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2014年8月

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石破茂・蛇目の男についての評論に共感した。

予てから陰険な目つきの男だと思っていたが国賊行為をしていたとは知らなかった。以下は全て転載である。


石破防衛大臣の国賊行為を叱る Will2008年6月号
2014-08-23 23:04:06
テーマ:ブログ
WiLL2008年6月号
石破防衛大臣の国賊行為を叱る
渡部昇一 上智大学名誉教授
(略)
 中国共産党系の新聞「世界新聞報」(1月29日)に、駐日記者が石破防衛大臣の執務室でインタビューをした内容が掲載されています。これは写真と共に世界中に配信されました。石破防衛相の発言は左記(※下記)の通りです。
《私は防衛庁長官時代にも靖国神社を参拝したことがない。第二次大戦の時に日本の戦争指導者たちは、何も知らない国民を戦線に駆り出し、間違った戦争をした。だから私は靖国神社に参拝しない、あの戦争は間違いだ、多くの国民は被害者だ》
《日本には南京大虐殺を否定する人がいる。30万人も殺されていないから南京大虐殺そのものが存在しないという。何人が死んだかとか大虐殺があったかは別問題》
《日本には慰安婦についていろいろな見解があるが、日本軍が関与していたことは間違いない》
《日本人が大東亜共栄圏の建設を主張したことは、侵略戦争に対する一種の詭弁だ》
《(中国は日本に対する脅威であるから対中防衛を強化せよという人たちは)何の分析もしないで、中国は日本に対する脅威だと騒いでいる》
《日本は中国に謝罪するべきだ》

 現役閣僚がこのような発言を、中国共産党系の新聞において行ったということは信じがたいので、『WiLL』編集部から石破防衛大臣に確認してもらいました。石破事務所からの回答は左掲(※下記)のようなものです。
 この石破事務所の回答からは、発言内容に対して全く悪びれていないということが読み取れるので、驚愕に値します。

石破事務所からの回答
石破防衛大臣の「世界新聞報」独占インタビュー記事について、編集部より石破事務所に問い合わせたところ、下記のような回答があった。
問 1月29日付け「世界新聞報」に石破防衛大臣の執務室での独占取材内容が掲載されているが、この取材は実際にうけたものか。
答 実際に受けたものです。
問 いつの時点で取材を受けたのか。
答 平成19年11月21日(水)に取材受けいたしました。
問 掲載されている内容は、石破防衛大臣が話した事実に即しているのか。
答 インタビューを先方が記事にまとめたものですので、事実に即していないと言うほどではありませんが、事実そのままでもありません。
問 記事が事実に即していない場合、それに対してなんらかの対処をされたか。
答 前の答えの通り、どのマスメディアでも発言を加工することはありますので、特段対処というほどのことはしておりません。

国家名誉褫奪罪(ちだつざい)を
 石破発言は世界中に配信されたにもかかわらず、外務省も防衛省も何らクレームをつけていません。
 万が一、幸運にも石破防衛大臣が先のような発言をしていなかった場合、日本政府は全力でクレームを入れ、発言を正さなければならない。
 なぜなら、大東亜戦争に日本が追い込まれた一因は、日本発とされた情報を政府が正さなかったからです。
 戦前、日本が世界征服をもくろんでいる旨の内容が書かれた「田中上奏文」という有名な偽メモが世界中に出回りました。それを見たルーズベルト大統領は何としても日本を叩かなければならないと決意したと伝えられています。
 ご存知のように、このメモには昭和2年に開かれた会議の様子が書かれているのですが、そこに山県有朋が出席しているのです。田中義一は長州閥で首相になった人ですから、その親分格の山県有朋が大正11年に亡くなったことを知らないわけがない。だから「田中上奏文」には信憑性がありません。東京裁判でも証拠として認められませんでした。
 最近の研究では、この偽メモはコミンテルンがモスクワで作って世界中に広めたとされています。日本政府が情報を正さなかったために、世界中から日本の世界征服を疑われるはめになった。
  また、最近の例では「従軍慰安婦」問題を挙げることができます。米下院に日本非難決議を提出したマイク・ホンダ議員が来日した時、「なぜ、ありもしないこ とを非難するのか」と尋ねられ、「官房長官は謝っているじゃないか」と言いました。「河野談話」について言っているのでしょうが、つまりは一度、謝って言 質を取られたら後々まで尾を引くということです。
 ですから、間違った情報は即座に否定しなければならないし、簡単に謝るべきではない。
 話を元に戻すと、「中国に対して謝罪すべきだ」と言うような防衛大臣が指揮をする中で、日本の自衛隊が奮い立てるでしょうか。本当にこの内容を話したのであれば、これは国賊行為です。
 真珠湾攻撃から50年経った1991年、私はハワイ在住の日系人の式典に出席したことがありました。その時、アメリカのテレビ番組を見ていたら、ブッシュ(父)大統領が原爆投下について尋ねられ、「I’m not sorry.(私は後悔していない)」と発言した。たとえ、ブッシュ大統領が原爆投下についてどのような思いを持っていたとしても、アメリカ政府としてはこう発言しなければならないのです。
 つまり、他国に簡単に謝罪するような人間は、大統領はおろか、閣僚にも絶対になれません。それが諸外国では当たり前です。
 しかし、日本には国賊行為を罰する法律がない。私は「国家名誉褫奪罪」を作るべきだと思います。投獄したり財産を没収するのではなく、国から贈られた名誉を剥奪すべきです。
 石破防衛大臣は現在の自衛隊の装備などの「武器そのもの」には詳しいのでしょうが、防衛大臣どころか日本国民としての歴史観はゼロだと言える。このことを我々は知らなければなりません。

洗脳された歴史観 
 この石破防衛大臣のような人を生んだ背景に、戦後日本の一番の問題があります。それは占領軍による日本人へのギルト・コンシャスネスの植え付け、すなわち日本人に罪悪感を与え、日本から正統な歴史を奪うプログラムです。
 そのために占領軍は様々な占領政策を施し、それが日教組を通じて、左翼の教育関係者や言論人に行き渡り、彼らがそれに乗って、戦後の日本を洗脳し続けてきた。
 その結果として、石破防衛大臣の世代があります。
 20年前くらいから、私が出席している様々なシンポジウムで出会う高級官僚らも、石破防衛相ほどではっきりとではありませんが、「昔の日本は悪かった」という方向から発言していました。すると限りなく発想が卑屈になります。
 アメリカに対しては彼らが原爆を落としたこともあり、「アメリカだって悪いではないか」という意見が出ますが、中国に関してはひたすら悪かったと言い続けるような外交官が主流を占めました。
 また、中国に関して謝罪し続ける宮澤喜一氏や加藤紘一氏のような政治家は、日本の政界で失脚しない。河野洋平氏は「河野談話」によって国の名誉を偽りによって売り渡しながらも、現に立法府の最高責任者である衆議院議長に居座ったままです。
 日本を貶めながらも彼らが堂々と生き残っていられるのは、すべて韓国、中国に関係する問題だからです。特に中国に関する問題は、日本はそれが事実無根であっても平謝りに謝るしかなくなってしまっている。石破大臣の発言がよい例です。
 では、日本がなぜ中国に平謝りに謝らなければならない事態に陥っているのか。これは東京裁判史観によります。この洗脳された歴史観を払拭しない限り、日本の対中外交は謝罪し続けるしかなくなるのです。

パル判決書、半分は昭和史
 何度でも言いますが、東京裁判は国際法に基づいて行われたものではなく、検事が日本を告発しようと思った項目に沿って、占領軍の参謀部と相談して、いわゆる東京裁判条例を作って開かれました。東京裁判条例自体が日本の昭和史を裁くのに都合のよい項目を立てたものです。
 これに従えば、なんといっても日本の大陸政策が悪だということになる。第一次、第二次上海事変、張作霖爆死事件、満州事変、シナ事変が重要とされ、死刑になった板垣征四郎、松井石根、土肥原賢二、武藤章、大陸に関係した任についていた人たちです。
 東京裁判の弁護団が優秀だったために、アメリカがはじめに告発しようとした真珠湾攻撃などは問題にできなくなった。アメリカは大きく取り上げようとしていたようですが、調べてみるとそれほどの罪を問うことができず、結果、真珠湾攻撃で死刑は出ませんでした。
 ですから残ったのは中国問題、つまり日本の大陸政策だったのです。
 重要なことは、昭和3年以降の日本を理解するための歴史観が二つあるということです。
 一つは、「日本は悪。特に中国、満州などのアジア政策が悪かった。その際、蒋介石を助けるためにアメリカが介入した」という東京裁判史観。
 もう一つは、東京裁判のインドのパル判事に代表されるパル史観です。パル判事の判決書は膨大であるため、なかなか全てに目を通した人がいないようですが、判決書の半分以上は日本史、つまり昭和史です。
 なぜならば、検事の論告が「昭和3年以来、日本は共同謀議によって戦争に至った」というもので、日本の政治、軍事にわたるすべての正規の組織を告発しているからです。
  これはドイツのニュルンベルク裁判がナチス党だけを主として裁いたのとは全く異なります。ナチス党の歴史は短く、関係した人物も明確にわかります。しかし 東京裁判の場合、日本の正規の組織すべてが共同謀議を行ったと告発された以上、これを覆すためには全昭和史を知らなければならなかった。
 それをパル判事はやりました。日本に滞在している間、パル判事は帝国ホテルから一歩も外に出ず、日夜勉強されたといいます。

西部氏は理解していない
 パル判事は、国際法と事実の両面から論告を覆しました。私はこのパル判事が結論づけた事実、つまり史実の面が特に重要だと思っています。
 このパル史観について、西部邁氏が中島岳志著『パル判事』(白水社)を元に、「パル氏はガンジー主義の平和論者である。その平和論者が東京裁判批判を是とするわけがなく、東京裁判の批判のためにパル判事を利用するのはけしからん」という主旨のことを執筆されています。
 しかし、この文を読めば西部氏がパル判決書を一文も読んでいないことがよくわかる。パル判事の判決書は、検事が取り上げた事実、つまり日本史の検証を一つひとつ非常に丁寧に行ったものです。
 西部氏は保守論壇の方ですから保守の中で喧嘩するつもりはありませんが、影響力の大きい方だからこそ敢えて言っておきます。重要なことは、西部氏は近代裁判の本質をも理解していないということです。
 30年戦争に終止符を打った1648年のウエストファリア条約以来、文明国においては確立された近代国際法、裁判の本質というのは次のようなものです。
 ウエストファリア条約はドイツのミュンスターで締結されました。私はミュンスターに留学していましたが、そこはカトリックの中心地です。ですから、学生の多くもカトリックで、私の寮(コレーグ)もカトリックの寮でした。
 寮の中でたまたま法律専攻の学生と話した時、私は「カトリックでは堕胎に反対で、生命の起源は受胎の瞬間だけれども、もし堕胎してもよいという法律のある国で非常に信仰深い裁判官がいた場合、どういう立場を取るのか」と聞いたことがあります。
 すると彼はあざ笑うかのように、「そんなことは何も問題ない。裁判官は公のものであるから自分の信念、信仰は関係ない。法律によって裁くだけである」と言いました。
 これは啓蒙主義以来そうであるということで、啓蒙主義以来というのはウエストファリア条約以来ということです。

裁判はパブリック 
 カントの論文に「啓蒙とはなんぞや」というものがあります。その中に、「いかなる大きな宗教団体に属そうと、宗教とはプライバシーである。これに反し、国政や裁判はパブリックである」という主旨の一節がありました。
これは確固たる文明国のルールですが、日本だけが例外で、内村鑑三の弟子だったらしい藤林益三という最高裁判所長官までが「日本人の宗教は幼稚で野蛮であ る」という主旨の日本人を侮蔑した発言を裁判官としています。それを受け継いだような裁判官が今でも多数おり、傍論でそういった発言を付け加えることが時 々あります。
 裁判官が個人の信念で、日本人の大部分が二千年もの間にわたって信仰してきたものを侮蔑するような発言をするという文明国にあるまじき風土であるから、西部氏も同じ間違いをすることになる。
 西部氏個人はよい人だということを知っていますが、しかし、近代裁判への無知が一人歩きし、日本の歴史観に影響を及ぼすことは許されません。事実、中島氏がパル判事の伝記を書いてからNHKでも特集され、「パル判事はガンジー主義者であったから原爆に対しては非難したが、日本の戦争を肯定したわけではない」という主旨で放映されました。
 これはとんでもない間違いで、パル判事は「A級 戦犯の被告の全員は東京裁判検事側起訴状のあらゆる点で完全に無罪だった」ということを言っておられます。もちろん、パル判事はガンジー主義者で戦争自体 を憎んでいます。しかし、その信条とは別に、国際法と歴史的事実のものさしだけで、裁判官として東京裁判の起訴状のすべての点について日本の無罪を証明し ているのです。
  ですから、戦後に日本が独立回復を果たした時、パル判事に「非常に公平な裁判をしてくれてありがとうございました」と感謝した人がいたのですが、それに対 してパル判事は「とんでもない。私は日本の味方をしたわけではありません。国際法と事実に基づいて判決を下しただけです」とピシャリと言っておられます。

