところでドレスデンの街中には古い建物が沢山残されて実用に供されているが、中には壁が剥げ落ちたり、硝子窓が壊れたままになっていて無人であることが、一目で判る建物があちこちに散見される。美しい街並であるだけにこれは痛ましい光景である。  

聞いてみると、一九八九年の自由化以前の時代に、自分の所有物でない建物の補修には、居住者自身が自らの手で補修する程の熱意がないし、国や市にも補修にまで予算が廻らないという財政事情があって荒廃が進んだということである。しかも、自由化の時代がきて経済の混乱のため、東側では元の国営企業が倒産したり閉鎖されたりで、職を失った市民が西側へ移住し、住民のいなくなった建物の廃墟化が進んでいるというのである。

 マイセンの陶磁器工場の見学を終えて、広大で豊穣な田畑や林を窓の外に眺めながら、バスはドイツとチェコの国境近くにさしかかった。自動車道路の道端に美しく着飾り、厚化粧の若い女性がちらほらと佇んでいる。一時停車した自家用車の運転手と窓越しに話をしている者もある。ガイドの説明によれば、自由化以降に出現したチェコの売春婦であるという。言われてよく目を凝らすと、簡易宿泊所のような建物もあり、店先にはやはり着飾ったそれとおぼしき女性が椅子に腰掛けていた。   

 自由化の影響で、統制からの解放を謳歌するためか或いは、経済混乱のため職を失ったためなのか判然とはしないが、若い女性が春をひさぐために国境線で道端に立つようになったのである。   

 プラハの街も美しい街並である。 プルタワ川の両岸に広がる街は「百塔の街」とも称えられ、塔が林立しており、バロック、ゴシック、ルネッサンス、アールヌーボー等中世以来のあらゆる建築様式をみることができるのであるがここでもドレスデンで見たと同じような、無人化した廃屋が散見されて痛ましい光景を点映している。これと同じようなことはブタペストの市内においても散見された。  

 オーストリヤのウイーンは森が深くて、水が綺麗な音楽の都であり、ハプスブルグ王朝の文化遺産を温存している歴史の街である。政治的には中立を守り世界の趨勢に立ち遅れることなく先進国の都市として繁栄している。  

 ミャンマーのヤンゴンで見たシェッダゴンパゴダは金色に輝き、天高く聳える沢山の塔を持つ、華麗で巨大な寺院であった。何度もの地震に耐えてきたこのパゴダの原型は、十五世紀中期に栄えたパゴーの女王シン・ソービューによって完成されたという。

 このパゴダの華麗と荘厳に比較して、街中を走行する日本製の中古車のトラックバスは常に、乗客で鈴なり状態であり、乞食や多くの幼い子供の物売りが観光客に群がる貧困さは痛ましい。一トン積みのトラックに四十人乗客を詰め込んで走るのが、通常であるという。また街中を往来する車は全て日本製の中古車であり、日本の看板がそのまま残っている。例えば、横浜市の市バスがヤンゴン市内を走っているとの錯覚に陥るが如きである。

 ミャンマーの古都ペグーのビルマ料理屋で昼食をしたときのこと。二階へ上がる階段の入り口で、民族衣装を纏った四~五歳と見受けられる女児が、入ってくる日本人のお客にひとりひとり丁寧にお辞儀をしていた。その店には冷房設備が申し訳のようについてはいたが機能しておらず、大きな扇風機が生暖かい空気を、徒にかき混ぜていた。部屋に入った途端、異臭が鼻をついて、吐き気を催しそうになる程であった。     
 それでも料理が運ばれてくると、珍しさも手伝って、箸は皿から口へと自然に動いていた。そのうち涼しい風が背後からするので振り返ると、先程入り口で丁寧にお辞儀をしていた女児が額に汗しながら、団扇で一生懸命私を扇いでいるのである。親に強制されて、そうしているのか、自発的に親の家計の一助にと思ってそうしているのか、定かではないが、そのいたいけなさに、自分の孫の姿が重なって、思わずなにがしかのチップを握らせていた。これを受け取った時の彼女の嬉しそうにはじける笑顔はあどけなく、とても美しかった。

 社会主義体制をとり、今なお軍事政権下にあって厳しい統制の中で貧困に呻吟するミャンマー人の苦悩を感じる。

 タイのバンコックは近代化され、高層建築が立ち並び繁栄を誇っているかのように見える都市である。 

 タイのアユタヤで、ワットマハタード、ワットラハバーナ等の遺跡を見学した。これらの遺跡は十四世紀にシャムに興ったアユタヤ王朝によって建立され繁栄した仏教寺院であるが、十八世紀に創建されたビルマ王朝のアラウンパヤーによって攻撃され、一七六七年にアユタヤの王宮が陥落炎上したときに、一緒に破壊された。

 現在では、陸続きで隣接している両国でありながら、ミャンマーとタイではその近代化の進み具合や経済的な繁栄度において、格段の差が生じている。タイは世界の先進国の仲間入りが出来る程に発展しているが、ミャンマーは世界の最貧国の一つに数えられ、まだまだ多くの難関を潜らなければならない後進国であるといえよう。


僅か七か国の表面だけから見た、旅行者としての瞥見にすぎないが、豊かな国と貧しい国の違いは何に由来するのか考え込まざるをえない。
 一九一七年のロシア革命から一九九一年のソ連崩壊まで、七十年余の壮大な社会主義の実験は文化遺産の破壊と精神の荒廃という負の遺産しか残さなかったような気がしてならない。

 一九八九年に東ヨーロッパ諸国で市民と労働者の変革運動が相次いで、ソ連型社会体制を崩壊させていったが、社会現象としてはドレスデンやプラハやブタペストで私が垣間見た、建物の荒廃であり、売春婦の出現なのであろう。

 豊穣の大地に恵まれ、歴史上の一時期には隣国のタイを支配下においたこともある、ミャンマーの現在の姿は貧困と停滞そのものである。私が瞥見した社会現象は乞食や子供の物売りであり、乗客で鈴なりのトラックバスの往来である。これは頑に、社会主義に拘り、軍政を敷いて民衆の苦悩を省みない、為政者の無策無能に起因するものであると言わざるを得ない。

 私流にいえば、見えざる神の手にその支配を委ねた市場原理と自由を、基本理念とするアダムスミスと、生産手段の公有化と労働者階級の独裁を、基本理念とするマルクスとでは、アダムスミスに軍配が上がったといえるのではなかろうか。

(筆者注)本記事はグロ

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ポット出法の授業                                    

 「さあいいか、今日皆に書いて貰った作文の中で参考になるのを一つ紹介しよう。これから読んでみるからよく聞いておくように」と言われて、新進気鋭の久保田修先生が一つの作文を声を上げて読み始められた。

『日は暮れてくるし、あたりには人影さえも見えない。坂を下ってきたところで自転車のチェーンが切れてしまったのである。・・』 先生の声を聞いて私はびっくりした。なんとそれは制限時間がきたため、尻切れとんぼで自信のないままに提出した私の作文なのである。課題は「私の或る日曜日」というものであった。私は最初何を書いてよいか分からず、思い悩んだあげく制限時間近くなってやっと一つの事件を思いだした。昨年秋の或る日曜日に一山越え、五里程離れた母の実家の祖父の許へ自転車に乗って柿を貰いに行ったときのことをである。
 
 荷台の竹籠に柿を一杯積んで貰って家路を急いでいるとき人家の無い山中で自転車が壊れて立ち往生してしまった。その時の名状し難い心細い気持ちを書こうと思ったのだが、意をつくせぬ儘に時間がきてしまって纏まりのつかないものを提出せざるを得ないという羽目に陥ってしまった。 私が何を書くか思い悩んで呻吟しているとき周囲の級友達は既に書き終えていたから、その時の私の焦燥感は今思い出しても年を経て蘇ってくるのである。
 昭和26年私が岡山県の早島中学へ新入生として入学して間もなく、初めての社会科の時間の時のことであった。
 出来の悪い例として教材に取り上げられてしまったと私は覚悟したものである。作文は小学校の頃から苦手で時間ばかりかかっていつも叱られていたからである。

 ところが意外なことに先生はこう言われたのである。
「君達はポット出法というのを知っているかな。知っている人は手を上げて」
「・・・・・・・・・」
「なるほど誰も知らないようだね。この作文はポット出法を使って上手く書かれている。『日は暮れてくるし、あたりには人影さえも見えない。坂を下ってきたところで自転車のチェーンが切れてしまったのである』と言われると君達聞いていてさあ次はどうなるのだろうと思うだろう。
 こういう風にいきなりポット事件を持ち出してくる書き方を先生はポット出法と呼んでいるのだ。他の人達の作文は君たちが日曜日に朝起きて寝るまでに何をしたかを真面目にかいてある。朝、起きました。歯を磨いて顔を洗いました。朝御飯を食べました。便所にいきました。友達のところへ遊びにいきました等々。だがこれでは当たり前のことで読んでいて面白くない。しかしこの作文は次はどうなるのだろうという興味と期待を読む人に与えるだろう。こういう書き方をしなければならない。

 文章を作るには起承転結ということを考えて書かなければ良い文章は書けない。今日は『起』の良い例として『ポット出法』のことを話したが次回は『承』について君たちの作文から例を引いて説明することにしよう」

 私は面目を施した上にこのことがあって以来文章を書くということが好きになったし楽しくなったのである。
 中学2年に進級したある日の授業で人間は人それぞれに、その時々の感情や感傷、印象を歌にしたり、詩にしたり、文章にしたりすることの大切さを説かれた。そして自詠の歌集の中から何点かを披露された。非常な刺激を受けた私は特に先生に請うてその歌集の一部を戴いた。その歌集は奥様との恋愛時代の相聞歌が中心であったが、これに触発されて自分も何時の日か自分の著作、自分の歌集を発行しようと心に決めたのである。

 また先生はその頃この中学に弁論部を創設され、見込みのありそうな生徒を集めてはテーマを与えて原稿を書かせ、これを修正加筆したうえで、演説の仕方を指導された。校内で弁論大会を開き、入賞者を特訓して、天城高校で開かれる学区内中学弁論大会に出場させ初出場にもかかわらず、優勝の栄誉を獲得した。優勝したのは3年生の谷本先輩であった。
 谷本先輩が卒業してから、白羽の矢をたてられた私は先生の特訓を受けて、「38度線の思い出」という演題で出場して翌年の大会で優勝した。先輩の獲得した「早島中学に弁論部あり」の名声を汚すことなく継承し次の学年の太田州彦君に引き継いだ。この太田君も翌年の大会で優勝し母校の名声に磨きをかけてくれた。

 この久保田先生は、その後転任された先の各学校で弁論部を指導されて優勝回数百回以上を数えるに到り、岡山県下の教育関係者の中で誰一人知らない人はない「弁論指導の神様」となり10年ほど前に定年退職された。
 今は亡き奥様の位牌を抱いて世界の仏跡巡りをされていると聞く。 98,5,5脱稿

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 ばら寿司  


 酢でもんだ御飯の中に具として、さわら、鎮台貝、干し椎茸、干瓢、人参、銀杏等を混ぜ合わせ、ゆり輪の中へ敷きつめて、上には線切りにした薄焼き卵、紅しょうが、さやえんどうを色鮮やかに飾りつけたばら寿司。岡山県は早島町で収穫を祝って営まれる秋祭りの御馳走である。この地方では、誕生、七五三、入学、卒業就職、結納等の人生の節目毎に行われる祝い事の時に欠かすことの出来ない料理として位置づけられている。
 
 私にとってばら寿司は北朝鮮鎮南浦から早島町へ大戦後引き揚げのため、夜間銃声に怯えながら三十八度線を徒歩で突破した逃避行の想い出と結びついている。それは飢餓の旅でもあった。

 空襲の虞れがあるので疎開するため家財一切を先に送り出し、二日後には出発という日に終戦を迎えた。外地における敗戦国の国民は惨めなものである。在留日本人は手持ちの品を売り喰いしながら飢えを凌ぐ生活が始まったが、我が家では疎開地へ送り出した家財が返ってこないので売る物がない。父は出征していたので、当時七才の私を頭に四才の妹と生後十ケ月の妹を抱えた母は、女手一つで家族を養うべく、朝鮮人の経営する農園へ草取りの手伝いに出掛けた。賃金の替わりに貰ってくる白菜、大根、コ-リャン等が育ち盛りの私達兄妹三人の糧であった。必然的に栄養失調となり骨と皮だけのみじめな姿であった。このような生活が一年程続き漸く引き揚げることになった。

佐世保港へ上陸した私達一家はDDTで体中を真っ白に消毒され、長時間石炭の煙に咽びながら列車に揺られて、伯母の待つ早島町へ明け方近く到着した。表戸を激しく叩いて家人を起こし、再開の涙にくれたのである。前日がたまたま早島町の秋祭りの日であったため親戚一同を招待した残りのばら寿司を御馳走になった。この時のばら寿司の味は一生忘れられない。                          98.7.11 脱稿

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 幼年期の旅                                    

 旅という言葉はなんとなく、人をして空想の世界へ誘い、心ときめかせる作用を持っている。私が初めて、旅をしたのは、幼児の頃、両親に連れられて祖父母の待つ岡山県へ里帰りしたときである。日本鉱業の鎮南浦精練所の技術者として朝鮮に世帯を持った父が、初めて長男の私を連れて帰郷したのが、私の旅の始まりであった。この時の出来事は、鮮明に脳裏に焼き付いていて、旅という言葉を耳にしたとき、必ず思い出す情景が幾つかある。

 その一は、祖父、直次郎の背中に掴まって、川向かいの畑へ砂糖黍を取りに行ったことである。幅5メ-トル程の川には人一人が通れる程の板が、一枚渡してあって、その上を板の振動に合わせて体をゆさぶりながら器用に渡って行くのである。一歩踏み損なえば、川の中へ転落するのは明白である。川へ落ちるのではないかという恐怖が、幼い心の中に沈澱して忘れられない心象風景となったのか、或いは、幅狭い板の上を器用に渡って行く祖父のバランス感覚と運動神経が、その幅広い背中と共に頼もしさを印象付けたのかは、今もって定かではない。祖父の顔も思い出せない程遠い昔の出来事であり、他のことは全て時の流れの中で風化してしまったが、このことだけはいまだに鮮明に記憶の底に残っているのである。

 その二は、この時の帰省は秋祭りの時期にあたっていたので、祭りの鬼に脅されて、肝を潰したことである。祖父の屋敷で、砂糖黍を噛んでいると顔の先へいきなり、赤色の鬼がニュッと顔を出したのだから堪らない。傍らにいた父の胸にむしゃぶりついて、悲鳴に近い泣き声を上げたものである。私の驚きように、鬼の主も慌てて面を脱いで素顔を見せ泣きじゃくる私を宥めるのに懸命であった。周囲の大人達は爆笑していたが、このときの光景は、祭りの鬼を見る度に必ず思い出す懐かしい思いで出ある。

 岡山県のこの地方には、収穫を祝う秋祭りの時、村の青年達が鬼の装束で村や町を練り歩く風習がある。

 何故、秋祭りに鬼が出るのか史実について考証したわけではないから、以下の論述は伝聞と私の創作である。吉備の国といわれた県南には、吉備津彦命を祭神とする大きな神社が二つある。一つは吉備津神社であり、もう一つは吉備津彦神社である。吉備津神社と吉備津彦神社は吉備線の吉備津駅と備前一の宮駅を最寄りの駅として僅か一区間の距離で並立している。

 『百済の王子温羅(うら)が我が国に渡って来て、諸国を巡った後鬼の城(総社市新山)に遣ってきた。温羅(うら)は身長約四メートル、目は豹のように輝き、髪は赤色を帯びて額の上には瘤があって角のようであり、歯は上下が食い違い、物凄い様相である。その上火を吹いて山を焼き、岩を穿ち、水を汲んで油とすることが出来る。人間や猿を喰い、美しい女を奪ったりする。そのような温羅(うら)は村人達から大変恐れられていた。

 そこで、四道将軍として来た吉備津彦命が吉備中山(岡山市吉備津)に陣を張り、家来には鼓山で鼓を打たせて駆け引きをし、矢部(倉敷市庄)では矢を放って夜暴れるのを防いだ。また一瞬に百里も飛ぶ家来を遣わして岡山市足守の付近を守らせた。吉備中山の陣と温羅(うら)の籠もる鬼の城の間で戦は始まり、矢を放っても、双方の矢が途中で喰い合って落ち、勝負が付かなかった。さらに温羅(うら)は少々の傷を負ってもすぐに温泉に入って治すので、いっこうに戦力は落ちない。そこで吉備津彦命は、それらの温泉を埋めさせた(大井の粟井の湯、池田の槇谷の湯など) 。しかし、そうしている内にも吉備津彦命の勢力の方がだんだんと衰えていった。

 そのとき住吉大明神が童の姿で現れ、「一度に二矢をつがえて射よ。一矢は喰い合い、一矢が温羅(うら)にあたる」と告げた。果たしてその通りになり、このときとばかり、吉備津彦命が攻めて行くと、温羅(うら)は逃げ、姿を変えて童の姿となって、大岩の下へ隠れようとしたが、妨げられて入れなかった。そこで温羅(うら)は大雨を降らせ、その流れを利用して逃れようとした。傷の血がからくれないに拡がり、血の流水となった。( 血水川)
更に鯉に姿を変えて下るところを吉備津彦命が鵜になって喰ってしまい、ついに温羅(うら)を退治したのである。そこに社が建てられ、鯉喰宮となっている。

 温羅(うら)の首を串に刺して曝し首にした。その首は何時までたっても吠え続け、執念に燃えていた。そこで釜の底八尺掘ったところに埋めさせ、温羅(うら)が生前に寵愛していたという阿曽女に火を炊かしたところ吠えなくなったという。吉備津神社にあるお釜殿がその釜であり、現在でも吉凶を占っている。』(日本文教出版社刊、岡山の伝説より)

 桃太郎が鬼征伐をしたという民話も岡山県のこの地方の話であり、吉備津彦命の温羅(うら)退治がその源流になっていると思われるが、祭りの鬼は、桃太郎伝説に出て来る鬼のことであると考えることもできる。桃太郎伝説は岡山県、香川県の鬼が島、愛知県の犬山がそれぞれに自分のところが本家であると主張している。瀬戸内海には多数の島があり、海賊が跋扈していたであうことは容易に想像出来る。塩飽諸島は海賊達の拠点として有名である。この海賊達が鬼に見立てられ、吉備津彦命の温羅(うら)退治と結びついて桃太郎伝説の新判が流布したとも考えることが出来る。桃の産地でもある岡山県の方が桃太郎伝説の本家であるとしたほうが素直なように思う。いずれにしろ吉備津彦命の治績を讃えて、この地方の秋祭りには仮装した鬼が出るようになったのであろう。

 旅という語義を広辞林で調べてみると、故郷を離れて一時よそへ行くこととある。北朝鮮からの引き上げは私の幼年時の体験としては強烈な印象を残しているが、他の一文の中で触れていることでもあるし、「一時」という旅の要件にあてはまらないので、ここではとりあげない。

 早島小学校三年生の時の夏休みに丸千の千代子姉さんと今井のすみ姉さんに連れられて瀬戸内海の田島へ出掛けたのが、親と離れて旅した初めての経験であった。

 丸千は太田仙次郎商店の屋号である。丸千はこの地方特産の畳表の卸問屋を生業としており、父方の祖母が初代仙次郎に嫁いでいた。また母の姉が二代仙次郎に嫁いでいたので、私にとって丸千は父方からも母方からも親戚である。従って千代子姉さんは従姉弟にあたるが、私よりひとまわり程年長者である。

 田島は瀬戸内海の小島で尾道から船で小一時間程の所にある漁師の島である。この田島に先代の大叔母、太田 芳が別荘を持っていた。別荘と言っても実益を兼ねたやりかたで、留守居番の夫婦に佃煮を作らせていた。私が千代子姉さんとこの島へ遊びに行った時は、この別荘を手放す予定にしており、手放してしまうと田島へ海水浴に出掛けることも出来なくなるので、私に一度、田島を見せておいてあげようということであったらしい。千代子姉さんは毎年、夏には海水浴に行っていたので、私と今井のすみ姉さんが付いて行くなら、親が行かなくても大丈夫ということで私が同行者に選ばれたのかも知れない。

 私の育った早島町には、子供達が水遊び出来るような川も池も近くになかったので、海辺で数日間を過ごせることは無上の喜びであった。戦後間の無い頃であり、水着などという贅沢品は求めようにも売っていなかった。男の子は当時サポーターと称していたが、布切れで出来た三角形の金隠しを付けて海や川に入った。女の子はシュミーズとズロースを着用していた。

 田島の海岸は遠浅で海水浴にはもってこいの地形であった。飛び込み台も一つ設けられており、島の子供達がわがもの顔で利用していた。最近の海水浴場と違って、島の子供以外には水浴客も見当たらず、閑散とした理想的なリゾートであったと思う。私はやっと犬掻き泳ぎが出来る程度であったので飛び込み台までは行くことが出来ず浅瀬でバシャバシャやっていた。今井のすみ姉さんが泳ぎは一番うまく、飛び込み台からも飛び込んでは沖の方から手をあげて岸辺の私の方へ合図していたのを覚えている。千代子姉さんは、飛び込み台までは泳いで行くが飛び込みをするほどの勇気はなかったようである。その内、潮が引き私の犬掻き泳ぎでもたどりつける距離に飛び込み台が近ずいた時、今井のすみ姉さんにけしかけられて、何回も塩水を飲み込みながらほうほうのていで飛び込み台まで辿りついた。飛び込み台の脚につかまりながら、今井のすみ姉さんにクロ-ルの要領を教えてもらい、海岸へ向けて何回も練習をした。水面から顔をあげて呼吸をすることができなくて、クロ-ルは諦め、呼吸のしやすい平泳ぎを教わった。

 今井のすみ姉さんは当時、倉敷高女の二年生であったが、海水浴を終わって、宿へ帰ると私と一緒に恥じらいもなく風呂へ入って塩水を洗い流していた姿が、漸く生え揃った恥毛とともに強烈な印象を私の脳裏へ刻みつけた。それは春に目覚める前触れの感受性がしからしめたものであったのかもしれない。

 暗闇の中で眼鏡を外して、周囲の光景を見るのと同じような不鮮明さで、微かに思い出すのは、田島から隣の島へは引き潮のときに、歩いて渡れるようになる瀬を満ち潮の時船で渡りながら、船頭からその旨教えられ、信じ難い気持ちになったことである。

 田島行きの旅はこの時が最初の最後になってしまったが、閑散とした海浜で海水浴をしたこと以外には、どんな家に泊まったのか、留守番の夫婦がどんな顔の人であったのか、どんな物を食べたのか、行き帰りの乗り物がどんな状況であったのかも覚えていない。長い歳月の流れの中では、強烈な印象だけが風化を免れて、研ぎ澄まされ記憶の中へ沈着するようである。

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定年退職万歳           


拝啓 木々の緑が鮮やかに目に映える時節となりました。
私儀
五月二十一日還暦を迎え、○○年間勤務した☆☆株式会社をかねてからの希望通り、定年退職し第二の人生へ船出することになりました。在職中公私にわたり御指導を頂き且つお世話になりましたことに対し深く感謝し厚く御礼申し上げます。
お蔭様で二人の娘達も嫁ぎ、それぞれに愛情豊かな家庭生活を営んでおりますし、私達夫婦とも目下健康体なので、後顧の憂いなく年金生活を迎えることのできる幸せを感謝しております。
これからはこれまでに社会から受けた恩恵や皆様から戴いた御恩に感謝しながら、多少なりとも社会のお役に立てるよう、ボランティア活動等にも積極的に取り組んでみたいと考えております。今後は趣味の方面にもかなりの時間が割けそうなので、生活を楽しみながら心豊かな人生が全う出来ればいいがなあと願っております。
最後に皆様の御活躍を祈念しますと共に、今後とも従前にも増した御厚誼の程をお願い申し上げます。         敬具
 
・還暦の送別会や五月晴れ      
平成九年五月吉日          
楽しきかな我が人生    
早島  潮  

この挨拶状を投函した時、私は名実共に自由人になったことを実感した。その足でこの日以降一年間だけ住まいしようと予て用意しておいた京都市内中央部にあるマンションへ妻と一緒に向かった。京都で過ごした大学時代に廻りきれなかった史蹟を探訪し、見学出来なかった四季折々の祭りや行事を堪能するためである。例えば若葉の高尾、葵祭り、祇園祭り、大文字焼き、時代祭り、鞍馬の火祭り、大原三千院の紅葉、嵐山の三船祭り、城南宮の曲水の宴、雪の金閣寺、東寺の終わりの弘法、梅の北野天神、桜の醍醐寺、京料理京の踊り等々と毎日が忙しい。健康の為、地図を片手に一日最低一万歩以上歩くことを日課としているので乗り物は市バスと地下鉄以外は殆ど利用しない。スニ-カ-を2足履き潰した程である。訪ねる先々で興趣が湧けば俳句をひねりスケッチブックには下手な水彩画を蓄えた。

京都を足場として熊野古道を歩いたり、テレビドラマ甘辛シャンを見れば丹波篠山へ行ってみたりと近畿各地の観光名所を渉漁するのも楽しいものであった。

その一方で月に二回横浜の鶴見川で催される大学時代のボ-ト部の「OBが漕ぐ会」の練習にも駆けつけてはエイトで汗を流した。約一時間半の激しい運動の後、ビァービレッジで旧友達とジョッキを傾けながら対東大OB戦に関する作戦を語り合ったり、久しく途絶えている琵琶湖周航を復活させる企画の打ち合わせをしたりするのも楽しい一時であった。こうしたとりとめのない談笑の中から夢のような話が飛び出すことがある。それは、英国のテームズ川で行われるヘンリーレガッタにOBクルーを編成して参加しようとか大学後輩の学生諸君が冬場の練習も兼ねて遠征するハワイアンレガッタにOBも応援に駆けつけ、出来ればOBクルーとしてレースに参加しようというものであった。ところがこれが実現したのである。

昨年暮れの十二月二十四日から新年一月五日まで学生クルー十五人とOBクルー十四名がハワイへ遠征し、大晦日と正月三日間にかけてアラワイ運河で行われたロイヤル・ハワイアン・ローイング・チャレンジのレースに参加した。 レースはハーバード大学、ワシントン州立大学、京都大学、カルフォルニア大学,オレゴン大学、ウエストミニスター高校A、ウエストミニスター高校Bハワイ市民ボート同好会、プリンストン大学OB、京都大学OBの10クルーで行われた。参加クルーを男子学生クルー、女子学生クルー、OBクルーの三グループに分類してハンデキャップが設けられた。二艇を並べて一五百メートルと五百メートルの二レースを続けて競い合う方式で行われた。

四日間で十レースに挑戦し、善戦虚しく一勝九敗の結果に終わったのであるが、還暦前後のOB達が体力消耗の激しいレースを誰一人故障することなく漕ぎ切って、爽快な達成感を味わい全員無事帰国したことは一種の奇跡であると言えよう。

OB達は勤務の都合もあり、選手団の滞在期間中、遅れて駆けつける者あり早く帰国する者ありと慌ただしい出入りであったが、利害打算の渦巻く俗世間のしがらみから逃れて久し振りの合宿生活で若き良き時代を偲びながら英気を養ったのである。

今年は毎月一回ずつ十日間前後のツァーを選んで参加し、世界各国を歩く夫婦二人旅を、俳句手帳とスケッチブック片手にエンジョイしようと計画している。いくら喰っても一升半天下をとっても一畳半と喝破した政治家があったが全く同感である。楽しき我が人生に乾杯。

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縁日の金魚鉢                               

1.
 年の瀬も迫った12月8日午前8時、花園マンションの215号室で中年男の変死体が発見された。
 通報を受けた渋谷中央署では直ちに係員を現場へ急行させた。
 花園マンションは、国鉄渋谷駅から徒歩で10分程のところにあり、鉄筋コンクリート造りの四階建ての建物である。マンションという名がついているが、賃貸しの高級アパートといったほうが分かりやすい。215号室で変死体を発見したのは花園マンションの管理人である。

 その日、畳屋が畳の表替えをするため、見積もりにやってきた。各部屋を見て廻った後、留守の部屋も見たいから管理人に立ち会って欲しいということになり、管理人が予備鍵を使って戸を開け、215号室の住人が死んでいるのを発見したのである。
 現場へ急行した捜査官は状況を次ぎのように観察した。

1)215号室は6畳の和室と8畳の洋間と6畳程の台所から成っており、洋式のバスとトイレがついている。
2)死体は8畳のソファの上にうつ伏せに倒れており、明らかに毒物による中毒の様相を呈している。
3)死体の周囲にも衣服のポケットの中にも毒物の残りは発見されなかった。部屋の中の屑籠、押し入れのどこにも毒物を入れた容器らしきものも、包み紙も発見されなかった。
4)人が出入りできる箇所は、
廊下側の玄関とベランダ側の硝子戸の二箇所しかないが、どちらも内側から鍵が掛かっていた。
5)上着のポケットとズボンのポケットに部屋の出入口の鍵が一つずつ入っていた。
6)部屋のどこにも遺書は残されていなかった。
7)部屋の中が荒された様子もなく、上着の内ポケットには5万3千円余入っている革の財布が残っていた。財布の中には五菱銀行新宿支店発行のキャッシュカードが入っていた。
8)机の引き出しからは、五菱銀行新宿支店の普通預金通帳が発見された。9月10日付けで口座を新規に開設したらしく、千円の預け入れ記帳がしてあった。通帳の名義人は山本太郎である。

「この部屋の借り主の名前は何という人ですか」
 捜査官は死体を発見してまだ興奮のさめやらぬ管理人に尋ねた。
「田代光一さんです」
「田代光一に間違いありませんか」
「間違いありませんとも。賃貸借契約書にはちゃんと田代光一と署名してあります」
 管理人は捜査官の質問にむきになって答えた。
「山本太郎という別名を使ってはいなかったでしょうか」
「さあ、そこまでは判りません」
「家族はいませんか」
「独身です。もっとも2年程前に奥さんと死別されたようですが」
「田代さんは何時からこのアパートへ住んでいましたか」
「丁度1年程になります」と管理人は契約書の綴りを指に唾をつけてめくりながら答えた。
「どんな仕事をしていましたか」
「なんでも化粧品のセールスをやっているということでした。ここだけの話ですがね、奥さんがいなくて不自由でしょうと言った時、化粧品のセールスをやっていると、女には不自由しませんよと冗談のように言っておられました」と声をひそめながら管理人が言った。               
「すると女出入りも相当あったでしょうね」
「ところがこのアパートへ女の人が訪ねてくるのを見たことがありません。どこかでうまくやっていたのでしょうね」               
 詮索好きな顔で管理人が答えた。
「部屋の合鍵は幾つあるのですか」
「合鍵は全部で3個あります。そのうち2個は借家人に貸してあります。残りの一つは管理人室の金庫の中に保管してあります」
「合鍵を鍵屋に頼んで作って貰うことはできますね」
「それが駄目なんですよ、刑事さん。電子キーといいましてね、磁石の原理を応用したものなんですが、300万通り以上の組み合わせがあって、合鍵の複製はできません。」
「すると215号室の室内に鍵が二つあったのだから、管理人室の鍵を使わなければ、部屋の中へ入れないということになりますね」
「そうです」
「それでは、215号室の鍵は何時使いましたか」
「田代さんが死んでいるのを発見したときです」
「その他には」
「それ以外には使った覚えがありません」
「管理人室の鍵があなたに内緒で持ち出されたことはありませんか」
「それはありえません。何故なら、金庫の開け方は私と家内しか知りませんから、他の者が 持ち出しようがありません。自殺じゃぁないでしょうか」 捜査官は管理人に田代を殺さなければならない動機も特に見当たらないので、質問を打ち切った。
 渋谷中央署では自殺、他殺の両面から捜査を進めることになった。
                                     
  2.
                          
 田代光一の死体を解剖した結果、死因はシアン化カリウムによる中毒死であることが判った。死亡推定時刻は、12月7日午前5時から午後8時までの間と推定された。捜査会議では自殺説と他殺説が検討された。自殺説の根拠は次ぎの通りである。

1)死体の発見された部屋には、外部から人の出入りできる箇所はバルコニー側の硝子戸と廊下側の玄関入り口の2ヵ所しかないが、全部内側から鍵がかけてあったこと。
2)合鍵は3個あり、そのうちの2個が死体と同じ室内で発見され、残りの一個は管理人室の金庫の中に厳重に保管されていたこと。
3)合鍵は複製不可能な電子キーであること。
4)部屋の中は荒されておらず、何も盗まれたものはなさそうであること。
5)室内に残された指紋には田代光一以外のものが発見さなかったこと。
 自殺説はかなり説得力を持っていたが、遺書が残されていないという事実は致命的であった。

 これに対して他殺説は次ぎの通りであった。
1)遺書が残されていないこと。
2)青酸カリの服毒自殺であれば、青酸カリの入っていた容器か包み紙が死体の周辺にある筈なのに、それがないことは犯人が証拠を隠すために犯行後、持ち去ったと考えられること。つまり、犯人は被害者が毒物を口中に入れ、死亡するのを確認してから現場を立ち去ったと考えられること。
3)部屋の鍵の構造はホテルの鍵と同じような仕掛けになっているので、合鍵がなくても外部から施錠できること。つまり、部屋の中に居る人は合鍵がなくても、戸を開けることが出来る。そして外へ出て戸を閉めれば、自動的に施錠できる構造になっている。従って最初部屋の中に居た犯人が、犯行後、室内から戸を開け外へ出て戸を閉めたと考えてもよいし、何らかの方法で合鍵を手に入れた犯人が、外部から合鍵を使って室内へ侵入し、犯行後合鍵を被害者のポケットに入れて部屋の内から戸を開けて脱出し、戸を閉めれば自動的に施錠できること。

 捜査は12月7日の事件当日、215号室へ出入りした者があるかどうかの聞き込みから始められた。同時に田代光一に恨みを持つ者或いは、利害関係を特別に持つ者がいないかどうかが調べられた。

 花園マンションは各階に五戸づつあり、全部で20戸あるが、居住者同志で顔を見知っている者は少なく、隣に住んでいながら没交渉の者が殆どであった。都心のアパートで地理的に便利なところにあるせいか、バーのホステスや、ハイミスのOLとか子供のいない共稼ぎの夫婦者或いは田代のような中年の男が住み着いている。住人達はどこか人生に拗ねているところの窺える人達が多かった。お互いに干渉されるのも嫌いだが、干渉するのも御免だという相互無関心の住人達ばかりであった。

 捜査官の懸命の聞き込みにもかかわらず、事件当日の215号室の人の出入りについては、目撃者も見つからず、何の情報も得られなかった。

 花園マンションの住人達の中には、田代光一に対して特別な利害関係や特別な感情を抱く者は見だせなかった。
 田代光一の勤務先、キューピット化粧品株式会社を訪問した捜査官は社長に面会した。
「田代光一さんが変死されたことについて何か思い当たることはないでしょうか」
「何も心当たりがありません。私達も田代があんな死にかたをしたので、驚いているのです」
「勤め振りはどうでしたか」
「うちのセールスマンとしては成績の良い方でしょう。販売実績は常にトップクラスにランキングされていました」
「化粧品のセールスと言えば、女子の方が向いているのではないでしょうかね」
「刑事さん、必ずしもそうではないのですよ。化粧品というのは、女性の美しくなりたいという欲望にアピールするものが好まれるものです。ところが化粧品は、種類も豊富だし、品質もどの銘柄をとってみてもそう変わりがありません。数ある化粧品がある中で、当社の扱っている化粧品を売り込むためには、セールスポイントというものが必要になります。当社のセールスポイントは、男子販売員に商品を扱わせて、女性には出来ないサービスをさせるのです」
「もっと具体的に説明してください」
「あっ、これは、変な意味ではありません。つまり、女が化粧するのは、異性を意識するからです。女が女に褒められても喜びませんが、女が男に褒められると喜ぶでしょう。その心理を逆手にとったわけです。顔だちのいいハンサムな男性のセールスマンを使って歯の浮くようなお世辞を言わせて、売り込もうというわけです」
「すると田代光一はお世辞がうまかったというわけですか」
「何しろ実績を挙げていましたからね。訪問先のお客さんには人気がありましたよ」
「訪問先のご婦人と痴情のもつれを起こして恨みを買うというようなことは考えられませんか」
「仕事がら、ご婦人と恋愛感情に陥るようなことはあったかもしれません。でもそれをうまく処理するのが、上手なセールスマンというものですよ。セールスマンというのは商品を売り込む前に、セールスマン自身のキャラクターを売り込まなければなりませんから、相手に好かれるように振る舞っていたと思いますね。そのことが恨みを買うことにはならないと思いますがね」「生活振りはどうでしたか」
「割に派手な方でしたよ。株や商品取引にも手を出して、そちらの方の副収入がかなりあったようですね。でも、最近、商品取引で大損したとこぼしていました。穴埋めするのに給料の前借りを申し出ていましたよ」
「どれぐらいの穴をあけたのでしょうか」
「何でも200万円くらいらしいですよ」
「勤め人が200万円もの借金を残すと大変ですね」
「大変ですよ。私も信用取引だけは大怪我をするから止めるように、何回か注意していたんですが。何しろ、実績を挙げているセールスマンでしたから私生活にはなるべく干渉しないようにしていました」
 社長は事件にかかわりあいになるのを避けるような言い方をした。
「田代光一の訪問回数の多かったお客の名前は判りませんか」
 社長は事務員に命じて田代のキャビネットから顧客リストを持ってこさせた。田代の使っていた顧客リストには所々,二重丸や一重丸がつけられていた。捜査官は顧客リストのコピーを貰い,印のついているお客から順番に一件ずつ当たってみることにした。
                                     
 3.
                         
 五菱銀行新宿支店を調べに行った田所刑事は預金係長に面会を求めた。
 応接室に暫く待たされた後、眼鏡をかけ頭髪を七三に分けたいかにも銀行マンらしい身だしなみのよい中年の男が愛想笑いをしながら入ってきた。
「どうも大変お待たせしました。どんな御用でしょうか」田所刑事がポケットから出して見せた警察手帳を覗き込みながら言った。
「ある事件に関係のある山本太郎という人物の身元を調べています。この普通預金通帳の名義人山本太郎さんについてお聞きしたいのですが」
「ちょっと拝見。この人は最近新しく口座を開かれたようですね」預金係長は渡された通帳をめくりながら答えた。
「住所は判りませんか」
「ちょっとお待ち下さい。資料を調べてきますから」
 預金係長が調べてくれた資料は次ぎのようなものであった。
 住所は、東京都大田区六郷○○で普通預金口座以外には取引がないこと。預金残高は千円であること。キャッシュカードを発行しており、通帳はオープンになっていること。電話番号の届け出はないこと。
「何ですか、そのオープンというのは」
「最近銀行では、お客様へのサービスと事務の合理化をはかるために、コンピューターを駆使したオンラインシステムを採用しています。つまり、五菱銀行の本支店であれば、どの支店からでもお金の預け入れ、払い戻しができるようになっているのです。オープンというのは通帳のここの所へお届け印が押されてありますね。このお届け印を使えばどこの支店からでも預金を払い戻すことができるのです」
「すると、新宿支店で口座を開いて預金した人が鹿児島支店からでも払い戻しできるということですね」
「そうです」
「となると、銀行ではこの届け印を使えば本人以外の人が引き出しに来ても払い戻しするわけですね」
「そうです。ですから私共では、お客様には万一盗難にあったときの用心に通帳とお届け印は別々に御保管戴くように呼びかけております」
「山本太郎さんから印鑑・通帳の盗難届けは出ていないでしょうか」
「目下のところ届け出はありません」
「残高は千円ということですが、お金の出し入れはありませんか」
「台帳の写しを持ってきましたが、最初千円の入金があって、その後10万円の振込が三回あります。払い戻しも10万円宛三回行われています」
                          
  日   付  お支払額  お預かり額  残高  
                          
 52. 9.10  D           1,000    1,000
 52. 9.12 FUR          100,000  1001,000
 52. 9.15  CD    100,000          1,000
 52.10. 1 FUR          100,000  1001,000
 52.10. 3  CD    100,000          1,000
 52.11. 5 FUR          100,000  1001,000
 52.11. 7  CD    100,000          1,000
                          
「日付の欄に書かれているD,FUR,CDという記号は何ですか」
「D というのは現金で預け入れしたという意味です。FUR は振込入金です。CDはキャッシュディスペンサーつまりキャッシュカードを利用して自動支払機からお客様が御預金を払い戻されたという意味です」
「なるほど、すると山本太郎なる人物は、自動支払機から三回とも金を引き出したから銀行員とは窓口で接触しなくても済むということになりますね」「その通りです」
「最初に千円預け入れしたときはどうですか」
「新規に口座を開設される場合には、色々手続きがありますので、窓口で必ず応対することになります」
「最初契約したときの書類には本人の筆跡は残されているでしょうね」
「ええ、住所氏名とお届け印を登録して戴きますので、自筆の筆跡は原簿を見れば判ります」
「それでは、本人の筆跡をコピーして下さい。それから9月12日,10月1日、11月5日の3回の振込は何処の銀行から誰が振り込んだか判りませんか」
「一寸時間がかかりますが、調べればわかります。ただ私どもではお客様の大切な財産をお預かりしておりますので、お客様に御迷惑がかかるようなことになりますと困ります。私の立場上も・・・・・・」
「勿論あなたに迷惑のかかるようなことはしませんよ。この事件には殺人が絡んでいるので協力して戴けませんか」
田所刑事の強い口調に意を決したらしく預金係長は困惑した顔をしながら女子行員に伝票を調べるように命じた。
「キャッシュカードと言うのは誰にでも簡単に使えますか」日頃銀行とはあまり縁のない田所刑事は幼稚な質問だなと思いながら聞いてみた。
「扱い方自体は極めて簡単ですから誰にでもつかえます。当店にも玄関を入った所に置いてありますから、後でご覧になって下さい」
「もしキャッシュカードを盗まれたらどうなりますか」
「盗難に気がついたら、すぐお届け戴くようにお願いしております。お届けがありますと直ちにそのカードが使えなくなるようにコンピューターに指令を出します」 
「キャッシュカードの盗難に気がつかなかった場合には」
「キャッシュカードには暗証というものがありまして、通常4桁の数字が使わています。この暗証はご本人しか知らないので、他人にはカードは使えません。それにキャッシュカードは3回間違った操作をすると以後はそのカードは使えなくなるように設計されています」
「暗証を知られてしまった時は」
「残念ながらその時はお手上げです」
「暗証が4桁の数字だと覚えておくのが大変でしょうね。本人が忘れてしまったときはどうなります」
「その時はカードは使えません。しかし忘れないように、御自分の生年月日とか御自宅の電話番号をお使いになればこのことは防げます」
「山本太郎のキャッシュカードの暗証を教えて貰えませんか」
「刑事さんそれだけは勘弁して下さい。捜査令状でもお持ちなら止むを得ませんが法的な根拠なしにそこまでお教えすると私が首になってしまいます」 田所刑事は強制捜査ではないので、それ以上の無理強いはできなかった。

    4.
                            
 田所刑事が、五菱銀行新宿支店から持ち帰った資料が捜査会議に提出された。
「山本太郎という男の身元を割り出す必要があると考えましたので、五菱銀行から聞き出してきた住所地の太田区六郷○○へ行ってみました。この番地に建物はなく、五年程前から貸し駐車場として使われています。地主は近所に住む米屋なので、山本太郎という人物が近所に住んでいるかどうか尋ねてみましたが、聞いたことのない名前であると言うのです。念のために区役所で山本太郎を同所同番地で調べてみましたが、住民登録もされていません」 田所刑事は捜査会議で考えを纏めながら報告した。

「山本太郎が実在しない人物で偽名であるとすれば、死んだ田代光一と同人物である可能性も出てきます。五菱銀行新宿支店から入手してきか山本太郎の筆跡と田代光一の筆跡を鑑識で調べて貰いましたところ、田代光一と山本太郎は同一人物の可能性が極めて強いということです。そこで、田代光一が山本太郎という偽名をつかって預金口座を開設した理由が問題になってくると思います」
「つまり、表向きに出来ない金を預けるために偽名口座を開設したということですか」田所刑事の説明をうなづきながら聞いていた青山刑事が横から口をはさんだ。
「そうです。山本太郎名義で開設された預金口座は、田代光一が人目をはばかる黒い金を出し入れするために開設したものと考えられます。しかも、預金は振込であり、払い出しはキャッシュカードが利用されています。自動支払機から現金の払い出しをすれば、伝票に筆跡も残らないし、銀行の窓口で係員に顔を見せる必要がありません。五菱銀行新宿支店で調べたところによりますと、9月15日の振込は東邦銀行銀座支店より、サカモトタカシ名義で行われていました。10月1日の振込は千代田銀行神田支店よりフジカワケンイチ名義で、11月5日のは邦国銀行川崎支店よりナカガワツトム名義でそれぞれ振り込まれていることが判明しました。なお、何れも現金で振り込まれています。これから先は私の推測になりますが、サカモトタカシ、フジカワケンイチ、ナカガワツトムも偽名ではないかという気がします。振込地銀行へ行って調べればサカモトタカシ、フジカワケンイチ、ナカガワツトムの漢字名と住所は判りますから、実在の人物か架空の人物かはすぐ判ると思います。もし、これら3人の人物が実在していれば、山本太郎こと田代光一との関係を問いただすことにより、今回の事件のある程度の輪郭がはっきりするだろうと思います」

 田所刑事の報告は捜査会議の出席者に事件解決への明るい希望を持たせるものであった。
「山本太郎名義の普通預金口座開設後、少なくとも6回金の出し入れがあったのに山本太郎は何故か通帳に記載して貰っていない。金の預け入れは他行よりの振込み、引き出しは自動支払機からとくれば、何か犯罪に利用されているという臭いがするね。しかも、死んだ田代光一は商品取引で大穴をあけているから、田所刑事のいうように田代光一と山本太郎が同一人物とすればフジカワケンイチ、サカモトタカシ、ナカガワツトム達を恐喝していたのかもしれない。先ず振込み人の身元を洗ってみよう」           
 議長は一つの捜査方針を打ち出して捜査会議を終えた。

 直ちに、東都銀行銀座支店、千代田銀行神田支店、邦国銀行川崎支店へ係員が派遣されサカモトタカシ、フジカワケンイチ、ナカガワツトムについて聞き込みが開始された。サカモトタカシは坂元高志で住所は横浜市中区寿町○○、フジカワケンイチは富士川健一で住所は東京都山谷△△△、ナカガワツトムは仲河 勉で住所は東京都千代田区丸の内×××ということが判明した。各銀行に聞き込みに廻った捜査員は振込依頼書のコピーを入手して表示されている住所地へ裏付け調査に出向いた。

 表示されている住所地はいずれも実在したが、該当する番地には坂元高志富士川健一、仲河 勉のうち誰も住んでいなかった。
 坂元高志の住所地は横浜市の簡易宿泊街で、表示されている番地には公衆便所が建っていた。
 富士川健一の住所地も東京の簡易宿泊所が多数存在する地域で、山谷△△△番地には大衆食堂「誠食堂」が労務者相手の店を出していた。
仲河 勉の千代田区丸の内×××番地は日本の代表的なオフィス街であり、示された番地には30階建ての高層ビルが建っており、昼間は1万人近くの人々が出入りするが、夜間は警備会社のガードマンが数人駐在するだけというところである。
 一方入手した振込依頼書を筆跡鑑定したところ、書体は変えてあるが、坂元高志、富士川健一、仲河 勉の筆跡には極めて高い類似性が証明された。つまり3人は同一人である可能性の強いことが示唆された。        山本太郎の筆跡は坂元高志、富士川健一、仲河 勉の何れとも類似性はなく、別人であろうと推定された。
 捜査本部では、五菱銀行新宿支店に開設された山本太郎名義の口座を介して、坂元高志、富士川健一、仲河 勉という三つの偽名を持つ謎の人物Xと死亡した山本太郎こと田代光一の間に金銭の授受があったものと推定した。 ここにきて田代光一の死亡事件は他殺の疑いが濃くなり、殺人事件として本格的に捜査することになった。
 坂元高志、富士川健一、仲河 勉という三つの名前を持つ謎の人物はミスターXと呼ばれることになり、ミスターXを捜し出すことに重点が置かれたが、捜査は最初から困難が予想された。ミスターXに関する資料があまりにも乏しかったからである。
 坂元高志、富士川健一、仲河 勉がそれぞれ、9月12日、10月1日、11月5日に立ち寄った東都銀行銀座支店、千代田銀行神田支店、邦国銀行川崎支店で当日振込依頼を受け付けた窓口の女子行員にどんな人相風体の人物であったかと尋ねたが、誰も記憶していなかった。
                                     
 5.
                         
 キューピット化粧品会社から田代光一の使っていた訪問先リストを貰ってきた青山刑事は印のついているお客から一つずつ訪問して聞き込みをして歩いた。
 田代光一のお客は何れも中流以上の家庭の主婦が多かった。子供達が小学校の高学年か中学生になって、やっと煩わしい育児から解放された年代の主婦達であった。子供を学校へ送り出し、夫を勤めに出した後、手持ち無沙汰をもてあましている主婦が田代光一のお客には多かった。

 夫は会社では中間管理職として夜の帰りが遅く、日曜祭日には接待ゴルフで家にいないことが多く、子供達は子供達で学校から帰ると学習塾へでかけてしまう。心の中に何となく空白が出来、盛りを過ぎかけた女としての自分を毎日の生活に感じ始めた年配の主婦達は、言葉巧みな化粧品の売り込みに手もなく引っかかっていた。
「いや、奥様はまだお若いですよ。これからですよ」
「奥様は美人の上に、家庭を切り回していらっしゃる主婦としての貫祿と、母としての賢さが滲み出ていらっしゃる。そういう方にこそキューピット化粧品は向いているのです」という売り込みの文句に、最初は退屈凌ぎにからかい半分応対していたのだが、いつの間にか田代の固定客にされていたのである。
 聞き込みに廻った青山刑事に警察手帳を見せられて、何を勘違いしたのか「刑事さん主人にだけは内緒にしておいて下さいね。後生だからお願いします。田代さんとのことが主人にばれたら離婚されてしまいますもの」と哀願する主婦もあり、青山刑事の失笑う買った。

 田代光一は夫にも子供にも相手にされなくなり、毎日の生活に退屈しきっている主婦達の心の空白を巧みに衝いて情事の相手役をつとめながら、化粧品の売り込みを続けてきたことが浮かび上がってきた。
 田代光一のリストに二重丸のついしいるお客は五人ほどあったが、これは肉体関係を結ぶに至ったもので、青山刑事から田代が殺されたことを聞かされると、殺人の嫌疑をかけられることよりも浮気が夫に知られることの方を恐れ、密会の場所を素直に教えた。この種の女のアリバイ調査には青山刑事も神経を使った。田代光一殺しの犯人を探し出すのが目的であり、家庭騒動を巻き起こすのが目的ではないと自分の心に言い聞かせながら。

 一重丸のついていた者は十人ほどいたが、お茶に誘ったり,ボーリングに行ったりした程度の関係であった。アリバイ調査は気骨の折れる聞き込みであったが、顧客リストに名前の載っている主婦達には、田代光一が殺された日のアリバイは何れも成立した。また、田代光一を殺さなければならない程の動機を持つ者は見いだせなかった。
 田代光一の生前からの交遊関係からは、プレイボーイ振りが浮かびあがった。しかし、相手の女性も遊びと割り切っており、キューピット化粧品の社長が言っていたように、遊びをセールスにうまく利用している点は流石であった。特に痴情のもつれとか、三角関係などという問題が浮かび上がってこないので、この面から田代殺しの犯人を捜し出すことは困難ではないかと予想された。
                                     
 6.
                         
 京浜銀行の横浜支店から300万円の現金を下ろしてきた早坂龍一は愛車のマーキュリーを運転して、産業道路の一つ手前の交差点に差しかかった。 早坂が交差点に入りかけたとき信号が変わった。いつもの早坂なら躊躇うことなくアクセルを踏み込んで通り抜けるのだが、今日は大事な現金を持っているという意識が彼の行動を慎重にさせた。アクセルを踏むべきかブレーキを踏むべきか一瞬躊躇した。ほんの僅かな時間迷った後、早坂はプレーキを踏み込んで急停車した。愛車のマーキュリーがタイヤの軋む音をたてながら静止しかけた時、後続の車に追突された。鈍い衝撃音がした。前につんのめるような衝撃をうけたが、幸い体は何処にもぶっつからなかった。衝撃の程度からして、車の後部はかなり損傷したにちがいない。

 車の接触事故が起きた時には、早く車から降りて相手の機先を制し、先に第一声を発した方が事後の交渉を有利に展開することが出来る。
 早坂は運転席から降りると大声で怒鳴った。
「気をつけろ」
 追突した車からも早坂の声に誘い出されたかのように、サングラスをかけた体格のいい若い男が降りてきた。顎には髭を蓄えている。
「どうも済みません。申し訳のないことをしました。お怪我はなかったでしょうか」体に似合わずサングラスの若い男は、頭をペコペコ下げながら謝った。
 早坂は相手から下手に出られると怒ってみるのも大人気ないと思ったので衝突部の被害の状況を調べることにした。被害者なのだから、相手に車を修理させなければなるまいと考えながら、衝突部を調べていると、突然早坂のマーキュリーが排気ガスを勢いよく吐き出して動きだした。
 追突してきた車の若いサングラスの男が何時の間にか早坂の車に乗り移っている。異変に気がついた時には、早坂のマーキュリーは現金300万円の入った紙袋を助手席に置いたままスピードを上げて走り去った。

 慌てた早坂は置き去りにされた加害者の車に乗って追跡しようとしたが、エンジンキーが抜いてある。追いかけようにも足がない。傍らを通る車は見知らぬ顔で通りすぎていく。都会の無関心であろうか、わざわざ車を止めて声をかけてくれる人もいない。
 警察に届けでれば交通事故を偽装した300万円強奪事件として緊急手配してくれるであろうし、盗まれた車はマーキュリーなので、人目につきやすい。自分の車だからナンバーも判っている。犯人は直ぐ捕まるであろう。だが盗まれた金の出所を警察に追求されると困る事情があった。
 早坂は暫く思案した。
「300万円といえば大金だ。警察というところは疑い深いところだから、確かに300万円車に置いてあったかどうか、第三者の証言か物的証拠を求めるであろう。そうすると,横山支店長に確かに300万円引き出したという証言をして貰わなければならなくなる。匿名預金の存在を警察に教えるようなものだ。新聞にも報道されるだろう。三百万円だけにとどまればいいがそれ以外のものまで調べられたら事が面倒になる。却って藪をつついて蛇を出す結果にならないとも限らない。300万円は諦めた方がよさそうだ。だが、車のほうはどうだろう。盗まれた車にはナンバーがついているから犯人はきっと車をどこかで乗り捨てるだろう。犯人の心理としていつまでも盗んだ車に乗っている筈がない。まして、300万円という大金を盗んだばかりだ。被害者から直ちに盗難届けが出されることは当然予想しているだろう。乗り捨てられた車は放っておいてもナンバーが登録してあるのだから自分のところへ戻ってくる筈だ。その時、車の盗難届けを出しておかなければ不審に思われるかもしれない。理由を調べられたら厄介だ。300万円とられたことは犯人と自分しか知らないことだ。自分さえ黙っていれば、犯人が捕まって自供しない限り、誰にも判らないことだ。恐らく追突して乗り捨てられた車も何処かから盗んできたものだろう」
 ここまで考えて早坂は結局追突事故に遭って、車を乗り逃げされたことだけを警察へ届け出た。300万円盗まれたことは自分の胸にだけ納めておくことにした。犯人の特徴は小柄で黒眼鏡をかけた中年の男と届けておいた。犯人が捕まらないで車だけ戻ってくればいいと思ったからである。犯人が捕まって早坂が300万円盗まれたことが明るみに出ては困るのである。
                                  
 早坂は小さな工事会社の社長である。鉄骨工事を得意とし、日本の高度成長期には面白いほど儲けた。早坂は要領のよい男である。人生とは演技であると信じている。悲しい振りをした方が得なときには内心で大笑いしながら悲しい振りをすることができる。楽しい振りをした方が得な時には、例え肉親が死んだ時であっても楽しくてたまらないといった表情、態度を装うことができる。それぐらいの演技ができなければ、このせち辛い世の中で成功する資格がないと信じている。うまく立ち回ることに人生の生き甲斐を感じているような男である。儲けた金を早坂は裏金として数億円も蓄えた。脱税の金である。材料の架空仕入れ、架空人件費の支払い、売り上げの過少計上等およそ企業の脱税に使われる手口は色々研究して巧妙に隠し財産を蓄えていった。
                                  
 今日盗難にあった300万円も表に出すことが出来ない金である。早坂が一番恐れているのは税務署である。ロッキード事件が発覚してから,そのとばっちりで隠し預金が見つかり、国税局の査察に入られ会社倒産の憂き目をみたという同業者の話も聞いている。早坂が今日出してきた金も京浜銀行の横浜支店に預けておいた無記名定期預金を満期解約したものである。この300万円を解約するについても、支店長と解約するか、更新するかでやりとりがあった。銀行はお客からコストの安い預金を集めて、資金需要のあるお客へ高い金利で融資し、金利差を稼ぐたとによって成り立っている事業である。一定期間払い戻ししなくて済む定期預金は安定した貸し出し資金として豊富に集めたがる。あの手この手で預金熱めに狂奔する。
「人事移動で支店長が交替したから名刺代わりに預金をお願いします」
「支店開設10周年記念キャンペーンには預金を宜しく」
「当行の合併5周年記念として預金にご協力下さい」というように事あるごとに預金を勧誘する。汚れた金であろうと清潔な金であろうと選ぶところはない。ただ預金を増やせば支店の成績が上がるのである。
                                  
 早坂も事業をやっていく上で銀行から融資を受けられないと採算の上がる利幅の大きい仕事の引き合いがあっても受注することが出来ない。
 早坂の経営する早坂建設工業株式会社は従業員70人程の小企業である。大手の建設会社の下請けをしているのだが、工事代の回収はサイトの長い手形であり、職人達に支払う人件費は現金払いである。このため、請け負い工事が完成するまでの間は立て替え払いが必要となり、工事代を回収してからも今度は受け取り手形を割引して貰わなければならない。常に銀行から融資を受けなければ会社を経営してゆけない。
 銀行から融資を受けるためには、必ず見返りに預金を要求される。一千万円の資金を調達しようとすれば、不動産担保をとられた上、最低300万円位の定期預金をしなければ資金の必要なときに直ぐ借りることができない。 早坂は表向きの資金の効率化をはかるために、裏金を取引銀行に匿名預金として預けている。小企業が銀行と対等に渡り合って金融引き締めの時期にも融資を受けることができるのは裏金預金のせいである。莫大な立て替え資金が必要となる請け負い工事を業としている小さな工事会社にとって裏金造りは必要悪である。
                                  
 早坂が車の盗難届けを出した翌日、警察から連絡があって、早坂のマーキュリーは川崎駅前に乗り捨ててあることが判明した。また早坂のマーキュリーに追突した車は、二日程前に東京都内で盗まれ、盗難届けの出ていた車であることも判明したが犯人は捕まらなかった。
             
 7.
                         
 京浜銀行横浜支店の支店長横山文蔵は、横浜中署で乗り逃げ強奪事件を担当している桑山刑事や、取材にきた新聞記者達との応接で忙しい一週間を送った。最初の事件は8月25日午後1時頃発生した。
 京浜銀行横浜支店の取引先、天川商事の社長天川啓吉は現金70万円を引き出して駐車場に止めてあった自家用車に乗り込み,五分ほど走った所で、信号にひっかかった。ブレーキを踏んで停車しかけたところを後ろからきた車に追突された。
 天川が車から降りて追突した車の運転手と短いやりとりをしてから、車の破損状態を調べているうちに追突した車の運転手が天川の車に乗り込み逃走した。置き去りにされた車のエンジンキーは抜いてあり、その後の調べで埼玉県で盗まれた車であることが判った。天川は70万円を車の物入れに入れておいたので、車と現金を盗まれたのである。天川が目撃した犯人は黒眼鏡をかけており、長髪で鼻髭を蓄えた大柄の若い男であったという。
 第二の事件はそれから五日ほどのちに起きた。京浜銀行横浜支店から従業員の給料として230万円ほどの現金を引き出して帰社する途中の佐藤産業の社長佐藤浩が全く同様の手口の盗難に遭った。犯人はやはり黒眼鏡をかけた若い男で髭をきれいに剃っていた。
 横山文蔵は、第一の事件が起きた時、中署の桑山刑事の訪問を受け、色々取り調べられた。店の外で発生した事件なので表向きは大変困った振りを装っていたが、内心では大して気にもしていなかった。「盗られる方に油断があるからつけこまれるのだ」と心の中で嘯いていた。ところが、一週間のうちに二件も続いて同じような手口の事件が続くとそうもいかなくなった。自分の店が犯罪の舞台として利用されることは、客商売上非常に迷惑なことである。二件とも銀行の外で発生した盗難なので、銀行には直接の損害も責任もなかったが、新聞に報道されたために一躍有名になってしまった。

 警察署へも何回か足を運んだし、刑事の取り調べにもつきあわなければならず、新聞記者達への応対もあった。そのことの方が煩わしかった。とりわけ桑山刑事が、手口の似ていることからこの二つの事件よりも前に発生した早坂龍一の乗り逃げ事件の犯人も今回の事件の犯人と同一人ではないかと睨んで、鋭い質問を浴びせてきたときには閉口した。
「支店長、早坂工業の社長早坂龍一氏が4~5日前に同じような手口で車を乗り逃げされています。早坂さんは、当日銀行から金は下ろさなかったのでしょうか。手口から考えると車だけ乗り逃げしたというのがどうもよく判らないのです。どうせ乗り捨てにするのですからね」
「当日、早坂社長は融資の打ち合わせに来行されただけで、お金は下ろしていません」横山は平然と答えたが肝を冷やした。
 早坂の匿名預金は何億の単位である。もし今回の事件がきっかけとなって匿名預金を徹底的に糾明されたら、隠し通せる自信がなかった。だが、警察としても被害者の早坂から現金盗難については被害届けがないのでそれ以上追求することが出来ないらしく、桑山刑事が質問を打ち切ったので胸をなでおろした。

 定期預金の中に無記名定期預金というのがある。預金者の住所氏名を伏せたまま銀行が定期預金を預かる制度である。この制度は戦後日本経済復興の過程で、家庭の箪笥に死蔵された現金を吸い上げ殖産興業に有効に利用しようという目的で設けられた制度である。預金者の秘密保持という機能があったので所期の目的を達成することができた。しかし、日本経済の復興が完了し、高度成長時代を迎えると預金者の秘密保持という副次的機能の方に重点が置かれた運用となり、資産家や成り金達の財産隠しのために専ら利用されるようになってしまった。そして脱税の金や犯罪の臭いのする金までが、無記名式定期預金として預けられている。預金を集めなければ商売にならない銀行は、お客にこの無記名式定期預金をするよう競って勧めた。銀行にとっては、札に色がついているわけではないから、この無記名式定期預金は預金量を増やすには都合のよい武器であった。

 横山文蔵は自ら勧めて早坂龍一に莫大な額にのぼる無記名式定期預金、偽名預金をさせていたので、相手がたとえ警察であっても自分の口から早坂の隠し財産の存在を匂わすような証言は信義上できないのである。ロッキード事件に関連して、右翼の大物児玉氏の裏金が司直の手による銀行調査から暴き出されたことが世間の耳目を集めた直後だけに、横山文蔵は桑山刑事の追求を恐れていたのである。桑山刑事の取り調べが終わってから密かに早坂に会った。

「早坂さん、車を乗り逃げされたとき、金は盗られなかったでしょうね。警察で調べに来ましたよ」
「そうですか。支店長、まさか変なことを喋らなかったでしょうね。私はあの日、お宅の銀行へ行きましたが、現金は下ろしませんでしたから金を盗まれる筈がありませんよ。そうでしょう、支店長」 早坂は言外に脅しの籠もった言い方をして横山文蔵の目を見据えた。

 警察の推測では犯人はどこかで車を盗んできて、京浜銀行横浜支店の近くに駐車し、銀行から出てくるお客を監視している。目星をつけたお客が車に乗るのを見届けてからこれを尾行し、交差点の赤信号で停車しかけたところを追突する。追突事故で気を逸らせておいて、相手の車に乗り込み、現金を乗せたまま逃亡する。追突させた車の鍵は抜いておいて、追跡できないようにする。逃走してからは、近くの駅へ車を乗り捨て、金だけ持って行方をくらます。実に巧妙な手口である。二つの事件に共通していることは、

1)両人とも下ろした現金を銀行名の刷り込んである紙袋に入れて手に持って銀行から出てきたこと。(犯人から見れば、現金を持っているということが一目で判る)
2)現金の入った袋は車のポケットに入れるか助手席に置いていたことなどである。
 第一の事件が起きてから、京浜銀行横浜支店では、現金を下ろして帰るお客に対して、必ず現金は身につけて帰るよう注意を喚起し、帰路万一、追突事故に遭ったときには、エンジンキーを抜いてから車を降りるように呼びかけた。一方横浜中署でも第三の事件の発生を警戒して私服刑事を張り込ませた。こうした動きを察知したのか、第三の事件は発生しなかった。
                                     
 8.
                         
「社長、山本太郎さんという方を御存じでしょうか」
 早坂がいつものように、事務所へ出勤してくると、総務課の木山みどりがお茶を盆にのせて社長室へ入ってきて聞いた。
「山本太郎ねえ。聞いたことのない名前だな」
「先程、お電話がございましたので」
「用件は」
「それが、社長に直接お話したいことがあるとおっしゃっただけで、用件をおっしゃらないのです」
「商品取引かゴルフの会員券の勧誘だろう。山本太郎という名前に心当たりはないよ」
「そうですか。それでは失礼します」
 木山みどりは丁寧に一礼すると社長室を出て行った。芳しい香水の香りが残された。木山みどりの均整のとれた後ろ姿を見送りながら、早坂はこの娘も最近とみに色気が出てきたな、恋人でもできたのではないかなとふと思った。            
 木山みどりは4年前、女子事務員募集の新聞広告を見て応募してきた。田舎の高校を卒業して、銀行へ半年程勤務したが、残業の多いのを嫌って転職してきたのである。なかなか気のきいたところがあり、どこか男好きのする顔だちが早坂の好みにあったので、総務課に配置し社長秘書も兼務させている。

 早坂は自分宛に掛かってくる電話は、社長室には直接回さないよう社員達に申しつけてある。電話回線は7本入っているが、電話交換手は置いていない。受話器についている押しボタンの操作によって通話する方式をとっている。早坂宛の電話は総務課の木山みどりに回される。木山みどりの電話応対は機転がきくし声に愛嬌があるので、客先の評判もよい。
 木山みどりは、山本太郎と名乗る男から社長宛に電話がかかってきたときその声質が彼女のボーイフレンドとあまりよく似ているので、最初ボーイフレンドが自分にかけてきたのかと思った。勤務先へはお互いに電話をかけない約束をしているので、相手の名前を確認すると山本太郎と名乗った。早坂に直接話したいことがあるという。用件を聞いても早坂に直接話さなければ判らないことだと言った。
 木山みどりが早坂の秘書として知っている早坂の交遊関係の中には山本太郎という名前はなかったので、早坂に確認してから取り次いだほうがよいと判断して社長不在ということにしておいた。

 最近不動産業者、商品取引業者、ゴルフ場の会員券取引業者が、門前払いを喰わされるのを警戒して、社名と用件を言わず自分の姓名だけを名乗ってあたかも社長と旧知の間柄のように装って電話してくるものが多い。木山みどりは,総務課へ配属されて間もない頃、早坂宛に個人名を名乗って馴れ馴れしい言葉でかかってきた電話を早坂の旧知の人と思い込み、社長へ取りついだところ、生命保険の勧誘員だったことが判り、小言を貰った苦い経験を今でも忘れていない。それ以来、得体の知れない相手からの電話は全て社長不在ということにして、相手の連絡先と用件を聞いて置くことにしている。 早坂の部屋には電話帳に登載されていない直通電話と木山みどりを介して廻されてくる電話と二つの受話器が置いてある。

 昼の打ち合わせ会議を終わって、溜まった書類に目を通しているとき、木山みどりがおそるおそる困惑した顔で社長室へ入ってきた。
「社長どうしましょうか。また山本太郎さんから電話がかかっていますが。何でもある事件のことで内密に直接社長と話したいと言っておられるのですが」早坂は面倒臭いと思ったが、ある事件のことでという言葉にひっかかった。
「そうか。出てみよう。廻してくれ」
 木山みどりは山本太郎のしつこい電話から解放されて、軽い足取りで社長室から出て行った。早坂は腰廻りの肉付きが良くなったな、きっと男ができたに違いないと又思った。
「もしもし、早坂社長さんですか」
「早坂ですが」
「やっと電話に出て戴けましたね」ハンカチでも口にあてて喋っているらしく、押し殺した声が耳に飛び込んできた。
「どのような御用件でしょうか」
「いかがですか。車の修理は終わりましたか。折入って御相談したいことがあるのですが」
「一体何のことでしょう」
「社長さん,おとぼけになっては困りますよ。何か大切な物を車の中に置き忘れたでしょう・・・・」
 早坂は一瞬絶句した。やはりあのことだと気がつくと、受話器を握る手に知らず知らず力が入って
「一体君は何者だ」声がうわずっているのに自分でも気がついた。
「どうです、社長さん。直通電話の番号を教えて下さい。また後でかけ直しますから。壁に耳ありですよ」山本太郎は勝ち誇ったような声を出した。相手の要求が判らないだけに不気味であった。直通電話の番号を教えろとか壁に耳ありとか言っているのは秘密は守ってやるということだろう。早坂は電話の相手はあの時の犯人かもしれないと考えた。
「ちょっと待ってくれ」

 早坂は受話器をそのままにして社長室の扉の窓から事務室を覗いてみた。木山みどりが一心に算盤を入れている姿が目に入った。他に受話器をとっている事務員が二人ほどいたが、現場と冗談のやりとりでもしているらしく笑い声をだしながら何か喋っている。早坂は盗聴されていないことを確かめてから、直通電話の番号を教えた。受話器の向こうに黒いサングラスをかけた若い男の姿を想像しながら受話器を置いた。気がつくと受話器が汗で濡れて黒く光っていた。

 京浜銀行横浜支店のお客が早坂の追突事故のあと続けて二件、同じような手口で盗難にあったことが、新聞に大々的に報道されたとき、早坂はまずいことになったなと思ったものである。犯人が味をしめて第三(早坂の事件を入れれば第四の)事件を起こしてくれなければいいがと願っていた。警戒も厳重になるだろうし、もし犯人が捕まれば,取り調べの過程で早坂からも、300万円盗んだことを自白しないとも限らない。そうすると早坂も取り調べを受けることになるだろう。300万円も盗まれながら何故盗難届けを出さなかったか、当然追求されるだろう。追求されると金の出所まで遡って調べられるに違いない。あれだけ新聞を賑わせた事件だから、税務署の耳にも入ることになるだろう。税務署に脱税容疑で徹底的に調べられたら今日まで営々として蓄積してきた財産は根こそぎもっていかれるだろうし、会社が倒産の憂き目をみることになりかねない。

 早坂は被害者でありながら、犯人の行方不明と不逮捕を願うという奇妙な心理状態になっていたのである。
 早坂は直通電話の番号を教えてから、電話が鳴るのを待っていた。ところが電話は一向にかかってこない。当然すぐかかってくる筈の電話がかかってこないので不安になった。
『犯人は何故電話をかけてきたのだろう。車の持ち主が私だということがどうして判ったのだろうか・・・・・・・車の登録番号を調べれば、持ち主は判るな』 早坂は目を瞑って対策を考えながら自問自答を始めた。
『被害者のところへ電話をかけてきたりしたら危険ではないか。それを敢えてしてきたところをみると何か魂胆があるに違いない。相談したいことがあると言っていた。ゆするつもりかな。とすれば、あの金の性質を知っているのだろうか。いや、そんな筈はない。あの日、私が無記名の定期預金を解約したことを知っているのは、横山支店長だけだ。金を盗られたことは、横山支店長にも話していない。横山支店長が警察に取り調べられたとき、心配して知らせに来てくれたが、金はとられていないと念を押しておいた。彼だってサラリーマンだから、自分自身は可愛い筈だ。彼の口から秘密が洩れることはあるまい。新聞に似たような手口の事件が二つも派手に報道されたから私の車の盗難事件を聞いた者が嫌がらせの電話をかけてきたのだろうか。だが、嫌がらせの電話なら、直通電話の番号を教えろという筈がない。最初電話の応対をした木山みどりの盗聴を警戒しているのかもしれない。とすればゆすりかな』

 早坂はその日予定されていたロータリークラブの会合への出席を、頭痛を口実にして取りやめ、得体のしれない電話がかかってくるのを待つことにした。ロータリークラブへ断りの電話を入れるよう命じられた木山みどりが復命にきたのをつかまえて、
「木山君、さっきの山本太郎というのは保険会社の調査員だったよ。この前の事故の状況について詳しく知りたいことがあるから教えてくれということだ。用件を最初から言えばよいのに変な奴だよ。今度山本太郎から電話があったら廻してくれ」と言った。
「かしこまりました」木山みどりは素直に返事をした。その返事からは、山本太郎からの電話に好奇心を持っている様子は窺われなかった。
                                     
 9.
                         
 翌日、昨日と同じ時刻に山本太郎から直通電話がかかってきた。
「社長さん、一寸お金のいることが出来ましてね。10万円ほど貸して戴きたいのですが」
「一体、君は何者だ。縁もゆかりもない者に金を貸す程裕福ではないよ」
「御冗談を。私は山本太郎ですよ。もうお忘れになったのですか。盗られても惜しくないお金を沢山お持ちのくせに」
「一体何の話だ」
「京浜銀行からお帰りの途中、一寸車を拝借したでしょう。あの節はお土産を沢山戴きましてどうもありがとうございました」
「それでは、君は・・・」
「そうです。山本太郎です。どうです、10万円貸して戴けませんか」
「ゆする気か、変な真似をすると警察へ突き出すぞ」
「社長さん、それはないですよ。警察や税務署に知られるとお困りになる事情がおありになるのではないでしょうか」
 言葉使いがいやに丁寧なのが、早坂の神経をいらいらさせる。弱みを握られている人間は、ゆすりたかりには抵抗力がない。まして相手の正体がはっきりしない場合には極度の不安に陥る。早坂は山本太郎が警察や税務署に連絡すると困るだろうと言った言葉にこだわった。相手は盗られた金の秘密について何か知っている。どの程度まで知っているかが判らないだけに不安が嵩じた。
「よし、電話では話が面倒だから会社へ来てくれ。会って話がしたい」
「社長さん、お互いに警察と税務署は怖い身の上です。10万円を今日中に五菱銀行新宿支店の山本太郎名義の普通預金口座3679へ振り込んで置いて下さい」
「もし嫌だと言ったら」
「そのときは、社長さん。あなたの隠し財産が国庫に帰属することになるだけですよ。いいですか、今日中に振り込んでくださいよ」
 電話はそこで切れてしまった。                   

 早坂はふうーっと大きく溜め息をついてから電話番号案内にダイヤルして五菱銀行新宿支店の電話番号を聞いた。山本太郎名義の普通預金口座は五菱銀行新宿支店に開設されていた。送金したいから山本太郎の登録住所を確かめたいと言うと女子行員は何の疑問も持たず、大田区六郷○○番地と教えてくれた。
 受話器を置くと早坂は盗人に追い銭という諺を頭の中で弄びながら、指定された口座へ10万円を振り込むために銀行へでかけた。用心のために取引銀行を使うのはやめ、銀座へ出かけて最初目にとまった銀行で偽名を使って送金手続きをした。色眼鏡をかけマスクをして、変装することを忘れなかった。帰りにその足で大田区六郷○○番地へ行ってみたが、その番地に建物はなく貸し駐車場になっていた。

 早坂は三ケ月間に山本太郎から三回金を巻き上げられた。三回とも10万円であり、金の受け渡し方法も全く同じであった。山本は決して過大な要求はしなかった。10万円という手頃な金額はゆすりが際限なく続くことを暗示していた。
 三ヵ月の間、早坂は新聞記事を注意してみていたが、銀行帰りの車が追突事故に遭い乗り逃げされたという記事も、京浜銀行横浜支店で発生した事件の犯人が捕まったという報道もなされなかった。

 早坂は山本太郎に第一回目の金をゆすり盗られた当座は、何時税務署の調査や査察があるかとびくびくしていたが、電話も問い合わせもないようだし山本に小遣いさえやっておけば、そう心配することもなさそうだと思うようになった。
 山本太郎もいい金蔓を大切にしたいという気持ちがあるのか、早坂の予想に反して密告したり、第三、第四の追突乗り逃げ事件を引き起こしたりする気配はなかった。恐喝者と被害者の間に10万円の金銭の授受を通じて奇妙な信頼関係が成立した。信頼関係というより牽制関係と言った方がより適切であるかもしれない。

       
 10.
                         
 渋谷中央署の田代光一殺人事件の捜査本部では、謎の人物ミスターXの正体を探りだそうと刑事達が懸命の聞き込みを続けていたが、めぼしい手掛かりは得られず、捜査員達に焦りの色が出始めていた。
 田所刑事は、初動捜査において現場の観察に何か見落としがあったのではないかと思い故人の霊前に線香を供えるという口実で、田代の遺骨が引き取られた実家を訪問することにした。

 富士山麓の静かな町に田代の両親は健在だった。
「刑事さん。よく来て下さいました。あの子は女運に恵まれず不幸な子でした」頭髪に白いものが目立つ老母は、目に涙を浮かべながら、田所刑事を仏壇へ導いた。線香を供えて仏前に額づいてから田所刑事は田代の遺品をもう一度見せて貰えないかと頼んだ。
「ええ、いいですとも。是非見て下さい。一日も早く犯人を捕まえて下さいよ、刑事さん。あの子の荷物はそっくりそのままあの子が学生の頃勉強していた部屋に置いてありますから」                    旧家らしく、広い庭の母屋の隣りに離れ座敷があり、花園マンションから運んできた田代光一の遺品が置かれていた。
 田所刑事は、本棚からアルバムを取り出してページをめくってみた。アルバムは学生時代のスナップ写真集4冊と新婚生活時代のものらしい写真集3冊にはいずれも一葉ずつ丁寧に脚注がつけられていた。

 田所刑事がアルバムを見ていて興味を持ったのは、車の写真が沢山貼ってあることだった。田代自身が運転していたり田代の妻が運転していたり夫婦で車の前に立っていたりした。中には、車だけを写真にしているものもあった。そして色々な車種のあることが田所の注意を引いた。田代は車にかなり興味を持っていたことが窺えた。
 書棚には新聞の切り抜き帳が置いてあった。スクラップブックにも車をテーマにした記事の切り抜きが多く貼ってあった。新車の発売ニュース、モデルチェンジの記事、車をテーマとした随筆、日本の車が地球一周ドライブをした記事が目についた。相当車に興味を持っているなと思いながらページを繰っていた田所刑事はあるページで目をとめた。そこには異質の記事が貼ってあったからである。

 京浜銀行横浜支店のお客が銀行帰りに車に追突され、車を乗り逃げされたうえ,現金を強奪されたという記事であった。車をテーマにした記事の中でもこの記事だけが趣味娯楽のカテゴリーに入らない犯罪に関係するものであるところに異質性が認められた。自動車に興味を持っていた男と自動車を利用した犯罪、何か関係がありそうであった。この記事が田代の死とどう結びつくか検討はつかなかったが、捜査の手掛かりにはなりそうに思えた。

 田所刑事はスクラップ記事を何度も読み返しながら、幾つかの推理を試みた。
『もし田代が記事に出ている追突乗り逃げ事件の犯人だとした場合には、被害者の天川啓吉にしろ佐藤浩にしろ、田代を憎いと思うだろう。田代を捕まえたら警察べ突き出すなり、盗られた金を取り返すことを考えるだろう。何らかの方法で田代が犯人であるということを突き止め、田代と金を取り返す交渉をしていて話がもつれ、殺してしまったとしたらどうだろう。しかし,この場合殺してしまうほどの動機にはなりにくい。それでは田代が乗り逃げ事件の犯人を知っていて、犯人をゆすっていたとしたらどうだろうか。このときには、犯人は田代を殺そうと考えても不自然ではないな』

 田代光一の実家からの帰路、田所刑事は天川啓吉を訪ねて質問をした。
「天川さん。この写真の男に見覚えはありませんか」
「さあ、見たことがありませんなあ」天川は写真を何度も見てから言った。

「京浜銀行横浜支店からの帰りに車を追突され、乗り逃げされたことがあるでしょう。そのときの犯人と似ていませんか」
「違いますね」
 田所刑事は第一の推理が外れていたことを確認した。田所刑事は、この事件を扱っている横浜中署へ行けば何か手掛かりが得られるかと考え、横浜中署を訪問した。たまたま桑山刑事が在署していて快く応対してくれた。
 田所刑事は事件の概要をかいつまんで説明した上で、五菱銀行新宿支店の山本太郎名義の普通預金口座に坂元高志、富士川健一、仲河 勉の名前で振込がなされ、キャッシュカードで引き出されていることを説明した。そして山本になりすました田代が乗り逃げ犯人をゆすり、ゆすられた犯人は坂元高志、富士川健一、仲河 勉という偽名を使って金を山本太郎名義の口座へ振り込んだのではないかと考えてみたと付け加えた。
「なるほど、預金の預け入れも払い出しも何故か顔を見られたくない人達がやっているという臭いがしますね」
「どうです。何か乗り逃げ事件に関して、この預金通帳と結びつきそうな資料はありませんか」
「そうだ。田所さん、今思い出したことがありますよ。実は天川、佐藤事件が起きる前にやはり、同一犯人の犯行と思われる追突乗り逃げ事件が別にもう一件発生しているのです。被害者は早坂工業の社長なのですが、金品はとられていないのです」桑山刑事は番茶を田所へ勧め、自分も飲みながら言った。
「ほう、やはり銀行の帰りに起きた事件ですか」田所刑事は目を輝かせた。「そうなんです。京浜銀行の横浜支店からの帰りに起きているのです。車の盗難届けだけは出されたのですが、その他の被害届けが出されていないのです。我々も連続して起きた似たような手口の事件なので、車以外に金銭を盗まれたのではないかと思って、早坂本人と京浜銀行横浜支店の支店長にも聞いてみました」
「それで」
「ところが早坂は車以外には何もとられなかったと断言しましたし、支店長も当日、早坂は融資の打ち合わせにきただけで、金は下ろさなかったと証言しているのです」
「なるほど、変ですね。早坂が金を盗られたことを人に知られては困る事情が何かあったとするとどういうことになりますかね」
「オーナーの事業家ですから裏金かも知れませんね」
「裏金とすれば脱税の金ですね。これは警察には知られたくないでしょう。そのことを田代が嗅ぎつけてゆすりをかけていた。これは、田代が殺される動機にはなりますね」
 田所刑事は目の前の黒雲が一挙に飛び去った気がした。田所刑事は早坂という名前をどこかで聞いたと思ったがどこで聞いた名前であるか思い出せなかった。

                   
 11.
                         