満州独立とチベット
 では、パル判事が国際法と事実に基づいて下した判決、つまりパル史観とはどのようなものか。パル判事の日本の大陸政策に関する判決部分だけを説明しておきたいと思います。
 パル判事がまず指摘したことは、正式な国際法で締結したことを再び国際法で裁いてはならないということです。
  ソ連が日本を侵略国だと言い、検事も判事も送り込んできましたが、「日本は正式な条約によってソ連との関係は清算している」というのがパル判事の判決で す。張鼓峰事件、ノモンハン事件が終結しているばかりか、日ソ中立条約まで締結している。だから大陸に関して、ソ連は発言権がないという主旨のことを言っ ています。
 満州に関しては、満州事変の元となった張作霖爆死事件について、「神秘的な事件である」というリットン報告書に基づくべきだとしています。
 張作霖爆死事件の直後にやってきた五カ国の代表によりリットン調査団は、その五カ国は決して親日ではないにもかかわらず、「張作霖爆死事件は神秘的な事件である」と報告しています。
 だからこそ、パル判事は「我々はリットン報告書を超えて事件を裁くことは出来ない」としているのです。
  張作霖爆死事件は、今ではソ連の秘密警察関係の工作員が引き起こしたということが証明されています。工作員の証言によれば、張作霖が乗っている車両に爆弾 を持って行き、爆発させたという。ですから車両の天井が吹っ飛んでいます。もし、日本軍が仕掛けたのなら、車両の下が吹っ飛ぶはずです。
 ですからパル判事が「神秘的だ」と言うにとどめたのが正しく、今から見れば明らかに日本軍の陰謀ではありませんでした。
 また、満州の独立に関しては、残念ながらジョンストン著『紫禁城の黄昏』が東京裁判の証拠として不当に却下されたため、パル判事はこれを使えませんでした。
 それでもパル判事は、「満州は独立した。それを20数カ国が公式に承認している」と言っています。実際、いまでこそ独立国は160数カ国ありますが、当時の独立国の数は非常に少なかったため、20数カ国の承認であれば世界中のほぼ半分が承認したも同然でした。
 面白いことに、ローマ法王庁やソ連、蒋介石も承認しています。認めなかったのは、大陸に関係がないはずのアメリカやイギリスでした。
 ですからパル判事は明確に、「満州の独立は承認されている」と言ったのです。
  今、チベット問題が起こっていますが、チベット独立と満州独立とが全く異なる状況だと言えるでしょうか。満州の正統な皇帝である溥儀は、生命の危険を感じ て日本の公使館に逃げ込んできたのです。そして、先祖由来の土地に満州族による満州国を建設したいという希望を日本が手伝った。だから、大臣もすべて満州 の人か清朝(満州王朝)の延臣たちでした。世界中がこのことをわかっていない。

不戦条約違反ではない
 大東亜戦争中のシナに関しては、「日本はワシントンで締結された9カ国条約違反だ」ということもよく言われます。9カ国条約とは、1922年にアメリカ合衆国、イギリス、オランダ、イタリア、フランス、ベルギー、ポルトガル、日本、中国で締結した条約で、ここではシナ権益の保護をはかったものだと説明するのが適当でしょう。シナのためのマグナカルタと言われたくらい、シナに有利な条約でした。
 後に日本はこの条約から脱退したので、日本は非常に悪いことをしたように言われました。
 これについてパル判事は、「9カ国条約には期限が設けていなかった」ということを指摘しました。普通、条約にはそれを遵守すべき期限が設けられています。日英条約は10年ごとに見直ししましたし、日米安保条約は毎年見直しています。
 しかし9カ国条約には見直しの期限がなく、半永久的で、そういう条約には「事情変更の権利」がある。つまり、事情が変われば見直ししてもかまわないということです。
 パル判事は日本を囲む事情が変わったという主な理由として、9カ国条約に加わっていなかったソ連が強大な陸軍を作ってシナ・満州の国境に派遣したこと、中国共産党の活動、9カ国条約に背いてシナが軍備拡張していること、また日本人に対するボイコットを挙げています。だから日本が9カ国条約から離脱したのは国際法的に罪を犯していることにならないと言っています。
  また、日本が不戦条約に従わずに戦いを始めたことに対しては、この条約(主唱者の名を取ってケロッグ・ブリアン条約とも言われます)の中心人物のケロッグ が、アメリカ議会での説明で、「自衛戦争は不戦条約違反にならない。自衛か否かは主権国家が決める権利がある。侵略とは国境侵犯のみならず、経済的圧迫も 含まれる」という主旨のことを言明していることを指摘して、日本は不戦条約違反ではない、と結論しています。
 さらにパル判事は、昭和16年12月8日のパールハーバーが起こるまで、日本もシナも宣戦布告をお互いにしなかったことを指摘しています。
  宣戦布告をお互いにしなかったのは、宣戦布告をして戦争状態に突入すると中立国との貿易ができなくなるからです。日本は貿易できないだけでしたが、蒋介石 はアメリカからもイギリスからも武器の援助を受けられなくなるから、もっと差し迫った状況でした。だからお互いに宣戦布告しなかった。
 そもそも宣戦布告していない中で、中立国であるアメリカが蒋介石に武器の援助をしてはならないのですが、それをアメリカはやっていました。
 シナ事変が始まったのは昭和12年4月7日の盧溝橋事件だと言われていますが、厳密に言えば、蒋介石が日本に宣戦布告した昭和16年12月8日です。
 パル判事は、このようなことを指摘し、日本に無罪判決を下したのです。このパル史観から見れば日本が謝り続けなければならないという根拠は全くなく、むしろ満州国の正当性さえ出てきます。

石破大臣は辞任すべき
 石破防衛大臣は、先に述べたような日本の大陸政策の他に、「南京大虐殺」について認める発言をしていますが、これについては勉強してくださいとしか言いようがない。
 すでに、あらゆる厳密な資料が発掘されて、市民虐殺はゼロに近いことがわかっています。また、大量虐殺をするためには、上からの命令がなければなりませんが、松井石根司令官の命令は明確に厳格に「軍規を乱すな」ということでした。
 南京入城後もシナ兵が市民に化けて便衣兵となっていた混乱の中ですから、命令から逸脱する者が幾人か出たこともあったでしょうが、組織的に虐殺したということはない。
 そして石破防衛大臣は、当時の政府の調査で正式に認めなかった「従軍慰安婦」までも認めています。
 この「従軍慰安婦」については、困ったことに安倍前総理までもが認めたかのようになってしまっています。これは、当時の外務省が悪い。
 外務省のアドバイザーたちは、「売春などというのはどのみち、今の世の中では通用しないのだから、弁解しないで謝ることで穏便にすましたほうがいい」と言ったようですが、結果、穏便どころか首相が謝罪した形になり、日本民族の重大なる恥として固定化しつつあります。
 ここからわかることは、外務省のアドバイザーは重要なことを認識していないということです。「従軍慰安婦」問題は「戦場での売春」ということではなく、「日本軍は20万人もの若い朝鮮の女性を拉致し、セックスレイブにした」ということを問題にしているのです。拉致して奴隷にしたことが問題にされている。この認識が全くなく、事なかれ主義を地でいっている。

 石破防衛大臣にしても、外務省にしても、東京裁判史観に侵されているからこそ、中国に対してひたすら謝罪し、日本を貶める発言を続けているのだと言えます。
 中国軍幹部は先日、米太平洋軍のキーティング司令官に上院軍事委員会で、「空母を開発するから、太平洋のハワイから東部を米国がとり、西部を中国がとるというのはどうか」と提案しています(3月12日付け朝日新聞)。
  ここに日本の存在は全く無視されている。このような中国という国を相手に、石破氏のような防衛大臣率いる自衛隊がどうやって奮い立てるのか。中国共産党系 の新聞の独占インタビューを受け、「謝罪すべき」という言質を取られれば、中国政府のプロパガンダに使われることは疑う余地もありません。言質を取ること で相手国の首を締めていく中国がこれを見逃すわけがない。
 自衛隊は謝罪しながら国防に当たるのか。そんなアホなことを防衛大臣は部下に要求するのか。
 しかも、石破氏は現役の防衛大臣です。10年 以上、軍事費を二桁成長させている中国に対して、朝日新聞も驚くような「謝罪外交」をする人物に日本の防衛は務まらない。辞任すべきでしょう。石破氏が防 衛大臣では「日本が“自分が悪い”と思っているなら尖閣を寄こせ」とばかりに中国軍が出てきて東シナ海、果ては沖縄まで獲られる可能性がある。
 日本の対中外交における諸悪の根元は、すべて東京裁判史観にあります。対中外交を正常化させるためには、日本の政治家や高級官僚たちがパル判事の判決書に沿った歴史認識を持つことが重要です。

 パル判事は後に、「東京裁判は原爆よりも永く日本人を傷つけるであろう」という主旨のことを言っていますが、今回の石破発言を見ると、正にその通りですね。 inserted by FC2 system

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田母神・前空幕長の論文から思うこと

 石破 茂 です。 

 田母神(前)航空幕僚長の論文についてあちこちからコメントを求められますが、正直、「文民統制の無理解によるものであり、解任は当然。しかし、このような論文を書いたことは極めて残念」の一言に尽きます。
 同氏とは随分以前からのお付き合いで、明るい人柄と歯に衣着せぬ発言には好感を持っており、航空幕僚長として大臣の私をよくサポートしてくれていただけに、一層その感を深くします。

 日中戦争から先の大戦、そして東京裁判へと続く歴史についての私なりの考えは、数年前から雑誌「論座」などにおいて公にしており、これは田母神氏の説とは真っ向から異なるもので、所謂「民族派」の方々からは強いご批判を頂いております(その典型は今回の論文の審査委員長でもあった渡部昇一上智大学名誉教授が雑誌「WILL」6月号に掲載された「石破防衛大臣の国賊行為を叱る」と題する論文です。それに対する私の反論は対談形式で「正論」9月号に、渡部先生の再反論は「正論」11月号に掲載されています。ご関心のある方はそちらをご覧下さい)。
 
 田母神氏がそれを読んでいたかどうか、知る由もありませんが、「民族派」の特徴は彼らの立場とは異なるものをほとんど読まず、読んだとしても己の意に沿わないものを「勉強不足」「愛国心の欠如」「自虐史観」と単純に断罪し、彼らだけの自己陶酔の世界に浸るところにあるように思われます。
 在野の思想家が何を言おうとご自由ですが、この「民族派」の主張は歯切れがよくて威勢がいいものだから、閉塞感のある時代においてはブームになる危険性を持ち、それに迎合する政治家が現れるのが恐いところです。
 加えて、主張はそれなりに明快なのですが、それを実現させるための具体的・現実的な論考が全く無いのも特徴です。
 「東京裁判は誤りだ!国際法でもそう認められている!」確かに事後法で裁くことは誤りですが、では今から「やりなおし」ができるのか。賠償も一からやり直すのか。
 「日本は侵略国家ではない!」それは違うでしょう。西欧列強も侵略国家ではありましたが、だからといって日本は違う、との論拠にはなりません。「遅れて来た侵略国家」というべきでしょう。
(略)
==========================================================================
戦争に負けてアジアから去った日本への賛美の声より拝借


100%自衛戦争、、、とは言えないのかも知れない。けれど、、、
もし日本人の尊い犠牲がなければ、世界は現在の姿では絶対になかった。
大きく歴史が動き世界地図さえ塗り替わったのは、日本抜きではあり得なかった。

世界の政治家は自国と自国民のために日夜戦っている。
何百年にもわたる西欧列強の、異次元の真の侵略。
虐殺や横暴、略奪、搾取・・・

で、彼らは謝罪や賠償をしただろうか?否。
その彼らが日本を責め苛む。
理由は、恨み嫉みに責任転嫁。
「日本の所為で植民地無くなった」
「日本カッケー!」
「(植民地の)仕返しが怖い~」とか?

百鬼夜行に魑魅魍魎の跋扈する世界で、石破さん・・・バカボン
嘘で塗り固めた従軍慰安婦や南京大虐殺にさえ、謝罪すると言うのですか?
それでどうやって、迫る“中国の野望”という日本史上最大の国難に立ち向かえるのでしょう。

石破バカボンでは日本は守れない。絶体に守れない!高望みは捨てて消えてくれ!お願い

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2014.08.27

【吉田調書抄録(1)】

【吉田調書抄録(1)】

朝日新聞が誤報した吉田調書抄録を後日の資料として産経新聞の記事を以下に転載した。

吉田所長「撤退なんて言葉、使うわけがない」「アホみたいな国のアホみたいな政治家」
2014.8.18 11:30 (1/5ページ)[福島第1事故「吉田調書」]

 東京電力福島第1原発事故で、所長として現場の指揮を執った吉田昌郎氏は政府の事故調査・検証委員会(政府事故調)に対し「全面撤退」を否定するなど現場の状況を詳細に説明した。聴取内容を10回に分けて詳報する。1回目は吉田氏の菅直人元首相に対する評価を中心にまとめた。質問者は事故調の調査委員。

 〈菅首相は事故発生翌日の平成23年3月12日午前7時11分に福島第1原発を視察に訪れた〉
 --いつごろ首相が来られるという話になったのか
 吉田氏「時間の記憶がほとんどないんです。(午前)6時前後とかには来るよ、という情報が入ってきたんだろうなという」
 --何のために来ると
 吉田氏「知りません」
 --首相は所長に対し何を話したのか
 吉田氏「かなり厳しい口調で、どういう状況だということを聞かれたので制御が効かない状況ですと。津波で電源が全部水没して効かないですという話をしたら、何でそんなことで原子炉がこんなことになるんだということを班目(まだらめ)(春樹原子力安全委員長)先生に質問したりとか」
【吉田調書抄録(1)】
2014.8.18 11:30 (2/5ページ)[福島第1事故「吉田調書」]

 --いかに現場が厳しい状況か説明したのか
 吉田氏「十分説明できたとは思っていません。自由発言できる雰囲気じゃないですから」
 --現場に近い状況が壁一枚向こうにあるが、首相は激励に行かれてないか
 吉田氏「はい」
 --中を(視察・激励しに行かなかったのか)
 吉田氏「全く、こう来て、座って帰られましたから」
 〈菅氏は3月15日午前5時半ごろ東電本店の非常災害対策室に入った〉
 --何をしに来られていたんですか
 吉田氏「何か知らないですけれどもえらい怒ってらしたということです」
 〈菅氏は「撤退したら東電は百パーセント潰れる」と発言〉
 吉田氏「ほとんどわからないですけども、気分悪かったことだけ覚えていますから、そういうモードでしゃべっていらしたんでしょう。そのうちに、こんな大人数で話をするために来たんじゃない、場所変えろとか何か喚(わめ)いていらっしゃるうちに、この事象になってしまった