 田所刑事が聞き込んできた情報が捜査会議で検討され、早坂の身辺が洗われることになった。早坂をマークした捜査員達はまず、京浜銀行横浜支店の支店長横山文蔵を訪問した。横山文蔵は捜査員の追求にもかかわらず頑として早坂が追突事故に遭った日、本人は預金の引き出しはしていないと言い張った。
 事件当日の伝票を捜査員達はチェックしてみたが、早坂工業名義、或いは早坂龍一名義での預金の払い出しは事実行われていなかった。しかしながら膨大な枚数の伝票をチェックした捜査員は、無記名定期預金300万円が当日松山という届け出印で満期解約されていることを突き止め横山文蔵を問い詰めた。
「この無記名式定期預金300万円を解約したのが早坂龍一氏ではないのですか」
「断じて早坂さんではありません」
「それでは誰ですか」
「松山さんです」
「名前は」
「聡一です」
「本名は」  
「松山聡一という以外は判りません」
「住所は」
「鶴見区生麦です」
「番地は」
「番地は判りません」
「本名も住所も特定できない人に300万円もの大金を渡すのですか。銀行というところは面白い所ですね」
「刑事さん。無記名式定期預金というのはそういうものです。満期日に証書と届出印を持参したお客さんには、支払いを拒絶する理由がありません。これが中途解約ですと銀行としても住所氏名を確認しなければお金を渡すことは出来ませんがね」
 取り調べにあたった捜査員は無記名式定期預金という制度の壁に阻まれて松山聡一なる人物が早坂ではないかという疑念を持ちながらも確証をつかむことができなかった。
                      
 一方密かに、早坂龍一の顔写真を入手した捜査員は、東都銀行銀座支店、千代田銀行神田支店、邦国銀行川崎支店へ赴き、9月15日、10月1日、11月5日に送金係の窓口で執務した行員を集めて貰った。早坂龍一の顔写真を見せてこの男を窓口でみかけなかったかと聞いてみたが、いずれも記憶は曖昧だった。
 他方、早坂龍一の筆跡を入手した捜査員は東邦銀行銀座支店、千代田銀行神田支店、邦国銀行川崎支店で入手した坂元高志、富士川健一、仲河 勉の送金依頼書の筆跡とを鑑定して貰ったところ、似てはいるが必ずしも同一人とは断定できないという報告を受けた。早坂工業で聞き込みを行った捜査員は、総務課の木山みどりから「山本太郎」と名乗る男より,早坂宛に電話がかかってきたことがあるという事実を聞き出してきた。
 集まった資料から早坂龍一を田代光一殺しの容疑者とするにはまだ不十分であったが、田所刑事は早坂龍一に会ってみる必要があると判断した。田所刑事は早坂工業を訪ねて早坂に面会を求めた。来意を告げると田所は応接室へ通された。
「早坂さん、山本太郎という人物をご存じないでしょうか」
「知りません」
「電話で話をしたことはありませんか」
「さあ、記憶がありません。山本太郎という人がどうかしたのですか」
 早坂は怪訝な顔をして田所に聞いた。
「実は毒殺された疑いがあるのです」
「ほう、それでそのことが私とどのような関係があるのですか」
「殺される前に山本太郎があなたに電話をかけているのです」
「この私に」
「そうです。思い出して頂けませんか。捜査の手掛かりにしたいのです。あなたの秘書の木山みどりさんは山本太郎の電話をあなたに取り次いだ覚えがあると言っていますよ」
 早坂は暫く考えていたが、
「そういえば、山本太郎という名前の男から電話がかかってきたことがあります。今思い出しましたよ」
「いつころですか」
「そうですね。あれは昨年の秋だったと思いますが」
「どんな話をなさいました」
「何でも、保険会社の調査員とかで車の事故のことで聞きたいことがあるというようなことだったと思います」
「車の事故と言いますと」
「昨年の秋私の車が追突されて乗り逃げされたことがあるのです。車は翌日乗り捨てられていましたが、後部のバンパーが凹んでいました。この修理を保険でやらせたものですから、そのことについて聞いてきたのです」
「山本太郎にその件で会われましたか」
「いえ、会っていません。山本太郎の顔を見たこともありません」
「それでは山本太郎に銀行振込でお金を送金したことはありませんか」
「ありません」
「昨年の12月7日午後8時にはどこにおられましたか」
「刑事さん、私がその山本太郎を殺したとでもいうんですか。とんでもない話だ」早坂は気色ばんで答えた。
「まあそう怒らないで下さい。刑事というものは職業柄、誰にでもアリバイを確かめるという悪い癖があるんですよ。参考までに聞かせて下さい」
「12月7日というと大詔奉戴日の前日ですね。その日は名古屋にいましたよ」
「そのことを証明してくれる人がいますか」
「勿論いますよ。名古屋の『しゃちほこ』という料亭でお得意さんの接待をしていましたから」
 早坂は待っていましたと言わんばかりの口調で答えた。田代光一の服毒推定時刻は、12月7日の午後5時から午後8時までの間の時間帯である。この時間帯に早坂が名古屋で飲んでいたとすると、田代光一と早坂は接触していないことになり早坂のアリバイは成立する。
「名古屋へ行かれたのは何時ですか」                 
 田所刑事は諦めきれずになおも食い下がった。
「12月7日の午後4時発の新幹線ひかり号に乗車しました」
「それは東京駅からですか」
「そうです」
 東京発午後4時の新幹線ひかり号はダイヤの乱れがなければ午後6時過ぎには名古屋駅に到着している。早坂の主張に偽りのない場合、田代が青酸カリを服毒したと推定される12月7日午後5時から午後8時までの時間帯に早坂は西下する新幹線ひかり号の車中か名古屋の料亭『しゃちほこ』に居たことになる。
「ところで坂元高志、富士川健一、仲河 勉という人物をご存じありませんか」 
「さあ、心当たりありません」
 田所刑事は早坂龍一の表情を注意深く観察していたが、心なしか一瞬、強張ったのを見逃さなかった。田所刑事は早坂龍一が田代光一殺人事件の鍵を握っている有力な人物であるという心証を得たが、アリバイの壁に阻まれて決定的な追求ができなかった。
                                     
 12.
                         
 田代光一殺人事件の容疑者として早坂龍一が捜査線上に浮かびあがりながら決め手がないままに時間が徒過していった。
 捜査陣に焦燥の色が濃くなり始めた頃、事件解決の手掛かりとなるような事件が発生した。
 大阪で追突事故を装った自動車乗り逃げ事件の現行犯で犯人が捕まったのである。阪南銀行のお客が現金を引き出して自動車に乗り、交差点で信号待ちをしている時、後続の車に追突された。追突された車のお客が降りて後部の損傷箇所を調べているうち、犯人に車を乗り逃げされた。この時、たまたまこれを目撃した後続の個人タクシーの運転手が追跡し、車内無線で配車本部へ通報したため、高速道路の入り口で待機していたパトロールカーに捕まったのである。横浜で起きた同種の事件と手口が類似していることから横浜中署に照会があった。
 横浜中署で天川、佐藤に犯人の顔写真を見せたところ、横浜で発生した事件の犯人と同一人であることが確認された。大阪で捕まった犯人は余罪を追求され、簡単に自供した。犯人は早坂の車を盗んだ時、300万円の現金も盗んだと供述した。
 早坂龍一は横浜中署に任意出頭を求められ、大阪で捕まった犯人の顔写真を見せられ、確認を求められたが、早坂が車を盗まれたときの犯人とは似ていないと証言した。
 しかし、犯人が早坂の車を盗んだ時300万円の現金も車の中にあり、松山という名宛人の計算書が一緒に入っていたと自供しているということを聞かされ、早坂も観念したのか、事件当日京浜銀行で300万円の無記名式定期預金を松山の印で満期解約し、これを盗まれたことを渋々認めた。
 田代光一殺人事件捜査本部では、五菱銀行新宿支店の山本太郎名義の普通預金口座を媒体として、早坂龍一と田代光一の間に金銭の授受があったと断定し、早坂を厳しく追求した。最初は坂元高志、富士川健一、仲河 勉などという名前を使って山本太郎宛に銀行振込をした覚えはないと主張していた早坂も左手で坂元という字を書いてくれと捜査員から求められたとき、がっくりと肩の力を落とした。早坂が左手で書いた坂元高志という署名は、筆跡鑑定したところ、銀行振込依頼書に残されていた筆跡と同一人のものであるという判定であった。更に山本太郎名義で作られていたキャッシュカードの暗証に使われていた四桁の数字は早坂龍一の生年月日と同じであった。早坂は渋々坂元高志、富士川健一、仲河 勉の名義を使って山本太郎宛に銀行振込したことを認めた。
「刑事さん、私も男ですから妻に内緒の浮気の一つや二つはあります。あいにくそのことを田代に嗅ぎつかれて、妻に知らせるぞと脅かされたので小遣いを与えたのですよ。人を殺すなんて大それたことは神に誓ってしておりません。田代光一の死んだ時間には私は名古屋に居たんですよ。名古屋にいる人間がどうして、東京で殺人事件を起こすことができるんですか。これだけは信じてください」
 早坂は取り調べに当たった田所刑事にアリバイを主張した。捜査本部では早坂を重要人物と睨みながら、早坂の主張するアリバイが崩せなかった。裏付け捜査によって早坂の主張通り、12月7日午後4時東京発の新幹線ひかり号で早坂は名古屋へ赴き、名古屋駅前の料亭『しゃちほこ』で得意先を接待していた事実は確認された。
 師走の寒い時期に発生した田代光一殺人事件は早坂龍一に容疑がかけられながらアリバイが崩せず、未解決のままいつしか夏祭りの時期を迎えた。
 久し振りに定時に退勤した田所刑事は近くのアパートに住む青山刑事と家庭サービスのつもりで、子供達を連れて浅草のほうづき市へ出掛けた。子供達は、一年に数えるほどしかない父親との外出に、喜んではしゃぎ廻っている。
「お父さん、金魚掬いしてもいい」
「ああ、いいとも」
 田所刑事は青山刑事と顔を見合せながら微笑んだ。人垣の後ろから覗き込むと子供達は一所懸命に金魚を追っ掛けている。
「お客さん、細かいのはないでしょうか。お釣りがないんですよ」
「困ったわ。これしかないのよ」
 浴衣姿の若い女性が一万円札を出して、金魚屋の親父とやりとりしているのが目に入った。どこかで見た顔だなと田所刑事が考えていると、熱心に金魚を追っていた田所の子供が急に立ち上がった。立ち上がったひょうしに頭が浴衣姿の若い女性の伸ばした右腕にぶっつかった。
「あらっ」
 見ると一万円札が手から離れて、折からの風にあおられてひらひら舞いながら、傍らの金魚鉢の中へ舞い落ちた。人混みを掻き分けながらその女性は金魚鉢へ近づいて一万円札をつまみあげた。              
 その時、異変が起きた。                      
 同時に田所刑事はその女性が早坂工業の総務課の木山みどりであることを思い出した。今まで金魚鉢の中で元気に泳いでいた金魚が二尾、白い腹をみせて浮き上がってきたのである。
「おかしいなぁ。さっきまで元気だったのに」             
 金魚屋の親父は首をかしげながら怪訝な顔をしている。
「お嬢さん、その一万円札を両替してあげましょう」
 田所刑事は五千円札一枚と千円札五枚を取り出して木山みどりに渡した。
「あらっ、刑事さん。今晩は。どうもありがとう」
 木山みどりは千円札を一枚金魚屋の親父に渡すとビニール袋に入れて貰った金魚を受け取り、連れの若い男を促してそそくさと帰っていった。
 田所刑事が青山刑事に耳打ちすると青山刑事はうなづいて、木山みどりと連れの若い男の後ろ姿を見え隠れに追いかけて行った。
「つまらないな。もう帰るの」                    
 子供達の抗議をよそに、田所刑事は金魚屋の親父から先程一万円札の舞い降りた金魚鉢をそっくりそのまま譲り受けると帰路を急いだ。寸暇を家庭サービスに割いている父親の顔から刑事の顔に変わっていた。青山刑事のアパートへ子供を届けてから田所刑事は自宅で青山刑事から電話のはいるのを待っていた。
                                     
 13.
                         
 田所刑事が夜店から持ち帰った金魚鉢の水と金魚からは青酸カリが検出された。木山みどりが落とした一万円札にも青酸カリ反応があった。
 青山刑事が尾行した木山みどりの連れの若い男は刑事に尾行されているとも知らず、横浜市内の高級住宅街へ帰って行った。青山刑事が尾行した青年は早坂工業と同業の工事会社の社長の息子で、将来社長になることが約束されている男であることが判った。早坂工業へ商談できたとき木山みどりを見初めて結婚を前提とした交際を始めて入ることも青山刑事の聞き込みによって確認された。田所刑事は捜査の過程で明らかになったことを頭の中で反芻してみた。
1)田代光一が青酸カリの服毒によって殺されたこと。
2)早坂龍一の秘書木山みどりが所持していた一万円札に青酸カリが付着していたこと。
3)田代光一と早坂龍一の間の山本太郎名義口座を媒体とした金銭授受関係。4)早坂が追突事故に遭い300万円を盗まれていながら崩せない早坂のアリバイ。
 反芻しているうちに一筋の論理が紡がれ始めた。
 田所刑事は纏まりかけた推理を裏付けるために、東京駅周辺の金物屋と鍵屋の聞き込みを精力的に続けた。一方青山刑事は木山みどりの12月7日前後の行動を調べることに精力を傾注した。
 捜査会議で田所刑事は自信に満ちて自分の考えを述べた。


「私は田代光一殺しの犯人は早坂工業の社長早坂龍一であると考えます。早坂龍一は自動車追突事故に遭って、300万円の大金を盗まれましたが、盗難の事実をひた隠しに隠しておりました。ところが過日、追突事件の犯人が大阪で捕まり、早坂から300万円盗んだことを自供しました。早坂もこの事実を突きつけられて300万円盗まれた事実は認めました。何故300万円もの大金を盗まれながら盗難届けを出さなかったのか。それは脱税で蓄えられた裏金だったからです。目下税務当局でも300万円の出所について調査に着手しましたのでやがてそのことははっきりするでしょう。
                                  
 一方被害者の田代光一は化粧品のセールスマンとして早坂の自宅にも出入りし、早坂の妻とも面識がありました。これは田代光一の顧客リストに早坂三智子という名前が載っていたことから明らかであります。世間話の過程で夫が自動車追突事故に遭遇したことを聞いた田代光一は、最初大して気にもとめていなかったでしょう。その後、続けて発生した京浜銀行を舞台とする追突乗り逃げ現金強奪事件の報道を目にした田代は、悪知恵の働く男だけに早坂の自動車事故だけが新聞に報道されなかった事実に疑問を持ちました。所轄署に問い合わせましたが、盗難届けが出ていなかったのです。
                                  
 手口が似た事件なのに早坂だけ現金を盗られていない点に着目した田代は何かいわくがありそうだと考えました。ロッキード事件で政治家や右翼の大物の隠し預金が世間の耳目を集めていた時なので、田代が早坂は裏金を盗られたのではないだろうかと見当をつけるのに時間はかからなかったと思います。もし早坂が裏金を盗まれているとすれば、ゆすりの材料になると考えた田代は一計を案じたに違いありません」
 田所刑事は手帳をめくりながら続けた。               
「追突事件の犯人になりすまして、ゆすることを考えたのです。田代が声色を使い電話で試しに早坂にゆすりをかけてみたところ反応があったのです。相手に正体を見破られずに金を受け取る方法として考え出されたのが、山本太郎という架空名義の預金口座を利用した振込とキャッシュカードによる現金の引き出しです。
                                  
 一回10万円のゆすりはゆする側にもゆすられる側にも手頃な金額だったと思われます。ところが田代の側に急にまとまった金が必要になることが発生したのです。商品取引で穴をあけた田代は12月10日の決済日までに百万円ほどの金を用意しなければならなかったからです。そこで田代は早坂を恐喝して金を巻き上げることにしました。
                                  
 一方ゆすられた早坂も、馬鹿のように金だけおとなしく差し出すほどのお人好しではありません。まして、相手は自分の脱税の事実を知っている男です。当然恐喝者を密かに闇へ葬ることを考えたのです」          田所刑事はここで一息つくと湯飲み茶碗をとって冷えた番茶を一気に飲み干してから続けた。
「田代光一殺しの犯人を早坂龍一であると想定した場合、今までネックになっていたのは、12月7日の午後5時から午後8時までの時間帯、つまり田代光一の死亡推定時間帯に早坂が西下する新幹線ひかり号の車中または名古屋駅前の料亭『しゃちほこ』にいたという事実です。このアリバイが崩せないために、早坂が田代を殺す動機を充分持ちながら早坂を犯人と断定することができませんでした」
「それではアリバイが崩せたのですか」駆け出しの服部刑事が目を輝かせながら聞いた。
「そうです。田代光一の死因は青酸カリの服毒による中毒死ですが、死体の傍に青酸カリを服毒するのに使われた容器もコップも残っていないし、青酸カリの入った食べ物の残りも発見されなかったので、田代を騙して青酸カリを飲ませた犯人が証拠を隠すために、きれいに片づけたというふうに我々は考えていました。従って田代が殺されたとき、犯人は田代と同じ場所にいた筈だという前提を暗黙のうちに作り上げて早坂のアリバイにこだわり過ぎていました。
                                  
 私は木山みどりが持っていた一万円札から、青酸カリが検出されたのを知ったとき、目を開かれる思いがしました。私は一つの仮説をたててみたのです。早坂龍一が田代光一からまとまった金額の金をゆすられたのを奇貨として青酸カリを塗布した札束を田代光一へ手渡したとしたらどうでしょう。札束は新券で用意されたに違いありません。札束を受け取った田代は花園マンションの自室へ帰り、青酸カリが塗布されているとも知らず、夢中になって指に唾をつけながら札束を数えているうちに毒が廻ってそのまま絶命したのではないでしょうか」
 一息ついて田所刑事は更に続けた。
「もしこの仮説が正しいとすれば、早坂は12月7日、東京発午後4時の新幹線ひかり号に乗車する直前に田代光一に何らかの方法で青酸カリを塗布した札束を渡したであろうと考えました。そうすると、金の受け渡し場所は東京駅ということになります。ところで金の受け渡しに銀行口座の振込という慎重な方法をとっている田代が早坂に顔を見せるような受け取り方をする筈がありません。
 そこで思いついたのがコインロッカーを使う方法です。コインロッカーの鍵を予め複製しておけば、コインロッカーの番号を指定するだけで、鍵の受け渡しなしにロッカーの中に置かれた札束を受け取ることができる筈です。コインロッカーを金の受け渡し場所に指定したのが、田代であるか早坂であるかは捜査してみなければ判りませんが、田代を毒殺する意図のある早坂にとっても、コインロッカーを利用して人知れず、凶器の札束を田代に渡すことは良い思いつきだった筈です。
 そこで私は東京駅周辺の鍵屋、金物屋の聞き込みをしてみました。すると12月6日の日に田代とおぼしき男がコインロッカーの鍵の複製をしていたことを突き止めたのです。早坂は完全犯罪を狙って名古屋行きのアリバイ工作をしたものと思われます。早坂が新幹線ひかり号の車中若しくは『しゃちほこ』に着いた頃、田代が札束を前にして中毒死するという筋書きだったのです」
「なるほど、見事な推理ですね。だが、田代の部屋から毒を塗った札束が発見されなかった事実をどう説明されるのですか」
「それは、木山みどりが、花園マンションの田代の部屋を訪れ、死体の前に投げ出されている札束を着服し、素知らぬ顔で逃げ出したと考えれば、簡単に説明がつきます。浅草のほうづき市で木山みどりが青酸カリの塗布された一万円札を持っていたことに不審を持った私と青山刑事は田代光一と木山みどりの素行を調べてみました。驚いたことに木山みどりと田代光一とは密かに交渉を持ち肉体関係を結んでいることが浮かび上がってきたのです」
「田代のプレイボーイ振りは既に調査済でしたから、田代が行きつけのモーテルや連れ込み宿を中心に木山みどりと田代光一の写真を持って聞き込みをしたところ、相模原のモーテル『相模』の授業員がこのアベックには見覚えがあると証言したのです」
「田代と木山が密接な関係を持っているとすれば、木山みどりが青酸カリの塗布された一万円札を持っていた事実がうまく説明できます。つまり、商品相場で大穴をあけた田代は早坂から金をゆする一方、木山みどりにも無心をしたものと思われます。田代から言葉巧みに窮状を訴えられた木山は、惚れた女の弱みから金を用意して花園マンションを訪問したのです。部屋の鍵は予め、田代から予備鍵を預かっていたことでしょう。
 合鍵を使って部屋へ入った木山がそこに見たものは、札束を前にして中毒死している田代の死体であり、最初びっくりした木山みどりも目の前の手の届くところに投げ出されている札束をみて、邪心を起こしたのです。田代とは人目をはばかって密会していましたから二人の関係は誰にも知られて居ません。木山は札束を着服して逃げても自分が疑われる心配はないと考えました。預かっていた鍵に石鹸をつけて丁寧に洗ってから、田代のポケットへいれました。木山みどりには一つの計算があったと思います。部屋への出入りは誰にも見られていませんから、合鍵をポケットに入れておけば、捜査陣の目を誤魔化せると考えたことでしょう。我々も田代と木山のつながりは全然知らなかったのですからね。ところが、まさか札に青酸カリが塗ってあろうとは気のつかなかった木山は、浅草のほうづき市で盗んだ一万円札を金魚鉢の中へ落としてしまい、今回の殺人事件の謎を解く手掛かりを我々に提供してしまったのです」
 田所刑事はうまそうに煙草の煙を吐き出しながら説明を終えた。早坂龍一は殺人容疑で、木山みどりは窃盗容疑で逮捕された。凶器に使われた一万円札は、木山みどりの財布の中から二枚見つかった。木山みどりの預金通帳に12月10日付けで90万円預金されていることも確認された。裏付け証拠が次々に集められ、突きつけられて早坂龍一は田代殺しの犯行を認めた。
 窃盗容疑で逮捕された木山みどりは次のような供述をした。      
「私は田代さんと手を切りたいと思っていました。最近、工事会社の社長の息子さんと交際を始め、プロポーズされました。もし田代さんと関係のあったことが判ったら、この話は壊れてしまいます。たまたま、田代が商品相場で大穴をあけて金策に頭を悩ませているのを知りました。私にも金を貸して欲しいと言って来ましたので、かねて用意しておいた青酸カリを紙袋に入れて田代の部屋を訪れました。田代は札束の勘定に夢中になっていました。田代が水を飲みたいと言うので、私は丁度よい機会だと思い、青酸カリを入れた水を田代に渡しますと田代は一気に飲み干し、やがて苦しみだして間もなく死にました。証拠を残さないように後片付けをして、合鍵を田代のポケットへ入れ、札束をハンドバッグに納めて、誰にも見られないように部屋を出ました。まさか札束に毒が塗ってあり、私よりも前に田代に殺意を持っている人がいたとは夢にも思いませんでした。しかもそれが早坂社長であるとは全然知りませんでした」
 田代光一の殺人事件は落着したが、早坂龍一の札束に塗った青酸カリが直接の死因となったのか、それともコップの水に入れた青酸カリが直接の死因になったのかは判定の難しい問題として残された。
 第一の問題は田代が札束を数えるとき、指に唾をつけながら数えたかどうかということ。
 第二の問題は田代が札束をかぞえるとき、指に唾をつけながら数えたとして、指先についた青酸カリが人を殺すだけの力があるかということである。もし致死量に達しないとすれば、早坂は明らかに田代に対して殺意を持ちながら実行行為において不能な犯罪ということになり、木山みとりが田代を直接死に追いやった加害者ということになる。
「早坂という男は、悪運の強い男ですね」と田所刑事は、裁判の結果を予測するように青山刑事に言った。
「国税局が活躍し、彼を裸にするのを期待して待つしかないのかもしれませんね」
 青山刑事は自嘲するように応じた。     

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 仮説 小野小町は男であった                            早島 潮                                     


 新嘗祭は、陰暦十一月の中の卯の日に天皇が、新穀を天神地祇に献上し自らも親しくこれを食する儀式である。天皇の即位後初めて行うものを大嘗祭という。翌日行われるのが、豊明の節会で天皇が豊楽殿へ出御して新穀を食し諸臣にも賜る。賜宴のあと五節舞姫の舞があり禄や叙位等の儀式が行われる。五節舞姫は天武天皇が創設したもので袖を五変翻して舞うところから五節舞といわれ、天皇直属の舞であり感謝・服従・臣従を意味するものである。大嘗祭には五人の五節の舞姫が任じられるが、叙位に預かる上に、天皇の燕寝に侍る慣行があったので権門、貴族は競って娘を進上した。

 嵯峨天皇は在位年数14年間(八0九~八二一)であったが、24才から38才までの青壮年期にあたり内寵を好んだ結果、后の数は少なくとも29人以上であり、皇子皇女の数は五十人以上に及んだという。

 従五位下陸奥介小野氷見の第三子岑守は嵯峨天皇の皇太子時代から侍読、近臣として仕えた。小野氷見には岑守の異母妹にあたる娘があり大町と呼ばれていた。
「岑守、賀美能皇太子が即位されて弘仁の治世が始まったが、帝の御機嫌はどうかね」と氷見は退出してきた岑守に聞いた。
「それが必ずしも御機嫌麗しいとは言い兼ねる状況なのです」
「どうしてだね」
「平城上皇との仲がどうもしっくりいかないからのようです」
「何故なのだ」
「平城天皇は、もっと天皇として治世にあたりたいと考えておられたようですが、病のために弟の賀美能皇太子にやむなく譲位されたのです。ところが天皇就任を固辞されていた賀美能皇太子は皇位を譲ずられて、嵯峨天皇として即位されるや七日後には法令をだして観察使の特典である食封を停止し、代償として国司を兼任させ公解稲の配分に与からしめる措置を素早くとってしまわれたのです。観察使の制度は平城天皇が創設されたものですから、上皇の感情をいたく傷つけることになってしまったらしいのです。もともと病が治れば重祚したいとの意向を持ったうえでの譲位でしたから、今上天皇が上皇の意図を無視して勝手なことをおやりになるという感情をお持ちになったようです」
「それは困ったことだ。由々しい問題に発展しなければよいが」
「上皇の病も大分軽快されたようですが、本復とまではいえないようです。そもそも平城上皇が今上天皇へ譲位されたのは病気が治らないのは早良親王や伊予親王の怨霊に祟られているからであり、皇位さえ退けば怨霊の禍から逃れることが出来、命を永らえることができると考えられたからなのですが、一進一退を繰り返しており本復する気配がないのです。そのために住まいを変えれば怨霊の禍がすくなくなるという陰陽師の勧めで既に五回も遷宮されましたが効果がありません」
「それは難儀だね。今度は平城京へ遷宮するという噂が流れているが、本当かね」
「そうなんですよ。そのため天皇も上皇に気を使われて藤原仲成を平城宮へ遣わして上皇のための新宮を造営しようと力を入れられているのです」
「ところで、今度の大嘗祭には小野氏からも五節の舞姫を進上してお上の内寵を戴くよう考えることが小野氏の繁栄にとって大切なことだと思う。そこで大町姫を進上しようと思っているがどうだろう」と氷見は岑守に言った。
「そうですね。大切なことですね。少し運動してみましょう」

 小野氷見の娘大町姫が弘仁元年の大嘗祭の五節舞姫に選任され天皇の寵愛を受けて男子を出産したのは翌弘仁二年九月のことであった。折りしも、薬子の変が発生し世情が騒然としているときであった。年初来体調をこわして病気がちであった今上天皇に対し病気が快癒した平城上皇が寵愛する尚侍(ないしのかみ)藤原薬子とその兄藤原仲成らに唆されて重祚を目論見、東国に赴き挙兵しようとして失敗した事件である。この事件で小野岑守は近江国固関使として鎮撫にあたった。薬子は自殺し平城上皇は頭を丸めて出家し失意のうちに奈良旧京の宮殿で十四年の余生を送ることになるのである。 

 小野氷見の娘大町は、密かに男兒を出産したが、女児として育てることにした。大町がそのように決意したのは次のような理由からである。今上天皇の後宮に住む皇后、后、夫人嬪等が生んだ皇子、皇女の数は五十人以上にものぼり生母の身分が高いか低いかでその生涯は決まっていた。男であれば皇位継承権はあるが、母が皇后でなければ、まず皇位につくことはできない。皇后に男子のない場合、后、夫人、嬪の生んだ男子に皇位継承権が廻ってくることもあるが、今までの歴史ではなまじ皇位継承権を持つが故に非業の死を遂げざるを得なかった例は枚挙に暇がないくらいである。その皇子が優秀であればあるほど政争の具として利用され命を全うする事ができない。例えば、遠くには山背大兄皇子、有間皇子、大津皇子、近くには早良皇太子、伊予親王等がある。その点女子であれば、母親の身分が高ければ高い程結婚の相手が少なくなるという問題はあっても、皇位継承権を巡って命をとられるということはない。

 大町は生まれた子供を女児として育てるにあたっては男根を切除するという大胆なことをおこなった。そして、出羽国へ国司として赴任することになっていた一族の小野良実に嬰児を女児として密かに託したのである。小野良実には実子の女の子がいたが、小町と別け隔てなく育てた。

 小野良実によって出羽国で幼年期を女児として育てられた小町は長ずるに及んで和歌の才能を開花させた。出羽国から帰京した時は十五才の年頃になっており、母大町の勧めによって仁明帝の更衣として宮廷に出仕したが、容姿端麗で顔も美形なので絶世の美女との評判であった。詠む恋の歌は情熱的で仁明天皇朝のサロンに集まる文化人達の憧れの的であった。特に次の歌は小野小町の恋の情熱を伝えるものとして有名である。
「思いつつぬればや人の見えつらむ 夢としりせばさめざらましお」
「わびぬれば身をうき草のねをたえてさそふ水あらばいなむとぞ思ふ」
 小町が才媛であることを伝える話は幾つもあるが、次の物語は謡曲「草子洗い小町」として古くから愛好者によって謡われているものである。

 明日内裏で催される御歌合で、大伴黒主の相手には小野小町と定められたが黒主は到底詠歌では小町にかなわないので一計を策した。小町の私宅に忍び込み、彼女が予め用意した詠歌を口ずさむのを立ち聞きしてこれを万葉集に書き入れ、古歌であり物真似であると讒奏して小町を陥れ奇勝を得ようとするはかりごとである。

 四月半ば、御歌合の会の当日小野小町、大伴黒主、凡河内躬恒、紀貫之、壬生忠岑等の面々が左右に着座して御歌合わせが始められた。紀貫之は帝の命令により小町の歌をよみあげた。
「蒔かなくに何を種とて浮き草の波のうねうね生い茂るらん」
「なかなか良い出来映えの歌だ」と帝はお褒めになった。
「おそれながらこの歌は古歌です」と黒主が抗議した。 
「どの歌集に出ているのですか。作者は誰ですか」と小町はひどい恥辱に黒主に抗議したところ
「万葉集に出ており、作者は読み人知らずです」と黒主がしゃあしゃあと答えた。
「証拠はありますか」と小町が追求すると
「これこの通り」と黒主は懐より草子を取り出して誇らしげに示したので列座の一同は唖然として小町と黒主の顔を交互に見比べたが、小町は悲憤に耐えず敢然と抗議した。
「草子に後から入筆したものと思われますので、清らかな水でその草子を洗ってみて下さるようお願い致します」
「小町の言う通りにしてみよ」と帝の勅許をえて、草子を洗ってみると小町の歌は見るかたもなく消えてしまったので一同目を見張って驚いた。悪だくみが露顕して非常に苦しい立場に立たされた黒主は自害しようと席を立ったが、小町のとりなしで帝が黒主をお赦しになったので小町は面目を施し聖代と和歌の道を讃える舞を舞って御歌合わせの会は終了したのである。

 この他に、小野小町を題材とする謡曲には「鸚鵡小町」「関寺小町」「卒塔婆小町」等があるが,何れも年老いて落魄した小町が登場してくるのである。これは若い頃美貌と才能に恵まれ、六歌仙にも選ばれ名声をほしいままにした才媛も年老いては醜い姿になり、果てはされこうべになるという人生無常の仏教思想を教えているものであろうか。小町の歌にも、衰えゆく容色を嘆げいた「花の色は移りにけりないたずらに我が身世にふるながめせしまに」というのがあるが、これらの謡曲を創作した作者のモチーフになっているのであろう。 そして「通い小町」は小町を恋して九十九回も通い続けた男を拒む小町が題材になっているのである。この拒む小町のイメ-ジは、糸を通す穴のない針を「小町針」と言ってみたり、川柳にも「とは知らず開かずの門へ九十九夜」と詠まれたりして、身体的に女性として欠陥があったのではないかと疑われている小町のイメージなのである。

 ところで小町の生みの親である大町が、嬰児小町の男根を切除するにあたっては、小野家の秘伝となっている隋の煬帝からの返書の内容が頭の中にあったのである。即ち隋・唐の朝廷には男根を切除した宮廷奉仕者「宦官」という人種のいることを知っていたのである。

 小野一族の先祖に当たる小野妹子は六0七年に聖徳太子の国書を携えて遣隋使として大陸に渡り、皇帝煬帝に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という有名な国書を渡した外交官である。小野妹子は帰国にあたり隋皇帝煬帝より国書を託されたが、妹子は帰国後この国書は帰国途中に百済の国を過ぎるとき、百済人に掠めとられたので提出することが出来ませんと報告した。

 この国書盗難事件については、1)本当に国書を奪われたとする説と 2)国書の内容が日本を東夷として見下したものであったので、妹子が道中破棄して盗難にあったと偽ったとする説がある。
 大町が口伝された小野家に伝わる秘伝の隋の国書には「東夷の国は宦官を貢物の中に加えて朝貢せよ」との一条が入っていたのである。

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 雀と強盗                  

 1. 大寒に入り、シベリア方面から寒気団が、日本列島の上空に張り出してきた。布団の中で腕時計を眺めながら、一分でも長くとうたた寝の快楽を貪った中年の銀行員が、意を決して布団を抜け出してからの行動は素早かった。歯を磨き、髭を剃りながら頭の中で、家を出るまでの身支度の手順を考えている。
 今日は茶色の背広にしよう。服は洋服箪笥の右端の方に入っている筈だ。ネクタイは昨日、取引先の社長からフランス土産だといって貰ったのが、鞄の中に入っている。あれが茶色の背広に似合うだろう。Yシャツはクリーニング屋から夕方届いたのが下から二番目の引き出しに入っている。
 靴は下駄箱の一番下の段に茶色のが仕舞ってある筈だ。今日は寒そうだから厚手のオーバーにしたほうがいいだろう。オーバーは妻に言って出しておいて貰おう。
 中年の銀行員は外気の寒さに思わずオーバーの襟をたてて駅へ急いだ。
 今日は何か変わったことがあるかもしれない。あの頑固者の工事会社の社長が、定期預金をしてくれるかもしれないと思いながら、いつもの惰性で足が動いていた。
                                      
2.
                         
 一羽の雀が銀行内に飛び込んで一寸した騒ぎがあった。開店前でシャッターがまだ開いていなかったので、通用口から入ってきたのだろう。女子行員はキャッキャッ陽気に騒いでいる。両手をVの字に曲げて肩を震わせながら怖がっている女子行員もいる。
 箒を持ち出してきて雀を叩き落とそうとしている若い男の行員がいた。
 雀は行内の騒ぎをよそに、高い天井から吊り下げられたシャンデリアの上に止まって人間共の騒ぎを見下ろしている。中年の銀行員がどこから見つけてきたのか、採虫網と脚立を持ち出してきて素早く雀を捕らえてしまった。 可哀相だから逃がしてやろうと言う者もあれば、焼いて食べようという者もある。鳥籠に入れて飼ってみようと言う者もある。
 雀は中年の銀行員が子供の教材に貰い受けることになった。彼は伝票を仕舞っておく段ボールの箱を捜し出してきて千枚通しで空気孔を作り、雀をその中へ放した。雀は寒さのせいか暴れもせずにおとなしかった。
                                      
3.
                         
 中年の銀行員は、猟銃を抱えた若い男がサングラスをかけ、マスクをして入り口から入ってくるとカウンターへ近づいて行くのを目撃した。はてな、今日は防犯演習の日だったかなと考えていると、雀を箒で叩き落とそうとした若い男が、その猟銃を抱えた男に飛び掛かっていった。
 ズドンという鈍い発射音がした。若い行員はのけぞるようにして崩れ落ちた。キャーという女子行員の悲鳴。
「動くな。動くと撃つぞ」
 サングラスの若い男は,叫びざま天井と床に向けて一発ずつ発射した。
 逃げまわり悲鳴をあげていた行員と来客は動くのをやめて声を出さなくなった。防犯演習ではなくて、本物の銀行強盗だという認識が、一瞬間のうちに居合わせた人々の脳裏に刻みこまれた。この強盗は人を殺すことを何とも思っていないようだ。
 中年の銀行員は、入り口の硝子戸を開けて制服の警官が右手にピストルを構えながら入ってくるのを目撃したとき、まずいなと思ったが口がこわぱって声が出せなかった。
 バーンという物のはじけるような音がすると、制服の警官は前へ崩れ落ちて動かなくなった。パーンと再び銃声がした。反対側の入り口から同じようにピストルう構えながら入ってきた制服の警官も前者と同じように倒されてしまった。行内には重苦しい空気が漂い静寂が支配した。
                                      
4.
                         
 犯人の声だけがいたけだかに響き渡った。
 行員は全員犯人の前に一列に並ばせられた。右端から男子行員、女子行員来客という順番で。
「責任者は前へ出ろ」
「私が責任者の支店長だ」
 初老の眼鏡をかけた大柄な男が一歩前へ出ると
「十五数える間に五百万円用意出来なかったから、こんなことになったんやお前が悪いからや」これだけ言うとズドンと腹部へ発射した。支店長は倒れて両手をピクピク動かしていたが、間もなく動かなくなった。
                                       
5.
                         
 ガサ、ゴソという紙をはひっかくような音がした。
「なんだ」犯人は猟銃を音のする方向へ発射した。
 ガサゴソという音は前よりも大きくなった。
「あの音は何だ。お前調べてこい」犯人は中年の行員に命じた。
「今朝、店の中に迷い込んできた雀を段ボールの箱に入れているのでその音です」中年の銀行員は犯人の顔色を窺いながらおずおずと答えた。
「可哀相なことをするな。逃がしてやれ」
「可哀相なのはこちらですよ。どうか逃がして下さい」中年の銀行員はチャンス到来とばかり犯人に懇願した。
「お前ら大切な人質や。逃がすわけにはいかん。雀は逃がしてやれ」
 中年の銀行員はおそるおそる段ボールの箱に近づくと、段ボールの箱の蓋を開けた。雀はバタバタと飛び立ち、行内の天井裏を慌ただしく逃げまわった。
「うるさい」犯人は雀に向かって発射した。雀は石ころでも落ちるように落下した。
「逃げようとする奴はこうなるんや」犯人は銃口を並ばせた人質達の方へ向けながらニタリと笑った。
「オイ、お前。あそこに倒れとるポリ公が死んだか生きとるか確かめて来いナイフで耳を切ってみるんや」犯人は中年の銀行員に銃口を向けた。
「そんな酷いことを」中年の銀行員は銃口に怯えながら思わず口走った。
「なにおっ」犯人が声を発するのと猟銃の発射音が同時に聞こえた。
 中年の銀行員は右肩を撃たれて倒れ、床の上を転げまわった。
「おい。今度はお前の番だ。剃刀を持ってきて、あの男の右耳を切り取ってこい」犯人は身近にいた若い男子行員に命じた。
「はい」
 目の前で何人もの人間が虫けらのように射殺されるのを見せつけられたその若い男子行員は、顔を真っ青にして、剃刀を右手に持つと、まるで魔法にでもかかったように、今、倒れた中年の銀行員の傍らへ近寄ると、右耳を剃刀で切り取った。鮮血がほとばしり、ギャッーという声がした。
                                      
6.
                         
 銀行強盗事件は犯人が疲労して隙を見せたとき、突入のチャンスを狙っていた機動隊の狙撃隊員に狙撃され解決した。犯人は逮捕されて病院へ運ばれた。
 中年の銀行員も救急車で病院へ運ばれた。右耳を切り落とされ、右肩に散弾10発を受け、重傷であったが一命はとりとめた。強盗犯人は病院で手術を受けたが意識を回復しないままに息う引き取った。
 犯人に撃ち落とされた雀はごみ箱に捨てられた。
                                      
7.
                         
 中年の銀行員の耳を切り落とした若い銀行員は、事件解決後、奇妙な言動をするようになった。刃物を見ると「僕の耳を切り落としてくれ」と懇願するのである。
     (了)              

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蝋羅の結婚 

 暮れも押し迫り、営業担当者はカレンダーを持って挨拶廻りに忙しく、総務担当部長 加資美武史は大掃除の指揮やら年末調整の指示とか、迎春のための門松、しめ縄、保有 両のお札の交換等、目の回る忙しさのただなかに居た。

「部長、少しだけお時問を戴けないでしようか」と石沢蝋羅が真剣な眼差しで言った。 「面倒な話かいと加賀美武史は、心臓がキュンと鳴るのを意識しながらも平静を装って いた。
「ちよっと込み入っていますので」と蝋羅は人の良さそうな顔の頬に紅をさしながら答 えた。
「それでは、応接室へ行こうか」と加賀美武史は蝋羅を応接室へ促した。

 加資美武史はこの会社へ入社以来、人事担当者として、何度こんな形で女子事務員と 対したことであろうかと思いながら庶務の小母さんヘコーヒーと緑茶を頼んで応接室へ った。今までの経験では十中八九が退職の意思表示である。早速明日には求人広告会社 電話して補充採用の広告をうたなければなるまいと考えていた。職業安定所は最近「ハ ーワーク」等と呼び名を変えて、失業者達の集まる所という暗いイメージを払拭しよう しているが、若い女性達の職業紹介業務にはあまり寄与していない。駅頭で小銭を払え 簡単に入手できる「トラバーユ」とか「ビーイング」等という求人雑誌のほうが若い女 達にとっては手っとり早い情報源だし気にいった賞品でも選ぶ感覚で就職先を選べるか である。

蝋羅はローラと読み、一風変わったバタ臭い名前なので、珍しさも手伝って苗字で石 と呼ぶ者はなく「ローラさん」で通っていた。ローラは三年程前に欠員補充のため「ト バーユ」に求人広告を乗せた時、これに応募してきた三十人の中から唯一人選ばれた気 てが良く容姿端麗で秀逸な女子事務員であった。機転が効くことは営業事務には最も向 ており、その如才ない機知に富んだ電話のやりとりと来客の応対には客先に評判が良く 会社のイメージアップには大いに貢献している看板娘ともいうべき事務員であった。
 勿論ワープロはブラインドタッチの技能を有しており、汚い見積もり原稿でもこれを ちどころに立派なドキュメントに仕立て上げて呉れるし、検算を頼めば見とれる程の素 い指先の動きで電卓を叩き間違いを正して呉れるのである。そしてなによりも人柄がよ 、美人ですらりと伸びた脚はファッションモデルにしても十分通用するものを持ってい 。
年齢は28歳で適齢期にあり、社内外の若い男性からはよく電話がかかってきていたので 彼女を射落とす果報者はどんな男であろうかと社内の関心事であった。

「まさか退職したいというのではないだろうね。ローラさん」加賀美武史は単刀直入に 切り出してローラの顔を覗き込んだき込んだ。
「まことに申し訳ありませんが、そうなんです。三月一杯で退職させて戴きたいのです が」ローラは消え入りたい風情で加賀美の目を見上げながらなにかを訴えている。目標 定面接の際、加賀美の質問に対して暫くの間結婚の予定はないと断定したことを思い出 ていたのかもしれない。

「つい十日前の目標設定面接の時、少なくとも後一年間は縁談のエの字も無いし、辞め ことはありませんと言っていたばかりではないの」とつい詰問口調になってしまう。
人事担当者としては社内の人の異動には常に神経を尖らせておかなげれば人員計画に齟 齬を来すので、野暮を承知で質問をする習性ができている。

「まことに申し訳ありません」
「おめでたですか」
「いいえそうではありません」
「それなら、何故辞めるのかな。あなたのお友達田沢真美さんが退職するのでそれが引 金になったということかね」
「それも一つのきっかけです」
「田沢真美きんが、あなたより後から入社してきて、あなたより先に結婚退職するから 辛くなったというのかもしれないが、そんなことはよくあることで何も気にすることは いと思うがね」
「そんなことは全然気にしていません」
「それなら、何も辞める必要はないじやあないの。不景気で就職難の時代なんだから、 職先を探すのも大変だろう」
「それはそうですが、いろいろありまして」
「職場で人間関係が気まづくなったとか、お局さんが嫌がらせをするとか」
「そんなのではありません。皆さん良い方ばかりですし、今時の会社としてはお給料も いほうだし、残業もないから働く場所としては最高だと思ってます」
「では辞めなくてもいいじやあないですか」
「でも辞めたいんです」
「何故ですか」
「どうしても理由をいわなければなりませんか」
「勿論。理由なしに退職届けを受理するわけにはいかないよ」
「まだ決めたわけではありませんが、多分結婚することになると思います」
「付き合ってている人がいるということですか」
「ええ」
「それはよかった。相手はどんな人なの。会社の人なの」
「色々ありましてまだ申仕上げる段階ではありません。私自身の気持ちとしてはその人 結婚したいと心に決めているのですが、障害が沢山ありまして今月一杯で結論を出した と考えている所なのです」
「それなら敢えて相手の名前は聞きませんが、どんな問題があるの、よかったら聞かせ 貰えないだろうか」
「まあいいじゃありませんか。はっきりしたら御報告いたしますから」
「親に反対されているということなの」
「それもあります」
「相手の人が海の向こうの人で肌の色が違うとか」
「それは違います」
「特殊な地域出身の人とか」
「それも当たっていません」
「それでは年齢が極端に離れているとか、或いは姉さん女房とか」
「・・・・・・・・・・・」
「図星のようだね。それで何才くらい違うの」
「かなり離れています」
「一回りも違うのかな」
「そんなに離れていません」
「それでは何才なのよ」
「8才です」
「相手が年下ということですね」
「ええ。恥ずかしいわ」
「何も恥ずかしがることはないでしょう。最近のはやりだからいいじやあないですか。 花だって8才年上の姉さん女房だったでしょう」
「・・・・・・・・・・・」
「それはそうとして、あなたのように美人で聡明な人が何も年下の人と結婚しなくても い人は沢山いると思いますがね」
「端の人はやはりそう思うのでしょうね。それでは、これで」
「待ちなさい。結婚するかしないかの結論は何時だすの」
「年内には決めたいと思っています」
「先方の両親はこの縁談には賛成しているの」
「ええ。そちらは大丈夫です」
「問題はローラーさんの両親の反対が障害になっているということなの」
「そうです」
「御両親がこの結婚に反対される理由は多分経済的なことだろうと思いますよ。ローラ ーさんは今28才でしょ。すると彼氏は20才だ。その年齢だと、日本の年功賃金制度のも では給料が安くてやっていけないのではないかな。有名芸能人か有名なスポーツ選手で ければまず経済的にやっていけないと思う。人の親なら誰だってそう考えるよ」
「そうなんですよ」
「御両親がどうしても許して下さらないときはどうするつもりですか」
「その時は駆け落ちする覚悟です」
「決意は固いのだね」
「はい」
「あなたのような美人で聡明な人が、何故8歳も年下の男性と結婚しようなどと考える かよくわからないね。丁度恰好の適齢者が沢山いる筈なのに」
「たしかに、好意を寄せて下さる方は沢山いますわ。でも私の気持ちが燃え上がらない です」
「贅沢をいって」
「今回は、気持ちが燃え上がったというわけですか」
「そうなんです」
「何故ですか」
「とても目の美しい人なんです」
「目が美しい?」
「そうなんです。輝いているのです」と蝋羅が真剣な顔付きで言った。
 加賀美は「輝いているんですか」とおうむ返しに声をだしたが、頭を一発殴られた思  であった。

 加賀美は何時から自分の目は輝かなくなったのだろうかと考えた。加賀美が大学を卒 したのは日本の高度成長がその緒についた頃であった。加賀美には学生時代に付き合っ ている淑子という女性がいた。加賀美が理想主義的な人生観を語るとうっとりした表情 慎ましやかに聞いて呉れるのが淑子であった。淑子は土地の資産家の娘で三人姉妹の末 子であったが父を早く亡くし、賢い母の手一つで育てられ、田舎の小中学校は加賀美と じ町立の学校に通ったが、高校、大学はミッションスクールヘ進学した。

 加賀美は勉強が良く出来て小中学時代は開校以来の秀才だと言われていたが、両親が 地からの引き上げ者であったため、飢餓の辛さをよく知り尽くしていた。苦学しながら 立の有名進学校を経て国立の一流大学ヘ入学した頃、加賀美と淑子の交際は始まった。 賀美は弁護士になってゆくゆくは政治家になろうという志を持っていた。この志を淑子 よく語って聞かせていた。

 淑子は加賀美の言葉を信じて、あなたの目が輝いている限り、志が実現するまでどん ことがあっても付いていくわと言った。加賀美の志は簡単に砕けた。アルバイトをしな ら苦学を続けて、志を実現するよりも友人達のように学生生活をエンジョイしながら大 を卒業し、一流会社に就職して世間並の小市民的な生活をしたいとの誘惑が心に芽生え じめた頃、淑子との交際は終わっていた。

 志を捨てた加賀美に淑子が魅力を感じなくなったからである。加賀美は見合いをして 産家の娘と結婚し平凡なサラリーマンの道を選んで今日に至った。淑子は医者に嫁いで 人の子を設げたが夫に若くして先立たれ、学習塾を経営しながら二人の子供を育てあげ の責任を果たした。あのとき淑子の言った「目が輝いている」男として、弁護士になっ いたらもっと違った人生になっていただろうと思ったのである。

回想から現実の我にかえった加賀美は、年長者の貫祿を示さなければと平静さを装って 言った。
「私も二人の娘の親だ。幸い二人とも最近、世間並みな結婚をしてくれてほっとしてい ところだからローラさんの両親の心配はよく理解できるよ。やはり相手が年下だったら いに反対したと思うよ。外国人であっても多分反対するだろうな」
「普通の親ならそうでしょうね」
「そりやそうだよ。親が誰よりも娘のことは心配しているのが健全な家庭のあり方だと うよ」

「世間の常識に従って、年齢差も三才位年上の平均的な男性と結婚して子供を二人位生 で、教育ママをやり、郊外に戸建てのマイホームを持ち、あくせく住宅ローンを返済す ために家計をやりくりして夫の定年退職を迎える。あとは夫婦で海外旅行を何回か楽し で孫達に土産物を買って帰る。そんな中で生を終える。これが平均的な日本人の現代の 福というものでしょう」と世の中が分かりきっているような口ぶりである。
「ローラさんの幸福観とはどんなものですか」
「よく分かりませんわ。でも目が輝いて何かに向かって進んでいるという状態。心の満 とでもいったことではないかしら」
「心の充実という面に着目した点は最近の若い人には珍しく、敬意を表します。だが、 方の御両親の心配されるように幸福は精神だけではない。物質も伴うものですよ。そこ 老婆心ながら。幸福の条件というものについて話してあげたい。・・童話でも小説でも 王子様と王女様や若い男女が困難を克服して結ばれ、幸福な生活を送りましたというハ ピーエンド物語が多いのですが幸福の内容は書いていないことが多いでしょ。そこで幸 とはなにか、その内容を考えてみる必要があると思いますが、どうでしょう」

「そうですね。ぜひ聞かせで下さい」
「幸福の四条件ということを言った人があるんですよ。幸福の四辺形とも呼ばれていま す。その第一は、本人の健康です。男女とも精神的にも肉体的にも健康であること。第 に、経済的な基盤があること。つまり多くはいらないが文化的で健康な生活ができるだ の収入が確保されること。
第三に、二人を取り巻く人間関係が良好であること。感情的な蟠りがなく、親戚や兄弟 中に犯罪者や精神異常者がいないこと。第四に、自己実現ができること。自分でやって ることや生活していることに生き甲斐ややり甲斐を感じられること。この条件のどれ一 が欠けても幸福とはいえないと思います。こういう観点からローラさんの縁談を考えた き両親は第二の条件つまり経済的基盤のことを一番心配されて反対しておられるのだと う。その点をもう一度良く考えて結論を出した方がいいと思いますよ。何といっても親 子供のことを一番考えていてくれるのだからね」
「ありがとうございます。非常に良いお話を聞かせて戴きました。よく考えて見ます」


「昴さん。幸福の四条件て知つていますか」とローラは昴に云った。
「何ですか,出し抜けに」
「実は、今日会社に退職の意思表示をしてきたの。そうしたら部長が、幸福の四条件の 話をしてくだきったの」・
「それでは、本気で僕との結婚を考えてくれているんだね」
「そうよ。真剣よ。だから私の質問に答えて」
「志、健康、金、あとはなんだろう。セックスがうまくいくことかな」
「そうね。結婚生活ではそれは欠かせないわね」
「セツクスがうまくいかなくて、浮気をしたり離婚したりというケースが結構あるんじ ないだろうか」
「子供が出来なくて夫婦仲がうまくいかない、などということも聞いたことがあります よ」
「つまるところ、セックスがうまくいかないということでしょうね」
「僕達の場合、その心配はなさそうだね。君は十分満足しているようだし。よがり声は 高だものね」と昴が言うと
「まあ昴タラッ」とローラは昴を打つ真似をした。

「志、金、健康この三つはいいわね、セックスは家族愛に含まれると思うわ。もっと大 く把えて、その人を取り巻く人間関係ということよ。この四つの中で一番大切なものは だと思いますか」
「僕は志だと思う。将来に対する希望とでも言ったほうがよいのかな」
「部長に言わせれば自己実現ということですよ」
「私に言わせれば志ということだと思うよ」
「私達にいま一番欠けているのはお金ね」
「志さえあればお金はついて来るさ。健康で志があれば今お金のないことは問題にはな ない」
「私達の場合、私達を取り巻く人間関係が一つの阻害要件になっているわね」
「心配しているんだよ。ローラさんの両親は、ほんとに僕達の結婚を許してくれるだろ か。そのことだけが問題だと思う。いよいよとなれば、駆け落ちするだけの覚悟はして るんだけど、できれぼ祝福されて結婚したいからね」
「大体、目処はついているのよ。昴の気持ちが固くて心変わりしない限り、説得してみ るわ」
「その点なら、大丈夫だよ。ローラさんは僕の誇りであり、宝なんだから。志さえ堅持 ていれぼ、お金の問題や年齢差の問題なんか克服していけるよ。僕の心はローラさん以 にはないんだから」

「昴の志を聞かせて欲しいわ」
「僕の志は3年内に独立して、工事を請負えるようになり、5年後には会社を設立し15 後には市会議員になり、20年後には国会議員になることだ。今二十歳だから25歳で社長 35歳で市会議員、40才で国会議員、50歳で大臣になるということだ」
「素晴らしいわ。目が輝いているわ。それだけのことが言える若い人が最近いないのが しいわ。私が昴に注目したのは貴方の目が輝いていたからよ。そして仕事に夢中になっ いる姿よ。人の嫌がる残業や休日出勤を買ってでるのは何時も昴なので最初はこの人守 奴かなと思ったわ。だけどそれにしては目の輝きが違うのね。それが私の気持ちを動か たんだわ」

「ローラさんが私をそんなふうに思って呉れるのは有り雛いが、私には財産はなにもな ですよ。父親は私が小さいときに蒸発したし、残された母親は兄貴と私と妹を育てる為 、託児所に預けて、キヤバレー勤めをしたんです。とても貧しく人様に誇れるものは何 ないんですよ。あるのは健康と志とやる気だけ」
「私だって今までに幾つか縁談もありましたし、恋愛もして結婚しようと思った人もい すわよ。でも具体的に話が進んでくると逃げ腰になる男ばかりで、実りませんでした」 「何故ですか」
「私の理想が高かったから」
「ローラさんの理想とは」
「志の高い男であることよ」
「私は志が高いことになるのですか」
「現代の男はなんですか。皆、小市民的な発想しかできないのかしらね。マイホームを って、遅れず、休まず、働かずで適当に会社生活をすごせばいいと考えている人達ばか ですわ。管理社会だから実力の振るいようがないなどと言って適当にやっているのです ら。いじましいたらありやしない」
「志の高いことでは誰にも引げをとらないつもりです」
「自分は志が高いと口では言えるわ、でもそれを保持し実現することは難しいことよ。 志の高きが本物か偽物かを見分げる物差しがあるわ」
「その物差しとは何ですか」
「コンプレックスよ」
「コンプレヅクスだって」
「そうよ、しかも劣等感のほうがバネになるのよ。優越感のほうは往々にしてその人を 目にするわ。優越感に安住して自分を高める努力をしなくなるからよ」
「ローラのコンプレックスは何」

「八才も年下の男性と結婚すること、この劣等感がきっと人間関係を円滑にしていくバ になると思っているの、親戚や友人達はいろんなことを言うでしょう。でもそれは社会 既成観念に囚われた俗人の言葉よ」
「ローラ、僕は幸せだ、志を高くもって必ず実現するからね。志が挫けそうになったら 励して欲しい」



「部長、この前の御報告をしたいので少しばかり、お時間を頂けないでしょうか」と帰 り支度を済ませたローラが、加賀美の机の側ヘ来て言った。
「うまく進んだかね、今日は大した仕事もないからお茶でも飲みに行こうか」
 会社の近くにあるルノアールという喫茶店でコーヒーを注文すると、加賀美は単刀直 に切り込んだ。
「結婚することに話は纏まったの」
「はい。お陰様でなんとか纏まりました」
「相手は誰ですか。まさか社内の人間ではないでしょうね」
「ところがそうなんです、会社の工事課にいる珠洲河昴さんです」
「えっ、入社二年目の彼が」
「よく、社内の噂にもならずに巧くやったね」
「苦労しました」
「御両親は了解されましたか」
「はい。苦労しましたが、やっと納得してくれました」
「一番反対された点は何処でした。年齢ですか、それとも経済基盤」
「両方です。特に経済基盤のことを言われました。でもこれは子供ができるまで共稼ぎ れば克服できることですし、親と同居することにしましたので家賃もかかりませんし」 「それは良かった。だけど子供が生まれたら、幼稚園だ、学校だで費用は掛かるし働く とも難しくなると思うがね」
「それは、覚悟のうえです。母が孫の面倒は見てあげると言ってくれていますし」

「でも、どうしても分からないのは、あなたのように美人で聡明な女性が何故年下の男 と結婚するかということです。いくら流行りとは言え8才も年下とは」
「今だから言いますが私には人間のタブーを破った血が流れているのです」この言葉を にした時のローラの顔は青ざめていたが、目の輝きは何かを思い詰めたもののみが持つ 無を言わせぬ険しいものであった。
 
 ローラの語るところによれば、ローラの父は理髪業をしているが、何故か生まれ故郷 ことを話したがらなかった。九州の片田舎で生まれ、九州の地で理髪業の修行をした後 京し、現在地で理髪屋を開業すると同時に現在の母と結婚しローラを養子に貰ったと教 られていた。

 短期大学を本業して就職し最初に配置された課の独身男性と交際が始まり結婚を決意 たとき、出生の秘密を知ることとなった。その秘密とは九州の田舎で理髪業を営んでい 祖父には、男二人と女一人の子供がありローラの父は長男であった。父の弟と妹は小さ 頃から仲が良く妹は大きくなったら小兄ちやんのお嫁さんになるんだと言っていたとい ことである。子供達が思春期を迎えた頃、父の弟と妹が人の道を踏み外し妹が妊娠して まったのである。この嬰児を長男である父が養子にして育てたのがローラであるという である。なんともおぞましい話であるが、これでローラのような美人で聡明な女性が何 八才も年下の男性と敢えて結婚するかの謎がとけたと加賀美は思った。それにしても、 人の所為ではないがこれだけの宿命を背負った女性を包容して、敢えて結婚に踏み切っ 珠洲河昴の若いが故の無鉄砲な勇気とひたむきな愛情に一種の羨ましさを感じるのであ た。

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コンパスのような女性 

  「あなた、もういい加減に若い娘さんのところへ年賀状を出すのは止めて下さいよ。先方だって男の名前で年賀状がくるのは、迷惑なんですから」と妻の田鶴子が横から口を出した。
 中村 肇はせっせと年賀状の宛て名を書いている。朝から一心に書いているのだが、なかなか終わらない。几帳面な性格の肇は、自分に送られてきた手紙は全部住所を切り抜いて、名刺帳に整理してあるので、夏、冬二回は決まって三日間ほどかけて、年賀状と暑中見舞いを書くのが習わしになっている。肇は年賀状を印刷屋に頼んだことがない。儀礼的に出す賀状であるとはいえ、通り一片の文句を活字で印刷して出すことには抵抗がある。受け取る相手に心が籠もっていると感じて貰える賀状を出したいと心掛けているのである。そのため、肇は毎年趣向を凝らせた版画か水彩画を自分で一枚宛描くことにしている。余白には必ず一筆近況を書き添えなければ気が済まない律儀な性格である。
 肇の賀状はいつも評判が良かった。正月三日頃に配達されてくる肇宛の賀状には、綺麗な賀状をありがとうとか美しい賀状を拝受したとか、心の籠もった賀状に接し恐縮したという文句が書き添えられているものが多かった。 

 肇の傍らで書き上がった賀状に郵便番号を書き入れる作業を手伝っていた田鶴子が一枚の葉書を取り上げた。
「あなた、桜井香織さんという方から毎年賀状がきているようですが、どういう方ですの」
「幼な友達でね。コンパスのようなものさ」
「なんですかコンパスというのは」
「船に羅針盤というのがあるだろう。あれのことさ」
「どういう意味ですの」
「僕の人生を導いて呉れた人」
「まあ、憎らしい。その方と何かあったんですか」
「ハッハッハッ。冗談さ。コンパスという綽名がついていた」
「なあんだそうなの。それにしても上手な字を書く人ね」
「うん、書道は巧かったね。確か師範の免許をとった筈だよ」
「まだ結婚はなさらないのかしら」
「いや、結婚しているんだよ」
「あらそうなの。ご主人の名前を書いていらっしゃらないから、独身の方かと思っていましたわ。ご主人がおありになるなら、なおさらのこと、あなたが賀状をお出しになるのはおかしいわ。先方のご主人だって、男から妻宛の賀状が届いたりするといい気持ちはしないと思うわよ」
「わかった。わかった。今年から出すのは止めにするよ」

 肇は妻から詮索されるのがうるさくなったので、大きな声で答えておいてその日の賀状書きを終えることにした。なまじ、妻に詮索されたら、肇がコンパスのようなものさと言った意味を千言万語費やしても的確に説明することは出来ないだろう。田鶴子は肇が机の上を片付けだしたので、それ以上詮索するのは止めて台所へ立って行った。

 桜井香織は旧姓青山香織といい、肇と同じ町内の出身で、年も肇と同年である。肇が終戦後、満州から引き上げてきて住みついたのは、瀬戸内地方の畳表の産地として有名なH町であった。

 肇は小学2年生で、下に二人の妹がいた。満州で薬品会社の試験室に分析技師として勤務していた父は、応召し内地の通信学校勤務のまま、終戦を迎え、家族より一足先に、住み慣れた故郷のH町へ復員していた。そのため、肇の母は戦後ベストセラーになった藤原てい著「流れる星は生きていた」にでてくる主人公と同じような苦労をして肇と二人の妹を女手一つで引き連れてH町の親元へ引き上げてきたのである。
 肇がH町の小学校へ転校したとき、同学年にいたオチャッピィーな女の子が青山香織である。青山家はH町でも由緒ある家柄の旧家で、香織の母は見識高い美貌の未亡人であった。青山夫人は後妻であり、先妻の長男と自分の腹を痛めた三人の女の子を育てていた。香織は末っ子であった。なさぬ仲の長男は既に東京へ遊学しており、H町にはミッションスクールに通っている長女と小学5年の次女と末っ子の香織が親元から通学していた。

 青山夫人は亡夫が残した遺産と実家からの援助で豊かな生活をしているというのが世間の風評であった。青山夫人はなかなかの社交家で、婦人会の会長を勤めたり、学校のPTAの役員をしたりしていたが、なさぬ仲の長男を継子扱いして東京の学校へ追い出してしまったとか、女だてらにPTAの役員に名を連ねては、見識ぶった発言をするとか、娘達を中学からミッションスクールへ通わせて、見栄をはっているなどと噂されていた。それらの噂は戦後、物資の不足している時代に亡夫の遺産と実家からの援助でぬくぬくした生活をしていることへの羨望と若後家を通しながらも女手一つで旧家の体面を保っていこうとするひたむきな姿勢に対するやっかみが入り交じったものであった。

 財産を満州へ置き去りにしたまま裸一貫で引き上げてきて、一から新しい生活を始めた肇の両親も青山未亡人には羨望の念を持っており、世間の噂に同調しているようなところがあった。肇が転校してきたのは二年生の時である。世間の噂や近所の陰口が耳に入っていたので、肇は青山家の人達は特殊な世界に住む別種の人種のように考えていた。

 肇が小学三年になった夏休みに、瀬戸内海の小島で臨海学校が催されることになって、肇も初めて親元を離れ、三泊四日の臨海学校へ参加した。一学年百二十人ほどの生徒のうち、臨海学校へ参加した学童は30人程で比較的生活にゆとりのある家庭の子供に限られた。肇が香織の存在を意識したのはこの臨海学校でのことであった。

 臨海学校へ参加した30人の学童のうち、男子はサポーターと称する三角褌または六尺褌をつけており、海水パンツなどという贅沢な水着をつけている男子学童はひとりもいなかった。女子学童にしても水着を着ている者は2~3人で大半の女子はシュミーズのままで海に入った。水着を着ている2~3人の女子の中に青山香織がいた。
 香織は黄色の水玉模様の海水帽を被っており、シュミーズや三角褌をつけた学童の中では、目立つ存在であった。そして泳ぎのできる者は男女取り混ぜて10人程しかおらず、女子で泳ぎの出来たものは香織だけであった。肇は腕白小僧達に鍛えられているので泳ぎは得意であった。
 泳ぎの出来る10人程の学童は沖の飛び込み台まで泳いでいってはキャッキャッと騒ぎながら、水をかけあったりしてふざけていた。

 波打ち際から50メートル程の沖合にある飛び込み台の所では水深3mほどあり、そこから沖へ出ることは禁止されていた。学童達は丸太で作られている飛び込み台の一番低いところから飛び込みをして、潜水競争をしたり、競泳をしたりした。男子の中に混じって飛び込み台まで泳いで来て、低い所から飛び込みをする黄色い帽子の香織は水の女王のように振る舞った。
「誰か一番高い所から飛び込める人いるかしら」と香織が言った。飛び込み台の一番高い所は2m50cm近くもあるので、流石に腕白連中もしり込みした。
「おい。お前やってみろよ」
「随分高いもんなぁ」
 皆が尻込みするのを見て、肇は胸が激しく高鳴るのを感じた。ここはひとつ自分がいいところを見せたいと思った。肇は2m50cmもある高い所から飛び込んだ経験はなかったが、今ここで飛び込んで見せれば、香織の気持ちを引きつけることができるだろうと思った。肇は武者振るいすると、一番高い所へ登っていった。下を見ると柱につかまって香織が見上げている。黄色の水着と水玉模様の帽子が早く飛び込んでご覧なさいと囁きかけている。肇は使命感のようなものを感じると目を瞑って、飛び込んだ。耳がジーンと痛く水が鼻孔を激しく刺激した。随分長い時間水に潜っているような気持ちがした。ぽかり、水面に顔を出すと
「凄いわ。中村さん」と香織が感嘆の声を発した。肇は香織のその言葉を聞いてポット体が熱くなった。香織が命令するならもっと高い所からでも飛び込むことができると思った。憧憬の対象に一歩近づいたと思った。香織との間に絆が出来たと思った。

 臨海学校の最終日に、高波に浚われて、他校からきていた3年生の女の子が溺死するという事件が起きた。夕闇迫る頃、柩に入れられた遺体が宿舎から運び出されるのを遠巻きに眺めた肇は、飛び込みの時香織との間にできた絆がこの見知らぬ少女の死によって断ち切られたのではないかという不安な気持ちになった。

 肇は香織と同学年であったが、小学校を卒業するまで、同じ級になったことがない。香織は二人の姉がそうであったように、小学校を卒業すると、ミッションスクールへ進学したので、H町の新制中学へ進学した肇とは没交渉になってしまった。

 再び肇が香織と交渉を持つようになったのは、大学1年の夏休みのことである。激しい受験勉強から開放され、目的の国立大学に入学した肇は親元を離れて古都での学生生活にも漸く慣れ、祇園祭り、大文字焼きを土産話しにして初めて帰省した。肇が帰省するのを待ちかねるようにして、小学校時代の同窓会が開かれた。中学時代ではなく小学時代の同窓会であるところに意味があった。

 同窓会の幹事役を買ってでたのは桑野である。桑野は頭の良い男であったが、家庭の経済状態が許さず夜間高校へ通って、苦学力行しミシンのセールスにかけては特異な能力を発揮した。Rミシンでは3年間続けたトップセールスマンの実績を看板にして独立を試み、商事会社を設立して意気大いに上がっているときであった。桑野は自分の隆盛を同級生に誇示したいという気持ちがあった。また、とみに美人の誉れ高かった青山香織に近づきたいという魂胆もあった。そこで桑野は小学校時代の同窓会という奇抜なことを思いついたのである。H町にはH小学校とH中学校しかなかったから、H中学は小学校の延長であり、仮に同窓会を開くとすれば、H中学の同窓会を開くのが常識であった。ただ、中学時代の同窓会を開くことになると中学校からはO市のミッションスクールへ通学した青山香織が漏れてしまう。一計を案じた桑野は小学校時代の同窓会を開くという大義名分をたてておいて通知をだしたのである。

 中学卒業以来5年程経っていたので、久し振りに見る顔は皆立派な大人であった。当日30人程の同窓生が集まり、旧交を温めた。女子の中には既に結婚して母親になっている者もいた。

 餓鬼大将だった清山が学校菜園の西瓜畑に忍び込んで、西瓜に麦藁を突き刺し中の汁を吸ってしまったのを先生に見つかり、一日中廊下に立たされた話しとか、おませの栗坂京子が粗相して小便京子という異名をとった話しなど思い出話しに花が咲いた。

 餓鬼大将の清山が銀行マンになっており、物腰が柔らかく話し上手になっているのは驚きであったし、小便京子が化粧品会社のマネキンガールになって見違える程美しくなっているのも肇には新しい発見であった。幹事の桑野は「社長」「社長」と呼ばれ得意になってセールスの秘訣なるものを披露していた。

 青山香織は皆が楽しく談笑しているのをにこにこしながら聞いていた。桑野は誰彼となく如才なく話しかけていたが、栗坂京子と青山香織には特に親切に振る舞っていた。いつとはなしに、話題は恋愛論、結婚観、女性観、男性観へと転じていった。若い年頃の男女の集まりとしては当然のなりゆきであった。

 肇も桑野に促されて、恋愛論を喋らされるはめになってしまった。
 肇は小学校3年の時、臨海学校へ行って、飛び込み台の高い所から飛び込んだ話しをした。そして、あのとき未経験にもかかわらず、自分を一番高い所から飛び込ませる原動力となったものが、初恋の感情であり、純粋な恋愛感情というのは、そのようなものではないかと思うと述べ、この純粋な気持ちを大切にしたいと結んだ。肇は喋りながら、香織の方を注意していたが、香織は頷きながら、肇の話しを熱心に聞いていた。水玉模様の帽子を被り、黄色の水着を来ていた女の子が香織のことであると気づいている筈なのに、その表情からはよく読み取れなかった。しかし肇は香織の視線に眩しいものを感じていた。

 同窓会の翌日、桑野が香織の自宅を訪問しようと誘いにきた。青山香織の母は年頃の娘三人を抱えているので、若い男が遊びにきてくれるのを歓迎していた。娘三人とも中学校から女子ばかりのミッションスクールに進学させたので、親の目の届くところで男性と交際させるのを望んでいる。香織の姉二人の男友達もよく香織の家へ遊びに行っている。昨日同窓会で桑野が遊びにいってもいいかと尋ねたら是非来てほしい。母も歓迎する筈だと言った。自分独りで行くのも変な気がするので、肇も一緒についてきて欲しい。同級生の中で時間に余裕のあるのは学生の肇くらいしかいないので君を誘ったのだと言うのである。
 肇は桑野に誘われて香織の家へ付いて行った。
 H町の城跡のある山の中腹に、生け垣に囲まれた古風な造りの家が青山香織の家であった。桑野が案内を乞うと香織が出てきて、訪問客が肇と桑野であると知って笑顔を作り
「あら、珍しい方がいらっしゃったわ。さあどうぞ。どうぞ、お上がり下さい。お母様、桑野さんと中村さんがいらっしゃったわよ」と奥へ声をかけるとその声に香織の母親も奥から出てきて遠慮しないで上がってくれという。 桑野と肇が奥へ通されると、堀り炬燵の布団を取り払って机代わりに使っているらしい炬燵台の上には、今しがたまで母娘が談笑していたとみえ、いちごが皿に入れて置かれていた。
「よくいらっしゃいました。桑野さんも中村さんもお元気でしたか。二人の姉が嫁いでしまいましたので、香織と二人で寂しく暮らしていますのよ。色々、楽しいお話を聞かせて下さい。若い男の方のお話は頼もしくていいですね」と少し上がり気味の桑野と肇の様子を見て、香織の母は言葉巧みに話しかけてくる。やがて香織が台所からお茶を入れて持って来た。
「中村さんも桑野さんもH町に帰って来られたら、これからも是非、遊びにいらっしゃって下さい。香織の二人の姉達のお友達も皆さんよく遊びにいらっしゃって下さいましたわ。皆さんそれぞれ立派な社会人になられて。皆さんが成長なさるのを拝見しているのはとても楽しいことですのよ」
 香織の母は自分の息子達が親許へ帰ってきたような喜びようである。

 このようにして、肇は大学生の4年間、帰省すると必ず香織の家へ遊びにいくようになった。肇の学校生活の模様とか、香織の学生生活が話題になった。ある日話題が肇の将来の職業に及んだ時、肇は司法官を目指して勉強していることを披露した。肇には国家試験に合格する自信はなかったが、香織のために頑張るつもりであった。
「司法試験に合格したら、香織さんにプロポーズしようと思っています」と肇が意中を漏らすと香織は顔を朱に染めたが、             
「私は司法官は堅苦しくて嫌よ。お医者さんか、大蔵省とか通産省の公務員の方が好きだわ」と言った。
 肇は戸惑った。医者になることは法学部の学生にとって無理な注文であった。だが,大蔵省か通産省の役人になることはできる。この時以来、肇は司法官試験の勉強から上級国家公務員試験へと勉強方法を変えた。結果的にはこのことは功を奏した。

 4年生になって国家公務員試験に合格し、通産省入りが内定した肇は、卒業前の短い休暇を利用して帰省し、香織の自宅を勇み立って訪問した。香織と母は何時ものように肇を迎えてくれたが
「中村さん、良かったわね、通産省に入省がお決まりになって。おめでとうございます。お蔭さまで香織も、この度K大学の医学部でインターンをしている方と婚約が調いましたのよ。中村さんや桑野さんのような良いお友達と交際させて頂いたお蔭ですわ。これからも、帰省されたときには元気なお姿を拝見させて下さい」と香織の母が言った。

 香織の母の説明によれば、未亡人として女手一つで三人の娘を育て挙げ、それぞれに嫁がせることができた。女手で娘を育てるのだから、どうしても父親のようにはいかない。そこで、信頼出来る男友達を自宅へ招いて、親の目の届くところで交際させ娘に男を見る目を養わせたいと思って、肇や桑野と交際させた。肇や桑野が香織に好意以上のものを寄せていることは判ってていた。特に肇が国家試験に合格したらプロポーズしてくるだろうということも予想していた。香織が肇に好意を寄せていることも承知していた。しかし問題は肇が長男で、年老いた両親を扶養していく立場にあることだった。そして、香織の母にも最後の娘を嫁がてしまうと、老後の生活をどうするかという問題があった。そこで次男坊の医学生と結婚させるのが一番いいと思っていた。幸い良縁があったので婚約したということであった。

 肇は香織の母の説明を聞いて落胆した。目の前が真っ暗になる思いであった。春秋に富む時代に人生の方向を定める羅針盤の役割を果たした女性は手の届かない所へ去っていこうとしていた。その時、小学校3年生の夏、臨海学校で溺死した少女の柩桶を見たときの光景が瞼に浮かびやはり絆は切れたと思った。

 肇は大学を卒業して入省してから間もなく田鶴子と見合い結婚した。香織からは時節の挨拶が毎年送られてきた。肇も儀礼的に年賀状や暑中見舞いを出していたが、田鶴子に指摘されてからは出さなくなった。

 消息が判らなくなって4~5年経ったある日、香織から夫が心臓病で急死したという便りが届いた。数えてみると香織は35歳で、香織の母が未亡人となった年齢と奇しくも同じ年齢であった。

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泰西名画展                                      


 昨日までぐずついていた空も、今日は朝からカラット晴れ上がり、先祖の墓参りをするには絶好の行楽日和である。
 秋分の日の一日、吉川は父の墓前に額づき、父が急逝した日のことを思い出していた。それは7年前、丁度今日のような行楽日和の日曜日の一日を、家族揃って、上野の博物館へエルミタージュ美術館所蔵のルーベンスの名作「ダナエ」展を鑑賞に行った日の出来事であった。名作を堪能し、満ち足りた気分で家路につき、玄関を入ったところで電話のベルが鳴っていた。電話は大阪のある薬品会社の工場長として勤務していた父が心筋梗塞で倒れ、救急車で病院へ運ばれる途中絶命したと涙声で告げる母からの悲報であった。
                                 
 墓参りを済ませてから、東京へ岡 鹿之助展とミレー展を見に行こうとと子供達を誘ったが高校2年と中学1年の娘達は、中間考査中であるということを理由に吉川の提案をいともあっさり断った。妻は妻で、日曜祭日には会場が混雑してゆっくり見られないから、平日に主婦仲間と一緒に行くつもりであるという。

 家族と別れた吉川は、中年の寂しさとわびしさを胸に秘めて、ブリジストン美術館に身を置き、岡 鹿之助の詩情溢れる色彩美の世界に没入していった。芸術の秋とあって会場には人があふれ丹念にノートにメモをとる人、足早に通り抜ける人、連れに解説しながらゆっくり歩いていく人等いつもながらの展覧会の光景である。 
 ところが、さっきから吉川の隣にいる中年の女性はどうも気になる存在である。黒いスーツを着た小柄なその女性は、眼鏡をかけておりお世辞にも美人とは言えない容貌でどこか陰鬱な雰囲気をたたえている。
 彼女はどういうわけか、吉川が移動すると同じように移動し、吉川と並んで常に同じ絵を見ているのである。
 最初は別に気にもしていなかったが、吉川に寄り添うようについてこられると意識せざるを得ない。

 彼女から離れようと思いわざと足早に次の絵へ移ると、彼女も陰のように移動するし、ゆっくり時間をかけて、やりすごそうとしても吉川が動くまで動こうとしない。彼女の視線は絵に向けられており、吉川のことなんか全然意識していないというような顔をしている。変な人だなと思いながら、絵を見終わって会場から表通りへ出ると彼女も続いて往来へ出てきた。往来の雑踏の中でやっと彼女の姿が見えなくなったので、死に神から解放されたような気分で今度はミレー展の会場へ向かって足を運んだ。

 高島屋で各階の売り場を覗きながら八階のミレー展会場へ辿りつくと押すな押すなの人混みで、熱気と人いきれでムンムンしている。やっとの思いで入場券を手にして会場へ入ってみると、群衆の肩越しにしか、絵を見ることができない程の混みようである。
 田園風景を背景に配し、働く農夫達を描きだしたミレーの絵は叙情豊かであり、雑踏を忘れて画面の中に没入させてくれる。

 出口近くに羊飼いの少女と題する千八百七十年作の絵が掲げられている。 この絵の下にはバビロンの幽囚というもう一枚の絵が隠されておりx線撮影の結果、そのことが発見されたらしい。

 羊飼いの少女の絵の傍らにはx線で撮影したバビロンの幽囚の写真が展示されている。一度描きあげた絵だが、ミレーの意に沿わない出来ばえであったため、塗り潰されて羊飼いの少女の絵に生まれ変わったものであろう。
 バビロンの幽囚は構図だけは判るが、その色調までは判らない。どのような色の絵だったのだろうかと想像を巡らせてみる。

 このようにx線撮影の結果、下絵に異なったもう一枚の絵が隠されていた例は、7年前のダナエ展の時もそうであったことをふと思い出した。

 下に塗り潰されて日の目をみなかったもう一人のダナエの恨みが、あの日父の魂を呼び寄せたのではないかと当時、何の脈絡もなくふと思ったものである。

 遠くネブカドサネザル二世に捕らえられ、異国の地へ幽囚の身となったユダヤ人達の怨念は陽光を見ることなく、また数百年絵の下に隠されたのであろうか。そんな思いに耽りながら、ミレーの絵の鑑賞を終え、出口の方へ歩を進めたとき、吉川の目に止まったのは、あの黒衣の女であった。何時の間に忍びよったのか吉川の隣で熱心にx線写真で撮影されたバビロンの幽囚を見ているのである。

 吉川は背筋に寒けを感じて、早々に会場を飛び出して雑踏へ逃れ、家路を急いだ。

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 ベチャの面

 川の中に生える真菰の芽が枯れた茎の中から、新しい芽をのぞかせる頃になると、清一は田圃から粘土を採ってきて、ベチャの面作りを始める。ベチャというのは岡山県南部で藺草を栽培している地域の氏神様の秋祭りに、村中を闊歩する鬼のことである。
 清一は春の陽射しを浴びながら、濡れ縁に腰を下ろして、天理教の集会場を建設中の工事現場から拾ってきた40センチ角ほどの板切れの上に、粘土を置いて一心不乱にベチャの面型を作っている。竹のへらで目、鼻、口、牙眉を彫り込んでいく。傍らに置いた粘土を千切って団子にし、くっつけてみたり、外してみたりしては、出来るだけ恐ろしい形相のベチャに作らなければならないのだ。

 ベチャの面の良し悪しは、目、鼻、口がうまく作れるかどうかで決まってしまうので、この面型作りは大切な作業なのである。
 この地方では、小学校4~5年位の年頃になると、男の子達はベチャの面作りに取りかかるのである。秋祭りがくるまで、自分がどのような面を作っているかは、親友にも内緒にしておくのが、子供の世界のしきたりとなっていた。兄のいる者は兄から兄のいない者は父からその作り方を教わり、友人から教わることは決してしなかった。

 粘土で満足のいく形相の面型が出来上がると、これを適当な水分が残るまで、陰干ししてから、石鹸水を面型に塗りつける。次に新聞紙を細かく切って、水に浸し粘土の面型の上に貼り付けていく。新聞紙を二重、三重に貼りつけたところで作業は中断しなければならない。一日置いて、今度は書き潰した習字の半紙を持ってきて、メリケン粉で作った糊を面型に塗りつけ、その上へ半紙を貼り付けていく。半紙を四重、五重に貼り終わったところで糊が乾くのを待って芯になっている粘土を取り除く。
 清一がベチャの面を独りで作ってみようと思いついたのは、清一のクラスへ昨年の暮れに東京から転校してきた香織に,手作りの面を見せて褒めて貰いたいという気持ちが働いたからである。
                                   
 香織の父は、東京に本社を置くS紡績早島工場の工場長として、この町に昨年秋転勤してきた。藺草を栽培したり、畳表を織ったりして生計をたてている者の多い早島町には、織機を修理する鍛冶屋か、せいぜい織機を20台ほども置いて、畳表を織っている従業員10名程度の町工場しかなかったので、一部市場に上場されているS紡績の早島工場のように従業員500人を数える工場の工場長は町の名士として遇された。
 香織は都会育ちの娘らしく、動作はシャキシャキしており、色白の顔は母親に似て美形である。変化に乏しい町の学校の常で、新参者の香織の一挙手一投足は好奇の的となった。とりわけ標準語を喋る香織の言葉は悪童達の好個の材料であった。

「オッカァのことをオカァサマと呼んどるでぇ」
「先生ゴキゲンヨロシュウというのをわいは聞いたでぇ」
「こねぇだ、雨が降っとったじゃろう。せぇで,うちが傘にのせたぎょうか言うたらな、傘にノッタラ骨が折れるわよと言うんじゃぁ。うちゃぁ、もうおかしゅうて」
 清一は勉強はよく出来る方だったので、各学年とも三学期のうち少なくとも一学期間は級長になった。香織が転校してきたときは、先生のはからいで香織の席は級長の清一の隣に決められた。
 転校してきたばかりなのに香織は、清一達の知らないことをよく知っており、とても太刀打ちできない学力を持っていた。教室では良く勉強ができたが、まだ方言が喋れないので、遊び時間に悪童達から標準語を冷やかされると悲しそうな顔をした。