2014.8.18 11:30 (3/5ページ)[福島第1事故「吉田調書」]

 〈事象とは2号機の格納容器の圧力抑制室の圧力計が下がり、4号機の原子炉建屋が爆発したこと〉
 --テレビ会議の向こうでやっているうちに
 吉田氏「そうそう。ですから本店とのやりとりで退避させますよと。放射能が出てくる可能性が高いので一回、2F(福島第2原発)まで退避させようとバスを手配させたんです」
 --細野(豪志首相補佐官)さんなりに、危険な状態で撤退ということも(伝えてあったのか)
 吉田氏「全員撤退して身を引くということは言っていませんよ。私は残りますし、当然操作する人間は残すけども、関係ない人間はさせますからといっただけです」
 --15日午前に2Fに退避した人たちが帰ってくる
 吉田氏「本当は私、2Fに行けとは言ってないんですよ。車を用意しておけという話をしたら、伝言した人間は運転手に福島第2に行けという指示をしたんです。私は福島第1の近辺で線量の低いようなところに一回退避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2Fにいってしまったというんでしようがないなと。2Fに着いたあと、まずGM(グループマネジャー)クラスは帰ってきてということになったわけです
【吉田調書抄録(1)】
2014.8.18 11:30 (4/5ページ)[福島第1事故「吉田調書」]

 --所長の頭の中では1F(第1原発)周辺でと
 吉田氏「線量が落ち着いたところで一回退避してくれというつもりでいったんですが、考えてみればみんな全面マスクしているわけです。何時間も退避していて死んでしまう。よく考えれば2Fに行ったほうがはるかに正しい」
 --退避をめぐっては報道でもごちゃごちゃと
 吉田氏「逃げていないではないか、逃げたんだったら言えと。本店だとか官邸でくだらない議論をしているか知らないですけども、現場は逃げていないだろう。それをくだらない、逃げたと言ったとか言わないとか菅首相が言っているんですけども、何だ馬鹿(ばか)野郎というのが基本的な私のポジションで、逃げろなんてちっとも言っていないではないか。注水とか最低限の人間は置いておく。私も残るつもりでした。場合によって事務の人間を退避させることは考えていると言った」
 --本店から逃げろというような話は
 吉田氏「全くない」
 --「撤退」という言葉は使ったか
 吉田氏「使いません、『撤退』なんて」

2014.8.18 11:30 (5/5ページ)[福島第1事故「吉田調書」]

 --使わないですね
 吉田氏「『撤退』みたいな言葉は、菅氏が言ったのか誰がいったか知りませんけども、そんな言葉、使うわけがないですよ。テレビで撤退だとか言って、馬鹿、誰が撤退なんていう話をしているんだと、逆にこちらが言いたいです」
 --政治家ではそういう話になってしまっている
 吉田氏「知りません。アホみたいな国のアホみたいな政治家、つくづく見限ってやろうと思って」
 --ある時期、菅氏は自分が東電が逃げるのを止めたみたいな(発言をした)
 吉田氏「辞めた途端に。あのおっさん(菅氏)がそんなの発言する権利があるんですか。あのおっさんだって事故調の調査対象でしょう。そんなおっさんが辞めて、自分だけの考えをテレビで言うのはアンフェアも限りない。事故調としてクレームつけないといけないんではないか」
 〈政府事故調は菅政権が設置を決定。23年6月7日の初会合で菅氏は「私自身を含め被告といったら強い口調だが」と発言した〉
 --この事故調を自分(菅氏)が作っている
 吉田氏「私も被告ですなんて偉そうなことを言っていたけども、被告がべらべらしゃべるんじゃない、馬鹿野郎と言いたいですけども。議事録に書いておいて」(肩書は当時)
【吉田調書抄録(2)】
海水注入「テレビ会議、音声切った」「うるさい、黙っていろ、と」
2014.8.19 11:01 (1/4ページ)[福島第1事故「吉田調書」]

福島原発海水注入
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 東京電力福島第1原発事故で、所長として現場の指揮を執った吉田昌郎氏の聞き取り調査をまとめた「吉田調書」。2回目は、原発への海水注入に関する吉田氏の証言をまとめた。
 〈全交流電源を喪失した福島第1原発では、東日本大震災翌日の平成23年3月12日午後、炉心の状態が分からなくなってきた〉
 --水位計がおかしかったと
 吉田氏「間違いなくおかしかった。そこを信用し過ぎていたという所については大反省です」
 --水位計が信用できないと思い始めたのはいつか
 吉田氏「水位計そのものよりも放射線量が上がっているのがおかしいと。普通に冷却が効いていれば、水位はあって線量が上がることはないわけですね。想像からすると、燃料損傷に至る可能性はあるなと」
 〈燃料を冷やす淡水が尽き始める。通常は水につかっている燃料が露出すれば炉心溶融(メルトダウン)に至り、放射性物質が拡散する。現場では、苦肉の策として海水を投入する準備が始められた〉
【吉田調書抄録(2)】
海水注入「テレビ会議、音声切った」「うるさい、黙っていろ、と」
2014.8.19 11:01 (2/4ページ)[福島第1事故「吉田調書」]

福島原発海水注入
 --最初の海水注入の指示は3月12日午後2時54分か
 吉田氏「書いてあるものとしては最初になるが、この日の午後から海水注入をする準備をしておきなさいということは言っております。3号機の逆洗弁ピット(くぼ地)に津波の時の海水が残っている。かなりの量があるというのを聞いて、そこから取るしかない。注水しようと最終決定したのが午後2時54分で、もともとの検討はその前にやっている」
 --海水注入はテレビ会議を通じて東電本店の人と話し合ったのか
 吉田氏「誰かに聞いたと言うより、淡水をいつまでやっていても間に合わない。だから海水を入れるしかないと腹を決めていましたので、会議で言ったかどうかは別にして消防班に海水を入れるにはどうすればいいのかと検討させた」
 --本店は把握していたのか
 吉田氏「細かい状況については報告していなかったですね。(テレビ会議の)音声切っていますよ」
 --切れるんですか
【吉田調書抄録(2)】
海水注入「テレビ会議、音声切った」「うるさい、黙っていろ、と」
2014.8.19 11:01 (3/4ページ)[福島第1事故「吉田調書」]

福島原発海水注入
 吉田氏「切れる。図面を持ってきて、ポンプ何台か、消防車何台あるんだと検討している。それなら別にいちいち言う必要はないわけで。本店に言ったって、逆洗弁ピットに海水がたまっているなんていう情報は100万年経ったって出てきませんから、現場で探すしかないわけですね」
 --炉の中に海水を入れる経験は聞いたことがあったか
 吉田氏「世界中でそんなことをしたことは1回もありません。ないけれども、淡水が有限で、冷やすのに無限大にあるのは海水しかないですから、もう入れるしかない」
 --海水を入れると機器が全部使えなくなるからお金がかかるとは思わなかったか
 吉田氏「全くなかったです。もう燃料が損傷している段階でこの炉はもうだめだと。再使用なんて一切考えていなかったですね」
 〈12日午後3時半に海水注入の準備が完了したが、その6分後、1号機が水素爆発したため中断。再び準備が整ったため、午後7時4分に海水注入を開始した〉
【吉田調書抄録(3)】
津波襲来、全電源喪失「はっきり言って、まいった」「絶望していた」
2014.8.20 11:24 (1/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
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 東京電力福島第1原発事故で、所長として現場の指揮を執った吉田昌郎氏の聞き取り調査をまとめた「吉田調書」。3回目は、原発に津波が襲来した時の吉田氏の証言をまとめた。
 〈東日本大震災が発生した平成23年3月11日、運転中の1~3号機が緊急停止した。地震の約50分後、約15メートルの津波が襲い、全交流電源喪失状態に陥った〉
 吉田氏「これははっきり言って、まいってしまっていたんですね。もう大変なことになったと」
 --大変さの程度だが、具体的にどういうことをされたのか
 吉田氏「具体的な運転操作は、運転員の方がプロだから任せているんです。箸の上げ下ろしでこうやれ、ああやれということではない。対外的な連絡だとか、状況把握をするということがメーンだったと思います。地震があってみんな気持ちがこうなっている(動揺している)んで、落ち着いてやれとそれは言いました。余震があるかもしれないから、その注意はちゃんとしておけと」
 --非常用電源が使えないことで、次にどういう対応を取ろうと考えたのか
 吉田氏「絶望していました。全部の炉心冷却が止まって、バッテリーが止まった後、どうやって冷却するのかというのは自分で考えても、これというのがないんですね」
【吉田調書抄録(3)】
津波襲来、全電源喪失「はっきり言って、まいった」「絶望していた」
2014.8.20 11:24 (2/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
みんな愕然という感じ
 --緊急対策本部の雰囲気はどうだったか
 吉田氏「どちらかというと、みんな愕然(がくぜん)という感じで声が上がらないんですね。少なくとも技術屋の中では、大変なことになったという共通認識があったと思います」
 〈地震で外部電源は断たれたものの、原発の設備や機器に重要な損傷はあったのか、事故後大きな争点となった〉
 --津波が来るまでの50分間にどれだけ分かったのか知りたい
 吉田氏「スクラム(原発の自動停止)した後、いろんなパラメーター(数値)がとりあえず異常ないかと。各中央制御室に確認しています」
 --例えば、配管から水漏れが生じているとか、何か白煙が上がっているとか、平時と異なる事象がプラント内で生じているという情報は津波の前の段階であったのか
 吉田氏「基本的にはなかった。水漏れとか機器の損傷とか、私は全く聞いておりません」
 --地震後津波までに、人の生命、身体の安否の確認は
 吉田氏「グループ異常なしとか、全員いましたとかいう報告が随時上がってきています。プラント(原発)を運転している人たちは逃げられないから、各中央制御室で人員を把握して報告するというのが次々と入ってきました」
津波襲来、全電源喪失「はっきり言って、まいった」「絶望していた」
2014.8.20 11:24 (3/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
 --主要な機器を扱っている人は逃げてはいけないのか
 吉田氏「運転員は基本的には中央制御室から離れてはいけない。建物が壊れてもというのは極端な話なんですけれども、基本的には」
非常用電源が動き安心
 --運転している原子炉について、冷温停止に向けて危機感はあったか
 吉田氏「すごく強く持っていました。非常用電源が動いたので、ほっとしたんですね。こんな大津波が来るとは思っていないんですけれども、当然地震によって津波が来る可能性はある。海水系ポンプが引き波で使えなくなるのが怖いんですけれども、とりあえずプラントは一定の安全は保たれているという安心感はあったんですが」
 --津波が来るということに対して、かなり時間的に切迫していると思うが、何か対策として講じたことは
 吉田氏「津波の対応というのは結局、事前に手が打てるかというと、この時間で手を打てるものが全くない。津波が来ることを想定して、これから操作をしないといけないぞということだけです」
吉田調書抄録(4)】
1号機爆発「短時間のドンという振動」「どう生かすかが一番重要だ」
2014.8.21 13:37 (1/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
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 東京電力福島第1原発事故で、所長として現場の指揮を執った吉田昌郎氏の聞き取り調査をまとめた「吉田調書」。4回目は、1号機が爆発したときの吉田氏の証言をまとめた。
 
想定していなかった
 〈1号機は平成23年3月12日午後3時36分、水素爆発を起こし、原子炉建屋上部が大きく損壊した〉
 --どのように爆発を把握したのか
 吉田氏「爆発については全然想定していなかった。免震重要棟にいたが、1号機は全然見えないんですね。線量が高いから外に出られないような状態で、誰も外に行って見ていない。その時に下から突き上げるような、非常に短時間のドンという振動がありましたから、また地震だという認識でおりました」
 「現場から帰ってきた人間から情報が入ってきて、原子炉建屋の一番上が柱だけになっているという情報が入ってきて、何だそれはと。その後、けがした人間も帰ってきて。最初は原因が分からないという状況でやっていました」
 --爆発する前、炉心の状態はどのようなものだったか
 吉田氏「格納容器の圧力が上がっていたわけだから、ベント(排気)しようということで操作したわけですよ。バルブを開けても圧力バランスでベントできない。もう1つは注水。この2本に絞って作業を傾注していた」
【吉田調書抄録(4)】
1号機爆発「短時間のドンという振動」「どう生かすかが一番重要だ」
2014.8.21 13:37 (2/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
 --水素が発生しているという認識は持っていたのか
 吉田氏「持っていました。ただし、格納容器の中にとどまっているので、まずは容器の圧力を下げないといけない。加圧している原因が水素であり、これをベントで逃してやらないと」
 --周辺では放射線量が相当上昇して、格納容器の中からどんどん漏洩(ろうえい)したという可能性が高かったのか
 吉田氏「高いですね」
 