 香織が転校してきてから10日ほど経った日曜日に、清一達のクラスの主だった者5~6人が香織の家へ招待され、遊びに行くことになった。清一達が誘い合って、工場の近くにある社宅群の中でもとりわけ立派な構えの香織のうちの玄関で
「御免せぇ」と案内を乞うと香織がでてきて
「ようこそいらっしゃいました。さぁどうぞお入り下さい」と大人びた物腰で招じ入れようとする。声を聞きつけて香織の母も現れ
「まあまあ、皆さんようこそいらっしゃいました。香織の母でございます。香織がいつもお世話になっています。さあどうぞ、どうぞ」とにこにこしながら迎えてくれた。
 清一は何と言っていいか判らず、慌ててピョコンと頭を下げた。清一に続いて健介、剛、京子、栄もピョコリ、ピョコリと頭を下げた。
 通された応接間にはピアノが置いてあり、書棚には世界文学全集や日本文学全集、世界の思想大全集等の本がぎっしり詰まっており、清一には読めない分厚い外国語の本も並んでいる。壁には羊飼いと羊の群れを描いた大きな絵がかかっている。清一はこれとよく似た絵を先生に連れられて大原美術館に行ったとき見たことがあると思った。天井には豪華なシャンデリアが輝いており、床には茶色の絨毯が敷かれ、赤い革張りの安楽椅子が幾つか置いてある。

 健介、剛、京子、栄も落ちつかない様子でもじもじしている。何時もと勝手が違って、部屋の雰囲気に圧倒され、よそ行きの顔をして畏まっている。「さあ皆さん、どんどん召し上がって下さいね。香織は末っ子だし転校してきたばかりなので、お友達もなく寂しがっていますのよ。皆さんに仲良くして戴いて、岡山の言葉も沢山教えて下さいね」と香織の母はケーキを勧めながら、清一達の顔へ笑顔を投げかけた。香織も慣れた手つきで紅茶を配っている。香織の母の視線が剛に移ったとき、剽軽者の剛は慌てて
「岡山弁はすぐ慣れますらぁ。わいら生まれたときから岡山弁で話しょうりますがぁ」というと
「まあ、剛さんは生まれたときから、言葉を話したの。ソリャァ、ボッケェナァ」と香織の母が岡山弁を混じえて言ったので皆どっと笑った。
 香織の母の巧みなリードで清一達は畏まった気持ちもほぐれ、平気で方言が喋れるようになった。秋祭りのこと、ベチャのこと、投げし針のこと、茸狩りのこと、蜻蛉釣りや蝉捕りのこと、凧上げのこと、藺草刈りや田植えの手伝いのことなどこの地方で清一達の日常生活の一部になっている行事や遊びのことを皆かわるがわる得意になって話して聞かせた。香織は特に祭りのベチャに興味を持ったようである。この地方に伝わる桃太郎伝説とベチャの関係を清一は請われるままに、乏しい知識を振り絞って説明した。
 清一の話しに目を輝かせながら聞き入っている香織の姿を清一はとても美しいと思った。
「清一さんは何でもよく知っているのね」と香織が感心したように言ってくれたので、清一は満足した。香織のうちへ遊びにきて良かったと思った。
                                   
 清一は先刻から一心不乱に粘土を捏ねているがどうしてもうまくつくれない。時折、癇癪を起こしては九分通り出来上がった面型に竹のへらで十文字に罰点をいれて粘土を団子にしている。香織に見せて褒められるような面を作らなければと思うとなかなかうまくいかなかった。また最初からやり直して目を彫りかけていた。
「清一、毅君が投げし針を漬けにいこうと誘いにきとんさるよ」という母の声で清一は今日の面作りはやめることにした。
「きちんと後片付けをせにゃぁおえんぞな」という母のくどい小言を聞くのが嫌なので、「今片づけて行くから待っていてつかぁせぇ」と先手を打っておいて、急いで粘土を丸め、押し入れの中へ投げ込んだ。剛に入ってこられては面作りの現場を見られてしまうからだ。

 今まで,畳表を織っていたらしく、モンペをはいた母が藺草の泥で汚れた手を拭きながら毅を連れてきた。毅は既に長靴を履いて手には投げし針の糸を入れた籠をぶら下げている。
「清一ちゃん、何しょうたん。はよう、餌つけにゃあ、ええ場所全部とられてしまうがなぁ」と毅は言った。清一がベチャ作りをしていたことは気づかれずに済んだようである。
「そうじゃのう、すぐ持ってくるけぇ、ここで待っていてつかぁせぇ」と言い残して長屋へ投げし針を取りに走った。

 二人は秘密の溝から集めてきて、空き缶に入れておいた三角蛭を地べたにかがみこんでせっせと針に無言のまま取り付けた。長屋の奥からは母の織機を動かす音がカタンカタンと漸くたそがれ始めた裏庭に流れていた。

 清一は小学校四年生で農家の毅とは同級生であった。
 清一と毅が田圃の畦道を空豆の葉についている雨水でずぼんをぐしゃぐしゃに濡らしながら、六間川に来てみると既に人影が2~3人投げし針を漬けているのが目に入った。中学一年の富雄も弟の富次と一緒にきているようである。
「清一ちゃん、富雄がきているぜ、どねぇしょうのぉ。三軒地の方へ行こうかのう」と富雄の姿を目敏く認めた毅が相談した。
「そうじゃのう。あいつが一緒じゃと、盗られてしまうけぇのう」
その時富雄の方もこちらの姿を認めたらしく
「おーい清一と毅じゃねぇか。この辺はようかかるんかいのう」と声をかけてきた。こうなっては万事窮すである。
「おえりゃぁせんわぁ。昨日も百本漬けたんじゃが、かかったのは鯰とどんこだけじゃ」と毅が答えた。
「お前ら餌は何をつけとるんじゃ」
「わいらは三角蛭じゃ」
「そうか、お前ら三角蛭か。どこでとったんじゃ。わいら、三角蛭がおらんけえ雨蛙じゃが」と富雄が言ったので、清一も毅もこれは雲行きが怪しくなってきたぞと思うと案の定、富雄が癪にさわることう言いだした。
「おい、お前ら、わいらの投げしと取り替えてくれ。わいら百本もっとるけぇのう、お前らのを百本こちらへ寄越せや」

 清一と毅はお互いに顔を見合せたが、何しろ相手が悪い。富雄は中学一年生で、札付きの餓鬼大将である。大柄な上に腕力が強く,富雄の意に逆らうとどんな目にあわされるか判らない。勉強はできないくせに、悪知恵だけは発達していて、学校の先生達もその指導には手を焼いているのである。清一と毅は不承不承、折角臭い溝に入って、洋服を汚しながら集めた三角蛭を餌につけてある投げしを富雄のそれと交換した。六間川と早川は大体清一と毅の領分で、富雄達はこの近くへは姿を見せた事がなかったのに、今日は早々とやってきている。清一は鰻のよくかかる早川を富雄に占領された上に、三角蛭の餌のついた投げしまで取り上げられて、口惜しくて仕方がないのであるが、富雄の理不尽な暴力が恐ろしくて、言うことをきくより仕方がないのである。諦めた二人は、富雄から代わりに受け取った雨蛙のついた投げしを次々に川へ投げ込んで帰路についた。いつしか日はとっぷり暮れて、田圃では蛙のオーケストラが始まっていた。

 清一はベチャ面作りがうまくいかなかった上に、投げしまで良い餌を富雄に巻き上げられてしまい、面白くない一日だった。清一は家に帰りつくとうっぷんの持っていき場所がなかったので、飼い猫の三毛が清一の傍らへじゃれついてきたのを幸いとばかり思い切り蹴飛ばした。三毛はいきなり蹴飛ばされてギャォーと悲鳴をあげながら、すっ飛んで逃げた。
                                   
 清一の面作りは進んで、あとはエナメルしを塗り、面の頭に毛をつけるだけとなった。清一はさっきから、面の色を何色にしようかと考えている。赤色か、緑色のどちらかなのだが、装束のことも一緒に考えておかなければ、簡単には決められない。清一は緑色に塗って緑色のシャツを着、黒い袴をはいてみたいと思うのだが、清一の体に合いそうな緑色のシャツも黒い袴も自分の家にはなさそうである。赤なら、姉のセーターと腰巻きを借りれば、恰好だけはつきそうである。腹巻だけ母親にねだって縫って貰えばよいのだ。ここまで考えて清一は赤色に塗ることに決めた。後は頭髪につける棕櫚の皮を伯父の家へ行って貰ってくればよい。
                                   
 いよいよ秋祭りの日がやってきた。
 清一は親友の毅にも内緒で作ってきたベチャの面を被って往来を歩いているベチャの群れの中へ入っていくことを考えると胸がわくわくした。そして何よりも、ベチャ姿で香織のうちへ訪ねて行き、香織を驚かせてやろうと思うと心がはやった。

 この地方には、吉備津彦神社と吉備津神社とが山を幾つか越えた部落にあって桃太郎伝説が伝わっている。清一の住んでいる町は、岡山県南部の藺草と畳表の産地である。氏神様としては鶴崎神社というのがあって、何でも吉備津神社とはゆかりのある神社らしい。伝説によれば、吉備津彦の命が鬼退治をしたことになっており、鬼というのは瀬戸内海の塩飽諸島を根城として内海を暴れ廻っていた海賊だとの説がある。面白いことに吉備津神社と吉備津彦神社のお祭りには鬼がでない。鬼がでるのは鶴崎神社のお祭りだけである。清一の町は鶴崎神社の氏子が殆どなので、祭りといえば鬼がでるものと決まっている。鬼は通常小学校4~5年生の年頃から17~8才の青年までが、めいめいに作っておいた鬼面を被り、それぞれに意匠を凝らした装束を纏って、町を練り歩くのである。赤色または青色のシャツを着て、色付きのモンペ風のズボンをはき、足には脚絆を巻き手には手甲をする。腰には超ミニスカート風の腰巻きを巻き、腹には金時腹巻をつけている。ほう歯の高下駄を履き丹精して作った鬼面を被る。鬼面には棕櫚の毛で作った頭髪がつけてあり、背中へ長く垂れ流すのである。

 そして手には青竹を六尺くらいの長さに切った物を持ち、青竹をひきづりながら歩くのである。青竹の先は割ってあり、通行人を襲う時は青竹を地面に叩きつけて、パンパンと音を出す。このようなし青鬼、赤鬼が祭りともなれば40~50匹も出現して町中を練り歩くのである。17~18才の青年達は町の若い娘達の尻を追いかけ喜んでいるという具合である。
 清一は今年、初めて手作りの面をつけて、町へでたのであるが、近所の子供達を追いかけまわし得意になっていた。鬼面をつけて高下駄を履くと小学校4年生であっても、背丈は高くなり大人より大きくなることがある。

「ベチャよ。べちゃよ」とはやしたてて逃げて行く子供達を追っかけて、小学校前の文房具屋前までくると、餓鬼大将の富雄がするめを齧りながら、女の下駄を頭の上にかざして「香織の下駄はトウキョウセイ」と節をつけて歌っている。下駄をとられた香織が「返して頂戴」と泣きべそうかきながら富雄を追っかけている。
 清一は香織の災難を見ると富雄の恐ろしさが頭の中に閃きはしたが、それよりも香織の下駄を取り替えしてやらなければならないという考えの方が先に走った。つかつかと富雄の傍らへ近づいて襟首を掴むといきなり、頬に平手打ちを一発食らわせた。不意打ちにあってたじろいだ富雄が鼻の穴を大きく膨らませてピクピクさせている。すかさず清一が青竹を振り上げると、怯えた富雄は声も出さずに逃げ出した。

 清一はこんなに簡単に事が運ぶとは予想さえしていなかったのであっけにとられたが、富雄の逃げていく姿を見ると追っかけてみたくなった。追いかけてみると富雄は一生懸命逃げていく。相手が逃げるとますます面白くなって清一はどんどん追いかけた。今日こそは何時もいじめられている仕返しをしてやろうという気持ちが起きて、富雄が悲鳴をあげるまで追いかけ、青竹で叩いてやろうと清一は思った。面を被っているので、誰がやっているかわからないだろうという気持ちが富雄を大胆にした。いつも威張って清一達をいじめている富雄の姿が今日程みじめに見えた日はなかったと清一は思った。そして、香織にはベチャの面を見せるのはやめようと思った。走りながら今日の出来事は内緒にしておこうと思った。 

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 内容証明郵便  

 電話も鳴らないし、来客もないので、日曜日の仕事は能率が上がる。決算を控えて、遠野太郎は誰もいない事務所で、一心にパソコンのキーを叩いていた。一つの仕訳をインプットするごとに、その怪獣はビッビッと小気味よい声を発する。
 突然静かな部屋に電話がなった。
「東洋機工さんですか。有明ビルの2階の横山設計さんの後を貸して戴けませんか」
「一寸待って下さい。何の話でしょうか」
「やっぱりそうですか。どうも様子がおかしいと思った。横山設計さんが荷物を運び出していますよ」
「教えて下さってどうもありがとう。家賃が溜まっているんですよ。すぐ行ってみます」
 東洋機工は本業の鉄工業の他に貸しビルを幾つか持っている。その貸しビルの一つである有明ビルの3階に事務所を構えている神奈川電溶社から横山設計の夜逃げを通報してきたのである。
 遠野が駆けつけてみると、横山設計の若い男達がトラックに机や椅子を積み込んでいるところであった。ガランとした二階の部屋では横山が額縁を外している。
「横山さん。どういうことだね、これは。まるで夜逃げじゃないか」と遠野はいきなり大声で背中に浴びせかけた。
「あっ。月曜日に挨拶に上がろうと思っていたところでした。このところ仕事が少なくなって、事務所を構えていることが出来なくなりましてね」と横山がばつの悪そうな顔で言う。
「契約では退去二ヵ月前に通告することになっている筈だよ。会社が休みの日曜日に引っ越ししておいて、月曜日に挨拶にいくつもりでしたはないだろう」
「申し訳ありません。話が急に決まったものですから」
「たまたま、私が出勤していて、事務所の前を通ったからいいようなものの若し、私が休んでいたら、お宅の夜逃げは判らなかったかもしれない。溜まっている家賃はどうしてくれるんだ」と遠野は語気鋭く詰め寄りながらも、神奈川電溶社から知らせを受けたとは言わないだけの余裕はある。
「それも月曜日にご相談しようと思っていました。事務所を畳んで、私がある大手の会社の設計室へ働きに出ることにしましたので、働いた金で月賦返済にして戴こうかと考えていたのです」
「何をっ。この野郎。盗人たけだけしいとはあんたのことを言うんだ」と遠野は相手の胸倉を掴んで気負いこんではみたものの、暴力を奮って警察沙汰にでもなれば、元も子もなくすと思い直して誓約書を書かせることにした。 月額20万円の家賃を3ヵ月滞納していたので、60万円の債務である。これを3万円宛20回の月賦で返済するという誓約書を書いた後、横山はポケットから折り畳まれた紙幣を取り出すと、一万円札を3枚数えて差し出した。横山の手に残ったのは4~5枚の千円札だけであった。
「第1回目の返済金です。逃げも隠れもしませんから、今日のところはこれで許して下さい」
「この誓約書に書かれている住所は出鱈目ではないだろうな。こんな紙切れ一枚で騙されてはかなわんからな」
「嘘だと思われるなら,私についてきて下さい」
「うちには誰がいるのです」と遠野の語調もいくらか穏やかになる。
「女房がいる筈です。もっとも内縁ですがね」
「ここに書かれている電話が嘘のものでないか、確かめてみますよ」
「どうぞ」
 遠野は目の前でダイヤルを廻してみると、電話は通じたので横山が全く出鱈目を言っているのではないことだけは確かめられたと思った。誓約書を書かせたことだし、記載内容に嘘さえなければ、これを証拠に気長に債権を取り立てるしかあるまいと考え、横山を解放した。

 翌日、遠野は横山設計と賃貸借契約を結んだ時、仲介してくれた不動産屋にことの次第を話し、誓約書を見せた。
「家賃を滞納して夜逃げしようとした男が、こんな紙切れ同様の誓約書を本気で履行すると思いますか。自宅までついていって担保をとるとか、公正証書にしておくかしなければ何にもなりませんよ。それにしても3ヵ月も滞納させておくとは管理が甘いですね」とその不動産屋は笑っている。
 不動産屋が言ったことは本当であった。翌月の第2回目の返済約定日に、指定した銀行の預金口座を調べてみたが、振込はなかった。
 遠野は直ちに電話してみたが、聞き覚えのある女性の声で、横山は不在であると言う。
「何時お帰りですか」
「外国へ出張していますので、当分帰ってきません」
「有明ビルの家賃のことで何か聞いておられますか」
「何も聞いておりません」
「それでは、有明ビルの家賃のことで返済の催促のあったことを伝えて下さい」
「伝えるだけは伝えましょう」
 遠野は相手方に対して、返済を催告したという事実を後日証明できる証拠を残しておく必要があると考え、内容証明郵便を配達証明付きで横山宛出状した。

 遠野は1ヵ月後、入金の事実のないことを確かめてから、再度横山宅へ電話してみると、前に聞いたことのある女性の声で、横山は外国から帰宅したが、今は不在で夜7時になれば帰宅するから来てくれという。遠野は勤めが終わってから、横山を訪ね話しをつけようと思った。地図を頼りに探し出した横山のアパートは、商店街の裏側の通りにあった。呼び鈴を押すと一見して水商売と判る色気のあふれている女性が出てきて、名乗ると部屋へ招じ入れた。
「横山が大変ご迷惑をかけているようで、申し訳ありません。この前の内容証明郵便は確かに横山へ渡しておきました」
「ところで横山さんは」
「あいにく今夜から一週間の予定でまた出張にでかけてしまいました。横山とも相談したのですが、横山は事業に失敗したときにサラ金から借りたお金の返済で追いかけられています。私が横山に変わって、貴方からの借金はお返ししたいと思います」
「私の方は返してさえ貰えればそれでいいのだから・・・」
「月1回3万円。19回払いで代物弁済も可という内容証明郵便を書いて送って下さい」そう言って彼女は奥の寝室へ目で誘った。

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2014.07.14

愚直ということ       


 朝出勤してから一番にする仕事は、手提げ金庫の中の現金を勘定して出納帳の残高と照合することである。横山建設工事株式会社の経理マン東郷 武はいつものように一万円札 を数えていた。

 晩秋の寒くなりかけた日の朝の出来事である。部屋の入口が開いて人相の良くない二人の男が入ってきた。見慣れない顔である。

 これはおかしいと感じて
「どちら様でしょうか」と誰何した時には本能的に札束を金庫の中に収めて身構えていた。
 東郷が最初に考えたのは、暴力団が労災事故を種にゆすりにきたのではないかということであった。

 つかつかと東郷の所へ近寄ってきた闖入者の一人がポケットから身分証明書と裁判所の捜索許可証を取り出して東郷の目の前に示しながら言った。
「東郷 武さんですね。東京国税局の者ですが、法人税法違反の容疑で査察します。そこ を動かないで下さい」

 身分証明書には東京国税局査察部第二部長海野一郎という活字が印刷されていた。
「そんな無茶な。悪いことなんかしていませんよ」
「調べれば判ることです。現金を数えて下さいしと海野は東郷の抗議にはとりあわず、事務的に命令する。

もう一人の背の低いほうの男は、何ごとが起こったかとこちらの方ヘ注目している部屋 の中の事務員達に向かって言った。
「脱税容疑で査察しますから、皆さんは、仕事を止めて我々の指示に従って行動して下さい。今後暫く電話の使用を禁止します。電話はかけないで下さい。掛かってきた電話は我々が取りますから皆さんは許可がでるまで受話器には一切手をつけないで下さい」

 東郷の胸は早鐘を打つように高鳴っていた。国税当局が査察を掛けてきた以上、余程の確信をもっているのであろう。証拠もある程度掴んでいるのではなかろうか。架空外注工事代の計上が見つかってしまったらしいということは容易に想像がつくが、どの範囲までなのだろうか。どのように対応するか。頭は素早く回転しいろんなケースを想定する。

「東郷さんこちらへ来て下さい」と先程、身分証明書を提示した海野一郎が隣の応接間に東郷を呼ぴ込んで言った。
「今日は百人の捜査員があなたの会社の本社、東京支店、大阪支店、四国支店、九州支店ヘ手分げして動員されています。脱税容疑です。脱税の事実を認めますか」
「冗談じやありませんよ。脱税なんかしていませんよ」
「確信をもって言えますか。本当に脱税していないというのなら最後まで否認して下さいよ。もしやっているのならあまり手間をとらせないで、今すぐ認めて下さいよ」海野はじっと東郷の目を鋭い眼差しで覗き込むようにして言った。
「濡れ衣です。投書でもあったんですか。もしそうならその書類を見せてくださいよ」と東郷は食い下がった。

「捜査上の機密ですから教えられません」と言ってとりあってくれない。海野が今日の捜査の責任者らしく、主だった捜査員に指示をすると捜査員達は机の引出しや書棚のファイルを引出しては茶色の封筒にファイル名を転記して、番号を打ち、一件ごとに封入していき、更に段ボールの箱に封筒を格納していく。彼ら捜査員の鞄の中にはA4サイズの茶封筒がギッシリ詰め込まれているのである。彼らは査察に赴く時は目的地に着くまで相手に気付かれないように私服で手提げ鞄を下げている。東郷が捜査員の数を目で追ってていくと四十人位しかいない。海野が百人と言ったのはこけおどしかハッタりではないのか。

 それにしても社長はどうしたのだろうか。朝、顔を見たのに。
「一寸喪服を取りに家まで行って来る」と言い残して帰ったまま姿を見せない。
東郷は先程、海野が人払いをするかの如く、東郷を応接室にわざわざ呼び込んで「否認 するなら最後まで否認して下さいよ」と言った意味をどのように理解すれぽよいのかを必死になって考えていた。

 社長が朝、一旦出社したのに自宅からの電話で慌てて喪服を取りに帰ったことの意味もよく判らない。確かに古参社員の父親の告別式が今日午後一時よりあるのは事実である。そのことは昨日通夜に出席しているのだから、喪服を忘れる筈がない。するとわざわざ喪服を取りに帰ったと言ったのは口実で、今日の査察についてなにか情報が入ったのでそれを確かめに帰宅したのではないか。政界や中央官庁には沢山の情報ルートを持っているから、ホットラインで何かをキャッチしたのではなかろうか。それが海野をして「否認するなら最後まで否認してくださいよ」という一種の暗号として東郷に謎をかげてきたのではないかという気がしてならないのである。社長と連絡をとりたい。そうすれば、海野がなげかげた「否認するなら最後まで否認してくださいよ」といった言葉の謎が解けるのではないか。

 一つの解釈は庇理屈でもいいからとにかく事実関係を否認し通すことだそうすれば、政治力が働いて闇に葬り去られるという意味である。

 もう一つの解釈は商売仇による投書があってこれが査察の端著となっている場合である。この場合であれば内部に会社の機密を漏らした者がいることが予想されるから充分内部調査をしてから対処しなければならない。どの程度の情報が漏れているかを把握しなければならないから対処の仕方がむつかしくなる。その場合にはむしろ被害が少なくなるように事実関係を素直に認めて修正申告で済ませる方向で決着するよう工作する必要が生じてくるだろう。そのためにも社長と早急に速絡をとりたかった。だがそれができないのだから自分の判断で最善を選択するしかないなと考えていた。

「東郷さん。金庫を開けて下さい。それから清泉銀行に会社の貸し金庫が有るでしょうその鍵を出してください」と次席捜査員の韮山が東郷の側を離れずに指図する。
「貸し金庫には何も入っていませんよ」
「開けて見れば判ることだからとにかく鍵を出しなさい」と次第に命令口調になってくるので、東郷の胸の動悸はますます高まってきて、部屋の隅に置いてある金庫を開けようとするがダイヤルの番号を思い出せない。毎日、無意識にダイヤルを回して開けているのに今日は何度やっても金庫が開かない。
「気が動転してダイヤル番号を思い出すことが出来ないので、気を静めるために一服したいから喫煙室ヘ行かして欲しい」
「どうぞ」

東郷は海野の言うように本当に各支店にも捜査員が入っているのか状況を把握しようと 思って喫煙室の受話器をとると、
「東郷さん電話をかけてはいげません」とただちに、傍らにいる捜査員が待ったをかけるのでどうなっているのか状況が皆目判らない。外部から電話が掛かって呼び出し音がするとすかさず近くにいた若い捜査員が受話器を取り
「こちら横山建設工業ですがいま取り込んでいますので三十分後に掛けなおして下さい」 と言ってガチヤンと切ってしまうのである。

「大切なお客さんからの電話かもしれないのにそんな応対の仕方はないでしょう。仕事がとんだらどうしてくれるんですか」と営業課の藤本が食ってかかると
「脱税をするような悪い会社なんだから仕事の一つ二つ飛んだって仕方がないだろう」と生意気な答え方をする。
「嫌疑をかげられただけで脱税していると決まってはいないだろう。裁判もしていないし判決も出ていないのにひどいではないか。国家権力をかさにした横暴は許せない。告訴するぞ」と藤本も負けてはいない。
「まあまあ、そんなに興奮しないで。工藤さん、相手の名前は聞いてあるんだろう。藤本さんに相手の名前を教えてあげなさい」と日髪頭の年配の捜査員がとりなしたので険悪な雰囲気はおさまったが藤本は憤懣やるかたない気持ちを顔に露に示して相手を睨みつけながら部屋を出て行った。

「金庫はまだ開きませんか」と東郷に命令した韮山が催促をする。
「支店と連絡を取りたいのだが電話をかけさせて欲しい」
と東郷は韮山に訴えた。
「まだ駄目です。何を連絡したいのですか」
「支店にも捜査が入っているのか確かめたいのです」
「支店のすべてと関係子会社全部に捜査員が入っています。全ての取引先銀行と社長と経理担当重役の自宅にもはいっています。先程話したように百人の捜査員が手分けして今言った所ヘ入っているのです。徹底的にやりますから早く真実を喋ったほうがいいですよ」「社長は自宅にいるのですか」
「社長は自宅で捜査員に調べられていますよ」
「速絡をとらせてください」
「それは出来ません。早く金庫を開げて下さい。もし開けないのなら職権で金庫を壊しますよ。ダイヤル番号を忘れた振りをしても駄目ですよ。東郷さん。観念することですね」 と韮山は東郷の魂胆を見透かした口ぶりである。

 東郷がダイヤルの番号を思い出して金庫を開けて貸し金庫の鍵を取り出すと葉山の指示を受けた小鹿という捜査員が貸し金庫の置いてある銀行まで一緒に行って貸し金庫を開けてくれという。東郷もこうなったら下手に逆らっても無駄だと思いはじめていた。
「貸し金庫には何も入ってませんよ」
「この目で確認しないと信用できない。捜査とはそういうものです。銀行まで遠いのですか」
「歩けぽ三十分ほどかかるでしょう」
「会社に車はありませんか」
「全部現場ヘ出ていますから、歩くしかないですね」と東郷は少しでも時間稼ぎを試みるが捜査員もそこは見通しである。
「タクシーで行きましょう。公費で処理できますから東郷さんも一緒に乗って下さい」

 清泉銀行に到着して、窓口で横山建設工業だが貸し金庫を開けたいというと、係の者の態度がいつもと違ってよそよそしい。見ると既に別の捜査員が先に来ていて、いろいろ事情聴取されていたようである。早速貸し金庫を出して貰って合鍵であけるが中には何も入っていない。
「それ、ご覧なさい。何も入っていないと言った通りでしょう。私は嘘と坊主の頭はゆったことがありませんよ」と東郷は一つの関門を通り抜けたという安堵感に浸りながら言った。
「次は東郷さんの自宅まで御同行ねがいます」と会社から清泉銀行までついてきた子鹿 査員が、金庫に何も入っていなかったのは理解しかねるといった顔付きで新たな指示を した。

待たしてあったタクシーで自宅まで帰ってくると既に自宅の中には四人の捜査員が会社に入ったと同じ時刻に乗り込んできて、書斎の机や本箱の中を引っかき廻していた。
「パパお帰りなさい。朝からこうなんですよ。会社の方も大変でしょう。連絡しようとしても電話をかげさせて戴けないのよ。急病人でもでたときにはどうなるんでしょうね、連絡できなくて死んでしまったりしたら責任をとっていただげるのかしら。人の命は弁償しようがないと思いますけどね。それに若江は試験中だというのに勉強もできないんでよ。試験に失敗して浪人でもするようなことになったらかわいそうだわ」と妻の敬子も家宅捜査でかなり、気分を壊したらしく捜査員に間こえよがしに皮肉を言って訴える。
「心配しなくてもいいよ。何も悪いことはしていないんだから。何もでてこない所をつつくよりも、住宅金融専門会社の不良債権にまつわる不正融資を徹底的にやってもらいたいものだね」と東郷も鬱憤をぶっつけるが相手は反応を示さない。

東郷は会社の方はどうなっているのか気にかかるところだが、電話はかけさせてくれな いし、取り次いでももらえないのでさっぱり状況が掴めない。
「東郷さん、この印影はみたことがありますか」と紙切れに押した「中山」「谷山」「 藤」という印影を東郷の目先に突きつげる。その印影は見たことがある。溶接免許の期 限を更新するために溶接工から預かって手続きをしたとき使った覚えがある。
「さあ、見たことはあるような気もしますが」と反応を窺ってみる。
「その判子は何処にありますか」
「本人が持っているでしょう」
「中山、谷山、 佐藤という苗字はありふれたものだけど、この判子の持ち主は実在して いますか」
「実在してますよ」
「何者ですか」
「溶接工ですよ」
「この判子を使って架空の外注費を引き出していたのではないかね」とその捜査官は、
東郷が架空外注費を作りだして、会社の金を横領しているのではないかというような言いい方をする。
「何を。失敬な。でたらめを言うとただでは済ませないぞ」
「この判子があなたの机の引出しから出てきたのは何故ですか」
「免許の更新手続きで預かったままになっているんですよ」と東郷は答えたが内心これは大変なことになったと思った。迂闊だった。判子は本人に返しておくべきだった。

「先程までの調べでは、外注工事代の領収書は大半のものが銀行振込になっているから辿っていげば金の流れは判る。しかし幾つかの領収証にはこれと同じ印影が押されている。しかもその判子があなたの机の引出しからでてきた事実をどう説明してくれますか」
「それは、溶接工達は一人者が多く、昼間働いているので銀行ヘ金を下ろしに行く暇がないんですよ。だから、現金で払ってあげている。そのため領収書があるんですよ」
「なるほど、巧く考えたね、だけどこの程度の判子なら何処にでも売っているから簡単に手に人る筈だ。中山、 佐藤、谷山という溶接工が実在するかどうかを確認してみなけれ ばあなたの容疑は晴れないね」勝ち誇ったようにその捜査官の態度は横柄になってくる。
「ほかにも、これに類したものがあるはずだ。押収した資料ももうそろそろ局の方ヘ届く頃だから局ヘー緒に行ってもらってゆっくり説明を聞くことにしようじゃあないか」と捜査官は腕時計を見ながら言った。東郷が時計を見ると既に正午ちかくなっていた。

 国税局の取り調べ室は四畳程の広さで机が向ききあって置かれている。相対して座った担当官は藤村と名乗って今回の事件では東郷の取り調べ担当になったと自己紹介をしてから取り調べが始まった。次々と外注工事代の計算書や領収書、振込依頼書の綴りの中から付箋を付けた箇所を開いては突きつけてくる。
「この佐藤、谷山、中山という署名のある領収書の印影とあんたの机の引出しに入れてあった判子の印影が一致するのはどういうことかね」
「ですから、何回も言うように、溶接免許の更新手続きのために預かった判子を返し忘れていたんですよ」
「それでは説明にならないだろう。佐藤、谷山、中山をここへ連れてくることができるかね」
「できますよ」
「佐藤、谷山、中山の所へは裏付けをとりに行かせているから後でわかるだろう。そのとき泣き面かくなよ」
「確かめて貰ったほうがこちらも嫌疑が晴れて助かりますよ」

「それでは、この振込依頼書の宛て先に書かれている丸山太一という人に会ったことがありますか」
「会ったことはありません」
「そうだろう。架空の人間だから会える筈がないよね。この丸山太一の住所の番地には公衆便所が建っているんだ。証拠はあがっているんだ。そろそろ架空取引だったことを認めたらどうだ」
「私は経理マンだから、現場の担当が検印をして請求書を廻してくれぽ金を払いますよ。工事番号毎に収支の計算はしているのだから、当然原価性があるかどうかのチェックをしているわけだし、実行予算との対比もしているんだから、架空の工事代が発生する余地はありませんよ。振込先の住所が実在しないといわれるけれども、この業界には事情があって住所を知られたくない人だって働いていますよ。そうゆう人達でなげればこんな危険で汚くてきつい仕事をする人なんかいませんよ。日本経済の発展はそういう社会の底辺に犇いている人達が支えているということを認識して欲しいもんですな」

東郷は提示された丸山太一宛の振込依頼書をみて、よく調べているなと思いながらも知 らぬ存ぜぬで通すしかないと腹を決めて、苦しい答弁を繰り返していた。身にやましいところは一つもないので最後には真実を話すしかないのではないかと自問してみる。どの段階でどの程度かが難しい。頑強に否認を続けていても最後には認めざるを得なくなるのではないか。ロッキード事件、リクルート事件のことが思いだされる。最初は頑強に否認していた人達も最後には認めざるをえなくなっていくのがこの種の事件の今までの経緯である。どうせそうなら早い時期に事実は事実として認めたほうが今後の展開を考えた場合、得策ではないかという思いがちらつく。新聞に派手に報道されては恥晒しになるし営業活動上致命的なダメージをうけるであろう。会社を潰してしまっては元も子も無くなってしまうのではないか。囲碁の攻め合いの場面が髣髴と脳裏をよぎる。多少の尻尾は切り捨てても本体が生き残るほうが勝負の上では勝ちに繋がるケースが多い。

ドアーがノックされて今日始めて見る捜査官が部屋へ入ってきて、向かい側に座ってい る藤村になにか耳打ちしている。
「東郷さん、社長が白状して架空外注費があることを認めたよ。あんたもよく頑張った
ね。会社にもいろいろ事情があってやったことだろうし、社長の指示でやったことだからあなたの責任ではないよ。早く認めて楽になったら」と藤村は勝ち誇ったように優しい声色で言った。

 外界との連絡を絶たれ情報が入ってこないと頭が錯乱する。今の藤村の言葉は罠なので はないか。東郷を落とすためのテクニックとしてわざと伝令を寄越させてもっともらし さを装っているのではなかろうか。東郷の悩みは続く。
「本当ですか。それで社長はなんと言っているんですか」
「工事会社では仕事を取るために発注先の担当者にいろいろ経費がかかるので、架空の外注工事代を計上してこれを裏金として営業費に使ったことはあると言っっている。詳しいことは経理担当のあなたに聞いてくれと言ううことだ」
「社長と話をさせて下さい」
「まだ取り調べ中だからそれはできない。社長がそう言っているのだからあなたは真実さえ話せぱいいんだよ。それに社長は裏金を蓄えていた通帳を貸し金庫から出してきて提出したよ」

 東郷は捜査官が言っているのは本当だろうかと一応疑ってはみるものの、事態がそこまですすんでいるのであれば、これ以上頑張ってみても意味がないのではないかと思ったりする。疑わしきは罰せずという鉄則がある。挙証責任は捜査側にあるのだから、自白調書がそのまま証拠に採用されることはないであろうが、事実を曲げて供述すると後でのっぴきならぬことになるのは目に見えている。

 余計なことは言わないで事実だげを認める作戦でいくしかないと心を決めた。一生に一度か二度の重大な決断の時であった。命令を受けてやったことなので、首謀者ではないし、ましてや共犯でもない。例え兄弟であったとしても最後のところでは骨肉相争うことになるのが、人問の悲しい性ではないのか。源 頼朝と義経、足利尊氏と直義、歴史にはい くらでも例がある。少なくとも自分の身だけは護り、人を誹らず、貶めずの方針でいくしかないと覚悟した。

「わかりました。資料を提示して下さい。私の知っている限りの事実については喋りましょう」と東郷は覚悟を決めて言った。

 東郷が驚いたことに提示される資料は全て営業費を捻出するために社長から指示されて比較的利益率の良い工事の原価に算入した架空の外注工事代ばかりであった。国家権力が権限を奮って組織的に動けぽ、民間の中小企業が小細工を弄してもとても太刀打ちできるものではないと思った。

 取り調べが終わり解放されたのは夜の十二時を回っていた。社長と話ができたのはその時であった。
「社長、朝、一旦出社されたのにすぐ自宅へ帰られましたね、何か情報が入ったのです
か」と東郷は朝からの疑問をやっと投げかげることができた。
「ワイフから電話があって、自宅の回りに見知らぬ男達が四、五人いて様子を窺っているというので、労災事故の補償問題にかこつけて暴力団でもきたのかと思って帰ったんだ
よ。そうするといきなり、国税の奴達が踏み込んできて、ここへ連れてこられて今までかかったということなんだ」
「そうだったんですか。私は少し考え過ぎたようです」と東郷は疑問に思っていたことを口にした。
「裁判になるかもしれないから、税理士とよく相談しよう」
「そうですね。修正申告で済むように運動する必要があるでしょう」

 東郷は取り調べの際にいろいろと悩んだ心の葛藤を日記に次ぎのように書きつけた。

某月某日
 我が最愛の家族に告ぐ。これは貴方がたの夫であり、父である東郷 武が見知らぬ世界 ヘ旅立つにあたっての訣別の手紙と思って読んで貰いたい。

 父は人生の信条として、①威張らない。②嘘はつかない。③人を侮らない。④人を誹らない。⑤人を貶めない。という五つの行動規範を心に抱いて、五十五年の人生を愚直に生きてきました。そして日常生活もそのように行おうと努力してきました。悲しいかな凡人の弱さでこれが全うできなくて思い悩んだことが幾度もありました。

 人はそれぞれに価値観をもって生きていることでしょうから、どの価値観が正しいのかは神様しか判定できないことだと思います。

 父は価値観の根底に二つのものを堅持してきました。その一つは、性善説です。その二つめは価値相対主義です。

 先ず性善説ですが、これは遠く孔子、孟子の時代から現代にいたるまでどちらが正しいか結論の出ていない哲学上の永遠のテーマです。しかし、どちらが正しいか正しくないかは別問題として、人生を生きていく限り、真剣に人生の生き方を考えた人なら必ずぶつかった問題であろうと思います。父も若い頃この問題について友人達と議論しました。結論は出ません。結局は人それぞれの選択の問題に帰着するのです。父はこのテーマについて性善説を信奉することにしました。おそらく大学生の頃だと思います。それ以来性善説を信奉しています。

 その二は価値相対主義です。これはドイツの法哲学者ラードブブルフ先生が唱えられた説です。そもそもこの問題は人生もしくは世の中に究極価値というものがあるとすれば、それは絶対的なものだろうか、それとも相対的なものだろうかという素朴な疑問かも派生したものだと思いますが、よくよく考えてみれぽ、世の中によくある両者を足して二で割るという選択をなしにするとこのどちらかしかないのであります。

 父がこのラードブルフの法哲学の中でもこの価値相対主義という思想に触れて感激したのは大学三年生のとき加藤新平教授の法哲学の講義を聞いてからです。

 以上父の価値判断の基本原則について述べましたが、大学を卒業して以来今日に至るまで、父の挙措・言動は、すべて以上述べた原則にもとずいて行われていることが理解出来るでしょう。世俗の俗物どもにいわせれば、やれ融通がきかないとか頭が固いとか営業センスがないとか言って批判します。しかし、それは人それぞれの見方ですから、誹られようと侮られようと、父は意にも介せず生きてきました。世俗の立身出世は出来ませんでしたが、心になんのやましいことなく生きてきました。人に後ろ指を指されるような反社会的な行為も悪事もしたことなく、ひたすら愚直に生きてきました。

 このことが父の誇れる唯一のことです。よくきれいな空気だけ吸って生きられる訳がないとか、世間を知らなすぎるとかいかにも世間の辛酸をなめつくしたような言い方をする人が身近にいますが、人生に対する或いは世間に対する態度が不遜に過ぎ、ものの考え力がうす汚いと言わざるをえません。規範意識が乏しく倫理感の欠如した人問程、悲しくも哀れな存在はないといえましょう。私腹を肥やす為に脱税行為に行い、発覚すると会社のために行った必要悪であり、それがあたかも正当な行為で、たまたまバレたのは運が悪かったのだくらいにしか捉えられない破廉恥な人が身近にいることはまことに悲しいものです。
「国はなにもしてくれない。困った時に国が助けてくれたことがあるか、自分で稼いだ金を自分で使うのだから、自然犯とちがってなんら恥じることはない。誰でもやっていることではないか」とうそぶいて懲りるところが全然ないのは考えものです。

 悪法でも国法であると言って敢然として毒杯をあおったソクラテスの故事もあります。 国民である限り、国法には従わなければならないのは明白なことです。これは規範意識の問題に帰するでしょう。規範意識が欠如した社会はアナーキー以外のなにものでもないでしょう。

 権力の頂点にいるものに規範意識がなく自ら、禁則を破っておいて、下の者に対してルールを守れと説いてもそれは通用しないというのが、社会の経験則でしょう。
権力の頂点にいるから、人は命令には従うかも知れないが、腹の中ではせせら笑ってい るのが実情でしょう。面従腹背ということです。
 とかく弁が立ち愛想の良い人間には嘘つきが多く、ぶっきらぽうに見える人間に誠実な人が多いというのが、世の中です。

 あなた方がどのような価値観を持って生きていこうと自由ですが、反社会的な行為と自分の良心に恥じる不道徳な行為だけは絶対にしないようお願いしたい。
 これは、これから今度の脱税事件で裁判になるでしようが、父に万一のことがあった場合に、家族の者に読んで貰いたいと考えて認めた訣別の手紙であると思って下さい。
我が心中をよく読み取って欲しい。

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息子からの便り   

    
「老人は、多年にわたり、社会の進展に寄与してきたものとして敬愛されかつ健全で安らかな生活を保証されるものとする」と老人福祉法の第二条には、老人福祉の基本理念が高らかにうたわれている。

 それにもかかわらず、寝たきり老人が一人寂しく、看取ってくれる身内もないままに、餓死していたとか、病気を苦にして80歳過ぎの老夫婦が、大金を残したまま心中したという気の毒なニュースが時々新聞やテレビで報道される。
 このような悲しいニュースを注意して見ていると、共通して言えることは老夫婦だけで、もしくは配偶者の一方を失って一人だけで寂しく生活していたという人達が多いことである。

 このような不幸な老人の中には、身寄りもなく、蓄えもなく、収入もなくしかも病身で、あるのは絶望だけという全くお気の毒な人達もいるが、中にはかなりの蓄えもあり、身内もあるという人達が含まれている。前者の場合の救済は国家の老人福祉政策の強力な展開を待たなければ、如何ともなしがたいが、問題は後者の場合である。
 ある程度の蓄えがあり、身内もありながら、死に急がなければならない程老人を孤独に追い込んだものは何か、ということを考えてみなければならない。
                                  
「お母さん、さっき山田の伯母さんのところへ遊びに行ってきましたが、とても喜んでおられましたよ。それに最近、顔の表情に安らぎが出てこられましたね」
「そうなのよ。つい先日も勉さんから、手紙が届いたとかで、伯母さんは大変喜んでおられましたよ。勉さんも、最近では、生活に多少ゆとりが出来たらしく、時々お小遣いを送ってくるようになったようよ。伯母さんは、勉さんから届いた手紙を大切に仕舞っておいて暇さえあれば、何度も読み返しては寂しさを慰めておられるのよ。お母さんもその姿を見るとつい目頭が熱くなるわ。勉さんが早く立ち直って、帰ってきてあげるのが、伯母さんには一番嬉しいことなのよ。充さんがあんな死に方をしたので、伯母さんも、充さんのことは忘れようとして随分苦しまれましたからね。幸い、幸代さんと一緒に暮らしておられるから、伯母さんも何とか今日まで耐えてくることができたと思うのよ」

 久し振りに寸暇を盗んで、田舎の両親の許へ帰省した私は、近くのアパートでひっそり暮らしている山田の伯母さんのお見舞いをしたのである。

 山田の伯母さんは、父の姉で今年86才になる。山田の伯母さんほど女として、妻として、人の子の母として、また人間として、世の中の辛酸を嘗め尽くして何度も絶望の底に突き落とされながら、なお一筋の望みに生を託して人生を生き抜き、今、静かに晩年を安らぎの中に明日をまちながら過ごしている人を私は身近に見たことがない。

 山田の伯母さんは農家の4人兄弟姉妹の長女として生まれ20才で造り酒屋の長男の許へ嫁入りした。夫との間には女児の幸代をもうけたが、夫の女道楽に泣かされ、姑に嫁いびりの限りをつくされた。それでも、根が善人の伯母は夫や姑の仕打ちに耐えて、嫁として妻としての勤めによく励んだ。幸代の誕生に2年遅れて夫が妾に男の子を生ませた。家と家が婚姻し、女の腹は借り物の時代であった。幸代が4才の時夫は病死し、男児に恵まれなかった伯母は幸代と一緒に婚家から離縁され親元へ返された。伯母の離縁と相前後して婚家では妾の生んだ男子を嫡男として入籍した。
 話し好きで世話好きの伯母も余程辛かった時代だったとみえ、当時のことは口をつぐんで語りたがらない。

 間もなく、農家の山田家へ後妻として、幸代を連れて再婚した。再婚先には幸代より2才上の先妻の子、充がいた。再婚先の夫は働き者で伯母を愛し幸代を充と分け隔てすることなく可愛がった。夫との間には男の子、勉を設けた。夫婦仲円満で3人の子供は仲良く生育した。伯母の人生で最も幸せな時期であった。

 充と幸代が長じて年頃になったとき、二人の義兄妹は結婚し、勉は商業学校へ進学した。勉は勉強好きで成績も良く、戦後の就職難の時代に大手の繊維会社へ就職出来て、青雲の志を抱き親元を離れて東京へ赴任した。

 充、幸代の若夫婦も伯父伯母に似て、よく働き、何不自由ない暮らし向きであったが、充、幸代夫婦の間に子供が生まれないのが、伯父伯母夫婦の唯一の気掛かりであった。

 伯父・伯母、充・幸代の老若二夫婦が幸せな生活を送っていた頃、中学生であった私は、松茸狩りや兎捕り、魚釣り、夏祭りに招待され楽しい思い出を幾つも残している。

 私が大学生になって親許を離れ、伯父伯母とも疎遠になった頃、勉が東京に土地を買って自家を新築したので、伯父伯母が山林を売って援助したという話しを聞いた。やがて、会社を辞めて勉が独立し、繊維を扱う商事会社を設立して成功しているという噂も聞いた。それと相前後して充の酒量が増え時々酒乱を起こして伯父伯母を困らせているという話しが母の便りで耳に入った。

 私が東京に就職して結婚した後、海外赴任して田舎へも帰れなくなった頃伯母の不幸が始まった。勉が商売を大きくし過ぎて、折からの不況に災いされ、莫大な負債を抱えて倒産したのである。借金のかたに東京の自宅は人手に渡り、伯父伯母も連帯保証人として田舎の山林、田畑の大半を失ってしまった。悪い時に悪いことは重なるもので伯母が脳溢血で倒れ、半身不随になってしまった。

 勉は伯父伯母のお蔭で負債は完済したものの、妻子には逃げられ親許へも顔を出せず行方を隠してしまった。充の酒量は俄に増え酒乱をしばしば起こすようになっていた。それでも伯父が健在のうちは、家族に危害を加えるよしなことはなかったが、伯父が勉の行方を案じながら不幸な晩年を終えてから、充が狂った。
「お前の生んだ子が俺達を食い物にした。勉を何処へ隠した。勉の代わりにお前を殺してやる」
 充は右半身が不自由な伯母を刃物を持って追い回すようになってしまったのである。朝から飲んで歩き、僅かに残っていた山林、田畑を売り飛ばし、酒浸りの毎日に体もいつしか蝕まれていった。

 私の父が叔父として何度か充を戒めたが効き目はなく、充が酒乱を起こす度に生命の危険に晒される伯母と幸代を見かねて、父が引き取り近所のアパートへ住まわせることになった。同時に充と幸代は離婚し、伯母親子は山田の家を捨てた。それから間もなく充は心筋梗塞で看取る者もなく自宅でひっそり死んでいるのが、死後5日程経って発見された。

 伯母と幸代親子が私の実家の近くへ引っ越ししてきてから1年ほど経って行方の判らなかった勉から再起を目指し、小さな商売を始めたという便りが届いた。勉の消息が知れてから伯母の顔に明るさが戻った。
 今、伯母は幸代がレストランへ勤めて得る収入で細々と暮らしながら、勉がきっと元気な姿を見せるであろうと信じている。

 外国勤務を終えて帰国してからは私も実家へ子供達を連れて帰省する度に伯母を見舞うことにしているが、最近伯母の顔に現れる表情は、不幸な生涯を送ってきた者とは思えない安らぎに満ちている。それは、きっと息子の勉が明日には帰ってくると明日の一日を期待して待つ気持ちがそうさせているのではなかろうかと私は観察している。

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水 蜜 桃 綺 談


正慶二年(一三三三年)五月二十一日、鎌倉幕府十四代執権であった得宗の北条高時が天皇方の坂東武者新田義貞らとの鎌倉攻防戦に敗れ、東勝寺で自刃した。従う北条家恩顧の御家人数百人も得宗の後を追い鎌倉幕府は名実ともに滅亡した。
建武二年、中先代の乱(一三三五年、高時の遺子時行が、北条氏の再興をめざし建武新政府に背いた兵乱)の討伐に東下した足利尊氏が、新田義貞誅伐を奉上して叛乱に転じ、建武三年(一三三六年)正月京都に入った。
大江田氏経は十九才の若武者であったが、脇屋義助(新田義貞の弟)の配下として天皇方につき、箱根をはじめ各地で謀叛した足利尊氏の軍勢と戦った。建武三年二月十日から二月十一日の二日間にわたる摂津打出・西宮浜・豊島河原の戦で天皇方の北畠顕家に敗れた足利尊氏は翌二月十二日夜陰に乗じて兵庫の港から海路九州へ逃げた。大江田氏経は新田義貞軍の先鋒隊として陸路、取り残された足利尊氏軍を攻めたて、備前船坂(三石)まで追い詰め大勝した。
「長船村の垂光を呼んでくれ」
兵達に食事をとらせた後、大勝に機嫌を良くした大江田氏経は言った。京都を発つとき集めた兵糧運搬の人足達のなかに備前長船村へ帰りたいという刀鍛冶がいることを思いだしたのである。

「お呼びでございますか」
と鳥帽子を被り筒袖を着て括り袴に脚半を巻いた旅支度の若い男が畏まった。
「備前長船はここからいくらもないであろう。お主はこれから師匠の許へ帰るところであったな」
「はい。左様でございます。京からの道中お蔭様を持ちまして恙なくここまで帰ってくることが出来ました。これも一重に大江田様の軍勢の中に加えて頂けたお蔭でございますどうもありがとうございました」
と垂光と呼ばれた若い男が言った。
「お主と知り合ったのもなにかの縁。お主の鍛えた刀が欲しい。長船へ帰ったら一振り鍛えては呉れまいか」
「有り難いことでございます。垂光帰省後の初仕事でございます。心魂込めて鍛えさせていただきます」
「我等は備中福山城を必ず攻め落とすから出来あがったら、福山城へ届けて呉れ」
「はい。福山城は私が幼い頃修業したことのあるお寺でございますのでお易い御用でございます」
「そうか。それはまた奇縁じゃのう」
三石城に入って兵の疲れを癒したのち、大江田氏経は勢いに乗って更に進軍して備中の豪族荘常陸兼祐が拠る備中福山城を窺っていた。

延元元年、建武三年三月(一三三六年)梅の花がそちこちに咲きはじめた頃、都から遠く離れたここ備中の国山手村にも、鎌倉幕府滅亡と建武の新政混乱の噂はいつとはなしに広まり、福山城で戦が始まろうとしている気配に民百姓は末世が近付いたと恐れおののいていた。十日毎に開かれる市に集まってきた人々は、物を購うこともさりながら、近くまた戦が始まるのかどうかを確かめたがっていた。
「鎌倉では、北条高時様が自刃なされ、御家来衆も何百人と切腹されたそうじゃ」
「おお、怖しやのう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「都では火付け、強盗がぎょうさん出て、都大路は死人で埋もれているそうじゃ」
「あな、おそろしや。末法じゃ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「幕府は御醍醐帝を隠岐へ島流しにしんさったんでその罰があたって滅んだのじゃろうよ」
「まこと罰当たりなことよ。尊氏も帝に弓引いて、罰が当たり帝との戦に負けて九州まで逃げたそうな」
「その尊氏が九州から攻め上がってくるそうじゃ」
「それもそうじゃが、お館様が福山寺に砦を築いて戦の準備を始められたそうじゃ」「お館様は天皇方と足利方とどちらにお味方なさるのじゃろうかのう」
「幸山城のお館様の所へは天皇方からの使者が来たそうな」
「天皇方の軍勢は船坂山を越えてこちらへ向かって来ているらしいぞ」
「荘氏は源氏の系統じゃから足利に加勢しますらぁ。見ててごらんなせぇ」
「そうじゃろうか。そんなら福山城の兼祐様も幸山城の左衞門次郎様も一緒になって天皇方と戦うんじゃな」
「天皇様の軍と戦うちゅうことは逆賊になるということじゃな。嘆かわしいことよ」「また戦じゃ。恐ろしいことじゃのう」
村人達が、噂話をしているところへ、鳥帽子を被り筒袖を着て括り袴に脚半を巻いたごく普通の身なりの若者が現れた。変わっているところは蛇を首に巻き数珠を手にしていることであった。歳の頃は十七、八だが、鼻筋の通った顔には意志の強そうな眼が座っていた。眼光鋭くあたりを見廻しながら群れの中に入ってきた。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。皆の衆、南無妙法蓮華経じゃ、このお題目さえ唱えていれば救われるのじゃ」
とあたりの村人達の顔の中を一人一人覗きこむようにしながら重みのある声で言った。「南無阿弥陀仏。あなおそろしや、蛇ではないか」
最初に覗きこまれた老人があとじさりしながら言うと、群衆は蛇に怖じ気づいて若者から離れ、取り囲む形になった。
「お主、もしかして蛇丸様じゃぁありませんかのう」
と首をかしげながら問いかける白髪頭の太った女をその若い男は無視した。
「南無阿弥陀仏はお止めんせぇ。罰があたるぞな。南無妙法連華経こそが末法を救って下さるお題目なのじゃ」
と若者を取り囲んだ群衆の眼を一人一人順番に見据えながら南無妙法連華経を数回唱えた。
「なんじゃと。もっとゆっくりもういっぺん言うてつかぁさらんかのう」
信心深そうな中年の男が前歯の欠けた口をもぐもぐさせながら言った。
「何度でも唱えますらぁ。南・無・妙・法・連・華・経・・・南・無・妙・法・連・華経・・・南・無・妙・法・連・華・経じゃ」
「南無妙法連華経とははじめて聞くお題目じゃのう。わしらぁ、南無阿弥陀仏しか教えられておりませんけぇのう」
隣の杖をついた老人が前歯の欠けた中年の男の後をとって言った。
「そうじゃ。南無阿弥陀仏は美作から出られた偉いお上人様が広められたのじゃ。どねぇ名前じゃったかのう忘れてしもうたが」
と前歯の欠けた中年の男が続けた。
「栄西禅師じゃろうが」
杖をついた老人が言うと
「そりゃぁ間違うとりますがなぁ。栄西禅師はお茶を広められた坊さんでわしら、百姓には縁もゆかりもない偉いお上人様じゃ。南無阿弥陀仏を説かれたのは、法然上人じゃ。法然上人はのう、わしら百姓にも阿弥陀様の功徳が授かるようにと修業されて南無阿弥陀仏というお題目を教えてくださったのじゃ。法然上人は美作の国から出られたのじゃ」とその隣の老婆がしたり顔でまがった腰を手でさすりながら言った。

「何とまあ、物知りのおばばじゃのう。山手村の語り部じゃが」
と若い壺売りが感心しながら言った。
「皆の衆、ようお聞きんせぇ。法然上人も確かに偉いお坊様で、隣国の美作のお生まれじゃからお前様がたが信仰なさるのもようわかる。じゃがのう、南阿弥陀仏では救われないのじゃ。末世をお救いんさるのは南無妙法蓮華経しかないのじゃ」
と蛇を首に巻いた若者が確信に満ちた声で言った。
「お前さん、先程から南無妙法蓮華経としきりに唱えとりんさるが、そのお題目はどこで聞いてこられたんじゃ」
と前歯の欠けた中年の男が言った。
「都じゃ。鎌倉に日蓮という偉いお上人様がおられてな、南無妙法蓮華経を始められたのじゃ。これは有り難いお題目ぞな。お前らも聞いておられょうがのう。昔、文永の役といってな蒙古の大軍が九州へ攻め寄せてきたじゃろうが。そうよな、もう六十年も昔のことになるかのう。この蒙古の来襲を日蓮上人は六年も前に予言されたのじゃ」
「ほほう。蒙古襲来のことはわしも爺さまから餓鬼の頃聞かされて知っとるぞ。じゃがなぁ、お前さん日蓮上人が六十年も七十年も前に唱えられたのなら、日蓮上人さまは何才になられるのじゃ。たいそうなお歳よなぁ」
「もし生きとられりゃぁ百歳を越えとられましょうぜぇ」
「それじゃぁ、日蓮上人様はもうお亡なくなりなさったんかいのう」
「そうじゃ」
「では、お前さんは誰に教わりんさったんじゃ」
「わしが、南無妙法蓮華経のお題目を教えて戴いたのは日実上人といってな、日蓮上人のひ孫弟子に当たるお坊様じゃ。日蓮上人はもう五十年も前にお亡くなりになっていますらぁ。日蓮上人には高弟が沢山おられてのう、日像というお上人様が都へ初めて南無妙法蓮華経を伝えられたのじゃ。この日像上人の一番弟子が大覚上人でそのまた高弟が日実上人様なのじゃ。わしゃぁこの日実上人から南無妙法蓮華経を教わったのじゃ」
「日実上人は日蓮上人のひ孫弟子にあたられるというわけじゃな」
「そうじゃ。日実上人様は今、備中野山の妙本寺へ来ておられますがな」
「わしらにも教えてつかぁさるじゃろうかのう」
「教えてつかぁさりますらぁ。教えてもらいたかったら先ず、南無妙法蓮華経を唱えられぇ。このお題目だけが仏法の神髄じゃ。南無妙法蓮華経を唱えてさえいれば、貴賤、老若、男女の差別なく善人も悪人も、成仏出来るのじゃ。難しいお経もいらんのじゃ。修養もいらんのじゃ。この世の災難も避けられるのじゃ。あの世でも成仏できるのじゃ。南無妙法蓮華経を唱えんせぇ」
「戦が始まろうとしているときに南無妙法蓮華経はわしらを救ってくださるんじゃろうか」
「そこが南無妙法蓮華経のよいところじゃ。必ず救ってつかぁさるんじゃ。末法の世だからこそ、お釈迦様の正しい教えである法華経を広めなきゃぁおえんのじゃ。法華経がこの世の隅々までいきわたれば、この世が仏の浄土であることがはっきりするんじゃ」京都から戦火を逃れてきた備前の国の刀鍛冶の中に日蓮上人の法華宗に帰依しているものがあり、「南無妙法蓮華経」のお題目さえ唱えていれば貴賤、男女、善悪人等の差別なく一切衆生は成仏できると説いて廻っていた。この教えは他宗を認めず攻撃するところ甚だしいものがあるが、悪代官の厳しい取り立てに喘ぎ、飢餓寸前の百姓達には強烈な説得力をもっていた。この刀鍛冶の名を備前長船村の垂光という。 垂光は備中山手の領主荘左衞門次郎が端女に生ませた庶子である。母は彼の生後間もなく他界し、乳母の手によって育てられた。幼名を虎丸と称し、性豪胆でかつ才気煥発にして好奇心も旺盛で幼時から猫や犬を可愛がっていた。特に蛇を可愛がるさまには異常なものがあり、捕まえて来た蛇を布団に入れて寝起きを一緒にする程であった。虎丸の手は蛇を魅惑する形をしていたようで、蛇に向かって掌を広げ近付いて行くと、蛇は竦んでしまって動けなくなり、易々と虎丸に捕まってしまうのである。村人達は「お館様かたの蛇丸様」とあだ名した。この異常な性癖のゆえに兄である三人の嫡子達とのいさかいが多く、乳母からも疎んじられ、肉親の情愛を受けること少なく、次第に蛇をはじめとして犬、猫兎狐、狸、鶏等の動物の世界へ耽溺していくのであった。

 荘氏は備前山手村の幸山に館を築いていたが、居館とはいえ山の上にあり、土地の者は幸山城と呼んでいた。その幸山城の近くに福山があり、海抜三百メートルの山頂には十二の坊を持つ福山寺があった。福山寺の開山は不明であるが、天平年中(七二九~七四八)に報恩大師が建立したと伝えられている。聖武天皇の詔(七四一)により備中総社村に国分寺が建立され、金光明最勝王経と妙法蓮華経が安置された時期とほぼ同時代である。国分寺は鎮護国家・消災致福を祈って発願された官寺であり、律令制国家の手厚い保護を受け、近隣の村人達の崇拝を得て繁栄した。
 福山寺も創建当初は、国分寺同様近隣の山手村、清音村の村人達の参詣で賑わっていたが、源平合戦の頃から次第に荒れ初め、荘一族がこの地へ移住してきた頃には、法灯も消えかねない程度の荒れようであった。
 そもそも、荘氏がこの地へ源頼朝の代官として武蔵の国より移住してきたのは百四十年余前に遡る。荘氏の祖太郎家長が建久三年(一一九二年)一の谷の合戦で平重衡卿を生け捕りし、その功により恩賞として備中四庄を源頼朝より賜ったからである。
 太郎家長は神仏に対する尊崇の念篤く荒れ放題になっていた福山寺を修復し、氏寺として保護を与えたので、創建当時の殷賑を取り戻した。また荘一族は備中四庄(下道庄、浅口庄、窪屋庄、都宇庄)の経営に力を注ぎ新田を開発してその領地を広げた。


 当時の家督相続は、鎌倉時代に行われていた所領の分割相続から嫡子単独相続へと次第に移行していた。このため兄弟間で相続争いが頻発するようになっていた。特に腹違いの兄弟どうしの争いが多かった。そこで虎丸の父荘左衞門次郎は嫡子と庶子の間で相続争いが生じるのを防ぐために、虎丸を七才のとき、福山寺の僧円念に預けた。当時の氏寺の大半がそうであったように、福山寺でも寺僧は氏人から選ばれることが多く、僧円念も荘一族の氏人であった。円念の境遇は虎丸に似ていた。円念も荘一族の氏人ではあったが、庶子であり多数の嫡出の兄弟の中にあって、疎んじられながら肩身の狭い思いをして成育したのである。円念は備前岡山の真言宗福輪寺で修業を積んだ後、その侠気を荘左衞門に買われて福山寺の寺侍の元締に補されていた。福輪寺は日蓮宗の布教のため備前に入っていた大覚大僧正が備前津島で辻説法をしていたとき、当時の福輪寺の座主良遊が大覚に宗論を挑み論破され、一山ともに改宗して後、妙善寺と改名した名刹である。
 虎丸を預けられた時、円念は三十五才であったが、境遇の似ている虎丸をこよなく可愛がった。円念は出家とはいえ、寺侍達を取り仕切っていたから、剣術の腕は相当なものであった。


 福山寺の生活にも慣れてきたある日、円念の剣術の稽古を傍らで見ていた虎丸は、自分にも剣術を教えてくれと頼みこんだ。
 「虎丸よ。何故剣術を習いたい」
 「敵をやっつけるためです」
 「お前の敵とは誰のことだね」
 「私に危害を加えようとする者すべてです」
 「例えば誰だ」
 「幸山城の太郎太」
 「お前の兄ではないか」
 「兄であっても私に危害を加えれば敵です」
 「刀は何のためにある」
 「人を切るためです」
 「何故人を切らねばならない」
 「切らなければ自分が切られるからです」
 「それはそうじゃ。だがのう、人を切らなくてすめば、刀はいらなくなるとは思わないか」
 「人の心に支配欲、征服欲のある限り刀は人を切るためにあるのではないでしょうか」 「わしは人の心から支配欲、征服欲を無くすことができると思っているのじゃが」
 「それはどのようにしてですか」
 「人が皆、仏のみ心にお縋りして信心し、修業を積むことじゃ」
 「人が皆、信仰に生きる世が実現して、人の世に争いや戦が無くなれば刀は要らなくなるのでしょうか」
 「人を切る目的の刀は無くなるであろうが、刀そのものは無くならない」
 「何故ですか」
 「もともと刀の前は剣(つるぎ)と呼ばれた両刃であった。剣は突くための武器であって切るための武器ではなかった。そのうち剣を片刃にして切る目的で作られたのが刀なのじゃ。刀が剣に変わって多く使われるようになると、剣は祭りごとだけに使われるようになったのじゃ。同じように争いが無くなっても、刀は祭りごとのために残るであろうし、美術品として残るだろうと思うのじゃ」
 「刀が鑑賞のためだけにつかわれるような世がくるといいでしょうね」
 「そのためにも仏のお慈悲を広めなければならない」
 円念は虎丸にお経と武術を教えたが、それ以上に剣のもつ美しさを教えた。気性の激しい虎丸に刀の武器性よりも美術性の方が価値があることを悟らせ荘一族の中で争いが起きないようにするのが円念の役目だと自覚していたからである。動物好きな虎丸には武術よりも剣の美しさのほうが心の慰めになった。そんな生活の中で虎丸の心の中には刀の使い手であるよりも、鑑賞者であるよりも、刀を作る者になりたいという気持ちが育まれていくのであった。美の創造者になりたいという思いが心の奥底に沈澱していくのであった。


 虎丸が十才になったとき、福山寺の僧円念は父荘左衞門次郎に虎丸を備前長船の刀鍛冶景光に弟子入りさせることを進言した。この時代は後の江戸時代と違って士農工商という身分制度もできあがっておらず、農民が荘園内の田畑を耕作するが同時に武装もして外敵と戦うことが多かったし、鍛冶が武器をとって戦うこともあったので領主の庶子が刀鍛冶になることには違和感というものがなかった。
 「お館様、昔、村上天皇、冷泉天皇、一条天皇の佩剣を鍛えた名工として誉れ高い実成は長船の刀鍛冶でございました。しかも実成は虎丸様と境遇がよく似ておいででした。虎丸様は剣術の腕も磨かれ、お強くなられました。しかし御気性からして、剣の道を歩まれると荘家の将来にとって、由々しき事態が起こらないとも限りません。仏門で修業を続けられる御意志はないようにお見受けいたします」
 と円念は荘左衞門次郎に言った。


 円念の語るところにれば、実成は備前の国司が朱雀天皇(九三十~九四六)の御代に自分に仕える女に生ませた庶子であり、幼くして母を失い寺に預けられたが、やがて刀鍛冶に弟子入りして名工になったというのである。現在長船村で名工として売りだし中の景光は円念と母方の縁続きであるという。
 「そうだ、それは良い考えかもしれない。早速景光を呼んで呉れ」
 「心得ました」


 数日後長船から景光が幸山城へ呼び出された。
 「のう景光よ、お主の爺さまの光忠が打った刀は天下一品であったと聞いておるぞ切れ味といい右に出るものはなかったそうな」                    
 「はぁ恐れいります。お館様にそのように我が御先祖様のことをお褒めに預かるとはまことに晴れがましゅうございます。刀鍛冶として家門の誉れに存じおります」
 「お主の父の長光もこれまた天下に比類なき名工と聞いておる。弘安の蒙古来襲(一二八二)の折に執権時宗公が蒙古の使者を成敗された刀がお主の父長光の打った刀だということは天下にあまねく知られていることだからのう」
 「ははぁ、刀鍛冶として過分のお言葉。景光身に余る光栄に存じおります」
 「光忠、長光と我が荘家との付き合いも長いものじゃのう。光忠の打った刀を我が祖父が携え文永の役(一二七四)の折り、肥前の国へ出陣して以来の付き合いじゃ」
 「この乱世にあって、頼朝公以来の名門である荘家よりそのように長い年月御愛顧戴いたること、刀鍛冶として一門の誉れにござりまする」
 「ところで、景光おりいって願いの儀がござる」
 「ははぁ、これはまたなんでござりましょう。景光に出来ることでございますればなんなりとお申し付け下さいませ」
 「ほかでもないが、我が息子虎丸のことじゃ。そちも承知の通り、虎丸は気立てが優しく、生き物を我が友として成長して参ったが剣術の腕前も相当上がったようで、このまま進んで剣術の腕が磨かれると兄弟達との間で争いが起こりかねないという虞れがある。この円念坊に預けて仏門の道を進ませようと考えていたのじゃが、研ぎ澄まされた刃の美しさに魅せられてしまったらしい。刀鍛冶になりたいと言うのでな。武芸を習わせるよりも刀鍛冶にして武士の魂を磨かせたほうがあの子の将来にとっても荘一族の将来にとってもよいのではないかと考えるのじゃが、そちはどう思うかの」
 「お館様、それは良い所にお気がつかれました。乱世の世の中でありますれば戦に命を掛けるのも一生。刀鍛冶になって武士の魂を作り磨くのも一生と心得まする」
 「そうか、それでは景光よろしゅうお願い申す。虎丸を頼みますぞ」


 景光に弟子入りした虎丸は備前長船村で修業に励んだ。生来、好奇心が旺盛なだけに、一事に集中することが苦にならない性格で根気よく仕事に精をだした。加えて動物が好きな性格であったから細かな所の観察が鋭く師の景光も驚く程の上達振りであった。
 「虎丸よ。お主を幸山のお城から預かってきてはや五年が過ぎた。腕の方ももう一人前だ。ついてはいつまでも虎丸というわけにもいくまい。どうじゃ、我が祖光忠の一字を戴いて、以後は垂光と称すがよかろう」
 「ありがとうございます。ついては、お師匠様におりいってお願いがございます」
 「なんじゃ。申してみるがよい」
 「聞く所によりますれば、都には優れた刀鍛冶が集まっているとか、垂光も都へ上ってもそっと腕を磨きとうございます」
 「それもよかろう。山城粟田口派の国綱、備前直宗派の三郎国宗、福岡一文字派の助真等の流れを汲む名工達が技を競っているのが都じゃ」
 垂光はかくして都へ上り刀鍛冶として腕を磨き、かたわら日像によって都にもたらされた日蓮宗についての見聞を深めたのである。           

荘一族に荘常陸兼祐という土豪がおり、智略にたけていた。幸山城にいる荘左衞門次郎一族の分家筋にあたり、都宇庄を分与され福山の麓に館を構えて南部地域の新田の開発に精を出していたが、荘一族の中では欲深で物欲のためには信義を平気で破る油断の出来ない男と見られていた。荘常陸兼祐には男子がなく雪姫という娘が一人いたが稀にみる美貌の持ち主であった。彼は荘左衞門次郎の三人の嫡子太郎太、次郎太、三郎太の内末の子の三郎太を雪姫の婿に迎え入れようと申し入れ近く祝言をあげることになっていた。
 元弘の変(一三三一~一三三三)の頃から護良親王令旨とともに御醍醐天皇の綸旨や足利尊氏の催促状が使者によって届けられるので、何れに与するのが自分の為に得策かと考え悩んでいた。兼祐の本家筋にあたる左衞門次郎が早くから足利方に加勢する意志を示していたので、悩みは大きかった。備前児島には豪族の佐々木一族が控えており、有力な土豪飽浦信胤も積極的に足利方に助力していた。


 一方備前邑久郡豊原荘の地頭今木氏や大富氏は児島高徳と共に天皇方の有力な支持者であった。ところで、児島高徳については次のエピソードが残されている。
 後醍醐天皇が隠岐の島へ流されることになったことを知った児島高徳は帝を播磨船坂峠で奪回しようと待ち伏せしたが、天皇一行は山陽道を通らず、播磨の今宿(姫路)から美作へむかっていた。既に院庄(津山)に入っていた天皇にこの地にも天皇に心を通じる忠義の武士達がいることを伝えたくて、御座所近くの桜の大木に次の詩を書きつけた。
 「天 匂践を空しゅうするなかれ 時 范蠡なきにしもあらず」
 天は越王匂践(後醍醐天皇)を空しく殺し奉ってはならない。越王を助けて恥をそそいだ范蠡のような忠臣がいないとはかぎらないという意味である。
乱発される綸旨や令旨や檄は地方の豪族達の去就を決めかねさせていた。
荘常陸兼祐は始祖太郎家長が源頼朝の恩顧をうけた武将であることから、味方するなら同じ源氏の足利側にと心密かに決めていたが、戦況や政情が目まぐるしく変わるので、旗幟鮮明にすることなく日和見主義をきめこんでいたが何れの側に加勢するにしても、平地での戦よりも石垣を持ち山の上にある福山寺を砦にした方が戦い易いと考えて、福山寺に立て籠もって情勢を見守っていた。


一族の荘左衞門次郎はいちはやく足利直義の旗下に参じて、幸山城に布陣していた。幸山城は始祖太郎家長が武州から移ってきたとき築いた城であり、福山城とは指呼の距離にあった。
荘左衞門次郎の使者が足利方に味方するよう荘常陸兼祐の許へ幾く度か往来した。 垂光は、父左衞門次郎の密命を帯びて福山へ赴いた。垂光は墨染の衣を纏い僧に変装して、勝手を知った抜け道から福山城へ入城し円念と過ごした僧坊の前までたどりついたとき草むらに蛇をみつけた。垂光がいつものように左手の五本の指先を第一関節のところで曲げて掌を蛇へ向けると、蛇は竦んで身動きできなくなった。蛇を捕まえたとき、この様子を不審に思いながら見ていた警護の寺侍に誰何された。
「お主、何者じゃ。そこで何しとる」
「ご覧の通り蛇を捕まえたのじゃ」
「蛇をつかまえてどうする」
「首に巻いて南妙法蓮華経を唱えるのじゃ」
「さては、最近蛇を首に巻いて、新しいお題目を唱えてまわる怪しげな者がいるとの噂 ゃが、お主のことか」この寺侍は最近雇いいれられた悪党の一人らしく垂光の記憶にない顔であった。眉が濃く骨太の男でずんぐりした体格であった。
「さよう、南妙法蓮華経をお唱えんせぇ」
「怪しい奴だ、こちらへ来い」 垂光は寺侍に捕まえられて、警護小屋へ連れていかれた。警護小屋には垂光が昔円念の元で修業していた頃の顔馴染みも居たが、成長盛りに長船村の景光へ弟子入りしたので背丈、顔つきも変わっており、人相から虎丸であると気がつくものはいなかったが蛇をてなづけていることが彼らの記憶を呼び戻した。
「若い僧侶に身をやつした密偵が捕まったそうな。蛇を首に巻いてござるそうじゃ」「もしや、虎丸様ではなかろうか。蛇をあのように手なづけられるのは虎丸様をおいて他にはいない」と一人の男が言った。
「そうじゃ。虎丸様じゃ」
「なんでまた密偵のような真似をしなさったのじゃろうか」
騒ぎは城中へ広がり、女中達も見物に来た。
「何と涼しげな顔立ちの坊様でござろう」
「意志の強そうな目付きをしておられることよ」


噂を聞いた常陸兼祐の娘雪姫もお付の侍女を連れておそるおそる見物にきた。虎丸が福山寺にいた頃は雪姫はまだ三才で虎丸のことは覚えていなかったのである。
垂光がきっと正面を見つめている視線に雪姫の姿が写った。雪姫の視線と垂光の視線が交錯したとき蛇に睨まれた蛙のように、雪姫は竦み、体中に雷にうたれたような衝撃がはしった。
垂光は寺侍の総元締円念の前に引き出されことなきを得た。
円念に伴われて、兼祐の前に連れてこられた垂光をしげしげと眺めて兼祐は言った。「おう、これは虎丸殿、いや垂光殿でござったな。蛇丸殿も大きゅうなられたのう」「はあ、お館様お久しゅうございます。本日は、南妙法蓮華経をお勧めに参上いたしました」
「あの幼かった虎丸殿がこのように見事に成人されて、これはまた御説法に参られたとは、人も変われば変わるものよのう」
「これも、皆円念様の御指導と我が師景光様の御加護のせいでございます」
「ところで、幕府が滅びたうえに、帝の世継ぎの問題で争いが起こりこの山手の田舎にまでその影響がきておるぞ。はてさて、どちらが勝つのやら」
「それはさておき、お館様は足利方と新田方とどちらへお味方なさるおつもりですか」
「何れも源氏ではないか」
「私の見るところ足利殿の方が器量が大きいように思います。今でこそ逆賊になっておりますが、この乱世を纏めていけるお方は足利尊氏殿をおいてほかにはないと考えます」
「それは、左衞門次郎殿のお考えか」
「そうです。それがしも父の考え方に同意しております」
「これはまた何故そのように思うのかの、訳を聞かせてはもらえないかの」
「さればでごさいます。それがしも、幼き頃より、生き物の世界に興味をもち争いの無い世界はないものかと考えてまいりましたが、動物どもは己の生活の領域をあらすものに対しては、果敢に死を掛けても戦います。しかしながら、己の生活の領域が確保されれば決してそれ以上のことは致しません。まして人間のように、己の名誉や家門の名誉のために争うことを致しません。足利殿はこの世に争いのない世界をつくろうと考えておいでなのです。おそれながら、現在の戦は皇位継承をめぐっての争いであろうかと考えます。天皇様を取り巻くお公家衆が民の迷惑も考えずに名誉欲と権勢欲の権化と化し権謀術策を巡らして、諸国の武士を我が味方に取り入れ天下をほしいままに動かそうということから起こった争いであると考えております。ところが、足利尊氏殿ははやくこの世の争いを無くして、民百姓が安心して暮らしていける世をつくりたいとお考えなのです。足利一族のことよりも、天下泰平を願って戦っておられるのです。それが証拠には源氏同門の新田義貞と戦っておられることでもお判りでしょう。新田殿が天皇方の策略に踊らされて、源氏の中でも下積みであった新田家の名誉を挽回しょうとしておられるのとは、志の高さが違うと思うのです」

 父兼祐の傍らで雪姫は垂光の弁舌にほれぼれしながら聞き入っていた。なんと理想の高い高潔なお人柄なのであろうかと思いながら。
「なるほど、志の高さと申されるか。それにしてもお父上もお若いのう」
と常陸兼祐は志の高さだけで世の中が動けば何の苦労もないのにと心の中でつぶやきながら言った。
「しかも、今でこそ賊軍と言われていますが、必ず新しい帝の綸旨が下りると信じております。その節には立場が逆転し、新田義貞軍が逆賊になるのです」
「我らは武家だから、主人に忠節をつくすのが本分であろう。しかし恩賞あってこその忠節であろう。どちらの側の恩賞が多いだろうか」
「足利殿だと思います。ところで、お館様天皇方の先鋒隊の大江田氏経殿は必ず福山城を攻撃してきます」
と垂光は言った。
「何故、分かる」
と兼祐が聞いた。
「実は私は大江田様の刀を一振り鍛えてお届けすることになっておりますが、そのお届け先が福山城なのです」
「なに。お主はどちらの味方なのだ。二股かけているのか」
「刀鍛冶にとっては自分の作品を買って下さる方が大切なので敵味方はありません」「先程から、お主は足利方の方が正義で、天皇方は不正義だと言っているではないか」
「その通りです。しかし刀を買って戴くことはこれとは別のことなのです」
「そういうものかのう。いずれにしても、天皇方にお味方するか足利方にお味方するかはよく考えてみよう。父上に宜し伝えられよ」
と言って垂光を引き取らせた兼祐はまだ結論を出さなかった。日和見主義に徹しようと思っていた。


一方天皇方の新田義貞軍の先鋒隊、大江田氏経からの勧誘の使者が荘左衞門次郎の許へ往来した。
「これは正義の戦でござる。その証拠に逆賊足利尊氏は九州に逃げたではないか。全国には帝の綸旨を奉じたてまつる武士達が結集しようとしているのだ。天皇親政を実現しようとするものでござる。我が陣について正義を実現されよ。勝利の暁には恩賞として官位官職が下されましょうぞ」
と大江田氏経の使者は言った。
「いかにも、帝が親しく政を行われるのは結構なことでござるが、現在の知行地さえ安堵されないことがあると聞き及ぶが如何に。我等は源氏の恩顧を受けた者。足利殿は我等の棟梁でござる。この世に戦をなくそうとしておられる無欲の足利殿にお味方致す」 左衞門次郎は荘兼祐との間で争っている所領のことを思いながら言った。
「新田殿も源氏ぞ。足利殿は天皇に弓引いた逆賊であるぞ。ここのところをよく御勘案あれ」
「御忠告なれど、乱世に生まれた武家の宿命。志の高い足利殿にお味方申す」
この時の左衞門次郎は、周辺の豪族達は足利軍に加勢すると読んでいた。加勢しないまでも、中立を保ち形勢をみて、戦に分のあるほうへなびくであろうとみていた。今、左衞門次郎が足利方に加勢すれば雪崩のように周辺豪族達は自分にならって足利方へなびくものと自負していた。ただ心配なのは同族の荘兼祐の動向であった。使いに出した垂光の報告では荘兼祐は旗幟を鮮明にすることなく日和見主義でいく気配であった。戦乱の世のならいとは言え同族が敵味方に分かれて争う愚だけは避けたいと思っていた。       
 幸いなことに児島の飽浦信胤が兵を率いて福山城に駆けつけ荘常陸兼祐を説いて足利軍に加勢させたと知り、足利軍の有利を確信していた。
荘一族を味方に引き入れることには失敗したが大江田氏経は、左衞門次郎の予測に反して付近の豪族達を味方に引き入れることに成功した。大江田氏経が軍使に言わせたのは次のきまり文句であった。
「これは正義の戦である。天皇親政を実現するための戦である。勝利のときには加勢した武将には官位官職が恩賞として下される」
田舎の豪族達は乱世に力を蓄えてきた武士であり名門の出でない者たちは天皇家に組みし官職を貰うことで社会的な権威を獲得しようとした。彼らにとっては、手柄をたてて都で官位官職を手に入れることは魅力であったし、天皇家に忠誠を誓うことが彼らの倫理感にもあっていた。

大江田氏経は、日和見主義者の多いこの地域では最初に行動を起こし、緒戦で圧倒的に勝つことが肝要と考えた。夜陰に乗じて全軍に火矢を持たせ一斉に福山城内へ放たせた。火矢を放ってからは全軍一斉に突撃をさせたのである。戦には勢いというものがあり、緒戦で勢いに乗った側が有利に展開することが出来る。大江田氏経は自ら先頭に立って栗毛の馬に跨がり緋縅の鎧に兜を被り、福山城に向かって突撃した。雪崩の勢いの突撃であった。博打のような戦法であったが相手の出鼻を挫いて充分であった。奇襲攻撃といえた。 ところが思いがけないことが起こった。敵側より弓矢の応戦は全くなく城の門が開いて白旗をかかげた兵達がなんの抵抗をするでもなく大江田氏経軍を城内へ導きいれたのである。荘常陸兼祐と飽浦信胤とが共謀した裏切りであった。一番堅固な城と目されていた城を天皇方に渡し、逆賊となっている足利方を打ち破れば荘左衞門が領している下道庄、浅口庄、窪屋庄の領地が恩賞として貰える手筈になっていた。大江田氏経の軍使が密かに福山城を訪れた時の約束であった。このような密約に助けられて大江田氏経が福山城をなんなく攻めて落としたのは延元元年四月三日(一三三六年)九州にいた足利尊氏が西国武将を結集し上洛を開始したときであった。                      
  福山城に布陣した大江田氏経は山陽道のこの要衝の地を天皇方の第一線とし、荘常陸兼祐と飽浦信胤との降参兵を天皇方に加えて大江田氏経軍兵士達の士気は大いにあがった。