今思えばアホだけど
 --水素爆発が意外だったというのは何か変ではないか
 吉田氏「格納容器の爆発をすごく気にしていたわけです。今から思えばアホなんですけど、水素が建屋にたまるという思いがいたっていない。今回の大反省だと思っているけれども、思い込みがあって、あそこが爆発すると思っていなかった。所長としては何とも言えないですけれども」
 --徹底的に考えないと
 吉田氏「今回のものを設計にどう生かすかという所が一番重要だと思っている。これからこの国が原子力を続けられるかどうか知りませんけれども、続けられるとすればそうですね」
 --爆発で損傷状況はどうなのか
 吉田氏「作業をしていた人間が上がってきて、破片やがれきなどいろんなものが飛び散ってきていますと。電源車が使えなくなったという話もきて、消防車も注水が一時できないような状態になっている」
1号機爆発「短時間のドンという振動」「どう生かすかが一番重要だ」
2014.8.21 13:37 (3/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
 --作業員はいったん退避させているという状態か
 吉田氏「まずは安否確認です。とりあえず死んだ人がいないということでほっとしたが、一番近くにいたうちの保全担当が爆風で腕を折って帰ってきたんですね。そいつにどうなっているんだという話を聞いたら、もう大変ですよという話が入ってきた」
 「次のステップとして一番怖いのは格納容器が爆発するんじゃないかということになるが、データを見ていると容器の圧力は爆発前後で大きく変わっていないわけです。格納容器は健全だったということなので、要するに可燃源はもうなくなっている可能性が高いと判断して、水を入れに行かないとどうしようもないので、人をどうするかという判断が一番悩ましかった」
 --電源車も使えない状態だったのか
 吉田氏「新たな電源車をよそから注文して。これから先、山ほどいるでしょうから、手当たり次第送ってこいと注文はずっとしていた」
【吉田調書抄録(5)】
ベント躊躇せず「大臣命令で開くもんじゃない」
2014.8.22 09:58 (1/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
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 東京電力福島第1原発事故で、当時の吉田昌郎所長への聞き取り調査をまとめた「吉田調書」。5回目は、原子炉格納容器の圧力を下げるベント(排気)に関する証言をまとめた。
【吉田調書抄録(5)】
ベント躊躇せず「大臣命令で開くもんじゃない」
2014.8.22 09:58 (2/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
 --手順書では中央操作室のスイッチで弁が開けるが、今回はそれができない
 吉田氏「AO(空気駆動)弁のエアがない。もちろんMO(電動駆動)弁は駄目だと。手動でどうなんだというと、線量が高いから入れないというような状況が入ってきて、そんなに大変なのかという認識がやっとでき上がる。その辺が、また本店なり、東京に連絡しても伝わらない」
 --すごい階層がある
 吉田氏「一番遠いのは官邸ですね。大臣命令が出ればすぐに開くと思っているわけですから。そんなもんじゃない」
 --午前6時50分に(海江田万里)経済産業相が法令に基づくベントの実施命令を出した経緯は知っているか
 吉田氏「知りませんけれども、こちらでは頭に来て、こんなにはできないと言っているのに、何を言っているんだと。実施命令出してできるんだったらやってみろと。極端なことを言うと、そういう精神状態になっていますから。現場では何をやってもできない状態なのに、ぐずぐずしているということで東京電力に対する怒りがこの実施命令になったかどうかは知りませんけれども、それは本店と官邸の話ですから、私は知りませんということしかないんです」

 〈平成23年3月11日の東日本大震災の津波の影響で冷却機能を喪失した第1原発。格納容器の圧力が最初に高まったのが1号機で、早い段階からベントに着手していた〉
 --12日に日付が変わる頃に、1号機のドライウェル(格納容器上部)圧力が600キロパスカルということで、格納容器内の方に圧力容器から放射能が漏れているんではないかという懸念が考えられた
【吉田調書抄録(5)】
ベント躊躇せず「大臣命令で開くもんじゃない」
2014.8.22 09:58 (3/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
被曝覚悟で手動、腹を決める
 〈午前7時11分、ベント遅れにいらだつ菅直人首相が陸上自衛隊ヘリコプターで第1原発に到着。吉田氏らから説明を受けた後、午前8時4分には宮城県に向け飛び立った〉
 --菅首相が第1原発に来て帰っていく上空をベントで(放射性物質を含む気体を)どんどん吹かしていくのはどうなのかということから、操作を遅らせたという判断は
 吉田氏「全くないですね。早くできるものはかけてしまってもいいんじゃないですかくらいですから。総理大臣が飛んでいようが、何しようが、炉の安全を考えれば早くしたいというのが現場です」
 --機材とか十分準備できていないし、線量も高いし、できるか分からないが作業を余儀なくされた
 吉田氏「被曝(ひばく)しますけれども、最後は手動でやるしかないというふうに腹を決めて、午前9時に(現場へ)やってくれとお願いした」
 --何かやろうと思っても何もできない状態なのに、下げろと言うんだったら、お前らやってみろと言うしかない
 吉田氏「現場はできる限りのことをやって、後がスムーズに行くようにと思っているんですけれども、なかなかそれが通じない。躊躇(ちゅうちょ)していると思われているんです。何も躊躇などはしていないですよ」(肩書は当時)

 吉田氏「600キロパスカルだとすると、漏れているとしか考えられない」
 --そういう認識に至り、その次の対応として格納容器ベントを実施する可能性があることから準備を進めるよう指示しているが、(圧力抑制室の水を通す)ウエットウェルベントということか
 吉田氏「この時点では手順に従ってということなので、まずウエットウェルベントをして、それで下がらなかったら、最後は(水を通さない)ドライウェルベントをしなければいけない。こういうことを全部指示している」
【吉田調書抄録(6)】
3号機爆発 「死者出たなら腹切り死のうと」
2014.8.23 10:03 (1/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
前のニュース
 東京電力福島第1原発事故で、所長として現場の指揮を執った吉田昌郎氏の聞き取り調査をまとめた「吉田調書」。6回目は、3号機が爆発したときの証言をまとめた。
 〈ヒアリングは平成23年3月14日の行動に移っている。14日は午前6時半ごろに3号機で原子炉圧力が上昇し、爆発する可能性が高まっていた。危険と判断されたため約1時間、作業を中断、作業員は現場から退避していた〉
 吉田氏「退避かけても2号機のラインを作ったりとか、放っておけないんでものすごく迷ったんです。作業させるか、させないか、再開させるのかどうか。これは議事録には載ってませんけれど、このとき本店と『いつまで退避させるんだ』という話があり、『爆発する可能性があって現場に人間をやれない』と私は言ったんです。ただ2号機の注水とかあるんで、どこかでやる必要があるという話をしました」
 〈作業を進めたい本店と作業員の安全を考え、再開に迷う吉田氏。安全だけを考え作業が滞れば、状況はさらに悪化する。吉田氏はジレンマを抱えていた〉
 吉田氏「そろそろ現場をやってくれないかと話があり、『非常に危険だけれども現場でやらないと次のステップにいけないんでお願いします』と(作業員に)指示したと思います。圧力が落ち着いてきたから、急に爆発することはない、との判断で現場に出したら爆発した」
【吉田調書抄録(6)】
3号機爆発 「死者出たなら腹切り死のうと」
2014.8.23 10:03 (2/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
 --現場に行ってから爆発までどれぐらいの時間があったのか
 吉田氏「(再開の)『ゴー』かけて、よしじゃあという段取りにかかったぐらいで。自衛隊の方も行かれていて準備したらすぐ『バーン』という感じだったと聞いています。最初、現場から『四十何人行方不明』という話が入ってきた。私、そのとき死のうと思いました。四十何人亡くなっているんだとすると、そこで腹切ろうと思っていました」
 〈情報が錯綜する中、多数の死者を出した責任を取ることを考えていた吉田氏。だが、徐々に情報が入り行方不明者はいなくなっていった〉
 吉田氏「自衛隊は免震重要棟に寄らないで配備されたんで状況が入ってこなかったが、4人けがをされていて1人は結構深手だったと聞いています。皆さん命はとりとめ、不幸中の幸いです。がれきが吹っ飛んでくる中で現場にいて、1人も死んでいない。私は仏様のおかげとしか思えないんです」
 --すごい映像ですものね。あの爆発。1号機と違いますね
 吉田氏「1号機は板だけですから、ポーンで終わりなんですが、3号機はコンクリートが飛んでますからね」
 --爆発をしてからの対応ですが、作業は
 吉田氏「全部中止」
【吉田調書抄録(6)】
3号機爆発 「死者出たなら腹切り死のうと」
2014.8.23 10:03 (3/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
 --現場から引き揚げることになるわけですね。次に再開するのが、どこかの時点でありますね。それはどういう情報が入り、どう判断したのですか
 吉田氏「1号機の時と同じく爆発しているわけですから、注水ラインだとかいろんなラインが死んでしまっている可能性が高い。1号機、3号機の注水も止まっている。それ以外の機器も止まっている。みんな茫然としているのと、思考停止状態みたいになっているわけです」
 〈茫然自失の部下に指揮官は、どのように対応したのか〉
 吉田氏「そこで、全員集めて『こんな状態で作業を再開してこんな状態になって、私の判断が悪かった。申し訳ない』と話をして、現時点で注水が止まっている、放っておくともっとひどい状態になる。現場はがれきの山になっているはずだから、がれきの撤去、注水の準備に即応してくれと頭を下げて頼んだんです。そうしたら、本当に感動したのは、みんな現場に行こうとするわけです」
【吉田調書抄録(7)】
政府への不信 「腐った指示ばかりだった」
2014.8.24 17:30 (1/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
前のニュース
 平成23年3月11日の東京電力福島第1原発事故で、当時の吉田昌郎所長への聞き取り調査をまとめた「吉田調書」。7回目は、吉田氏と政府側とのやり取りに関する証言をまとめた。
 〈第1原発で事故が発生した場合、経済産業省原子力安全・保安院が福島県大熊町の緊急事態応急対策拠点施設(オフサイトセンター)に関係者を緊急招集し、陣頭指揮にあたることになっていた〉
 --保安院の保安検査官は(第1原発内の)保安院の事務所に通常詰めていますね
 吉田氏「はい」
 --その人たちは一旦退避か何かでどこかへ行かれたんですね
 吉田氏「はい」
 --それから、また戻ってくるんですね
 吉田氏「かなりたってからです」
 --また戻ってきたのは大体どれくらいか
 吉田氏「よく覚えていないが、事象が起こったときは保安院の方もみんな逃げてきて、免震重要棟に入られた。それからオフサイトセンターができたので、オフサイトセンターに出ていった。途中でオフサイトセンターから保安検査官をこちらに送り込むという話はあったんです。結局あれは14日だったんですけれども、来られなかった」
【吉田調書抄録(7)】
政府への不信 「腐った指示ばかりだった」
2014.8.24 17:30 (2/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
 --来なかったのか
 吉田氏「はい。私は記憶がないんだけれど、24時間駐在で来られるようになったのはもうちょっと後だと思います」
 --保安院から所長に直接、今どういう状況かみたいな電話はないのか
 吉田氏「ないです」
 〈13日には3号機の爆発を避けようと、建屋にたまった水素を抜くためのブローアウトパネルの開放が検討された〉
 --保安院からの指示として、パネルを具体的にどうしようかという話はしていたのか
 吉田氏「していました。パネルを開けないといけない。だけれども、(19年の)中越沖地震で(柏崎刈羽原発のパネルが)がたっと落ちて開いてしまったから、開きづらい方向に改造していたんです。どうしようもないわけですよ。だったら保安院来てやれ、馬鹿野郎と言いたくなるわけですよ。こんな腐った指示ばかりしやがってと。いまだにこのときのことはむかむか来ます」
 --保安院の出先の事務所は
 吉田氏「このころはもういません。1人もいないです」
【吉田調書抄録(7)】
政府への不信 「腐った指示ばかりだった」
2014.8.24 17:30 (3/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
 〈菅直人首相ら官邸からも吉田氏に電話が入った〉
 --菅首相との電話は
 吉田氏「菅さんとはどっちかというと質問です。水素爆発はどういうメカニズムで起こるんだということとか、それは水蒸気爆発と違うのかというようなご質問をなさっていたのが1点ですね」
 「それから、菅さんの脇に日比野靖さんという(内閣官房)参与がいた。ごく初歩的な質問を菅さんがして、私が説明をし始めたら、ちょっと待ってくれ、その質問は日比野さんがしているからということで、日比野さんに代わって、結構忙しいときだったんだと思うんだけれども、縷(る)々(る)ご説明をしたと」
 「もう1点は、警戒区域と避難区域、20キロ、30キロの話についてこう決めたけれども、所長はどう思うみたいな話をしてきたんです。知りませんと。本店なり、そちら側の解析しているところで評価してくれと。現場の判断ではないということは申し上げました」
 --現場はどうなっているんだというので、ちょっと電話してみればみたいな話になると、所長のところに電話をするのが、東電の武黒一郎フェロー、川俣晋原子力・品質安全部長だったり、場合によっては細野豪志首相補佐官だった。どちらかというと、みんなで勉強会というか、そんな感じだったらしい。官邸で首相以下の指示がぼーんと決まって、これで行けとか、そんな感じではなかった
 吉田氏「勉強会だったんですね」
 --いざ聞いてみると、みんなそういうふうに言う。別に司令塔ではないと
 吉田氏「しかし、何をもってこの国は動いていくんですかね。面白い国ですね」(肩書は当時)
【吉田調書抄録(8)】
注水活動「申し訳ないがすべて意味なかった」 ヘリ放水「セミの小便」
2014.8.25 09:06 (1/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
前のニュース
 東京電力福島第1原発事故で、所長として現場の指揮を執った吉田昌郎氏の聞き取り調査をまとめた「吉田調書」。8回目は、自衛隊や警察、消防の注水活動に関する証言をまとめた。
 〈平成23年3月16日以降、3、4号機の燃料貯蔵プールに燃料を冷却する水があるかが課題となっていた。プールの燃料は水位が下がればむき出しの状態となり被害は甚大となる。爆発で建屋上部が破壊されていたため、上部からの放水が検討されていた〉
 〈17日には陸上自衛隊のヘリを使って上空から4回、3号機燃料貯蔵プールへ約30トン放水され、警視庁機動隊と自衛隊の高圧放水車も地上から放水した。19日には東京消防庁の消防車も放水を始めた〉
 --ヘリによる放水は午前9時48分に開始とあります
 吉田氏「セミの小便みたいですね」
 --所長は自衛隊とか警視庁などの人たちが来たときは、そこの責任者と事前に話をするとか、ありましたか
 吉田氏「ないです」
 --彼らはどういう感じなんですか。
 吉田氏「各組織によって違うんです。自衛隊と消防庁、機動隊全部違うんです。指揮命令系統も各々違う。自衛隊さんは自衛隊さんの上の方といろいろ調整して、何時に出動するとか言うんですけども、出動するといってもなかなか出動しないし、途中で引き返すし、何やっているんだという感じでした
【吉田調書抄録(8)】
注水活動「申し訳ないがすべて意味なかった」 ヘリ放水「セミの小便」
2014.8.25 09:06 (2/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
 --何でそんな、あれだったのですか
 吉田氏「やはり線量の高い所に来るのは、はっきり言ってみんな嫌なんです」
 --自衛隊によるヘリ、警視庁の高圧放水車、消防庁の注水とあって、この中でこれは良かった、これは駄目だったというのはありますか
 吉田氏「機動隊さんのものは最初に来てもらったんだけれども、余り役に立たなかったんです。要するに効果がなかった」
 --効果がないというのは
 吉田氏「水が入らなかったということです」
 --自衛隊のものはどうでしたか
 吉田氏「はっきり言って今から申しますと、すべて意味がなかったです。注水量的に全部入ったとして10トンとか20トンの世界ですから。燃料プールの表面積から考えて全部入ったとしても意味がない」
 --消防庁のものは効いてないんですね
 吉田氏「全く効いていないです。だから、ヘリも効いてないし、自衛隊さんも申し訳ないけれども量的に効いていないし、消防庁も効いていないし、機動隊は全く効いていなかったと思います」
 〈自衛隊、警察、消防が懸命の思いで注水活動にあたったが、高圧放水車や消防車は用途が違うため難航した。22日には新たにコンクリートポンプ車(通称・キリン)が導入され4号機で注水開始。27日にはキリンを3号機にも導入した〉
【吉田調書抄録(8)】
注水活動「申し訳ないがすべて意味なかった」 ヘリ放水「セミの小便」
2014.8.25 09:06 (3/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
 --(キリンなど)ああいうものはどうなんですか
 吉田氏「あれはいいです。あれが来て初めてちゃんと注水できたということです。筒先をプールの近くに持っていって入れますから、ロスがほとんどなくて全部水が入るというのがキリン以降の話です」
 --これは東電なり本店からそういう話があったのですか
 吉田氏「(自衛隊、警視庁、消防庁の)ピュッピュン作戦は、効いたとしてもずっと続けないといけない。連続注水できるということでコンクリート注入車が使えるのではないかというのが本店からあって、キリン部隊というのを本店で作ってくれたんです。その連中が動かし方などをマスターして、やってみたらそれなりに水が入るということで、自衛隊さん消防庁さんのお世話にならずに済んだということです」
【吉田調書抄録(9)】
「これは誰が殺したんですか」地震・津波対策への思い 
2014.8.26 13:22 (1/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
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 東京電力福島第1原発事故で、所長として現場の指揮を執った吉田昌郎氏の聞き取り調査をまとめた「吉田調書」。9回目は、福島第1原発の地震・津波対策に関する吉田氏の証言をまとめた。
■関心高くなかった
 吉田氏「これは声を大にして言いたいんだけれども、本当は原発の安全性だけでなくて、東日本大震災で今回2万3千人が死にましたね(実際は死者・行方不明者合わせて約1万8500人)。これは誰が殺したんですか。(地震の規模を示す)マグニチュード9が来て死んでいるわけです。あの人たちが死なないような対策をなぜそのときに打たなかったんだ」
 〈原発事故を防げなかったことに対し、吉田氏は聴取の中で何度も悔悟の念を吐露するとともに、地震・津波被害を少なくできなかったのか、問題を投げかけている。吉田氏は平成19年4月、東電に新しく設けられた原子力設備管理部の初代部長に就任し、地震・津波対策に傾注した経験があるからだ〉
 --自然災害から原子力施設をどう守るかという備えなど過去の状況についてうかがいたい
 吉田氏「19年当時、あまり地震・津波に対して関心が高いということはなかったんです。会社全体としてもそうですし、世間全体としてもそうだったんです。一番大きかったのは(19年7月の)中越沖地震があって、想定している地震動の何倍という地震がきた。これはまさに私どもの原子力設備管理部で対応しないといけなかった。その中でまず、福島第1原発について、近辺の断層をもう一度調査するということを一生懸命したということです」
【吉田調書抄録(9)】
「これは誰が殺したんですか」地震・津波対策への思い 
2014.8.26 13:22 (2/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
 --それが19年7月ですね
 吉田氏「今まで考えていた地震動より大きい地震が来るとすると、例えば、建物や配管とか機器の補強をしなければいけないということになりますから、そちらの解析を重点的にやりましょうと。20年の途中から、随伴事象としての津波の話をきちっと評価していく必要があるという話が出てきたというのが私の記憶です」
 --東電の土木グループが土木学会の先生方に話を聞く中で、福島で10メートルを超える津波の想定値が出てきた
 吉田氏「私の考え方からいうと、津波自体は、国とか地方自治体がどうするんですかという話とも絡んでくるでしょう。東電だけがこれを対応してもしようがない。発電所を守るという意味では当然必要なんですけれども、オールジャパンで、今の対策ではまずいという話をした記憶があります」
 --初めて津波想定値を聞かれたときにどういう印象だったか
 吉田氏「それは、『うわあ』ですね。私が入社したときに、最大津波はチリ津波といわれていたわけですから。高くて3メートルぐらい。10メートルというのはやはり非常に奇異に感じるというか、そんなのって来るの?と」
■対策費用が大事
 --会社の方針はどうだったのか
 吉田氏「社内では、地震対策の会議を社長会という形で月1回の頻度でやっていた。その中で当然のことながら一番重要なのはお金、対策費用が非常に大事なことだと。耐震補強工事にこのぐらいかかるとか、免震重要棟を福島にも造らないといけないとか」
【吉田調書抄録(9)】
「これは誰が殺したんですか」地震・津波対策への思い 
2014.8.26 13:22 (3/3ページ)[福島第1事故「吉田調書」]
 --最終的にどうやれるかという検討は
 吉田氏「今回の事故で津波は10メートルではなくて、15メートルも来てしまったわけですから、もともと10メートルの検討をしていても間に合わなかったと今は思っている。今回はあまりに津波が大きすぎて、ポンプ自体がすっ飛んでしまうようなことを考えますと、また全然別の対策になるわけです。どういう津波なんだというところがはっきりしないときに対策と言っても、議論は非常に難しいんです」