     
この時の模様は太平記に次のように述べられている。
『新田左中将の勢、すでに備中、備前、播磨、美作に充満して、国々の城を攻むる』 
この当時所領は嫡子分割相続で細分化しており、所領を増やすには荒野を開拓するか戦争で勝ち敵方の闕所(没収地)を分配して貰うしか術がなかった。元来武士は武芸をもって支配階級に仕える専門職能集団であったが、支配階級が分裂すれば彼らも分裂するのは必然の成り行きであった。恩賞を貰うためには勝つ側に加勢しなければ意味がない。恩賞の貰えない戦には参加しないほうがよい。当時降参半分の法という慣習があり降参人は所領の半分ないし三分の一を没収されて許されていた。従って、降参や寝返りが多く後年の江戸時代の武家社会の慣習とは大きく異なっていた。去就の自由があり主従関係は恩賞次第という即物的なものに左右された。荘常陸兼祐と飽浦信胤の裏切り行為と同じようなことが行われるのも珍しいことではなかった。


                   
九州で陣容を立て直して、軍勢を海陸の二手にわけ東上を開始した足利勢は尊氏が五月に児島下津井に千余隻の水軍で到着し吹上に三日間陣を張った。一方山陽道を東上した弟の足利直義は福山城を延元元年(一三三六年)五月十四日三方から取り囲んだ。足利直義の軍勢は三十万にのぼった。対する大江田氏経は城内に僅か一千五百の兵力であった。  早くから足利方に加勢していた荘左衞門次郎はこのときも足利直義軍の旗下に参じ裏切り者の荘常陸兼祐を打ち破ろうと先鋒隊を買って出て福山城を攻めた。しかしながら城に籠もった大江田氏経直轄の城兵は士気が高く常に奇襲戦法で足利の大軍を悩ました。その勢いで本陣をつき足利直義に迫って、彼を討ちとらんばかりの勢いであった。しかしその後は膠着状態が続き勝敗の帰趨は予想すべくもなかった。裏切り者のこういう局面での決断には常人では考え及ばないものがある。荘常陸兼祐の判断も異常であった。戦況を観察していた荘常陸兼祐は一旦は天皇方に味方したものの勢力を盛り返した足利軍の方に勢いがあると見て再び裏切った。手兵に命じて密かに城内の数箇所に火を放ち火災を発生させたのである。この火事が引き金となって、城内は大混乱に陥り、足利方の軍勢の総攻撃にあい城兵五百騎が討ち死にした。氏経は四百に減ったにも関わらず、二十六回にも及ぶ逆襲をし、ついに三石城にいた新田義貞軍と合流した。

                               
荘常陸兼祐は軍使を足利直義に派遣し、難攻不落の堅城を無血開城したと見せ掛けて敵を安心させた。その上で城に火を放って天皇方を混乱に陥れ、足利方に勝利を導いたのは手柄であるから、その手柄に免じて所領を闕所とすることなく,安堵して欲しいと懇願した。 

        
五月十五日から十八日までの三日間の激戦であった。この福山合戦では荘左衞門の三人の子供太郎太、次郎太、三郎太も参戦した。三郎太は捜し求めて、裏切り者の荘常陸兼祐の首を打った。
「降参半分の慣習があるとはいえ兼祐殿あまりにも、信義にかけましょうぞ。武家は忠こそを尊びたきもの。雪姫殿とのことは破談にしてくだされ。御免」と涙ながらに刃を走らせたのである。
荘常陸兼祐の首は高梁川の河原に曝された。


  
円念は雪姫を密かに城外へ連れだし長船村の刀鍛冶景光のところへ保護を頼んだ。いちはやく幸山城に布陣した荘左衞門はこの福山の合戦での功を認められて猿掛城の城主に封じられ、以後小田庄も知行地に加えることになった。


   
垂光は福山の合戦のあと、仏門に仕えたことのある者として城内で討ち死にした荘常陸兼の首のない遺体や大江田氏経軍兵士の夥しい数の死体を弔った。

    
福山の合戦のあと大江田氏経の求めに応じて鍛えた一振りの刀は転戦する大江田氏経の手元へ届ける術もなく、暫く垂光の許にあった。

    
一三三八年新田義貞が越前藤島の戦いで敗死し、大江田氏経も戦死したという便りが垂光の耳に入った。無常を感じた垂光は刀の武器性が嫌になり刀鍛冶を辞めた。そして、桃作りに専念しながら荘常陸兼祐と大江田氏経軍兵士達の菩提を弔った。雪姫は円念に助け出されたあと暫く長船村の景光鍛冶のところで庇護をうけていたが、荘三郎太との婚約も破談となり、失意の日々を送っていた。円念の世話で水光の女房となり彼と共に桃を作るかたわら父と兵士達の菩提を弔った。後年垂光の作る桃はまるで蜜のような味のすることからいつとはなしに「水蜜桃」と呼ばれるようになった。水蜜桃の名だたる産地は福山城と幸山城のあった山手村と清音村である。(平成五年一月四日脱稿)
                                     

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秦河勝 古代大和国家の発展を陰で支えた実力者一族の頭領


吉田山の「白樺」という学生相手の飲み屋に、私達はトグロを巻いていた。
ママと高校二年生の娘が醸しだす家庭的な雰囲気に魅きつけられる何かがあっ
たのかもしれない。眼鏡の奥底に人なっつこい笑みをたたえて、広隆寺の弥勒
菩薩の素晴らしさを情熱的に語っていた秦野という学生は私と同じ法学部五組
の二回生だった。第二外国語にドイツ語を選択する学生が多い中で、フランス
語を選択した数少ない変わり種の一人であった。秦野を教室で見かけることは
少なく、秦野に会おうと思えば、夜「白樺」を覗いてみればよかった。彼は、
歴史書、美術書を片手に、京都・奈良の神社仏閣を訪ね歩くのを日課としてお
り、夜になると「白樺」へ現れ、同好の学生を相手に彼独特の見方で歴史上の
事実を解釈し、皆に披露するのであった。
夏休みになって、学生達がそれぞれ帰郷し、「白樺」が閑散となっていたあ
る日の新聞に広隆寺の弥勒菩薩に抱きついて、あの見事な流れるような線の右
手の指を折ってしまった学生のことが社会面の記事として報道された。犯人の
学生の名前は伏せられていたが、その記事を読んだとき私は何故か秦野という
学生が犯人に違いないと直観した。
「推古天皇が美人であったから、聖徳太子は半跏思惟像を秦河勝に与えたので
あり、崇峻天皇が殺されたのもそのためだ。聖徳太子が天皇になれなかったの
もその所為なのだ。美しいことは罪悪だ」と熱ぽっく語っていた秦野の言葉を
思い出したからである。眼鏡の奥底に光るあの人なっこい眼差しは彼流にいえ
ば犯罪だからである。
その夜、久しぶりに「白樺」へ行ってみたが秦野は帰郷したらしいというこ
とで、彼の姿を見かけることは出来なかった。この事件があってから私は教室
でも「白樺」でも秦野の姿をみかけることは出来なかった。
私が秦河勝についてその生涯を辿ってみたいと思うようになったのは、学校
卒業後さる大手の製造会社に就職をして二十年程経ったある日、京都の南禅寺
境内にある某僧坊で開かれた同窓会に出席し秦野に会ったからである。この僧
坊は権限の乱用で社長職を解任され世間を騒がせた有名百貨店の社長とその愛
人の女実業家が逢瀬の場所として使っていたその百貨店の元接待寮であった。
そして二十年いや二二年振りに再会した秦野はやはり眼鏡の奥に人なっつこい
笑みを湛えていた。聞けば暴力団のみをお客にとる有名な弁護士になっている
ということであった。
美しいことは罪悪だと言った彼。人なっつこい眼差しは犯罪であると思った
私。
この二人の二二年振りの邂逅が何故か私を千四五百年前の世界へ誘うのであ
る。

「この子には河勝と名付けることにしよう」と父の秦国勝(はたのくにかつ)
は皺くちゃだらけの嬰児の顔を覗きこみながら、産褥にある妻の赤子郎女(あ
かこのいらつめ)に向かって言った。
「河に勝つですか。強そうでいい名前ですこと」と赤子郎女は嬰児の頬に頬ず
りをしながら応えた。
「そうだ。桂川に先ず勝つことだ。そして世の流れという大きな河に勝つこと
が秦一族の繁栄に繋がることになるのだ」と国勝は最近氾濫した桂川を部民を
指揮しながらやっと治めた十日程前のことを思い出しながら言った。
「先祖ゆかりの地新羅が栄えるのはよいことじゃ。この子もきっと幸せを掴む
じゃろう」
秦国勝の先祖は新羅から渡来してこの葛野(かどの)の地に定着した帰化人
であったが、昨日出仕したときに、大臣の蘇我稲目から最近、任那の日本府が
新羅にうち滅ぼされたと聞かされていたので、新羅の国から渡来した遠い先祖
のことを偲びながら言った。河勝が生まれたのは五六二年欽明天皇の御代のこ
とであった。
この時代は、蘇我稲目が娘の堅塩媛(かたしひめ)と小姉君(こあねぎみ)
の姉妹を欽明天皇の大后・后として宮中に送り込み、外戚としての地位を確立
し、権勢を誇っていた時期である。
河勝は幼少の頃から聡明な子供であり、色々なことに興味をしめした。
「まあこの子はなんて勿体ない食べ方をするんでしょう。そんなに沢山飯粒を
残してからに。河勝や、御飯は一粒でも残したら罰があたりますぞ。お米が食
べられるようになるまでには多くの人々が八十八回も汗を流しているのです
からね」と母親の赤子郎女は木の椀の端に残っている飯粒を指さしながら河勝
を叱った。
「はい。ごめんなさい」と素直に謝ってから河勝は椀の端にへばりついている
飯粒を可愛らしい手でつまんでは口へ運びながら聞いた。
「八十八回の汗とはどんな汗ですか」
「お米を作るには、先ず田圃を耕して、水を引き、苗代を作ります。苗代を作
るためには草をとり、畝を作って肥やしをやり、また耕して畝を作りその上に
種籾を蒔きます。種籾を蒔いてからも種が烏や雀に食べられないように、籾殻
を焼いてその上にかぶせますのじゃ。芽がでてからも草をとったり、肥料をや
ったりして苗を育てるのです。苗が育つとこれを抜いて、田植えをします。田
植えをするためには、その前に別の田圃を耕して水を引き、準備をしておかな
ければなりません。田植えが終わってからも、田の草取りをしたり、水車を踏
んで水を田圃へやらなければならないのです。やがて稲が穂を出して実ってく
るとまた烏や雀に食べられないように、案山子をたてたり鳴子をつけたりしな
ければなりません。十分穂がみのったら今度は稲刈りです。刈り取った稲は乾
燥させて、脱穀しさらに乾燥させてから今度は籾擦りをして籾殻とお米を分離
しなければなりません。こうしてできた玄米を臼で挽き、糠をとってはじめて
お米ができるのですよ。このようにしてお米ができるまでには、八十八回も手
間をかけ汗を流しているのです。このことを忘れないように、御先祖様は米と
いう字を作られたのです。」
赤子郎女は秦一族が米作りに如何に血と汗を流してきたかを、一族の未来の
統率者に子供のうちから教えこんでおかなければならないという使命感に燃え
ていた。
「河勝や、お米は今では田圃で作りますが昔は山の中の畠で作られていたので
すよ。昔々、お米が此の国へ渡ってきた頃は山を焼いて、その跡へお米の種を
蒔き、稔ると稲穂を摘み取りその跡へは桑の木を植えたのです。桑の葉はお蚕
さんの餌になるのです。その頃はお米の収穫量はとても少なかったのです。稗
とか黍や粟のほうが作りやすく手間も掛からなかったのですよ。山を焼いて種
を蒔き、採り入れが終わるとその跡へ桑の木を植えて次の土地へ移っていくの
です。だから今のように一つの場所に留まってお米を栽培するというようなこ
とは無かったのです。」母の赤子郎女は秦国勝の許へ嫁いできたときに一族の
長老から教えこまれた米作りの歴史を最愛の息子に伝えるのに懸命であった。
「それでは何時頃から、今のように田圃でお米を作るようになったのですか」
「この国に鉄製の鍬や鋤が半島から渡ってきて畠を耕すことが楽になったころ
からですよ。今から二百年程昔のことです。その頃には山の中の畠で水を溜め
やすくまた水の抜きやすい所を選んで御先祖は稲を栽培するようになったので
す。このような畠を棚田というのですよ。水稲のほうが陸稲よりも収穫量が多
いので水田でお米を作るようになったのです。そして、農耕技術が進んでくる
と、次第に人々は平地へ下りてきて大きな水田でお米を作るようになったので
す。作物を作る場所を『畠』とか『畑』とか書きますが読み方はハタケとハタ
です。ハタケは白い田つまり火を使わないからシロイ田なのです。定まった場
所で作物を作るところつまり定畑を表し、ハタは火の田つまり焼き畑を表すの
です」母は指先に水をつけて飯台に『畠』と『畑』という二文字を書きながら
説明する。
「それでは水田で稲を栽培するようになったのは最近のことなのですね」
「そうですよ。秦氏の『秦』を今ではハタと読んでいますが昔はシンと読んで
いたのですよ。同じように秦人はシンヒトと読んでいたのです」
「何故、シンをハタと読むようになったのですか」
「それは秦氏が管理している一番大切なもの、つまり作物を作るハタと織物を
織るハタを管理している人という意味でいつの頃からか世間では秦氏のことを
ハタ氏と呼ぶようになったのです。このように秦一族にとっては農耕と機織は
それを抜きにしてはその存在価値がなくなる程大切な仕事なのですよ。更に土
木技術にも秀でていたからこそ川の流れを変え田に水を引くことが出来、飛躍
的にお米の収穫量を増やすことが出来たのです。この葛野の桂川に大堰を築き
氾濫を無くしお米が採れるようにされたのも御先祖様の努力の賜物なのです」
「御先祖様って偉かったのですね。秦氏の御先祖様はどんなかただつたのです
か」と河勝の好奇心は飛翔してゆく。
「遡れば秦の始皇帝にまで行き着きますが、弓月の君(ゆづきのきみ)という
人が秦氏の始祖とされているのです」
「もっと聞かせて」と河勝はせがむ。
「今日はここまで。もう遅いからお休みなさい。弓月の君のことは深草の長老
様にお願いして教えていただきなさい。私よりも詳しいことをご存じだから」
母の赤子郎女は我が子河勝の知識欲にたじたじとなりながら、やっと寝かせ付
けた。

日本列島に米が渡来したのは二,二00年程前だとみられている。秦河勝が
生まれた頃から数えれば約七七0年程昔のことである。米は倭人が日本列島に
もたらしたものであることが考古学・歴史学・民俗学・比較人類学等の研究の
成果としてほぼ証明されている。
そもそも倭人とはどのような人種であり、日本の経済及び文化の基礎となっ
た米と倭人とはどういう関わりを持ったのかということを辿ってみれば、秦河
勝の先祖である秦人とその子孫である秦一族が日本の農耕技術・養蚕技術・土
木技術・手工業技術に秀でたものを持っており、祭祀に重きをおく氏族であっ
て、古代大和国家の繁栄に多大の貢献をした氏族であることが理解できるであ
ろう。
米の原種は大きく分ければ、四種類位に分けられるが、アジアでつくられる
のはこのうちの長粒米(インディカ)と短粒米(ジャポニカ)との二種類であ
る。同じ米であってもこの長粒米と短粒米とでは、人間と猿くらいの違いがあ
る。即ち長粒米と短粒米とをかけあわせても、穂はできるけれども実ができな
い。つまり染色体の数が基本的に違っているからである。
この長粒米と短粒米の原種の分布を調べてみると、氾濫原では長粒米しかな
く、河岸段丘の上で作られていた米は殆どが短粒米であった。長粒米の発祥の
地はガンジス河流域のような氾濫原であり、短粒米の発祥の地はヒマラヤ山系
の谷々のような棚田である。棚田とは水を溜めれば湿田となり水を落とせば乾
く田のことである。
ヒマラヤの山奥の谷間に発生した短粒米は、だんだん谷を下りて揚子江へ至
り、南の流域一帯及びその支流あるいは広東から西へはいっていく西江の辺り
が大きな短粒米の稲作地帯となったのである。この地帯は古くは百越の国とい
われていた。越の国の人々即ち越人達が稲作技術を進化させた頃、黄河流域に
は殷や周のような強い国家ができて勢力を増していったが、彼らは畑作の産物
を食料とした。越人達は中央の強い国の文化を求めて次第に移動して揚子江や
淮河の流域に村を作った。さらに北上して山東のあたりを経て陸路は朝鮮半島
に至り、海路は日本の九州にまで至って町を作った。米作技術をもって朝鮮半
島南部や日本にまで渡来した越人はいつの頃からか倭人と呼ばれるようになっ
ていた。
倭人の稲は北九州の地へ渡来し栽培されしかも品種は短粒米(ジャポニカ)
であったことが、福岡県夜臼遺跡や板付遺跡の発掘で判ってきている。
倭人達は稲作だけでなく、漁労の技術にもたけていた。歴史上に初めて登場
する日本人は「倭人」と呼ばれている。魏史倭人伝(西暦二二0〜二八0年三
国時代の魏の国の歴史書に書かれた倭人の条のこと)によれば「禾稲(水稲の
こと)を植え」「船に乗って交易を行い」、「漁業に従い」、「水に潜って魚
を手づかみしたり、貝を採ったりすることが上手で」、「皆黥面文身(いれず
みのこと)」していたと記されている。また越南(今のベトナムの辺り)で越
人が住んだ地帯には入れ墨をする風習があったことが知られている。このこと
からも越人が北へ移動して、朝鮮南部や九州に至って植民地を作りだした頃倭
人と呼ばれだしたと言えるのではなかろうか。
倭人は朝鮮半島にも住んでいたが、九州にも住んでおり、その間を船で往来
し交易や漁労にあたっていたのも倭人であったと考えられる。
初めて大陸に統一国家を作った秦の始皇帝(西暦BC二二一-二一0)が滅
んで漢民族が覇権を握ると、秦人達は追われてその一部は朝鮮半島へ逃げて定
住するようになった。朝鮮半島は大陸からみれば辺境の地であり未開の野蛮な
国であった。秦人達は当時朝鮮半島で活躍していた倭人から稲の栽培方法を学
び、持ち前の秀でた農耕技術でこれを改良し水田耕作を可能にしていったので
ある。彼らは鉄を使う技術をもっていたから鉄の原料を産出する朝鮮半島は鋤
や鍬を作り稲の水田耕作を発展させるには好都合の条件を備えていたといえよ
う。

秦部の下僕や下女達が機織りしているのを興味深く見ていた幼い河勝を手招
いて、一族の長老秦大津父(はたのおおつち)が長い顎髭を手でしごきながら
言った。
「河勝や、今日は弓月の君のことを話してしんぜよう」
秦大津父は山背国紀郡深草里に根拠地を構えていた。葛野の秦部が織りだし
た絹や深草で醸造した濁り酒を馬の背に負わせて隊列を組み、飛鳥や伊勢へ運
んでは売り捌き、伊勢特産の水銀を仕入れて帰るという商業活動にも携わって
いた。官職は大蔵の掾であったから位は高いほうでなかったが、日本全国に広
がっていた秦人約七千戸の首領として仰がれていた。飛鳥へ行ったり伊勢へ行
ったりで、秦大津父は席の温まる暇もなかった。秦大津父は河勝の父方の祖父
の弟である。河勝の今はなき祖父秦河(はたかわ)は葛野に根拠地を持ってい
た。河勝は秦一族の直系の血筋を継いでいた。葛野から今日は深草まで父の国
勝に連れられて遊びにきていたのである。忙しい秦大津父は幼い河勝の顔を見
るのは始めてのことであった。河勝は目を輝かせて長老の話に聞き入った。
「弓月の君とはな、融通王(ゆずおう)とも言われるのじゃが、秦の始皇帝の
末裔なのじゃ。弓月の君の先祖は秦の国が滅びたとき半島に逃げ渡った秦の遺
民で、一族が離散することもなく助け合って国の再興を期していたのじゃ。弓
月の君は始皇帝の十三世孫にあたられるのじゃ。わかるかの、秦一族は皇帝の
血筋をひく名門なのだからお前もこのことは誇りにして生きていかねばならな
いのだぞ」と祖父は河勝の目を見据えながら言った。
「それでその人達はどうなったの」と河勝は先を促した。
「弓月の君の先祖は、一旦、半島に渡ったものの、当時の半島は未開の土地で
あったから、秦一族は団結して開墾に励み力を養うしかなかったのじゃ。秦一
族は大陸から移住して来たとき、鉄製の農工具とそれを作る技術を持っていた
ので、未開地の開墾は順調に進んだ。彼らは秦の始皇帝の子孫であるという誇
りを持っていたから、土着民と融合することなく一線を画して平和に生活して
いた。それは長い長い年月であった。長い年月が過ぎる内に半島にも高句麓、
新羅、任那、百済という国が誕生したのじゃ。一方、大陸では秦を滅ぼした漢
という国の次に新という国ができたが、忽ち滅んでしまって、また漢という国
が生まれたのだ。前の漢に対して後の漢という訳で後漢と呼んでいるのじゃ。
後漢という国が出来た頃から、弓月の君の先祖は、大陸へ帰って国を再興する
ことは難しいと考えるようになったのじゃ。」
「そしてどうなったの」
「半島の中でも高句麓という国は強い国でしょっちゅう新羅や百済を攻撃して
は領土をかすめ取ったのじゃ」
「弓月の君はどうなったの」
「その頃はまだ弓月の君は生まれていなかったのさ。弓月の君の先祖は、そう
さな曾祖父ぐらいになるのかな、高句麓の攻撃を避けて百済へ逃げたり、新羅
へ逃げたりしていたのだが、弓月の君の代になって海の向こうからも任那を攻
撃してくる強い国があり機織りの技術や天文、医学、暦、易のことを学びたが
っていることを知ったのじゃ。その国が大和の国なのじゃ。弓月の君は大陸へ
帰ることを諦めて、海の向こうに安住の地を求めることを決心したのじゃ。そ
の時には新羅から百済へ移り住んだばかりの時であったそうな。なにしろ腕の
良い機織り技術者と土木技術者を沢山抱えており、鉄製の農工具とその技術を
蓄えていたから、新羅の王様も弓月の君の動向に対しては注意していた筈だわ
な」長老の秦大津父は言葉を切って、土器の濁酒を口に運んだ。
「応神天皇の御代(三八二年)に、弓月の君は百済から一二0県の人夫(おお
みたから)を率いて大和の国へ移住を決行されたのじゃ。百済から加羅までた
どり着いたところ、運悪く新羅人に妨げられて人夫は加羅に止めおかれてしま
ったのじゃ。弓月の君は使いを応神天皇に出して助けを求めたところ葛城襲津
彦(かつらぎのそつひこ)が派遣されて日本へ渡るのを助けたということじゃ
が、弓月の君が連れてきた人夫はいずれも腕の良い機織技術者と土木技術者達
で、養蚕の技術も持っていたので葛野に定着してからも繁栄し今日に至ったの
じゃ。」と秦大津父は白くて長い顎髭を右手の親指と人指し指で作った輪でし
ごきながら、河勝に物語ってくれた。幼い河勝にとっては、先祖の流浪物語は
ロマンに満ちた魅力ある話であった。
「弓月の君が葛野に定着してまもなく、半島では応神天皇が軍隊を派遣し百済
・新羅を討ち負かした(三九一年)ので、弓月の君の渡来時期の選定は正しい
決断であったことが判ったのじゃ。一族の長は将来のことも見通して決断しな
ければならないから責任は重いのだよ。」と大津父はやがて一族の長になるで
あろう幼き河勝に期待の眼差しを向けながら話を続けた。
「河勝よ、弓月の君が葛野に落ちついてから間もなく、応神天皇の御代に半島
から阿知使主(あちのおみ)とその子の都加使主(つかのおみ)が党類一七県
の民を率いて渡来してきているが、この一族は、高市郡檜隅を根拠地にして栄
えている東漢直(やまとあやのあたい)氏の祖先なのじゃ。彼らは陶部(すえ
つくり)、鞍部(くらつくり)画部(えかき)、錦織(にしごり)の技術に優
れているので、我が一族も機織りという技術の特徴を生かして彼らに負けない
ように頑張らなければならないのだよ」「ほかにはどんな氏族が渡来したので
すか」
「阿知使主(あちのおみ)が渡来してのち間もなく今度は、やはり応神天皇の
御代に百済から、王仁吉師(わに)が論語と千字文を持って渡来し、朝廷に百
済王からの品部(ともべ)として献じられたのじゃ。彼らは朝廷では史(ふひ
と)としてもちいられた西文首(かわちのふみのおびと)氏の先祖で根拠地は
河内の古市なのじゃ。彼らは読み書きにあかるいので代々書記として朝廷で文
書を扱い羽振りをきかせているのだよ。お前も読み書きができるようにならな
ければのう。」
「御長老は読み書きができるのですか」
「出来るとも。大蔵掾という官職は読み書きが出来なければつとまらない役柄
なのだよ」
河勝は尊敬の眼差しで改めて大叔父の顔を仰ぎみるのであった。
「御長老わたしにも読み書きを教えてくださいませんか」
「いいとも。しっかり勉強して、一族の繁栄をはからなければならないからの
う。読み書きの勉強も大切だが、もっと大切なのは神様を崇拝するということ
じゃ。秦一族が現在繁栄しているのは、守護神を丁重にお祭りしているからそ
の御加護があり霊験あらたかなためなのじゃ。深草の里にお祭りしている稲荷
(いねなり)神は五穀豊穣の神様じゃ。葛野にお祭りしているのは養蚕の神様
だし、松尾の神様は酒造りの神様なのだ。賀茂の神様は大地の神様でこれらの
神々は秦一族が畏敬の念をもって崇拝しているのだよ」
「わかりました。毎朝四方拝をし、神様を拝むように母親から教えられていま
すのでそれを守るようにします」と河勝は言った。
「秦一族がこの地に渡来以来、おおよそ二百年足らず経ってはいるがこの間、
常に順調であったとは限らない。弓月の君が渡来してから二〜三代のうちは、
族長がしっかりしており、神様を畏敬し敬う気持ちが篤かったから繁栄してい
た。だが、そのうち心得違いをする族長がでるようになる。そうすると一族は
分散のはめになる」
「そのようなこともあったのですか」
「あれは、やはり応神天皇の御代のことであると聞いているが、須須許理(す
すこり)という酒造りの名人が百済から渡来して、旨い酒を朝廷に献上したそ
うだ。帝は喜ばれて、須須許理を秦部に下されて酒造りも秦部の大切な仕事と
なったのじゃ。そのときの族長は秦登呂志(はたのとろし)といったが自分の
子供の名前を「酒」とつけるくらいの酒好きであった。そのために、酒部の酒
造りのほうへ力を入れすぎて、秦部の機織りのほうは蔑ろにしたということじ
ゃ。万の神々を崇拝する気持ちが薄らいできたのだな。秦の登呂志は酒造りの
神様を大切にしなければいけないということだけを考えて、蚕の神様と同じお
社へお祭りしたのじゃ。こうなると蚕の神様のほうは面白くない道理じゃ。自
分の神域へ他人が入ってきたのだから意地悪をしてやろうと考えられても不思
議ではない。機織りのほうもおろそかにしたものだから機織りに従事していた
秦部の民も面白くない。次第に秦一族の中で統制がとれなくなり、秦部の民は
全国へ分散して行ったのじゃ。しかし、分散したとはいえ、秦部の民は優秀な
人々が多かったうえに、稲作りの技術や、養蚕の技術や機織りの技術を持って
いたので、分散していった土地で勝部(すぐりべ)を作り、村主(すぐり)に
なったのじゃ。勝部は稲作り、養蚕、機織りの専門技術集団のことであり、村
主とはその集団の指導者のことじゃ。
「分散してしまうと氏族としての団結力がなくなり力が弱くなるでしょうね」
と河勝が言うと長老の秦大津父は彼の利発な質問に満足げに頷きながら話を続
けるのであった。
「そのとおりじゃ。分散して勝部を作り生産に精出していた秦の人々は、秦氏
としての団結が弱くなり、勝部ごとに諸豪族に徴用され和珥氏、穂積氏、巨勢
氏、平群氏、物部氏、大伴氏、蘇我氏、羽田氏、葛城氏等に駆使される情けな
い状態になってしまったのだよ」
「困ったものですね。秦一族の危機の時代ですね」
「その通りじゃ。秦造としての役割が果たせなくなったので、朝廷への貢物も
少なくなり肩身の狭い思いをしたものと思うわのう」
「それで秦一族はどうなりましたか」
「秦酒の公という秦一族の中興の祖が現れたのじゃ。秦登呂志の子の酒の公は
琴の名手であった。酒の公は出仕するときには必ず琴を携帯していた。雄略天
皇の御代十二年の十月のことであったが、秦酒の公が出仕して造営中の宮殿の
前で工事の安全を祈願して琴を弾いていたところ、ある事件に遭遇されたのじ
ゃ」
「どんな事件だったのですか」
「大工の闘鶏御田(つげのみた)が宮殿の建物を建てていたが、梁へ上がった
り下りたりするのが、まるで鳥のように素早かった。たまたま伊勢の采女が天
皇に奉る秋の味覚を盛ったお膳を捧げて通りかかったところ、闘鶏御田(つげ
のみた)が梁へ上がるのを目撃した。彼女が今まで見たこともない敏捷さで、
闘鶏御田が上がっていったので、人間業とは思えなかったのだろう。度肝を抜
かれた伊勢の采女はお膳を落としてしまったそうな。そこで騒ぎが大きくなっ
たのじゃ。天皇に捧げるお膳を落とすとは不敬であり、不吉であるということ
になった。詮議してみると闘鶏御田が魔性をもっているのではなかろうかとい
うことになり、災いを封じ込めるためには闘鶏御田を殺して魔性を絶ってしま
おうということになったのじゃ。」
「闘鶏御田は殺されたのですか」
「天皇の前に引き出されたとき、状況がかわったのじゃ」
「どのように」
「秦の酒の公が琴を弾きながら現れて次のような歌を歌ったのじゃ」
神風の伊勢の
伊勢の野の栄枝を
五百経る析(か)きて
其(し)が尽くるまでに
大君に堅く仕え奉らむと
我が命も長くもがと
言ひし工匠(たくみ)はや
あたら工匠はや
歌の意味は工匠は天皇のために一日もはやく御殿を造ろうと努力している。そ
れなのにそれを殺そうとしている。惜しいことだということなのじゃ」
「それでどうなったの」
「天皇の前で許しもなく、かってに琴を弾いたり、歌を歌ったりすることは本
来許されることではない。不敬な振る舞いとして処罰されるのが当たり前の行
為なのだ。酒の公は余程の覚悟をきめて琴を弾かれたのであろう」
「酒の公は処罰されたのですか」
「処罰されなかったのじゃ。雄略天皇は、武勇に秀でた名君の誉れ高いお方で
あったが、人情の機微にも通じておられたのじゃな。秦の酒の公の琴の音と歌
声が天皇の心をいたく動かしたのであろうか。天皇は闘鶏御田を殺すのをやめ
て罪を許したばかりか、処罰覚悟で、間違った天皇の行為を指摘した秦の酒の
公に褒美を授けようということになったのじゃ」
「御褒美になにを貰われたのですか」
「秦の酒の公は、秦造として部民を統率して米や織物を沢山造り、天皇に貢ぎ
物を沢山奉りたいのだが、情けないことに秦人はあちこちに分散してしまい、
諸豪族の配下に入ってしまっている。そのため秦造としての職責を十分はたす
ことができない。情けないことです。どうか諸豪族の許へ散らばっている秦人
を私の管理の許に戻して下さい。それが私が願う御褒美ですと訴えられたのじ
ゃ。天皇がこれをお認めになり、調べてみたら秦一族は全国に約百八十の勝部
(すぐりべ)を作って村主(すぐり)になっていたそうじゃ」
「一族が戻ってきたということですか」
「そうじゃ、秦造の管理下に戻ったということじゃ。天皇の好意に感激した秦
造の酒の公は秦造の管理下に戻ってきた部民を督励して、絹を織り朝廷に献上
したところ、庭にうずたかく絹が積まれたそうじゃ。天皇は秦の酒の公の忠義
な心を喜ばれて酒の君に太秦という姓をあたえられたのじゃ。それ以来、葛野
の地のことを太秦(うずまさ)と呼ぶようになったのじゃ。」
「全国に散らばっていた秦人が纏まったということですか」
「その通りじゃ。住まいこそ各地に別れてはいるが、一族の長である秦酒公を
中心に置いて精神的な絆で結ばれるようになったのじゃ。産業が次第に発達し
て、人も増え機織りの部を増やさなければならない状況がでてきたということ
もあったのだが、この変化を素早く捉えて天皇に訴えでた酒の公は一族の長と
しては適切な措置をとったことになるのだよ。一族が離散する原因となったの
は蚕の神様と酒造りの神様を同じお社にお祭りしたから祟りがあったのだとい
う反省もあって、この頃秦忌寸都理という御先祖様が松尾神社を建てて酒造り
の神様だけを専属でお祭りするようになったのだよ」

河勝が深草の大津父を訪問してから一年程経ったある日河勝六歳の時、河勝
は松尾神社に父に伴われて誓願にきていた。誓願の目的は二十日程前に生まれ
た河勝の妹玉依郎女(たまよりのいらつめ)が病弱なため病魔退散、悪霊退治
を祈祷することであった。
河勝が神殿に向かってお祈りをしていると突然河勝の体がぶるぶる震えだし
顔の形が変わってきた。目はつりあがり口を尖らせて、しわがれた声で口走っ
た。
「河勝よ案ずるでない。わしはお主らの先祖の弓月の君じゃ。お主の守護神と
して物申そう。玉依郎女は健やかに成長するであろう。彼女が長じて女の印が
あった日に葛野の川で衣の洗濯をさせなさい。上流から丹塗りの矢が流れてく
るであろう。玉依郎女はこの矢を持ち帰り、寝室の入り口の戸へ刺しておくが
よい。一夜明ければ、玉依郎女は懐胎するであろう。その子は玉依郎女が丹塗
りの矢を捧げたいと思って捧げ、それを受け取った男の子である」その声はし
わがれてはいるがこの世のものとは思えない荘厳な響きをもっていた。
「あれま。若様に御先祖様の霊が憑かれた」とお守り役の下僕がはいつくばっ
て地面に頭をこすりつけながら拝み出した。
「河勝よ、心を落ち着けて、息をゆっくりはきだすのだ。御先祖様が安心して
帰っていかれるようにお送りするのだ」と父の国勝が言うと河勝は再び息をゆ
っくりはきだした。それと同時に顔つきは穏やかになり、もとの顔を取り戻し
た。息子の憑依現象を目の前に見て、秦国勝は本日の誓願の目的を息子の河勝
にしっかり教えておかねばならないと思った。秦国勝が娘玉依郎女を連れてき
たのは、病魔退散もさることながら、娘を品よく育てて将来、世継ぎの皇子の
后として入内させることであった。蘇我稲目、馬子親子の権勢をみるにつけ、
秦一族の経済力からすれば蘇我一族にひけをとることはないのだから、皇室に
どんどん入り込んで権力を掌握しなければならないと密かに考えていたのであ
る。今日の誓願はそのことに重点があった。その思いが先祖霊に通じたのか息
子の河勝の体を憑り代としてあらわれたのであろう。託宣によれば丹塗り矢が
誰であるかわからないが、玉依郎女は丹塗り矢に乗り移った男子の子を宿すと
いうではないか。願わくば、丹塗り矢の主が世継ぎの皇子であって欲しい。
この事件があってから河勝が神前で精神を集中して祈祷をすると、憑依現象
がおきることがときどき見られるようになった。
河勝は自分に霊能者としての超能力があることを自覚すると、一族の支配統
制のために最大限に活用した。祭りと政は原始社会においては一体のものであ
り、分離されることなく祭政一致で統治されてきた。裁判はすべて神前裁判で
あり、処罰処刑も神意の発現としておこなわれた。秦河勝の時代には大和朝廷
の基盤も確立し、祭祀と政治は分離されていた。分離されていたとはいえ、そ
の所管は何れも天皇家であった。政治は天皇を中心とする大和朝廷がこれを司
り、祭祀は天皇家が三種の神器を奉じて皇祖神を祭り、天神地祇を祭ることで
あった。但し、この頃になると朝廷内部の分業が進んだため、連の姓を持つ豪
族に宗教的職分や特高警察的な職分はまかされていった。前者をまかされたの
が忌部氏や中臣氏であり、後者を任されたのが物部氏であった。氏族は天皇の
臣下であり、各氏族固有の氏神を祭った。河勝に霊能者としての超能力が備わ
っており、彼が精神を集中して超能力を発揮するときは必ず憑依現象が発生し
たので、部民達は彼を一族の長として畏敬の念をもって仰いでいた。
秦人即ち秦部は大和、山城、河内、摂津、和泉、近江、美濃、尾張、若狭、
播磨、紀伊、丹波、備前、讃岐伊予、阿波、豊前と広範囲にわたって住んで
いた。特に山城盆地にははやくから住んでおり大きな勢力を持つようになって
いた。日本書紀によれば欽明天皇元年に秦人、漢人ら諸蕃の帰化したものを国
郡にそれぞれ定住させて戸籍を編んだところ秦人の戸数は七千五十三戸にのぼ
ったと記されている。この頃秦河勝の大叔父大蔵掾秦大津父は秦伴造に任命さ
れている。

秦河勝と聖徳太子との関わり合いは河勝が一二才になったときから始まる。
この年五七四年(敏達天皇三年)聖徳太子が、橘豊日皇子(たちばなとよひの
みこ・用明天皇)を父とし、穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのひめみこ)
を母として誕生した。
「若様、そろそろ昼餉の時間です。あの桜の木の下で一休みしましょう」と馬
で大原近くまで遠乗りをした河勝に供の下僕が言った。今日は河勝の十二才の
誕生日を記念するために乗馬の訓練も兼ねてここまでやってきたのである。
「今日は天気もいいし、陽気もよくてよかったね。腹も減ったしそうしよう」
と河勝は馬から下りて手綱を桜の木の枝に結んだ。
「こんなに遠くまで来たのでさぞ腹もすいたでしょう。しっかり食べてくださ
い」下僕は竹の皮に包んだ握り飯を差しだしながら勧めた。
「ああ、美味しい。握り飯がこんなに美味しいと感じたのは今日が初めてだ」
と河勝は下僕の差し出す竹の筒に入った水を飲みながら言った。
「若様が、こんなに遠くまで出掛けられたのは今日が初めてなので、きっとお
腹がすいたのでしょう。お腹のすいたときは何を食べても美味しく感じるもの
ですよ」

「お米の神様に感謝しなければ」そう言うとと河勝は苗代にすくすくと伸びて
いる緑の稲の苗に向かって手を合わせた。暫くお祈りをしていた河勝の顔つき
が変わった。目はつりあがり口を尖らして、嗄れた声で喋りだした。憑依現象
が始まったのである。「汝に告げる。都で世継ぎの皇子が誕生された。汝はこ
の皇子に臣従すべし」
「ああ、若様に神様が憑いた」と下僕は地面にはいつくばり、頭を地面にすり
つけて河勝を拝み出した。やがて、憑依現象は収まったが、河勝には臣従すべ
しとお告げのあった世継ぎの皇子の名前は判らなかった。しかし,河勝の心は
まだ見ぬ主の姿形をいろいろ想像しては満たされた気持ちになるのであった。
聖徳太子の幼名は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれたがこれは母親の穴
穂部間人皇女が、池辺雙槻宮(いけべのなみつきのみや)の庭を散歩中、にわ
かに産気づき厩戸の前で出産したので厩戸皇子と名付けられたという。
穴穂部間人皇女の母は、堅塩姫の同母妹の小姉君(こあねぎみ)であり、と
もに欽明天皇の后である。
聖徳太子の生まれた五七四年(敏達天皇三年)といえば大和朝廷は内外とも
に、多くの難問を抱えていた。
対外的には五六二年(欽明天皇二三年この年秦河勝誕生)に新羅に奪い取
られた任那の奪回、百済の軍事的救援と百済や新羅の大和朝廷に対する朝貢体
制の維持強化が、最大の課題であった。
国内的には大和朝廷内における天皇専制の確立であった。継体天皇の御代に
中央権力の強化策として、政治組織は氏姓制から官司制へと、改革されていた
が、まだ天皇専制が確立されていたとはいえなかった。敏達天皇の朝廷には二
つの中心勢力が拮抗していた。一つは天皇、一つは官司制の指導者蘇我氏であ
る。
天皇の意図する方向は天皇専制であるが、蘇我氏との間で幾重にも絡み合っ
た姻戚関係はこれに制肘を加えていたのである。蘇我氏は天皇を上にいただき
ながら、朝廷のありかたとしては、豪族連合政権の性格を強く打ち出し、自分
が連合政権の指導者になろうとしていた。連合政権を固めるため波多、平群、
紀、巨勢、葛城等の大和朝廷を構成する主要豪族は、自分と同じ祖先を持つ同
族であるという系譜を作り上げようとさえした。そして帰化系氏族を配下に置
き、官司制を掌握することにより連合政府の指導者として実権を握り天皇を飾
りものにしようと画策した。その最たるものが蘇我稲目が欽明天皇に対してと
った外戚政策である。即ち自分の娘である堅塩媛・小姉君という同腹の姉妹を
欽明天皇の妃として送りこんだのである。
国内問題としてもう一つの大きな問題は仏教の受容をめぐって、崇仏派の大
臣蘇我氏と排仏派の大連物部氏とが対立を深めつつあった事である。
当時の大和朝廷では皇祖神(天照大神)と地主神(倭大国魂神)二柱の神を
祭っており、奉安されている三種の神器の八咫鏡・八尺に曲玉・草薙剣は統治
権の正当な継承者即ち天皇の地位と権威の象徴であった。国神(くにつかみ)
の司祭者としての天皇家が他国神(あだしくにのかみ)である仏教をただちに
受容することは天皇家の権威にかかわることであり、容易に決断出来る問題で
はなかった。万物には神が宿るという考え方は皇室を始め一般民衆にいたるま
で素直に信じられていた。農耕の豊かな収穫は神の恩恵であった。穀物の霊も
神と仰がれた。山の神、水の神、河の神、森の神、大地の神、神の憑り代とし
ての樹木や岩石などが神として崇拝された。言葉にも霊が宿るという言霊思想
も流布していた。神々は各氏族集団の祭祀の対象であり、守護神としての氏神
になるものもあった。
そもそも、日本の氏族には連姓を持つものと臣姓をもつものがあった。連姓
は神話の世界である天上の高天原において、中臣、忌部、猿女、鏡作、玉祖と
いう各氏族の祖先が天皇家の伴(とも、隷属者)として発生した。これらの伴
は五伴緒(いつとものお)と呼ばれた。天孫降臨のとき護衛をつとめた大伴氏
や、神武天皇にいちはやく帰順した物部氏は神代時代から天皇家の家臣である
と位置づけられていた。五伴緒の鏡作、玉祖の二氏は祭具の製作に携わった。
中臣、忌部、猿女の三氏は司祭者であり、天皇家の伝統と権威の源泉である神
宝を奉祭することで天皇に仕えた。是等の氏族は職掌柄他国神を受容すること
はできなかった。
他方、臣姓の氏族は本貫の地名を氏の名とする在地性の強い集団である。大
和朝廷が統一王朝を確立するまではこれに対抗するだけの力を持っていた。彼
らは帰順した服属集団であり葛城、平群、巨勢、和珥、蘇我等の氏族である。
中でも蘇我氏は古くから帰化人の東漢氏や西文氏らとの接触を通じて、大陸の
事情にも明るく大陸文化の優越性を認めていたから仏教の受容についても積極
的な姿勢を示していた。そこへ仏教が仏像という具体的な形をもったものとし
て外国から入ってきたのだからその受容をめぐる争いは崇仏派と排仏派の対立
を産み出し、皇位継承問題と絡んで壮絶を究めるものとなった。
一般民衆にとっては神であろうが仏であろうが祟りさえなければよかった。
お加護があればそちらのほうがよかった。しかし、権力の中枢にあるものにと
っては崇仏派に属するか、排仏派に属するかは将来の生き残りをかけた死活の
問題であった。
五三八年に百済の聖明王から欽明天皇に仏像と教典が献上された。聖明王は
使者を遣わして、次のように言上した。
「この法は諸法の中で最も優れております。見かけは解りにくく、入り難くて
かの賢人周公・孔子もなお知り給うことができないほどでしたが、この仏像を
拝みさえすれば無量無辺の福徳果報を生じ、無上の菩提を生じることができる
のです。例えば、人が随意宝珠(物事が思うがままになる宝珠)を抱いて、何
でも思い通りになるようにするようなものです。この法は遠く天竺から三韓に
至るまで、教えに従う人々に尊敬されています。それ故百済の王である私は侍
臣を遣わして、御地の朝廷にこの有り難い仏像と経論を伝え国中に流布させて
頂き、お釈迦さまが願われたことを実現したいと思うのでございます」
これを聞き天皇は欣喜雀躍して百済の使者に言った。
「私は今までこのような尊い妙法を聞いたことがなかつた。すぐにでも入信し
たい気持ちだ。しかし大和朝廷の天皇としては影響するところが多いので、採
否をいますぐ決定し返答することは差し控えたいと思う」
次いで、天皇は聖明王の使者接待のために集まってきている群臣達に下問し
た。
「諸卿に聞くが西の国から伝わった端麗な美を備えたこの仏像を祀るべきかど
うか意見を述べて欲しい」
「おそれながら、天皇が天下を大王として統治していらっしゃるのは、常に天
地社稷の百八十神を春夏秋冬お祀りなさっているからでございます。このたび
仮初めにも蛮神を拝むことになると、必ず国つ神の怒りを受ける事になるでし
ょう」と中臣鎌子が他国神を祭ることに反発し、物部尾輿も拒否を表明した。
これに対し蘇我稲目は崇仏を主張して言った。
「西の国では諸国が皆仏を礼拝しています。豊秋の日本だけがなんで拝まない
で済まされましょうか。大いに礼拝すべきです」
天皇は三種の神器を奉安し、天神地祇を司祭する立場にあったから中臣鎌子
や物部尾輿の意見はよく理解できた。一方では進取の気にも富んでいたから、
蘇我稲目の意見にも心を引かれた。
しかしここでは自分の意思を明確に表示することは賢明でないと判断し、目
先の効く蘇我の稲目に仏を預け自分の態度を明確にしないほうが得策であると
考え次のように言った。
「それでは願い人の蘇我稲目に仏と教典を預けて、試しに礼拝させてみよう」
蘇我稲目は天皇のこの言葉を聞くと跪いて仏像と教典を恭しく拝受し、お礼
をいった。
「必ず仏法がこの国に根づくと信じていますが、それまでは私がお預かりしお
守り致しましょう」
贈られた仏像は、悉達太子の半跏思惟像であった。蘇我稲目は取り敢えず豊
浦にある小墾田の家を清めてその仏像を安置したが、やがて向原の家を寺とし
てこれを祭った。ここに於いて日本における最初の仏教帰依者が誕生したので
ある。
彼が仏像礼拝を始めてから一年程経った頃、疫病が流行して多数の死者が出
た。崇仏派攻撃の口実を捜していた物部尾輿と中臣鎌子はこれにとびついた。
疫病流行の原因は、蘇我稲目が他国神である仏像を祭ったからだというのであ
る。これに対して蘇我稲目は、疫病流行の原因は他国神拒否による無礼な措置
が仏の祟りとして現れたのだと主張した。疫病がはやったり、飢饉がおきたり
するとその度に原因をめぐって崇仏派と排仏派が論争を繰り返した。

五七十年(欽明天皇三十一年)三月に蘇我稲目が死に、稲目の後を継いで馬
子が大臣に就任した。稲目の死とあい前後して尾輿も死んだ。後を継いで大連
となった物部守屋は予てから崇仏派の祭る仏像を破棄してやろうと機会を窺っ
ていたが、稲目の死亡がチャンスとばかり蘇我氏の向原の家を襲って仏殿を焼
き、聖明王から献上されて祭られていた仏像を持ち帰ると自宅近くの難波の堀
江に流した。人間が被る災禍や疫病の穢れは、禊や祓によって清められるとい
う日本古来の神道の考え方による行動であった。
蘇我稲目の逝去に先立つ五七十年正月、八才になった秦河勝は父に連れられ
蘇我稲目の向原の自宅を年賀に訪れ、仏像を拝まして貰った。予てより仏教に
関心を示していた父秦国勝が、年賀にことよせて稲目の崇拝する仏像を拝観さ
せて貰おうと、秦大津父を通じて稲目に渡りをつけておいたのである。河勝に
とっては父と一緒の初の大和路への旅であった。秦氏の一族は大和にも住んで
おり、父が出仕するときに利用する館も大和に用意されていた。
河勝が初めて仏像を拝観したときの気持ちは荘厳なものであり、人間の顔を
した外国の神様はやさしく微笑んでいた。
「ありがたい仏様だ」と国勝は魂を奪われ、恍惚境に彷徨った。
「私も仏像をお祭りできるようになりたい」と河勝は祈るのであった。
「河勝よ仏像を将来お迎えすることができたらお寺を建てよう」と国勝が言っ
た。
「是非そうしましょう」河勝は将来仏像を我が手で祭ることを夢みながら頷い
た。
蘇我稲目の死去を狙って決行された物部守屋らの排仏運動もひとたび火のつ
いた崇仏派の求法の情熱の火を消すことはできなかった。帰化人達は崇仏の念
厚く蘇我氏を支援した。特に飛鳥に本拠を置く鞍作氏(司馬氏)は積極的に蘇
我氏を支援した。
この年病床にあった欽明天皇は、太子の淳中倉太珠敷皇子(ぬなくらふとた
ましきのみこ)を枕頭に呼び、任那の復興を託して、翌年四月、金刺宮で崩去
した。
淳中倉太珠敷皇子が即位し敏達天皇となった。欽明天皇と宣化天皇の皇女石
姫との間に生まれた第二皇子であった。
豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)は十八才の時敏達天皇の皇后となっ
た。幼少の時は額田部皇女と呼ばれ、才気煥発の人でその質問には侍女達もし
ばしばたじたじとなることが多かった。
「どうして女は天皇になれないのじゃ」
「昔々からのしきたりでございます」
「何故そのようなしきたりができたのじゃ」
「皇祖の神武天皇以来,天皇は皇子が継承することになっているのでございま
す」
「私は天皇になりたい」
「皇女様が今度お生まれになるときは皇子としてお生まれになることですね。
天皇にもなれますよ」と乳母達は自己顕示欲の強い姫を宥めるのが精一杯であ
った。
長じてからは容姿端麗で、立ち居振る舞いにはメリハリがきいており、数多
い同年代の皇子皇女達の中では一際目立つ存在であつた。母は蘇我大臣稲目の
娘堅塩媛で欽明天皇との間に七男六女をもうけた子福者であった。他にも異母
兄弟姉妹が大勢いたが、小姉君を母とする茨城皇子、葛城皇子、穴穂部皇子、
泊瀬部皇子の兄弟達とはうまがあわなかった。穴穂部間人皇女の美貌は許しが
たかったが、控えめな性格は自分の性格と裏腹であるため絶好のいじめの対象
であった。
額田部皇女が十三歳のとき聞かされた姉磐隈皇女の受難の物語は本能的に彼
等を毛嫌いさせた。
「伊勢大神宮にお仕えなさっている磐隈皇女がお役を解かれたそうですね。お
気の毒なことです」と侍女が言った。
「まあ、姉君が。何故なの」
「神に仕える身でありながら、人間と通じ、汚れたからです」
「あの潔癖好きな姉君が男と通じるなんて信じられないわ。どうしてなの」
「皇女様もそう思われるでしょう。私達も口惜しいですわ。ある皇子から何度
も歌を贈られたけれど磐隈皇女は神に仕える身であることをよく弁えておられ
るので、無視し続けられたそうです」
「巫女としては当然の事でしよう」
「返歌のないのを逆恨みされて御寝所に忍びこまれて無理やり犯されたという
ことです」
「一体相手は誰ですの」
「茨城皇子ということです」
「茨城皇子といえば私にも歌を贈ってきたことがありますわ」
「皇女様、あの兄弟は程度が悪いから気をお付けになってくださいませよ」
「それで茨城皇子はどうなりました」
「お構いなしです」
「磐隈皇女はどうなさいましたか」
「臣下の大伴氏へ下げ渡されました」
額田部皇女が十五歳になったとき、茨城皇子からの相聞歌が届いたが姉磐隈
皇女の受難の物語を思い出しこれを無視した。神に仕える巫女を犯すような粗
野な行為が許せなかったので、返歌を贈ろうという気すら起きなかった。やが
て、茨城皇子の弟の穴穂部皇子からも相聞歌が届けられるようになったが、こ
れも無視し続けた。小姉君を母とする皇子達兄弟はいずれも粗野で向こう意気
ばかり強く品位にかけていた。それにひきかえ淳中倉太珠敷皇子は母が宣化天
皇の二女であり立ち居振る舞いには洗練されたところがあり、文章をよくし史
学を愛するインテリであったので豊御食炊屋姫の好みにあっていた。欽明天皇
が崩御されると、淳中倉太珠敷皇子が即位し敏達天皇となられた。皇后を立て
られることもなく、先帝の皇后石姫を敬って皇大后と称していたので、炊屋姫
は自分が皇后になれるかもしれないと、密かに胸をときめかせていたが、息長
真手王の女広姫が皇后と決まったと聴かされてがっかりした。しかしながら間
もなく、広姫が一男二女を残して薨去し、炊屋姫が皇后に立てられたときには
炊屋姫の自尊心は大いに満足させられた。天皇そのものではないが、皇后とい
う天皇に最も近い立場になれて、幼少の頃の夢の一部がかなえられたからであ
る。

五八三年(敏達天皇十一年)都に疫病が蔓延した。秦河勝は、二三才であっ
た。
この年の夏、父国勝が体調を崩して床についたので、河勝は父国勝の名代と
して大和の要人のところへ貢物を届けて、葛野の里へ帰ってくると、村人達が
集まって噂をしている。
「深草の里では病が流行って、沢山人が死んだそうじゃ。熱が出て腹を下し物
が食べられなくなるそうじゃ。この里にもやってくるかもしれんぞ」
「水を飲むと腹をこわして下痢が止まらなくなるそうじゃ。熱くても水は沸か
してお湯にして飲んだほうがよいそうじゃ」
「何でも都では人間の顔をした神様をお祭りしなかったため祟りで、病が流行
りだしたということじゃ。若殿、都の様子はどうですか」と中年の百姓の男が
河勝に聞いてきた。
「腹が痛くなり、下痢をする病が流行っているのは確かじゃ。人も沢山死んで
いる」と河勝は道端に転がっていた乞食の死骸を思いだしながら言った。
「人間の顔をした神様なんてものがあるのじゃろうか。神様のお姿はわしらの
目には見えないものじゃと思うとりましたがのう」
「私は子供の頃、父に連れられて蘇我稲目大臣の向原のお寺で初めて仏様を拝
ませて戴いたが人間の顔をしておられた。それは清々しいお顔じゃったという
印象をうけたものだが、この度も拝ませて戴いた。心が洗われるような気持に
なったよ」とその時の光景を思いだしながら河勝は言った。
「わしらもどげなお姿なのか見てみたいものじゃのう」
「将来、私も仏様を迎えてお寺を建てたいと思っているよ」と河勝が言った。
「その時には是非とも拝ませて下さい」
「いいとも」
「海の向うから渡ってこられた神様は御利益の多い神様のようじゃな」
「御利益が多いからこそ粗末に扱うと祟りが大きいそうじゃ」
「祟られるようなことを誰がしたのじゃろうか。若殿は遠出されることが多い
から何か知っておられるじゃろう。教えてくださらんか」と機織りの男が言っ
た。
「都で聞いた噂では大連の物部守屋様が蘇我氏の屋敷を襲って仏様をお祭りし
てある仏殿を焼き払い、仏像を堀に流されたのでその祟りがでたということじ
ゃ」と河勝は最近仕入れた情報を公開した。
「そりゃ何時頃のことですかのう」と機織りが聞いた。
「もう十年以上も昔のことじゃそうな」と河勝が答えた。
「随分執念深い神様じゃのう」とさきほどの機織りが慨嘆するような口調で言
った。
「その仏様とやらいう他国の神様を祭ったから、逆にこの国の神様が妬んで祟
りをなされたのではなかろうか。わしはそう考えますがな」と年寄りの百姓が
言った。
「どだい、お姿が見えないから神様なので、人間の顔をした神様なんかはいか
がわしいと、わしゃ思いますがの」と信心深い籠作りが言った。
「わしら、祟りさえなければ、神様でも仏様でもお祭りしますがな。のう、皆
の衆、そうじゃろうが」と壺作りが言った。
「そうじゃ」
「そうじゃ」
秦河勝は父の名代として用事を済ませたのでその報告のため、病床に父を見
舞った。
「父上、只今帰りました。蘇我馬子大臣には、父上の贈り物をお渡しし、お願
いもしてきましたが、大臣はただ聞いておくといわれただけで、特にどうしろ
という御指示はありませんでした」
「そうか。玉依郎女にも、そろそろ月のものがめぐってこよう。それまでに入
内の話が決まればと考えているのだが」と国勝は病床から河勝の報告を聞きな
がら言った。
「丹塗りの矢が流れてくるまでに決まればよいですね」と河勝は松尾神社で受
けた先祖霊の託宣のことを思いだしながら言った。
「そのことよ。わしも、最近鴨氏の若い衆が夜、通ってきては、機織女達にち
ょっかいをかけているので、変な虫が玉依郎女につかなければよいがと心配し
ているところなのだ」と国勝が言った。
「鴨氏の嫡男が最近、夜這ってきているそうですね。玉依郎女が狙われている
かもしれませんよ。私はあてにならない入内の機会を待っているよりも、鴨氏
の嫡男を婿にして、賀茂神社の祭祀権を握ったほうが将来得策だと思いますが
ね。そうすれば、葛野と北山背を支配していくのに良い条件が整うと思うので
す。仏教がこれから主流になるでしょう。しかし内国神を疎かにすることはで
きません。我々氏族には先祖霊がついており、氏神として祭ってきたのです。
秦一族の氏神は深草に稲荷神社、葛野に蚕の社、松尾に松尾神社として祭られ
ているのですから、今、鴨氏と縁戚関係ができれば、山背国全体を覆う祭祀を
主催できることになるわけです」
「それはそうかもしれないが、やはり天皇の后を狙うべきだと思う。それだけ
の力は養ってある筈だから」と国勝は娘入内の希望をすてきれない。
「仮に入内がうまくいったとしても、皇子が生まれるかどうか判りませんよ」
「秦一族の場合は女で子を生まなかった者は今まで一人もいなかった。とにか
く入内することが、今一族にとって一番大切なことだ」
「父上、玉依郎女を入内させて、皇子が誕生したとしてもその皇子が天皇に必
ずなれるという保証はないのですよ」
「それはそうだが、入内できなければ何事も始まらない。経済力では蘇我氏に
も物部氏にも決して劣らない。ただ官位だけが不足しているのじゃ」
「父上、官位が欲しいお気持ちは分かりますが、考えてみて下さい。大伴氏や
物部氏等の連姓の氏族は、天地開闢以来天皇家の臣下であることが運命づけら
れていますから、彼らの娘達は皇后や后にはなれなかったでしょう。我等秦氏
は帰化人だから土着の豪族蘇我氏とは格が低いと見做されているのですよ。と
ても玉依郎女が入内出来るとは思えませんがね」
「なに、秦氏の先祖は秦の始皇帝にまでたどりつくのだ。帰化人とはいえ、格
からいえば天皇家に匹敵する筈だ。ましてや、地方の一豪族であった蘇我氏よ
りも由緒ある氏族だと思うよ。だからこそ、秦氏の実力を認めさせるためにも
、秦氏から皇后や后を出して、天皇家の外戚にならなければならないと思う。
私の代で実現できなければ子孫の代には是非実現してもらいたい。これは、私
の悲願であり、子孫に語り継いで貰いたい一族の目標であると思ってくれ」
「お言葉を返すようですが、私は秦一族は政治には関与しない方が賢明であろ
うと考えております。政治に関与するとどうしても皇位継承権を目指して血生
臭い争いの中に巻き込まれてしまいます。政権争いに負けると一族全員が破滅
するか地獄をみることになると思います。葛城氏、平群氏、吉備氏、大伴氏等
不幸な例は沢山あるでしょう。むしろ政治には直接関与せず、経済の面で力を
蓄え、祭祀を司るほうが、子孫の繁栄に繋がると考えます。そしてお寺を建て
て、仏教を広めるのです」
「お前は未だ若いのに闘争を恐れてどうする。農耕、養蚕、機織、醸造、土木
とあらゆる分野において、第一の力を蓄えている秦一族が何で政治の面でも第
一人者となれないのか。挑戦してみるがよい。私の言いたいのはそういうこと
だ」
「父上のお考えはよく分かりました。御期待に添えるように努力してみたいと
思います」
「それにお前も、深草の大叔父の勧める娘を早く娶って私の目の黒いうちに孫
の顔を見せてくれ」
「承知しました」
河勝と国勝親子の間でこのようなやりとりがあってから、数日後に国勝は流
行病に侵されて死亡した。
国勝が亡くなって半年ほど経った頃玉依郎女に初潮があった。
玉依郎女の乳母からこの報告を受けた河勝は赤飯を炊かせて玉依郎女が大人
になった祝いの宴を一族で営んだ。祝い膳が終わって食器を屋敷の前を流れる
桂川で女達が洗っていた。玉依郎女も女達に混じって手伝いをしていた。族長
の娘ではあるが大人になった証明として家事の手伝いをしてみせるという一種
の通過儀礼であった。その時玉依郎女の目の前を丹塗りの矢が上流から流れて
きた。
「あれ、姫様、丹塗りの矢ですよ」と乳母が言った。
「はやくお拾いください」と別の女が言うのも待たず玉依郎女はいち早く矢を
右手で掴んでいた。
「この矢は御寝所の入口に突き刺して今宵はお休み下さい」と乳母が教えた。
この丹塗りの矢は夜這って来ていた鴨氏の嫡男に玉依郎女から渡されて鴨一
族と秦一族の絆が発生したのである。丹塗りの矢は河勝が密かに手下に命じて
河の上流から頃合いを見計らって流させたものであった。

崇仏派の雄、大臣蘇我馬子は五八四年(敏達天皇十二年)に鹿深臣が百済か
らもち帰った弥勒石像一体と、佐伯連が百済から将来した仏像一体を二つとも
貰い受け、石川の自宅に仏殿を造って安置し法会を営んだ。これと前後して司
馬達等の娘嶋(善信尼、出家当時一一才であったという)・漢人夜菩の娘豊女
(禅蔵尼)・錦織壺の娘石女(恵善尼)の三人を出家させ彼女らに法衣を供し
仏像を祭らせた。このようにして馬子は仏教の受容を積極的に勧めた。
ところが翌年(五八五年)再び疫病が大流行した。排仏派の物部守屋と中臣
勝海は疫病が発生したのは馬子が異国の神である仏像を拝んでいるせいである
と主張し敏達天皇に仏法の禁止を奏請した。敏達天皇は疫病の蔓延を阻止する
には仏法を破断するしかないと判断し、大連物部守屋に仏法の処断を許可した
。守屋は中臣連磐余等を率いて、大野丘の北の仏塔を切り倒し蘇我馬子が建て
た石川の仏殿を焼き、再び仏像を難波の堀へ棄てた。善信尼ら三人の尼は法衣
を奪われ、海石榴市に監禁され尻や肩を笞うたれた。このようにして破仏は実
行されたが疫病は終焉しなかった。そればかりでなく,仏像を焼き、尼を罰し
たことが仏の祟りとして現れ、疫病をますます流行らせる原因となったという
う風評が流布した。また、敏達天皇が破仏を許可したことも非難の対象となっ
た。そのうえ敏達天皇と蘇我馬子とが相次いで疱瘡に冒され床についた。
馬子は自分の病は重く、仏の加護を受けなければ治らないと思うので仏法に
帰依することを許可願いたいと天皇に懇願した。天皇は譲歩してこれを認めた
が馬子一人だけに許すので他の人には認めないという条件がついていた。三人
の尼も馬子に返された。
馬子の病気はまもなく快癒したが天皇はやがて崩御した。馬子の病気回復は
仏の恵みであり、天皇の崩御は排仏の祟りであると当時の人々に思われた。こ
うして他国神の威力が国神を圧倒することが証明された。
大臣の蘇我馬子が卜占せしめたところ、父稲目が祭った他国神(仏)の祟り
であることが明らかとなった。その神は十二年前に難波の堀に流されて以来、
ずっと祭られておらず、いま自己の祭祀を要求したのである。仏の要求をいれ
て祭るなら国内の災禍は消えるであろうと。
敏達天皇には皇子が何人かおり広姫を母とする押坂彦人大兄皇子(おさかひ
こひとおひねのみこ)が母の身分も高く、最年長でもあったので次期天皇とし
ては有力な候補であった。しかし、古代の天皇家では皇位は兄弟相続で継承さ
れることが多く、有力な弟がある場合には弟に皇位が譲られるのが普通であっ
た。敏達天皇には異母兄弟が多く、堅塩姫を母とする橘豊日皇子と小姉君を母
に持つ穴穂部皇子が皇位を争うことになった。堅塩姫、小姉君はともに蘇我稲
目の娘であり欽明天皇の后であると同時に蘇我馬子の姉と妹であった。橘豊日
皇子の同母妹にあたる炊屋姫は故敏達天皇の后であった。このような複雑に血
筋の絡み合った人脈の中では、皇位の継承は天皇家内部の問題に止まることが
出来ず、崇仏・排仏論争とも関係して豪族層も巻き込んだ政治問題となってい
た。橘豊日皇子は母の身分も高く天皇の兄弟の中では最年長であったし予てよ
り仏教に関心を寄せていたので敏達天皇の后炊屋姫と大臣蘇我馬子との支持を
得て対抗馬である穴穂部皇子を蹴落とし磐余の池辺雙槻宮で即位することがで
きた。用命天皇である。
穴穂部皇子は皇位への希望を絶たれたあと次の機会を待って排仏派の有力者
である大連物部守屋に接近し皇位争奪の秘策を練っていた。当時天皇が崩御
するとその死を悼んで、葬送の時まで遺体を安置する殯宮(もがりのみや)が
営まれる習わしであり、敏達天皇の殯宮は広瀬(奈良県北葛城郡)に造営され
た。后の炊屋姫は殯宮に侍して悲嘆にくれていた。
穴穂部皇子は異母妹にあたる炊屋姫にかねてより想いをかけていたが、炊屋
姫が敏達天皇の后として入内してからは、相聞歌を贈ることもかなわず片思い
に終わっていた。殯宮で悲嘆に暮れている炊屋姫にお悔やみを述べ、慰めると
ともに長年の思いもぶつけてみたいと考えた穴穂部皇子は使いを出して、弔問
の意を伝えようとしたが、大三輪逆の手のものが、粗野な野心家で通っている
穴穂部皇子の下心を見抜いて取りつがなかった。使いの者から門前払いの扱い
を受けたとの報告を受けた時、皇子のプライドはいたく傷つけられるとともに
疑心暗鬼を生じた。自分が皇位継承で破れたのは炊屋姫が反対に廻ったからだ
という思いにかられ、憎悪が嵩じた。用命天皇の次の天皇候補者は敏達天皇の
皇子の押坂彦人大兄皇子にいくであろう。そうなると小姉君系の皇子が天皇に
なるチャンスは薄くなる一方である。ここで一騒動起こして、世の注目を引い
ておかなくてはならないという思いも心の隅に潜んでいた。殯宮に押し入りや
るかたない憤懣をぶちまけるとともに長年の思いを遂げようと行動に移した。
穴穂部皇子は自ら手兵を率いて殯宮に赴き、門衛の兵士に尋ねた。
「この宮門を守っているのは誰か」
「大三輪逆がお守りしています」と門衛は答えた。
「門を開けよ。私は皇子の穴穂部皇子だ。殯宮の庭で誄(しのびごと)を読み
上げ皇太后にはお悔やみを申し上げたい」
「主命により開けられません」
「主とは誰か」
「大三輪逆です」
「臣下のくせに皇子に対して無礼であろう。早く門を開けよ」
「開けられません」
このような押し問答が七回も繰り返されたが、門は遂に開かれなかった。炊
屋姫の寵臣大三輪逆が敏達天皇の遺命を帯して護衛の兵士達に殯宮の門を固め
させたからである。
大三輪逆は敏達天皇が生前皇后の炊屋姫と皇位継承に関して交わした次の会
話を先帝の遺命であると心に刻み日記に記録したことを今思い出していたので
ある。
「朕の崩御後は、皇位継承の古来の慣行に従い兄弟相続を第一原則とし、第二
原則としては兄弟が老齢で激務に耐えないとき若しくは幼少のときは先帝の直
系の皇子に皇位を継承することにしたい」と敏達天皇が言われた。
「そうしますと次期天皇候補者はお上の異母弟の橘豊日皇子になりますね」と
炊屋姫が質問した。
「その通りだ。そなたの同腹の兄上が、天皇になれるのは喜ばしいことであろ
う」
「お上のご配慮に御礼申し上げ、感謝致します」
「母親の格、本人の年齢からいえばこれが一番納得できる選択だと信じている
よ」
「その次はどのようにお考えでしようか」と炊屋姫は自分が腹を痛めた竹田皇
子の顔を瞼に描きながら質問した。
「橘豊日皇子がそんなに早く亡くなるとは考えたくないが、もしそのときは、
年齢、母たる皇后の格からいって第二原則を適用して押坂彦人大兄皇子が適任
であろう」
「第二原則の時、竹田皇子は如何ですか」
「チャンスはあるが押坂彦人大兄皇子のほうが年長者だから第二候補というこ
とになる」
「でも押坂彦人大兄皇子は病弱ですわ」
「押坂彦人大兄皇子が亡くなれば竹田皇子と厩戸皇子が有力だ」
「第一原則適用の時、穴穂部皇子はどうですか」
「橘豊日皇子が長命であれば、穴穂部皇子のほうが押坂彦人大兄皇子よりだい
ぶ若いからチャンスはあるだろう」
「でもあの皇子は下品だから駄目ですわ」
「そのときには泊瀬部皇子か宅部皇子がいる」
「母親が小姉君ですわ」
「欽明天皇の妃であったから格式では問題がない」
「小姉君の系統が天皇になるのは我慢なりませんわ」
「堅塩姫と小姉君は同腹の姉妹だよ」
「女の姉妹は対抗意識が男より激しいものですわ」
「そういうものかね。それではその時はそなたが先帝の皇后として即位すれば
よい」
「女が天皇になった先例はありませんよ」
「それでは第三原則を作っておこう。第一原則、第二原則でも選定できないと
きは先帝の皇后が即位するということだ。このことは、私の遺命として大三輪
逆に記録させておこう」
大三輪逆は炊屋姫の寵臣として秘密を知っていたので穴穂部皇子を殯宮に入
れることは断じてできることではなかった。
怒り心頭に達した穴穂部皇子は、蘇我馬子と物部守屋の両名を呼んで大三輪
逆は皇子に対して無礼な態度振る舞いをしたので、切り捨てたいと言うと二人
とも「御随意に」と言った。炊屋姫の寵臣大三輪を穴穂部皇子に殺させるのは
蘇我馬子の策謀であった。炊屋姫の穴穂部皇子に対する怒りを増幅するためで
ある。
一方、穴穂部皇子は、協力者の支援を取り付けて次期天皇になろうと企んで
いたので、何かと邪魔をする大三輪逆を口実を設けて殺そうと考えていたので
ある。大臣と大連の同意を取り付けた穴穂部皇子は、物部守屋と共に兵を率い
て大三輪逆を討つべく磐余の池辺を包囲したが、大三輪逆は本拠地の三輪山に
逃れた。形勢不利とみた大三輪逆は夜陰に乗じて、炊屋姫の海石榴市宮に保護
を求めた。炊屋姫のかねてよりの寵臣として姫の信頼を受けているという自負
と殯宮では、穴穂部皇子の毒牙から姫を守った功績が大三輪逆の拠り所であっ
た。それに皇位継承に関する故敏達天皇の遺命を書き記した詔勅を炊屋姫へ渡
さなければならなかったからである。ところが何時の世にもあることであるが
、窮地に陥った人間の足を引っ張って、手柄にしようという輩が現れるもので
ある。大三輪逆の一族の白堤と横山が大三輪逆の居所を物部守屋へ内通したの
で、物部守屋の兵に捕まり斬り殺された。寵臣の大三輪逆を失った炊屋姫は穴
穂部皇子と物部守屋に対する恨みを心の中に蓄積した。
そ用命天皇は即位後、僅か二年で病に倒れた。天然痘であった。蘇我の馬子は
用命天皇の叔父にあたるので、一年前仏に帰依して病気平癒した馬子にあやか
り天皇も仏に帰依しようと決意した。
「朕は仏・法・僧の三宝に帰依したいと思うので、卿らも承知して欲しい」と
侍仕する群臣に言われた。
仏教伝来以来初めて天皇が自らの意思で仏教を受容したのである。
「畏れ多くも、三種の神器を奉安し天照大皇神を司祭する立場にある天皇が国
神に背いて他国の神を敬う等ということが許されてよいものでしょうか。この
ようなことは前代未聞でございます。お立場をお弁え願わしゅう存じます」と
大連物部守屋と連中臣勝海が口を揃えて言った。
「天皇の御意思は尊重すべきであると存じます。臣達はすべからく詔に従って
御協力申し上げるべきだと存じます」と蘇我馬子大臣は誇らしげに言った。
穴穂部皇子は早速豊国法師をつれて天皇の元へ伺候したので、これを見た物
部守屋は穴穂部皇子の後ろ姿を睨みつけながら言った。
「実にけしからん」心の中では、用明天皇の対抗馬として皇位を争ったとき世
話になっておきながら、また私が仏教に反対しているのを知っていながら、法
師を連れてくるとは何と恩知らずな皇子であろうかと悔しい思いをしていた。
排仏派の雄であった物部氏も天皇が自らの意思で仏に帰依すると表明してか
らは立場が苦しくなった。身の危険を感じた物部守屋は本拠である河内の渋川
に引上げ軍勢をあつめて警戒体制に入った。排仏派の有力者中臣勝海も兵を集
め物部支持の準備をし更に太子押坂彦人皇子と竹田皇子の人形をつくって呪詛
した。彼らは次期天皇候補として第一、第二順位に位置していたからである。
穴穂部皇子を擁立するためには、これらの皇子達は邪魔になるのである。と
ころが中臣勝海は物部側の形勢が悪くなったと気がつくと寝返って、押坂彦人
皇子の水派宮に司候した。舎人の跡見赤寿は無骨者であったが、忠義一筋の武
辺の男であったから、変節漢の中臣勝海を許すことができなかった。中臣勝海
が押坂彦人皇子のもとから退出するところを狙って切り殺してしまった。
物情騒然となってきた中で物部守屋側には物部一族の他に大市造・漆部造の
一部等が加わってきた。一方蘇我馬子側には大伴比羅夫が手に弓矢と皮楯を
持って馬子の身辺警護にあたった。このように緊迫した状況の中で、用明天皇
の病気は進み豊国法師らの懸命な治療と祈祷の甲斐もなく五八七年(用明二年
)四月に崩御した。天然痘の業病であったので早々に磐余池上陵に葬られた。
次の天皇は用明天皇の甥であり皇太子である押坂彦人皇子が有力であった。
しかし皇室に関しては兄弟相続が過去にも例が多かったので、堅塩媛系の用
明天皇の次は小姉君系の皇子を支持する氏族も多かった。この空気を察して守
屋は小姉君系の穴穂部皇子を擁立して即位させよう調したのが宣化天皇の子の
宅部皇子であった。ここにまた堅塩媛系と小姉君系との争いが始まったのであ
る。
と画策した。この動きに同調したのが宣化天皇の子の宅部皇子であった。ここ
にまた、堅塩媛系と小姉君系との争いが始まったのである。
蘇我馬子が物部守屋に勝って権勢を保持するためには、崇仏の念の強い姪の
炊屋姫に取り入って穴穂部皇子の失脚を狙わなければならなかった。その妙案
が穴穂部皇子の同母弟にあたる泊瀬部皇子を皇位継承者として擁立し小姉君系
の結束を揺さぶり、分裂させることであった。
「皇太后には兄上の先帝がお隠れになってお寂しゅうございましょう。心より
お悔やみ申し上げます。ところで穴穂部皇子が皇位継承者として大連物部守屋
と共謀し兵を集めているのをご存じでしょうか」と大臣の蘇我馬子が眠ったよ
うな顔をして言った。
「聞いています。またあのづうづうしい皇子が性懲りもなく画策しているので
すか。宅部皇子までが同調しているというではありませんか、困ったものです
。竹田皇子はまだ幼少で帝には無理だろうし、厩戸皇子も聡明とはいえこちら
も幼すぎるし」と炊屋姫が言う。
「そこでございます。あの目立ちたがり屋で、粗野な穴穂部皇子が天皇になれ
ば、後は小姉君系の皇子に皇位は盥回しされて、竹田皇子や厩戸皇子が成人さ
れてもそのチャンスは失せるでしょう」と馬子が唆す。
「何か良い方策はないものでしょうか」と炊屋姫
「私に妙案があります」と馬子
「是非聞きたいですね」
「穴穂部皇子と宅部皇子討伐の詔勅を下して戴くことです」
「理由は」
「皇太后に対して不敬の振る舞いがあったということと、先帝の寵臣三輪逆を
物部守屋に命じて殺害させたということで十分でしょう」
「それでは、次の天皇は誰にするのですか」
「泊瀬部皇子です」
「小姉君の皇子ではありませんか」
「竹田皇子や厩戸皇子が大きくなられたときのためです」
「厩戸皇子は小姉君系でしょう」と炊屋姫
「いかにも、しかし同時に堅塩媛系でもあります」
「判りました。用命天皇が亡くなられて、穴穂部間人皇后はまだお若いのにお
気の毒です。多目皇子の妃として輿入れさせようではないですか」と炊屋姫が
澄ました顔で言った。心の中では美貌の誉れ高い穴穂部間人皇后にこれで辛い
思いを味わわせることができるのは痛快なことだと思っていた。
「少し残酷ではないでしょうか。多目皇子は穴穂部間人皇后の義理の子にあた
られるのですよ」と馬子
「多目皇子は亡き用明帝にそっくりの顔形をしておいでです、穴穂部間人皇后
の寂しさを紛らわすのには良い考えだと思いますわ」
「成るほど。厩戸皇子が成人した時の用心のため、皇太后としての力を蓄えて
おかれるおつもりですな。穴穂部間人皇后には私から話しましょう、その代わ
り穴穂部皇子と宅部皇子討伐の詔勅は戴けるのでしょうな」
「そうしましょう」
穴穂部間人皇后はこうして用明帝の喪も明けないうちに義理の子つまり用明
帝と蘇我稲目の娘石寸名との間に生まれた多目皇子の妃として嫁がされ佐富女
王を生むことになるのである。
詔勅は秦河勝を使いとして佐伯連丹経手・土師連磐村・的臣真噛等の氏族に
届けられた。彼らは炊屋姫の詔勅を奉じて両皇子を攻め殺してしまったのであ
る。馬子に先手をとられ、肝心の穴穂部皇子を失ってしまった物部守屋は孤立
してしまった。これに対し馬子は、物部守屋を攻めるのは今がチャンスと秦河
勝を使って、朝敵穴穂部皇子に加勢した物部守屋一族を討伐しようとの檄をと
ばした。檄に応じて、泊瀬部皇子をはじめとして敏達天皇の子の竹田の皇子・
秦河勝は馬子の檄文を携えて飛鳥へ赴き厩戸皇子と出会ったときのことが忘
「物部守屋討伐の檄を預かって参じました」と河勝が言った。
「このたびの戦の大義名分は何か」と厩戸皇子は質問したが、一四才とは思え
ない風格があり、威容辺りを圧する荘厳さを備えていた。
「伯母上にあたられる炊屋姫が出された、穴穂部皇子を討伐せよとの詔勅でご
ざいます」
「穴穂部皇子は征伐されたではないか」
「御意。しかしながら朝敵に加担した大連物部守屋が討伐されておりませぬ」
「皇位継承の争いが原因か」
「御意。もう一つ崇仏か排仏かの争いに決着をつける意味もあります」
「大連物部守屋は排仏を唱えているのであったな」
「御意。仏法の教えを広めるためにも大連物部守屋は討伐せねばなりませぬ」
「おことは崇仏か排仏か」
「内国神も認めた上での崇仏の立場でございます」
「仏像を拝観したことがあるか」
「ございます」
「それは何時のことか」
「子供の頃と、つい最近のことですが蘇我大臣の向原のお屋敷で二度程拝観し
たことがございます」
「それでは仏の教えの神髄は何か」
「恥ずかしながら判りません」
「一つだけ教えよう。捨命と捨身とは皆是死也」と厩戸皇子が言ったとき、河
勝には言葉の真意は分からなかったが、厩戸皇子の姿が神々しくみえ思わず手
を合わせた。この時河勝に憑依現象が起こった。手足が震え顔がこわばると、
耳の奥で声が聞こえた。それは遠い昔、大原の桜の木の下で聞いた先祖霊の言
葉と同じ声音であった。
「汝の臣従すべき皇子が今姿を現された」と

泊瀬部皇子を筆頭とする諸皇子の他に、紀、巨勢、膳、葛城、大伴、阿倍、
平群、坂本、春日の諸豪族が蘇我馬子側についた。大和、河内の主要な豪族う
ち揃っての軍団編成であった。とりわけ先鋒隊をつとめた大和檜前の東漢氏の
軍勢は、優秀な武器・武具で装備された精鋭部隊であった。
これらの軍勢は蘇我氏を中心とし、諸皇子や紀・巨勢・膳・葛城の諸氏から
なる主力軍と大伴・阿倍・平群・坂本・春日の諸氏からなる第二群とに分かれ
て進軍した。主力軍は、飛鳥で勢揃いし奈良盆地南部を西進してから、逢坂
越えをして国分から船橋へ出て物部氏の軍に攻めかかった。第二軍は大和川北
辺を通る竜田道を越えて信貴山西麓の志紀の地に出て、一気に渋川の物部氏の
本拠を横あいから急襲した。
物部守屋は稲を積んで砦を作り、子弟と奴からなる軍を率いて防戦したが、
不意をつかれたために、渋川の本拠を放棄して、北方の衣摺まで後退して戦っ
た。このあたりは泥深い沼のある地帯で馬子軍も攻めあぐんだ。大連の物部守
屋は、大きな榎の木に登って馬子軍を俯瞰し、泥沼で足を取られ動きの鈍い馬
子軍に雨の如く矢を射かけたし、よく訓練されて戦上手の物部氏の兵達が頑強
に戦ったので、馬子軍は三度も退却しなければならなかった。
厩戸皇子は瓠形の結髪をして馬子軍の後方に従っていたが、味方が三度も退
却するのをみて何となく不安になった。厩戸皇子の側には秦河勝と跡見首赤寿
(とみのおびといちい)が従い護衛していた。
「大勢がよくない。何か手をうたないとこの戦は負けるかもしれない」と厩戸
皇子が言われた。
「仰る通り形勢は、我が軍に不利のようでございます」と跡見首赤寿が同意し
た。
「この戦に負けると仏の教えは広まらない。仏教を守護する四天王に願をかけ
よう。誰か、仏像を彫る木を捜してきて欲しい」
河勝が近くの山へ入ると直ぐ目の前に身丈程の白膠木(ぬりで)が生えてい
たのでこれを切り取ってきて捧げた。
「これは縁起がよい。白膠木は勝軍木ともいい、霊木じゃ」
「おお、それは縁起がよい」と周囲の者も喜んだ。
「司馬達等を呼んでくだされ」
「はい。御前に」
「仏師は参戦しておらぬか。四天王の像を彫ってもらいたいのだが」
「生憎、仏師は参戦しておりませんが、それがしにも仏像作りの心得はありま
す。やってみましょう」司馬達等が言った。
「非常の時だから、簡単なものでよい。形が出来ただけでよい」
厩戸皇子は、出来あがった四天王の像を束髪の上に乗せ誓いを立てて言われ
た。
「この戦は仏法を護るための戦です。持国天、増長天、広目天、多聞天の四天
王よ、我が軍を守り勝利を与え賜え。もし自分を敵に勝たせて下さったら、必
ず護世四天王のため寺塔を建てましょう」
このとき秦河勝も皇子と一緒に願をかけたが、憑依現象は起きなかった。厩
戸皇子の超能力の方が秦河勝のそれを凌駕していたものであろう。
「諸天王・大神王たちが我を助け守って勝たせて下さったら、諸天王と大神王
のために、寺塔を建てて三宝を広めましょう」と蘇我馬子大臣も誓いをたてて
言った。
誓いを立て終わって、士気の高揚した馬子軍は、武備を整えなおして進撃を
開始した。
跡見首赤寿が狙いをつけて物部守屋に矢を射かけると見事命中した。榎の木
股から落ちてきた物部守屋の首を秦河勝が打ち落とした。これによって物部軍
は自然に崩れて兵士は四散した。この戦で物部氏は没落し渋川の邸宅、難波の
管理事務所や、支配していた田荘は全て没収された。物部氏が滅亡してはじめ
て蘇我氏および崇仏派は自由に活動することが出来るようになったのである。
仏教の興隆を志す馬子は、飛鳥の真神原に本格的な寺の建設を始めた。法興
寺(飛鳥寺)である。これより後、飛鳥時代の仏教の中心的存在となる寺であ
る。
十一
物部一族が討伐されて間もなく、八月二日炊屋姫と群臣達は泊瀬部皇子に勧
めて天皇即位の礼を行った。同じ月に倉梯に柴垣宮を造営したが現在の桜井市
から多武峰街道を寺川沿いに遡った山峡にある倉梯の集落は、視界を妨げられ
る山ふところに位置しており、山々に囲まれたその場所からは、大和朝廷の心
の故郷である三輪山の姿は全く見ることが出来ない。まさに幽閉の場所であっ
た。
崇峻天皇は即位した翌年春三月に大伴糠手連の女小手子を立てて妃とした。
即位したものの、政治の実権から切り離され、馬子の采配によって政治が進行
し、異母姉の炊屋姫からは皇太后の立場を楯に何かにつけて、口出しされるの
で、政治を傍観するしかなく、馬子と炊屋姫に対する反感が鬱積していった。
妃に立てた小手子の父の大伴糠手は連姓の氏族であり、本来皇后を立てられ
る氏ではない。今では大連の地位からも外され、蘇我氏の手足となることに甘
んじている二流の氏族であり、大臣蘇我馬子に対抗していくだけの実力もなく
頼りにならなかった。小手子は天皇との間に一皇子、一皇女をもうけたが、次
第に天皇の寵愛が薄れて馬子の娘である妃の蘇我嬪河上娘に移っていくのを恨
んでいた。それに蘇我嬪河上娘のところへは舶来の香料・衣等の貢ぎ物が頻繁
に届けられるのに小手子のところへはそれが無かった。足しげく貢ぎ物を運ん
でくるのは東駒直という帰化人でいろいろ半島の風俗・習慣等の話を面白おか
しくしているらしいと侍女達から漏れ聞くのも癪の種であった。小手子は親の
実力の相違がこのように、貢ぎ物にまで影響を及ぼし、天皇の愛情にまでおよ
ぶものかと慨嘆してだけはいられなかった。親に力がなければ皇后という立場
を利用して、機会を見すまして実力者である大臣蘇我馬子に命じ、天皇をいさ
めて貰おうと考えていた。
五九一年(崇峻天皇四年)天皇の詔によって任那再興軍の派遣が決まり、紀
臣男麻呂・巨勢臣猿・大伴連噛・葛城臣烏奈良らを大将軍としてその他の諸氏
からも兵を集め、二万余の軍勢が筑紫へ出兵した。ここに名を連ねた各氏族は
その殆どが物部守屋との戦で馬子を支援しているので、遠征軍は馬子の呼びか
けに呼応したものであり、詔も馬子に勧められて下されたものであった。秦河
勝も九州の秦一族に号令して任那再興軍に参加させていた。
崇峻天皇は統帥権さえも大臣蘇我馬子に握られている傀儡政権であった。
十二
五九二年(崇峻天皇五年)の冬、秦河勝は飛鳥の橘宮へ厩戸皇子を表敬訪問
した後葛城山の山奥で捕獲した猪を天皇に献上した。
献上された猪を見て天皇は
「元気のよい猪だね、どこで捕れたのか」と河勝に聞かれた。
「葛城山の山中でございます」
「葛城は蘇我大臣馬子の本貫の地ではないか」
「御意」
「今宵の夕餉には久しぶりに膳部に命じて猪肉の串焼きをつくらせよう」
「光栄至極でございます」
「それにしても、いつの日かこの猪の首を切るように憎い人の首を切りたいも
のだ」と漏らされた。
「おそれながら、お心のうちは、お漏らしにならぬが賢明かと存じ上げ奉りま
す。それがし、只今のお言葉、聞かなかったことに致します」河勝はいまただ
ちに厄介な事件に巻き込まれるのは御免だという思いをこめて言った。心の中
では天皇は蘇我馬子を成敗したいと考えて、私にそれとなく謎をかけて唆せて
いるなと受け止めていた。「ところで、筑紫の国へ沢山の軍勢が出征している
ので、宮城の護衛の兵士の数が少なくおぼつかない。身辺警護の兵を増やした
いが精鋭の部隊を派遣しては貰えぬか」と天皇もさりげなく河勝に言った。
「東漢直駒という戦上手の帰化人がおりますがその手のものでは如何でしょう
」と秦河勝は天皇の腹のうちをさぐるつもりで答えた。
「どのような素性の者か」
「お上も御記憶にあろうかと思いますが、物部守屋の討伐戦の時、新しい武具
で装備し、先鋒隊を務めた騎馬軍団の首領が東漢直駒です。武力だけが取り柄
の人間ですが、お上に忠義を尽くしたいと日頃申しております」と河勝が答え
た。
河勝としては十九歳の厩戸皇子が皇位につくためには、崇峻天皇にもう二〜
三年在位していて貰わなければ困るのである。そのためには、強い武力を持っ
た東漢直駒であれば、馬子に命じられた暗殺団が襲撃しても防戦し、天皇を守
ることができるであろうという思いと場合によっては天皇を奉じて豪族を糾合
し、馬子を征伐できるチャンスが生まれるかもしれないという思惑もあった。
秦河勝の脳裏には天皇家と姻戚関係をもちたがっていた父国勝の遺志が稲妻の
ように駆けめぐった。今天皇を奉じて蘇我一族に立ち向かったらどれだけの豪
族がついてくるだろうかとも考えてみた。現在の兵力、経済力を比較したとき
秦氏と蘇我氏とどちらが優位だろうか、経済力では秦氏が絶対的に優位だが兵
力では蘇我氏に劣るかもしれない。さればこそ、軍政官の地位を苦労して手に
いれ諸豪族に多少睨みが効くようになったのだが、諸豪族は秦氏の実力をどこ
まで評価しているのであろうか。そこが問題だが、諸豪族を糾合できればある
いは蘇我氏を征伐できるかもしれない。もし蘇我一族を征伐できたら、その時
には彼が尊敬してやまない厩戸皇子を皇太子に擁立して、崇峻天皇の次の天皇
に推挙するのである。厩戸皇子が即位すれば自分の立場は現在の蘇我馬子のよ
うに朝廷のあらゆる実権を掌握できるかもしれない。ここは慎重に冷静に対応
しなければならないと心に言い聞かせるのであった。
「私の命令はなんでも素直に聞くだろうか」
「それは忠義一途の者ですから、お上の命令ならなんなりと仰せつけ下さい」
と河勝は答えたが、天皇はもしかすると駒に命じて蘇我馬子の謀殺を企んでい
るのではないだろうか、そうであれば蘇我一族を征伐するきっかけが出来ると
心臓の動悸が高まるの禁じえなかった。
「あの時の先鋒隊か、雨のように飛んでくる矢をものともせずに、血路を開い
た働きは見事であった。そのものを配置してくれ」と崇峻天皇は言われた。
河勝は伝令を飛ばして東漢直駒の手のものを配置した。
秦河勝と天皇のやりとりを聞いていた妃の大伴嬪小手子は、蘇我の馬子大臣
に訴えて、天皇を懲らしめて貰うには絶好の機会だと単純に考えた。小手子は
早速馬子の許へ使いを遣わした。
小手子の使者は馬子に訴えた。
「天皇の許へ猪を献上する者がありました。天皇は猪を指さして(猪の頸を切
る如くに、いつの日か私が憎いと思っている人を斬りたいものだ)と言ってお
られました。どうか懲らしめてあげて下さい。それに何をお考えなのか東漢直
駒の兵を宮城へお集めになっております」
密告により、天皇が馬子を憎み攻撃しようとしていると判断した馬子は、直
ちに東漢直駒を呼んで素知らぬ顔で相談した。
「駒よ。天皇が私に兵を向けて戦を仕掛けてくる用意をしているようだ。どう
したらよいか」
「そんなことがある筈はありません」
「何故判る」
「秦河勝様より要請を受けて天皇の身辺警護のために手勢のものを配置したば
かりです」と東漢直駒は何がなんだか判らずに目を白黒させながら答えた。
「そうか。秦河勝の指図で動いたのか。他に何か命令されていないか」
「主上を警護奉れと言われただけです」
「実は天皇が私の首を切りたいと言っていると密告してきたものがいるのだ」
「誰ですか」
「皇后だ」
「ははあ。私が貢物を河上嬪にしか持っていかないので、つむじをまげました
か」
「天皇が私を討つためにお前に兵を集めさせているとも言った」
「それは違います。私は軍政官の秦河勝の指示に従っただけです」
「そういうことか。お前は軍政官の秦河勝と私とどちらが大切だと思うか」
「勿論大臣です」
「それなら、何故宮城へ兵を配置した」
「秦河勝に言われて天皇の身辺をお守りし忠節を誓うためです」
「お前の気持ちは判った。改めて命令する。策は秘なるがよい。兵をいますぐ
引き上げよ」
「それはまずいでしょう。天皇に気づかれると騒ぎが大きくなりますし、秦河
勝が疑いをもちます」
「成るほど。秦一族を敵に廻すと面倒なことになるな」
「御意」
「天皇を弑逆奉る決心をした」
「恐れ多いことです。逆賊になりますよ」
「私が天皇になるのだ」
「本気ですか」
「本気だ。こんなこと冗談でいえることではない」
「そこまで覚悟されているなら、天皇に気づかれぬことが肝要です。私の兵は
そのまま警備させておいたほうがよいでしょう素早く手練を使って一人で行動
することが肝要かと思います」
「なるほど。よく判っているな。その役はお前が果たすのだ」
「恐れ多いことでございます。私が逆賊になってしまいますが」
「私は司法権も掌握している。お前を罪人にすることはない」
「どのようにして天皇に近づきますか」
「十一月三日に東国より調を奉納する儀式を催すことになっている。東国は天
皇の所領の多い所だから必ず天皇は出席なさるであろう。そこでお前は天皇が
着席なされたら、直ちに刀を抜き喉元を突いて弑逆奉ってくれ」
「承知致しました。殺し屋は私の得意とするところです。ところで報酬には何
を戴けますか」
「天皇の嬪河上娘をお前の妻にしてもよい。宮城から略奪しても構わない」
「本当ですか」
「本来なら、お前の一族は帰化人だから皇室と縁組することはできない。だが
河上娘は我が娘であり皇后ではないが妃であり身分も高い。やがて私が天皇に
なれば、お前は天皇の娘を妻にもつことになる。帰化人のお前の一族がこの国
で繁栄していくためには格もあがることになるのだからよい報酬であろうが」
「有り難き幸せでございます」
このような謀議があって駒の手によって天皇は殺された。秦河勝はこの儀式
に天皇を警護する役割で陪席していたが、瞬時の出来事であった。河勝が異変
に気づき、駒を取り押さえようと倒れた天皇の側へ駆けつけたときには一足早
く、駒は戸外へ飛び出し待たせてあった馬に乗って逃げ去ってしまった。
群臣の面前で天皇を殺害したことは蘇我馬子の権力と威厳を示すのに役だっ
た。天皇の遺体は殯宮が営まれることもなく即日倉梯岡陵に葬られた。この時
代の天皇で殯宮も営まれずその日のうちに葬られた例はないから庶人並の扱い
を受けた存在感のない惨めな天皇であったといえよう。
崇竣天皇暗殺の衝撃は大きかった。秦河勝のうけた衝撃もまた大きかった。
天皇の護衛につけた駒が天皇を弑逆するとは考えてもみなかったことである。
群臣達の間からも駒を処罰すべしとの声が高まった。流石の独裁者蘇我馬子も
群臣の面前で天皇を暗殺した駒を庇うことはできなかった。駒を天皇暗殺の下
手人として糾弾しさらに、その妃を盗んで妻としたことを臣下としてあるまじ
き行為だと宣言して兵を差し向け駒を殺させた。駒を処刑したことで日本史に
も稀にしか例のない天皇暗殺の責任は首謀者である馬子に対して問われること
もなくうやむやのうちに不問にふされることになってしまった。
この事件のため任那への外征は中止となったが、馬子は筑紫に派遣されてい
た将軍達に急使を派遣し、内乱のために外事を怠るなと言って動揺を静めた。
二万の軍隊は筑紫に滞留したままで推古朝を迎え五九五年(推古三年)に大和
へひきあげることになる。
崇竣天皇が暗殺された現場に居合わせた河勝は蘇我馬子の凄腕を思いしらさ
れた。天皇から馬子謀殺の謎をかけられたとき、冷静に逃げたことは一族存
続の為にも賢明な対応であったと秘かに胸をなで下ろした。猪を献上したとき
天皇の暗示にうっかり乗って馬子に立ち向かっていたらいまごろは命がなかっ
たであろうと冷や汗をかくのであった。駒の軍団を警護に派遣したのは賢明な
判断であつたと思った。駒が犠牲になって蘇我氏対秦氏の紛争を未然に防止す
ることになったのである。それにしても天皇を弑逆することを思いつくとはと
んでもない悪玉だといまさらのように馬子の悪辣暴虐振りに思いを致すのであ
った。
同時に彼の心従する厩戸皇子にも皇位継承のチャンスが到来したと秘かに喜
んだが即位の時期が問題であると読んでいた。
このとき、後継天皇候補としての有力者は三人いた。敏達天皇の子で早くか
ら太子の地位にあった押坂彦人皇子、用明天皇の嫡長子である厩戸皇子、敏達
天皇と炊屋姫皇后との間に生まれた竹田皇子の三人である。
河勝としては、皇位継承問題がこじれずに厩戸皇子が即位するためには、次
の次をねらうのが得策であると判断していた。このとき厩戸皇子は十九歳であ
ったからただちに即位するには若すぎるであろう。三人の中で一番年長者であ
る押坂彦人皇子がまず即位し、病弱故に治世は長くないであろうからその次に
厩戸皇子が即位するのが理想的と考えていた。問題は、竹田皇子との関係であ
る。英明なことでは厩戸皇子のほうが勝るが、長年皇后の地位にあり発言力の
強い炊屋姫は自分の腹を痛めた竹田皇子を即位させたいであろう。
秦河勝は厩戸皇子の所へ駆けつけた。
「皇子いよいよ天皇御即位のチャンスが到来しましたね」と河勝。
「私には政治をしたいという欲望はない。願わくば御仏の教えをひろめること
に力を注ぎたい」
「勿体ないことでございます。皇子のように聡明なお方が天下をしろしめされ
なくて誰ができましょうや」
「世間は虚仮。唯仏是真」と聖徳太子。
「難しい言葉ですね。世間が虚しく仮の姿であったとしても、御仏の教えを広
めるためにも即位される必要があるのではないでしょうか」と河勝。
「機会に恵まれれば即位しても構わないがその時は、捨命と捨身は皆是死也と
いう心境で統治してみようと思う」
十三
大臣蘇我馬子は炊屋姫のもとへ伺候して次期天皇の人選で相談をした。
「今度の天皇は古来の慣行からすれば、先帝の兄弟に適格者がないため第一原
則の適用はない。第二原則の適用で先帝の直系の皇子ということになると押坂
彦人皇子か厩戸皇子ということになりますが、押坂彦人皇子は病弱で激務に耐
えられないでしょうから厩戸皇子が最有力ということになりますね」と馬子が
炊屋姫に言った。馬子からすれば、父母ともに蘇我一族の血を引く厩戸皇子が
皇位につくことが蘇我一族の繁栄のためには一番良いことだと判断していた。
「竹田皇子だって先帝の直系の皇子ということでは、厩戸皇子と条件は変わり
ませんわ」と炊屋姫がまけてはいない。
「厩戸皇子は十九歳だから天皇になるには若すぎるくらいだと考えております
が、適任者がいないのでここへ落ちつかざるを得ないと思います。竹田皇子は
厩戸皇子より更に若いので厩戸の次ということになるでしょう」と馬子が言っ
た。
「それでは、先帝の皇后が皇位につくことにしては」と炊屋姫は思惑通りこと
が運びそうなので内心笑みをたたえながら言った。
「先帝の皇后が天皇になるという先例はありませんが」と馬子。
「これは敏達天皇在世の頃、私に示された原則です。言わば敏達天皇の遺命と
いってよいでしょう」と炊屋姫
「大三輪逆がそのようなことを言っていたが、書いたものでもあるのでしょう
か」と馬子。
「大三輪逆は敏達天皇の遺訓を書き留めて私のところへ持ってきましたわ」と
炊屋姫は手文庫の中から書きつけを取り出して広げた。
「皇后の期間が長かった点ではそなたということになるでしょうな。穴穂部間
人は、皇后の期間が僅か二年しかなかったから問題にならないでしょう」と馬
子。
「それに穴穂部間人は多目皇子と再婚しているのですから天皇というわけには
いかないでしょう」
「それでは、そなたが天皇として即位されたうえで厩戸皇子を皇太子に指名さ
れるという手順を踏んだほうがよいでしょう。しかし、女帝は初めてのことだ
から群臣に推されて即位するという形をとつたほうがよいと思います。私が推
薦者になりますから一〜二度は辞退されて三回目くらいにお受けになったほう
がよいでしょう。反対がでたときには証拠として敏達天皇の遺訓を開示しまし
ょう。そのときのためにもその文書は、私が一時保管しておきましょう」と馬
子。
「それでは、これを預けましょう」と炊屋姫。
馬子には群臣達の中から女帝の先例はないから如何なものかという異論が必
ず出てくるのに違いないという思惑があった。敏達天皇の遺訓を認めた文書は
馬子の手中にあるのだし、これを記録した大三輪逆はこの世にいないのだから
闇に葬ることができる。そのときには厩戸皇子が皇位につくことになる。これ
は蘇我一族にとって外戚としての地位が永続することを意味する。
群臣の前で蘇我馬子が発言した。
「この度崇竣天皇が崩御されて、次期天皇には候補として押坂彦人皇子に厩
戸皇子と竹田皇子がおわしますが、押坂彦人皇子は御病弱であらせられるし、
厩戸皇子と竹田皇子は重職を担われるにはお二方ともお若過ぎる。ここは、皇
后として長年政務にもかかわられた炊屋姫に御即位願うのが最も良い方法であ
ると考えますので御推挙申し上げます」
群臣達は意外な発言にどよめいたが異議を唱えるものもいない。
「私には任が重すぎるので辞退します」と炊屋姫。
「対外的にも任那の再興等重要な時期なので是非お受け戴きたい」と馬子。
「辞退したい」と炊屋姫。群臣達は隣の人と囁きあっているが意見をいうわけ
でもない。大臣馬子の真意を計りかねてただ顔を見合わせている。
「それでは百官が上奏文を奉ろうではないですか。ここは多事多難の折りです
が、是非お受け下さい」と大連の某が大臣蘇我馬子にとりいるような素振りを
みせながら一方では群臣達の意見を取り纏めるような言い方をした。
「それがよい。皇祖の霊に上奏文を奉ってお受け戴こう」と群臣達は口々に言
った。三度目の要請で炊屋姫は即位することを受諾した。このようにして、
推古天皇が日本史上初めての女帝として誕生し、十二月八日豊浦宮で即位され
た。翌年四月十日厩戸皇子を皇太子にたてられて、摂政とし国政を全て任され
た。
秦河勝は厩戸皇子に皇太子就任のお祝いに駆けつけて日頃気にしていること
を申し述べた。
「皇太子様、今回推古天皇が即位されましたが、崇竣天皇の暗殺はどうも臭い
と思いますがどのようにお考えでしょうか」と河勝。
「東漢直駒が大臣蘇我馬子の命令によって暗殺したのであろう」と太子。
「世間ではそのように考えられているようですが、私の見方は一寸違います」
と河勝「ほうどのように」
「さればでございます。私の見るところこれは皇位纂奪の仕組まれた武力行使
だったと思います」
「おだやかでないね」
「大方の見方は厩戸皇子が即位されて、推古天皇は後見されるとみていました
が、そうはならなくて、いまだかって例のない女帝が即位されました。これは
なにかいわくがありますよ」
「推古天皇が首謀者だったというのかね」
「御意」
「根拠は」
「美しいが故の傲慢さです。皇子も十分気をおつけになって下さい。崇竣天皇
の二の舞にならぬよう御注意が肝要です」
「何故そのようなことを言う」
「竹田皇子が天皇として即位できる年齢になられるまでにあと四〜五年ありま
すがそれまでの繋ぎの即位なのです」
「私が皇太子だが」
「そこが問題なのです。竹田皇子は推古天皇が腹を痛めた皇子です。厩戸皇子
より五歳年下でございましょう。親心としては竹田皇子を即位させたいのはや
まやまですがまだお若い。おそれながら、厩戸皇子も竹田皇子より五歳年長と
はいえ即位するにはまだ早い。そこで摂政という立場をお与えになった。これ
は罠です。厩戸皇子を貶めようとする仕掛けです。きっと暗殺団が太子を狙う
でしょう」
「何故だ」
「厩戸皇子がこの世にいなくなれば竹田皇子に皇位が廻ってくるからです」
「天皇は私の叔母だよ。蘇我大臣は大叔父だよ」
「皇位争奪戦となれば肉親も兄弟もなくなるのです。崇竣天皇だって皇子の頃
兄弟の穴穂部間人皇子の討伐戦に参加したではありませんか。しかも推古天皇
は討伐の詔書までお出しになっている。そのことをよくお考えになってくださ
い」
「人間の心はそんなに虚しいものなのかね」
「皇太子の母上の穴穂部間人妃は用明帝崩御のあと異腹とはいえ子供のところ
へ娶られていかれたのですよ。どなたの差しがねだと思われますか」
「悲しいことだが、大臣蘇我馬子が考えたことでしょう」
「多分、推古天皇の思いつきでしょう」
「何故わかる」
「先の皇后が天皇になる前例をつくるときに対抗馬があっては困るからです」
「そこまで、考えるものだろうか」
「馬子大臣の感化を受ければそうなるでしょう」
「それに美しい人は美しさも幸せも自分で独占したいものなのです。そのため
には、穴穂部間人妃のような美しい人は不幸にならなければならないと思って
いるのです」「なんと恐ろしいことを」
「美しいことは罪悪を作るのです」
「世間虚仮。唯仏是真という言葉が仏典のなかにあるがこのことだね」
「御意。仏の教えを広めねばなりません。恐れながら皇太子が難波に四天王寺
を建立なさったことは仏法を広めるうえからも素晴らしいことでございます」
「物部守屋討伐の折り、四天王に誓ったことだから当然のことだ」
「その当然のことが出来ないのが口先だけで政治を行おうとする野心家達なの
です」
「人の心を捉えなければ政はできないと思う。人の心を支配しなければ
天下の統治は難しいということだろうか」
「恐れ多いことですが皇太子を取り巻く人間関係には非常に難しいものがあり
ますので十分気をおつけになってください。ところでこのような中でどのよう
な方針で政務を行われるお積もりですか。及ばずながら秦河勝は皇太子の為に
一肌脱ぐ積もりでおりますのでお漏らしください」
「まず天皇の権威を高めることだろうね。臣下が天皇を殺そうと思ったりする
ことのできない程、天皇の権威を高めることが必要だと思う」
「仰るとおりです。大臣蘇我馬子も朝廷内の権力を握りこれを強化発展させて
いくためには天皇の伝統的な権威を利用しようとするでしょう。そして官司制
を整備したうえで豪族連合を強化し実際政治の上で実権を握ろうと画策する筈
です。そのためには天皇の地位は尊重しながらも不執政の地位に押し上げよう
と考える筈です」
「崇竣天皇に対してとったと同じ手法によるだろうね」
「推古天皇は女帝だし、大臣の姪だという血族的な関係を考えてもその傾向は
ますます強くなると考えなければなりません」
「されど大臣蘇我馬子と摩擦を起こすことは得策ではない」
「そうです、天皇権力を強化するということを常に頭におきながらも、官司制
を整備し朝廷権力を強化するという大臣の方針には協調姿勢をしめすことが必
要でありましょう」
「そうなると精神面で天皇の権威をたかめることに力を注ぐことを考えなけれ
ばならないということになる」
「推古天皇は直接政務を執られることはないでしょうから、蘇我大臣が実質的
に朝廷を動かすことになるでしょう。しかし、皇太子は将来、天皇になられる
わけだから即位されてからのことを考えて蘇我氏から全ての権力を奪回し、専
制権力の確保を計るよう常に考えておられなければなりませんぞ」
「私は精神面で天皇の権威を高めるためには隋国との外交と仏教の興隆がもっ
ともよい方策だと思っている」
「私が思いますに隋国には早い機会に使者を遣わし挨拶をしておくことが皇太
子の権威を高めることになると思います。その使者には僧侶を同行させ隋国に
おける仏教興隆の実情をつぶさに観察せしめることも肝要かと心得ます」
「使者には国書と貢物を持たせることにしよう」
「それがよいかと存じますが、天皇の権威を示すためには相手が大国であって
も遜ってはなりません」
「私もそう思う。国書を持たせれば返書を持ち帰るはずだから文面はよく考え
なければなるまい」
「それに新羅征伐のことも、隋国に対して理解を求めておくことが大切でしょ
う」
「その通りだ。早く隋国へ使者を派遣する準備を始めることとしよう。それに
は大海原を航海する船を作らねばなるまい」
「御意」
「船は誰に作らせればよかろうか」
「王辰爾の手の者が船作りは上手です。しかし、王辰爾の一族は船氏を名乗っ
て蘇我氏の配下になっておりますが」
「蘇我氏の力をこの際は借りることにしよう。私のほうから依頼しておこう」

「皇太子、隋国に使者を派遣するのも大切ですが、その次に必要なのは新羅征
討軍を臣・連姓氏族から組織するのではなく国造や伴造の部民から徴兵する必
要があると思いますが」
「そうだ。指揮官にもこれまでのように臣・連姓氏族を当てるのではなく皇族
を中心にして編成してみよう」
「それと百済、高句麓に対しても使者を送り、朝貢を求めることが天皇の権威
を高めることになると思います。是非ご検討ください」
「判った。よく考えてみよう。武力で服従させるのではなく心を支配して従わ
せることはできないものだろうか」
「仏の教えの神髄を極めてこれを万民に施せば可能なのではないでしょうか」
「そのためには先達を迎えて仏の心を学ばねばならないね。合わせて、お寺を
各地に建てて仏法を広めなければならない」
「私も仏像を迎えてお寺を建立したいという夢を持っています」
「なかなかよい心掛けじゃ」
十四
新羅征討は崇峻朝からの継続事業であった。馬子の采配で五九一年(崇峻四
年)に筑紫に派遣された二万の大軍は、現地へ滞留のまま天皇暗殺事件を経て
推古朝を迎えたわけだが、渡海することなく、五九五年(推古三年)には大和
へ引き上げた。軍事的には成果が挙がらない作戦であったが、新羅に対する威
圧効果は十分あったものと思われる。五九七年(推古五年)に吉士磐金を使者
として新羅に遣わすとその翌年、新羅は鵲二羽を献上し続いて孔雀を奉り恭順
の意を表した。五九九年(推古七年)には百済からも駱駝一頭、驢馬一頭羊
二頭、白雉一羽が献上された。九州出兵の成果といえよう。
新羅は珍しい動物や鳥を献上し、大和朝廷のご機嫌をとっていたが、貢物は
朝廷を満足させるほどの量ではなかったし、併合した任那を返還しようとしな
かった。
六百年(推古八年)大和朝廷は再び任那復興を目的として蘇我馬子主導のも
とに大将軍に境部臣・副将軍に穂積臣を任命し兵力一万余を預けて新羅攻撃を
決行した。この遠征は成功し新羅王は殆ど抵抗なしに白旗を掲げて、多多羅、
素奈良、弗知鬼、委陀南加羅、阿羅の六城を日本に割譲した。しかし任那とし
て復興したわけではなく割譲の条件は六城の地から産出する金、銀、鉄等の大
和朝廷にとって貴重な金属やその製品、また錦、綾等の高級な織物を新羅が任
那に代わって貢物として献上するという程度の内容のものであった。形の上で
は恭順の姿勢はみせていたが、新羅はこの頃百済と戦って勝っており、国力も
上昇していたので、たやすく大和朝廷の言いなりにはならないぞという気概を
もっていたのか、なかなか約束通り貢ぎ物を送ってこなかった。
推古朝廷ではこの年、六百年に隋に使者を送っており、隋の役人の問い対し
て「倭王は姓は阿毎(天)あめ」「名は多利思比孤(帯彦)たりしひこ」と答
えている。これは天下を統治する天皇厩戸という意味である。この六百年の新
羅遠征は隋に対して新羅を大和朝廷が実力で討伐することの承認を求めようと
する意味を持つものでもあった。
六百二年(推古十年)に推古朝廷はみたび、軍衆二万五千人編成で新羅攻撃
を計画したが、将軍は聖徳太子の同母弟の来目皇子で軍団編成は諸々の神部お
よび国造、伴造等からなり、臣・連姓氏族は参加していなかった。今回の遠征
は摂政として次第に実力を養ってきた聖徳太子が、朝鮮問題の主導権を蘇我氏
等の有力豪族の手から天皇家のもとへ奪回しようとの意図のもとに計画された
ものであった。今度の作戦では渡海準備中に総指揮官の来目皇子が陣中で病死
し、後任に聖徳太子の異母弟当麻皇子が任命された。当麻皇子は難波より乗船
し播磨までさしかかったが同伴した妻の舎人姫王が明石で死んでしまい皇子は
大和へ引き上げた。竹田皇子は今回の作戦が計画された時病の床にあり、本来
であれば来目皇子よりも前に総指揮官に任命されるところであったが、病は回
復せず死んでしまった。このような事故が続いたので遠征は中止されたが皇族
将軍のもとで、大軍の組織化に成功したことの意義は大きかった。
百済と高句麓に対しては新羅遠征軍派遣に先立って、六百一年(推古九年)
に使者を送り任那復興に協力するように要求した。両国とも新羅が力をつけて
くるのを恐れていたから推古朝の申し入れには友好的であった。六百二年には
百済から僧観勒が暦天文・地理の書を携えて来日した。同時に兵術・仙人の術
を伝えた。高句麓からも僧の僧隆と雲聡が来日して帰化しているので両国との
関係は友好的なものであった。僧観勒を謁見した聖徳太子は周囲に居合わ
せた諸太夫に言われた。
「観勒師の三論、成実の高説を教わるにつけ仏に帰依し仏法をますます広めな
ければならないという気持ちはいやますばかりです。私は長年慧慈師に仏法を
教わりましたが、今日はまた観勒師より三論、成実の教説を教わり目から鱗が
落ちた心地です。何か功徳を施さなければと考えますが、幸い私は尊い仏像を
持っています。この仏像を丁重にお祀りし仏の功徳を広めたいと思う者があれ
ば授けたいと思っています。誰か希望する者はいないでしょうか」と聖徳太子
がなみいる諸太夫に聞かれた。
「私にお授け下さい。葛野の地へお寺を建ててお祀りし、このお寺を我が秦一
族の氏寺にしたいと思います」と秦河勝が目を輝かせながら申し出た。
「その方ならきっと大切にお祀りして呉れるであろう。この仏像は弥勒菩薩と
言って百済から将来した有り難い仏像です。ゆめゆめ粗末に扱ってはなりませ
ぬぞ」と聖徳太子は侍従に運ばせてきた仏像を拝みながら秦河勝に向かって言
った。
「有り難いことでございます。長年の願いが叶いました」と秦河勝が弥勒菩薩
に対峙して手を合わせると憑依現象が起こった。秦河勝の体がぶるぶると震え
だし「蘇我一族の未来に何か不吉なことがおきるぞ。因果応報は三世の摂理」
と嗄れた声で喋りだした。事情のわからない諸太夫はざわめいた。
「秦造に神がとりついた」
「神でなくて、異国神がとりついたのであろう」
「物部守屋大連の顔付きによく似ているぞ」
「蘇我氏に余程恨みを抱いているのだろう」
「そうだ、守屋大連の顔と同じだ。恨めしそうな表情をしていることよ」と諸
太夫は口々に騒ぎだした。
「静かに。仏法の功徳で霊にお引取頂きましょう。南無釈迦牟尼仏。南無帰依
仏。南無帰依法。南無帰依僧・・・・・・・・・」と聖徳太子がお経を唱える
とたちまち秦河勝の顔は穏やかになり元の形に戻った。
この場には蘇我氏はいなかったのでことなきを得たが、蘇我氏が居合わせれ
ば秦河勝との間で一騒動おこる託宣であったといえよう。
秦河勝はこの弥勒菩薩を太秦へ持ち帰り蜂岡寺を建立し奉安した。現在の広
隆寺である。
十五
六百七年(推古七年)聖徳太子は第二回目の遣隋使として皇帝煬帝のもとへ
小野妹子を使者として送った。
「海の西の貴国には菩薩のような立派な天子が仏教興隆に励んでおられると聞
いております。私たちは入朝の使者として派遣されてきましたが、仏教をもっ
と学ぶために僧侶数十人も連れてきました」と使いの一行は隋の役人に言って
国書を提出した。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」という言葉が
国書には記されていた。隋からいえば東夷の一つに過ぎない日本が隋を対等に
扱ったこのような文意の国書を提出してくるということは、国際関係に無知で
無礼な態度であるといえた。当然のこととして煬帝は怒った。
「蛮夷の書、無礼なる者有り、またもって聞するなかれ」と煬帝は国書を見て
鴻臚卿(外務大臣)に言った。
この年七月に隋に派遣された小野妹子は半年も経つのにまだ帰ってこなかっ
た。往復の途中で船が難波したのではなかろうか、或いは国書の内容が煬帝の
怒りに触れて使者が抑留されてしまったのではないだろうかと聖徳太子は心配
な日々を過ごしていたが、六百八年四月、妹子一行が筑紫に到着したという速
報が斑鳩宮で待ちわびる聖徳太子の許へ届けられた。
「小野妹子一行の遣隋使が筑紫に帰着しました」と飛報をもたらした使者が言
った。「大儀。小野妹子は無事か」と聖徳太子は使者を労いながら言った。
「はい。隋国よりの使者裴世清様一行十二人を伴われました」
「そうか。あの大国の隋が使者を差し向けられたか。早速国使を歓迎する準備
にかからねばなるまい。まず難波吉士雄成を出迎えのため筑紫へつかわせ。次
に国使を歓迎する館を難波に建てよ」と聖徳太子はテキパキと指示をした。
妹子の一行は筑紫で雄成の出迎えをうけてから大和へ向かった。豊前から再
び船に乗り瀬戸内海を通って六月十五日には難波の津へ入ったが津の入口には
飾り船三十艘が出迎えるという国をあげての大歓迎であった。国使は新築なっ
た迎賓館にはいり、中臣宮地連麻呂・大河内直糠手・船史王平が接待に当たっ
た。中国語の話せる船史王平が通訳にあたった。
隋の国使が難波で歓待を受けている間に、小野妹子は一足早く飛鳥の都へ戻
り、復命した。
「只今、帰国致しました。国書は確かに隋国王煬帝に提出致しました」
「煬帝のご機嫌は如何であったか」と聖徳太子が聞いた。
「使者は直接皇帝と謁見することはゆるされませんでしたが、鴻臚卿を通じて
煬帝のご機嫌は上々と承っております。返礼の国使を差し向けられたことをご
覧になればそのことは御理解戴けるものと存じます」
「煬帝からの国書は」
「私が帰還の時、授かりました。まことに申し訳ないことですが、帰国途中百
済国を通っているときに、百済人の襲撃を受け国書を奪われてしまいましたの
で残念ながら提出することができません。同行した裴世清が同じ内容の国書を
持って参ります」
「他国宛の国書を盗んでも何の役にもたたないと思うが」
「百済国では東方の大国大和と西の大国隋が軍事同盟を結んで百済国を襲撃す
るとでも思ったのではないでしょうか。そのために煬帝からの国書は是非見て
みたかったのだと思います」
「盗んで見たはいいが、内容は儀礼的なことばかりでがっかりすると同時に安
心もしたことであろう」と聖徳太子が言った。
「いずれにしてもけしからん。使者たるものは命をかけても大国の国書は守る
べきなのに、怠慢も甚だしい」と大臣蘇我馬子が言った。
「そうだ。国使の任務をなんと心得る。厳罰に処すべきでありましょう。流刑
に値いしましょう」と群臣の一人も賛同した。
「少しまたれよ。その考えかたは如何なものでしょうか。遣隋使は大変な危険
を冒して使命を果たしたのです。そのことは隋国の使者を一緒に連れて帰国し
たことで証明されているでしょう。国書を盗まれたことは確かに失策ではあり
ますが、その影響を考えたとき、百済国に日本の国威を見せつけることにこそ
なれ、これを損なうことはない筈です。功績は失策を相殺してあり余りましよ
う。その功績をこそ評価してしかるべきだと考えますが如何でしょうか」と秦
河勝が言った。
「小野妹子が国書を失ったのは確かに罪ではあるが、隋国の使者が多数滞在し
ている折りでもあり、軽々しく罰することはできない。使者達への聞こえがよ
くない」と聖徳太子は仰った。妹子達遣隋使一行の苦労を理解した上で秦河勝
の意見を採り入れた処置であった。
隋の使者達は難波で一月半も待たされたのち、八月三日に大和へ入ることに
なり、飾り馬七十五頭に迎えられて大和へ入り、海石榴市に到着した。出迎え
て挨拶したのは額田部連比羅夫であった。十二日隋の国使一行は阿部臣鳥と物
部依網連抱の案内役に導かれて朝廷に入った。諸皇子・諸王・群臣がそれぞれ
に黄金の髪飾りを頭につけて着飾っている。ある者は錦や紫地に刺繍をした手
の込んだ衣服を着、あるものは五色の綾・薄絹を纏っている。盛装した貴賓列
座の中を国使の一行は庭中に進み大門の前に置かれた机の前で立ち止まった。
裴世清は捧げ持った献上品を置き、やおら国書を懐から取り出して捧げ持ち、
再拝を二度繰り返して使いの旨を言上した。満場寂として声なく裴世清の朗々
とした中国語が響きわたった。
「隋の皇帝から倭の皇(すめらみこと)にご挨拶をおくる。使者の大礼小野妹
子らが訪れてよく意を伝えてくれた。自分は天命を受けて天下に臨んでいる。
徳化を広めて万物に及ぼそうと思っている。人々を恵み育もうとする気持ちに
は土地の遠近はかかわりない。倭の皇は海の彼方にあって国民を慈しみ、国内
平和で人々も融和しているし、皇には深い至誠の心があって、遠く朝貢される
ことを知った。懇ろな皇の誠心を自分は喜びとする。時節は漸く暖かで私は無
事である。鴻臚卿裴世清を遣わして送使の意を述べ別に贈り物を届けさせる」
と国書には書かれていた。
裴世清の国書朗読が終わると阿部臣が国書を受け取り、大伴連囓が取り次い
で机の上に置き後刻天皇へ侍従が奏上することになる。この儀式には推古天皇
は姿をみせていない。隋の煬帝と同格である以上、国使に天皇が親しく謁見す
ることはできないのである。このあたりは聖徳太子が秦河勝と相談して隋使に
与える印象と列席した諸皇子、諸王、群臣に天皇の権威を実感させるよう計算
して作り上げた儀式の運営方法であった。馬子を始め蘇我氏一族もこの隋使送
迎の儀式には姿をみせていないのであるが、これは聖徳太子が企画し実施した
対隋外交の進展を蘇我氏が快く思っていなかったことの現れであった。隋使の
一行は数日間朝廷での饗宴に臨んでから難波に戻り、九月十一日帰国の途につ
いた。この時、再び小野妹子を大使として遣隋使が派遣された。このとき煬帝
にあてた国書には次のように記されていた。
「東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます。使者鴻臚寺の掌客裴世清らがわ
が国に来られて、久しく国交を求めていたわが方の思いが叶いました。この頃
漸く涼しい気候となりましたが、貴国はいかがでしょうか。当方は無事です。
今大礼小野妹子、大礼難波吉士雄成らを使いに遣わします。意を尽くしません
が謹んで申し上げます」
このとき隋に派遣されたのは、学生倭漢直福因、奈良訳語恵明、高向漢人玄
理、新漢人大圀、学問僧新漢人日文、南淵漢人請安、志賀漢人慧隠、新漢人広
済ら合わせて八人であった。
隋からの使者を送りだしてから二年ほど経った六百十年に今度は百済と新羅
からの使者が筑紫にやってきた。蘇我馬子は迎えの使者を筑紫へ派遣した。十
月八日新羅と百済の使者が都に到着することになったので、額田部連比羅夫を
新羅の客を迎える飾り馬の長に任命した。百済の客の担当には膳臣大伴を任命
し同じく飾り馬で迎えさせることとした。両国の使者は大和の阿刀の河辺の館
に旅装を解いた。翌日十月九日には秦河勝と土部連莵が新羅の導者、間人連塩
蓋・阿閇臣大籠が任那の導者に任命されて朝廷の庭で使者謁見の儀式が行われ
た。
両国の使者は導者に案内されて、南門から入って粛々と進み御所の庭に立っ
た。頃合いを見計らって、大伴咋連、蘇我豊浦蝦夷臣、坂本糠手臣、阿倍鳥子
臣らは席から立って中庭に平伏した。両国の使者は拝礼して使いの言葉を言上
した。四人の太夫は前に進んで今聞いた言葉を蘇我大臣に申し上げた。大臣は
起立して政庁の前へ進んで使いの言葉を聞いたのち両国の使者へ贈り物を授け
た。今回の儀式には聖徳太子は姿を見せず蘇我馬子を中心に儀礼が行われた。
隋国使者裴世清を迎えたとき、聖徳太子の儀式運営が天皇の権威発揚に大いに
預かって力あったことに対抗する意味もあって、今回の外国使者謁見の儀式は
蘇我一族が取り仕切ったのである。聖徳太子の寵臣である秦河勝が新羅の導者
に任命されたのは、隠然たる勢力を養ってきた秦一族の実力を流石の馬子も無
視できなくなっていたからである。
十六
聖徳太子の生母穴穂部間人皇后が六百二十一年の暮れに崩御された。その
翌月の正月に聖徳太子は母の後を追うかのように悪性の癌にかかって床につ
いた。知らせをうけた秦河勝は病床に太子を見舞った。
「太子の御容態は如何ですか。お見舞い申し上げます」と太子の枕元で看病
している妃の一人である膳大郎女に秦河勝は声をかけた。
「これは秦河勝殿。太子の容態は良く有りません。看病していても居たたま
れない程のお苦しみようです」と膳大郎女は看病で窶れた顔で秦河勝に訴え
た。
「それはいけませんな。私に代われるものなら替わって差し上げたいもので
す」
「私もそう思っているのですが、こればかりはままなりません。太子のお苦
しみようを見るのが切なくて」と目に涙を湛えている。
「どうでしょうか。太子と等身大の釈迦像を造って差し上げて仏の功徳をお
願いしては」と秦河勝が提案した。
「そうだ、よい所に気がつかれた。早速発願し造仏にとりかかりましょう」
と見舞いのために枕辺に侍っていた膳大郎女の兄が賛意を表した。
「それがいい。もしもこの病が現世で治らないものであるならば、早く成仏
して御霊が極楽浄土に安住できますようにとの願いを込めて差し上げましょ
う」と山背大兄皇子はじめ太子ゆかりの皇子、王妃達も賛同した。
しかしながらその甲斐もなく寝ずの看病をしていた膳大郎女も病に倒れ、
太子と枕を並べて病臥することになってしまった。一族、群臣の願いも虚し
く膳大郎女が二月二十一日に崩御し、後を追うように翌日、聖徳太子も薨去
した。大和朝廷における天皇の権威を高めることに挺身し、遂に天皇になる
ことができず皇太子のままで生涯を終えた四十九才の人生であった。
秦河勝の落胆は大きかった。信仰上の先達であり、天皇となり理想を実現
する日を夢見て後ろ楯となって支えてきた太子のいないこの世は生きていく
に甲斐のない世界であった。河勝は蜂岡寺に籠もり聖徳太子から授かった弥
勒菩薩の像と対峙してひたすらに太子の御霊が西方の極楽浄土へ昇華安住さ
れるようにと祈るのであった。
日本書紀は万民の嘆き悲しむ様子を次のように記録している。(講談社学
術文庫宇治谷孟現代語訳日本書紀下巻より抜粋)
「天下の人民は老いたものは愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえも
分からぬ程であった。若い者は慈父慈母を失ったように悲しみ、泣き叫ぶ声
は巷にあふれた。農夫は耕すことを休み、稲つく女は杵音もさせなかった。
皆が言った。(日も月も光を失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰
を頼みにしたらよいのだろう)と」翌年の秋七月に新羅と百済は大使とし
てそれぞれ奈末智洗爾、達率奈末智を遣わし共に朝貢し、泣き弥勒の仏像一
体及び金塔と舎利を献上した。仏像は秦河勝が聖徳太子の菩提を弔うためひ
たすら祈りを捧げている葛野の蜂岡寺へ安置された。また金塔と舎利は四天
王寺へ納められた。
秦河勝は蜂岡寺で聖徳太子の菩提を弔う瞑想の日々を送りながら聖徳太子
の事跡を回想する。既に六十才になっており頭にはいつしか白いものをのせ
ていた。
「聖徳太子の生涯は蘇我氏との戦いであったと一言で総括できるのではない
か。蘇我一族の血が流れる父母を持ちながらなお天皇家の一員として、天皇
家の絶対的権威を高めるために蘇我一族の叔父、兄弟達と対峙していかなけ
ればならない宿命を心の中ではどのように消化しておられたのであろうか。
蘇我馬子は老いたとはいえ、まだその勢力は衰えていない。彼の地位は冠位
を超越しており、官司制の統率者として、依然として官僚達を牛耳っている
し、豪族連合の上に張りめぐらせた権力基盤は聖徳太子の努力によっても殆
ど微動だにしていない。しかし、この二十年程の間に何かが変わってきてい
る。太子は対隋外交に積極的に取り組まれた。天皇から隋国皇帝にあてた国
書は対等な立場に立った文面であり、隋国皇帝の怒りを買ったとは言うもの
の、大国の隋から日本の天皇宛に使者を出させるという快挙をなし遂げられ
た。官吏達は、さすが太子様だ、天皇様だとその力量を評価し有り難がるよ
うになってきている。その天皇の有り難さを思い知らせるようにと天皇の歴
史や国の歴史、臣・連以下の諸氏族の歴史の編纂までおやりになった。この
歴史の編集には蘇我馬子も参加させたが歴史の古さとなると現在権勢を誇る
蘇我一族といえども天皇一家には及ばない。蘇我一族と対抗するため、自分
の先祖は昔、天皇の皇子であったとか御落胤であるといいたてるものまで現
れてきている。それだけ天皇一家の権威が高まってきた証拠ともいえるのだ
ろう。そういえば、仏教興隆についても数えれば、四天王寺、斑鳩寺、中宮
寺、橘寺、池後寺など多くのお寺を建立されているので、その信心深さから
いけば蘇我氏を凌駕するまでになったのではなかろうか。排仏だ崇仏だと騒
いでいた頃は蘇我氏が排仏派の妨害をうけながらも仏教をこの国に広める中
心的役割を果してきた。仏教への最初の帰依者は蘇我氏であったということ
を人々は忘れて、仏教興隆と言えば聖徳太子とイメージするまでになってき
ているではないか。こう考えてくると現実政治面・物質面では朝廷内におけ
る蘇我氏の優位は動かし難いが少なくとも精神面での天皇の権威は蘇我氏を
上回るようになってきている。このことが、蘇我氏のあせりとなって遺児で
ある山背大兄皇子一家に災いを及ぼすことにならなければいいのだが・・・
馬子は老齢だから円くなってきており、もうあくどいことはしないだろう。
蝦夷は比較的公平・慎重な性格で温厚な人柄だといわれているが、まだまだ
油断はできない。その子の入鹿は若いのに傲慢・勝気で自尊心が人一倍強い
ようだから特に警戒が必要だ。そうだこのことも祈念しておかなければなら
ないだろう。それにしても、推古天皇はもう七十才が近い。随分年をとられ
たものだ。自分が腹を痛めた竹田皇子に皇位を譲りたいばかりに、自ら天皇
になるという策謀をたてて、うまくいくようにみえたが、頼みとする竹田皇
子はあえなく病で倒れてしまった。ご自分自身こんなに長生きするとは思わ
れなかったのだろうが、いままた聖徳太子にも先立たれてしまわれた。これ
が人間の業というものであろうか。推古天皇が御健在のうちに早く、山背大
兄皇子を皇太子に指名して戴くよう運動しなければなるまい。これが聖徳太
子の菩提を弔う最善の方法かもしれない」
六百二十八年推古天皇は後継者を決めないまま七十五才で崩御した。三十
六年間に及ぶ治世であった。推古天皇の遺詔をめぐって始まった皇位継承の
争いは、敏達天皇崩御後の争いと同じような性格のものであるとしか秦河勝
の目には映らなかった。河勝は皇位継承をめぐる争いがおきるのは天皇が生
前、勇気をもって皇太子を指名しておかないことに最大の原因があると考え
ていた。またしても推古天皇は皇太子を決定しないで争いの種を残したまま
他界してしまわれた。河勝は推古天皇が即位したとき聖徳太子に「美しいこ
とは罪悪です」と言ったことを思い出しながら、このドグマは正しかったこ
とが証明されたと思った。
皇位は聖徳太子の長子の山背大兄皇子と押坂彦人太子の子の田村皇子を支
持する二派に別れて争われることになった。山背大兄皇子は用明天皇の孫で
あり、田村皇子は敏達天皇の孫で年はいずれも同年の三十六才なので血統の
良さでも年齢の点でも甲乙つけがたかった。この頃馬子は既に世になく蝦夷
が大臣になっていた。蝦夷の叔父境部臣摩理勢が山背大兄皇子を支持して運動
を始めたので、これが刺激となって蝦夷は境部臣摩理勢を強引に攻め殺して田
村皇子を即位させた。舒明天皇である。舒明天皇は十三年程の治世ののち皇太
子を定めないまま六百四十一年崩御した。後継天皇の候補者には舒明天皇の皇
子として古人皇子と中大兄皇子の二人がいた。そして舒明天皇と皇位を争った
聖徳太子の皇子山背大兄皇子も健在で有力候補に数えられていた。三者三竦み
の状態にあり、群臣会議では天皇を決めることができず、舒明天皇の皇后宝皇
女が皇位を継いで六百四十一年皇極天皇となった。推古天皇が即位したときと
全く同じパターンの女帝の出現であった。
蘇我蝦夷は六百四十三年病気と称して参内せず大臣のしるしの紫の冠を天皇
の許可なく入鹿に授けて大臣の地位を与えた。入鹿の専横がはじまったのであ
る。その手始めに入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇太子にするために
は有力な対立候補である山背大兄皇子を倒すことが必要だと考えて、巨勢臣徳
太・土師娑婆連を斑鳩に送り込んで山背大兄皇子の宮を不意打ちさせた。入鹿
側の攻撃に対して奴の三成をはじめ舎人数十人が防戦した。攻撃側の土師娑婆
連を討ち取り攻撃を一時中止させるまで善戦したが、城砦ではないので防ぎき
れず、山背大兄皇子は隙をみて妃や側近を連れて生駒山に逃れた。
「ひとまず、深草の屯倉まで落ち延び、そこから馬を乗り継いで東国へゆき、
領地の乳部を根拠地にして兵を集めて反撃すれば必ず勝つことができます」と
三輪文屋君が再挙を勧めた。
「お前の言うように場所を選んで挙兵すれば、あるいは勝つこともできるだろ
う。深草へいけば秦河勝の一族もいるし、山背から兵を集めて助力してくれる
であろうが、戦場になった場所の無辜の民に苦しみを与えることになる。それ
は私の信条に反することである。私は潔くこの身を逆賊共に与えることにした
い」と山背大兄皇子は言って山から下り、再び斑鳩寺へ入って子弟、妃ともど
も従容として自決の場へ臨んだ。太秦にひきこもって隠遁生活を送る河勝
のもとへも都の惨事は伝わった。
秦河勝は山背大兄皇子一族の自決の様子を伝え聞いて、「捨命と捨身とは皆
これ死なり」という聖徳太子の思想を悟得し実践したのは山背大兄皇子であり
一族が従容として死に赴いたのは菩薩行の実践であったのかと今、初めて理解
し粛然とした気持ちになるのであった。
秦河勝は自らの人生を顧みて、政治の表舞台に飛び出したいとはやる心を戒
めて常に裏方に徹し奢ることなく、経済力の向上に力を注いできたことが秦一
族の存続繁栄にとって如何に賢明な選択であったかを思うのであった。思えば
父の国勝は蘇我氏の真似をして娘を入内させて天皇の外戚として権力を握ろう
と夢みていたことがあったが、自分は必ずしも気乗りがしなかった。政治に手
をだしたくないという気持ちが本能的に強かった。崇竣天皇から唆されたとき
が一番危なかった。もしあの時、蘇我氏と対峙していたら今頃は山背大兄皇子
一家のような運命になっていたであろう。以後秦河勝は努めて政治や軍事の表
舞台にでることは避けて仏法の興隆にこそ精を出そうと決心したのである。
十七
大化の改新の始まる直前の六百四十四年東国の富士川のほとりで虫を祭る新
興宗教が流行の兆しを見せていた。教祖は大生部多といい、祭神は常世の神と
称する虫であった。その虫は長さ四寸あまりで親指ぐらいの太さで緑色に黒い
斑があり蚕によく似ていた。教祖の大生部多は人の心を捉えるのがうまく、常
世の神を祭れば富と長寿が得られると説いて回っていた。「常世の神に捧げる
お布施の量が多ければ多い程、貧しい人は富を得、老人は若返る」という神の
お告げがあったと巫女達にしゃべらせていた。この言葉に乗せられて村里の善
男、善女達は、家財を投げ出し、酒や野菜や馬、牛、羊、豚、犬、鶏等の家畜
を道端に並べて「新しい富が入ってきたぞ」と連呼しては歌い踊りながら屯宅
の方へ誘導されていくのである。群衆は煽動されているのもわからずに、恍惚
として屯宅を襲い、手当たり次第に米や布を持ち出す暴徒の集団になっていっ
た。大生部多が巧みに民衆の心をつかみ、唆して仕組んだ朝廷に対する反逆で
あった。規模が次第次第に大きくなっていくが首謀者の大生部多は巧みに隠れ
て指令を出しているので騒動は収まらず、東国の国造の手では鎮圧することが
できなかった。
「利益誘導して人心を惑わせるようなものは神でも仏でもない。大生部多は世
の秩序を破壊し人心を惑わす邪教の元凶であるから成敗しなければならない。
それが神祇を司り、仏教を崇拝する秦一族の務めであろう。私が世の中にお返
しする最後のお務めとなろう」と宣言して秦河勝は精鋭の手勢を連れて出動し
た。秦河勝が念力をかけて透視すると大生部多は富士山麓の溶岩の中を迷走す
る風穴の中に潜んでいることが分かった。大生部多は秦河勝の手の者に捕まり
成敗された。
人々は「太秦は神とも神と聞こえくる常世の神を打ちき罰ますも」という歌
を作って秦河勝の功績を讃えた。歌の意味は太秦の河勝は神の中の神という評
判が聞こえてくるよ。常世の神といいふらした者を打ち殺したのだからという
ことである。
このとき河勝は八十二才の高齢であった。精力を使い果たしたのか凱旋する
と病床についた。
六百四十五年六月十一日に秦河勝は「明日、大変なことが起きる」と言い残
して病没した。奇しくも蘇我入鹿が大極殿で中大兄皇子らに暗殺される日の前
日であった。
十八
京福電鉄嵐山線帷子ノ辻駅から徒歩で十分程の所に「蛇塚古墳」と呼ばれる
横穴式の前方後円墳が残されているがこれは秦河勝の墓とみられている。巨石
を積み上げた幅四米、高さ五米、奥行き六米の石室が残されている。これは蘇
我馬子の桃原墓に擬されている奈良の石舞台と同年代の七世紀頃に作られた古
墳であり、その規模の大きさから秦氏の実力の程が窺われる。蛇塚古墳の東方
にも天塚古墳が残されており、秦氏一族の古墳とみられている。
また京福電鉄嵐山線蚕の社駅から北へ徒歩五分のところに「木島坐天照御魂
神社」があるが俗に「蚕の社」で通っている神社である。本殿東側にある養蚕
神社は生糸を扱う人の信仰が厚く、秦氏の本拠地に鎮座していることは養蚕と
機織りの技術に秀でた秦氏になんらかの形であやかろうとして建立されたもの
であろう。(了)

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無縁仏の来歴・・・或る労災事故の顛末


1.
播磨平野の風物詩は塩田である。イオン交換膜を利用した製塩工場で塩が造られるようになってからは、あの広大な塩田にも所々住宅や工場が立ち並び始めていた。それでも未だ姫路近郊にある極東硝子高砂工場のだだ広い敷地の隣には、川を隔てて流下式塩田が涯てし無く拡がり、長閑な景色を作りだしていた。塩田ののどかさとは対照的に、ここ極東硝子高砂工場の構内はショベルカーが蟷螂のようにショベルを持ち上げ、ダンプカーが慌ただしく出入りしている。整地の終わった一角には、クレーン車が鉄骨や機器を吊り上げており、ヘルメットをかぶった作業員達がせわしなく立ち働いている。クレーン車の隣には建て方の終わったスレート葺きの硝子工場の建物が威容を誇っている。

新鋭の硝子工場の建設現場から1㎞ほど手前の一角には古ぼけた耐火煉瓦工場がほこりにまみれて新工場を羨むかのようにみすぼらしく立ち並んでいる。

「今日は応募者は一人もありませんでした。明日は10時から梅田の阪神デパートの選考場へ行ってきます。あまりあてにしないで下さい」と部下の白石がハンカチで額の汗をぬぐいながら報告した。夏だというのに、煉瓦工場の粉塵が舞い込むので窓を開けることが出来ない。扇風機は徒に生暖かい澱んだ空気を掻き混ぜているだけである。

門川久の執務している事務所は、事務所というにはあまりにもみじめな建物で木造の倉庫を改造した、台風が来る度に屋根が飛ばされやしないかと心配になるほどの代物である。
「そうか、今月はまだ10人しか採用出来なかったわけだね。九州の方は確率がいいようだね。矢吹君からは、昨日博多で3人応募者があったという連絡があったよ。こうなったら手と足さえ付いていればよしとしなければならないね」
門川久は自嘲するように言った。
門川久は大学を卒業すると極東硝子へ入社した。最初の任地は横浜の硝子工場であった。労務課に配属になり、一年半ほど労務管理の基本的な業務を実地に体験した。その後、定期人事異動で本社に転勤となり二年間人事企画の仕事に従事した。彼が本社で人事企画の仕事に従事している頃、日本は高度成長の波に乗っており、彼の会社も設備投資を積極的に行い、耐火煉瓦の単一工場であった高砂工場の構内の空閑地にカラーテレビのブラウン管用硝子バルブの製造工場を建設することになった。

カラーテレビは造れば造る程売れ、ブラウン管用バルブの増産を電気メーカーから求められ、シェアーの拡大を図って、次々に新鋭の設備を作る競争をしているかの如き観を呈していた。工場が稼働する一年前に門川久はこの地へ転勤を命ぜられ、着任と同時に新しい工場の充員のために、西へ東へと走り回った。とにかく一人でも多くの若い従業員を採用することが使命であった。人事管理の高邁な理論も理想もそこでは通用しなかった。

人、人、人、集めることこそが会社における正義であった。しかも、極東硝子の作業は三交代勤務であり、高熱環境下作業である。作業環境はすこぶる悪い。今日3人採用したと思ったら次の日には5人辞めていた。いくら採用しても人数は増えなかった。若い労働者は少しでも賃金の高い会社へ移動していく。就職支度金欲しさに応募してくるずるい者もいた。

組合は新工場の稼働を目前に控えて、人数が増えるどころか逆に少なくなる現状に対して、定員制を盾にして激しく会社の無策振りを攻撃してきた。
「現有設備の定員さえ、満足に確保できていないのに、新設工場の人手は確保出来るのか」
「定着対策をもっと充実させなければ、いくら人を採っても、辞めていく人間が多くて会社の充員活動は徒労に終わるのではないか」などと言うのである。

一方、新工場臨時建設部の担当者は、半年後の稼働を目前に控えて、新規労働者の訓練をしたいから早く人を入れてくれと催促してきている。
久は労務課の充員担当者として針の筵に座らされているような気持ちでこれらの言葉を毎日聞いていた。そのうえ、基幹要員を九州の工場から受け入れるための集団転勤の仕事も忙しさに拍車をかけた。受け入れ施設を整えるために鉄筋アパートも5棟建設中であり、建設業者との打ち合わせが毎日行われる。

地域の住民からは、日照権についての苦情もくる。やっと地域住民との応接を終わって、帰社すると会社を辞めたいから話を聞いてくれと言って、若い従業員が久の帰りを待っている。労務課の若手の係員はそれぞれに、九州、山陰へと人の募集に散っているから、いきおい、久が一人一人と応対して、ダメと判りながら説得しなければならない。欠員の補充さえ十分出来ない状況だから、無理な人員編成をして現場で怪我人が出る。怪我人が出れば、監督署へ届けたり家族との応対で余計な仕事が増えてくる。定着対策の一環として行っている若年層従業員のクラブ活動、懇親会という名目の宴会にも付き合わなければならないので、体が幾つあっても足りないと思えるのである。労務課員は課長、係長から係員の女子に至るまで過労気味であった。製造サイドは製造サイドで、新工場の建設と既存設備のフル操業のため忙しく立ち働いており,工場全体が一種の狂乱状態に陥っていた。

このような忙しい毎日の生活が続き、毎晩遅く疲れて独身寮に帰ってくると、久は自分は何のために働いているのかと自問してみるのであった。
新しい工場が稼働を開始すれば、今ほど雑用は多くはないであろうが、人の採用の仕事はもっと、増えてくるだろう。一体あと半年の間に新工場を動かせるだけの人員が確保できるであろうか。常に久の頭から離れることのない悩みであった。

新工場の編成人員は、500人でそのうち基幹要員として、九州から150人の集団転勤を受け入れることになっている。残りの350人のうち、150人は来年3月に高校を卒業してくる新入社員である。戦力として使えるまでには入社後、少なくとも半年はかかる。不足する200人は中途採用で充足しなければならないが、まだ、50人ほどしか採用できていない。あと150人集めることは不可能に近い。脱落する者を考えれば、300人は採用しなければ安心できない。6ケ月間に300人採用するとなれば、毎月50人宛である。ところが現実に、毎日採用面接を三箇所で行っているが、応募者の数自体が一日平均二人で、一ヵ月に採用できた人間は20人ほどである。とても無理な相談のように思われる。

久は何回か現在の労働情勢、雇用情勢についてレポートを書き、現在の生産計画、新工場の建設計画自体に充員の面で無理があるから計画の変更乃至は、世間相場を無視した大胆な労働条件の改訂、少なくとも賃金水準の全面的な改訂が必要である旨の報告を行った。しかし、新工場の計画通りの稼働は至上命令であり、労働条件の改訂は全社的な問題に波及するから出来ないというつれない回答を貰っただけであった。そして与えられた条件のもとで与えられた目的を達成するのは、社員の務めであり、腕の見せどころであるという冷たい補足がつけられていた。

久は、その年の自己申告用紙に再び現在の雇用情勢下では、現在の条件のままで、予定されている新設工場の予定通りの操業開始は雇用面で困難であるから、既設の工場から、集団転勤者の人数を増やすか、或いは操業開始時期を半年遅らせるか検討して欲しい旨を書いて提出した。

自己申告書は課長を経て本社の人事部長にに提出される建前となっているが、久の自己申告を読んだ課長は久を呼んで言った。
「門川君、君の気持ちはよく判るし、私自身、君の意見に賛成したい。だがね、サラリーマンというのは我慢が大切なのだ。君の自己申告を本社へそのまま提出したら、君の無能力振りを公表する結果となるよ。君が無能だとは僕は思っていないが、結果としてそういう評価になってしまうのだよ。考え直してみてはどうだ」
「課長、お言葉ですが今のままの状態が続いたら、この工場の管理部門の人0は皆潰れてしまいますよ。まるで気違い沙汰じゃぁないですか。明けても暮れても、人、人、人。人を採用するためには、学校の先生に女まであてがってまるで女郎屋のやりて婆さんじゃありませんか。そのうえ、組合のダラ幹共と取引をして、攻撃の矛先を変えさせようとしたり、全く吐き気のする状況ですよ。そう思いませんか。こんなことになるのも、要は現在の工場新設計画に無理があるんですよ」久は堤防が切れたように喋りだした。
「君は若いな。もっとよく考えろよ。君は独身で家族がいないから無鉄砲なことが言えるけれども、この世の中は喰うか喰われるかなんだ。我慢してとにかく頑張るしかないんだよ。結果として人が集まらなくて、工場が動かなかったとしても、稟議経営のもとでは責任は分散されてしまうんだ。君がよしんば正義漢ぶって正論を唱えると、御政道を批判したことになって君の立場もなくなるし、第一、上司である私の立場が困るじゃぁないか。サラリーマンとはそのような宿命を持っているんだよ」
「課長、私はもう疲れたんですよ。皆も疲れているでしょう。言うだけのことを言っておかないとあいつは駄目な奴だったと言われるだけで終わりになってしまうでしょう」と久は反駁した。
「それは、言っちゃぁ悪いが、君の自惚れというものだよ。ごまめの歯ぎしりとしか聞いては貰えないよ。ここは忍の一字さ」と悟りきった顔で課長は言った。
「でも課長、今の工場の状態はまるで、気違い沙汰じゃあないですか。労務課員は人集めで皆疲れている。製造は増産に次ぐ増産の指令に追いかけ廻されている。臨時建設部は工期の短縮で疲れている。誰かが言わなければ工場全体がのびちゃいますよ。製造の作業員は定員割れのところへ増産を割り当てられ残業の連続ですよ。今に不満が爆発して大変なことになりますよ」
久はいい加減うんざりした顔になってきた課長になおも食い下がった。
「とにかく、工場新設計画の延期は絶対に出来ないことなんだから、黙っていたまえ。疲れたのなら一週間休暇をとりなさい。人間忙しい時ほど休養が必要なのかもしれないからね。もう一度だけ言っておくが、君の自己申告書は書き直したほうがいいよ」
課長はそう言い残すと席を立った。

久は釈然としないけれども自己申告書を書き直して提出することにした。
久は自己申告書を課長に指摘された通り書き直しながら、何というつまらない制度を会社は作ったのだろうかと思った。そもそも、久が本社で労務管理の勉強をしていたとき、得た知識から言えば自己申告は自分が会社に対して言いたいこと、聞いて貰いたいことを素直に書くところにその本来の趣旨があった筈だ。久は本来の制度の趣旨に則って言いたいことを書いたのだ。
ところが課長は書き直しを命じた。建前と本音の乖離。日本的発想の形式がここにあった。本音は決して正面切って打ち明けてはならないのである。正論として吐くのはあくまで、建前の議論でなくてはならない。本音は胸の奥底に秘かにしまっておいて心ある人に察してもらうしかないのである。何という非合理な表現の形式であろうか。本音を察して貰える人があればよいがもし上司に鈍感な人がいて本音を察して貰えず、建前の議論をま正直に受け取られたとしたら何という滑稽な悲劇がそこに起こることであろうか。

久は自己申告用紙に次のように書いて提出することにした。
『現在当工場は建設の槌音も高く、新鋭工場の早期稼働に向かって、臨時建設部、製造部労務部ががっちりスクラムを組んで多忙を極めている。現在の雇用情勢下にあっては、短期間に500人の編成人員を充員することは至難のことであるが、当工場の使命の重大さを考えるとき、泣き言を言っている場合ではない。何としても工場が稼働を開始するまでには、目標の500人を揃えるべく、求人活動を精力的に展開している。当工場における労務部の使命は充員を一日も早く完了することであると認識している。』

久は白々しい気持ちで、以上のように書き終えると我ながら抽象的で中身のない文章だなと思うのである。久は書きおえた自己申告書を封筒に入れて課長に提出すると、一週間ほど休暇を戴きたい旨申し出て休養することにした。

人、人、人に明け暮れて過労気味だったので、一週間の自由な時間は限りなく貴重な時間だと思った。

仕事を離れてホットした時、頭の中へヒョコッと浮かんだ想念がある。この想念は夏の空に突然わきでた入道雲のようにむらむらと大きく勢いを得て久の頭の中一杯に拡がった。煩わしい人間関係から抜け出して、責任も何ももない気儘な生活をしてみたいという願望にも似た想念である。
これから一週間という自由な時間を気儘に過ごしてみようと思い立った。
久は独身寮の管理人に一週間程休暇を貰ったので実家へ帰ってくると言い残して旅行鞄一つを持ちタクシーを拾った。

2.
門川久はここ一ヵ月ほど散髪していないのに気がついた。何ものにも束縛されない気儘な一週間を過ごす前に、まずこざっぱりした気持ちにならなければならないと思った。タクシーを駅前で乗り捨てると「いらっしゃいませ」という元気な声に迎えられ、理容院の客となった。

駅前の理容院にしては、お客もたてこんでおらず、三つほど空いていた椅子の一つに座ると目を閉じた。これから何をしようという当てがあるわけでもなかったが、自分で自由にできる時間が七日間もあると思うと気持ちが豊かになった。散髪をしてもらいながら一週間をどうやって過ごそうかと考えていた。両親の許へ帰ってのんびり過ごすのもよかろう。或いは行きあたりばったりに行く先を定めずに足の赴くまま、気の向くままの旅に出るのも悪くないなと考え巡らせていた。と、突然隣で外人の声が聞こえた。
「ウオッシュアンドカット、プリーズ」
何げなく声のする方を向くと空いた椅子を前にして髭もじゃの背の高い赤毛の若い外人が、手真似で理容師に散髪方法の注文をつけている。相手をしている理容師はこれも手真似で一生懸命応答しているが、どうも意思が通じないらしく首をかしげて困った顔をしている。
久が横から英語で外人に問いかけてやるとその外人は喜びを顔面に表し、頭髪を鋏で刈って頭を洗って貰いたいと思っているのだが、そのことをこの人に説明してくれという。髭は剃らなくてよいと伝えてくれと言っている。
久がその旨通訳してやると、今まで困った顔をしていた理容師は大きくうなづいて俄に元気づいた。
「シャンプーネ、ヘヤーカットネ、オーケーネ」
その理容師は自分も片言の英語なら喋れるぞということを誇示するように知っている単語を並べ立てた。
「サンキュー」と外人は人なつっこそうな笑顔を久の方へ向けて、両手を大きく開き肩をすぼめて見せた。
「お客さん、随分英語が達者なんですね。商社へお勤めですか」と久の顔を剃っていた理容師が話かけてきた。
「いや、大したことはないよ。学生の頃、外交官を志したことがあってね、多少英会話の勉強をしたことがあるだけさ」
「それにしても大したものですよ。私なんかチンプンカンプンで、何を言っているのかさっぱり判りませんでしたよ。お蔭で助かりました。あれだけ英語が喋れれば一人で外国へ行っても不自由しないでしょうね」
「それが残念ながら、外国へは台湾にしか行ったことがないんでね。でも英語なんてものは、心臓で喋るようなものだと思うよ。外人をみかけると誰彼となく話しかけてみると結構通じるものだよ。ジェスチュアーを交えながら単語を並べるだけで意思は通じると思うよ」
「そうなんですってね。私の友人で鉄工関係の仕事をしている人が横浜にいるんですがね、東南アジアへ工場の建設のために、若い職人を連れてよく出張しているんですよ。その友人が外国語は心臓で喋るものだということを言っていましたよ。何でもその友人は中学を出るとすぐ鍛冶屋の職人になって国内のあちらこちらの工場建設をやって歩いたらしいんですが、外国へ行ってみたいと思っていたそうです。ある日、タイで工場建設の仕事があるから行ってみないかと仲間から誘われたので二つ返事で行くことにしたそうです。まだ外国へ行くのは珍しい時代だったので、親兄弟は英語も喋れないのに外国へ行くのはやめろと反対したそうです。ところが、その友人は手真似足真似でも意思は通じる筈だと頑張り通して、タイへ二年も行って来たそうです。確かに最初は不便を感じたそうですが、心臓強く体当たりでやっているうちに英語とタイ語が喋れるようになったということですよ。今ではそのことが箔になって、まだ30歳そこそこだというのに職人を30人も使って請け負い工事をやっているそうです。請け負い工事というのは儲かるそうですね。その友人は最近、いい所に土地を買って立派な家を建てたらしいですよ。車なんかでも凄い外車に乗っていますよ」 理容師は話好きらしく、我がことのように得々と喋っている。
「へぇー、建設関係の仕事というのはそんなに儲かるのかねぇ。私なんか一生働いたって、自分の家なんか建てられないかもしれない」
「今は建設関係はいいらしいですね。その友人の話だと電気熔接工とか配管工、鳶工などの職人は一日の日当が五千円もするんだそうです。私なんかももう少し若ければ、理容師なんか止めて熔接でも覚えて商売替えしたいですよ」
「へぇー、技能工の賃金は高騰したとは聞いていたけれど一日五千円もとるのかねぇー」
久は頭の中で自分の給料を日当に換算してみるとその半分にも満たない。
「だから、最近ではメーカーの工員なんかで会社勤めを辞めて職人になる人が増えてきたんですってね」
「なるほどねぇ、そんなに日当が高いのなら、流れ作業なんかに従事しているより、余程面白いから、若い人達は転職するだろうね」
「また職人の世界というのが面白いんですね。腕のいい職人はあっちの親方こっちの親方というふうに渡り歩いて腕を磨いていくんですね。そして独り立ちすると若い衆の何人かを使って請け負い工事をやって儲けるんだそうです。その友人なんか、外国へ行ってきて英語も喋れるというんで、あちこちの大手のプラントメーカーから引っ張りだこだそうですよ。確か又近いうちにイランへ行くとか言っていましたよ」
「ふうん、建設労働者の世界を研究してみる必要があるなあ」「すると、お客さんは人事関係のお方ですか」
「そうなんだよ。硝子会社の人事をやっているんだけど、人が集まらなくて困っているよ。最近では手と足さえついていれば、どんな人間でも採用したいくらいの気持ちだよ」
久は散髪をして貰いながら、理容師の話を聞いているうちに職業意識が頭をもたげてきて、建設労働者の労働市場のことを調べてみなければならないなと思った。何にも束縛されないで気儘な一週間を過ごしてみたいと考えていたのに、何時の間にか自分の仕事と結びつけて話を聞いていた。
「お客さんの会社なら日本でも超一流の会社だから希望者はいくらでもいるでしょう」
「ところが、そうでないから苦労しているんだよ。何か人がうまく集められる方法はないものかねぇ」
「そうですね。今はどこも人手不足で困っていますからね。でもこれも又、その友人の話ですがね、石油会社や化学会社では年に一回は、定期修理工事いうのをやるんだそうですが、どこで集めてくるのか、短期間に随分多くの人足を集めるそうですよ。何でも一ヵ月の間に、工場の装置を止めてしまって、点検修理する大変な仕事だそうですが、一ヵ月の間に、500人近い人間を集めるそうですよ」
「そんな芸当みたいな事が現実の問題としてできるのかなあ。夢みたいな話だよ」
久は自分がこれから採用しなければならない人間の数を思い出しながら言った。
「どんな方法で集めるのかはよく知りませんが、その友人のの話だと結構集めているらしいんですよ。いよいよ、集まらない時には、簡易宿泊所の近くの風来坊を連れてくることもあるそうですね」
その理容師の話に久は目を開かれる思いであった。建設業と製造業とでは業種業態に相違があるとしても僅か一ヵ月の間に500人からの人間を集めるという話は驚異であった。話半分に聞いたとしても、建設関係の業者の動員力は研究してみる価値があると思った。職人という言葉がしきりに使われているので、職人の労働市場も調べておく必要があると思った。
どうせ気儘な一週間を送る予定で貰った休暇なので、建設業の職人の世界へ飛び込んで、一ヵ月で500人集める仕組みを、調べてみようと思いついた。それには,自分で作業員になりすまして、建設現場へ入り込むことが一番手っとり早い方法だろう。
久は簡易宿泊所へ投宿して様子を窺うことにした。久は横浜にやってくると寿町の簡易宿泊街で福寿荘という看板を出している宿に旅装を解いた。立ち並んでいる簡易宿泊所の中でも小奇麗な感じがしたので福寿荘を選んだ。
かねて港湾労働者や建設労働者は簡易宿泊所に起居しているものが多いということを聞いていたので、とにかく泊まってみようと思い立ったのである。
宿帳に松山一朗と記入して宿の主人に何か良い仕事があったら世話して欲しいと頼んでおいた。宿の主人は久の身なりを見ながら、意味ありげに頷いて久の頼みを聞いて部屋から出て行った。久のことを何かいわくのある人間だというふうに感じたらしい。やがて宿の主人は、屈強な体格で目つきの鋭い一人の男を連れてきて言った。
「松山さん、この人が犬山組の番頭さんで菊池というお方です。今関東石油の定期修理工事で人を探しておられるそうだ。よく話を聞いてご覧なさい」
久は一週間だけ仕事をしたいと言うと、菊池はそれでは明日、マイクロバスで迎えにくるから、作業服に着替えて、朝7時に宿の前へ出て待っていろと指示して帰っていった。日当は毎日仕事が終わって帰る時に千五百円を払ってやるということであった。
久には求人がこんなに簡単な手続きでてきることは驚きであった。

3.
今日も朝からしとしと雨が降り、空はどんよりと曇っている。門川佳子は硯で墨を擦りながら床の間に飾ってある条幅に目を投じた。
杜甫の詩『春望』が草書で流れるような線によって書かれている。落款には門川孤舟と記されている。この軸は孤舟と号した兄が東大在学中、ある新聞社の書道展で特選をとった記念の軸である。
兄、久が失踪してから何年になるのだろうか。久の失踪が判ったのは、東大を卒業して昭和40年に極東硝子へ就職し、3年ほど経ったときの、丁度今日のようにしとしと雨の降っている日だったと思う。兄の会社の人事課から電話がかかってきたのである。
「もしもし、こちら極東硝子の人事課でございます。門川久さんのお宅でしょうか」
「はい。門川でございます。いつも兄がお世話になっております」
「久君はおられますか」
「いえ、兄は会社へ出勤している筈ですが」
「えっ。久君は休暇をとってお宅へ帰っておられる筈でしたが・・・どちらかへおでかけでしょうか」
「何ですって。兄は最近こちらへは帰ってきておりませんが。何か」
「おかしいなあ。仕事に疲れたから両親の許へ7日ほど休養に帰ってくると言われて、10日ほど前に帰郷した筈ですが・・・7日過ぎてもなんの連絡もないのでどうしているかと思って電話したのですが、そうですか。そちらへは顔を見せませんでしたか」
それから大騒ぎとなった。兄は正月に帰ってきて以来,今日まで帰郷していなかったのだ。
佳子も両親も元気に会社勤めをしていると思っていたのに、突然、会社からおかしな電話がかかってきたのである。
父が急いで兄の任地へ飛び、極東硝子を訪問した。上司や同僚に会っていろいろ聞いてみたが、仕事に疲れたので暫く両親のもとで静養してくると言って、7日間の休暇届けを出して帰郷したということしか判らなかった。久の住んでいる高砂市の独身寮に行って荷物を調べても衣服類はきちんと洗濯して押し入れの中に仕舞ってあり、書類も本棚に綺麗に並べられている。
部屋の中では書き置きらしきものも発見されなかった。同室の同僚に尋ねてみてもスーツケース一つをぶら下げて実家へ7日ほど帰ってくるよと言い残して出掛けたのでてっきり帰郷しているものと思っていたということである。
直接の上司である労務係長の話では、最近急激に工場が膨脹し、充員、定着対策、複利厚生施設の建設、労働組合対策、集団転勤の受け入れ等と難しい問題を抱え、毎日遅くまで仕事をし、疲れていたのは事実である。しかしそのことが、原因で失踪してしまうということはあり得ないということであった。
門川家でも心当たりへは全て連絡し、会社でも久が立ち寄りそうな所へは残らず連絡をとったが、消息は不明であった。
警察へ捜索願を出したが、久の行方は杳として判らなかった。失踪の動機も判らず、久からは会社へも実家へも何の音沙汰もないまま、いつしか3年が過ぎていた。佳子は兄が失踪したときはまだ、短大へ入学したばかりであった。優しかった兄が動機の判らないまま行方不明になったことにショックを受けた。
父や母の嘆きもまた大きかった。あの事件以来、父や母はひどく老い込んだように見える。母は毎朝、背広姿の兄の写真に陰膳を供えることを欠かさない。めっきり白髪の増した母が口の中でぶつぶつお経のようなものを唱えながら、陰膳を供えている姿は痛々しくて、佳子は見るに忍びない思いをしている。
佳子の実家は父、作造が包丁一本で築き上げた寿司屋である。働き者の父は九州の片田舎から単身大阪へでてきてあちこちの料理屋へ勤め、腕を磨いた。難波で修業しているとき、大きな寿司屋で女中勤めをしていた母を見初めて世帯を持ったと聞いている。生来働き者の父と母はせっせき働いて小金を蓄え、繁華街で店を持つことが人生の目標だったそうである。

出征中は父は内地勤務で通信兵として葉山の通信学校へ勤務したらしい。母は兄と生まれて間のない佳子を九州の父の実家へ連れて行き漁師の手伝いをしながら二人の兄妹を育てたということである。
戦後復員すると、父は大阪と九州を担ぎ屋として往復し、水団やら蒸かし芋を売って元手を作り、大阪の現在の土地を購入しバラック建ての一膳飯屋からスタートして、今の店に作り上げたのである。今では板前10人を置く寿司屋を本業としながら、レストラン、喫茶店、ビジネスホテルの経営やらで相当の所得を得ている。
佳子は父や母には言えないが、ひょっとすると兄の失踪の原因は両親の家業にあったのではないだろうかと内心秘かに思っている。そう思わせる出来事が過去に幾つかあったのである。
両親に似て頭の良かった久は、中学、高校とも首席で通し語学には特に才能のあるところを示した。父が家業を継がせようとするのを嫌って、東大へ進学し家庭教師のアルバイトをしながら大学を卒業したのである。大学に進学するについては、寿司屋の伜に学問は不要だとする父と、寿司屋のような水商売は嫌いだという兄が口論し、担任の先生のとりなしに折れた父が、自分の力で進学し、就学するなら認めようという事件があった。
また語学に堪能で政治に興味を持っていた兄が大学へ進学してからは、外交官になるのだと言って、一生懸命勉強していた一時期があった。ある晩コンパでひどく酔って帰り,
「うちが水商売では、毛並み第一の外交官にはなれないよ」とコップに水を持っていった佳子にポツリと寂しそうに言ったことがあった。
最近では正月に帰省したとき、母が沢山用意した見合い写真を見せると写真を一瞥しただけで、
「寿司屋風情には良家の子女は寄りつかないよ」と言って母に写真をつき返した。