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2014.08.26

歴史を通じて磨かれた我々の素朴な感覚で、美しい言葉に隠された政治 的ウソを見分けることができる。

  わたなべ りやうじらうのメイ ル・マガジン「頂門の一針」3407号
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  2014(平成26)年8月26日(火)

以下は上記メルマガから全て転載したものであるが、美しい言葉に隠された政治的ウソという視点は斬新であると思った。

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政治的ウソの見分け方
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     伊勢 雅臣

~ 国際政治学者・中西輝政氏に学ぶ

歴史を通じて磨かれた我々の素朴な感覚で、美しい言葉に隠された政治
的ウソを見分けることができる。


■1.「予測をどこでどう間違えたのか?」

国際政治学者の中西輝政京都大学教授は、自ら政治的なウソに騙された事
例を紹介している。

イラク戦争直後、教授は2、3年かかるにしろ、イラクの国内状況は次第
に落ち着きを取り戻し、経済の発展も始まるだろうと考えていた。しか
し、イラク情勢はその後何年経っても、依然として混迷状態にある。そこ
で教授は「予測をどこでどう間違えたのか」と何度も反芻した。

一つは情報の歪みである。ワシントンやニューヨークの一流メディアから
流される情報はすべて楽観論一色で「アメリカはすでに並ぶものなき軍事
大国で、その力は隔絶している」などというものだった。「いまから考え
ると、かなりの部分が情報操作だったのでしょう」と教授は言う。[1,p164]

もうひとつの反省点は、自身で「あれ?」という疑問を持ったのに、それ
を深くつっこまなかった事だ。その疑問とは、なぜアメリカ軍はイランや
シリアとの国境を閉鎖しなかったのか、という事であった。

国境を閉鎖しなかったら、イランからアルカイダなどのゲリラ勢力が自由
に入ってくるし、シリアからも武器や物資が運び込まれてくる。「こんな
ことでは危ない。なぜ閉めないのだろう」と教授は疑問に思ったが、「ま
あ、アメリカのことだから、そんな事は百も承知でやっているのだろう」
「人工衛星か何かで監視しているのだろう」などと、自分の疑問を押し込
めて、自身を納得させてしまった。


■2.「ふと浮かんだ疑問」を大事にする

当時、大統領選を翌年に控え、ブッシュ政権は「アメリカの鮮やかな勝
利」を強調していた。ラムズフェルド国防長官は「アメリカは軍事革命を
果たした」「衛星とスリムな軍隊で、アメリカは世界のどの地域でも同じ
事ができる」という新ドクトリンを打ち出していた。

しかし、国境を閉鎖しようとしたら、最低3、4万人の兵力を増派しな
ければならない。それでは「イラクは実はうまくいっていないのではない
か」という批判を招きかねない。

その批判を避けるために、国境は閉鎖しなくとも何とかなるだろう、と
いう大バクチをラムズフェルド国防長官は打ったのだった。そして、それ
に都合のよいウソの情報を流していたのである。はたしてバクチは裏目に
出て、イラクは泥沼化し、アメリカは深い傷を負った。

中西教授は、もし「なぜ国境を閉めないのだろう」という疑問にこだ
わって、いろいろ調べていけば、かなりの情報が集めら、早い段階で「こ
の戦争は泥沼化する」と分かったはず、と自省している。

ふと浮かんだ疑問は自分の素直な感覚であり、物事を考える際にこれが
ものを言うことが多いと、教授は言う。


■3.美しい言葉にはトゲがある

我々日本国民もさまざまなウソに騙されてきた。たとえば、「次の言葉
のうちで、あなたが好感できるものを選んでみてください」と中西教授は
問いかける。

「豪華」「自慢」「自由」「蓄財」「大物」「平等」「格安」「平和」
「出世」「民主」

おそらく大部分の人は「自由」「平等」「平和」「民主」などを選ぶ。
これらの「美しい言葉」は誰も疑わない。だからこそ、そこに危険なワナ
が仕掛けられている。これらの「美しい言葉」は、人々の思考停止を誘
い、我々の素朴な感覚を押さえつけてしまう。

たとえば「平和」。軍隊をなくし、核兵器をなくせば、平和な世界が来
る、と戦後教育では教えられてきた。そして「平和」を声高に叫ぶ人々
は、「核兵器反対」を唱え、米国の艦船が核を積んでいるのかどうか、な
どと問題にしていた。

しかし、彼らは日本を狙うソ連や中国の核兵器には何も言わない。かつ
て広島の反核集会で、「米国の核ミサイルだけでなく、ソ連の核ミサイル
にも反対する必要があるのではないか」と発言した学生が、演台から引き
ずり下ろされてしまった事もあった。

この学生のように素朴な疑問を大事にすることで、こういう美しい言葉
に隠された危険なウソを見破ることができる。

美しいバラにはトゲがあるが、美しい言葉にはウソが隠されてることが
しばしばある。政治的ウソを見分けるには、まずは美しい言葉を見たら、
そこにはウソが隠されていないか、気をつける必要がある。そこから素朴
な感覚が働き出す。


■4.化けの皮がはがれた「日中友好」

「日中友好」も、かつては多くの日本人を騙して、膨大な国富を奪った美
しい言葉であった。

1980年代には「日中友好2千年」「日中は(同じ漢字を使う)同文同種
の国」「一衣帯水(一筋の帯のように、細い海峡に隔てられた隣国)」な
ど、マスコミの流す様々なスローガンが友好幻想をかき立てた。総理府
(現・内閣府)の調査によると、1980年代前半では70%以上の日本国民が
中国に親しみを感じていた。

もともと、これらの美しいスローガンは、中国がソ連と対立して、日本
からの経済協力を必要としていた時代に、流されていたものである。[a]
「日中友好2千年」などというスローガンが、いかに歴史的に見ても偽
りに満ちたものかは[b]で述べた。

最近は尖閣諸島問題や反日デモなどで、こういうスローガンのうさん臭
さが誰の目にも明らかになり、ここ数年では、中国に親しみを持つ人々は
20%台にまで落ち込んでいる。

しかし、過去20年ほど「日中友好」に騙されてきた結果、3兆円以上
(日本国民1人あたり3万円規模)も貢いできた対中ODAは感謝もされず
に忘れ去られようとしている。

またマスコミの「中国経済賛美」に乗せられた日本企業の対中投資額も
10兆円規模に達しているが、日本企業がいざ中国から撤退しようとして
も、中国政府や合弁の相手企業は難癖つけて投資分を返さない。「日中友
好」の美辞麗句に騙されて、膨大な国富を我々は奪われてきたのである。

孔子は「便辟(べんへき)を友とし、善柔(ぜんじゅう)を友とし、便
佞(べんねい)を友とするは損なり(外見が良いだけの人を友とし、人当
たりが良いだけの人を友とし、言葉巧みな人を友とするのは損である)」
として、友を選ぶことの重要性を語っている。

国家間の関係も、我々の友人関係と同じである。相手が友として信頼し
てよい人物かどうかを見極めることが大切だ、という素朴な感覚を大事に
しなければならない。


■6.米軍の刑法犯は国内平均の半分以下

近年、中国が太平洋に覇権を伸ばそうとするにしたがって、沖縄の米軍
基地に関する政治的ウソがさかんに流されるようになってきた。沖縄の米
軍基地こそが、中国の太平洋侵出にとっての最大の障害だからである。

たとえば、沖縄には在日米軍基地・施設の約75%が集中していると言 われ
ると、ほとんどの日本人は驚いて、いかに沖縄県民が米軍基地の「過 重
な負担」を堪え忍んでいるか、と思ってしまう。

しかし、この75%とは米軍が単独で使用している基地だけの話で、自 衛
隊と米軍が共同使用している三沢、厚木などの基地を加えると約25% と
いうのが実態である。[2]