これを傍らで聞いていた父が激昂し、
「その言いぐさは何だ。寿司屋風情とはなんだ。親の職業を愚弄するような言い方は許せん。寿司屋だって立派な生業だ。人様に迷惑をかけるわけじゃあなし。もう一度言ってみろ・・・これだから、なまじ端学問をした奴は始末に終えん」
「済みません。私の言い過ぎでした」
流石に気が咎めたのか兄が素直に謝ったのでその場は納まったが、父と母は兄の言葉を非常に気にしているようであった。
その晩、兄と二人だけになったとき、佳子に述懐した兄の言葉はいまだ鮮明に頭に焼き付けられている。
「佳子。親父やお袋が気を悪くするから内緒の話だが、良家の子女との縁談が会社で幾つかあったけれど、一つも実らなかったよ。見合いになるまでに話が立ち消えになってしまうのさ。よく調べてみると、どうも実家が水商売をやっているということが判ると先方で敬遠してしまうらしいのだ。佳子もよく知っているように、俺は実力主義,人物主義ということで、今まで通してきたが、こと縁談となるとそうもいかないところがあるもんなんだ。ケネディ家でも大統領を出すのに三代かかっているようなものさ。俺は今でも恋愛結婚よりも見合い結婚の方が合理的だという持論なんだけど、これは一般論にしか過ぎず、俺の場合には当てはまらないようだ」
誇り高くて気が強く、自分の思ったことは大体押し通してきており、挫折ということを知らない兄の言葉としては弱気だなと思いながら聞いたのであった。
しかし、見栄坊な所のあった兄にしてみれば案外、結婚問題に関連して実家の家業が、普通の人が考える以上に、大きな悩みであったのかもしれないと、強いて兄の失踪の動機づけを考えてみるのであった。
「佳子、何をしているの。下へ降りていらっしゃい。桑山さんが遊びに見えていますよ」
階下から呼ぶ母の声に佳子は我にかえった。今度の展覧会に出品するため条幅を10枚ほど書いたところであった。
「はーい。只今」
佳子が急いで片づけて階下へ降りて行くと、新聞記者の桑山が、応接室のソファーに腰を下ろして美味そうにお茶を飲んでいる。
「やぁ、ヨッちゃん。頑張っているそうだな」
桑山はにこにこしながら右手を上げた。
「珍しいこともあるんですね。桑山さんが、明るいうちにいらっしゃるなんて」
「何を寝惚けているんだい。ヨッちゃんに素晴らしいプレゼントを持ってきてあげたんだよ」
「まあ、嬉しい。どこにあるの」
佳子が桑山の身の回りを見渡してもそれらしいものはない。
「そんなにキョロキョロしても、ここにはないよ。さあ、出掛ける支度をはじめた。始めた」
「何処へ行くんですの」
「それは内緒。行ってみてのお楽しみ」
「まぁ。桑山さんたら、人をじらしておいて。教えて下さいな」
「ヨッちゃんが怒るの図か。悪くないな。ハッハッハッ・・」
「佳子、桑山さんがね、三王商事の岡元常務さんのお宅へ連れて行って下さるそうよ」
と母親が側から口をはさんだ。
「あの岡元克彦ですか。書の蒐集家の?」
「そうだよ。前々から一度自慢の書を見せて欲しいと頼んでおいたのだが、とても忙しい人でね。なかなか時間を割いて貰えなかったんだが、今朝急に電話があって、午後3時に見せてやると言うんだ」
「まあ、嬉しい。流石新聞記者は顔が効くのね」
「まあね」
「桑山さん何でもっと早く知らせて下さらなかったの。3時とすればあと2時間しかないわ。美容院へも行けないじゃぁないの。新聞記者のくせに気が効かないわね」
「おいおい、ヨッちゃん、変な言いがかりはよして呉れよ。夜討ち朝駆けが新聞記者の本性だよ。東に事件があればすっ飛び、西に騒動があれば馳せ参じる」
「判ったわよ。また始まった。時間がないので支度をしてくるわ」
佳子は満面気色を帯びて浮き立つような足取りで二階へ駆け上がって行った。
桑山由雄が東京本社から大阪支社へ転勤になったのは一年ほど前である。
桑山は寿司が好きなので、夜食には寿司屋へ立ち寄ることが多い。あちこちの寿司屋を食べ歩いて見て、何故か角寿司へ足繁く通うようになった。
新聞記者という職業柄夜遅く食事をとりながら一杯飲むことが多い。桑山が角寿司へ通うようになったのは佳子のせいだと思っている。佳子が店にでることは滅多にないが、桑山が初めて角寿司に入った時、いつもは帳場に座っている佳子の母親が風邪で寝込んでいたため、佳子が臨時に帳場へ座っていたのである。その日桑山はうっかりして財布を忘れているのに気が付かず勘定の段になって慌てた。ポケットにあちこち手を突っ込んでいる桑山の姿を見てすかさず佳子が言った。
「お客さん勘定はこの次で結構ですよ」
「だって、君初めてこの店へ来たのだよ。そうだ。明日必ず届けるから、この時計を預かってくれないか」
「いえ、結構ですわ。お客さんは良い人ですから、明日きっとまたいらっしゃるわ」
こんなやりとりがあって桑山は角寿司の常連になったのである。
「桑山さん、あの娘も年頃ですからどなたかいい人をお世話して下さいよ」
佳子が二階へ支度に行っている間、母親はお茶を勧めながら謎をかけた。
「私でよかったら、いつでもどうぞ。でもヨッちゃんには新聞記者の女房は勤まらないでしょう。それに、この店だってあることだし。まあ心がけておきましょう」
桑山は本気とも冗談ともとれるような言い方をした。門川久枝は夫の作造とも相談して、息子の失踪のことは店の者達にも禁句にしていた。桑山は佳子を角寿司の一人娘だと思っているような言い方をしている。久枝は桑山と
佳子の間がかなり接近してきているので、いつ兄久の失踪のことを桑山に切り出すか悩んでいた。
「どうもお待たせしました。桑山さんたら、急なお話なんですもの。私あわてちゃったわ。もっと前もって知らせて下さればもっとお洒落ができましたのに」
佳子が大急ぎで身繕いしたらしく、ハンドバッグの中を覗き込むようにしながら階段を降りてきた。
「白状すると、実は昨日大学時代の同窓会があってね。大蔵省へ勤めている友人が岡元克彦の娘と結婚していることが判ったのさ。それでよっちゃんのことを思い出して、親父に会わせろと頼んでみたわけさ。すると奴も気の早い男だから早速話をつけて今朝電話をかけてよこしたという次第なのだよ。ハッハッハッ」
「それでは新聞記者の顔ということではなかったのね」
「そういうことになるね。でも、日本の名筆コレクションが拝めるんだからいいじゃあないか」
「ありがとう。素敵なプレゼントだわ。早く行きましょうよ」
佳子は桑山をせかせて出掛けて行った
二人の後ろ姿を見送りながら久枝は、失踪した久が桑山に姿を変えて帰宅し妹を連れてでかけたのではないかという錯覚に陥るのであった。桑山と佳子との周囲には、そのような肉親の間にだけ漂う親しい暖かな雰囲気があった。

4.
武庫川の川沿いの閑静な所に、緑に囲まれて豪華なマンションが建っている。このマンションの日当たりの良い二階に岡元克彦は住んでいた。
「結構なお住まいですね。今日は、素晴らしいコレクションを拝見出来ると楽しみにして参りました」
名刺交換を終えると桑山は新聞記者らしいはきはきとした口調で切り出した。
「いや、これはどうも。最近東京から引っ越してきましてね。家財は東京へ残したままなので、何のおもてなしも出来ないと思いますが、ゆっくりしていって下さい。幸い書を集めるのが私の道楽でしてね。書だけは持ってきてありますから御覧にいれましょう。美代子、桑山さんにビールでも差し上げなさい」
岡元克彦は最近専務に昇格して、関西支社を統括するため大阪へ転任となったのである。一人娘の美代子が大蔵省へ勤務する原良彦へ嫁いで間もなく発令された人事であったが、女婿の原も同じくして大阪国税局へ転勤となったので、山王商事で岡元克彦のために用意したこのマンションへ新婚の娘夫婦が同居することになったのである。岡元克彦は要職にあるため、夜は帰りが遅く、原夫婦は新婚生活を邪魔されることもなく、優雅な生活を送っていた。岡元は実の娘と同居できるので、何かと便利でマンションの生活を喜んでいた。
「はじめまして、原の家内でございます。主人からかねがねお噂は聞いておりました。何のおかまいもできませんが、どうぞごゆっくり」美代子はビールを盆に乗せてくると桑山由雄と門川佳子に挨拶をした。
岡元克彦は平沼騏一郎、犬養木堂、勝海舟、佐久間象山等の軸を出してきては、一つずつ来歴をいかにも楽しそうに説明してくれる。
佳子はいずれも名筆家ということで名前だけは聞いて知っていた大家の作品が次から次へと出てくるので、圧倒されてじっとそれらの作品に見入り、岡元の熱っぽい解説にじっと聞きいっていた。初めてみる作品ばかりであっ
た。ふと気がつくと桑山も原夫妻も感心したような顔は装っているが、あまり興味はなさそうなので、もっとゆっくり見せて貰いたいと思ったが、他の人に悪いような気がしてきた。
「どうも貴重な作品を見せて戴きありがとうございました。良い目の保養ができました」とお礼を言った。
「若いのに書に興味を持たれるとは失礼だがなかなか殊勝な心掛けですね。
自分でもお書きになるのですか」
と岡元克彦が聞いた。
「ええ、兄の影響で、真似事だけはしております」
「それはますます感心した。うちの美代子なんか、私がいくら勧めても、万年筆とタイプライターの時代に古臭い書なんか時代遅れだと言って馬鹿にしているんですよ」
「まあ、お父様たら。何も皆さんの前で、そんなことを仰らなくても・・」
と美代子が抗議した。
「ヨッちゃん。今、お兄さんの影響でと言ったね。お兄さんがいたのかい。知らなかったなあ」
桑山が真剣なまなざしを佳子に向けた。佳子は桑山に見つめられて桑山の視線が眩しかった。桑山には兄の失踪のことは勿論、兄がいることも話していなかった。兄の失踪のことを話したら桑山が自分の許を離れていきはしないかという虞があった。今なにげなく兄の影響で書道を始めたと洩らしてしまった。迂闊だったと後悔した。何れ判ることとは言え、何も初対面の岡元克彦の前で真相を語る必要もない。佳子はさりげなく言った。
「桑山さんにはお話していませんでしたが、私の兄は兵庫県で硝子会社に勤めているんですよ」と答えて俯いた。
「おいおい、桑山、新聞記者にしては呑気だな。恋人の家族関係もまだ判っていないのかい」と今度は原良彦がからかった。
「そんなんじゃぁないんだ。この人は私の行きつけの寿司屋さんの看板娘でね、書が好きだというので今日連れてきただけなんだ」と桑山が弁解した。
「そうむきにならなくてもいいよ。心臓の強いお前にしては、うぶな所があるんだね。佳子さん、こいつは案外純情な所があるんですよ」と原良彦が佳子の手前、少し桑山をからかいすぎたと思ったのか桑山をたてるような言い
方をした。
「ほんとですわ。お似合いのカップルができあがりますわ。ねぇ、お父様」
と原美代子が同意を求めるように父の方を見た。
「あらっ。困りますわ。私」佳子は赤面した。現在の自分の立場が、同席の皆に誤解されていると思った。今まで、桑山のことを結婚の対象として意識したことはなかった。兄の久が失踪して寂しく思っていたところへ現れた桑山は、洋子にとって兄のような存在だった。今日も何気なく兄について展覧会にでもでかけるようなつもりでついてきたのである。ところが、岡元克彦はじめ、原夫妻も桑山と佳子を恋人同志のように理解して応対しているのである。佳子の体中にジーンと熱いものが流れた。それは今まで経験したことのない甘酸っぱい感情の波であった。そして、兄のことが話題に登らなければいいがと祈るような気持ちであった。
ところが一座の者には佳子の態度が乙女の恥じらいとして映り好感を与えた。
「桑山さんも良い人を選ばれた。書は人と為りを表すと言って書をたしなむ人に悪い人はいない。自分が書が好きだからいうわけではないが、書を書くときには無心になれる。邪心を捨てなければ素直な書は書けない。そういう
意味で書を書く人に悪人はいない。特に若い女性が書を書くのはいいことだと思います。女性の綺麗な筆跡は見ていても実に気持ちがいい。桑山さんも門川さんからラブレターを貰うのが待ち遠しいことでしょうな。ハッハッハ
ッ」
「そんな・・・・」
「私も美代子には書を習わせようとして、随分やかましく言ったが、この娘はテニスのほうが忙しくて、遂に書の良さを知らずに親元を離れて行ってしまった。良彦君、今からでも遅くはない。家庭に入ったら、テニスばかりしているわけにもいかないだろうから書を習うように勧めてやって下さい」
岡元克彦は若くて美しい同好の士ができたのが,よほど嬉しいとみえて能弁になった。
「そうですね。お義父さんの仰る通りですよ。書をたしなむ女性には奥床が感じられます。私の大学時代の寮での後輩に書のうまい男がいましてね書道研究会に入って展覧会などにも頻繁に出品していましたよ。学部が違っ
ていましたので、あまり親しい間柄ではありませんでしたが、何でも外交官を志望していましてね、語学が達者な男だったと記憶しています。風格のある男でしたよ。あの風格は書で養われたのかもしれませんね。美代子にもせいぜい家事の合間には手習いをさせるようにしますよ。勿論僕も暇をみて習うことにしたいと思います」
原良彦は岳父の手前調子のいいことを言っている。
佳子は原良彦がそう言った時、今彼が話題にとりあげた男というのは兄門川久ではないかと思った。いや、門川久に間違いないと思った。胸が高鳴った。兄は原と同年配で、東大の書道研究会に入部していたし、外交官を志望していた一時期があった。しかも学生寮に入寮していた。
だが、佳子はその人は自分の兄ではないかと思うということをどうしても口から出すことが出来なかった。そのことを口に出せば、兄の失踪のことをいきがかり上、説明しないわけにはいかない。兄の失踪のことを桑山に打ち明けるにしては、この場所と時はいかにも相応しくなかった。桑山を恋する女の気持ちが本能的に影の部分を隠させた。
男達は美代子の手料理に舌鼓を打ち、意気投合して杯を酌み交わしながら談笑していたが、佳子の耳にはその会話は意味のある言葉としては響かなかった。佳子は兄の安否と行方のことを案じながら桑山にどのようにして打ち明けるがを考えていた。
岡元克彦と原夫妻が名残惜しそうに引き止めるのを振り切って暇乞いをマンションを出ると外は薄闇に覆われ、武庫川の堤防の上を行き交う自動車のヘッドライトが二人の影を写し出した。丁度通りかかったタクシーを拾っ
て、西宮駅までと桑山が運転手に命じた。
「ヨッちゃん。何だか浮かない顔をしているね、どうしたの、気分でも悪いのかい」
「いいえ、一寸考え事をしていたのよ」
「何を考えているの」
「桑山さん、怒らないで聞いて頂けるかしら」
佳子が意を決したような口調になったので、桑山も身構えたような気持ちになり、佳子の顔を覗き込んだ。
桑山の頭には岡元家での会話のやりとりが瞬間的に脳裏を駆けめぐった。
女の口から言わせてはならない言葉が、出てくるのではないかと不安になった。もし佳子の口から求愛の言葉が出てくるとすれば、このタクシーの中は場所としては相応しくない。運転手が聞き耳をたてている様子が手にとるように判る。やはり桑山の方から求愛したかった。
「ヨッちゃん、ちょっと待ってくれないか。西宮駅についてから音楽でも聞きに行こうよ」
運転手の咳払いが沈黙を破った。
「運転手さん、西宮駅前の音楽喫茶へやってくれないか」
「はい」と言って運転手はまた咳払いをした。
タクシーを乗り捨てると桑山は「白夜」という看板の出ている喫茶店へ入っていこうとした。
「桑山さん、歩きながら私の顔を見ないで聞いて欲しいの」
「待ってくれ、僕から言わせてくれないか」
「いいえ、私の方から言っておきたいことがあるの。桑山さんから嫌われると思うから今まで言いだせなかったの」
佳子の口調に桑山は自分が何か勘違いしていることに気がついた。
「どうしたんだい。さあ、黙って聞いているから言ってごらんなさい」
「さっき岡元さんのお宅で、私に兄があることが話題になったでしょう。そのことなの」
桑山は佳子の語調が乱れたので、何か事情がありそうだと気がついた。佳子の兄に何か人に言えないような事情があるのではないかと思った。見ると佳子の肩が小刻みに震えている。
桑山は色々なことを想定した。兄が前科者の場合、兄が身体障害者の場合兄が妾腹の子の場合、彼女はこれから何を言おうとしているのか。彼女がこから打ち明けようとしている兄にまつわる秘密を聞いたとき、自分はそれ
を克服して愛を誓うだけの自信があるか。佳子に対する気持ちは本物の愛と言えるか。それが今試されようとしている。一瞬の間に桑山の胸中をこのような思いが電流のように交錯した。
「実は僕もそのことは初耳だったので、ヨッちゃんに是非聞いてみたいと思っていたところなんだ。お兄さんが兵庫で硝子会社に勤めておられるんだって」
「ええ、そうなの。三年前まではそうだったの」
「三年前までは・・・それでは今は」
「現在は行方不明で生死不明なのよ」
佳子は肩を震わせて泣きじゃくった。言葉に出してしまうと急に気が楽になって何でも話すことができるよしな気持ちになった。
「何だって。行方不明だって」
桑山は自分で想定していた場面よりも事態は単純なので内心ほっとした。
「桑山さんには今までこのことを隠していて、申し訳なかったと思っています。兄が行方不明だと判ったら、桑山さんに嫌われると思って、なかなか言いだせなかったわ。でもいつかは打ち明けなければならない時がくるのは判
っていたの。でもこんなに早くその時がくるとは思っていなかったわ」
佳子は泣くことによって心のわだかまりが浄化されたのか能弁になった。
兄の生い立ちから始めて、兄が大学に進学するについて、父との間に生じた小さないさかい、兄が行方不明になった日の前後の経緯等を佳子は淡々と話した。
「それで、手掛かりは全然掴めないの。行方不明になった動機も推測できないのかね」
「私なりに色々考えてみたわ。でもどうしても判らないの。毎日兄の写真に陰膳を供えている母の姿を見るのが可哀相で堪らないわ。私はもう兄がこの世に生きていないような気がするの。私にはとっても優しくて頼りになる良い兄でしたのに」
佳子がまた涙ぐんだので、桑山はポケットからハンカチを取り出して涙をそっと拭いてやった。
「事情はよく判ったよ。僕も新聞記者だから、僕なりに調べてみよう。お兄さんはきっと健在だよ」
「さっき岡元さんのお宅で原さんが書道研究会に入部して外交官を志望している語学に堪能なお友達のことを話していらっしゃったでしょう。私はあのとききっと、その人が兄だろうと思ったわ。でも、初対面の方にお話すべき
ことではないので黙っていましたの。世の中って意外に狭いのね」
桑山は佳子の打ち明け話を聞いて、門川久が生きていることを願った。
今でも佳子に好意を寄せながらも求愛できずにいたのは、佳子が角寿司の一人娘だと信じ込んでいたからである。一人娘でなく兄がいるとなれば、事情は変わってくる。正々堂々と両親に対しても佳子を嫁に欲しいと申し込むことができる。
桑山は三人兄弟の長男で姉は嫁いでいるが、下の妹は高校を卒業して九州で勤めている。両親は健在で父は九州の市役所を定年退職した後、運輸会社に再就職して事務を執っている。祖父から受け継いだ小さな家作に住んでいるが、老後を悠々自適の生活を送る程の資産や蓄えがあるわけではなく、何れは桑山が両親を呼び寄せて、老後の世話をしなければならない立場にあった。
桑山はこの立場をよく自覚していたので佳子に好意を寄せながらも煮え切らない態度をとっていたのである。角寿司の久枝から佳子にいい人があったらお婿さんを世話して下さいと謎をかけられたときも、態度をあいまいにして誤魔化してきたのである。
新聞記者という職業は自ら望んで選んだ仕事である。そして仕事に生き甲斐を感じていた。いくら佳子に好意を寄せていても、佳子が角寿司の一人娘であれば、嫁にくれとは言いだせなかった。そして望まれても、新聞記者を
廃業して角寿司へ入り婿になることは最初からできない相談であった。そこに桑山のジレンマがあった。だが、今佳子から打ち明けられて、兄がいることが判った。たとえ行方不明であっても死んでしまったという証拠はない。
佳子の兄を捜し出せば胸を張って、佳子に求愛することができる。桑山は一条の光を暗闇の中に発見した思いであった。
桑山は門川久に生きていて欲しいと願った。いや生きていて貰わなければ困るのである。いまでは佳子に寄せる愛情が、丁度雪達磨がどんどん大きくなるように、次第次第に大きくなり、加速度がついて自分の手では制御で
きない程になっていた。それと比例して佳子の兄は自分の手で捜し出してやるぞという執念のようなものが自分の体内に膨らんでいくのを感じていた。

5.
富士山へ向かって白球が飛んで行った。
「ナイスショット。部長、素晴らしい当たりでしたね」
背丈の高いいかにもスポーツマンらしい沢村勝が褒めた。
「部長、部長の球は真っ直ぐ飛んで行く、素直ないい球ですね。この調子だと優勝間違いなしですよ」
今度はずんぐりした体に猪首を乗せ、鋭い目つきの河村忠夫が負けてはならじと厚い唇の間に金歯を覗かせながらおだてた。
「なに、まだハーフ残っているから、下駄を履くまで判らんよ」
部長と呼ばれた初老の男は満更でもなさそうな顔で球の行方うを確かめてから赤いティーを拾った。
「それではオーナーに習ってひとつやりますか」
沢村勝がブラックシャフトでドライバーショットをしたが、ボールが落下点でキックしてバンカーへ飛び込んだ。
「今日はついてないな。またバンカーへ入ってしまった」
沢村の口調には余裕が窺えた。部長の薬袋浩一とは17ホール終わったところで、一打の差があった。薬袋がアウトを46、インを8ホール終わった
ところで42というスコアで回ってきたのに対し、沢村のスコアはアウト47、インでは42叩いていた。最終ホールをパーかバーディーで纏めれば薬袋と同点又は一打勝つ勘定である。
沢村は薬袋に決して勝ってはならなかった。かといって河村には負けてはならなかった。河村のスコアはアウト47、イン43で競り合っていた。薬袋には一打差で負け、河村には二打か三打の差で勝ちたかった。もう一人の
パートナーは50以上も叩いており計算にいれる必要はなかった。

富士山麓の大富士ゴルフクラブで催された「飛球会」ゴルフコンペには大日本化工機株式会社傘下の下請け会社の営業マンがそれぞれに思惑を持って参加している。
「飛球会」を主催する工事部長薬袋浩一は飛球会に集う下請け工事会社に対して絶大な影響力を持っている。薬袋の機嫌を損ねたら、まず発注単価で苛められ仕事を廻して貰えなくなる恐れすらあった。
沢村はコンペの事前に画策して薬袋と同じ組に入ることに成功した。
ラウンド6?7時間の間「飛球会」の天皇薬袋と共に過ごすことは今後の営業活動に大きくプラスになることは間違いなかった。だが、油断できない同業の競争相手がやはり、薬袋の組に入ってきていた河村忠夫である。
沢村勝は報国工業の工事担当者としては腕効きでゴルフにも相当の自信を持っていた。しかし、沢村は営業目的を考えて大日本化工機の工事部長薬袋浩一に気に入られることに専念するつもりであった。かと言ってあまり見え透いたこともできない。薬袋に一打差位でついていくことが最もうまい方法である。コンペである以上他社の手前もあり、良い成績をあげて一目おかさなければならない。
沢村がバンカーへ入ったボールを追ってくると河村が後ろへついてきている。サンドエッジう取り出してボールに近づき足場を確保してからスイングした。砂を浅くすくってうまいショットであった。
「ナイスアウト」
薬袋とキャディが声をかけた。そのとき河村のクレームがついた。
「沢村さん、いいショットだったけれど、アドレスのときクラブヘッドを砂につけていましたよ。ツウペナルティーではないですか。キャディーさんそうだろう」
「さあ、私はよく見ていませんでしたが、もしクラブヘッドが砂についていたらツウペナですね」
キャディーは河村の剣幕にあたりさわりのない返事をした。
「河村君、そんな固いことを言わなくてもいいじゃぁないか。私もよく注意していなかったからヘッドが砂にあたっていたかどうか判らないけど、素晴らしいショットだったことは間違いない」
薬袋が鷹揚に横から口をはさんだ。
「部長、でもルールはルールですから厳密にやらなければ、飛球会コンペの権威に係わります」
河村の強い口調に沢村は内心ムッとした。明らかにいいがかりをつけてきたのは目に見えている。昨日今日ゴルフを始めたばかりの素人ではないのだから、バンカーの中でアドレスするときにクラブヘッドを砂につけたりする
筈がない。然し沢村はここで怒っては相手の策に乗ることになる。じっと我慢すべきだと考えた。
「それは,気がつきませんで大変失礼しました。今後はよく注意します。ツウペナで勘弁して下さい」
沢村は素直に謝ったが河村と視線があったとき火花が散った。
最終ホールでは薬袋はスリーオン、河村はツウオン、河村はバンカーでのペナルティーのためにファイブオンであった。
薬袋は最終ホールをボギーで纏めた。沢村はロングパットを決めてダブルボギーで終わった。
河村の順番がきた。河村はバーディを狙ってしきりに芝目を読んでいる。
午後二時を回ると山間のゴルフ場ではグリーンの上に人の影が細長く伸びている。
「沢村さん、駄目じゃぁないか、ライン上に影を作っては。飛球会のゴルフは田舎ゴルフとは違うんだよ」
河村のオクターブの高い声が飛んできた。また言いがかりである。
「申し訳ない」
沢村は逆らうべきではないと考え、更に後ろへ下がった。
河村のパットは狙いすぎてオーバーし、ホールから1mの距離を残した。
結局4パットで同じくダブルボギーにしてしまった。
「ラインに影を落とされて調子が狂ってしまった」
河村はキャディーにパターを渡しながら聞こえよがしにぶつぶつ言っている。
ワンラウンドの成績は薬袋93、沢村95、河村96であった。沢村は結果的には狙った通りの成績に終わったことに満足した。
プラント建設業界には石油精製会社や化成品製造会社等のユーザーを中心にその周辺に専属の下請け企業集団が形成されており、それぞれに他の業者の手出しを許さないテリトリーを持っている。
業界ではこのことを「筋」と呼んでいた。
関東石油についていえば、配管に関する構内常駐指定業者は報国工業であり、関東石油から発注される配管工事は大小を問わず、報国工業へ直接流れるのである。新たに装置を建設する場合には、大手のエンジニアリング会社建設会社に発注され、報国工業は関東石油から推薦されて、これら大手会社の下請けとして工事に従事するのを常とした。この発注形態を「紐つき」という。
このように関東石油から発注される配管工事は、発注経路の如何を問わず報国工業に最終的に流れることも「筋」という。このような「筋」は各石油精製会社、各化成品製造会社毎に出来上がっており、この筋は業者同志相互に了解されている。判りやすくいえば、縄張りでありテリトリーである。
この筋にも二通りの筋がある。
第一の筋はメーカー(石油精製会社、化成品製造会社等)から構内常駐業者に指定され、メーカーから直接仕事を貰う所謂元請け形態の筋である。
第二の筋は大手の建設会社、エンジニアリング会社との密接な取引関係にある場合の筋である。
通常報国工業程度の規模の会社では、大きなプラントの建設工事を直接受注してこなしていくだけの能力がないので、このような場合には、施工専門会社として大手建設会社の下請けとなり、工事の一部を分担施工する。この場合には大手の建設会社の傘下の一員として建設工事に参加するので、たとえ施工場所が同業者の常駐している会社であっても「念達」をしておけば問題になることはない。この念達は同業者に挨拶することであり、この度、客先の○○会社の下請けとしてお宅の常駐会社の構内で仕事をする事になったが、これは今回限りのことであって、決してお宅の縄張りを荒すつもりはないということである。
大手の建設会社、エンジニアリング会社はそれぞれに傘下に専門の施工会社を下請け業者としてかかえ、一つの企業グループを形成している。
報国工業クラスの施工専門の工事会社の場合、第一の筋と第二の筋を持っており、この筋を守って営業を行っているのである。この筋を間違えて、他業者の領域へ口出し手出しをすると,異端者として同業者からも嫌われ、客
先会社からも嫌われ、信義のない会社として信用を落とすことになる。
河村忠夫の所属する東都プラントが関東石油に食指を動かし出したのは、大日本化工機が、関東石油の横浜工場に灯軽油の製造装置を建設したときである。
関東石油の横浜工場は報国工業のテリトリーであることは業界周知の事実であった。この時の建設工事は、工区が三つのブロックに区分され、日本鉄工、大日本化工機、興国建設の大手会社が元請けとして受注し、それぞれに傘下の下請け工事会社を率いて施工した。
報国工業は日本鉄工の下請けとしてこの工事に従事した。報国工業としてはこの時期、仕事が輻輳しており、能力的に日本鉄工からの受注をこなすだけで手一杯であり、大日本化工機や興国建設からの引き合いには応じきれなかった。
東都プラントは大日本化工機傘下の業者として乗り込んできたのである。
工事完了とともに当然のことながら、各業者は引き上げた。東都プラントも引き上げたが、工事施工期間中に関東石油の工務担当者に近づき、構内常駐指定業者にして貰おうと積極的に運動した。担当者をゴルフに連れ出し、
ゴルフの帰りには自ら経営するバー「姫」、キャバレー「パッション」へ繰り込み若い担当者の買収に力を注いだ。
定修工事は毎年一回行われる。報国工業にとって関東石油横浜工場のこの定修工事は年間の工事予定の中でも、もっとも大切な工事として扱われている。工事規模の大きさ、動員する作業員数、短期間の工事であること、危険な作業の伴うことなど、一時も油断の許されない工事である。周到な工事計画と余裕をもった作業編成、細心の注意が盛り込まれた安全対策、整然とした管理体制これらが有機的に補完しあって定修工事は施工される。
特に管理監督の立場にある者相互の密接な意思の疎通が最も大切なことである。客先とか業者とかの垣根を越えてコミュニケーションが円滑に行われることが定修工事の成否を決めると言っても過言ではない。
そこで、定修工事が開始されるに先立って、関東石油と報国工業の担当者は一堂に会して、打ち合わせ会を開催するのが常となっていた。酒食をともにしながらお互いにこれから定修工事という共通の目標に向かって進んでいくという意識を共有するための日本的な儀式である。この定修工事事前打ち合わせが終わりに近づくと三々五々気の合った者同志で二次会、三次会へと流れていく。
沢村も客先の若い担当者を十人程引き連れて部下の尾崎に先導させながらゆきつけのスナックバーへ乗り込んだ。カラオケの置いてあるところが人気があった。歌は決してうまい方ではなかったが、新曲をよく知っており求め
られればどんな曲でも一通りは歌えるということで、沢村は客先の若い人に好かれていた。
「あら、いらっしゃいませ。今日は大勢で」
「ママ、今日は大切なお客さまだからよろしく頼むよ」
席に着くと皆それぞれに好みの曲をリクエストしてマイクを握り自分の声に酔ってくる。
「サーさん、今日はどちらのお客さまですか」
『貴公子』のママが沢村の隣の席へ寄ってきて聞いた。
「関東石油さんだよ」
「関東石油と言えばつい先日東都プラントの河村さんが関東石油の製造の人と『姫』に来てたそうよ。
「名前は」
「栗原さんとか言ってたわ」
「製造の人と何を話したんだろう。商売とは関係なさそうだがね」
『姫』は東都プラントがよく使っているキャバレーである。ここ『貴公子』のママの友人が『姫』に勤めているので沢村は東都プラントの動きを知るためにママを通じて情報の提供を受けている。東都プラントの河村が接待するのだから何か画策しているのであろうか。関東石油製造課の栗原を接待する狙いが判らなかった。工事に対して発注権を持っているわけでもなく、工事の監督権限や検収権を持っているわけでもない。ちょっと理解に苦しむ河村の動きであった。
関東石油の工務担当者と東都プラントの担当者との間は急速に近づいたが構内には報国工業が専属の下請けとしてにらみを効かせており、つけいる隙がなかった。そこへ降って沸いたように発生したのが、松山一朗の労災事故であった。報国工業にとってこの事故は有形無形のダメージを与えることになった。
ことあるごとに関東石油からは、松山一朗の労災事故を例証に持ち出され発注単価を値切る種に使われた。また、東都プラントを競争相手として相見積もりをとると脅かされていた。報国工業では沢村が中心となって防戦に努め東都プラントが関東石油構内へ常駐業者として食い込んでくるのを辛うじて防いでいた。

6.
常泉寺は国鉄鶴見駅から山手へバス通りに沿って徒歩で7分程のところにある。寺の裏手にはスーパーマーケットの白い四階建ての建物が木立の間に見え隠れしている。
「まだ、埋葬許可は下りないのかね。沢村君」
「今、葬儀屋を鶴見警察へ交渉に生かせているのですが、本籍地照会の調査結果の連絡がまだ入らないそうなので、もう少し待って欲しいということです」
「たとえ、身元が判らなくても、仏様を何時までもこのままにしておくことは出来ないだろう。遺族が現れたときにはお気の毒だが、お骨で引き取って頂くことにしようではないか」と喪服に身を包んだ大柄な50歳前後の男が部下の沢村に結論を下すように言った。鼻の下に蓄えたちょび髭がこの男の言葉に重みを加えた。
社長に言われるまでもなく、沢村勝は先刻からやきもきしながら葬儀屋が帰ってくるのを待っていたのである。
寺の本堂には既に白木を組み合わせた祭壇ができあがり、拾い境内には受け付け用のテントも二張り張られている。気のはやい弔問客はぼつぼつ集まりかけている。弔問客と言っても会社関係の客ばかりで、故人の身内の者とか、親しい友人等は一人もいない。一風変わった葬式になりそうである。故人の写真が祭壇に飾られていないのも故人の死が異様のものであったことを物語っている。
故人の俗名は松山一朗といい、推定年齢は26歳であるが、偽名の可能性が強い。
松山一朗が京浜工業地帯の一角にある関東石油横浜工場の構内で石油精製装置の定修工事に従事していて事故死したのは五月七日のことであった。
松山一朗は当日犬山組の作業員として、ベンゾール製造装置の小型タンク内の配管を取り替えるため、マンホールから中へ入り込み作業中倒れたのである。
労災事故の発生とともに関東石油では所轄の鶴見警察署と鶴見労働基準監督署へ通報し、検死の結果事故死と断定されたが、死因については司法解剖の結果により判断されることになり、遺体は直ちに横浜市立大学の付属病院へ移送された。
事故に最初気づいたのは、松山と一緒に作業していた梅林である。
その日は朝からベンゾール製造装置の修理が予定されており、3日前から装置内のベンゾールは抜き取られていた。抜き取った後,残留ガスを追い出すため、窒素ガスを圧入し完全にベンゾールの残留ガスがなくなった頃を見計らってバルブとマンホールが開放されるのが通常のやり方である。マンホールからタンク内に入る前には空気を吹き込んで窒素ガスも追い出してしまうことになっている。酸素欠乏による事故が起きるのを防ぐためである。
松山と梅林は二人で組を組んでベンゾール製造装置の小型タンクに潜り込みタンク内のボルトを外し部品を交換する作業に従事するよう指示されていた。
石油精製工場内での作業は危険物を取り扱っているので、安全対策上色々な制約がある。作業員の動きは独自の判断が許されず必ず石油会社の担当係員の指示に基づいて工事監督が発する作業指示受けてから行動するよう義務づけられている。最も注意を要するのは火気使用である。施工上ガス切断電気溶接は不可欠の作業じあるため、ガス、電気を使うときには細心の注意が要請される。有毒スの発生、酸素欠乏状態の作業環境、高所での作業等危険な場所は至るところにある。その日松山はガス検知検査終了の指示を受けたので、先ず松山がタンクの中へ入った。タンク内中は人一人がやっと潜り込める程の広さであり、無理な姿勢で作と梅林はタンクの中へ入るに先立ち、ガス検知と酸素欠乏状態の有無の検査をして貰って、作業指示オーケ業をするのであまり長い時間入っていることはできない。松山が中へ入って暫くの間、タンクの中からは、スパナでボルトの頭でも叩いているらしくカーン、カーンという金属音が聞こえていた。
梅林はタンクの外で装置についているバルブを取り外す作業に精を出していた。五月の日差しは肉体労働をすると体に汗をにじませた。梅林は時々ヘルメットの顎紐を緩めてヘルメットをあみだにし、汗をぬぐい取った。ボルトが腐って錆びついているので、ボルトの頭にスパナをはめてハンマーで叩くのだが、作業は意外に手間取った。漸くボルトを一本抜いたところで時計を見ると松山がタンクへ入って既に30分は経過している。
「おーい、松山時間だよ。出てこい」とマンホールから中を覗き込んで声をかけたが何の反応もない。
明るい戸外で作業していたのでタンクの中を覗いても、暗くて中が見えない。
「おい、松山どうした。早く出てこい」
大声で梅林が怒鳴ると声がワーンワーンと聞こえるが松山の返事は返ってこない。暫く耳を澄ましてみたが、人の動く気配もない。漸く暗さに目が慣れて上の方を見上げると松山の足が二本垂れ下がっているが動かない。胸騒ぎを覚えた梅林は「誰か来てくれ。松山の様子がおかしい」
と助けを求めた。
梅林の声に近くで作業していた作業員が4?5人駆け寄って来た。どの作業員も汗と油にまみれ、黒く汚く汚れていた。たまたま、パトロール中の関東石油の安全担当者大浦英夫も、騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた。大浦は
ガス検知の担当者だったからもしかすると自分の手落ちで有毒ガスが残っているのに気づかずオーケーの報告をしたのではないかと内心ビクビクしていた。ガス中毒による事故でないことを願っていた。
「どうした」
と大浦が声をかけた。
「松山の様子がおかしい。いくら呼んでも返事をしないのだ」
と答えておいて梅林は同僚を救い出そうとマンホールからタンクの中へ潜り込んだ。
「危ないぞ。ガス検をして貰え」
と言って引き止めようと足を引っ張る者もいたが、梅林は意に介さなかった。狭いタンク内は梅林が入るともう他の者は入れない。梅林が小腰を屈めて上を見ると、松山はタンクの中を通っている4インチほどのパイプの上に腰を下ろして頭を前へ垂れ、うつむんたままの姿で動かないでいる。目の前に垂らしている二本の足に手をかけるとぶらぶらしている。中は狭くて松山のいる場所まで登っていくことができない。梅林は急いでタンクの外へ出て「どうも様子が変だ。死んでいるかもしれない」
と変事を告げたが自分でも声がうわずっているのが判った。
「早く助けろ。外へ引きずり出すんだ。何をボヤボヤしている」
と急を聞いて駆けつけてきた工務課の山本正が顔色を変えて怒鳴った。
山本は梅林と入れ代わりに中へもぐり込むと松山の両足を引っ張って引きずり降ろし、両足をマンホールから外へのぞかせた。外で待機していた作業員達が松山をタンクの外へ引きずりだしてみるとぐったりして死んだように動かない。このような突発的な変事が発生したときには、大勢人は集まってきてガヤガヤ騒ぐが、てきぱきと状況を判断して適切な措置を取れる人は少ない。
「救急車に電話したか」
「早く医者を呼べ」
「医務室の医者はまだ来ないのか」
「酸素ボンベを持ってこい」
と口々に騒いでいる。思い出したように、あたふたと駆けだして行く者もある。皆がてんでに自分の思いつきを実行に移すことになるので混乱を招くことになる。後で判ったことであるが、消防署へはこの事件についての出動要
請が五人の人から別々にあったそうである。五人五様に状況を説明するので混乱は増すばかりである。ある者は死んだといい、或る者は死にそうだといい或る者は怪我をしたという。
酸素を吸入させるつもりか酸素ボンベを担いできた者もいる。何を慌てたのか窒素ボンベの空瓶を運んできた粗忽者もいる。
誰もがまず思いつくことは救急車を呼ぶことである。だが自分で手を下してこの場合もっとも有効な応急手当てをすることができない。人口呼吸をしてみようということに思いつくまでにかなりの時間を徒過していた。
山本はベンゾール製造装置の直接の担当者であった。関東石油では若手の工務課員としては人当たりもよく、仕事もよくできるという評判である。下請けの作業員にも仕事は厳しいが自分達の気持ちをよく理解してくれると人決断も速いが短気で怒りっぽいのが玉に疵だと言われている。
山本は自分の担当するベンゾール製造装置で起こった事故だけに責任を感じて必死で松山を助けたいと思った。
「救急車はまだ来ないのか」
と叫びながら心臓に耳を当ててみると鼓動音が微かに聞こえている。
「まだ生きている。早く医者を」
と山本
「早く上着を脱がせて人口呼吸をしてみろ」
と誰かが叫ぶ声が聞こえた。その声に山本は大事なことを忘れていたぞと臍を噛む思いであった。人口呼吸法としては、口を相手の口へあてがい呼気を直接送りこんでやるのが一番効果的だということは、この事件の後山本が医師から得た知識である。
「医者は何している。まだ来ないのか」医を噛む思いで松山の作業衣をめくり上げ膝を折って人口呼吸を始めた。
「今日は金曜日だから、医務室には看護婦だけしかいない。今博善す病院へ者を迎えに行っているからもうすぐ来るだろう」
ピーポー、ピーポと間の抜けたサイレンを鳴らしながら救急車が到着するのと博善病院から医者が到着るのと殆ど同時であった。
その医者は白衣に身を纏い手慣れた手つきで作業を進めた。松山の右手の脈をとり首をかしげている。心臓に聴診器をあてていたが、やがて目蓋を指先で器用にめくり懐中電灯の光を当てて瞳孔を調べている。
いつしか駆けつけた工務部長、製造部長の顔も群衆の中に認められた。
皆が固唾を飲んで見守る中で駄目だという風に首を振った。医者の一挙手一投足は言葉よりも雄弁である。松山の心臓は完全に止まってしまったようである。
藁にでも縋りたい気持ちで医者の動作を見守っていた山本はがっかりしてその場へ崩れ落ちそうになる気持ちを辛うじて耐えた。心配していたことが遂に起こったというのが実感であった。
救急車は死体を病院へ運ぶこともできず空のままで帰って行った。虚しさだけが残された。
遺体は担架で医務室へ移され、警察の手によって検死を受けることになった。
沢村がこの事故のことを聞いて出先から現場へ駆けつけたときには、松山の遺体は医務室に移され顔には白布がかけられていた。松山という名前は沢村も初めて耳にする名前であった。松山の遺族の住所が判らないので、関東石油の担当者と警察官は沢村が駆けつけるのを待っていた。
それまでの調べでは松山について詳しく知っている者は皆無で同僚の梅林が、松山は一週間程前に犬山組へ臨時の作業員として雇われたらしいということを知っているだけであった。本籍、生年月日、現住所、家族などついて何一つ判っているものはなかった。本人が雇われている犬山組の親方は不在で連絡のとりようがないという。
今回の定修工事の元請け会社である報国工業の責任者沢村勝なら知っていることがあるかもしれないということで、沢村の到着が待たれていたのである。
沢村の周辺は俄に慌ただしくなってきた。
沢村が松山一朗の雇用系統を辿ってみると驚いたことに、六次下請けの作業員であることが判明した。
沢村の勤務する報国工業は石油精製装置の配管工事に関しては日本でもこの業界では名の通った創業30年になる老舗である。報国工業は職人上がりの創業者社長の実直な人柄と信用で関東石油から横浜工場の常駐業者に指定され、ここ15年来関東石油会社横浜工場の構内配管補修工事は一手に引き受けるまでになっていた。
今回の関東石油横浜工場の定修工事は報国工業が元請けとなり、五月一日から装置を止めて、五月末日までに操業を再開できるよう、装置の不良箇所の補修、装置の改造等を完了させなければならないのである。しかも、工期は通常よりも短く、ゴールデンウイークを返上して工事を行い、少しでも装置の止まっている期間を短くしたいという施主の強い要請があった。
昭和46年の5月といえば、ニクソンショック、オイルショック以前の時期であり、日本の高度成長は最盛期である。佐藤内閣の指導のもとに、日本の産業界はめざましい躍進をしていた。生活環境、生活様式も激しく変化し
ていた。
産業界はスケールメリットを狙って設備投資を大胆に行い、人手不足の経済と言われ、各産業界とも人手の確保には苦労していた。報国工業でもご他聞に漏れず、人集めには難儀していた。
工事会社の特質として固有の常用労働者は工事監督と見習いだけであり配管工、電気溶接工は一つの工事毎に職人グループの親方に話をつけて集められる仕組みになっている。
この業界では配管工、電気溶接工ともに、4?5人乃至10人前後のグループが親方と呼ばれるボスの配下にあって工事毎に請け負い契約を結び、工事完了までその工事現場で就労するのである。工事の規模が大きくなると直接職人を集めることは煩瑣になるので、同業者で自分と同等乃至は少し規模の小さい会社へ工事を分割して発注し、これを受けた会社が職人を集めて仕事を進めていくわけである。
このような仕組みの中では、資金力と信用と技術力と監督力さえあれば、相当大きな工事でもこなしていける。
報国工業が今回受注した関東石油横浜工場の定修工事は、毎年手掛けてきているので、報国工業にとっては別段難しい仕事ではなかったが、人手の確保の面と受注単価の面でかなり厳しいやりくりを余儀なくされていた。出入りの業者を傘下に相当数抱えていたので、分野分野に応じて、配管、電気溶接、機器据え付け、土木、塗装、保温、運搬というふうにそれぞれの専門業者に発注してあとはこれらの業者を組織化し、報国工業の監督のもとに工程に合わせて仕事を進めればよいのである。
だが、問題は出入り業者に職人を集める力が弱くなってきていることであった。時世というものである。人手不足の時代で、腕のよい職人は引っ張りだこであり、彼らは10円でも20円でも賃率の良い仕事へ好んで移動して
行く。雇主の迷惑など一顧だにしない。昨日まで来ていた職人が今日は顔をみせないので、親方が自宅を訪ねてみると、別の業者の所で働いているというようなことは珍しくない。
定修工事のように短期間で多数の人間を集めて、一気に片づけてしまわなければならないような工事では、職人の手間代を世間相場の五割増しから倍近くもはずまないと必要な職人の頭数を揃えることができない。腕の良い職人と腕の悪い職人とでは、仕事の能率が極端な場合、二倍も三倍も違ってくる。
報国工業では世間相場よりもかなり高い水準で、業者に発注し、質の良い職人が集められるよう特に配慮していた。沢村が松山一朗の雇用経路を辿ってみると、報国工業が熱交換機のチューブ取り替え工事等機器関係の仕事を一括発注した山中工業は更にその仕事を分割して松野組と葦原機工に発注していた。葦原機工は更に海野組に発注し、海野組は極東工業を通じて犬山組に発注していたのである。松山一朗が就労するまでには、実に六段階の経路を経ていたわけである。しかも、請け負い契約書が整備されていたのは、葦原機工までで、海野組、極東工業、犬山組の段階になると契約書はおろか、作業員の名簿や賃金台帳すら整備されていないピンハネ会社であった。調査の過程で一寸気になったのは、犬山組が東都プラント専門に人夫出しをしているブローカーであるということである。
沢村の懸命な調査で松山一朗の手に渡っていた賃金は、報国工業が山中工業に対して発注したときの基準単価の三分の一程度になっていることが判った。人手不足の時代に短期間に500人近い労働者を集めるためには、いかに老舗で名が通っているとはいえ、報国工業一社だけで、直傭の作業員を動員することは不可能である。そこで請け負いという形式によって必要な人員を集めることになる。
報国工業は工事部長の沢村が統括責任者となって、今回の定修工事を五つの工区に区分して、金山工務店、京浜工業、山中工業、宮守土建、横山管工にそれぞれの専門に応じた発注をしたのである。従って報国工業としては、直接工事を発注した五社の工事責任者に作業指示をすればいくつかの経路を経て末端の作業員に指示が流れる仕組みになっているのである。
通常、金山工務店、京浜工業、山中工務店、宮守土建、横山管工程度の規模の会社であれば、直傭の配管工、溶接工、仕上げ工、鳶工、土木工を30?40人は抱えており、出入りの親方も14?15人はいるので、500人程度の作業員を集めるには5?6社に発注すれば動員可能であった。ところが、今回松山の事故があって判明したように各業者とも人手が十分確保できなかったため、次から次へと下請け契約を重ねて六次下請けにまで及ぶ異常な形になっていた。間へ業者が入るごとに末端の作業員に渡る手間代はピンハネされて安くなっていく。電話一本と机一つだけの人寄せブローカーが雨後の竹の子の如く発生し暗躍することになり、作業員の技能の程度は度外視され、頭数だけが揃えられる。
沢村は報国工業の工事部長として、今回の関東石油横浜工場の定修工事については全責任を委ねられている。松山一朗の死亡事故が発生したからといって今回の定修工事を一日でも遅らせることは出来ない。納期は厳守しなければならない。
沢村は関東石油の定修工事を担当している主だった部下を集めて、安全作業に充分留意するよう訓示をするとともに、松山一朗の事故の処理は沢村が引き受けることを表明した。現場に対しては今回の事故で作業員の士気が低下しないよう空気を入れ、工事は納期内に完工するように特に指示した。
沢村が知り得た情報を持って関東石油に報告に行くと工場長室に工務部長製造部長、総務部長が集まってきた。ここで一番問題となったのは松山一朗の身元が判らないことである。
犬山組に残されている記録にはドヤ街にある簡易旅館福寿荘が現住所になっており、年齢26才氏名松山一朗ということだけが書かれているに過ぎない。同僚の梅林も出身地は大阪方面らしいというだけで、個人的な付き合いは全くなく、一週間程前に犬山組へ連れてこられた松山と一緒に仕事をすることになっただけであるから、何もわからないという。梅林が松山の出身地は大阪方面だとする根拠は、関西弁が会話の中に混じっていたというだけのことである。関東石油の幹部は身元のはっきりしない者が報国工業の指揮下に入って、作業していたことを取り上げて、報国工業と沢村の責任を追求した。沢村はただ平謝りに謝る他に術がなかった。
警察でも松山の身元が判らないことに対しては異常な関心を示した。
調査に来ていた刑事が「この仏は大きな山を踏んでいるかもしれんな」と洩らしたのを沢村は耳にした。
警察では府中市の三億円強奪事件が未解決なので松山の死亡を三億円事件の犯人と関係ないだろうかという観点からチェックしているようであった。
松山一朗の遺体は身元が確認されないままで、横浜市立大学の付属病院へ移送された。司法解剖するためである。身元の調査は鶴見警察で行うことになった。
身元の確認ができないままに、遺体を何時までも放っておくわけにもいかず、報国工業の手で葬式を営むことになった。司法解剖が終わったら報国工業が責任をもって遺体を預かり、法定限度一杯預かってそれでも且つ身元が判明せず、遺族が現れない時は、火葬にすることで当座の遺体の処理については結論が出された。
元請け会社である報国工業の指揮下で発生した事故なので、遺体の引き取り手がない以上元請け会社の責任において葬儀を営むことが色々な意味で問題が少ないだろうと沢村が判断し、社長の決断を得た結果である。本来であれば犬山組と雇用契約のある松山の公務上での事故死であるから、犬山組の責任において、遺体の処理が行われる性質のものであるが、犬山組には葬儀を営むだけの資力もないし暴力団に繋がりのありそうな気配が察知されたので、関東石油に迷惑がかかることを虞れたからである。いずれ遺族が現れるとしても遺骨を遺族の手に確実に渡すためには、報国工業で供養し保管するのが最善の方法と判断された。
鶴見警察では松山の身元を確認するため、松山の宿泊先である福寿荘へ係員を派遣し経営者に松山についての情報をただしてみたが、一週間程前の4月30日に投宿し、松山一朗26才と称していたということしか判らなかった。松山の宿泊していた部屋に松山の持ち物として残されていた物はスーツケース一つに詰め込まれていた背広一着と下着類5枚、セーター1枚だけであり、あとは洗面器に投げ込まれていたタオル、歯ぶらし、石鹸、安全剃刀があるだけであった。持ち物の中には身元を知る手掛かりとなるものは何一つなかった。背広にも名前の縫い取りはしてなかった。
ただ手掛かりになるかもしれないと思われるものは、スーツケースに入っていた一冊の手帳である。この手帳は神戸銀行製のものであり、手帳の中には前から五ページほどにわたって達筆で最近流行の歌謡曲の歌詞が五曲書き抜かれていた。そして手帳の裏表紙に印刷されているカレンダーには1月17日、5月26日、7月3日、7月22日の日付に○印が付けられていた。
松山は几帳面な性格らしく、スーツケースにはいっていた下着類は綺麗に洗濯してきちんと畳んで入れられていた。布団も丁寧に畳んであり、灰皿の中には吸殻も残っていなかった。
鶴見警察では松山から採取した指紋を警視庁へ送り、犯罪者台帳の指紋と照合することを依頼した。同時に兵庫県警と大阪府警へも指紋を送ると共に松山一朗名で登録されている前科者台帳と戸籍の調査を依頼した。
沢村は鶴見警察へとりありずの挨拶に行ったときに以上のような手を警察が打っていることを聞き出してきた。
松山一朗の遺体は葬儀屋の手によって翌5月8日に常泉寺へ帰ってきた。
形ばかりの通夜が遺族の参列しないまま、報国工業が施主となって寂しくとりおこなわれ、明けて5月9日午後3時より告別式と定められた。
司法解剖の結果は、外傷はなく酸素欠乏による窒息死というのが司法医の所見であった。
告別式の時間が迫ってきたが、警察の必死の調査にもかかわらず松山一朗の身元は依然として確認されない。告別式に先立ち葬儀屋が警察へ埋葬許可を貰いにいったが松山一朗の身元が確認されていないのでなかなか許可が下りず沢村はじめ関係者を慌てさせた。
常泉寺では住職が松山一朗の祭壇に向かってお経を上げはじめた。
山本正にはお経の声が一際もの悲しく聞こえた。
広いお堂には30名ばかり、喪服を着た弔問客が神妙な顔をして座っている。その中には関東石油の幹部の顔もあった。
境内にも34?5人の参会者が整列して写真の飾ってない祭壇に向かって次々に焼香を始めた。一般の葬式と違って女と子供の姿が見えず男ばかりが集まってきている。境内には花環が10本程飾られているが、報国工業、葦原機工、海野組、極東工業の会社名がみえるだけで、あとはそれぞれの会社の従業員一同という名で飾られている。関東石油と犬山組の花環が出ていないのは奇異な感じを参会者に与えた。とりわけ沢村と山本は関東石油の花環がないのを複雑な気持ちで眺めた。
「やっと埋葬許可が貰えました。三時の出棺にはどうにか間に合いました」
警察へ交渉に行っていた葬儀屋が鼻の頭の汗を拭きながら帰ってきた。
関東工業、報国工業、葦原機工からはそれぞれ20名くらいずつ、この松山一朗の葬儀に参列したが、海野組、極東工業からは代表者が焼香にきただ犬山組からは松山と一緒に仕事をしていた梅林が音頭をとって集めた職人数名だけであった。
ったらしく、作業服姿の職人が2?3人梅林とともに参列していた。参列者の注目をひいたのは両足に包帯をぐるぐる巻き、車椅子に座って威勢のいい若者達に取り巻かれている50年配の小柄な男である。この男が犬山組の親方犬山勇次である。犬山は読経も終わりに近づき出棺があと10分後に迫った頃、ドヤドヤとやってきてサッサッと引き上げて行った。
その時沢村は受け付け係として弔問客の名刺やら香典の整理をしていた。
トラックが常泉寺の境内に乗り入れられたとみるとドヤドヤと作業服姿の若い男達が荷台からとびおりた。
屈強な若者達は車椅子を荷台から取り出すとトラックの横に置き、助手席側の扉を開けた。そこには小柄な男が座っており、若者達に抱き抱えられて車椅子に移された。その男は若者達に守られるようにして受け付けまでくる
とやおら懐から香典袋を取り出して机の上に置いた。見ると三千円の札がむきだしで添えられていた。
「ご苦労さまです。どうかご署名を」
沢村がサインペンを差し出すと、犬山はジロリと沢村へ一瞥を送り金釘流の署名をした。
沢村は犬山組が今後どのような動きをするか気になった。犬山勇次は若者達を従えて、車椅子のまま仏前で焼香を済ませると不遜な態度で帰って行った。それは疾風の如く現れ、疾風の如く去っていった。
参会者があっけにとられ、静寂のあとにざわめきが起こったとき、今度は二人連れの若い男がカメラをぶち下げて受け付けへつかつかと歩み寄った。
名刺には日本新聞社社会部桑山由雄と印刷されている。
「鶴見署で聞いてきたのですが、引き取り手の無い仏の葬式というのはここですか。一寸取材したいので、葬式の責任者に会わせてくれませんか」と言う。沢村はまずいことになったなと思った。
日本新聞社は大手の新聞社であり、その社会面の記事は派手に取り扱うことで定評があったからである。関東石油では一ヵ月前にも構内の常駐清掃業者がタンク内の清掃作業中に死亡事故を起こしていたから、関東石油の安全管理体制にメスを入れた記事にされることは十二分に予想された。しかも今回の事故では引き取り手が判らないという俗受けのする記事としては恰好の材料なのである。
沢村としては関東石油の生産第一主義の管理体制に対しては常々改善方を申し入れていたし、今回の松山一朗の事故に関しても、関東石油の作業指示の仕方に過失があると考えていたので、そのこと自体を記事にされることは今後の安全管理体制の改善にとっては結構なことである。
しかし関東石油の管理体制に問題があるとはいえ、今回の事故が報国工業の配下の業者のもとで起こったものであるだけに、困った問題なのである。
あまり派手に扱われると報国工業の商売にからんでくるからである。
おそらく関東石油では自社の管理体制に問題のあったことには頬かぶりして報国工業に今回の事故の責任を転嫁してくることは目に見えていた。
沢村が工場長室へ松山一朗の事故が発生した直後、謝りに行ったときにも関東石油の幹部の言動には、そのことを予想させるに充分な兆候がみられたし、今日の葬儀に関東石油から花環が贈られていないという事実が彼の予想を裏付けている。
今回の事故の責任が関東工業にあるということになれば、構内常駐業者の指定を取り消されることさえ予想される。
報国工業に替わって構内常駐業者の指定を受けようと虎視眈々として狙っている同業者は沢山ある。特に東都プラントの動きには注意しなければならなかった。今回の事故は大騒ぎにならずに秘かに処理して貰いたいというのが沢村の偽らざる心境である。
「私が責任者の沢村ですが」
「事故の原因は何だと考えますか」
「まだ調査が終わっていないのでよく判りません」
「関東石油では4月の3日にも同じような事故を起こしていますね。同じような事故が続いているのは、関東石油の安全管理体制に何か根本的な欠陥がありそうに思えますが、あなたはどう考えられますか」
案の定、沢村が予想していた質問を発してきた。
「私共は関東石油さんから御仕事を戴いている立場ですから、関東石油さんの安全管理体制に欠陥があるのかないのか軽々しく意見を申し上げることは差し控えたいと思います。一般論でよければ,私なりの見解は持っております」
「大企業の横暴というやつですか。まぁいいでしょう。その一般論を聞かせて下さい」
「私どもは工事会社ですから、関東石油さんに限らず、他の会社からも仕事を戴いて施工をしますが、安全対策にかける予算が少ないように思います。
お客さんの立場に立てば施工上の安全対策費は事故さえ起こらなければ少ない方がいいに決まっています。安全対策費は付加価値を産みだす投資とはいえませんからね」
沢村は煙草を取り出して火をつけながら続けた。
「例えば、私どもでも架台の上にパイプを乗せて配管する場合は非常に多いのですが、高所作業なので足場が必要になります。安全確保の観点から言えば手すりをつけて足場の下には安全ネットを張れば万全でしょう。その上作業員には安全ベルトをつけさせます。ところが工事が終われば、足場は取り払ってしまうのですから、投資効率は非常に悪くなるわけです。できることなら最小限の費用で済ませたいと思うのは人情です」
「足場が不完全だったことが今回の事故の原因だということですか」
競争が行われれば採算をあげていくためには、安全対策費のようなものは最初に槍玉にあげられます」
沢村は煙草の吸殻を灰皿へ捨てて湯飲みに残っている冷えたお茶をすすった。
「人手不足のために、技能工が不足し素人が現場へきて一人前の顔をして作業しているのも、安全上は大きな問題を抱えています。このことは客先の会社についても言えることだと思います。会社の規模がどんどん大きくなり、
設備も最新鋭のものにどんどん変わっていきますが、技術者や技能者の質、量ともにこれに追いついていくことができない。それでも採算をあげていくためには、未経験の技術者でも新鋭の設備に配置せざるをえない。特に定修工事のような場合、経験不足の技術者が工事を担当すると無知なるが故の危険な作業指示を業者に与える。これを受ける業者の作業員も未熟連工が多いので危険な作業指示に対しても疑問を抱かず指示された通りの作業をして事故を起こす」
頷きながら沢村の話を聞いていた桑山由雄が更に鋭い質問を浴びせかけてくる。
「関東石油の工事発注額に占める安全対策費は何パーセントぐらいだと思いますか」
「私どもでは判りません」
沢村のところへ新聞記者が取材にきているということを聞きつけたとみえて関東石油の総務課長が血相を変えて本堂から飛んできた。
「今、取り込み中で出棺も間近だから取材は遠慮して貰いたい。沢村さんも駄目じゃぁないか、勝ってに取材に応じたりしては」
関東石油の総務課長は顔半分をひくひくさせながら桑山と沢村に食ってかかった。
「あなたが、関東石油の広報担当者ですか。よいところへ来られた。関東石油では今回の事故に対してどのような責任をとろうと考えていますか。聞け
ば遺体の引き取り手がないというではありませんか」
桑山は少しも怯む様子をみせない。
「とにかく、今は取り込み中だから帰ってもらえませんか。ノーコメントです」
暫く総務課長と桑山の間で帰れ帰らぬという押し問答が繰り返されたが霊柩車が到着して出棺の時刻となったので、桑山は取材を断念したのか、意外に素直に引き上げて行った。
このようにして前代未聞の葬儀は終わった。
野辺の送りに火葬場まで同行した沢村は梅林にお骨を拾わせて、常泉寺に持ち帰り遺族の現れるまで供養して貰うよう住職に依頼した。慌ただしい一日は終わった。

7.
翌日の新聞には『遺体の引き取り手のない葬式・・・ここにも大企業の犠牲』という見出しで松山一朗の事故と葬儀の模様が報道された。
記事は関東石油会社の安全管理体制にメスを入れるという論調で一貫しており、大企業の発展はこうした下請け企業の作業員の犠牲の上に成り立っているという論旨であった。日本新聞に記事が載った日、報国工業の沢村に警察から呼び出しがあった。
国道沿いに建っている古ぼけた鶴見警察署の長谷部刑事を沢村が訪ねていくと刑事は椅子を勧めた。隣りの机ではパジャマを着て手錠をかけられた背0の高い男が中年の刑事に尋問されていた。話の様子では空き巣狙いが捕まっ00て取り調べを受けているようである。
「報国工業の沢村でございます」
沢村が名刺を出すと長谷部刑事も机の引き出しを開けて、名刺を取り出した。
「長谷部です。ほう、重役さんですか。まあかけて下さい」
「失礼します」
沢村が腰を下ろすと刑事は世間話もないままに用件に入った。
「早速ですが、先日の松山一朗の事故死について、お聞きしたいので来て貰いました。先ず、報国工業は関東石油会社とどういう間柄の会社ですか」
「私どもは関東石油さんより,仕事を戴いて工事する配管工事の会社です。
関東石油さんの下請け工事業者です」
「報国工業に関東石油の資本は入っていますか」
「入っておりません」
「被害者の松山一朗はあなたの会社の従業員ですか」
「いいえ」
「それでは、松山一朗が従事していた仕事があなたの会社とどういう関係にあるのか説明して下さい」
「事故の発生した工事はベンゾール製造装置定修工事です。私どもは関東石油会社さんより定修工事として五つのプロックに分けて注文を戴いておりますが、ベンゾールの定修工事はその中の一つです。今回のベンゾール製造装置の定修工事は私どもが元請け会社となって山中工業に発注しました。山中工業は仕上げや機器の据え付けには定評のある会社です。私どもでは請け負い契約ですからそこから先どのような経路を辿って松山一朗のところまで流0れていったかは判らないわけです」
「山中工業とお宅の会社との間には請け負い契約が結ばれているということですね。その契約書を見せて下さい」
「そうです。契約書はこれです」
沢村は予め用意してきたベンゾール製造装置定修工事についての注文書と請け書の写しを鞄の中から取り出して長谷部刑事に渡した。この注文書も事故発生後、関東石油で慌てて作成し報国工業へ届けられたものであった。
「山中工業が更にその仕事を次の業者へ発注したかどうかについては知っていますか」
「はい、正直申し上げて、今回の事故が発生するまで知りませんでした。請け負い契約の本旨から言って私どもでは山中工業さんがどのような施工方法でやられようと仕様通りの工事を納期までに完了して納めて戴ければよいからです。勿論元請け会社ですから山中工業さんの作業についての監督は私どもでやりますが、山中工業さんが自分のところの社員の手を使ってやろうと0或いは下請け作業員の手を使ってやろうとそれに対しては口を挟むことはありません」
「それでは山中工業の発注先は判らないということですか」
「今回の事故が発生してから、仕事の流れを私なりに調べてみました。それで初めて判ったのですが、山中工業さんは更に仕事を二つの工区に分割して松野組と葦原機工に発注しております。海野組は極東工業を通して犬山組を使っていたことが判りました。松山一朗は犬山組の臨時工でした」
「すると関東石油、報国工業、山中工業、葦原機工、海野組、極東工業、犬山組という六段階があるということですね
「はあ、そういうことです」
「随分多くの手を通ったものですね。私も孫受け、曾孫受けというところまでは知っていたが、六次下請けというのは初めてだね」
「どうも申し訳ありません」
「何もあなたが謝る必要はないんですよ。沢村さん。事実を正直に話して貰えればいいんですから」
長谷部刑事はハイライトの箱から一本取り出して、口にくわえながら言った。沢村は慌ててポケットの中からライターをまさぐりだして火をつけてやった。
彼は中小企業の経営者として役人を怒らせたら、どんなに怖いかということを肌身にしみて知っているので、感情を害さないように言葉を選択しながら応答した。
「工事の発注形態については判りました。ところで、作業指示の流れといいますか、末端の作業員が仕事をするまでの流れを説明して下さい」
「客先から工事仕様書というものを頂ますので私どもでは仕様書に基づいて作業を進めます。私どもが下請け業者を使う場合にも工事仕様書を与えて仕様書に基づいた仕事をさせます。勿論仕様書の他に施工図、詳細図面、材料表、工程表といったものもありますので、これらの資料を基にして作業を進めます」
「それでは松山一朗が当日タンクの中に入って作業をするということも仕様書の中に書かれているわけですか」
「そんな細かなことまでは書かれていません」
「私が聞きたいのは一般論ではなくて、当日の松山一朗の作業は誰の指示によってなされたかという具体的なことです」
「松山一朗にタンクへ入ってフランジを止めてあるボルトを外せという指示は元請けである私どもの監督がすることになります」
「関東石油の係員は全然関与しないのですか」
「具体的には松山一朗を名指してタンクへ入ってポルトを外す仕事をせよという指示は私どもの監督がしますが、タンクへ入ってよいかどうかの指示は関東石油の担当者が私どもの監督に対して行います。何しろ有毒ガスがあったり、可燃物があったり、酸欠状態があったりしますので、関東石油の担当者より指示がなければ、作業員をタンクの中へいれることはありません。そういう意味では関東石油の担当者の指示によるということになります」
「タンクの中の状態が危険な状態であるかどうかの判断は関東石油の係員がするということですか」
「そうです。私どもは施工業者ですから装置の中にどんな物が入っているか判りません。ですからバルブの開閉とかマンホールの開放とか装置についているスイッチ操作とか装置の運転に関することは一切、業者は行いません。
仮に命令されて行う場合でも、必ず関東石油の係員の立ち会いのもとに行います。特に定修工事のように生きている工場設備を相手とするときには、作業計画上どのタンクのどのバルブを取り替えるということが判っていても業者独自の判断で着手することはありません。必ず着手前に関東石油の係員の着手オーケーの確認をとってからでなければ、たとえボルト一本でも緩めることはできません」
「松山がベンゾールタンクへ入るについては安全の確認は行われましたか」
「はい。タンクの中へ入って作業するようなときには必ず、安全担当の関東石油の社員にガス検知をして貰って安全な状態であることを確認してから、
関東石油の担当係員の作業着手命令を得た上で作業を進めます」
「当日ベンゾールタンクへ入ることを指示した、関東石油の担当者は誰ですか」
「工務課の山本正さんです」
「ガス検知をした人は誰ですか」
「安全課の大浦英夫さんと矢口弘さんです」
「山本正は誰の指示を受けて命令しましたか」
「関東石油の職制からすれば、工務課長の林田さんだと思われますが、確認0はしておりません」
この後関東石油から報国工業に対して、出されている注文書、工事仕様書,工程表、請け負い基本契約書等について調書を取られた。
沢村は二時間に渡る長谷部刑事の取り調べを終えて解放された。
警察署を出たときどっと疲れが頭から首筋を通って体中に流れ渡ったよう
に感じた。沢村は警察では関東石油の過失責任を問題にしているなという感触を得た。長谷部刑事の取り調べの態度から推すと、報国工業に対しては過失責任を問題にしていないようなのでほっとした。
沢村が帰社するのを待ちかねていたかのように、関東石油の総務部長から呼び出しの電話がかかってきた。沢村が関東石油の工場長室へ案内されると工場長を取り巻いて総務部長と工務部長が深刻な顔をして座っていた。
部屋の黒板には今まで善後策について協議していたらしく、当日の事故発生状況の図解と定修工事中の作業管理組織図が書かれていた。
「このたびは、大変ご迷惑をかけてしまいまして申し訳ございません」
「沢村さん。警察ではどのようなことを聞かれましたか」
挨拶もそこそこに総務部長が口を開いた。度のきつい眼鏡がキラリと光り眼鏡のガラスの渦巻きが沢村の目に映った。沢村は警察での供述についてかいつまんで説明した。
「沢村さん、うちの山本の作業着手許可があったから、松山に作業指示を与えたと答えたのですか。それは早まったことをしてくれましたね」
総務部長が工場長の顔をチラリと見てから沢村の方に向き直って言った。
「はい。いけなかったでしょうか」
沢村はとぼけながら、それでも恐縮した風を装って応答した。
「もっと慎重に考えて下さればよかったのに。よく調べてからお返事しますとか何とか答えておいて我々に相談してくれればよかったのに」
非難がましい口調で総務部長が言った。度のきつい眼鏡の奥にある目の表情は判らなかった。
「はあ、申し訳ありません。何しろ警察から取り調べられるのは生まれて初めてだったものですから。ありのままを話してきました。御迷惑をかけることになったのでしょうか」
「君、あんたの配下の業者が死亡事故を起こしたんだよ。関東石油の業者ならそれぐらい頭を廻してもよさそうなものを」
工務部長が苦虫を噛み潰したような顔で甲高い声を上げた。
「沢村君は頭が廻るからな」
それまで黙っていた工場長がぽつりと言った。
沢村は案の定、きたなと思った。
工場長、総務部長、工務部長の魂胆は見え透いている。今回の事故については、関東石油では全然関知するところではない。業者の報国工業が、元請けの責任において、独断で作業指示を発したということにしたかったのである。関東石油の過失を取り繕って全責任を報国工業に転嫁し、下請け業者の責任においてこの事故を処理しようと考えていたのは明白である。
「沢村君は頭が廻るからな」という工場長の言葉はそのことう裏付けるような発言であると沢村は理解した。沢村は工場長の言をかりれば頭の廻る男であった。報国工業の切れ者として同業者からも恐れられ、客先からは信頼される反面、警戒されてもいた。だが、巧みな話術とこまめに体を動かし仕事のためには、昼夜構わず動き廻る行動力は客先から重宝がられていた。
沢村は事故発生とともに、報国工業にダメージの少ない処理方法について頭をめぐらせた。一種の動物的な勘が働いた。一番最初に心配したのは、松山の遺体をどうするかということよりも、報国工業の監督が独断でタンクの
中へ入るように松山に指示したのではないかということであった。常々部下達には関東石油の係員の許可がなければ、ボルト一本でも緩めるなと言い渡してあるので、まさかとは思ったが、一番気にかかるところであった。
事故の第一報を沢村が耳にしたとき、沢村が第一にしたことは、腹心の尾崎に命じて作業指示の流れを具体的に調べさせたことである。次に東都プラントの謀略でないかというのも気になるところであった。
松山の葬儀に関東石油として花環をだすべきか出さざるべきかについて総務部長と工務部長でもめているらしいという情報をキャッチしたとき沢村は覚悟した。関東石油が責任を転嫁してきたときには断固としてこれを拒否し
なければならない。しかも後に尾をひかない巧妙な方法で。たとえ、沢村自身の立場が苦しくなろうとも、責任を転嫁されることだけは報国工業の経営者として免れなければならないと思った。もし客先大事とばかり、そのよう
な言い分を受け入れたときに待ち構えているのは、そのような重大事故を起こした業者は出入り禁止にすべきであるという声が出てくるのは火を見るより明らかであった。
それが組織の論理であり、大企業に勤めるサラリーマンの保身の論理なのである。言い含める時には、必ず面倒をみるからここは泣いてくれないかと言っておきながら、承知させてしまうと手の掌をかえしたように冷たくなる
のである。沢村は下請け業者の弱さと大企業の冷酷非情さというものを長年の経験を通して肌で感じ取っていた。
関東石油の幹部から因果を含められようと厭味を言われようと拒否すべきものは拒否しなければならない。
今回のケースでは沢村にとって、また報国工業にとってラッキーだったのは、関東石油から手が廻る前に、沢村が警察の取り調べを受け事実関係を証言したことである。
沢村はただひたすらバッタのようにお辞儀をして、仏頂面をした総務部長工務部長、苦虫を噛み潰したような顔をしている工場長に別れを告げて帰宅した。
『あなたがたは管理者だと言って威張っているが所詮はサラリーマンだ。保身の術だけ考えて小田原評定している間にこちらは生活の智慧で先手をとらせて貰いましたよ』と沢村は言葉にならない言葉を胸の中で繰り返しながら頭を下げていた。彼は葬儀を報国工業の責任において実施しようと決定した社長の見通しのよい決断に人知れず感謝した。それはオーナーだからこそできる意思決定であった。
関東石油内部で、今回の事故の事後処理について議論百出している間に、犬山組の画策を封じて素早く野辺の送りを済ませてしまった手際の良さが面倒な問題の発生するのを防止した。
葬儀の後犬山組から関東石油へ数回、嫌がらせの電話があったり暴力団らしいやくざ者が徒党を組んで関東石油へ金をゆすりに来たが報国工業に対しては何もなかった。
事故発生から二週間ほど経って今回の事故について関東石油の係員山本正が業務上過失致死の容疑で起訴されたことを沢村は知った。このニュースを聞いてから間もなく山本が退職するという噂が流れた。

8.
山本正は松山一朗の労災事故死により、業務過失致死の容疑で基礎されてから会社の冷たさを知った。関東石油では会社の幹部に責任が及ぶのをくい止めようと画策した。その画策が見え透いた露骨なものであるだけに山本はやりばのない憤りを感じた。
山本正は報国工業の沢村が出た後、入れ代わるようにして工場室へ呼ばれた。
「山本君、御苦労様。そこへかけたまえ」
総務部長が折り畳み椅子を指しながら言った。度のきつい眼鏡のガラスが
渦巻きのように光った。
「はい。今回は私の監督不十分のため会社にご迷惑をかけて申し訳ありませ
んでした」
山本は深々と頭を下げてから腰を下ろした。
「今、いろいろ対策について考えていたところだが、君は今回の事故の原因
を何だと思うかね」
「定修工事の作業工程に無理があったことが根本的な原因だと思います」
山本は工務部長の顔をみながら答えた。工務部長は山本の視線をそらすよ
うに下を向いた。山本は工務部長のそんな態度を見ながら、定修工事開始前
に行われた工程会議のことを思い出していた。
その工程会議では製造部と工務部とで、工期をめぐって、大論争が行われ
た。定修工事をできるだけ短期間で切り上げようと主張する製造部と工期を
長くしたいとする工務部との間の論争である。製造部は製造計画に基づいて
一日でも早く定修工事を切り上げて貰いたいと主張し、一日工期が延びると
一億円売り上げが減ると説いた。
これに対し工務部では安全確保上、製造部で主張している30日の工期で
は無理で、少なくとも35日は必要であると言い張った。生きている設備の
一部を止めて修理をするので、有毒ガスを完全にパージして安全な環境のも
とで工事を進めるためには、製造部のいうように五日間工期を短縮すること
は、危険であると主張した。限られた予算の中で工期を五日間短縮すること
は、作業能率も低下するし事故の発生しない保証ができないとまで言った。
工務部の中でも山本は特に強く35日説を主張した。だが、生産第一主義の
製造部が安全第一主義の工務部の意見を押し切った。
有毒ガスのパージには窒素をふんだんに使い、ガス検知と酸素濃度検定を
十二分に行えば、安全作業は確保できるという製造部の説得に首を縦に振っ
たのが工務部長であった。
「君はまだそんなことを言っているのかね。工程会議で議論をして、その問
題は充分潰した筈ではなかったのかね」
製造部長が工場長の顔を窺うようにしながら言い放った。
「はい。私は工程会議の席上で事故の起こらない保証はできないとまで言っ
た筈です。私の虞れていた通り事故が起こりました。しかも酸素欠乏状態で
の死亡事故です」
「君、問題を混同してはいかんよ。有毒ガスによる事故ではなく、酸素欠乏
事故なんだよ。有毒ガスは完全にパージされているんだ。酸素濃度検定は充
分やったのかね」
「作業着手前の酸素濃度検定ではオーケーでした」
「そうだろう。だから、作業計画に無理があったことにはならないんだ」
製造部長は自分に言い聞かせるような言い方をした。
「しかし・・・」
「どうでしょう。事故の原因を追求するのは、調査委員会を設けて究明する
ことになっているので、そちらの調査結果を待つということにしては。当面
大切なことは、警察の取り調べに対して、会社の見解を統一しておくことと
マスコミ対策だと思いますが」
工程会議での議論が蒸し返されるのをいち早く防止しようとする意思をあ
らわにして総務部長が言った。
関東石油会社は旧財閥系の山王化学の子会社で百パーセントの資本が山王
化学から出資されている。関東石油の社長は山王化学から派遣されており、
横浜工場の工場長、製造部長も山王化学出身である。横浜工場の工務部長と
総務部長は関東石油固有の社員であり、工場長や製造部長に対しては公式の
場では意見の開陳にも遠慮したところが窺える。もともと関東石油は岩原交
通の岩原一誠が自社の車両の燃料を自給しようとの考えから出発した会社で
ある。岩原が経営していた頃は京浜石油と称しており、会社の規模も現在と
は比較にならないほど小さいものであった。規模が小さくても個人の資本で
は装置産業を維持してゆくことは難しかった。
日本の産業が高度成長の時代を迎え、設備の巨大化が進むにつれ岩原一誠
は個人で石油会社を経営していくことの非を知り、採算の上がらぬまま痛手
が大きくなる前に手を引いた方が得策であると判断し、京浜石油を売りにだ
したのである。
時は産業界の資本の系列化が進んでいるときでもあり、自己の系列会社に
石油精製部門を持たない山王グループが山王化学の子会社として京浜石油を
買収し関東石油と社名を変更した。
首脳陣を山王化学から送り込むとともに、装置産業にふさわしい大型の設
備をどんどん造って現在の規模にまで膨脹したのである。山王化学が京浜石
油を買収したときには、工場は横浜工場だけであった。山王化学は間もなく
水島に最新鋭の精油所を建設し関東石油水島工場とした。
水島工場の建設には横浜工場から約半数の技術陣を転勤させた。水島工場
の建設にあたっては日本有数のエンジニアリング会社大日本化工機が設計施
工した。
現在の横浜工場の工場長も製造部長も、山王化学による買収後、三代目で
あり、総務部長と工務部長は京浜石油生え抜きの社員で、買収されたときに
は何れも係長であった。京浜石油が山王化学に買収されたときの工場長は、
関東石油本社の技術部長に収まって取締役の末席に名を連ねている。
総務部長も、工務部長も山王化学出身の工場長と製造部長の顔色を窺いな
がら自分も大きな失敗さえなければ、取締役の末席ぐらいにはなれるのでは
なかろうかという期待を持っている。それだけに陰では上に調子よく下には
冷酷だという声がささやかれている。
山王化学の人事政策は巧妙である。工場長、製造部長という要職は山王化
学よりの派遣社員で抑えるが総務部長、工務部長は京浜石油出身者に委ね重
役へ登用の道も残して、プロパー社員の士気が低下しないように配慮してい
る。
現在の関東石油本社の総務部長、工務部長は何れも関東石油の工場で総務
部長、工務部長を経験した京浜石油出身の社員であり、重役陣の中に名を連
ねさせているのである。
山本正は入社五年目である。大学は旧帝大である大阪大学の工学部を出て
いる。山本が大学を卒業した昭和40年は高度成長経済がその勢いを蓄える
ために一休みした時であった。新聞紙上で不景気と書かれた年である。
旧帝大の工学部出身である山本は不景気であっても就職に困るということ
はなかった。産業界は不景気の時代だからこそ、次の好景気の時代に備えて
優秀な人材を確保しておこうと求人キャラパンを繰り出した。特に旧帝大の
工学部出身者は一流企業からの求人をよりどりみどりであった。山本の所に
も幾つかの企業から母校の先輩を通じて勧誘があった。中にはキャバレーに
連れて行ってくれて豪遊させてくれた某製薬会社に勤めるA先輩のような人
もいた。電話がかかってきたり、親展の手紙を貰ったりもした。何れも先輩
を使っての凄まじい求人攻勢であった。
山本は先輩や友人の話を聞いて会社選択の基準を作り、基準に合わない会
社はどんどん不採用とした。まさに求職者が求人会社を採用するのではない
かと思われるような凄まじい求人難の時代であったと言える。
山本の作った会社選択の基準は次のようなものであった。
①旧帝大出身者の少ない会社であること。
②今後成長することが予想され、社歴は浅い会社であること。
③知名度もある程度高く、待遇のよい会社であること。
友人達が好んで超一流企業へ就職したのに較べれば一風変わった選択であ
る。山本は何よりも、早く出世できそうな会社を選んだのである。山本の選
択基準からすれば、関東石油はまさにぴたりの会社であった。
山本が予想したように、関東石油は山王化学の子会社であるとはいえ、旧
帝大出身者は殆どおらず急成長を遂げており待遇も良かった。入社してみて
山本を何よりも喜ばせたのは、入社間もない山本に責任のある仕事を任せて
くれたことである。そして社内でも、前途有望の青年であると期待されてい
た。
山本は横浜工場工務部に配属された。工場は拡張期のため、新しい設備が
どんどん増設された。加えて水島工場に技術陣が半数転出していたので、新
しい設備の増設工事は入社したての山本が計画段階から携わることになり、
大きな権限を与えられた。それは若い山本の野心を満足させるに充分のもの
であった。
年に一度の定修工事もやり甲斐のあるものであった。短期間のうちに五百
人を超える作業員(下請け作業員ではあったが)を指揮して意のままに動か
すことは男の本懐であるとまで思った。しかも工務部の若手のやり手という
評判があるので、下請け会社の社長や専務があの手この手でご機嫌を取り結
ぼうとするのも、若い山本の自尊心をくすぐった。
出入り業者達は競って山本に縁談を持ち込んだ。自分の姪や友人の娘、我
が娘と下請け業者の社長達は、山本に先物買いをした。だが、山本は下請け
業者の勧める縁談には頑として耳を貸そうとしなかった。業者と縁組すると
社内的に色眼鏡で見られることは確実であり、業者に対してけじめをつけて
おくことが、将来社内で出世するための一つの条件であると考えたからであ
る。
とかく業者と工務担当者との間には黒い噂が流れ勝ちであるが、山本に関
してはそのような噂は聞かれなかった。
「ところで、山本君今回の松山一郎の死亡事故については、いろいろ原因も
考えられるだろうし、会社としてもこれを今後の施策に生かしていかなけれ
ばならないと思う。事故調査委員会も活動を始めているのは君も知っている
通りだ。そこで今、大切なことは総務部長がさっき言ったように、対外的に
処理する方法を検討することだ。取り敢えず急がなければならないのは、マ
スコミと警察だと思う。それに労働基準監督署もある。忘れてならないこと
は我々は組織の一員であるということだ。会社の名誉、対外的な信用これを
損なうことなくうまく処理することを考えなくてはならないと思う。よし、
仮に会社の名誉や信用に傷がつくとしても、最小限にくい止めなければなら
ない。そのためには君にも覚悟を決めて貰わなければならないこともある」
工場長が煙草を忙しそうにふかしながら言った。ふかした煙草の煙が神経
質そうに揺らいだ。
「工場長が言われたように、社外に対する対処の仕方を打ち合わせておきた
いと思って、君に来て貰ったわけだ。一番のポイントは会社が安全をなおざ
りにしているのではないかという印象を与えることが一番困るところだ」
その場を取り繕うような言い方を総務部長がした。
「ですから、定修工事前の工程会議で申し上げたように、工期が短過ぎたこ
とが今回の事故の最大の原因だと私は思います。部長そうではないですか」
「この場合、総論の議論をしても仕方がないんだ。当面どう始末するかとい
う各論に議論の焦点を絞らなければ。さっき報国工業の沢村君がここへ来て
いたが、警察で取り調べを受けたそうだ。君にも警察から呼び出しがあると
思う。その時我々の言うことがチグハグになっては困る。方針ははっきりし
ている。関東石油に被害の及ぶことを最小限にくい止めなければならないこ
とだ。そのためには、作業計画には無理のなかったことを主張し、立証する
ことが大切だと思う。そのとき君の証言の仕方が問題になると思う。工期が
短かすぎるなどと言って貰っては困る」
製造部長が一気に喋った。
「次に作業指示の問題だ。最終的な責任は勿論工場長にあるわけだが、個々
の作業指示についてまで工場長が関与することはない筈だ。そこで大切なこ
とは君が担当者の責任において、独自に判断して作業指示を与えたことを強
調して欲しいということだ」
製造部長が続けて言った。
「ですが、作業に着手する前には、有毒ガスの検定も酸素欠乏状態の測定も
行って異常がなかったのですから、当然作業指示はゴーの指示を出すことに
なると思いますが」
「問題はその点だ。ガス検知をやってオーケーだったから作業着手許可を与
えた。しかし実際には酸欠であった。だから死亡事故が発生した。ガス検知
が充分でないのに作業指示を出した。そこに過失があった。つまり君が独断
でガス検知の結果,異常なしと思って作業着手許可を与えた。このように説
明するのが無難だと思うんだが」
「それでは全く私が悪者になってしまうではありませんか」
「その通りだ。君に悪者になって貰うのが一番良い解決法だと思う。君は不
本意かも知れないが、担当者段階でのミスとしておかないと大変なことにな
る。作業工程の妥当性にまで調査の手が伸びると操業停止にまで問題が発展
することもありうる。操業停止にでもなれば、会社の損失は莫大なものにな
る。勿論作業工程の妥当性についての検討も行われなければならないが、そ
れは社内的な問題として検討し、次回の定修工事に生かせばいいのであって
警察に関与されることは避けなければならない。君も将来のある体だから不
本意なことはよく判るが、長い目でみれば一つの経験として将来に生かせる
と思う。決して悪いようにはしないから、君の段階で責任の追求がストップ
するように考えて貰いたい。くどいようだが、君の判断で作業指示を発した
と証言して欲しいのだ」
「私も自分の担当の所で発生した事故ですからその限りでは責任を感じてい
ますし、酸素濃度検定をもっと念入りにやっておけばよかったという後悔も
しています。しかし、残念なのは工程会議で私の意見が聞いて貰えなかった
ことです。しかし、起こってしまったことを後から悔やんでみても仕方がな
いことはよく判っています。私も関東石油の社員ですから、会社に及ぶ被害
が最小限で済むよう善後策を講じなければならないということも理解できま
す。仰るように、私の段階で問題が解決されるよう努力してみます」
山本は釈然としない気持ちで答えた。工場長に一礼してから工場長室を出
たが、胸の中にはふっきれないものが残った。
翌日山本は警察に呼ばれて調書を取られた。警察で調書をとられた者は山
本の他にも工務課長の林田、安全課の大浦、矢口がいた。
警察での取り調べが終わって一週間が過ぎたが松山一朗の遺族は依然とし
て現れなかった。
工務課長の林田と山本は今回の事件で書類送検されることになった。林田
は山本の上司である。山本が書類送検されてから数日後、山本は社内でも閑
職とされている技術室へ配置替えを命じられた。林田は工場長付きの辞令を
貰った。
山本と工務課長の林田が書類送検されることで、この事件が落着するとす
れば、関東石油にとってはまずまずの結果といえるものであった。
山本は送検されることは覚悟していたが、送検された時点ですぐ閑職へ配
置換えされるとは予想していなかった。関東石油としては、官庁筋に対する
姿勢を示したものであり、社内的には一般社員に対して今回の事故の責任の
所在を明らかにするという意味を持つものであった。
山本は配置替えを申し渡されたとき、会社の措置は性急すぎると思った。
送検されるということは、業務上過失致死の容疑をかけられたということで
あって、まだ司法的な判断が下されたわけではない。容疑をかけられただけ
で誰が見ても左遷と受け取れる技術室への配置換えを会社が行ったのは明ら
かに会社が山本に責任ありと判断したことを示している。山本は冷めた気持
ちで工場長から配置換えの申し渡しを受けた。
その日山本は帰りに林田をおでん屋へ誘った。
「林田さんは今回の会社の措置をどう受け止められますか」
「人一人殺しているのだから止むを得ないと思う。僕は甘受するしかないと
思っている」
「私は直接の担当者として、林田さんにまでご迷惑をかけてしまって申し訳
ないと思っています。人一人が死んだのは事実ですから、処置自体に不服を
言うつもりはありませんが、もっと大きな責任が追求されないところが私に
は納得できないのです」
「どういう意味だね」
「林田さんも工程会議では工期35日説を主張されましたね。それに対して
製造部長は30日説を主張しました。そのことです」
「ああ、そういう意味か。愚痴になるから言いたくはないが、今回の定修工
事は製造部の横暴に押し切られた面があるのは事実だ。そのために、危険な
作業が随分多かった。だけど、一旦命令となった以上はこれに従わなければ
ならないのが組織というものだ。そこでは個人の善意や良心はどこかへ忘れ
られてしまう」
「私はそうじゃぁないと思うのです。製造部長の上向きの姿勢に問題がある
と思うんです。本社の意向ばかり気にして現場の意向は考えない。自分の保
身のことだけしか考えていないんですよ。我々が送検されることで責任を免
れてしまっている。そして追い打ちをかけるように今回の人事です」
「僕も内心では口惜しいと思っているよ。だけどサラリーマンというのは辛
いもので、君とこうやって酒を飲みながらせいぜい悪口を言って、憂さを晴
らすことぐらいしかできないんだ。君も承知のように、僕は昨年やっと念願
の家を建てた。借金だらけだ。会社の処置が冷たいと言って会社を飛び出す
ことも出来ない。50を過ぎたこの年では職を新たに見つけることも出来な
い。忍の一字しかないんだ。屈辱に耐えて会社の措置を受け止めるより仕方
がないんだ。首にならなかっただけでも有り難いと思っているんだ」
山本は、寂しい気持ちで林田と別れた。林田から激しい言葉を聞きたかっ
た。例えごまめの歯ぎしりと言われようと犬の遠吠えと言われようと、林田
と一緒に怒り狂ってみたかった。だが、現実の林田の姿は初老を迎えた生活
に追い回されている哀れな男にすぎなかった。首にならなかっただけでも有
り難いと思っているという林田の言葉が頭にこびりついた。
山本はその晩一晩まんじりともしなかった。眠らなければと気ばかり焦る
のだが、頭は冴えて色々な想念が、消えては現れ現れては消えた。
タンクの中で二本ぶら下がっていた松山一朗の足。ピーポピーポーと間の
抜けたサイレンを鳴らしながら遅ればせにやってきた救急車、松山の遺体を
取り巻きながら勝っ手なことを叫んでいる群衆、器用な手つきで松山の目蓋
を開いた若い医師、常泉寺に姿を現した車椅子に乗った犬山勇次、度のきつ
い眼鏡をかけてしたり顔に話しかけてくる総務部長、鼻の頭の汗をしきりに
拭っていた葬儀屋、工程会議で製造部に押し切られて首を縦に振った工務部
長、執拗に問い詰めてくる刑事、時間の脈絡なしに次から次へと現れてくる
のは、いずれも今回の事件に繋がりのある情景ばかりである。
山本は眠らなければとウイスキーをコップに注いで一息に飲み干した。焼
ける熱さが喉元を走り抜けた。
テニスコートにすらりと伸びた脚を惜しげもなく陽に曝して岡元美代子が
立っている。激しいラリーの応酬。岡元美代子が陽に焼けた顔に白い歯を覗
かせて打ち込んできた。茶色のアンツーカーコートの隅に白球がバウンドし
た。ラケットを右手に持って球を追っかけようとするが、足が動かない。球
は逃げてしまった。
山本は夢を見ていた。球が逃げたところで目が覚めた。時計をみると一時
間程眠りに落ちたようである。山本はここ数日、岡元美代子と会っていない
のに気がついた。
岡元美代子は関東石油の秘書課に勤めている女子事務員である。美代子は
東京女子大学の英文科を卒業して二年前に関東石油へ入社した。父が山王グ
ループの商事会社の常務取締役の要職にあり、関東石油の社長とは懇意にし
ている。
関東石油では4年制の女子大学卒業生は採用していないので、本来ならば
岡元美代子は関東石油には就職できないのであるが、父の縁故で入社したわ
けである。岡元美代子はうりざね顔の美人である。その均整のとれた体の線
とすらりと伸びた脚線美にはミニスカートがよく似合った。彼女が入社した
ときは、関東石油の独身社員が騒いだ。美代子が入社したのはどうやら花婿
候補を見つけるためらしいという噂がまことしやかに流れたからである。
サラリーマンから出世して山王商事の常務になった美代子の父は、美代子も
将来有望なサラリーマンと結婚させたいという考えを持っていた。サラリー
マンの妻となるためには、自分でも勤めの経験を持っていたほうが結婚して
からも夫がよく理解できるだろうという親心から美代子を関東石油へ入社さ
せたのである。噂は出鱈目ではなかった。
美代子は学生時代テニスをしていたので入社すると直ちにテニス部へ入部
した。関東石油のテニス部員は男子20名で女子は10名であった。山本は
学生時代テニスで鳴らした腕をもっていたので、入社してからもテニス部に
席を置き、美代子が入社したときにはキャプテンをしていた。
美代子がテニス部へ入部するという噂が流れるとテニス部の入部希望者が
急に増え、50名の大世帯になってしまった。テニスコートは本社と横浜工
場と共用で関東石油横浜工場内に設けられており、本社の部員は工場まで出
掛けてくることになっていた。
美代子はテニス部の中で一躍スターになり、女子部員の中には反感を持っ
て退部する者もいたが、女子が退部しても男子の入部希望者が多かったので
テニス部としては部員の数が増える結果となった。退部した女子はいずれも
部の中では女王的な存在であった。顔に自信があるかスタイルに自信を持っ
た女達で男からちやほやされることに生き甲斐を感じるような連中である。
彼女達が去った後にも居残る女子もいたがそういう女子部員達は平均的な
女子事務員で自ら中心になってクラブ活動を盛り上げて行こうというほどの
積極性は持ち合わせていない。テニスを楽しみ運がよければ未来の夫を見つ
けようという女達である。彼女達は美代子の周りに集まった。美代子には生
まれつき人を魅きつけるものがあった。
学生時代に鍛えただけに技術は高く男子部員でも彼女と試合して勝てる者
は少なかった。美代子がテニス部の女王になるのに時間はかからなかった。
美代子にはテニス部の男子部員からは勿論のこと、会社の独身男性から度々
誘いがかかった。美代子はそうした誘いに対しては一対一の行動はとらなか
った。必ずテニス部の仲間か、同期生の女子を伴ってグループで交際した。
彼女の行動には賢い母の躾けが反映していた。それでも山本はテニス部のキ
ャプテンの特権を行使して、美代子と二人だけで映画を見に行き夕食を共に
したことが一回だけあった。その時の短時間の語らいの中で美代子が山本に
好意を寄せているらしいことは言葉の端々に窺うことができた。
山本は次第に美代子に魅かれていった。美代子の魅力もさることながら、
美代子の父が山王グループの経営層にいることの方が山本にはもっと魅力が
あった。完成された管理社会の中で組織の頂点に早く登り着くためには、本
人の実力もさることながら、組織の頂点にいる人の引きを得ることが一つの
条件であった。
美代子が好意を寄せていると思われる男性は関東石油の中に山本を含めて
三人に絞られるようになった。本社総務課の橋本と横浜工場製油課の栗原が
山本のライバルであった。この三人のうち誰が美代子を射止めるだろうかと
いう噂が独身男子の話題に登るようになっていた。それというのもこの三人
が美代子の父から自宅へ麻雀の相手として招待を受けたからである。
山本、栗原、橋本は揃って美代子の自宅へ訪問する機会が多くなった。し
かし、彼らは一人だけで訪問することはなかった。三人の間には、抜け駆け
しないという黙契のようなものが成立していた。三人はお互いに牽制しなが
らも、美代子の父から麻雀の誘いがかかるのを期待して待つようになってい
た。山本が美代子に会ってみようと思いついたのは、その日がテニス部の練
習日だったからである。
松山一朗の事件があってからテニスの練習をさぼっていたので思い切り白
球を追っかけてみたいと思った。美代子とネットをはさんで激しく白球を打
ち合ってみたい衝動にかられた。そしてテニスの終わったあとで、次の日曜
日にいつものメンバーでマージャンをしに行ってもいいかと申し込んでみよ
うと思った。美代子とテニスをすることも楽しかったが、麻雀をしながら美
代子の父に、今回の事件についての感想を聞いてみたいという気持ちがあっ
た。山本が終業後、テニスコートへ久し振りにでかけてみると何時も山本よ
り早くきて練習をしている筈の美代子の姿が見えない。
「岡元君は」
同じ秘書課の増田貴美江に聞いてみた。
「岡元さんはお休みよ。お気の毒様」
「会社も休んだのかい」
「いいえ、会社には出勤してらしたわ」
「どうしたんだろう。岡元君がテニスをさぼるなんて珍しいな」
「テニスよりデイトの方が楽しいんですって」
増田喜美江は悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「何だって、相手は誰だ」
「まあ、そんなに怖い顔をして。山本さんは知らなかったの、最近お見合い
をなさって、交際を続けていらっしゃるそうよ。相手の方は東大出のエリー
トで大蔵省にお勤めなんですって」
「そんな馬鹿な」
「栗原さんも、橋本さんも同じことを仰ったわ。そんな馬鹿なって。山本さ
んも道化の役をやらされていたのね」
「道化だと」
思わず声が大きくなった。
「三人とも鳶に油揚をさらわれたようなものね。関東石油では栗原さん、橋
本さん、山本さんが岡元さんのお父様のお相手をするために麻雀に誘われて
いたのは有名な話だわ。皆さん鼻の下を長くしてせっせとお通いになったよ
うですけれど、とんだ見当違いをなさっていたわけね」
「見当違いだって」
「そうなのよ。だから道化なのよ。岡元さんのお父様があなた方三人をお誘
いになったのは、女姉妹ばかりの美代子さんに、男友達と親の監視のもとで
お付き合いをさせるためだったのよ。岡元さんは決して一対一の交際をなさ
らなかったでしょう。お母様のさしがねらしいわ。岡元さんのご両親は男と
いうものを研究させるために、関東石油の秘書課へ入社させたということだ
わ」
「君は誰からそんなことを聞いたのだ」
「社長からよ」
山本は痛烈な一撃を食わされた思いだった。
「山本さん。お相手をお願いします」
増田喜美江はラケットを右手に持ってアンツーカーコートを小走りに駆け
て行くとサーブの球を打ち込んできた。増田喜美江がいつもになく元気に張
り切っているのに彼は気がつかなかった。
山本の心に退職の気持ちが芽生えたのはこの瞬間であった。一度心の奥に
芽生えた辞意はほむらのようにたちまち大きくなり、動かし難い決意に育っ
ていった。山本は喜美江と球を打ち合いながら、自分は丁度テニスの球のよ
うな存在ではないかと思った。ラケットに打たれてあっちへ飛び、こっちへ
飛んでいる。自分の意思で飛んでいくことができない。
松山一朗の事故の原因は関東石油の安全よりも生産を重視した会社の考え
方に最大の原因があるにもかかわらず、それを指摘した自分が責任をとらさ
れる。そしていままた、岡元美代子の両親の考え方を知らされた。
最初から道化の役を与えられて、有頂天になっていた自分が浅ましくもあ
り、情けなかった。岡元美代子を妻にして美代子の父の威光を利用し、出世
の足がかりにしようと潜在意識の中で考えている自分の甘さを知った。
自分でどうすることも出来ない機構のことを思った。組織の固さというも
のを知った。組織というものは、要になって動かす立場にたてば組織を動か
すという面白さがあるが、現在の自分の立場は組織の中で動かされているに
過ぎない。岡元美代子の父親のように組織の頂点に立てば、関東石油の社長
を動かし自分の娘を入社させ、山本、栗原、橋本達の純真な気持ちを踏みに
じるようなことまでできる。
松山一朗の事件で示された総務部長や、製造部長のように組織の中で、何
とかして頂点に近づきたいと願い保身にだけ窮々としている管理者がいる。
また林田のように首にならなかっただけでも幸福だと考える男もいる。そこ
には主体性を持って行動する人間は見られない。山本はサラリーマンである
ことが嫌になった。少なくとも関東石油にいる限り、今回の事件でハンデキ
ャップを負ってしまったので、先の望みが薄くなってしまった。林田の姿に
自分の将来を見るような気がしてくる。
山本は大阪でクリーニング屋を大規模にやっている兄のことを思い出して
いた。兄からは自分の責任で事業をやってみるのは面白いことだから、山本
にも兄の仕事を手伝わないかと今年の正月帰省したときに冗談のように勧め
られていた。そのときは冗談として笑い飛ばしていたが、今回のようなこと
があると、真剣に考えてみなければならないことのように思えてくる。
山本は配置替えの通知を受けた翌日、辞表を提出して10日後にはさっさ
と会社を辞めてしまった。辞表を提出したとき工場長は型通り、慰留したが
結局辞表を受理した。山本が辞表を提出したということを聞きつけて同僚や
テニス部の仲間が集まり、会社の仕打ちは冷た過ぎる。組合で取り上げて問
題にしようと熱っぽくいきまき心配してくれる者もいたが、山本は丁重に断
り自分の意思を通した。
増田喜美江が山本さんが辞めるなら私もやめようかしらと言い、求愛の謎
をかけてきたのには閉口した。

9.
山本は会社から30万円ほどの退職金を受け取ると常泉寺へ出掛け松山一
朗の霊に花を供え線香を焚いて別れを告げた。住職に頼んでお経をあげて貰
った。
大阪では山本の実兄が手広くクリーニング業を営んでおり最近副業で始め
た貸しおしぼりが市内のホテルや梅田、心斎橋、難波界隈のバー、キャバレ
ー、料亭に好評で商売は繁盛していた。山本は関東石油在社中からサラリー
マンなんか辞めて兄の商売を手伝ってくれないかと何回も勧誘を受けていた
のである。
将来第三次産業とりわけサービス業の時代がくるのははっきりしており、
事務機器のように進歩の速いものや、レジャー用品、衣装類のように流行を
追い陳腐化するのが早いものはリースで間に合わせようという時代が必ずく
るから、この分野へ早く進出しておいた方がいいというのが兄の持論であっ
た。その手始めに始めた貸しお絞りがうまくいっているので、今度は貸しお
むつを手掛けてみたいということであった。資本は大してかからず商売に工
夫をすればいくらでも発展の余地があり、これからの目のつけどころは、新
興団地のアパートやマンションに出入りして注文をとることだと教えられて
いた。ある程度客層が安定すれば、次から次へと口コミで新しい客を紹介し
て貰え、一つの部門として独立することも可能であることを会う度に吹き込
まれていた。
関東石油在社中は兄の勧誘もただ聞き流していたのだが、今回の事件が起
こってから兄に相談したところ、そんな冷たい会社に義理立てする必要はな
いから明日にでも大阪へ来いと兄が積極的に勧めてくれたので、関東石油を
辞める踏ん切りがついたのである。
山本は常泉寺を後にして新幹線に乗り大阪へやってきた。
新横浜駅へは報国工業の沢村が一人だけ見送りにきてくれていた。
「山本さん。私が至らなかったばっかりにあなたにはとんだ御迷惑をかけて
しまいましたね。大きな借りを作ってしまいました。何時かきっとこの借り
はお返ししますよ。何かお役に立つことがあれば何時でも気楽に相談して下
さい」
山本は沢村の気持ちが嬉しかった。松山の事故があってからは何かにつけ
て力を貸してくれ、激励してくれたのも沢村であった。関東石油の同僚や友
人達は口でこそ、関東石油のやり方を非難し同情もしてくれたが、親身にな
って相談に乗ってくれる者はいなかった。現に大阪へ新天地を求めて出掛け
ていく山本を見送りにきてくれたのは沢村一人だけである。
「沢村さん、最後までお世話になりましたね」
山本は万感の思いを込めて沢村の手を握った。
山本が関東石油を退職するらしいという噂が流れたとき、自分の会社へこ
ないかと誘ってくれたのも沢村であった。関東石油の待遇よりも遙に良い条
件を提示され、心が動かないでもなかったが、宮仕えを二度としたくないと
いう気持ちが強かったので山本は沢村の申し出を断った。
「山本さんが強い決意をお持ちなら無理には勧めないことにしましょう。山
本さんは失礼だが、私の見るところ組織の中では納まって行けないお人だ。
御自分で何かおやりになった方が成功するという風に私は見ていました。苦
労はあるかもしれませんが、お兄さんと二人で事業をなさることはいいこと
だと思います。山本さんならきっと成功しますよ」
沢村は強く引き止めるでもなく山本の前途を激励してくれた。山本が大阪
へ引き上げることが決まると山本の荷物を送り出してくれたのも沢村であっ
た。沢村に別れを告げて車中に戻ると増田喜美江が斜め向かいの座席に座っ
ておりにこやかに会釈するのが目に入った。
「増田君どうしてこんなところへ」
「びっくりしたでしょう。私も大阪へ行くところです。関東石油は昨日で辞
めました」
「何故辞めたの」
「山本さんのいらっしゃらない会社なんかつまらないからですわ」
「会社を辞めるのはあなたの自由だが、何も私が辞めたからと言ってそのこ
とを理由にされたんでは困るじゃぁないか」
「困ってください。そのほうが楽しいわ」
「馬鹿なことを言ってはいけないよ。少なくとも私には迷惑だ」
「大阪には私の両親がいますわ」
「それではご両親と一緒に生活するんだね」
「そうです。山本さんのお役に立ちたいから、両親のところへ帰ります。落
ちつかれたら連絡して下さいね。私と交際して良かったと思う日がきっとき
ますわよ」
増田喜美江は自信ありげに言うと世話女房気取りで沢村が脱いだ背広を受
け取り折り畳んで網棚へ乗せた。(続く)
「それにしても、不思議だなあ。増田君と偶然とは言え同じ車両のしかも向
かい合った座席に乗り合わせるなんて」
「偶然だと思われますか」
「というと何か細工をしたのかな」
「ふふふっ、それは秘密」
「どういうたとなんだ」
「だって、秘書課にいますと、乗車券の手配をするのはお仕事のうちですも
の。入手しにくい切符を確保するための特別のルートを持っていますわよ。
今回山本さんの切符を手配したのは私ですから一枚余分に手配しておいただ
けのことですわ」
「それにしても唐突に会社を辞める気になったものだね」
「山本さんだって同じようなものですわ」
「それはそうだが、僕の場合は会社に見切りをつけたこととサラリーマン生
活がいやになったから、止むを得ない事情があったわけだ」
「私も会社に見切りをつけたことは同じことですし、山本さんの将来に賭け
てみようと決心したからですわ」
「これからどうなるか判らない不安定な生活に、飛び出そうとしているんだ
よ」
「そこが魅力なのよ。将来に夢があるのは楽しいことですわよ」
「僕には君の好意は判るが責任は持てないよ。後で後悔しても知らないよ。
君が大人の遊びをしようというのなら話は別だが」
「私が勝手に決めたことですから大人の遊びで結構よ」
増田喜美江は意味ありげに微笑むと、鞄から蜜柑を取り出して山本に勧め
た。大阪までの車中の時間は山本にとって一面では楽しくもあり、また一面
では、薄気味の悪いものであった。増田喜美江の真意を計りかねたからであ
る。大阪へ到着すると山本のお茶への誘いを断って増田喜美江はアドレスを
書いた紙を渡し人混みの中へ消えていった。
山本は早速兄のところへ住み込んで翌日から兄について廻り商売の見習い
を始めた。
いくら実の兄が成功し勧めるからと言っても旧帝大の工学部出身者が全然
畠の違う商売を始めようとすることは通常の常識では異常としか考えられな
い選択であった。
兄は人の生活に必要不可欠ではあるが誰も好き好んでやりたがらないこと
に目をつけて、これを企業化していくことが、これからの社会で成功するビ
ジネスであるという持論を持っていた。その手始めに弟の山本には貸しおむ
つをやらせようとしていた。この商売はこまめに客先を廻って、汚れたお絞
りやおむつを回収し新しいものと交換する。汚れたものは専門のクリーニン
グ工場へ納めればよいのである。商売のこつは、客先に気に入られて信用を
とり如何にして新しい客層を開拓していくかというところにあるように思え
た。
貸しおむつの場合には特にこのことが言えた。お絞りの場合には決まった
店へ決まった時間に廻っていけば纏まった数が捌ける仕組みになっているの
で商売自体は安定しているが、貸しおむつの場合には一件毎に扱う数が小さ
く客先も特定していないので客先の口コミによる宣伝が大切であった。
山本は兄のもとで一ヵ月程見習いをすると大体商売のやり方を覚えたので
山本自身の客を作ることに専念した。兄も早く独立させてやりたいと考えて
おり、そのことについては異論はなかった。兄は専門のクリーニング工場も
持っているので、客を開拓しさえすれば発展の余地は相当残されていると思
った。
山本は同窓会の名簿を大学、高校、中学と取り出しアパートに入居してい
る同窓生にダイレクトメールを発送し電話をかけることから始めた。卒業以
来始めて山本と交信する者が殆どであったが誰も山本の奇抜な商売に驚いて
いた。丁度山本の年代の同窓生は結婚したてか結婚後3年位の者が殆どなの
で貸しおむつの新しい客先を開拓するには好都合であった。大阪、神戸、西
宮周辺の団地のアパートや社宅に入居している同窓生は数えていけば50人
ほどいた。新しく取引の始まったお客に対しては、新しいお客を一件紹介し
て貰う毎に紹介者に対して手数料を支払うことにした。
アパート住まいの若い主婦達はこの申し出に飛びつき次から次へと山本に
新しい客を紹介してくれた。大学出の貸しおむつ屋さんという物珍しさもあ
った。持ち前の人当たりの良い物腰がアパートの主婦達に気に入られて、口
伝えに山本の客はどんどん増えていった。
1年程で山本は兄のもとから独立し貸しビルの一室を借りて配達専門の使
用人を3人雇い入れライトバンも三台持つことができるようになった。山本
はアパートの主婦対象の貸しおむつ専業ではお客の入れ代わりが激しいので
やはり兄のやっているように大口の需要があり客層の安定しているお絞りに
も力を入れることにした。喫茶店、料理屋、寿司屋、キャバレヒ、バー、ス
ナック、ホテル廻りに多くの時間を割くようにした。こういうところでは既
に同業者が出入りしていて新しく注文を取ることは難しかったが山本は根気
よく何回も顔を出して少しずつではあるが注文がとれるようになった。
山本は生来、人の心を読むのがうまかったので、こういう店へ出入りする
ときには、商売の話はしないで世間話をして帰るようにしていた。世間話の
中で必ず経営者やその家族の趣味、嗜好、誕生日を聞き出すことを忘れなか
った。
根気よく出入りを続ける山本に同情して試しにその使用量の何分の一かで
も納めてみろということになると山本はすかさず御礼と称して家族の趣味、
嗜好にあった贈り物を届け家族の誕生日にはプレゼントをすることにした。
経営者の家族に気に入られるようにすることが、商売のこつであることを山
本は信じていた。山本の根気よい営業が効果を現し逐次大口のお絞りの注文
が増えてきだした。
ある日、山本は難波の「角寿司」へ遊びにきて世間話をして、例によって
家族の趣味、嗜好、生年月日を聞き出して店へ帰ってきた。いつものように
聞き出してきた情報を山本が工夫して作った得意先帳に記入した。
門川作造。大正6年1月17日生。盆栽いじり。
門川久枝大正9年7月22日生。芝居。
門川久昭和20年1月17日生。書道。独身。関西で板硝子会社勤
門川佳子昭和22年7月3日生。書道。旅行。独身。務
注角寿司は作造が包丁一本で作り上げた。今では喫茶店、レストラン、
ビジネスホテルを経営す。職人気質の作造を攻略することに工夫を要す。
このように記入してその日の仕事を終えた。
山本は貸しおむつ屋の方は軌道に乗りかけたが、我ながら変な商売を始め
たものだと思う。兄が山本に勧めてくれて始めた商売ではあるが、商売を始
めるに先立ち
「貸しおむつ屋は主婦のサシスセソ業のセ業を分担企業化したものだ。これ
も余暇時代の産物さ」
と言っていたことを思い出しなるほどそうだと実感が湧いてくるのである。
兄の説明によればサは裁縫のサである。シは躾け、スは炊事、セは洗濯、
ソは掃除ということである。家庭の主婦は昔から家庭にあって家事に従事し
ていた。家事といえば裁縫、躾け、炊事、洗濯、掃除に尽きる。一昔前はこ
のサシスセソ業に随分時間をとられたものである。化学繊維、合成繊維はま
だ発明されておらず、靴下を一枚とりあげても、木綿製であり二日も履くと
爪先、踵の部分に穴が開いた。穴のあいた靴下の繕いをするのは一仕事であ
った。既製品の服もサイズが豊富に揃っているわけではなく、布地を買って
きて子供達の背丈を計り、肩幅の寸法をとり、胴回りに巻き尺をあてて裁断
し自分でミシンを踏んでいた。
子供達は母親のそんな姿を見て、母を尊敬し母の編んでくれた手袋をさす
ごとに母の姿を思い出したものである。
それが今は、靴下の穴かがりをする主婦はまずいない。布地を買ってきて
子供の服を縫ってやろうと考える母親もいない。靴下は穴が開けば捨てるも
のであり、子供の服はデパートかスーパーマーケットのバーゲンセールで吊
るしを買うものだと信じている。
家庭の主婦から裁縫という仕事は無くなった。
炊事も主婦の大切な仕事である。米をといで薪を割りかまどにかけて炊い
たものである。湿った薪の火付きが悪く、煙を目に入れて涙を流しながら火
吹き竹を吹いたものである。
「はじめチョロチョロ、中パッパ、赤子泣いても蓋取るな」等という飯炊き
の諺もあった。生活の智慧というものである。
ところが、今は米こそ研ぐがカップで秤量したあとは電気釜に入れてスイッ
チを入れさえすれば、立派な御飯が出来上がる。マヨネーズは食料品店で買
ってくるものだということは知っていても、卵を割ってポールに入れサラダ
油を注ぎながらかき廻して作るのだということを知っている主婦は殆どいな
い。ここでも炊事という重要な仕事が安直に片づけられるようになってしま
った。おふくろの味がなくなってハムのぶつ切り、目玉焼きと誰が作っても
同じ味覚のものとなってしまった。
洗濯にしてもたらいや洗濯板なんかは探しても見つけられない時代物にな
ってしまった。洗濯機に投げ込んでスイッチを入れておけば乾燥されて出て
くるのである。
掃除。これもまた便利な道具がある。はたきをかけて、茶殻を撒いて箒で
掃いたりすることもなくなってしまった。
裁縫、炊事、洗濯、掃除と主婦の五大家事のうち四つまでが、一昔前に較
べて手間のかからない仕事に変質してしまった。若い主婦達は便利な洗濯機
があってさえ、自分の生んだ子供達のおむつを洗うのを嫌う。貸しおむつ屋
を使い、使い捨ての紙おむつを使いたがる。
そのお蔭で山本の商売である貸しおむつ業なるものも存在理由が認められ
るようになってきた。その意味では文化生活のお蔭で主婦が楽をし楽に慣れ
てしまったから山本達の商売が成り立っていくのである。
裁縫、炊事、洗濯、掃除と四つの家事を簡単におそらく一昔前の十分の一
位の時間で済ますことのできるようになった現代の主婦達は時間をもてあま
しだした。豊富に使える余暇時間。この時間をどのように使うか。豊富な時
間は子供の躾け(教育)に向けられるようになった。ママゴン、教育ママの
出現である。
大学生の入学試験に付き添い、会社の入社試験にまで母親が付き添ってく
るようになってしまった。学習塾が繁盛する理由はそこにある。これからは
躾けに着目した産業が栄えることになるだろう。時代の背景がそのようにで
きている。
兄の説明は説得力を持っていた。自分の生業の存在理由を家庭の主婦の仕
事と結びつけて説明してくれた兄の熱っぽい口調に山本は心を動かされて、
この道に入ったのである。山本は自分の行為に理屈をつけないと行動できな
い性質の男であったといえる。いや、自分の行為に後から理由づけができな
いと不安になる男であると言った方が正確かもしれない。
サラリーマンを辞めて自分の責任において商売をすることになり、一番気
を配ったことは健康管理である。欲にかられて日曜祭日に関係なく働けば仕
事はいくらてもあったが、何でも自分で処理しなければならない事業者の立
場にたったとき体が資本だということが実感として判った。山本は近くのテ
ニスクラブの会員となり、一週間に一回はどんなに忙しい時でもテニスコー
トに通って汗を流すことにした。
いつものように、コートでボールを打ち込んで汗をかきシャワーで流した
後、楽しみの一つになっている冷えたミルクを飲んでいると後ろから声をか
けられた。
「山本さん。お久し振りですこと。お仕事の方も順調のようですね」
「やあ。これはこれは、増田さん。ここへはよく来られるんですか」
「毎日来ていますわよ」
「それは知らなかった。じゃあ、相当うまくなったでしょう」
「山本さんは毎週水曜日に来られているでしょう。今日で確か五回目の筈で
すわ」
「よく知っていますね。何故そんなことを」
増田喜美江は妖艶な笑みを湛えている。いつも増田喜美江の行動には面食
らわせられることが多い。
「びっくりなさったでしょう。貴方の行動が監視されているようで」
「全くだ。尾行されているのかもしれない」
「種明かしをすれば簡単なことですわ。このテニスクラブのオーナーは私な
のですよ」
「ほう。それは大したものだ。何時からオーナーになったんですか。社長さ
ん」
「私の父が経営しているんですよ。私はそのお手伝い」
「それでは関東石油を辞めてからここでずっと仕事をしていたということで
すか。それで貴方が突然会社を辞めた理由が判った」
「ここの他にもテニスクラブを五箇所とゴルフの練習場を二箇所、スイミン
グクラブを二箇所持っていますのよ」
「大した財閥だね。儲かってしょうがないでしょう」
「ところが、なかなか難しい問題が沢山あるのよ。良いインストラクターや
コーチを確保するのが難しいのね。山本さんのような方にテニスクラブの方
を見て戴けると助かるんですけれどね。如何ですか」
「突然のことなのでいきなりそう言われても返事のしようがありませんね」
「私は冗談で言っているのではありませんよ。お仕事のほうもあるでしょう
から良くお考えになって下さい。私は山本さんが会社を辞められた時、一緒
に会社を辞めましたが、そのときから山本さんを狙っていたのですよ」
「それはどういう意味」
「私の会社でスカウトしたいということですわ」
「考えておきましょう。食えなくなったらお世話になるかもしれない」
山本には不可解であった増田喜美江の退職の動機がやっと納得できた。

10.
山本は角寿司へ顔を出した。お客として寿司をつまみながら板前相手に世
間話をしていた。山本の得意先カードに記入する情報を集めるために角寿司
の家族のことについて当たり障りのない話題から誘導していた。
「誰か来て頂戴。佳子の様子がおかしいのよ」
二階の方から突然ただならぬ女の声がした。
「お嬢さんが」
山本の相手をしていた板前が二階へ急いで上がって行った。それと入れ代
わりに角寿司の女主人が動転しながら階段を下りてきた。
「早く救急車を呼んで頂戴」
「どうされたんですか」
「佳子がガス中毒で死にそうだわ。早くお医者を」
板前が慌てて電話に飛びついた。
「ちょっと失礼」
山本が二階へ上がって行って見ると佳子と呼ばれた若い娘が書き散らした
習字の半紙の上に俯くような姿勢で横たわっている。部屋の隅には火の消え
たガスストーブが置いてある。先に上がってきた板前が開けたらしく窓は開
放されているがなす術もなく、お嬢さんお嬢さんと叫びながら体を揺すって
いる。山本は状況を見て酸素欠乏だと思った。
板前に手伝わせて佳子を仰向けに横たえると板前に脈をとるように指示し
ていきなり、口移しの人口呼吸を始めた。
「まだ脈がある。早く医者を」
板前が喜びのこもった声で叫んだ。
山本は人工呼吸を施しながら松山一朗の事故死のことを思い出していた。
あのときは、人工呼吸が遅れたために助かる命を助けることが出来なかっ
た。そのために自分は会社を飛び出すことになってしまった。今また同じよ
うな状態で妙齢の女性が死線を彷徨っている。何としても助けなければなら
ない。まだ脈は残っているのだから人工呼吸を丹念に続ければきっと助けら
れる。山本は額に汗を流しながら人工呼吸を続けた。佳子の胸の隆起が両手
の掌に奇妙な感触を与えた。
やがて近所の医者が駆けつけカンフル注射を打ち終えたところへ救急車が
やってきた。
「もう大丈夫です。人工呼吸が適切に行われたので、危ないところでしたが
命はとりとめました。やがて意識も回復することでしょう。病院まで私がつ
いて行きます」
医者はそう言い残すと慌ただしく救急車に乗り込んだ。
騒ぎを聞いて駆けつけた桑山が病室の枕元に立つと佳子はばつの悪そうな
顔をしたが、表情には喜色が溢れている。
「ヨッちゃん、大変だったそうじゃあないか。それでも命か助かってよかっ
たね。ヨッちゃんにもしものことがあったら、僕の人生に張りがなくなる」
桑山は佳子の顔を覗き込みながら形のよい唇をじっと眺めた。佳子の命を
助けたという男の痕跡を捜し出そうとする目つきであった。
「御免なさい。ご心配かけちゃって。でももうすっかり良くなったのよ。明
日は退院してもよいそうよ」
「山本という人は病院へきたのかい、どんな人か僕も会ってみたいね」
「脱サラの貸しおむつ屋さんよ。でも命の恩人ね。貸しお絞りをうちのお店
へ入れたくて、最近時々来るのよ。でも変な人。商売の話は全然しないで世
間話ばかり」
「ヨッちゃんに口移しの人工呼吸をしたんだって。憎い野郎だ」
「あら、だってあの場合仕方がないわよ。もし山本さんがあの時お店へ来て
いらっしゃらなければ、今頃私はあの世へ行っていたかもしれないわ」
「でも口移しの人工呼吸なんてよく思いついたものだね」
「前に人工呼吸をしていれば助けられた人を知識がなかったばかりに手遅れ
で死なせてしまった苦い経験があるんですって」
「なるほど、それにしても何故、酸素欠乏なんかになってしまったんだい」
「展覧会へ出す作品を書いていたのよ。寒いものだから部屋を締め切ってガ
スストーブを焚いていました。そのために部屋の酸素が不足したらしいの。
何だか頭が痛いなあと思っているうちにすっーと気が遠くなってきて、気が
ついたときにはこのベッドの上に寝かされていたわ」
「危ないところだったね」
「そうよ。母が来てくれなかったら、そのまま死んでいたでしょうね」
「お母さんと山本という男は命の恩人というわけだ」
「あの時たまたま山本さんがお店に遊びにきていらっしゃらなかったら、病
院へ運ばれる途中で駄目になっていたかもしれませんわね」
桑山は山本に対して妬ましさを覚えた。佳子の気持ちが山本に動きかけて
いる。偶然のできごとであり、あの場合それがもっとも適切な処置であった
とはいえ、佳子の唇を無断で奪った山本に対して佳子は感謝している。強力
なライバルが出現した。まだ会ったことのない山本に対して桑山は敵意を感
じた。桑山は山本に会ってどんな男か確かめてみようと思った。
この場合都合のよいことに、新聞記者という職業は桑山の意図をカムフラ
ージュしてくれる。酸素欠乏事故の取材にかこつけることができる。
桑山は体内に闘志が漲ってくるのを感じながら病院を後にした。

11.
山本は桑山という新聞記者の訪問を受けた。角寿司で佳子に人工呼吸を施
して人命を救助したことについてそのときの状況を説明して欲しいというの
である。
山本は死亡事件に至らなかったのだからできることなら記事にはして貰い
たくなかった。
「あの場合部屋の状況を判断して酸素欠乏だということが判りましたので、
何の躊躇いもなく口移しの人工呼吸をしていました。とにかく一刻も早く酸
素を供給してあげなければという考えしかありませんでした。幸い佳子さん
も元気を回復し大事に至らなかったのは何よりです。新聞に出さないで貰い
たいのですが」
「よく咄嗟に人工呼吸が必要だということが判りましたね」
「過去に苦い経験があったからです」
「新聞に書かれると何か都合の悪いことでもあるのですか」
「別にそういうわけでもありませんが、今度のことが売名行為のように受け
取られるのが困るんですよ。それにプライバシーに関することでもあります
から」
「あなたの気持ちは尊重しましょう。この程度の事件ではニュースバリュー
がないので記事にしても没になるだけでしょう。私が小耳にはさんだところ
ではあなたは、前にも酸素欠乏の人を助けようとして人工呼吸が間に合わな
くて助けることができなかったという経験をお持ちだそうですね。よかった
らそのことを話して戴けませんか」
「どうしてそんなことを聞きたいんですか。あのことは私にとっては触れて
貰いたくない厭な思い出なんです。そのために転職まですることになったの
ですからね」
「ほうそのために転職。今のお仕事の前にはどちらかへお勤めだったのです
か」
桑山はいつの間にか新聞記者の本性を表していることに気づいていない。
「関東石油の工務課にいたんですよ」
「関東石油ですか。一流会社じゃあないですか」
「定修工事中に酸素欠乏で一人の作業員が死にましてね。気の毒にその作業
員は今でも未だ身元が判らないで、遺族の手には渡っていないでしょう」
(続く)
桑山の頭の中を光のようなものが通り抜けた。
「何ですって。それではあの引き取り手のない遺体の葬式。その時の工事責
任者があなたでしたか。あの事件ならよく知っていますよ。私が取材に行っ
たんですから」
「えっ。それではあの時の記事を書いたのはあなたですか」
今度は山本が驚く番だった。
人間というものは過去に共通の体験を持っていると何故か親近感を持つも
のである。桑山と山本の関係が丁度それであった。二人の話題はいつの間に
か松山一朗の身の上に移っていった。
桑山は山本の話を聞きながら、これはもう一度現地へ行ってフォローアッ
プしてみると何か面白い記事が書けるのではないかと思った。
「ところで、山本さん。佳子さんの唇の感触はどうでしたか」
桑山は山本を試してみるつもりで軽く聞いた。
「何てことを言うんだ。生きるか死ぬかの境目にいる人間を前にしてそんな
気持ちが起きると思うかい。不謹慎な言い方はやめてもらいたい」
山本が本気で怒ったのを知って桑山はこれは相当手強い相手が出現したと
思った。
この事件があってから桑山は佳子との結婚のことを真剣に考えるようにな
った。競争相手が出現すると火に油を注ぐように恋心というものは火勢を強
めるものである。
一方山本も佳子の酸素欠乏事件があって以来、角寿司へお絞りを納品する
ようになっていた。一日に一回は当然のこととして顔が出せるようになって
いたのである。山本は角寿司へのお絞りの集配は自ら行うことにした。佳子
に会うチャンスを自分だけの手に留保しておきたかったからである。それに
事件以来父親の作造がすっかり山本を気に入ったらしく、密かに佳子の婿養
子にと考えている様子が言葉の端々に窺えるのである。生まれは何処だとか
何人兄弟だとか、好きな人がいるかとかそういう身元調査的な話題を好んで
取り上げるのである。
山本は作造との付き合いの中で作造の長男で佳子の兄にあたる人が失踪し
行方不明になっていることを知った。この話を聞かされた時、山本はふと今
常泉寺で眠っているあの身元不明の遺骨は久のものではないかと考えてみた
りした。山本は思いついて報国工業の沢村に電話してみた。
「これはこれは、山本さん。お久し振りです。すっかり御無沙汰してしまい
まして。如何ですか、ご商売の方は順調にいっていますか・・・はい、お蔭
様で私の方も貧乏暇なしであいかわらず、ばたばたしております」
如才ない受け答えを沢村はした。
「ところで沢村さん。例の松山一朗の遺骨の引き取り手は判りましたかね」
「あいにく、まだ判らないのですよ。労働基準監督署からは労災保険の遺族
給付金の受け取り手がないため、お金が宙に浮いて困っているという苦情の
電話を貰ったばかりですよ。私の方も早く遺族に引き取って貰わないと成仏
できないのではないかと気をもんでいるんですよ。警察の方へも時々問い合
わせているのですが、さっぱり手掛かりがないようです」
「そうですか、遺骨の身元を特定する遺品のようなものは何も残されていな
いのですか」
「何しろ名前が偽名でしょう。本名が全然判らないのです。それに生前の写
真が一枚も残っていないので、手掛かりが何一つ無いんですよ」
「遺品の中にも本名は残されていないのですか」
「手掛かりらしいものと言えば、警察で領置している神戸銀行製の手帳だけ
です。その手帳にはカレンダーに○印が四箇所ばかりつけてあって、ページ
の何枚かには達筆で流行歌の歌詞が書きつけてあるそうです。山本さん、ま
た何で急に思い出したように、そんなことを聞かれるのですか。何か手掛か
りでもありましたか」
「いや、私の知り合いの人で、失踪している人がいるのでね。ひょっとする
とと思っただけのことなんですよ。それでそのカレンダーの○印は何処へつ
いているんですか」
「ちょっと待って下さい。日記を調べてみますから。一度電話を切ります」
山本にはある予測があった。身元を隠して死んだ人がもしカレンダーに○
印をつけるとすればそれは家族の生年月日とか、電話番号ではないかと思っ
たのである」
やがて沢村から電話が入った。
「山本さんどうもお待たせしました。やっと見つけ出しましたよ。1月7日
5月26日、7月3日、7月22日の所に○印がついているようですね。何
の意味があるのでしょうか」
山本はメモに書き取ったカレンダーの日付を得意先台帳の門川家のところ
で並べてみた。それは見事に一致するではないか。
門川作造大正6年1月17日生
門川久枝大正9年7月22日生
門川久昭和20年1月17日生
門川佳子昭和22年7月3日生
「沢村さん、もしかすると遺骨の身元は私の知っている人かもしれない」
「何ですって。それは誰なんです。一体」
びっくりしたような声が受話器の奥から問いかけてくる。
「名前は門川久。私が今の商売で得意先を獲得するため最近出入りを始め
た角寿司という寿司屋があるんですがね、そこの長男が謎の失踪をしてから
2?3年経っているんです。今聞いた手帳のカレンダーの日付が角寿司の家
族の誕生日と一致するんですよ。門川作造、この人は門川久の父で大正6
年1月17日生まれ、母の門川久枝が大正9年7月22日生まれ、門川久
この人が長男で現在行方不明なんですがね、生年月日は昭和20年1月17
日、妹の門川佳子は昭和22年7月3日に生まれています」
山本は自分の口から出る言葉が興奮のため、うわずっているのに気がつい
た。
「なるほど。それは大発見だ。でも山本さん、偶然の一致ということもあり
ますよ」
「そうです。私も今それを考えていたところなんです。だが、それを確かめ
てみる方法があります」
「どんな方法ですか」
「沢村さん、確か今、手帳に流行歌の歌詞が書き残されていると言われまし
たね。その手帳は警察に領置されているんでしょう」
「そうか、判りました。門川久の筆跡と手帳の筆跡とを比較してみればよ
いのですね」
「そうです。門川久の筆跡の残された手紙かメモでも遺族から預かって明
日にでもそちらへ行くことにします」
「判りました。警察へは私のほうから連絡しておきましょう」
沢村も興奮した声を残して電話を切った。
山本はこの発見を桑山に教えるかどうか迷った。みたところ桑山は佳子に
相当熱をあげている。桑山は山本にとっては佳子を巡ってライバルの立場に
いる。遺骨が門川久のものであった場合の得失を山本は考えてみた。
桑山は長男で新聞記者である。もし門川久が死亡していたことになると
門川佳子は角寿司を相続することになるであろう。その時には配偶者として
は寿司屋を継いでくれる夫を望む筈である。佳子に寿司屋を継ぐ気持ちがな
くても少なくとも両親は寿司屋を継がせたいと考えるのが常識である。とな
ると新聞記者という職業を持つ桑山には佳子と結婚できる可能性は小さくな
る。一方山本の場合にはサラリーマンに嫌気がさしてお絞り屋を始めたとい
う履歴がある。しかも次男だから両親の老後をみなければならないという制
約もない。更に佳子が酸素欠乏で死線を彷徨ったのを助けたという実績があ
り、父の作造も最近しきりに謎をかけてきている。山本自身としては脱サラ
して仕事が軌道にのりかけているところだし、チャンスさえあれば仕事の範
囲を拡大していきたいという気持ちは充分ある。佳子を妻にし角寿司という
暖簾を手に入れることが出来ればこんな都合のよいことはない。
山本は桑山に会ってみることにした。
山本が日本新聞社に電話すると桑山は丁度出先から帰ってきたところであ
った。この前話題になった関東石油の例の身元不明の遺骨のことについて手
掛かりが得られたので調査方法について相談したいと言うと、桑山は新聞記
者特有の好奇心を剥き出しにして是非話を聞きたい。今急ぎの原稿を書いて
いるから二時間後に日本新聞社近くの喫茶店へ来てくれと言った。
山本は桑山と会うまでの時間を角寿司で過ごすことにした。門川久の筆
跡の残された書き物を手に入れておきたかった。
「山本さん。佳子が大変お世話になったので山本さんに何かお礼をしたいと
考えていたのですが、どうでしょう、うちのビジネスホテルで使うお絞りを
山本さんのところから納めるようにして貰えませんか」
作造は山本の顔をみるなり言った。
「それはどうもありがとうございます。ところで門川さん、こちらの御長男
の久さんの手紙がありましたらちょっと見せて戴けませんか」
山本の唐突な申し出に作造は面食らった。
「何でまた」
「久さんの手掛かりがつかめるかもしれないのです」
「ほんとですか、久は今どこにいるんです」
「はっきりしたことはまだ言えないのですが、久さんの持ち物ではないかと
思われる手帳がみつかったんですよ」
「どこでてすか」
「横浜の警察です」
「警察で。まさか久が悪いことをして捕まったんではないでしょうね。うち
にはまだ何の連絡もきていませんが」
「いや久さんの行方が判ったわけではないんです。門川久と名前の書いて
ある手帳を拾った人がいましてね」
「どこで拾ったんですか」
「横浜です。お恥ずかしい話ですがね、この前私が横浜へ行ったとき、スピ
ード違反をして鶴見警察で取り調べを受けたんです。その時財布の入った鞄
を拾ったと言って届けてきた人がいるんです。その鞄の中に手帳が入ってい
ましてね。手帳に門川久という名前が記入してあるんです。住所が書いて
ないんで誰が落としたか判らないんですよ。警察でも困っていました。たま
たま私の隣でそんなやりとりがありましたので、もしかしたらこちらの久さ
んの物ではないかと思ったわけです。住所が入っていなかったので私も何と
も言えなかったのですが、こちらへ帰ってきてから筆跡鑑定して貰えばと思
いついたんですよ。もし筆跡が一致すれば、久さんは横浜にいんることにな
る。そして落とし物に気がついて届けでるかもしれない。そんな風に考えま
してね、そのことをお知らせにきたんですよ」
山本は苦しい嘘をついた。まだあの遺骨が門川久のものであるという確
証は掴んでいない。確証をつかむための資料を入手するための嘘である。
久が失踪してから日数も経っているので作造にしてみれば、既に諦めてい
るではあろうが、確証をつかまないうちはまだ希望を残しておいてやったほ
うがよい。山本の思いやりであった。
「そうですか。横浜へ行かれたのですか」
「ええ、ちょっと親戚に不幸がありましてね」
また嘘をついた。
「門川久なんて名前は平凡ですから同姓同名は沢山あるでしょう。でも親
というものは馬鹿な者でしてね、どこかに元気で生きているだろうと思って
いるんですよ。山本さんがわざわざ心配して知らせて下さったその気持ちが
嬉しいんですよ」
作造は久枝を呼んで門川久の手紙を探させた。山本は横浜の警察へ付い
て行きたいという久枝を宥めすかして門川久から久枝宛に出された3年前
の消印のある葉書を受け取ると桑山に指定された喫茶店へ急いだ。
民芸品の調度で設えられた喫茶店はウエイトレスも絣の和服を着ており、
落ちついた雰囲気を漂わせていた。山本がコーヒーを注文し終えたところへ
桑山が入ってきた。
山本は手短に手帳のカレンダーの日付と門川一家の家族の誕生日が一致す
る事実と久枝から預かってきた久からの葉書を桑山に見せた。
山本の話を聞いていた桑山は葉書を食い入るように見つめてから言った。
「なるほど、山本さん。私もきっとその遺骨は門川久のものだと思います
ね。この葉書を鶴見警察へ持ち込んで、筆跡鑑定をして見なければ、断定は
出来ないが、まず間違いないでしょうね。それにしても門川久が何故人足
にまで身を落としてそんな所で事故死したのかが判りませんね」
「これから鶴見警察署へ行ってこようと思っています。何かそのあたりの事
情がわかるかもしれないと思うのですが」
「私が今の話を聞いて変だなと思ったのは、事故死だという前提で全てが運
んでいますが、犯罪の匂いは全然なかったのかということです。山本さん、
その点はどうなんですか」
「犯罪?」
山本は虚を突かれる思いであった。今まで考えてみさえもしなかった発想
である。
「そうです。第三者として話を聞いていると犠牲者の身元が未だ判明しない
ということは巧みに仕組まれた犯罪であったのではないかという素朴な疑問
が湧いてくるのですが」
「私は今まで、犯罪という疑問は持ったことがありませんでした」
「私は遺体の引き取り手のない葬式の取材をしたとき、極東石油の総務課長
が顔の筋肉をひくひくさせながら取材を中止させようとしていた姿を覚えて
いますよ。あのときは広報担当者として会社の不名誉になることだから、極
力取材を拒否しようとする行為だとあまり気にもしないで受け止めていまし
たが、今考えてみると不自然な気がするんですよ」
桑山は山本の顔を覗き込むようにしてじっと目を見据えた。
「そう言われると会社の幹部の対応も事故の責任を下へ下へと押しつけよう
とする態度に終始していたのが思い出されますね。私はサラリーマン特有の
保身の術だと理解していましたが、掘り下げてみれば何かが出てくるかもし
れませんね」
「犯罪には必ず動機がなければならないのですが,若し門川久の死亡事故
が殺人事件であったとして、彼の死亡によって得をする者は誰かということ
です。会社の取引で得をするも者がいるのかどうかということが一つの着眼
点でしょうね。あの事故は定修工事中の事故ですから、工事発注に関係した
損得を考えてみると判りやすいかもしれませんね。どうです、山本さん何か
思い当たることはありませんか」
「あの事故の後私は直接の担当者として鶴見警察で取り調べを受けましたが
警察では単なる労災事故という観点から業務上の過失責任を明らかにすると
いう捜査をしていたようです。殺人事件という疑いは全然持っていなかった
のではないかと思いますよ」
「まあ、それはともかくとして、松山一朗という身元不明であった仏が門川
久なのかどうかということだけでもはっきりさせる為には鶴見へ行かなけ
ればならないでしょう。私も一緒にいきますよ。ところでこの事実は角寿司
の両親や佳子さんには知らせてあるのですか」
「ただ手掛かりがつかめるかもしれないとしか言ってありません」
「その方がよいでしょう。それにしても門川久が変死していたと知ったら
両親は嘆くでしょうね。ひょっとしたら行方が判るかもしれないという儚い
希望をもっていただけにその落差は大きいですね」
桑山は職人気質の門川作造がどのような嘆き方をするのだろうかまた佳子
はどんな顔をするだろうかと、その時の場面を想像しながら言った。
「それを思うと切なくって。今から気が重いですよ」
山本は佳子の悲嘆にくれる姿を思い浮かべながら言った。
報国工業の沢村からの早く状況して欲しいとの要請を受けて、山本と桑山
は日程の調整をし鶴見警察で待ち合わせることにした。山本は新幹線で行く
ことにしたが、桑山は四国での別の取材を済ませてから高松空港から飛行機
で駆けつけることにした。
鶴見警察で落ち合った山本、桑山、沢村は長谷部刑事に門川久が母の久
枝宛に出した葉書を手渡した。警察に領置されている松山一朗の手帳の筆跡
と照合し松山一朗と門川久が同一人物であるか否かを筆跡鑑定して欲しい
と依頼したのである。
筆跡鑑定の結果は予想通り同一人物の筆跡であることが判明した。
この結果を前にして三人三様の受け取り方をした。
山本はこれで門川佳子と結婚できると考えた。山本は神の操る運命の糸を
感じざるを得なかった。自分が会社を辞めざるを得なくなった直接の原因で
ある労災事故の被害者が身元不明のまま3年過ぎていたのに、たまたま知り
合った門川佳子の行方不明の兄と同一人物であったとは。
桑山は筆跡鑑定の結果は間違いであって欲しいと願った。門川佳子の行方
不明の兄がほんとに死んだのなら、彼女と結婚できる可能性は殆どゼロにな
る。客観的な資料は、そのことを雄弁に物語っている。これは犯罪に違いな
い。門川久は殺されたのだ。殺した犯人を探しださなければならない。ひ
ょっとすると山本が犯人であるかもしれない。恋仇に対する敵意は異常な形
をとってエスカレートするものである。
沢村は長い間、無縁仏であった門川久がやっと身内のもとへ引き取られ
ることになってよかったと素直に喜んだ。そして山本が新しく開拓した分野
で成功していることを聞いて嬉しく思った。
「沢村さん、事件後定修工事の発注関係に何か変化はなかったでしょうか」
と桑山が聞いた。
「あのことがあってから、特命受注ではなくなり東都プラントと競争見積り
をやらされていつも苦戦していますよ」
と沢村が答えた。
「東都プラントの河村さんは元気ですか」と山本が懐かしそうに沢村に聞い
た。
「非常に羽振りが良くなって肩で風を切って歩いていますよ」
「東都プラントは何時から関東石油の常駐業者になったのですか」
「確かあの労災事故が起きてからです」
と沢村が答えた。
「沢村さん、その事に報国工業として東都プラントの謀略を感じませんでし
たか」
「私どもとしては他人の不幸を食い物にしやがってと口惜しい思いをしまし
たが、死亡事故を起こしたあとでもあるし、お客さまの指示ですから止むを
得ない処置であるとして甘受しました」
と沢村が答えた。
「山本さんが会社をお辞めになったのは何故ですか」
と桑山が何か思いついたように言った。
「会社のエゴイズムと上司達の責任転嫁が許せなかったからですよ。私も若
かったのですね」
「どんな責任を転嫁されたのですか」
と桑山が促した。
「定期修理工事の工程を安全重視の観点から余裕のあるものに組み直すとい
う私の提案を生産計画優先の理由のもとに検討もせずに却下したことです」
「そのことは警察や労働基準監督署の取り調べの時にはっきりおっしゃいま
したか」
「言っていません」
「何故ですか」
「私だって関東石油の管理者のはしくれです。会社が営業停止処分を受ける
ことになるかもしれないから、そのことだけは喋らないでくれと工場幹部か
ら頼まれれば喋るわけにはいかないでしょう」
「それからほかにはどんな責任を転嫁されたのですか」
「作業着手前にガス検知を充分行って基準に照らし安全圏内だったから作業
着手オーケーの作業指示を出したのに死亡事故が発生しました。つまり私が
ガス検知が充分でなかったのに、錯覚してガス検知はオーケーであると判断
した所に過失があったとして責任をとらされたことです」
「あなたは作業着手前のガス検知は充分であったと思っていたのでしょう」
「そうです」
「それなら何故ガス検知が不十分なのに充分であると錯覚して作業指示を出
したなどと自分に不利になるような証言をしたのですか」
「私が罪を被れば四方丸く納まると考えたからです」
「ガス検知結果の数値はあなたご自身の目で確認されましたか」
「勿論確認しました」
「確かに安全圏内の数値でしたか」
「そうです」
「取り調べの時にもガス検知の数値は確認されましたか」
「係官が確認しました」
「問題にはなりませんでしたか」
「安全圏をかなり上回っている数値だと言われました」
「反論しなかったのですか」
「取り調べの始まる直前の打ち合わせで測定結果の数値を安全圏すれすれの
ところへ改ざんすることになっていましたから反論することはできませんで
した。私が責任を被るにはそれが一番よい方法だったのです」
「結論はどうでした」
「私と私の直属上司が書類送検されただけでこの事件は収まりました」
(続く)
「あなたも承知の上での処置であればなにも会社を辞めることはなかったの
ではありませんか」
「その後の会社の処置が許せなかったのです。いきなり閑職への配置換えは
ないでしょう。まだ容疑者に過ぎず司法的な判断はなにも出されていない段
階でですよ。会社は今回の責任は私一人にありとしてトカゲの尻尾切りをし
たのです」
「臭いな。どうも犯罪の臭いがしますね。ガス検知が充分でなかったのに充
分であると錯覚して作業許可の指示を出したとあなたが証言するように仕組
まれた犯罪ではないかという臭いがします」
「なんですって。桑山さん、それでは仕組んだのは誰ですか」と沢山が聞い
た。
「酸素欠乏による労災事故を仕組んだのは東都プラントで、身元のはっきり
しない日雇い労働者を犠牲にすることで自社の商圏を拡大したと推理すると
この事件は説明がしやすくなるのではないでしょうか」
と桑山が新聞記者としての六勘を披露した。
「これは当時の記録を再チェックしてみる必要がありますね」
と沢村が目を輝かせながら言った。
「どうです。沢村さん、東都プラントがなにか仕組んだと思い当たるような
ことが何かありませんか」
と桑山は探偵になった気持ちで推理を始めた。
「東都プラントに縄張りを荒されて口惜しいと思ってはいますが、わざと仕
組んだと思われるようなことは何もありません」
「東都プラントの策士は誰ですか」
「そうですね。営業の河村でしょうか」
「山本さん、あなたが関東石油で事故のあった工事を担当した当時、あなた
に恨みを持っている人はいませんでしたか」
と桑山は聞いた。
「私の性格からして人から恨みを買うようなことはなかったと思います」
「それでは対抗意識を抱いているような同僚とか友人はいませんでしたか」
「そうですね。強いて言えば製造課の栗原君がライバルであったと言えるか
もしれませんね」
「ところで河村さん、事故当時の現場付近であなたが何か不審に思うような
ことはありませんでしたか」
と桑山が尋ねた。
「もう3年も前の出来事ですから記憶も薄れていますが、現場近くに窒素ボ
ンベの空瓶が一本だけ酸素ボンベに混じって置いてあったのが場違いだなと
いう印象をうけました。そのことが頭にこびりついています」
「あなたが場違いだと感じたのは何故ですか」
「工事現場には酸素ボンベとアセチレンガスのボンベが対になって台車に積
まれているのをよく見かけますが、窒素ボンベと酸素ボンベを一緒に置いて
おくことはないからです。しかも窒素ボンベには空瓶のラベルが貼ってありました」
と沢村が答えると桑山が聞いた。
「窒素ガスの比重は空気よりも軽い筈ですね。密室の中で窒素ガスを放出すれば窒素は天井の方へ溜まりますね」
「その通りです」
「それでは桑山さん。あなたはあの事故はガス検知完了後のベッセルに窒素ガスが密かに放出されたということを疑っておられるのですか」
と山本が口をはさんだ。
「そうです。窒素ガスの溜まっている所へ人間が入れば酸素欠乏のた忽ち呼吸困難になって死んでしまいます。窒素ガスには毒性はありませんが人を殺すことができるのです。今一つ判らないのは、誰がどのようにしてベッセルのなかに窒素ガスを放出したかということです」
「桑山さん、あなたの推理に乗っかって私の推理を言わせて貰いますと、ベッセルの中に窒素ガスをわざと放出したのは製造課の栗原さんでしょう。そしてこのシナリオプラントを書いたのは東都プラントの河村でしょう。栗原さんは山本さんとテニス部の女王岡元美代子嬢をめぐってライバルであったから、山本さんの担当現場で労災事故が発生することは栗原さんにとっては願ってもないことであった。一方東都では関東石油の横浜精油所に常駐業者として入りたいと狙っていたが、我が報国工業が居直っているので中々入ることができない。若し報国工業の担当エリヤで労災事故が発生すれば報国工業に代わって東都プラントが入り込む口実ができる。しかも、東都プラントの河村氏と関東石油の栗原さんとの親密な交際は事故発生のちょっと前から始まっている。どうでしょうか」
と沢村が自分の推理を披露した。
「なるほど、あの事故がそのようにして企らまれたものであるとすれば、東都プラントや栗原君の行動の意味がよく理解できますね。多分工場長や製造部長はそこまでは知らなかったでしょうね」
と山本が言った。
「はい、私も工場長や製造部長、総務部長は知らなかったと思います。彼らは御身大切だけのサラリーマンですよ」
と沢村も同意した。
「ガス検知後のベッセルにどうやって窒素ガスをいれたのかが、謎として残りますね」
と桑山が頭を振りながら言った。三人ともこの謎をどう解くかがこの事件を告訴できるか否かの鍵になるという点では意見が一致した。
角寿司へ集まった山本、桑山は両親に抱かれて4年振りに我が家へ帰ってきた門川久の遺骨に万感の思いを込めて焼香した。人生の無常、不思議な出会い、判っていながら悪を懲らしめることのできない苛立ちを象徴するかのように香煙が揺らいでいた。(了)

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2014.07.13

弾琴の画仙その心の軌跡・・・・・浦上玉堂の生涯


 一.東雲篩雪

 昭和45年4月、当時私は日本の高度成長を担う勤続10年目の中堅企業戦士として兵庫県高砂市で昼夜を分かたず懸命に働いていた。本社で会議があって上京した折りに東京三越本店で浦上玉堂名作展が開催されていることを知り休日に会場へ足を運んだ。

 玉堂の代表作の一つとして古くから紹介されており、一度や二度は美術全集などでその写真判を見たことのある「東雲篩雪」の前へ立った時、暫くその場から動くことが出来なかった。

「なんと暗鬱で閉塞感の漂うやりきれない気分の絵であろうか。だが何故かとても魅きつけられる」というのがその時強烈に受けた印象であった。写真判でみたときも暗い感じのする雪景色だなと思って見てはいたが、心にしみとおるという程の感じではなかった。ところがどうだ。今実物を見ていると小さく描かれた粗末な茅屋の中の読書する高士が「どうだい、雲も凍ったように動かなくなってきたよ。重く垂れ込めた空から粉雪が音もなく降りしきっていて、やがて木々も渓谷も埋めつくしていくだろう。そんな閉ざされた寂莫の山中で、孤り自然と同化し且つ対峙している私の心境が理解できるかい」と呼びかけているように見えたのである。

 目録の年譜を見てみると備中鴨方藩を五十才の時脱藩し、春琴、秋琴という二人の息子を連れて諸国を放浪。この絵が描かれたのは六十才後半頃と考えられるとあった。士農工商の身分制度が確立されてあらゆる自由が束縛されていた江戸時代の封建社会にあって士分を捨てて、敢えて琴と絵の世界へ飛び出していった心境はどんなものだったのだろうとその厳しい決断に思いを致すと、この絵に仮託されて滲みでている玉堂の、雪路を行き悩む煩悶と憂愁が理解できそうだと思ったものである。

 更にこの絵に纏わる次のようなエピーソードがあるのを知った。
 この絵はもとは近江長浜の柴田家が所蔵していたのであるが、第二次世界大戦終了後の混乱期に財産税で難儀をした同家が手放したらしい。そうとは知らない作家の川端康成はこの絵に魅せられていたので是非譲って貰おうと本能寺にある玉堂の墓へ詣でた後に柴田家を訪問した。しかし、時既に遅く柴田家では手放した後だったので手にいれることができなかった。その後、この絵は当時買い手がつかないままに、愛好家や画商の間を転々としたらしい。買い手がつかなかったのは「この絵をかけていると気が滅入る」というのがその理由のようであった。

 ところが暫くして、たまたま広島の原爆の被災地の視察に赴いた川端康成が帰りに京都に立ち寄ったところ、さる画商がこの絵を持っていることを知った。早速見せて貰ってますます気にいり値段にかまわず所望した。大金の持ち合わせがなかったので大阪へ行き、朝日新聞社に借金を申し込んだ。翌日金を届けて貰って予て念願のこの絵を自分の物にすることができたという因縁があるのである。価値観が変わってしまい執筆する意欲も失せて閉塞感に苛まれていた川端康成の当時の心境にフィットするものをこの絵は持っていたのであろうか。

 今、私は企業戦士としての戦いを終え、時間にも仕事にも拘束されない自由の身になって、旅をしたり読書したりと気儘に過ごしているのだが、ある日、図書館で美術全集を繙いていて「東雲篩雪」に再会したのである。繙いた美術全集には佐々木丞平氏の次のような解説が載っていた。

「渇筆で樹の幹の輪郭線が描かれる。幹から幾つにも分かれ出た小さな枝は縮れたように短く冬枯れの風雪の厳しさを思わせる。樹木の陰に更に一層淡く梢や枝が見え隠れする。いかにも繊細な筆の運びを見せている。このかすかな筆の運びが、雪と寒さのかもしだす透明でかつ震えるような大気の厳しさを見事に描きだしている。また、藍を含んだ墨色が山の背後の暗澹たる空間を表現し、その冷気が山膚にまでしみ通るようでもある。山の中腹では不安定に立ち上がった塔やおしひしがれそうな茅屋が見る者に一層心の緊張を強いる。またその周辺に色鮮やかな朱が散りばめられ、冷徹な大気を更にひきしめている。近景の岩間に架かる板橋上には傘をさした一人物が今まさに岩蔭に隠れようとし、岩山の後方の茅屋内では高士の読書する姿が円窓を通して見える。この冬枯れの凍てつくような自然は玉堂自身の心象風景でもあったろうし、散らつく雪の中で橋を渡り終えようとする人間、窓が開け放たれ、冷気を全身に受けて読書する人間に、自らの姿を投影させていたのかも知れない。五十才にして脱藩し、放浪の中に身を置く玉堂が旅の中で得た自然に対する痛いほどの共感を表現した絵といえよう。七十才に近い、最も充実した頃の制作になる玉堂画の代表作である」

 東雲篩雪の実物を見たあの日から30年弱の年月が流れ、私の人生にも喜怒哀楽の種々相があった。この間の経験の功により、玉堂の心境がもっと深く理解できるようになっているのではないかと思うようになった。またここ十年続いた平成不況は八方塞がりの重苦しく鬱陶しい気分を社会の隅々に充満させた。このような閉塞感のある環境に呻吟している今だからこそ玉堂がこの絵に託した気分を理解できるのではないかと思った。そんなわけでこれから琴弾の画仙、浦上玉堂がこの絵を書くにいたった心のうちを追ってみようと思う。


 二.池田家との関係

「市三郎、儂はもう長くは生きられないと思うのでこれから話すことは父の遺言だと思ってよく聞くがよい」
 と父の浦上兵右衛門宗純が吸呑みの薬草湯を飲んだ後、仰臥のまま窶れはてた細い両手を胸の上で組みながら言った。宗純は胃癌を患って三月ほど前から病床にあった。宝暦元年(一七五七)一月、後の名は浦上玉堂で幼名を市三郎といい、歳は七才、父宗純は六十才で、雪の降る寒い日のことであった。

「何を仰いますか。精のつく物をたんと召し上がって養生を続けられればきっと快復なさいますよ」
 と病人の枕元に正座していた市三郎は慰め言を口にしたが、心の中では父の死期が旬日に迫ったかと愕然とし、父の話を一言も聞き漏らすまいと畏まっていた。
「いやいや、儂にはお迎えが近くまで来ていることがよく判る。盛者必衰、会者定離はこの世の定めなのだ。決して悲しいとも無念だとも思っていない・・・・・・・・・・・ところでお茂」
 と傍らに座っている妻お茂の方へ視線を移しながら言った。
「はい。病は気からと申します。気を強くお持ちなさいませ」
 と夫の容態を気遣いながらお茂は言った。このときお茂は四十七才であったから市三郎は両親が年とってからの所謂恥かきっ子であった。
「市三郎は親の欲目から見ても利発な子だと思う。しかしまだ七才でなにしろ幼い。儂が死んだらお茂には苦労をかけることになるかと思うがこの子をよろしく頼む。さて、お前達に話しておきたいことが三つある。最初に藩主政言様に対する御奉公のことじゃ。次に浦上家の先祖のことじゃ。最後にこれからのお前達の行く末についてじゃ」
 と言って静かに目を閉じると諭す口調で語り始めた。

「前の藩主池田政倚(まさより)様は私の甥にあたるので、とても可愛がって頂いて非常に大きな御恩を受けた。御恩返しをしなければと影日向なく忠勤に励んだつもりだが、浅学非才のため殿様の御期待に応えるだけの充分な御恩返しができないままに殿は四年前の元文三年(一七四七)に亡くなられた。殿は晩年に嫡子の政香様が御幼少だったので池田由道様の次男政方(まさみち)様を養子として迎えられ、政香様の後見を託された。殿御逝去と共に政方様への家督相続が幕府に認可された。そして現藩主政方様は政務の傍ら政香様の後見をしておられるが、お気の毒なことに病弱であらせられる。恐れ多いことではあるが万一のことがあれば政香様が家督を譲られることになろう。政香様はお前よりは一才年上で、英邁な方だから優れた藩主になられるであろう。ゆくゆくはお前はこのお方に忠勤を励んで藩の発展を図らねばならぬ」
「父上が前の藩主池田政倚様の叔父にあたられるとは存じませんでした」
「前の藩主池田政倚様の実母であらせられる於常の方は儂の父宗明の姉、つまり儂の伯母にあたる方なのじゃ。そなたからは大伯母にあたられる」
「そうでしたか。ちっとも知りませんでした」
「私もこのことはまだ市三郎には話しておりませぬ」
 とお茂は弁解するように言った。
「さればこそ、儂の命あるうちに二人の前で言い残しておかねばならぬ」
 と言いながら胃の腑が痛むのか顔を顰めた。

「儂の父浦上宗明とその姉の常女の二人の姉弟が筑前黒田藩の庇護を離れて江戸へ上がってきたとき、鴨方支藩の始祖池田政言様は池田光政様の嫡出の次男でまだ部屋住みの身であったが父君が参勤交代で上府されたときお供されて江戸屋敷で武芸に励まれていたのじゃ。世話する方があって姉の常女は江戸池田屋敷の奥女中として奉公にあがったのだが、生来賢く美貌で性格の良かった常女は政言様に見染められて側室になられたという次第じゃ」
「その縁でお祖父様の宗明様も池田家へご奉公することになったのですね」「結果としてはそうなったが、それには時間がかかった」
「何故ですか」
「藩祖の光政様が英明な藩主で勤倹奨学を旨とし新規の召し抱えは厳禁されたからじゃ。それには慶安四年(一六五一)の由井正雪の乱も納まって天下は安泰になり幕府の威光が全国津々浦々まで行き届くようになったということもある」
「尚武より奨学ということですね」

「その通りじゃ。兵乱に備えて浪人を召し抱えるよりは陽明学を奨励し知行合一の実を挙げていくことのほうが大切だと考えられたのじゃ。更に光政様が寛文七年(一六六七)に日蓮宗不受不施派を厳禁されたこともお召し抱えが遅れた理由の一つじゃ」
「それはまた何故ですか」
「浦上家では不受不施派ではないにしろ、先祖代々日蓮宗であったから、姻戚関係があるとはいえお祖父様の宗明を例外的に扱うわけにはいかなかったのじゃ」

「不受不施派とは何ですか」
「不受とは法華宗の寺や僧が他宗からの布施供養を受けないということであり、不施とは信者が他宗の寺や僧に布施供養を捧げないということなのだ。このことを絶対守らなければならない教えとしている日蓮宗の一つの宗派のことなのじゃ。この教えをつきつめていくと天下人といえども法華宗を信仰する信者の気持ちを曲げることはできないということになり、そこのところが藩政にとっては具合がわるいのじゃ」
「なるほど。そのことは判りました。では何時から浦上家は召し抱えられたのですか」
「新藩の鴨方藩が出来て寛文十二年(一六七二)に政言様が初代藩主に分封されたときからじゃ」

「お祖父様は改宗されたのですか」
「いや、そうではない。光政様が隠居なさって家督を綱政様に譲られると同時に次男の政言様と三男の輝録様に備中墾田をそれぞれ二万五千石、一万五千石ずつを分与され鴨方支藩、生坂支藩を創設されて表向きの治世には口出しをしなくなられたからじゃ」
「つまり政言様が新藩主として新しくお祖父様の浦上宗明を召し抱えることについては、隠居だから支藩のことにまでは口出しされなかったので改宗しなくて済んだ」
「そういうことだ」

「それまでお祖父様の暮らし向きはどうだったのですか。難儀をされたことでしょう」
「浪人の生活は決して楽なものではなかったと思うよ。町人の子供達を集めて手習いを教えたり傘張りの内職をしたり道場へ通って師範代として稽古をつけたりして暮らしておられたと聞いておる。いずれにしても浦上家は池田家鴨方支藩に仕官できるようになったのだから忠勤に励んで御恩返しをしなければならない。お前は若いのだから政香様に御奉公することになると思うが、その時に備えて勉学に励みなされや」
「はい。陽明学を究めたいと考えております」
「それはちょっと差し障りがあるからよく考えたほうがよかろう」

「何故ですか」
「それは幕府が朱子学を重視し、藩もそれに倣ったからじゃ」
「されど岡山藩は光政様が熊沢蕃山先生を登用されて以来、治世に実績をあげられ陽明学の本拠地として学者の往来も多く、藩学としても大いに栄えたではありませぬか」
「確かに熊沢蕃山先生が正保二年(一六四五)に再来されて明暦三年(一六五七)に致仕されるまでに上げられた実績が大きかったのは事実だ。しかしそれも光政様の後楯があったればこそなのじゃ。ところが明暦三年以降、光政様は方針を変えられて次第に陽明学から朱子学に傾斜していかれた。市浦清七郎、三宅可三、林文内、小原善助、中村七左衛門、窪田道和先生等を次々と招かれて藩校の教授陣は全て朱子学者に入れ代わってしまった。今では藩学は完全に朱子学になってしまった。特に、朱子学者の林信篤が元禄四年(一六九一)に幕府の大学の頭に任ぜられて以来、陽明学は藩としも幕府に対する手前憚られるようになっている。密かに蕃山先生の徳を慕って陽明学を学んでいる者は藩内にもまだ沢山残っている。しかしここが肝要なところだ。幕府や藩の御政道に逆らうようなことをするのは謀叛と見做されお前のためにも先々良いことはない。時流を的確に読み取りそれに順応していくことは処世上最も大切なことじゃ。ここのところはよく思案するがよい」
「はい。よく判りました、よく思案してみたいと思います」
「今日は疲れたのでこれで終わりにしよう。明日は浦上家の祖先のことについて話さねばならぬ」
 と言うと鼾をかいて眠りだした。

                            
 三.家系

「儂がもの心ついた八才の時に父宗明は亡くなったのだけれど、丁度今儂がお前に話しているように病床の枕頭で儂は父から浦上家の系図を渡され、先祖のことを聞かされたのじゃ」
 翌日市三郎が母とともに宗純に呼ばれて枕頭へ正座すると一巻きの系図を手渡してから父の宗純はこう切り出した。

「遠く遡上れば浦上家の始祖は竹内宿弥(たけしうちのすくね)なのじゃ。この方は第八代天皇孝元天皇の皇子、比古布都押之信命(ひこふとおしまことのみこと)と山下影比売(やましたかげひめ)の間に生まれた御子で長寿を全うし、景行天皇から仁徳天皇まで五代の天皇に忠実に仕えられたそうじゃ。この方の末裔に紀貫之がおられる」
「あの三十六歌仙の歌人ですか」

 歌の心得のある茂が興味ぶかそうに口を出した。
「そうじゃ。土佐日記の著者としても有名な御仁じゃ」
「それでは学問がよくできるように紀貫之にあやかって、市三郎にも紀姓を名乗せてもいいのでしょうか」
「差し障りはなかろう。むしろ紀貫之も前途有為の末裔が出てきたものじゃと喜ばれることだろう」
「この紀貫之から二十二代の裔にあたる七郎兵衛行景が播州浦上庄を領した時、当時、播磨、美作、備前三国の守護であった赤松則祐に仕えたそうだ。赤松則祐は室町幕府でも侍所の所司となり四職家の一つとして重きをなした名門の武家なのじゃ」

「それでは、その頃浦上の姓がうまれたのですね」
「そのとおりじゃ。行景以降代々浦上氏を称して室町時代末の戦国時代に備前和気の天神山城に拠って備前、美作、播磨三国に武威を奮った浦上宗景という優れ者が出たのじゃ」「その後はどうなりました」
「ところが、弱肉強食で下克上の戦国時代の中で、家臣の宇喜多直家が力をつけてきて、浦上家の家臣の中で筆頭の地位をしめるようになったのじや。そのうち、野心家の直家が権謀術策を弄して謀叛を起こし、天正五年(一五七七)には天神山城を攻撃してきたのじゃ。ところが、直家の調略によって宗景の重臣であった明石飛騨守景親父子、延原弾正忠景、岡本五郎左衛門龍晴らが主家を裏切り直家方についたので数日間の攻防の末あっけなく落城してしまったのじゃ。宗景様の無念が偲ばれよう」

「宗景様はその後どうされたのですか」
「一旦は播磨へ逃れ何回も再興を画策されたが成功せず、最後は頼っていた黒田官兵衛の転封に従って筑前へ下って八十才の天寿を全うされたのじゃ。この宗景様のあと浦上小二郎、浦上備後守宗資と続き、浦上松右衛門宗明が黒田氏の庇護を離れて姉の常女と共に江戸へ上り昨日話した経緯を経て池田藩へ仕えることになった次第なのじゃ。名前に宗がつくのは宗景様の武勇にあやかりたいという意味があるのじゃ」

「紀之貫といい浦上宗景といい歴史に残る先祖を持っていることを誇りに思います」
「お前には於繁、於千代という二人の姉と富太郎という兄があったが、於千代と富太郎は生まれて間もなく死んでしまった。長女の於繁はお前も知っているとおり昨年、二十二才の若さで流行り病に罹って逝ってしまった。儂が死んだら後には母上とお前だけになってしまう。これも運命だから致し方なかろう。そこで母上の教えをよく守り、体を鍛え勉学に励み、主君に忠義を尽くさねばならぬ。そして名門の浦上家の繁栄を図って名を残して貰わねばならぬ」

「お言葉しかと肝に命じます」
「お茂も残るのは市三郎だけになるが幸いこの子は体も丈夫だし利発な子のようだから、学問に励ませ政香様のお役に立つ人物に育てて欲しい。後をよろしく頼む。儂らの若かった頃は武芸第一じゃったが、時代が変わりこれからは学問で身をたてる世になると思うからくれぐれもそのことだけは心して励んで貰いたい。儂がお前達に最後に言いたかったのはこのことじゃ」