また、沖縄で数年に一度、米兵による強姦事件などが起きると、マスコ
ミが大騒ぎするが、千人あたりの刑法犯検挙人数で見ると、

-沖縄の米軍  1.4人
-沖縄県民   3.0人
-来日中国人  15.7人(登録者・永住者+短期旅行者/日数)
-来日韓国・朝鮮人 19.4人 (同)

となっている[3]。外国人犯罪について騒ぐなら、10倍以上の刑法犯 を出
している近隣諸国からの在留者、旅行者こそ問題にしなければならな い
はずだ。

さらに最近は米軍の新型輸送機オスプレイの危険性がマスコミで騒がれ
ているが、これもデータを見れば、そのウソが分かる。オスプレイは2007
年に実戦配備されてからの事故率は10万時間あたり1.93回で、いま 使わ
れているヘリコプターCH-53Dの4.15の半分以下である。沖縄県民の 安全
を本当に心配するなら、一刻も早くオスプレイ配備を願わなければな ら
ない。

現在のヘリコプターCH-53Dでは尖閣諸島には届かないが、オスプレイな
ら1時間で着ける。オスプレイの「危険性」を本当に心配しているのは中
国軍の方であろう。[4]

政治的なウソが、センセーショナルな犯罪報道や、巧みに作られた数字
によって流されることがある、と知れば、ちょっと待てよと、素朴な感覚
を働かせるチャンスが出てくる。

特に最近は、[2]や[3]のように、大手マスコミの報道する政治的ウソを
データで客観的に暴くインターネット・サイトも増えてきているのは、歓
迎すべき傾向である。こういうサイトを見聞する事で、データを通じて、
我々の素朴な感覚を磨くことができる。


■7.我々の素朴な感覚を磨く道

我々の素朴な感覚を磨くには、他にどのような道があるのか。一つは人
生経験を積むことだが、もう一つは、他者の経験、すなわち歴史に学ぶこ
とである。

中西教授はイギリス・ケンブリッジ大学に留学した際に、国際政治に関
する分野を教わったのは、歴史学者のハリー・ヒンズリー教授だった。ヒ
ンズリー教授は「歴史に還元しないと何事も本当の知識にはならない」と
中西教授に教えたという。

中西教授の国際政治に関する独自の見方は、歴史的な視野を持っている
ところから来ることが多い。たとえば、現代の日本が直面している少子
化、人口減少に関しても、こんなエピソードを紹介している。

1935年にアメリカ政府は、米国における長期人口予測を発表した。そこ
には、次のような予測が示されていた。

<1965年になったとき、アメリカの人口は3分の2に減っているだろう。
大々的に移民を受け入れるか、それともこのままやっていくかの大変な分
かれ道だ。>[1,p216]

この予測は見事にはずれた。第2次大戦が始まると、急に結婚率が上が
り、それにつれて出生率も大幅にあがった。これが1965年まで続き、「大
ベビーブーム」時代が出現したのである。

もし、1935年時点で、この予測にしたがって、大々的な移民政策がとら
れていたら、どうなっていたろう。現在でも、大規模な移民政策がうまく
行っている国がないのは、トルコ移民問題に悩むドイツ[c]や、中国化し
つつあるカナダ[d]を見れば明らかである。

アメリカは経済的にも社会的にも1960年代に黄金時代を迎えるが、もし
1935年の時点で大規模な移民政策をとっていたら、貧しい移民たちへの生
活保護に税金を投入せねばならず、また治安の悪化などで、その後の黄金
時代を迎えられたかどうかは分からない。

大ベビーブームを経験したアメリカですら、その前に人口減少が政府に
よって予測されていたという歴史的事実を知っているだけで、我が国の少
子高齢化はもはや覆せない傾向だとあきらめ、1千万人移民計画などに
突っ走る危険性を感じとることができるだろう。

歴史を通じて、人類の過去の経験を知ることで、我々の素朴な感覚も磨
かれていくのである。


■8.「宙ぶらりん」の状態に耐える

少子高齢化と人口減少を前にして、大規模な移民政策にも走らず、何か
他の方策はないかと思い悩む状態は人間にとって、つらい状態である。弱
い人間はえてして、「もう移民政策しかない」などと、一足飛びに結論に
飛躍したがる。

イギリスの軍事史研究家かつ戦略思想家のリデル・ハートは次のような
言葉を残している。


<ものごとがいずれにも決しない状態に耐えることはとてもつらいことで
ある。そのつらさに耐えかねて「死に至る道」(後先考えずに飛び込んで
しまう衝動的な行動)に逃げ道を求めようとするものは昔から国家にも個
人にもあった。

しかし、このつらい「宙ぶらりん」の状態に耐えることこそ、可能性の明
確ではない勝利の幻想を追い求め、国家を灰燼(かいじん)に帰せしめる
よりは、はるかに優れた選択なのだと銘記すべきである。>[1,p25]


「平和」とか、「日中友好」などという美辞麗句に踊るのも、現状の「宙
ぶらりん」の状態に耐え続けることができず、政治的ウソとして与えられ
た明快な結論に飛びつく、という弱さの表れだろう。

フランス革命やロシアや中国の共産革命の歴史を知れば、政治的な嘘に
踊らされて、「死に至る道」を突っ走った国民の悲劇を目の当たりにする
事ができる。逆に、宙ぶらりんの状態に耐えつつ、一歩一歩、素朴な感覚
に基づきながら危機を克服してきた英国の強さを知ることができる。

どちらの道を目指すかは、その国の人々がいかに政治的ウソにだまされ
ずに、自らの素朴な感覚を磨き、働かせるか、にかかっている。

■リンク■

a. JOG(312) 「日中国交正常化」~ 幻想から幻滅へ
そもそものボタンの掛け違えは、田中角栄の「日中国交正常化」での
「異常」な交渉にあった。
http://bit.ly/13L5wd7

b. JOG(367) 「日中友好2千年」という虚構
日本は、中国の冊封体制と中華思想を拒否し、適度の距離感を保ってきた。
http://bit.ly/WzZv0W

c. JOG(143) 労働移民の悲劇
ぼくたちには何のチャンスもありません。ドイツに夢を抱いていたこと
が間違いでした。
http://bit.ly/13L5ORv

d. JOG(784) 中国の列島蚕食
「日本列島は日本人だけのものではない」が現実になる日。
http://blog.jog-net.jp/201302/article_1.html

e. JOG(188) 人権思想のお国ぶり
「造花」型のフランス革命は200万人の犠牲者。「根っこ」型のイギ リス
は無血の名誉革命。
http://bit.ly/14GMJMh


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 中西輝政『本質を見抜く「考え方」』★★★、サンマーク出版、H19
(2007/11)
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4763197975/japanontheg01-22/

2. 濱口和久『だれが日本の領土を守るのか』、たちばな出版、H24
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4813324401/japanontheg01-22/

3. 米兵犯罪は本当に多いのか?統計による比較まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2135070313136901001

4.オスプレイは本当に危険か-ヘリコプターとの事故率の比較
http://blogs.yahoo.co.jp/success0965/15968405.html

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石破が“鯉口”切れば安倍長期政権が揺らぐ


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  わたなべ りやうじらうのメイ ル・マガジン「頂門の一針」3407号
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成程政界の権力闘争とはそんなに物凄いのかとの思いを新たにした。しかしながら石破という男は見栄えが総理の器ではない。目つきが陰険であり蛇の目である。

以下は上記メルマガからの転載である。

  2014(平成26)年8月26日(火)
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石破が“鯉口”切れば安倍長期政権が揺らぐ
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               杉浦 正章

改造に向け土壇場の神経戦が続く

江戸城・松の廊下で「石破内匠頭(たくみのかみ)が、にっくき「安倍
上野介(こうづけのすけ)」に対して刀の鯉口をあわや切りそうになって
いる場面だ。止めに入る長老などがいないから始末が悪い。

元首相・森喜朗が適役だが、動かない。それにつけても首相・安倍晋三の
幹事長・石破茂“いじめ”は目に余る。仮にも総選挙、参院選挙、都知事選
挙を勝ち抜いた幹事長を、わざわざ安保担当相などという伴食大臣を作っ
て就任を求めるなどということは常軌を逸している。

この露骨な「石破外し」は「安倍長期政権」への暗雲以外の何物でもない。

かねてから石破がこんな人事を受けるわけがないと書いてきたが、世の評
論家どもは見通しが悪い。20日くらい前から「結局受ける」などとテレビ
でしたり顔で公言して、政局の急所で大きく間違った。

石破にしてみれば、この安保担当相などという人事ほど人を馬鹿にしたも
のは無い。政権成立以来石破は健気にも「安倍さんが首相をやる以上支え
る」と明言して、陰日なたなく安倍に忠誠を尽くしてきた。

ところが政権には奸佞(かんねい)側近がつきもので、安倍にしょっちゅ
う石破の悪口を吹き込んだのだろう。安倍がしっかりしていなければ乗ら
ないが、首相の座というのは魔物が潜んでいる。

国民の目に陰険に映るのも知らないで、ナンバー2を切りたくなるのだ。
安倍は奸佞に乗ってしまって、「石破切り」へと動いたのだ。
 
人間関係というのは会社でも同じだが、他人のあずかり知らぬところで思
わぬ伏線を抱えているものだ。その“遺恨試合”を石破は25日のTBSラジ
オ番組でぽろりと漏らした。第1次安倍政権末期のことだ。

石破は「安倍さんは1回お辞めになった方がいい」と発言したというの
だ。石破によると「自分が一番苦しいときにそんなことを言った人間に
は、そんなにいい感じを持っていないかも知れない。私は党と国のために
言ったのだが」と説明している。

少なくとも石破は安倍がこの発言を根に持っていると感じている。反りが
合わない原因の一つであることは間違いない。

両者とも集団的自衛権をめぐる意見の相違を際立たせているが、問題の根
はそんなところにはない。安倍サイドが主張する個別法制は、誰がなって
も避けられないことであり、石破の主張する国家安全基本法は、それにか
ぶせる性格を持ったものである。

従って対峙する性格を帯びたものでもなく、国会答弁などいくらでも調整
可能だ。それを石破までが「集団的自衛権に関する国会答弁は首相と
100%一致しなければ、国会がストップする」などと述べている。

よほど「伴食大臣などにさせられてたまるか」という気持ちが強い事を物
語っている。それだけではない。石破はラジオで開き直っている。幹事長
に留任したいと明言したのだ。「統一地方選挙で勝てるようにすることが
私がやりたいことだ」と述べているのだ。

これらの石破の姿勢が物語ることは、安倍に対して「鯉口」を切ってもい
いんだぞということに他ならない。石破にしてみれば幹事長の留任はない
上に、唯一残った重要閣僚ポストである外相も岸田文男留任の線が濃厚に
なってきている。

安倍に外堀を埋められて、石破は行き場がないのだろう。農水相などがあ
るが既に経験しており、役不足なのであろう。

安倍も狭量である。このまま石破をなだめすかして重要ポジションにつな
いでおけば、来年の総裁選で再選は間違いないところなのに、奸佞側近の
ペースに踊らされている。

わざわざ平地に波乱を起こす人事をする必要は無いのに、“お耳役”にあお
られて一番悪い選択をしてしまいそうだ。問題は石破を野に放ったらどう
なるかだ。

馬鹿な石破側近が「役職がないと求心力がなくなる」などと言っている
が、本当の石破を知らない。野党時代に政調会長を総裁・谷垣禎一に外さ
れたときに、石破は地方を回って地方党員の多くから人気を博した。

これが2年前の総裁選に大きなプラスとして作用して、地方党員票165
票、国会議員票34票を獲得して、141票の安倍をリードして1位になった
のだ。国会議員での決選投票でも89票を獲得、108票の安倍の心胆を寒か
らしめた。

石破はこうなることも予想してか総裁公選規定を地方票重視の制度に変更
している。よく安倍サイドが黙っていたと思うが、まさにお手盛り総裁選
制度だ。

内容は決選投票に地方票を加算し、地方票を国会議員票と同数にするとい
うもので、これを実施すれば来年の総裁選では安倍より石破の票数が上回
りかねないとされている。石破を野に放てばそうなる。

いずれにしても安倍が翻心して、石破の功績にふさわしい人事をしない限
り、党内の亀裂は深まる一方であり、長期政権の構図が揺らぐかも知れない。

古くは佐藤政権時代に佐藤栄作と三木武夫の対決があったが、この対決は
実力差がありすぎた。それよりも実力が伯仲した福田赳夫と大平正芳の対
決の構図が似ている。

大平は田中角栄の代理戦争を戦い、福田を一期で引きずり下ろした。福田
は総裁選前「福田再選は天の声。全国津々浦々が福田支持」と豪語してい
たが、敗退後「天の声にも変な声がある」と名言を吐いたものだ。安倍は
その容貌にふさわしく、和の精神を持って党内を治めた方がよい。


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2014.08.18

門田隆将氏  それにしても朝日新聞が、この吉田調書をもとに「所員の9割が所長命令に違反して撤退した」と書いたことが信じられない。

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2014.08.17

2004年、中国・雲南省で消息をたったデービッド・スネドンさん

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平成19年4月の集会に出席したドイナさんの弟、ガブリエルさん(右端)

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平成19年4月の集会に出席したドイナさんの弟、ガブリエルさん(右端)。報道を受け、被害者家族として名乗り出て、横田めぐみさんの母、早紀江さん(左から2番目)ら日本人被害者の家族と共闘している=東京都千代田区の日比谷公会堂(鈴木健児撮影)


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2014.08.16

京都慕情二部No5

産経新聞からの転載である。

たかが5分、されど5分 京都・五山送り火の時刻が50年ぶりに変わりますえ

2014.5.7 15:23

「妙法」の送り火。5分早くなるので間違えんといておくれやす

 京都五山送り火連合会は5月7日、京都市の夏を彩る風物詩「五山送り火」の「妙法」の文字と「船形」の点火をそれぞれ5分早めると発表した。点火を5分間隔に統一するためという。市によると、点火時刻の変更は約50年ぶり。