四.藩主政香と水魚の交わり


 浦上玉堂は延享二年(一七四七)、前述のように父浦上兵右衛門宗純が五十四才で母茂が四十才のときの第四子として岡山市石関町天神山の鴨方藩邸で生まれた。父は鴨方藩主池田政倚に仕える家臣であり、母は三百五十石取りの岡山藩士水野七郎左衛門の娘茂であった。幼名市三郎のち磯之進を名乗った。鴨方藩は独自の支配統治機構は持たず屋敷を岡山に置いており、備前鴨方には領地だけがあった。

 宝暦元年二月五日、父宗純は六十才で岡山市内の鴨方藩邸宅で静かに黄泉の国へ旅立った。あとには市三郎と母親茂の二人だけが残された。市三郎は七才であった。家族としては母子二人だけの寂しい野辺の送りを済ませると市三郎は家督相続を藩に申請し三月に許可された。と同時に初代藩主池田政言の側室お常の方が市三郎の大伯母にあたるという特殊な姻戚関係が配慮されて御広間詰めを仰せつかった。

 市三郎は出仕すると公務が執り行われる表御用部屋の片隅に控えて、なにかれとなく雑務を言いつけられては走り廻っていた。名前を呼ばれたときには大きな声で返事をし、目を輝かせて命令を受け復唱してから、きびきびした物腰で走り去る小さな後ろ姿には気品さえ感じられた。言いつけられたことは直ちに実行し、例え小さなことであってもその結果を必ず快活な口調で報告する態度は礼儀にかなっており、並みいる大人達をしばしば感心させていた。その立ち居振る舞いには賢い母親の躾けが偲ばれた。初学者用に編纂された小学という礼儀、修身の書を九才のときに初めて読んだと後日述べているように母の教えを自らも学問的に深めていこうという向学心が旺盛な少年であった。

 先ず、学問についてみると、十才のとき藩校への入学が許され学問に励んだ。言わば働きながらの就学であったが、真面目に学業にも勤務にも励んだ優等生であったことが「備陽国学記録」の記述によっても窺い知ることができる。即ち、十四才のときには平生行儀のよい学生だけが出席できる夕食会に選抜されているし、十五才のときには詩を学んでいる。そして十六才のときには既に大生となっている。二十三才では平生怠りなく授業に出て聴講し勉学に精勤した者として表彰されているのである。

 次に、勤務についてみると、宝暦七年(一七五七)僅か十三才の年少であるにもかかわらず、三番町にある吉田権太夫跡の家屋敷を拝領できるほどの働き振りを示している。
 宝暦十年(一七六十)十六才のときには、藩主政方逝去の跡を三月十日政香が襲封したのであるが、その年七月九日磯之進(この頃には市三郎から磯之進に名乗りを変えていたと思われる)は新藩主に初のお目見えをした。同年九月二日には前髪を切って元服し翌三日から御広間御番として出仕した。そして九月二十一日には御側詰めを仰せつかって藩主政香に近侍することになった。このとき磯之進十六才であり、政香は十七才で主従共に純情多感な青年であった。

 年齢が一才しか違わないという親近感もあったであろうし、真面目に人生に立ち向かっていこうという意気込みがお互いの琴線を刺激しあったのか二人の間には水魚の交わりの如き関係が発生した。

「磯之進、儂は若くして藩主になった。まだまだ勉強しなければならないことが沢山あるが、堯・舜の時代のような理想的な治世をしたいという夢を持っておる。それには先ず治世の根本理念を大学に言う所の修己、治人に置かなければならないと考えている。そのためには明徳を明らかにし、民を新たにし、至善に止まるよう励まなければならないと思うのだ」
 と、政香は御側詰めを仰せつかって初めて出仕した磯之進へ所信を表明した。
「はい。新しい藩主に対して領民達は仁政を期待していると思います」
「そこで、身近な手本として藩祖光政公の治世の理念と事跡を手始めに勉強してみるのがよかろうと考えている。それは光政公が僅か八才で因幡、伯耆両国の領主に封じられてから国を治める要諦は何かと苦慮された末、儒学の勉強をされて、仁政以外に術がないとの結論を得られたからじゃ。事実光政公は仁政を施され優れた実績を挙げられているからその跡を辿ってみるのは有意義なことだと思っている」
「仰る通りだと思います」

「光政公が五才のとき家康公にお目見えしたときの逸話を聞いたことがあるか」
「いいえ、不勉強でございまして未だ・・・・・」
「家康公が光政公を膝元近くへ召して引き出物に脇差しを与えられてから髪を撫でながら<三左衛門〔輝政〕の孫よはやく成長されよ>と言葉をかけられたそうじゃ。そのとき光政公は拝領した新藤五の脇差しを取り上げすらりと抜いて、じっと見つめてから<これは本物じゃ>と言われたという。このとき家康公は<あぶない、あぶない>と手ずから鞘におさめられて光政公が退出されてから<眼光のすざまじき、唯人ならず>と感嘆されたという逸話が伝わっておる」

「天性明敏な資質をお持ちだったのですね」
「更に光政公が十四才のとき儒学を始められたがそのときの逸話を聞いたことがあるか」「いいえ、恥ずかしながら存じません」
「光政公が夜、寝所に入っても寝つかれず睡眠不足が続いているので、近侍の者が心配してその理由を聞いたが返事をなさらなかった。ところがある夜から熟睡されるようになったので再びそのわけを聞くと、次のように答えられた。< 先祖から大国の統治を任されたが自信がなくどのようにして領民を治めればいいのだろうかと考えを巡らせているとどうしても眠ることができなかった。ところが昨日板倉勝重から論語の進講を聞いているときに大国の領主としては特に寛仁の徳が必要だと諭された。自分でも心に奮い立つものを感じて〔君子の儒〕となって領民の教導・安定化を計ろうと決意した。それからは熟睡できるようになった>ということなのだ」

「基本理念を模索されたのですね。そして非常に固い決意を持たれたのですね」
「それから、また次のような話も伝わっているのじゃ。十五才のとき京都所司代の板倉勝重に治国の要道を尋ねられたことがある。そのとき勝重は四角な箱に味噌を入れて丸い杓子で取るようにすればよかろうと答えた。すると光政公は暫く考えられて箱の隅にある味噌へ杓子が届かないのをどうすればよいかと不審を抱かれた。そこで勝重は光政公のような明敏な君主はおそらく国中を隅々まで罫線をひきつめたように統治しようと思われるだろうが、大国の政治はそのような厳密なやり方だけでは収まらぬと考えて先程のように答えたが、予想通り不審を抱かれた。国事は寛容の心をもって処理せねば人心を得ることは難しいものであると諭して勝重は落涙したというのじゃ」「寛容の心の機微についても悟られるところがあり、寛仁の徳を実践しようと決意されたのですね」
「その通りだ。それからの光政公は正月の書き初めにも好んで儒道興隆、天下泰平の八文字を書かれるようになった」

「現在の藩学は表向きは朱子学になっておりますが、光政公も始めは陽明学だったと聞いておりますが」
「その通りだ。光政公は日本で最初の陽明学者中江藤樹先生に私淑され、中江先生をお迎えしようとしたが果たさなかった。しかし手紙の頻繁なやりとりで議論をされ参勤交代で上府の折り大津の旅宿へ先生をお招きして清談を交えておられるし、先生の長子中江左右衛門、次子弥三郎を初め熊沢蕃山、泉八右衛門、中川権左衛門、加茂八兵衛門が来藩して光政公の陽明学修業は奥義を究めるまで進んだのじゃ。そして池田藩の陽明学は天下にも有名になった。特に熊沢蕃山先生を重用され治世にも実績をあげられた」

「光政公は何故そのようにまで陽明学に惚れ込まれたのでしょうか」
「陽明学の説く心即理、知行合一、致良知という考え方が魅力的だったからだと思う。つまり万物存在の根本は心にありとする心即理の一元論を基本として理論を組み立て、人間の心には先天的に是非善悪を判断できる作用すなわち良知が備わっており(致良知)、まず行ってしかるのち知るべきことの必要(知行合一)を説いているから、朱子学よりも実践的だと判断されたのだろう。それに対して朱子学は性即理、先知後行、格物致知という考え方であり、今一食い足りないものを感じられたのではなかろうか。つまり天地万物は気によってなっているが、万物を正しくあらしめるものは理である。自然法則も道徳規範も同一の理であり(性即理)、この理を窮めることによって事物の本体、人間の本性が明らかになり(格物致知)、かくて精神の修養も倫理の実践もできる(先知後行)と説いているのだ」

「いずれの学派でも修養によって聖人の域に近づき仁政を行うことを目標にしていることではたいして変わりはないと思うのですが」
「どちらかといえば朱子学が合理的客観性を重視するのに対して陽明学は心の内的契機と実践性を重視しているということが言えると思うよ」

「ところで、光政公は藩学を何故陽明学から朱子学へ変更されたのでしょうか」
「光政公の熱心な陽明学修業に対して謀叛の下心ありとの風評が立ち政治問題になったことがあるのだ」
「そんな馬鹿な」
「ところが世の中には妬みや嫉みがつきもので、大老の酒井忠勝様が自分ではあまり学問が好きでなかったものだから、光政公の篤学の評判を苦々しく思い大勢の陽明学者や家臣を集めて派手に研修会を開くのは如何なものかもう少し控え目になされてはと警告してきたり、京都所司代の板倉重宗が光政公の政治的立場を心配して研修活動の自粛を忠告してくるということがあった」

「世の中はなかなか難しいものですね」
「そんなことで信念を曲げられるような光政公ではなかったが、悪いことにたまたま江戸で浪人別木庄左衛門一党の陰謀が露顕するという事件が発生した。詮議の過程で謀叛心を抱く大名として紀伊、尾張、越後、相模、筑前の諸公の名前とともに、光政公の名前も入っていた。特に光政公に対しては逮捕された一味の一人が光政公の陽明学については表向きは儒者を装っているが内々では謀叛心を抱いていると讒言したのだ」
「悪い奴がいるものですね。それで結果はどうなりました」
「光政公に代わって子息の備前藩主綱政様と弟の播磨宍粟領主恒元様が閣老の訓戒を受けただけでそれ以上の嫌疑をかけられることはなかった。しかしこの事件がきっかけとなり酒井大老や御用学者の林道春らの干渉が厳しくなってきた。そこで光政公も事態が切迫してきたので、表向きは藩学としての陽明学を禁止したが家老達の自主的な修学は例外として意地は通された」

「御自分で修学された陽明学の信念に基づき仁政を敷こうとされる強い意思をお持ちだったのですね」
「ところがこのような幕府の陽明学に対する抑圧にあって、時勢随従型で見識のない家臣達の間に陽明学を見放して朱子学に転向する者が続出してきだした。そんなとき、たまたま熊沢蕃山先生が落馬して右手を怪我して軍務に耐えられなくなって致仕し、備前を立ち去るということがあった。この間備前にいた陽明学者達が次々病没したりしたこともあって備前の陽明学の担い手がなくなってしまった」

「それで朱子学者達が来藩して朱子学に代わってしまったのですね」
「それに蕃山先生の意見が光政公と次第に合わなくなってきていたことも見逃せない。蕃山先生は致仕後も藩政に対する様々な批判や諫言を綱政様へ手紙で書いてきておられるが所論に反して言行不一致があったり、高慢になってきて光政公が不信を抱くようになってきていたことが窺えるのだ。そんなことで光政公が従来の方針を変えて朱子学を藩学として認知されたということではなかろうかと理解している」
「御賢察だと思います。陽明学によろうと朱子学によろうと領民を教化して堯・舜の理想的な仁政を行う事を両派とも最終的な目的としているのですから」
意気のあった理想に燃える若い二人の会話は時間の経つのも忘れて続く。


 五.理想実現に向けて若き藩主を補佐
                            
 宝暦十一年(一七六一)磯之進十七才のとき藩主の政香が従五位の下に叙せられ、内匠頭に任じられたのは磯之進にとっても嬉しい慶事であり、政香の仁政実現の理想にますます共鳴するのであった。

 翌十二年には正月に御前で頭分を仰せつかり主君のために忠勤に励まなければと更に決意を固めたのだがこの年より、主君に倣って我流ではあったが絵を描く勉強も始めた。主君と同じ心境になって治世を補佐するためには主君のなされることはすべて経験する必要があると判断した結果である。このように全身全霊を傾けて主君に忠勤を励もうとする磯之進であった。

 明和三年(一七六六)十月十二日藩主政香は磯之進はじめ近習に次のように語った。
「儂は光政公を敬慕しているので、最近その考え方を勉強しているのだが光政公は治世のありようの基本を次のように考えておられるようだ。将軍は日本国中の人民を天から預かり、藩主は一国の領民を将軍から預かっている。家老と家士とはその藩主を補佐してその領民が安んじられるように計らなければならない。一国内の領民が安んじて生活できるか不安を抱いて生活するかの責任は一にかかって一国の藩主にある。たとえ一人であっても領民を困窮させるようなことがあると、結果的には将軍一人の責任となる。藩主は決してそのようなことにたちいたらせてはならない。そのようなことにでもなれば、将軍に対しては不忠となり、領民を困窮から救えなかったという点で不仁になる。このことによる藩主の罪は死をもってしても足りない位重いものである。だから学問をして自己を修め、民を安んじせしめることを実行しなければならない。もしも自分に悪いところがあれば、遠慮なく諌めて欲しい。怠慢だと見えたら激励して欲しい。皆を頼りにしていると仰ったのだ。儂はこの光政公のお考えを肝に命じて治世にあたりたいと思う」

「素晴らしいお考えだと思います。ところで光政公の治世の中で具体的な施策にはどのようなものがあったのでしょうか」
 と磯之進が聞いた。
「例えば承応三年(一六五四)の大洪水の時の藩を挙げての大救済事業がある。この洪水は藩始まって以来未曾有の大災害であった。災害の規模で言うと、流失、倒壊、破損した家屋は士屋敷、徒・足軽屋敷、町家、農家合わせて三七三九戸、冠水により荒廃した田畑の石高一万一三六0石、流死者一五六人、流死牛馬二一0匹という大きなものであった。これに続いて引き起こった大飢饉で餓死した者は三六八四人にも達した。
 このとき光政公が処置された緊急対策は先ず第一に藩の米蔵を開放して一粒の米も残らないように放出されたことである。次に不足の分は他国米を買い入れたり大阪蔵屋敷の藩米を取り戻して一国の内一人たりとも困窮する領民がないようにと手を打たれた。更に第三の対策として藩役人の手で飢人調査を実施し、できる限りの米銀を支給された。この対策で翌年の一月から四月までの間に一人一日あたり一合の基準で支給された飢扶持の人数は二十万六千七百五十二人にのぼり、その扶持米は一日当たり二百六石に達した。
 復興対策としては、先ず普請及び救済用の経費として銀一千貫を上方町人から借用された。次に義母である天樹院の斡旋で幕府から金四万両を借用された。このとき復興のために要した夫役は約九十万人にものぼる大事業であった。更に洪水の予防対策として百間川を開窄された。この御仁政は未だに領民の間で語り継がれている」

「家臣や領民の苦しみを自分の苦しみだと受け取っておられたのですね。領民を慈しむ君主としての仁徳が偲ばれる事例ですね」
「その通りだ。更に凄いと思うのは、この時救済された農民に対して忝じけながらせることを厳禁し、藩主として当然のことをしたまでだと言われたことだ。この例を聞いただけでも儂が光政公を手本にしたいという意味が判るだろう。また寛文八年(一六六八)には百姓が代官に盆、暮れに付け届けをする慣行を禁止されるとともにその他一切の付け届けも禁止された。本来、贈答の品というのはお世話になった人へ感謝の気持ちを形として表すという意味から発生したもので、礼儀にかなっているものであるが、最近では本来の意味が失われて利益誘導のための手段として用いられるようになった。悪い心の者は自分の為に利益になるように年貢を少なくして貰いたいと思って代官に過大なお歳暮やお中元を贈ることになるし、貰う方でも贈り者の多い方へ有利な取扱いをするようになる。このような悪しき行為が行われないように付け届けを禁止されたのだ。人情の機微にまで立ち至って、不正、不公平の出来ない仕組みを作ろうとされたのだ」

「なるほど、人の心の奥底までも読み取られて不正や不公平の原因となりやすい贈り物という習慣を禁止されたわけですね」
「天和二年には人身売買を厳禁し年季奉公の期間を十年以内に制限して弱い立場にある領民を保護しようとされている」

「領民の内から一人でも不幸な者をださないという仁政理念の発露ですね」
「その通りだ。まだまだ沢山事例はあるが、凡人ではなかなか思いつかない例を幾つか拾いだして要点だけをあげてみることにしよう。その一つは仁政を実現するためにはどのようにすればいいかを藩士に提案するよう求め、意見を書き上げさせるというような思い切ったこともなされたことだ」

「藩士の考えを汲み上げて治世に生かしていこうというお考えですね。これは自らの考えの足りない所は藩士の助けを借りようというお考えですから、無能のくせに権威ばかりを重視するような為政者にはとても真似のできない英断ですね」
 と磯之進が相槌をうつと
「そう思うだろう。儂は自分も余程修業しなければそこまでの境地になれないのではないかと身の引き締まる思いで光政公の偉大さを感じている。また次のようなことまでなされている。藩政を任せるのに適任だと思う者を藩士に投票させてこれを選任されたりもしておられるのだ」
 と政香の説明にも次第に熱気がこもってくる。

「人事にまで下の者の意見を反映させようとなさったのですね。とても勇気のいることだと思います」
 と磯之進は家臣達の性を善とみる光政公の人間観に今までにない斬新さを感じるのであった。

「孝道と義道の実践を奨励するため村々で評判の孝子や烈婦を推薦させて彼らに褒美を下されてもいる。実に光政公はきめ細かなところにまで心を配っておられるのじや」
「領民の心をせき立てて徳ある行為に赴かせようとされているのですね」
 と領民の動機づけまでを考えている光政公に理想の君主のイメージを見る思いで磯之進は政香の熱弁に聞き入っていた。
 またこのときの話の続きとして次のようになことも政香は言った。
「ある人が備前には光政公の教えが残っていないと言ったそうである。だが何をもってそう言うのだろうか。備前には閑谷校という藩校もある。祖先を祭る芳烈祠もある。その上閑谷校で行われている学問は正統なもので他藩の及ぶ所ではない。最終的に光政公がお考えになっていたのは家中の者が単に博識者になればよいなどということではなかった。人の踏み行うべき正しい道を知り、人の人たる道理を十分に弁えて良い藩士・領民になって欲しいと願っておられたのだ。だから藩校の教育方針も世間でとやかく言われているほど中国趣味に片寄ったものではない。聞くところによるとあの有名な足利学校でさえ、今では僧侶が全てを取り仕切っているらしい。そうであるならこれは本来の学問が歪められていると言わざるを得ない。つまり学問は何も仏教界のみのためにあるのではなく、道理を知って人の人たる道を尽くして良き士となれと願う、儒教の根本理念を実現するものとして存在べきものであろうと儂は考えている」

 別の日の夜、磯之進他の側近の者に次のようにも語った。
「そもそも人間は万物の霊長であって、天と地と並んで三才と呼ばれているものであるが勝手気儘をして、人の踏み行う正しい道を知るための学問をしなければ禽獣と同じだ。我々鴨方支藩の者が不肖の身で二万五千石の領国を先祖より受け継ぎお預かりしているのは分に過ぎた事である。しかし、一旦こうして一国を預かっている限りは光政公の言われたように、領民を飢えさせてしまっては死罪になっても贖いきれないという言葉を一時も忘れてはならない。だからよく学問をし明徳の道を明らかにして光政公が手本を示された通りのことをしなければならないと考える」

 このような藩祖光政の経世済民の実学を基本として善政を敷こうとした情熱は熱い血潮となって蘇り、若い藩主政香の体内を経由して磯之進へと流れ込みその心臓の鼓動を昂らせるのであった。いわば兵右衛門の宿志となって心の中に大きな位置を占めるようになっていった。

明和五年(一七六八)二十四才のとき五月には御手許御用奥詰めを仰せつかり、御留方を加役された。政香と兵右衛生門の水魚の交わりはいよいよ深まり、理想実現に向かっての二人の議論はしばしば行われ、時には難解な哲学論争に及ぶこともあった。
「兵右衛門よ、人間の本質をどのようなものとしてとらえるか、とりわけその本性をどのようにみるかについて議論してみようではないか。その見方次第によっては治世のやりかたが変わってくると思うからだ」
 と政香が日頃の勉学の成果を復習するつもりなのか今日はいつもと口調が違っていた。
 兵右衛門は改めて人間の本性はと問われると性善説とも性悪説とも決めかねるところがあった。ただ人間の本性は善でもなければ悪でもないとする告子の説に最近興味を持っていたので主君がこの難しい哲学的な課題に興味を示したのをよい機会と捉えて主君自体の考えを確かめておこうと思ったし、このさい性善説と性悪説について復習しておくのもよかろうと思った。       
「つまり性善説か性悪説かということですか」
「そうだ。そちはどちらの立場をとるのか聞いてみたい」
「それがしは時と場合によって、ある時は性善説であるときは性悪説です」
「それでは議論にならないではないか」
「人の性は半分が善であり半分が悪だと思っております」
「お互いの理解を深めるために今日は儂が性悪説にたつからそちは性善説の立場にたって勉強の成果を試してみようではないか」
「殿がそう仰るなら仮に性善説の立場にたつことにいたしましょう。殿も仰ったように諸氏百家の学説の復習を兼ねて理解を深めるということで論じますから殿が既にご存じのことを喋ることもあると思いますが本日の討議の趣旨から御容赦願います」
「勿論望むところだ」

「孟子は人間には誰でも人に忍びざる心つまり他人の不幸を見過ごすことのできない同情心があるとして性善説を唱えています。そしてその理由としては、よちよち歩きの幼児が井戸に落ちようとしているのを目撃したら、誰でもじっとしていられない惻隠の心にかられて助けるために駆けだすであろうということを挙げています。そしてこれは自然な行為であり、幼児の親と交際したいからでもなく、村の仲間から褒められたいからでもなく、助けなかった場合の非難を恐れてからでもないと言っているのです。これが出来ないものは人間でないと言っています。それがしもこの設例ではその通りだと思います」
「そうだね、そして彼はこの事例から類推して惻隠の心、羞恥心、謙譲心、善悪の分別心のない者は人間ではないと言っている。更に惻隠の心は仁の端であり、羞恥心は義の端であり、謙譲心は礼の端であり、分別心は智の端であり人々は自然に備わっているこの四端を拡充するように努めなければならないと述べているのだね。身近な事象から立論していくところは流石に優れた学者だね。誰にでも納得できる理屈だと感心するよ」

「殿は性悪説ですからそこで感心されていては困りますよ」
「そうだったな。荀子は人間の本性は悪であると言って次のように説いている。人間の善さというものは偽、つまり後天的な矯正の結果なのだ。人間の本性は生まれつき利益を求める傾向があり、これに引きずられるから譲りあうことなく奪い合いが起こるのである。生まれつき妬み憎む傾向があるため人を害して誠心の徳がなくなるのである。生来美しいものを見聞したがる耳目の欲望があるから無節制ででたらめになり、社会規範も社会秩序も失われてしまうのである。こういうことだから人間の生まれつきの性質や感情にまかせると必ず奪いあって社会の秩序が破られることになって、世界が混乱してしまうものである。そこで教師による感化や社会的規範による指導があって始めて社会の安定と世界の平和が保たれるのである。こう見てくると人間性の本質は悪であることは、はっきりしている。人間性が善に見えるのはあくまで後天的な矯正の結果なのである。このように性悪説を述べて具体的な日常の行為を次のように説明しているのだ。つまり人間は腹が減ると腹一杯に食べたいと思い、寒いと暖まりたいと考え、疲労すると休息したいと思うのだがこれは人間自然の性状なのである。ところが、今ある人が腹の減っているのに年長者より食事を先にとろうとせず、疲労していても休息しようとしないのは誰かに譲り、誰かに代わろうとしているからである。このような子供が父にかわり、弟が兄に譲るという行為は人間生来の自然の本性ではないのであって、後天的な教育の結果なのであると」

「荀子は人としての道を踏み外さずにおれば、天も禍害を加えることはできないと言っていますし、天道と人道との分別をはっきり知っていれば、最高の人物といえるとも言っています。更に天を偉大だとしてその恵みを慕っているよりは、自分で物を蓄積して処理していくほうがまさっている。天に従ってそれを褒めたたえているよりは、与えられたものを処理していくほうが勝っているとも述べていますね。荀子は天と人とを分離して考えているわけです。荀子にとって天は純粋な自然現象以上のものではなかったのですが孟子は天には道理があると考えている点で違いがあるようですね」

「孟子の性善説に対して告子の批判があるのを知っているとは思うが、彼は次のように言っているね。人間の性は善でも悪でもない。生命そのものが本性である。食欲と性欲が本性である。従って人間の本性は善行もできれば悪事も働ける。だからこそ文王や武王のような聖王のときには民衆は善を好んだが、幽王や霊王のような暴君のときには民衆は乱暴を好むようになったのだ。また聖天子の堯の時代に兄の舜を殺そうとした象のような男がおり、瞽叟のような悪人の子に舜のような聖人が育ったのは人間の本性は善でも悪でもないからだ。つまり人間の本性は価値判断の伴わない生き物としての現象にすぎないと言っているわけだから天は自然現象だとする荀子と似通った理論構成になっているね」

「孟子だって人間の内心には外界の刺激にひかれて悪にも向かうような自然な欲望が存在することを人間の本性として認めて、次のように言っていますよ。うまいものを食べたい、美しいものを見たい、よい音色を聞きたい、よい香りをかぎたい、体を安楽にしたいというのも人間の本性である。しかしそこに運命がありそれが得られるかどうかはままならない。そこで君子はそういうものは人間性とはしない。親子の間に仁愛が行われ、君臣の間に義理が行われ、主客の間に礼が行われ、賢者の身に知性がつまれ、天の道の上に聖徳が輝くというのはままならぬ運命である。しかしそこに人間性がある。そこで天子はそれらを運命とはしないのであると。ちょっと論理的には弱い気がしますね。孟子が強調したかったのは人間の本性は鳥や獣と違って高貴なものであるから道徳的なものでなければならないという価値判断が暗黙のうちに前提としてあって、性善説を主張したというふうに思えるのですが」「非常に難しい理屈になってしまったが、纏めてみると孟子は人間の内心にある高貴な道徳的欲求を重視してそれだけを性と称したのに対し、荀子は利益を追求する感覚的な欲望を重視してそこから性の概念を構成したと言えると思うよ。だから論理的帰結として性悪説になるわけで性そのものの見方については根本的な立場の相違があった。しかし孟子と荀子では本性論では全く正反対の立場にたったが目指したところは共通のものであった。彼らはあるべき人間の姿を道徳的なものへと導くための学説として本性論を展開したわけで両者とも仁を実現していくために修養の重要性を説く点では同じであった。儂は治世を行っていく上ではやはり光政公がそうであったように孟子の説く仁義礼智の徳は外から自分を修飾するものではなく自分が生まれつき持っているものだという考え方を支持したいと思っているし、これからも善なる性に磨きをかけるようますます修養しなければと思っているよ」


 明和五年(一七六八)五月十六日政香は江戸から帰館したときに久しぶりに会った兵右衛門に対して次のように言った。
「儂は道中の駕籠の中で論語を読んでいた。その中の子路の編に君主たることの難しさを認識することこそ国を興す本である、ということが書いてあった。ここの意味を考えていると儂はわが身につまされて嘆かわしくなってしまった。よく考えてみると我々は旱魃が続き作廻りがよくないことで難渋しているがそのことはちっとも憂いとするには足りないことだということに気がついた。とにかく修学の根本とするところのものが未だ備わっていないのが憂なのである。その根本とするところのものが備わっていさえすれば、作廻りのこと等は枝葉末節のことである。君主たることの難しさを知って、自らを戒め慎み、常に自分のしていることに恐れおののく気持ちを忘れずに持っていること、これこそが学問をし修行することの根本である。この根本を忘れず常に学ぶことを忘れなければ小々の困難等は憂いとしない」

 なかなか難しく判りにくい言い回しであるがここで政言が言っていることは現実世界での農作物の多寡などという政治の実効性よりもむしろ統治に当たる藩主の「真の君主性」とでもいうべきものの精神的優位性を主張しているのである。

 そしてまた次のようにも言った。
「若い時は一度しかなくて二度とは巡ってこないものである。従って近習の者は皆若いのだからいずれも文武に励むべきである。世間では大名は学問がなくてはならないというがこれは当然のことであってこういう言い方では不十分である。大名に限らず一般の人々も学問がなくてはならない。そうでなければ各々が持っている役目、務めが全うできないものだ」
 と奨学にかける熱意を常に語っている。

 兵右衛門が政香に仕えてこれらの言説を聞き、心を打たれたのは若き藩主の情熱と生来備えているロマンチストとしての性格であり人柄であった。そして言葉の端々に迸り出てくる、領民一人一人の幸せを常に願っている仁の心であった。また日常生活の中で観察される端正な立ち居振る舞いと清潔感溢れる生活態度や人生を真剣に生きて行こうとするひたむきな姿勢が見習うべき理想像として兵右衛門の心に刻みこまれていった。

 六.理想の藩主夭折
                            
 明和五年(一七六八)心服していた藩主政香が東武より帰国して間もなく腫病に罹り、病臥に伏して数日後の八月五日に夭逝した。
 兵右衛門の受けた衝撃は大きく筆舌に尽くしがたいものであった。悲嘆にくれる兵右衛門を慰めてくれたのは母親の茂であった。
「覚えておいでかい。十七年前の雪の降る夜、病の床で父上が盛者必衰、会者定離は人生の定めと言われたことを。お前は幼くして頼るべき柱石を失ったにもかかわらず、ここまで立派に生きてきたではないか。何時まで嘆いていても致し方あるまい」
「その頼るべき柱石を失った今は、暗い夜道に提灯を失った気持ちです」
「その気持ちはよく分かるが、今のお前は立場が違う。殿の信頼を得て治世の一翼を預かるまでになったではないか。今では領民から頼られる柱石の一つになっているのだ。その柱石が嘆いているばかりではこれを頼りにしている領民は何にすがればよいのじゃ。殿がやり残されたことをなし遂げていくことこそが殿の御無念を晴らすことになるのではないのかえ」

 政香の葬儀は御葬儀の件諸事取計らいを命じられた兵右衛門が取り仕切る中を粛々と挙行された。
 葬儀を無事終えて兵右衛門の脳裏を駆けめぐるのは生前政香と忌憚なく仁政実現の理想に燃えて語りあった日々のことであった。退庁してはそうした言行をかきとどめていた日誌を繙いては、ありし日の政香の姿を偲んでいたが、藩主の言行を出版してその理想を明らかにし遺志を実現していくことが最大の供養になるのではないかと考えた。

 十月に出版した「止仁録」は生前の政香の言行を記したものであるが、その序で兵右衛門は次の趣旨のことを書いている。ここでは佐々木丞平氏の口語約の名文を引用させて戴く。
「君子には君子たるべき根本となるものがある。国家を平らかに治めるにはいくら智が長けていたところで、根本のものが備わっていなければ、たとえ枝葉が美しく見えてもそれは本物ではない。その根本となるべきものは、 <大学>に謂う所の「為人君止於仁」である。即ち、天は万物を生み出したが、夫々にその止まる所、止まるべき職分を与えている。我が君は幼きより学問を好み、その身を修め、政治を行う道は、決して古の聖人の教えに違うことがなかった。ただ単に智に長けているだけでなく、真に天より与えられた職分としての仁職を知り、実に国家を治める根本をひたすらに目ざして務めていた。しかし我が君は短命にして逝ってしまわれた。悲しいことだ。実にいたましいことだ。その後君の書き遺された物を数多く見たが、一つとして政道のために益にならぬことはなかった。とりわけ烈公(光政公)の徳行を慕い、その教えの数々をみずから記しておられた。私はかつて君のおそば近くに侍していた時、君が語られる言葉、その中に秘められた情熱や理想が我が心に伝わってくるたびに、私の心はいつも躍っていた。退庁して、暇にまかせてそのことを書き記して置いたが、この頃、ふとそれを思い起こしたので、君の御言行の幾つかを書き加え、止仁録とした」

 止仁録の「止仁」の意味は人の上に立つ君主たる者は仁に安んじ、仁を把握し、自らその虜にならなければならないという古い言葉からきているのであり、政香の言行はこの言葉にぴったりのものであった。

 止仁録に盛られている思想を要約すれば、君・臣・民という三者構成の社会の中において修身・斉家・治国・平天下という理想を実現することであった。そこには人間は学問によって聖人になりうるという信念が盛り込まれており、その学問は単なる博識者になることではなく、聖人となって政治と道徳の一致を実践するものでなければならなかったのである。


 七.結婚 

「兵右衛門よ、そなたもそろそろ身を固めないとお役を勤めていくうえからも都合が悪かろう」
 と母の茂が夕食のご飯を茶碗によそいながら言った。
「いいえ、まだまだ勉強しなければならないことが沢山ありますし、旱魃の影響で領民は大変難儀をしておりますので人の上にたつ者、そのような時に我が身のことを構っているようでは仁政ができませぬ」
 と兵右衛門は上の空で答えた。この頃(1770年~1771年)、全国的な旱魃があり飢饉の救済対策に日夜奔走しており、とりわけ義捐米を不正流用する小役人の悪事が露顕してその処置に心を痛めているときであった。政香逝去後まもなく発生したこの不祥事に仁政実現の道のほど遠いことを思いしらされていた
「そなたがお役目大事に励んでおられるのは頼もしいことだし母としても誇りに思っております」
「今暫く、身辺の雑事に係わることなく御用大事で励みたいと思っておるのです」
「そうは言われてものう、私も歳だしいつまでもそなたの世話を続けることはできませぬのじゃ。それに浦上の姓を継ぐ子も早く設けねばのう、御先祖様に対しても申し訳なかろう」
「それはそうですが・・・・・」
「そなたさえ、その気になればすぐにでも話は進むようになっているのじゃが。親孝行すると思って考えてみては下さらぬじゃろうか。どうじゃろう、市村孫四郎盛明様の娘御、安殿を妻に迎えては」
「あの市村様の安殿ですか」
「そうじゃ、市村様なら六拾石四人扶持で多少扶持が少ないという不満はあるが、家系はしっかりしており浦上家が嫁に貰っても決して不釣り合いにはならぬ良縁じゃと思いますがの。それに安殿は見目よくしっかり者との評判だし、年は二十二才というからそなたには丁度お似合いだと思っておりますのじゃ」
「母上がそのように仰るのなら宜しくお願いします」
 と兵右衛門は結婚する意思を表明した。市村家の娘安は器量よしで貞淑であると評判の娘であったし、年老いてきた母にいつまでも身の廻りの世話を頼むのも孝道に反すると考えたからであった。
 
 安永一年(一七七二)兵右衛門二十八才の時母の勧める市村孫四郎盛明の息女安を娶った。
 安は武家の娘としての躾けは十分できており、当時の武家の子女の嗜みとして箏を爪弾くことができた。母親茂との折り合いもよく、兵右衛門はこころおきなく御用に励むことができるようになった。そして夕食後に寛いだ気分で安が奏でる四季の曲に聞き入るのは忙中閑暇、至福の一時であった。
「儂にも弾かせてくれぬか」
 と兵右衛門がある夕べ箏を弾きおわって爪を外している安に言った。懸案の義捐米流用事件の処置も終わったので、気持ちも寛ぎ酒を過ごして気持ちがおおらかになっていたのである。
「お殿様、箏は女の嗜むもので、殿方の弄ぶものではございません」
「座興じゃ。今宵は多少酔った故、陶然として精神が高揚しておる。この昂りをもっと高めてみたいのじゃ」
「兵右衛門、安の言う通りじゃ。箏はわが国では女の嗜むものと決まっておる。男が弄ぶとすればそれは盲というものじゃ。そなたは五体満足で生まれてきたのにやめなされ。そなたが箏等弄んでいると噂にでもなれば、この母の面目がたちませぬ」
「母上、確かにそうです、我が国では箏は盲でなければ男はこれを用いません。しかし、中国では琴と言って七弦のものが昔から聖人や詩人から愛され弾かれておりました。我が国でも奈良時代には和琴が盛んに弾かれたものです。琴を弾くことは心を調和させるのに最も適した手段だと考えられ、人間の精神を高揚させてくれると信じられていたのです。最近聞いた話では明の心越という僧が水戸光圀公に招かれて来日し、出府してから江戸では七弦の琴が文人の間で流行していると聞きます。私も機会があれば聖道をめざす者の嗜みとして、琴を習いたいと思っているのです。琴も箏も弦の数が違うだけで音を出す仕掛けは同じです。琴の代わりに今日は箏を試してみたいのです」
「そういうことであれば、座興としてならよいでしょう。安さん貸しておあげなさい」
 と一人息子の言い分には一も二もなく甘い茂であった
 安から爪を借りて暫く調音していたが、天性音感が良かったのであろう、見よう見まねでやがて曲を奏でだした。毎日の夕餉の後、安の爪弾きを観察しているうちにいつの間にか演奏法を呑み込んでいたのである。
「まあ、お上手なこと。私などよりも上手ですわ」
「そうかい」
「今回限りですよ。安さんも変に煽てたりしないで下さいましよ。何と言っても岡山では箏はまだ女の嗜みですから。男が弄ぶものではありません」
 と世間体を気にする茂であったが、この日をきっかけとして兵右衛門の琴への開眼がなされたのであった。


八.江戸在勤

                                  
 兵右衛門三十才の時江戸在勤となり、ほぼ一年間にわたり都会の闊達な空気に触れ儒学の面、医学の面、琴弾の面で数多くの刺激を受けた。
 先ず播磨の儒者玉田黙翁に師事して聖学を学んだ。玉田黙翁は名を信成、通称記内、別号適山、また虎渓庵とも称した。播州印南郡東志方村細工所の生まれで大庄屋柔庵玉田義道の嫡子である。山崎闇斉門の三宅尚斉の門人で程朱の儒学に於いて一家をなしていたうえに医学にも造詣が深く、弓馬槍剣の術にも秀で、産業経済についても見識を持っていた。しかし名声を求めることはせず、自ら天地一閑人と称し播州の僻地に住み天命を楽しみながら質素な生活を送っていた。ところが領主である大久保侯が、黙翁の晩年にこれを聞き是非所説を拝聴したいと招請したが固く辞退していた。度重なる熱心な懇請に折れて七十四才の時に二回、七十八才の時一度江戸へ出て大久保侯に講義をした。運良く玉田黙翁が江戸逗留中に兵右衛門が江戸在勤となったので、勤務の合間を見つけては黙翁の旅宿を訪問し、三か月間だけではあったが師の教えを乞うことができた。

 玉田黙翁は生活態度を反映するが如くその学問においても厳粛でかつ敬虔であった。君を敬し、己を修め、民を安んずることが治世の基本であることをさまざまな例を引きながら繰り返し力説した。兵右衛門は大久保侯が黙翁を招請するに当たってとった礼の厚さについて感激し、大久保侯が黙翁を迎えた態度は蜀の劉備が諸葛孔明を草盧に三顧して迎えたり、楚王が賢者を迎えるに当たっては醴酒を醸して与えたり、燕王が賢者を招いた時には黄金台を築いて迎えたという故事に悖とらない、とその著「賓師の礼」の中で述べている。そして孟子が仁義を説いて君主の心の非を糺したように黙翁はそれをなされたが、大久保侯はこれを謹んで受け入れようとしたとその修学態度に感心し、これこそ君子と賢者との理想的な姿であると感じとっていた。

 次に黙翁からは医学の知識を伝授された。この面でも師弟関係が発生し多大な感化をうけた。後年、玉堂は司馬江漢に黙翁が調剤した仙薬を送ったりしている。また、親友の鴨方藩の儒学者西山拙斉に手製の十一味地黄という薬を送っているし、玉堂の遺品として残されたものの中に薬草採取袋や計量器や薬草の断片が現存しているのである。

 黙翁の次に兵右衛門が江戸在勤中、彼に多大の感化を与えた人に多岐藍渓がある。
 一日、黙翁の使いで、下谷で塾を開いていた漢学者井上金我のもとを訪れた。金我は経書を講じて日毎に賃銭をとる売講の元祖として有名であるが、神田に創立された私立の医学館躋寿館の学頭をつとめたこともあり、門下生も沢山いた。この時の世間話で話題がたまたま琴のことになり、兵右衛門が琴に興味を持っていることを知り、躋寿館時代の同僚多岐藍渓を紹介したのである。

「浦上氏は備前岡山のお生まれでしたな。拙者も岡山藩の儒官井上蘭台先生に古文辞学を学びましてな、岡山とは縁があります。備前藩といえば陽明学でしたな。貴殿は陽明学についても相当造詣が深かろう。その精髄を聞かせては戴けないであろうか」
 と金我が言った。
「いやいや、さほどのことはありませぬ。藩祖光政公が熊沢蕃山先生を重用された頃は確かに陽明学では天下に冠たるものがありましたが、万治元年に中川権左衛門先生が病没されて以来、藩校の教授陣は朱子学者に代わり正規の藩学は朱子学に代わりました。今では陽明学は熊沢蕃山先生の徳を慕う家臣の間で細々と行われているにすぎませぬ。それがしは致良知を説き知行合一を目指す実践的な陽明学に今でも魅力を感じておりますが、難しい理屈は抜きにして孔子、孟子の時代に立ち返って人の道、君子の道、聖人の道を素朴に考えていくことのほうが大切なのではないかと考え始めてております」

「それでは古に帰れということですか」
「まだ模索の段階ですからなんともいえませんが孟子、老子、荘子に興味を感じはじめているところなのです」
「そうですか、それは心強い。実は、拙者も儒学は古義学から入りましたので、朱子学が本然の性=理として、仁、義、礼、智が人間に内在するとする考え方に疑問を持っており、これら四つの徳目は心の外にある客観的な規範だと思うのです。そのために古の原点に立ち返って考究する必要があると考えております。まだ研究の段階ですが老子が天地には自然に一定の秩序があり、日月も星辰も鳥獣も樹木もそれぞれに自然の秩序を保っていると説いているのに興味を持っているのです」
「なるほど、仁義を捨ててその自然の秩序に身を委ねるのが無為自然ということですね」
「左様、人それぞれの個性を認めて自然にさせ無理矢理型にはめ込まないということですから資質の高い人には理想的な考え方だと思いますよ」
「大変勉強になりました。それがしの夢ですがそのような世界で琴を弾き、詩を作り、絵等を描いて晴耕雨読の生活ができれば素晴らしいでしょうね」「ところで貴殿は詩はお作りになりますかな」
「田舎流ではありますが少々嗜みます」
「それでは拙者の弟子の原狂斉というのを紹介しましょう。いま諸家の詩を集めて詩集を出版しようという計画がありましてな、原が中心になってやっています。作品があれば持っていかれたらどうでしょうかな」
「ありがとうございます。拙くて人様にお見せできるようなものではありませぬ」
「絵のほうは」
「特に師はなく我流ではありますが少々」
「それではそれがしの友人に文人画家で中山高陽というのがおりますから紹介致しましょう」
「それはかたじけない」
「琴はどの程度おやりになりますかな」
「恥ずかしながら岡山は田舎でございましてな良き師がおりませぬ故、多大の関心はもっておりますが全然心得がありませぬ」
「ほうそれでは、これまた良い人を紹介致しましょう。多岐藍渓という医家がいましてなそれがしが躋寿館で教えていた頃同僚として切磋琢磨した仲でござるが、琴について造詣が深く江戸の文人の間で最近盛んになっている七弦琴を巧みに弾きますのじゃ」
 と言って世話好きな金我は早速、原狂斉、中山高陽、多岐藍渓宛の紹介状を次々と達筆で認めた。

 多岐藍渓(一七三二~一八0一)は幕府の医官で氏は丹波、通称安元、号は藍渓、字伸明で医学生を養成する私学の躋寿館を主宰した。和漢の伝統医学の研究と教育に努め、医学界における多岐氏の地位を不動のものにした。琴をよくし藍渓の師は小野川東川、東川の師は幕臣の杉浦琴川である。そして琴川は水戸光圀の招きによって明から渡来した曹洞宗の僧心越に本格的な琴を学んでいるので江戸時代に普及した琴道の正統派であった。従って江戸在府中の短期間であったが兵右衛門は正統派の弾琴の手ほどきを多岐藍渓から受ける幸運に恵まれたのである。多岐藍渓から琴の手ほどきを受けた兵右衛門は生来の資質の良さもあってめきめき腕をあげ、次回出府した折りには日向延岡藩主の内藤政陽公に招かれて教授するまでになっていたのである。 また高知出身の南画家中山高陽との交遊もこの頃始まっている。このように良い師、良い友に出会ったことは兵右衛門の幸せであった。儒学、医学、琴、南画、と多方面にわたって貪欲に吸収していく兵右衛門の向学心の旺盛さは類稀なものであったが、それにも増してこれらの技芸を短時日に吸収消化していった天賦の資質の高さに驚かされる。後年花開く琴と絵画の基礎作りは今回の江戸出府が大きな契機になったのである。

 この頃、玉堂が浅草鳥越の鴨方藩江戸藩邸で文人墨客と交流した状況を彷彿とさせる次のような中山高陽の詩がある。

「浦君輔の邸舎に岳子陽 松有年 山文熙 石太乙の諸子邂逅し、余に画を求む。各々詩有り、賦して答う」と前おきしてある。
  朱門邸舎緑雲端 野老誰期此共看
  独笑顛狂生故態 還欣邂逅有新歓
  揮毫何更問山影 剪灯猶能坐夜闌
  諸彦騒懐湧如酒 冷瓏満几碧琅扞

   朱門の邸舎 緑雲端(うんたん)、野老誰か期す 此に共に看る。
   独笑顛狂(どくしょうてんきょう) 故態を生じ、還(また)邂逅を欣び新歓有り揮毫して何ぞ更に山影を問わん、灯を剪(き)り猶(なお)能く夜闌に坐すが如し諸彦騒懐(しょげんそうかい)湧くこと酒の如し、冷瓏几に満つ碧琅扞

 朱色に門柱が塗られた邸舎は緑に囲まれ、人里離れて雲さえ往き来している。田舎の老 爺のような雰囲気を漂わせている玉堂を囲み、こんなに多くの仲間が集まろうとは誰も 予想できなかった。久しぶりにただ笑いころげ狂態をさらけ出している。過去を懐かし み将来を楽しみに共に遊ぶのだ。今更筆を揮って山水画をかくこともあるまいに。灯を 消して暗闇で共に語りあおう。皆でわいわいがやがややっていれば仮に酒がなくても酒 を飲んで騒いでいるようなものだ。そういう中にこそ玉のように美しい物がある筈だから。

 翌安永四年には岡山へ呼び戻されて、御供頭を仰せつかり官吏としての出世街道を驀進するのであるが、勤務の傍ら江戸で開眼した琴、絵画の道にも閑暇をぬすんでは精進するのであった。ここで感じられる兵右衛門の姿は効率的に業務をてきぱきと処理していく真面目な能吏でありながら、琴や絵画にも輝きをみせる才人というイメージである。
 この年は家庭的にも充実した日々で母親茂が古稀を迎えたので祝宴を催しているし、長女の之が誕生している。
 母親茂の古希の祝いに大阪の中井竹山は寿詞を贈っている。
                                    
 備藩浦上氏母七十寿詞                       
  行子帰養至自東 寿筵杯盤和気融 
  黄備城辺春鎮在 碧桃花下楽亡窮
  錦衣併為班衣舞 因見当年断機功

   行子 帰養するに東より至る。寿筵杯盤 和気融(やわら)ぐ。
   黄備城辺 春 在に鎮まる。碧桃花下の楽しみ 窮まることなし。
   錦衣 併せなる、班衣の舞。因りて見る 当年 断機の功

 旅人は郷里に東より帰って、母の古希のお祝いをする。このめでたい席に多くの人と祝いの酒杯をかわし、和気あいあいたるものがある。吉備の城下もまさに春たけなわ、美しい桃の花は咲き誇り、楽しみは極まるところがない。酔うほどに舞うほどに着衣が翻る。この年にあたり、母親の子を思う孟母断機の教えを今更ながら痛感する。
 


 九.玉堂清韻との出会い


 宝暦七年(一七七八)兵右衛門三十四才のとき江戸で時疫を患い病床に伏した。病臥にあることを知った玉田黙翁が老体をひきさげて、江戸藩邸へ逗留して親しく兵右衛門の脈をとって処方調剤をした。兵右衛門が従喜の涙を流したことはいうまでもない。
 宝暦八年(一七七九)三十五才のとき兵右衛門は江戸出張を命ぜられ上府の途中、大阪の木村蒹霞堂を一月と二月に二回訪問した。訪問の目的はその膨大な収集品である万巻の典籍、書画、博物標本、古器古銭を閲覧させて貰うとともにここへ集う文人画家達と厚誼を結ぶためであつた。木村蒹霞堂は代々造り酒屋であったが若い頃より本草学を学び花鳥画や山水画も修め、財に任せて集めたコレクションは希望する閲覧者には快く公開していたので文人、画家、書家の出入りが多く、当時の大阪における芸術サロンとなっていた。
 この年江戸出府中、兵右衛門は明の大学博士顧元昭が造った七弦琴を手にいれた。この琴には朱文で「玉堂清韻」と琴銘が記されていたので、名品を手にいれた記念に以後兵右衛門は自らを玉堂琴士と号することにした。この年五月に留守中岡山で長男紀一郎が誕生しているが号を春琴と名乗らせている。

 玉堂が琴について初めて記述した「玉堂琴記」をこの年八月十八日脱稿しているがその中で名器「玉堂清韻」入手の経緯を認めている。      
 これによると                           
「この琴は、長崎の通詞劉益賢の言うところによれば、明の大学博士顧元昭が造ったものであり、清の李子福という人物が持っていた。彼は、寛文年中にこの琴を携えて長崎に渡り、彭城某に贈呈した。彭城某はこれを劉益賢に贈り、劉益賢は長崎鎮台の某に献じた。それ以来百有余年、何人に渡ったか不明であった。その後、玉堂が江戸で日向延岡藩主の内藤政陽公に弾琴法を教授しているとき内藤公が中国製の琴を手にいれたいと思っているが心当たりはないかと尋ねられた。玉堂はかつて散楽人北条某の家に小倉侯から賜った古い琴があると聞いたことがあったのでそれが中国製であると思うと答えた。すると内藤政陽公は北条なら懇意にしているので借りてみようということになり、玉堂も一緒に見ることができた。その後玉堂は岡山へ帰り、内藤政陽公も他界されたのでそのまま幾年もの歳月が流れた。再度玉堂が江戸詰めとなったとき、溝口子?が人にこの琴を持たせて寄越し、これは北条某の持ち物であるが、かつて玉堂が琴を好むと聞いたことがあるので、玉堂に贈りたいと言った。その理由は玉堂の手元にあれば自分の所にあると同じことで、末永く世に伝えて貰えると思うからであるということであった。こういう経過をたどって玉堂の持ち物となった。子孫は永くこれを宝として欲しい」とその由来が記されている。
 この頃の玉堂は三十五才であり、政務にも油が乗り人柄にも円熟味が加わって職務以外の趣味に関する領域にも幅広く関心を広げていった。そして名器玉堂清韻を得てからは弾琴の世界へのめりこんでいく自分を制御できなくなると共に仁政実現一筋の気持ちをますます固めていくのであった。   
 この琴を入手して間もない時期に作った次の詩の中でこの琴にかかわる感慨を述べている。

  俸余蓄得許多金
  不買青山却買琴
  朝坐花前宵月下
  磴然弾散是非心

   俸余蓄え得たり許多(あまた)の金
   青山を買わずして却って琴を買う
   朝には花前に坐して宵には月下に
   磴然として弾じ散ず是非の心

 自分は宮仕えする身だが、戴いた俸祿を大切にしていると随分多くの蓄えができた。
悠々自適するための美しい山を買って墓地も用意するのが普通だろうが、代わりに琴を買った。朝には花の前に座り、夕べには月光の下にすわって琴を奏でるのだ。心を虚しくし忘我の境に浸って弾くとその音色が五体にしみ入り是非に悩む心等は吹き飛んでしまうのだ。
                                  
 ここで是非の心という意味は一般的には善悪の心ということであるが、この頃の玉堂の心境を推し量って解釈すれば仁政が行われるべき理想社会の姿が善であり、人間の欲望が渦巻き汚れた現象ばかり目立つ現実社会の姿が悪なのである。そして善に赴こうとするが悪に妨げられて煩悶している心を是非の心と言っているのである。
 琴こそ理想実現への志を高揚させてくれる友達だと観じてますます琴を慈しむ気持ちに拍車がかかるのである。

 また絵画の面でも当時江戸で高名な中山高陽等との交遊を通じて文人画に関心を示しその気韻、風雅を楽しむようになっていた。中国製の文人画などの出物があれば買い集めるようになったのもこの頃からであり、数多くの絵を見ているうちに「目利き」の目も次第に養われていった。そして、安永九年安房へ漂着した清の画家方西園が幕府の命で長崎へ回送される途中描いた「富嶽図」を習作のつもりでこの頃模写している。


 十.昇進
                                  

 天明元年(一七八一)三十七才のとき、一月十一日御前で新知行九十石を下され大目付役を仰せつかって同月十五日には御折り紙を頂戴した。藩政監察を主要任務とする重職に就任したのである。大目付の職掌は江戸幕府の例でみると礼式、訴訟、諸士分限、服忌、日記、鉄砲改め、宗門改め、道中奉行であったから鴨方藩においても類似のものであったと思われる。

 この時の藩主は池田政直で夭折した政香の弟であったが、兄政香のような理想に燃えて仁政を実現していこうという覇気が感ぜられず、時勢隋順型の凡庸な人柄であった。藩主が凡庸であれば次第に士風が頽廃していくのは世の常であるが、玉堂が大目付に就任した頃には規律が相当弛緩していた。

 翻って本藩である備前岡山藩の士風の変遷を振り返ってみると、始祖池田光政が治世に当たっていた頃の政治理念はすぐれて文治主義的な仁政理念に貫かれたものであったが、その一方では強権を発動して厳しく統制を加えていくという武断的な要素も多分にみられたので、江戸表でも「備前風」と評判になるほどの質実剛健な規律ある士風が保たれていた。しかし光政が隠居して綱政に家督を譲った頃から士風弛緩の萌芽がみられた。家督を譲った嫡男綱政の性格には父光政と対照的なところがあり、不作法、気隋、向女色の性向に加えて文学(特に和歌)、芸能(特に能楽)を愛好し仏道の信奉と幕政随順の態度が顕著であった。
 勿論武技も修めたがどちらかといえば文人的要素が強い藩主であった。このため「公私の典故」は綱政時代に大いに完備されたが無責任な気風が芽生え時代を経るにつれ綱紀は次第に弛緩していった。六代斉政の頃には役務に関して「音物(いんもつ)」「振舞」の横行が目にあまるようになった。贈賄した町人とともに、収賄した不徳義の役人を厳罰に処するという法令をわざわざ重ねて、出さなければならない程の綱紀の乱れが生じていた。貨幣経済発達による町人勢力の増大という趨勢に加えて、幕府で田沼意次が側用人として起用され賄賂政治を行った悪風が備前藩にも次第に浸透してきていたのである。本藩の士風が弛緩してくれば統治機構が共通であった支藩の鴨方藩にもその悪弊が及んでくるのは当然のことであった。

 光政公の再来と期待され、仁政実現の理想に燃えた清廉潔白な若き藩主政香に薫陶を受けた玉堂にとって、新しい役目は気の重い任務であった。政務監察の役目は藩政全般を大所高所から監査して、不審を明らかにし、不明を教化し、不良を改善し、不正を糺して藩務の効率化、合理化を図っていくことにあったが、真剣になって真面目に監察の目で周囲を見回せば賄賂、役得の横行がすぐさま目についた。年貢を納める領民の心はすさび、役人の無責任、無気力とそれとは裏腹の横柄な態度が蔓延していて社会の実態はほとほと目にあまるものばかりであった。現実の社会は玉堂の目指していた理想の政治とはあまりにもかけ離れ過ぎていた。それでも就任当初は正義感に燃えて、仁義の道を説き綱紀の粛正を目指して家臣の教化善導に力を注いだが、弛緩しきった家臣達の心に改革の灯を点じることはできなかった。

「殿様、船宿講の堀様がお見えですが」
 と安が奥の部屋で未完成の絵に筆を入れている玉堂へ取り次いだ。大目付の辞令を頂いて一両日経ち、退庁して藩邸の自室で寛いでいるときのことであった。
「はて、用向きは」
「大目付御就任のお祝いと御挨拶だと申されてこのような品を御持参になりましたが」
 と言って安がとれたてらしく、まだぴちぴち動いている大きな鯛の入った籠と朱塗りの酒樽を重たそうに運んできて見せた。
「はて、挨拶にしてはこのような大行なものを・・・とりあえずはお通ししてくれ」
 お茂に案内されて入ってきた男は小気味よく太った赤ら顔の男で、縞の羽織を着て揉み手をしながら愛想笑いを浮かべて入ってきた。
「お初にお目にかかります。手前、堀源左衛門と申しまして中の島で船宿を営んでおりまする。このたびは大役の御就任、祝着に存じます、何はともあれ中の島の船宿講の代表として御挨拶に参上致しました」
「これはまた、ご丁寧に。ところでこのような物を持参されては困ります。お定めにより挨拶に音物の持参は禁止されているのは御存の筈だが」
「まま、そう固いことを仰らずにほんのお近づきの印ですから」
「お役目柄それは困る」
「これはまた律儀なことを。殿様はお若いのでまだご存じないかもしれませぬが、大目付に御就任になれば先ず、船宿講で鯛と酒樽をお届けしてお祝い申し上げるのがしきたりになっております。前任の方もその前の方にも受けて頂いておりますので、これはもう受けて頂かなければ手前の立場がありませぬ」
「いやいや前例がどうあろうともお定めはお定めだから、取り締まる立場にある拙者としては受け取るわけにはいかぬ。気持ちだけは有り難く頂戴するがこの品は持ちかえって下され」
とこのような受けよ受けぬの押し問答が繰り返された後、堀源左衛門は首をかしげながら竹籠と酒樽を下男に担がせて引き上げていった。

 堀源左衛門を追い返してほっとしたのも束の間で、今度は鴨方の郡代がこれも酒樽と竹皮製で二つ折りの籠に包まれた大きな鯛の浜焼きを持って挨拶にきた。人目を憚って九里の夜道を馬を飛ばしてやってきたので遅くなってしまったと弁解した。備中鴨方は備前岡山の西方35kmの地点にあり、ここへ郡代を置いて知行地の管理にあたられているのである。

 郡代の主たる職掌は鴨方藩の知行地に設けられた陣屋に常駐して、年貢の取立率を決定し、領地を巡回して農事を奨励し風俗の改善をはかり、村役人を監督して人柄の清潔な者を任命するとともに、宗門改め・諸法度の伝達などであった。郡代は領地の用水・普請・御林等の検分、高掛物の割当の取締り、加損改・作柄予想・新田の収穫量と年貢の見積もり等の時には、これらの実務に詳しい下役人の助言を受けて業務を執行したから鴨方藩の現地駐在最高責任者であった。

 こちらの方も道理を説いて持参した品は持ち帰らせたが、就任そうそう、いきなり思いもかけなかった二人の音物攻勢に兵右衛門は考えこんでしまった。
<禁止令があることと役目柄を理由に心尽くしの贈り物を受け取らず、二人ともつれなく追い返してしまったが儀礼の点から問題はなかったか。孔子は礼を教えの基本において特に重んじているから今回儂のとった態度はその点からいえば礼に反したことになるのではなかろうか。それにしても堀源左衛門の場合は市内だからまだいいとしても、郡代の場合は遠路鴨方からわざわざ祝いにきてくれたのに追い返してしまったのは気の毒なことをしたな。その労を多とする意味からも受け取っておいて後日同価値のものを届けるということでもよかったのではなかろうか。そうすれば儂には役得をしたいという私心のないことが判って貰えて相手に嫌な思いをさせなくて済んだのではないだろうか。いやいやそれはいけないことだ。最初は小さな単なる儀礼的な音物のつもりが次第に過熱して利益誘導の手段になり果てるということなんだろうな。音物禁止令の趣旨はそういうことに違いなかろう。それにしても彼等の魂胆は何だろう。堀源左衛門は船宿講の代表と言っていたな、すると講全体として何か企みがあるな、そうか運上金の率について匙加減をして貰いたいということか。それでは郡代の狙いはなんだろう。郡代は肝煎(きもいり、村の世話役)に対して年貢の取立率を決める権限を持っているから郡代と肝煎の間になにかいわくがありそうだな。それにしても重役就任の初日からこんな状態だから、藩内で利権の伴う役目のところへは、相当な賄賂が贈られていると考えてもいいのだろうな。これは余程心してかからなければ、誘惑に負けてしまいそうだな。この悪弊を直していくのは相当難儀なことだろうなあ、どうしたらいいのだろう>

 と兵右衛門は自問自答しながら重役に就任してから日を置かずして、綱紀弛緩の匂いを嗅ぎつけ前途に待ち受けている役目の難儀に思いを致すのであった。

 翌日致仕して隠居している前任者を訪問し音物の取扱について前例を確かめると、儀礼的な範囲のものであれば、音物禁止令があるにもかかわらず、例え大目付であっても役職就任祝いの挨拶の品程度のものは受け取るのが礼にかなっているという見解のもとに慣行化されており、このことが問題になったことはないという回答であった。そんなことは皆がやっていることだし殊更に取り上げて藩内に波風立てることもなかろうという意見であった。

 やがていつとはなしに藩内で今度の大目付は礼儀しらずで融通がきかないという噂が流布するようになった。


 大目付けに昇進したこの年愛用の七弦琴を見本にして漆塗りの琴を自作しているが、寸暇を見つけては琴の世界へのめり込んでいった。煩わしい職務を忘れて無心に琴を弾くと心が洗われて明日への英気が養われるような気持ちになるのであった。

 やっと、新しい仕事にも慣れ、見えてきた役人達の執務態度は、役得意識の瀰漫、依怙贔屓の傾向、慢心と上司を軽んじ侮る傾向、前例準拠の保身主義、責任回避のことなかれ主義であり、良致知を研ぎ澄まし知行合一を実践して仁政を目指そうという陽明学の行動規範からは許せないものばかりであった。特に、藩主の政直は亡き兄への反発があるのか陽明学を毛嫌いしており、賄賂の横行を容認しようとする性向があり玉堂の頭を悩ませるところであった。


 十一.左遷
                                  
 天明二年(一七八二)三八才の時江戸で選集された「大東詩集」に玉堂の詩、従軍行が一編だけ採録された。井上金峨の高弟である原狂斉がこの詩集には序を寄せていから、金峨の故縁を頼りに自作の詩を世に問うてみようと原狂斉らの編集者に採録を願って奔走した成果といえる。

  従軍行
  漢王推轂去 飛将向楼蘭
  不厭辺城苦 祇思社稷安
  陰風金鼓動 朔雪鉄衣寒
  欲払胡塵色 征人撫剱看

   漢王轂(こしき)を推して去り、飛びて将(まさ)に楼蘭に向わんとす。
   辺城の苦しみを厭わず、祇(ただ)社稷(しゃしょく)の安きを思う。陰風に金鼓動き、朔雪に鉄衣寒し。

 天明三年の天候は全国的な異常気象で土用に冬着を必要とするほどの冷夏であり全国的な大凶作となった。特に関東地方では、六月に発生した利根川をはじめとする諸河川の大洪水、七月に噴火した浅間山の「浅間焼け」による流出溶岩流、降灰等の天災も重なって未曾有の大凶作となった。冷夏の被害は東北地方へ行くほど甚大であった。天候不順は翌年以降も続いたため天明三年から八年にかけて全国的に大飢饉が発生した。

 天明大飢饉の様子を三河岡崎生まれで流浪の著述家、菅江真澄の紀行文「楚堵賀浜風」から覗いてみると次のように凄惨な地獄図であった。

<天明五年(一七八五)八月三日、出羽の境、木蓮寺の坂を越えて陸奥国津軽に入った菅江真澄は、海岸伝いに西津軽の村々を歩き、鰺ケ沢の湊をへて十日に床前という村に足を踏み入れた。陰暦の八月といえば、もう初秋で空気もうすらつめたい。村の小道を歩いていると、草むらに雪のむら消えのように、人間の白骨が沢山散らばり、ある場所では山のように積まれているのが目についた。しゃれこうべの穴という穴から、すすき・女郎花が無心に生え出ている。驚いた真澄が思わず「ああ」と嘆声を発すると、うしろからきた百姓が「これはみな餓死者の骨なのです」という。

「一昨年卯歳の冬から昨春にかけて雪中で倒れ死んだ人達で、そのときはまだ息のあるのも大勢おりました。積み重なって道をふさいでいるので、通行人もそれを踏み越え踏み越え歩くのですが、夜道や夕暮れなどにはうっかり死体の骨を踏み折ったり、腐った腹などに足を突っ込んだりしたものです。その悪臭がどんなにひどいものかおわかりにはなりますまい。わたしどもは飢えから逃れるために、生きている馬を捕らえ、首に縄をかけて梁に吊るし脇差・小刀をその腹に突き刺して、血の滴る肉を草の根と一緒に煮て食べました。そればかりではありません。野原を駆ける鶏や犬を捕まえて食べ、それが尽きると自分の生んだ子や兄弟、或いは疫病に罹って死にかかっている者を脇差しで刺し殺してその肉を食べたり、胸のあたりを食い破って飢えを凌ぎました。人肉を食べた者は眼が狼のように異様に光ります。いまもそうした人間が村に沢山おります。今年もこのあいだの潮風で作柄がよくないので、またまた飢饉になりそうです」こう言い残すと、その百姓は泣きながら別の道を去っていった」(中央公論社刊の日本の歴史第十八巻、北島正元著天明の大飢饉より引用)>

 備前備中でも東北地方の如く飢餓民が人肉を食むというほどのものではなかったが前年に続き飢饉が発生した。

 玉堂は承応三年の大飢饉の時に光政がとった大救済事業に倣って、藩米の放出と有力町人からの借銀による窮民の救済を献策したが、今回の飢饉が全国的な規模のものであったせいもあって、地主や商人の買い占め売り惜しみとあいまって米価が暴騰し他藩から米を買いつけることは非常に難儀を極めた。本藩の岡山藩がこの大飢饉に際して取りえた領民の救済対策は天明四年に米一万俵と銀四百貫を飢餓者に支給するという程度のことしかできなかった。

 しかも幕府からは洪水で荒廃した関東の諸河川の川浚の賦役を課されたため藩財政は困窮の度合いを増していく一方であった。

 このような状況に対処して積極果敢な対策を実施していける英邁な藩主を本藩である岡山藩も支藩の鴨方藩も戴いていなかった。当時の岡山藩主は池田治政であり、鴨方藩主は池田政直であったが両者とも幕政随順型の凡庸な藩主であり幕府の田沼意次が行った賄賂政治の醸成した綱紀弛緩の風潮に危機感を持つ精神すら欠如していた。
「今回の飢饉は承応三年の飢饉を上回る規模の未曾有のものですから本藩と支藩合わせて一万石の救援米と四百貫の銀だけでは焼け石に水です。もっと有効な手を打たなければ餓死者が増える一方です」
 と玉堂は深刻な語調で藩主政直へ進言した。

「藩の米蔵は底をついたし、米価が高騰してしまい米商人から買い入れようにも金がないではないか。ましてや我が鴨方支藩の財政は本藩の岡山藩からの交付金で賄われているので、自らの才覚で臨時の予算を組むことはできない仕掛けになっておる。ない袖は振れぬのがものの道理じゃ。ここは成り行きに任すしか致し方あるまい。それともそちに何か良い思案でもあるか。あるなら申してみよ」
 と政直が応じた。鴨方藩の財政は藩成立当初から独立採算を基調とするものではなく、本藩に依存する傾向が強かった。即ち鴨方藩の領知高に本藩の平均税率を掛けたものが与えられ、この範囲で財政を賄う仕組みになっていた。赤字のときは本藩からの補助を仰がねばならなかったのである。

「金がなければ商人から借りてでも飢餓民対策をするのが仁政というものでしょう」
「金利が高騰しているし商人が貸したがらなくなっている」
「それがしの調べたところでは、本藩では藩財政の窮乏を救うために購入した備蓄米を転売して米商人に売り付けて利ざやを稼いでは、それを藩費に充当しているではありませんか。これは君子のとるべき施策ではなくて、悪政というものではないでしょうか。先ずこれを正して止めて戴くことです。次に税を軽くして領民達に当面の飢餓の危機を切り抜けさせることです」
「藩の収入が減っては体面も保てなくなるではないか。お前は政治悪だというが、必要悪ということだってあるではないか」
「非常時に体面を言っているときでしょうか。税を減らして収入の減った分は藩の出費を抑えるよう倹約につとめることです。例えば参勤交代を取り止めて経費節減を図ることを幕府に働きかけてみる方法だってあるでしょう」「そんな大それたことができる訳ないではないか。それこそ不忠になる」
「最初から諦めているのではなく、先ず行動してみることではないでしょうか」

「それは難しい。本藩の治政様だってそんなだいそれたことを幕府へ進言できる筈がないではないか」
「今すぐの対策としては間に合いませんが、児島湾の干拓事業にもっと力を入れて耕地面積を増やし収穫を上げることです。また米、麦の代用になる甘薯の山地栽培を奨励してみるのも有力でしょう。それにもっと基本的なこととして、藩財政を独立採算にして自己の才覚で財政運営できるよう制度を改定する必要があると思います」
「干拓事業と甘薯の山地栽培は確かにお前の言うように努力しなければならない課題だとは思うが即効性がない。そして藩財政の独立採算化は本藩から独立してしまうという意味合いがあり独自の組織を編成しなければならずそのためには人と経費が余計にかかるではないか。現実的ではないと思うし、大体本藩に対して謀叛の心ありと疑われる恐れだってあるではないか」
 と政直の反応はあくまで成り行きまかせで現状改革の意欲は微塵も窺えないものであった。

「経費節減について、もっと言えば儀礼的な慣行を見直して例えば贈答を厳禁することです。そもそも光政公が音物禁止令を出され、その後何回か禁止令がだされているにもかかわらず、これが遵守されません。綱紀粛清に藩主が率先して範を垂れ弛緩した綱紀を引き締めるのが最も有効な方法だと思いますが」
「幕府の要人に対する付け届けを惜しむと赤穂藩の二の舞になってしまうじゃあないか」
「そこのところを将軍に道理を説いて、奸臣を追放し上から変えていく努力をなさるのが将軍の臣下たる藩主としてのお勤めであり、忠節を尽くし仁政を実現する道ではないでしょうか」
 と食い下がっていく玉堂であった。
「松の廊下の刃傷についてだって、幕府は吉良殿にお咎めなしの裁定をなさっておる。この事件は場所柄を弁えず私怨を晴らそうとした乱心行為だというのがその理由なのだ。浅野殿にもっと領民の幸せを願う慈しみの心があれば浅野殿の個人的な屈辱は我慢できたのではないか。それこそ不徳の藩主だったというのが公式の見解なのだ。更に四十七士の討ち入りにしろ幕府を恐れぬ不埒な行為として浅野家の再興は許していないし、首謀者大石以下全員切腹させられている。切腹ということで武士の面目をたてるようはからっているのだ。いずれにしても幕府に逆らうのは得策でない」
「それがしにはそうとは思えませぬ。四十七士は幕府の片手落ちのお裁きに異議を唱えて自ずからの良知に従い命をかけて理非曲直を世間に問うた義挙であると思っております」
「馬鹿な世間の者はそのようにいうが、それは弱い者のいうことであって世の中そんなに甘いものではない。すべては強い者に道理があるのだ。強い者が黒いものを白だといえば白になるのが世の中だと儂は考える。お前はいつもそのように理想論ばかり言うが、人間きれいな空気ばかり吸って生きていけるわけがないではないか。あまりにも現実を知らなすぎる理屈ではないのか」
「それがしにはそうとはおもえませぬ。世の中が乱れてくればくる程、正義を主張して警鐘を鳴らさなければと思っております」

「学者がそう言って主張するのは仮によいとしても、お前は民を治める立場だ。もっと現実をよく見て時勢に順応していかなければ藩自体が幕府に睨まれてたちいかなくなることだってあるだろう。むしろそちらの方が怖いことだ。それに百姓・町民共は牛、馬よりは多少ましな生き物でおとなしく年貢を治めていればいいのだ。百姓達がいなくなってしまうと米が作れなくなって困るから、家康公も言われたように連中は生かさぬよう殺さぬよう絞りあげていくのが治世の要諦だと思うがのう。ましてや全国的な大飢饉のときは非常時なんだからどの藩だって、満足のいくような救済のできるわけがないではないか。餓死する者は運命だと思って諦めて貰うしかしようがないではないか。暫く成り行きを見守ろう」

 実りのない議論を終わって退出した玉堂は、例え愚だと言われ融通のきかない狷介な性格だと思われようが自分の良知を致し、繰り返し何度でも懲りずに主張し実践していくしかないなと観念する孤高の陽明学徒であった。


 ところで余談であるが、世の中には絶対的な究極価値は一つしかないという価値絶対主義の立場に立てば、自分と異なる価値観を主張する相手に対しては、これをあらゆる手段に訴えて説得し、同化させるか、相手を抹殺するしか方法がなくなってくる。これは最も先鋭化した宗教の立場とか例えばヒットラーの如き立場しかないことになる。
 これに対して、世の中には相対的な価値しか存在しないとする価値相対主義の立場にたてば価値観が異なる二人が対峙した場合、相手の立場を全否定はしないが、相手から自分の立場も全否定させないという態度をとることになり、お互いに価値観を微修正しながら折り合える場を探し求めていくことになる。もしも共存できる場が見つからない場合には袂を分かち、別の世界で暮らすしかなくなることになる。この立場はデモクラシーの立場である。こうした見方で観察した場合、玉堂は価値相対主義の立場をとっていたように筆者には思えてならない。

 天明三年(一七八三)には毛利扶揺が六年後に出版される玉堂琴譜の序文を脱稿しているからこの頃、玉堂は余暇に没入する世界では琴譜出版の準備に余念がなかった。

 毛利扶揺は豊後国佐伯侯の庶子で名は聚、字は公錦、図書と称した漢学者である。水戸藩の家老山野辺義胤に養子いりしたが後に離縁され以後は江戸で文墨一筋で過ごした。

 毛利扶揺の詩の中に玉堂との親密な交遊を窺わせる次のような詩がある。

  春日含輝亭ニ遊ブ 紀君輔琴ノ賦ヲ弾テ贈ル
  一唔空亭上 相知旧侶同
  江花薫酒溘 嶽雪照緑桐
  逐臭幽闌合 移情流水通
  曲中無限意 挙目送帰鴻

   一唔す空亭の上(ほとり)、相知ること旧侶同じ。
   江花 酒溘(しゅこう)を薫じ、嶽雪 緑桐を照らす。
   臭を逐えば幽闌(ゆうらん)合し、情を移せば流水通る。
   曲中 無限の意、目を挙げて帰鴻を送る。

 誰もいない含輝亭で偶然にも玉堂に出会った。一目会っただけで長年の友人のように親しみあった。そこは川のほとりで花は咲き乱れ、酒のにおいとともに芳しい香を放ち、山野の残雪は輝いて桐葉を照らす。じっと匂えばかぐわしい蘭のようなかすかな匂いが満ち、心は何のわだかまりもなく通じ合う。彼の弾く曲には無限の味わいがあり、じっと聞きすます私の目には、ねぐらに帰る鳥が空高く見える」
     
 天明五年(一七八五)家庭的には慶事があり次男の紀二郎(秋琴)が生まれた。又母親茂の八十才の祝いの年にあたり鴨方藩領内の儒学者が次のような寿詞を寄せている。

  浦上氏令堂八十初度ヲ寿ギ奉ル
  退食自公爰問安 南山唱寿坐団欒
  凱風翻奏瑶琴曲 愛日新成金鼎丹
  錫類何唯東閣望 平友況奉北堂歓
  歓声自是春難老 班綵蹲前帯笑看

   退食公(たいしょくおおやけ)よりし、爰(ここ)に安(あん)を問う
   南山唱寿(なんざんしょうじゅ)し、団欒に坐す
   凱風(がいふう)翻奏(はんそう)す、瑶琴(ようきん)の曲
   愛日新成(あいじつしんせい) 金鼎丹(きんていたん)
   錫類(しゃくるい)何ぞただ東閣を望まん
   平友(へいゆう)況(いわん)や北堂を歓び
   歓声この春より老い難し
   班綵(はんさい)の蹲前(そんぜん) 笑看を帯ぶ

 公より職を退いてここに母堂の安否をお伺いします。丁度八十才の誕生日を迎えそのお祝いに人々が多く集まっている。その喜びの中、琴を奏でる。不老不死の薬もあり、身を潔める錫もありこれ以上望むものはない。
                                  
 その一方で恩師の玉田黙翁が八十九才の天命を全うして永眠するという不幸もあった。
 なお玉田黙翁が健在であったこの年正月三十日付けの司馬江漢より浦上玉堂宛の書簡が残っていて 

「先達者玉田翁僊薬百目被遣 此代六○為持上候 御落手可被下候」
 となっていて玉田黙翁処方の薬を玉堂が司馬江漢へ仲介している。
更にこの書簡の追伸として 

「紅毛者色々出候得共 遠方故御目に懸難候」
 とあり、玉堂の好奇心の強さと交遊が多方面にわたっていたことを窺わせる。

天明六年(一七八六)正月、本藩の藩主池田治政へ初めてお目見えした。

 初のお目見えであるから藩主から特に下問のない限り、挨拶だけ言上して引き下がるのが通例であるが、この御目見えでは大飢饉についてどのように考えるかとの下問が特別にあった。知行合一を実践しようとしている玉堂は下問に対して臆することなく所信を表明した。

 先ず当面の飢饉対策としては、

 1)藩が米価の暴騰を利用して米の転売により利さやを稼いでいるのを即刻やめること、 2)商人から借銀してでも領民の救済対策にもっと力を入れること、
 3)当面年貢の税率を低くして困窮民の窮状を緩和すること、
 4)音物禁止令の適用を厳格にして儀礼的な贈答を全面禁止し贈収賄の絶滅を徹底して藩経費の節減を図ること
 を挙げ

 次に将来の対策として

 1)児島湾の干拓を積極的に推進し収穫高の増大を図ること
 2)甘薯の山地栽培を奨励し米麦の補完的な役割を持たせるようにすること 
 3)藩財政の独立採算制を断行し本藩に頼らず自己の才覚で財政運用できる体制を作ること
 4)参勤交代制度を幕府に働きかけて廃止し、経費節減を図ること
 と主張し

 最後に上下ともに教導して良知を致し質実剛健で規律ある藩風を確立することが最も大切なことであると結んだ

 鴨方藩主政直と平生行っているやりとりと、同じような内容の繰り返しに過ぎなかったが、何時も煮え切らない態度をとる政直に対して、大きな影響力を持つ本藩の藩主に直接意見を開陳できたので、鬱屈する気持ちが晴れる思いであった
 しかしながら玉堂が受けた印象は、私淑する光政とも理想の君主として仕えた政香とも全く肌合いが違っており、政直と同類の凡庸な藩主であった。

 この頃琴を自作することも面白くなっていて、石室眷兄のために唐製琴の「雷かく」に模した琴を作って贈った。

 春の一日、予て交遊を結んでいた赤松滄州、西山拙斉、菅茶山、姫井桃源が玉堂宅に会合して酒宴を催し夜ふけて玉堂の琴に聞き入った。

 赤松滄州は播磨の人で医学に通じた儒学者で赤穂藩の藩儒となり、家老を勤めて治績を残した後、致仕してからは京都で儒学を講じていた。

 西山拙斉は鴨方の儒学者で、若い頃大阪で医学と朱子学を学び詩をよくした。この頃は郷里で欽塾を開いて育英に任じておりその高潔な人格を讃えられていた。
 菅茶山は備後の詩人であり、姫井桃源は岡山藩の儒官であった。

 このとき西山拙州が玉堂の弾琴に感銘を受けて次の詩を残している。

  君蓋玉堂琴 奇珍値万金
  峩洋償夙志 韶?想遺音
  誰熟更張法 能伝鸞鳳吟
  南薫何日奏 解慍正民心

    君玉堂琴を蓋(か)う。奇珍にして万金に値(あた)る。
    峩洋として夙志を償い、韶?(しょうかく)遺音を想う。
    誰か熟(よ)く更に法を張りて、能く鸞鳳の吟を伝え、
    南薫何(いず)れの日か奏して慍(いかり)を解し民心を正さん。

 君は玉堂琴を買った。類稀なる珍しいもので非常に高価なものであった。琴の音の響きはけわしい山のように高く、広い海のような拡がりを持っていて、君の早くからの志にかなうものであり、その楽曲には太古に理想の皇帝舜が奏でたものに通じるものがある。今の世の中でいったい誰が更によく、法の精神を徹底させ、徳ある君子の世にだけ現れて鳴くという瑞鳥のさえずりを聞かせてくれるのだろうか。民の恨みや怒りが解かれて天下がよく治まっている時、吹くという南からの薫ぐわしい風は何時ふいて太平の世がくるのだろうか。
                                  
 胸襟を開いて清談に耽りながら杯を酌み交わしているうちに、正月に玉堂が本藩の藩主に敢然として所見を開陳したことも話題になっていた。鴨方の田舎に身をひそめてじっと世の中を眺めていた拙斉には玉堂の言動と人柄に清廉潔白で端正なものを感じとり、琴の音に耳を傾けているうちに感銘をうけたのである。詩にはその気持ちがよく現れている。 
 この年五月には母茂が八十一才で天寿を全うした。
 安永四年に母の古稀の寿宴を催したとき大阪生まれの朱子学者中井竹山が既述のように寿詩を贈っており、その末尾の付記に「浦上氏幼にして孤、母氏実に義方の訓あり」と書いている。また「自識玉堂壁」の冒頭で「玉堂琴士幼にして孤、九才始めて小学を読み、長ずるに及んで琴を学ぶ。他の才能なく迂癖愚鈍、凡そ世のいわゆる博打、歌舞の芸、おろかにして知識なし」と自ら記している。このように幼くして父を失い、母の手ひとつで浮薄な道に走らないよう徳義を旨として育てられた玉堂にとって、天寿であったとはいえ精神的な支えであった母を失った悲しみは大きかった。

 天明七年(一七八七)五月七日大目付役を突然罷免され、大取次御小姓支配役を仰せつけられた。これは閑職であり明らかに左遷であった。

 玉堂には左遷された理由はほぼ見当がついていた。昨年正月に本藩の藩主池田治政公にお目見えして以来、藩主の政直の態度がよそよそしくなり、玉堂を避けるようになっていたのである。しかし自分の信念を曲げて藩主におもねることはできなかった。玉堂は従前と変わることなく平然と出仕し、若い家士をつかまえては綱紀粛清の道理を説いて倦むところがなかった。


 そんなある日、赤穂屋喜左衛門が司馬江漢を連れて玉堂宅を訪問した。喜左衛門は大阪の木村拳霞堂とも商売や風雅の面で交流のある岡山の富商で玉堂とはよく気があい親密な交遊があった。たまたま司馬江漢が長崎へ蘭学の修業に赴く途中立ち寄ったのである。
 司馬江漢は江戸の人で、はじめ狩野派に学び浮世絵なども描いたが、後に平賀源内、前野良沢らと交わって蘭学を学んだ。天明三年(一七八三)日本で初めて腐食法による銅版画を制作し、洋画風の絵画も多く残した。西洋文化に深い関心を示し地動説を紹介した。また、封建社会の不合理を批判したり、人間平等論の萌芽も見られた。晩年には虚無的厭世的な傾向を強めた。著書に「西洋画談」「和蘭天説」「天地理譚」がある。
 玉堂宅では安が豆腐と蒲鉾に酒をつけてもてなした。

「どうです、今日は司馬先生の壮行会ということで、これから席を変えて中の島へ繰り出し、大いに楽しみましょう。玉堂先生、ご自慢の琴をお忘れなく」
 と、喜左衛門は供の者に言いつけて駕籠を呼ばせると二人を籠へ押し込んだ。
「これは、これは赤穂屋の旦那様いつも御贔屓にあずかりまして」

 女中に案内されて