 8月16日午後8時に「大文字」が点火後、これまで8時10分に点火していた妙法を8時5分に、8時15分に点火していた船形を8時10分に早める。「左大文字」は8時15分、「鳥居形」は8時20分で従来通り。

 送り火は、盆に迎えた先祖の霊を再び送り出し無病息災を祈る伝統行事。


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日朝関係の歴史・・・拉致問題

【ニッポンの分岐点】
日朝関係(1)金丸訪朝団 正常化目前「償い」で禍根
以下
産経新聞からの転載である。
2014.8.2 13:00 (1/5ページ)[ニッポンの分岐点]

北朝鮮の妙香山で会談する(前列左から)金丸信氏、北朝鮮の金日成主席、田辺誠氏=平成2年9月
Plc14080213000008n1

 日朝間の最大の懸案である拉致問題。日本にとっては、拉致問題の解決がない限り北朝鮮との国交正常化もあり得ないが、20年以上前、日朝国交正常化が目前に迫ったときがあった。

◆予期せぬ金日成発言

 平成2(1990)年9月26日。北朝鮮有数の景勝地、妙香山の招待所で自民党の元副総理・金丸信、社会党副委員長の田辺誠、北朝鮮主席の金日成(キム・イルソン)が顔を合わせた。

 金丸、田辺の2人が日朝の友好を進めるため、双方に「連絡事務所」の設置を持ちかけると、金はこう返して2人を驚かせた。

 「いや、そんなのをつくる必要ないでしょう。(日朝の)外交関係をつくればいいんですから。日本と仲良くしたい」

 予期せぬ発言に動揺を隠せない金丸。田辺に「どうする」と目をやった。田辺も「いいんじゃないですか」と即答した。金丸は金に向かって「社会党もいいと言っている。私たち自民党も責任を持つ」と応じた。

 この瞬間、北朝鮮に拘束されていた第18富士山丸の船長、紅粉勇ら日本人2人の釈放と、日朝友好親善が主目的だった訪朝が、政府間の国交正常化を前提とした外交交渉に転換した。

 55年体制以降、対北朝鮮外交は「万年野党」の社会党を中心に展開されてきた。だが、昭和58年に党書記長に就任した田辺は「野党外交では限界がある」と主張し、「万年与党」である自民党を引き込むことを画策する。

2014.8.2 13:00 (2/5ページ)[ニッポンの分岐点]

 北朝鮮も、社会党との関係を維持するだけでは展望を開けないと考えていた。韓国は、平成2年9月末にソ連との国交を樹立。東アジアで孤立することを懸念した北朝鮮が、日本との国交正常化に活路を見いだそうとしている-。田辺は北朝鮮側の変化を感じていた。

 田辺は、同じ国対族で親交の深かった金丸に声をかけた。北朝鮮が政権与党と接点を持ちたがっていることを紹介し、金丸にも注目していることを伝えた。

 だが、金丸は田辺の依頼をいったん断る。東側陣営に冷淡で、外交にあまり縁がなかったことが理由だった。それでも、田辺は半年間にわたって金丸の説得を続け、金丸も最終的に訪朝を決断する。第18富士山丸問題が、訪朝によって解決できる可能性が高まっていた事情も後押しした。

◆5時間続いた密室会談

 「俺が、風穴を開けたんだ!」。平成2年9月28日夜。金丸は帰国の途に就いた日本航空の特別機内で興奮気味に語ると、大きな拍手がわき起こった。

 笹川平和財団会長の羽生次郎(68)は、その光景を今も鮮明に覚えている。羽生は当時、運輸省(現国土交通省)国際航空課長として訪朝団に加わり、日朝間の航空路開設交渉にあたった経験を持つ。羽生によると、世論やマスコミは訪朝団の功績を軒並みたたえ、国交正常化を支持する声が多かったという。

2014.8.2 13:00 (3/5ページ)[ニッポンの分岐点]


 しかし、訪朝団は後に大きな批判にさらされることになる。9月28日に調印された自民党、社会党、朝鮮労働党の3党共同宣言の中に記された「戦後45年間の謝罪、十分な償い」が、北朝鮮への戦後賠償の表明とみなされたからだ。

 共同宣言は、金丸訪朝団事務総長の石井一(79)、同団事務局長の武村正義、社会党訪朝団副団長の久保亘らが中心となった起草委員会で議論された。

 武村ら日本側は「交戦もしていない国の戦後賠償には応じられない」と突っぱねたが、北朝鮮はなかなか折れない。16時間にわたる協議の末、最後は金丸の鶴の一声で「償い」の文言を入れることが決まったのだった。

 金丸は滞在中、金日成と2人だけで5時間近くも密室で会談している。ただ、日本側の通訳や外務省の随員が入っておらず、記録を残していないため、大きな問題となった。この密談の中で、金丸は数十億ドルの「戦後賠償」を約束したともいわれているが、「誤解だ。『償い』までは是認していない」と否定している。

 石井は「金・金会談」の直後、金丸が「国交正常化の調印式を富士山のふもとで行う。金日成に山梨県まで来てもらうんだ」と言っていたことを記憶している。そして「金日成と接してファンになってしまったんだな…」と回想する。金丸の「人の良さ」があだとなった面は否定できない。

 実際、訪朝団に対する金日成の歓待ぶりはすさまじかった。2万人が動員されたマスゲームは代表例で「金丸信先生と田辺誠先生の引率する日本使節を熱烈に歓迎する!」という人文字に金丸は感動した。

2014.8.2 13:00 (4/5ページ)[ニッポンの分岐点]

 産経新聞政治部記者として訪朝団に同行取材した北村経夫(59)=現自民党参院議員=は金丸の様子について「北朝鮮の術中にはまっていた」と振り返る。そのうえで「最終的な北の狙いは戦後賠償だ。『償い』は今も尾を引いており、拉致問題にもつながっている。日本外交にとってマイナスだった」と断じる。

◆拉致は議題とならず

 7月30日、前橋市で自身が運営する老人ホーム「恵風園」に、92歳になった田辺が姿を見せた。つえをついているが、滑舌は往事のまま。田辺は「金丸訪朝団で国交正常化に限りなく近づいたが、政府や外務省を巻き込めなかった。成功と失敗、相半ばだ」と総括した。

 当時、拉致問題はまだ大きくクローズアップされていなかった。国家公安委員長の梶山静六は、昭和63年3月の参院予算委員会で、53年夏に日本海側で連続して発生したアベック行方不明事件について「拉致の疑いが濃厚」と初めて答弁していたが、金丸訪朝団では拉致が議題に上った形跡はない。

 平成2年10月、船長の紅粉らが釈放され、国交正常化の機運はさらに高まっていく。国交正常化交渉は3年1月から始まり、4年11月まで計8回行われた。

 だが、大韓航空機爆破事件の犯人、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元工作員の教育係、李恩恵(リ・ウネ)(後に田口八重子さんと判明)に関する日本側の調査要求に北朝鮮が反発し、4年11月に交渉は一方的に中断された。その後、日朝の国交正常化交渉は動かないまま、12年4月まで途絶えることになる。=敬称略(山本雄史)

2014.8.2 13:00 (5/5ページ)[ニッポンの分岐点]

             

【用語解説】金丸訪朝団 平成2年9月、自民党の金丸信元副総理、社会党の田辺誠副委員長らが第18富士山丸事件解決などのために訪朝した。自社両党と朝鮮労働党の3党は、戦後45年間、朝鮮人民が受けた損失について公式的に謝罪を行い十分に償うべきだと認める▽国交正常化のための政府間交渉を同年11月に開始する-などを盛り込んだ共同宣言で合意した。


2014.8.9 08:10 (1/4ページ)[ニッポンの分岐点]

訪朝したカーター元米大統領(左手前)とヨットの上で会見する金日成・北朝鮮主席(右) =平成6年6月(朝鮮通信=共同)

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 平成3(1991)年1月から始まった日朝の国交正常化交渉は、4年11月に北朝鮮が一方的に交渉を中断する。この後、北朝鮮は核開発を本格化し、日本はこれまで経験したことのない非常事態に直面する。

 ◆「へ理屈」の天才

 国交正常化交渉は、中断されるまで8回にわたった。だが、当初の期待感とは裏腹に、巨額の「戦後賠償」を求める北朝鮮と、応じられない日本との距離は回を重ねても縮まらなかった。

 こうした中で、北朝鮮は日本が要求した大韓航空機爆破事件の犯人で金賢姫(キムヒョンヒ)元工作員の教育係、李恩恵(リウネ)に関する調査に反発。交渉は中断され、日朝関係は長い冬の時代に入る。

 「北朝鮮は自分の都合や利益で、いったん約束したことでも理屈をつけてほごにしてくる。まさに『へ理屈』の天才だ」

 5年5月、日朝国交正常化交渉政府代表に就任した外務官僚の遠藤哲也(79)=現日本国際問題研究所特別研究員=は、北朝鮮との外交交渉の難しさを体感した一人だ。

 遠藤は膠着(こうちゃく)状態にあった日朝関係を何とか打開しようと、交渉相手に新任のあいさつ状を送るなどの努力を重ねたが、返事が来ることはなかった。水面下で審議官級、課長級の非公式接触も試みたが、北朝鮮は2年9月の金丸訪朝団のころとは違い、日本に触手を伸ばしてこなかった。

 「李恩恵問題は表向きの理由ではないか。賠償(補償)が早急に得られそうもないとみたのだろう。北朝鮮は、日本の“親分”である米国を落とした方がいいと判断した」。自らの経験を踏まえ、遠藤は当時の北朝鮮の姿勢をそう解説する。

2014.8.9 08:10 (2/4ページ)[ニッポンの分岐点]


 ◆政府高官の“告発”

 日朝関係が冷え込む中で、さらに両国関係を悪化させたのが北朝鮮の「核・ミサイル」開発だった。

 5年6月上旬。事務方トップの石原信雄官房副長官は、北朝鮮が弾道ミサイル「ノドン1号」の発射実験を日本海で実施した情報があることを記者団に明かした。

 射程は約1千キロ。北海道東部と関東東部以外の日本列島がほぼすべて射程圏内に入る計算だった。当時の自衛隊には弾道ミサイルを迎撃する能力はなく、事実とすれば日本の安全保障に深刻な影響を与える。

 石原の発言は、「政府筋」の話として大きく報じられた。だが、政治家はその情報を公にしなかった。6月18日には宮沢喜一内閣不信任案が可決され、解散・総選挙へ突入していく。石原の“告発”は、国家の危機を前にしても政局に明け暮れる政治家への警告でもあったが、その後も政治の混迷は続くことになる。

 同年8月、非自民の連立政権、細川護煕内閣が発足した。国民の期待は高かったが、7党1会派の「寄り合い所帯」はすぐにきしみ始め、翌6年4月に退陣。後継の羽田孜内閣も少数与党という波乱の船出となった。

 そのさなか、北朝鮮は同年6月13日、国際原子力機関(IAEA)からの即時脱退を表明する。北朝鮮を強く非難した米国は、北朝鮮の軍事施設に対する「ピンポイント爆撃」を公然と議論するなど、北朝鮮の「核・ミサイル」問題をめぐる緊張はかつてないほど高まった。

 「半端じゃない切迫感だった。米国は先制攻撃を辞さずという意識で、戦争が起こりうると想像せざるを得なかった…

2014.8.9 08:10 (3/4ページ)[ニッポンの分岐点]


 羽田内閣の官房長官だった熊谷弘(74)は生々しい言葉で回想する。わずか64日間の短命政権だったが、最も緊迫した時期に北朝鮮と向き合った。

 周辺事態法など有事を想定した法整備は皆無に等しい時代。熊谷は「一刻も早く法整備をしないといけない」と焦り始めた。

 危機管理に没頭していた石原は、連日関係省庁と協議を重ね、目前の危機の情報を集めていった。

 米国と北朝鮮が交戦状態に入った場合、何が起こるのか。北朝鮮軍は38度線を越え、ソウルを砲撃し、釜山まで南進する-。官邸はさまざまなシミュレーションを繰り返した。その結果、時の日本政府には安全保障に対する備えが絶対的に不足していたことが明らかになる。

 「北海道から戦車を持ってきたら道路交通法違反になるぞ」「米国の病院船が撃たれたらどうするのか」「日本海側をどうやって守るのか」…。平和ボケともいえるような議論が官邸で普通に行われていた。熊谷は「『そんなバカな話があるか』と言いながら激しい議論をした」と振り返る。

 ◆いったん収束するも…

 ただ、結果的に議論の成果を生かす局面は訪れなかった。米国元大統領のカーターが同月15日に平壌に入り、北朝鮮主席の金日成(キムイルソン)と会談、これを受け金がIAEA査察団の残留などを表明したからだ。国際社会を揺るがせた北朝鮮の核危機はいったんは収束に向かった。

 それから4年あまり。北朝鮮は沈黙を破る。10年8月31日。弾道ミサイル「テポドン1号」を発射したのだ。

2014.8.9 08:10 (4/4ページ)[ニッポンの分岐点]


 テポドンは日本上空を超え、三陸沖に着弾したことが判明する。小渕恵三内閣の官房長官だった野中広務は31日夜、「同日午後0時過ぎに北朝鮮東部沿岸から発射された弾道ミサイルが、三陸沖の公海に弾着した可能性がある」とのコメントを発表したが、情報は集まっていなかった。

 官房副長官だった新党大地代表の鈴木宗男(66)は、官邸で一報を聞いたが「当時、日本は自前の人工衛星も持っていなかったし、詳細はつかめていなかった。それほど緊張もしていなかった」と語る。首相の小渕ですら、記者に「事前に情報は入っていたのか」と聞かれ、「あれ、どうだったかな…」と答えたほどだった。当時、北朝鮮への関心が低かったことがうかがえる。

 その後、国交正常化交渉は一時的に再開されたものの、核・ミサイル開発や拉致問題が重しとなり、前進しなかった。日朝関係は14年9月17日、首相の小泉純一郎による電撃訪朝まで動くことはなかった。=敬称略(山本雄史、沢田大典)

                   ◇


【用語解説】北朝鮮の核危機


 北朝鮮は1993(平成5)~94年、2002~03年の2度にわたり、核開発をめぐって国際社会を緊張させた。いずれも核拡散防止条約(NPT)からの脱退を表明するなどした。北朝鮮の核問題は現在、日本、米国などを交えた6カ国協議の場で取り上げられる

日朝関係(3)小泉訪朝 「単身で敵地」拉致動く

2014.8.16 12:15 (1/6ページ)[ニッポンの分岐点]

首脳会談を終え、握手する小泉純一郎首相(右)と北朝鮮の金正日総書記 =平成14年9月17日

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 日朝関係は平成14年、歴史的な節目を迎える。首相の小泉純一郎の訪朝だ。北朝鮮は拉致を正式に認め、日本側に謝罪。10月15日には拉致被害者5人の帰国という成果を得る。一方で、「8人死亡」という衝撃的な報告がもたらされ、拉致事件の全容解明には至らなかった。


悲壮な覚悟


 13年4月に発足した小泉政権は同年夏の参院選で大勝し、政権基盤を着々と固めていた。

 その陰で、外務省アジア大洋州局長の田中均は同年晩秋から極秘裏に北朝鮮と交渉を始めていた。窓口役となったのは、日本側が「ミスターX」と呼んだ人物。田中は最高指導者である総書記、金正日(キムジョンイル)に通じる人物と判断し、中国などで接触を重ねながら、拉致問題の解決、国交正常化に向けた準備交渉を進めた。

 小泉の訪朝は、官房長官の福田康夫が14年8月30日、電撃的に発表した。この日以降、首相官邸では訪朝の準備が本格化する。

2014.8.16 12:15 (2/6ページ)[ニッポンの分岐点]

 首席首相秘書官だった飯島勲(68)=現内閣官房参与=は、約120人の報道陣の取材を北朝鮮に認めさせるなど持ち前の辣腕(らつわん)をふるっていた。対照的に、警護官(SP)や同行の職員数は最小限に抑えた。「単身で敵地に乗り込んで話をつける」。小泉の悲壮な覚悟の表れだったという。

 同行する政治家は官房副長官の安倍晋三(現首相)だけ。通訳を除き、その他は首相秘書官の別所浩郎、外務審議官の高野紀元(としゆき)、田中らわずか7人だった。

 「握手するときは頭を下げてはいけないんだ。それが(映像に)映るとわびることになる。堂々としておけ」。飯島は金ら北朝鮮の要人と日本側の一行が握手する場面を想定し、同行が決まった首相秘書官らに日本人の癖である「おじぎ」をしないように忠告した。


衝撃的な情報


 9月17日、平壌国際空港に着いた小泉は、首脳会談が行われる百花園迎賓館へ向かった。同館では首相、安倍、秘書官らの控室は別々に用意されていたが、飯島の判断で全員が小泉と同じ部屋で待機した。一体感を保つためだったという。

2014.8.16 12:15 (3/6ページ)[ニッポンの分岐点]

 部屋に入ってまもなく、一行に衝撃的な情報がもたらされる。北朝鮮側が拉致被害者について「5人生存、8人死亡」と非公式に日本側に伝えてきたのだ。小泉はしばらく沈黙した後、絞り出すような声で「どういうことなんだ」「どのルートの情報なんだ」とつぶやいた。

 小泉は午前の首脳会談の冒頭、無言を貫き、報道陣の退出後に「強く抗議する。家族の気持ちを思うといたたまれない」と金に迫った。

 昼の休憩は、飯島が東京・銀座で調達したにぎり飯だったが、小泉はほとんど口にしなかった。随員の一人が控室のテレビの音を小さくしようとしたが、小泉が「そのままでいいんだ」と声を荒らげる場面もあった。テレビの音が大きければ盗聴されにくいことを小泉は知っていた。「終始冷静だった」(首相秘書官の一人)という小泉だが、神経は張り詰めていた。

 この時点で、金は拉致自体を認めていない。「拉致したという白状、謝罪がない限り、日朝平壌宣言への調印は考え直すべきだ。認めなければ、席を立って帰国しましょう」。安倍が強い口調で小泉に迫る。小泉は最終的に安倍に同調し、日本政府の方針が定まった。

2014.8.16 12:15 (4/6ページ)[ニッポンの分岐点]

 田中らは非公式の安否情報リストを入手し、分析を急いだ。リストには死亡日が記載されていたが、同じ日に亡くなるなど不自然な点が多かった。この重要情報は「未確認」を理由に日朝平壌宣言の署名直前まで小泉には伝えられず、後に外務省による「情報操作」と批判されることになる。

 午後の首脳会談で、金は「妄動主義者と英雄主義者」がやったと拉致を認め、「おわびしたい。二度と許すことはない」と謝罪した。この言葉で小泉の強硬姿勢は薄れ、同宣言への署名を決断した。


思わずこぼれた涙


 小泉訪朝から約1カ月後の10月15日。内閣官房参与だった中山恭子(74)=現参院議員=は午前7時過ぎ、拉致被害者5人の迎え役として全日空のチャーター機で平壌へ飛んだ。

 中山の回想によると、外務省は当初5人については、北京経由の定期便で帰国させようとしていた。だが、中山が「政府が守れなかった人たちなんです。チャーター機でなければ迎えになど行けません」と強く反対。中山の意をくんだ安倍が外務省と交渉し、ようやくチャーター機の使用が決まったのだった。
2014.8.16 12:15 (5/6ページ)[ニッポンの分岐点]

中山は、空港の待合室で5人と面会する。5人は大きな声で「おはようございます」とあいさつした。中山は、はっきりとした発音の日本語を聞いて安心し、「日本の心を失っていないと直感した」と振り返る。

 チャーター機に乗った5人は窓際に座った。日本海を渡り終えるとき、拉致被害者の一人、地村富貴恵が「あれ、若狭湾じゃない?」と声を上げた。5人は一斉に窓の外に視線を向け、食い入るように日本の陸地を見つめていた。

 5人は北朝鮮で「日本に帰国したら国民から歓迎されない」とすり込まれていたという。だが、羽田空港に着くと、多くの人々が帰りを待っていた。戸惑う5人。地村はとっさに「みんな、がんばって降りましょう」と声をかけた。それが合図となり、5人はゆっくりとタラップを降りた。真下には肉親や友人が集まっていた。中山は、思わず涙がこぼれた地村を「大丈夫よ…」と励ました。

 小泉は16年に再訪朝し、北朝鮮に残されたままだった拉致被害者の家族を帰国させることに成功した。しかし、拉致被害者全員の帰国を求める家族会の反発は強く、「日朝平壌宣言の履行を優先している」などと厳しい批判を浴びた。

【再会の日へ(3)】
北に死亡宣告された兄と弟、待ちわびて逝った父と母の思い胸に「最後の戦い」
2014.8.29 15:58 (1/3ページ)


 また間に合わせることができなかった。弟との再会がかなわず、この世を去った父、6年前に亡くなった母の胸中を思うと、悔しさをこらえきれなかった。

 今月6日に営まれた拉致被害者、市川修一さん=拉致当時(23)=の父、平さん=享年(99)=の葬儀・告別式。修一さんの兄、健一さん(69)は声を詰まらせながら、「胸が張り裂けそうです」と心境を明かした。

 昭和53年8月12日に修一さんが拉致されてから30年後の平成20年に母、トミさんが91歳で死去。平さんと同様、人生の3分の1を拉致によって狂わされた。

 息子との再会をただ願い、最期まで命の灯を燃やしていた両親。祭壇に掲げられた平さんの遺影、胸の中のトミさんに向け、健一さんは声を振り絞った。「お父さん、お母さんと一緒に天国で修一の帰りを待っていてください。必ずや良い知らせを届けます」

 両親の思いを受け継ぎ、弟の奪還を改めて誓った健一さんもまた北朝鮮の嘘に何度も翻弄(ほんろう)されながら、生存を信じて救出運動を続けてきた。その気持ちは、北朝鮮によって踏みにじられる。


2014.8.29 15:58 (2/3ページ)

■ ■ ■


 修一さんについて、北朝鮮の説明は「1979(昭和54)年に溺死(できし)した」だった。修一さんは泳げず、日本では海水浴に行ったこともなかった。「死亡確認書」という書類も捏造(ねつぞう)の疑いが強く、遺品もないとされた。信じられるはずがなかった。

 一緒に拉致され、北朝鮮で結婚したとされる増元るみ子さん=同(24)=に関しても同様だった。「1981年8月に心臓まひで死亡した」とされたが、弟の照明さん(58)は「心臓疾患のなかった姉が、20代で突然死するとは思えず、北朝鮮の説明は信じるに値しない」と話す。

 帰国した拉致被害者の証言も北朝鮮のうそを裏付けた。北朝鮮は修一さんとるみ子さんが79年4月に結婚したと説明したが、蓮池祐木子さん(58)は78年秋から79年10月25日まで、るみ子さんと一緒に生活していたと証言した。

 2人について、北朝鮮が「死亡」とした後の生存情報も複数ある。北朝鮮の元工作員、安明進氏は91年ごろまで何度も平壌の金正日政治軍事大学で修一さんを目撃したと証言。北朝鮮の工作機関の幹部だった男性が、韓国の北朝鮮向け短波ラジオ放送局に送った手紙では、修一さんとるみ子さんが96年まで生存していたことが記されていた。

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 修一さんとるみ子さんが拉致されて36年となった今月12日。東京都港区のJR新橋駅前で、照明さんは拉致問題の早期解決を政府に求める署名への協力を呼びかけていた。

 るみ子さんと照明さんの父、正一さんは平成14年9月の日朝首脳会談からちょうど1カ月後に79歳で他界。今は母の信子さんが鹿児島県の実家でるみ子さんの帰国を待ちわびる。

 信子さんもすでに86歳。残された時間を考えると、照明さんの焦りは募る。現在行われている再調査を逃せば、るみ子さんと母との再会のチャンスは再び遠のいてしまう。

 9月上旬にも最初の報告が伝えられる見込みの再調査を照明さんは「最後の戦い」と位置づけている。この署名活動でも「これが最後の戦い、最後の交渉です。家族の命を救出し、人生を取り戻すためにも、負けるわけにはいかないのです」と呼びかけた。雨の中、傘も差さずに署名を訴える姿は今回の再調査にかける強い思いを物語っている。

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2014.08.15

京都慕情二部

【ベテラン記者のデイリーコラム・山上直子の誘惑する京都】

i新緑パワースポット 源氏物語や枕草子の「青もみじ」、美人になる神社…

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以下は産経新聞からの転載である。
2014.5.24 18:00 (1/3ページ)[山上直子の【誘惑する京都】]


 新緑の京都はサイコー。いずれがアヤメかカキツバタ…というけれど、春から初夏にかけての花々は見頃だし、東山を遠望すれば濃淡の「緑」がグラデーションをなして美しい。もう少しすると長~い梅雨がやってくるので、さわやかな今月いっぱいがおすすめだ。目玉はなんといっても「青もみじ」。癒やされること間違いなしの新緑のパワースポットはいかがだろう?

 秋の紅葉ならぬ、新緑の「青もみじ」。数ある名所の中でも好きなのが、源氏物語や枕草子にも登場する下鴨神社の「糺(ただす)の森」だ。全体が世界文化遺産の一つで、これほど「鎮守(ちんじゅ)の杜」らしい森はちょっとない。

 時間に余裕があれば、京阪か叡山電鉄の「出町柳駅」から高野川沿いに歩き、橋を渡って南から森に入ってみよう。暑い日でもひんやりとして、どこか霊気漂う雰囲気。パワースポットとして名高いのもうなずける。縄文時代の祭祀(さいし)遺跡も発見されたというから、太古からの聖地だったのは間違いない。


 さて、「鴨」という名からも察しがつくだろうか。下鴨神社は名随筆「方丈記」の著者で鎌倉時代の歌人、鴨長明にゆかりが深い。表参道から少し西に入ったところに摂社「河合神社」があるが、長明はその神職の子として生まれた。

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」で始まる「方丈記」は、その無常観ゆえに人気の高い作品だ。一昨年の2012年は、方丈記が書かれて800年の記念の年とあって、随分盛り上がったが、注目されたのにはもう一つ理由がある。京都を襲った「安元の大火」(1177年)や「元暦の地震」(1185年)など、当時の災害記録が忠実かつ詳細だったからだ。

2014.5.24 18:00 (2/3ページ)[山上直子の【誘惑する京都】]


 東日本大震災後の日本人にとって、心に響いたのは間違いない。平安末期から鎌倉時代に向かう動乱期に生き、決して順風満帆とはいえない人生を送った長明の足跡は、改めて「この世をいかに生きるか」ということをわれわれに問い直したと思う。

 ちなみにこの河合神社、美人で名高い祭神(玉依(たまより)姫)にちなんで「美麗の社」として有名だ。手鏡の形をした「鏡絵馬」が人気で、自分で絵馬にメークを施し奉納するとキレイになれるとか…。


こちらも式年遷宮


 昨年は伊勢神宮と出雲大社の遷宮で沸いたが、来年、下鴨神社と上賀茂神社の式年遷宮が行われる。21年ごとの伝統だ。

 遷宮というと本来は建物を一新するものだが、同社の場合、国宝の本殿などは取り壊しができない。そのため、檜皮の屋根のふき替えなど修理を施し、平成27年4月、祭神を修理後の本殿に移す「正遷宮」が行われることになっている。


床で楽しむ新緑も


 もう一つ、床に映る新緑を楽しむ…というちょっと変わった趣向の寺がある。左京区岩倉の門跡寺院、実相院だ。

 ここの客殿は、黒光りする床に庭園の景色が映り込むことで有名。新緑のころは「床みどり」、紅葉の時期なら「床紅葉」…というわけだ。客殿自体も、御所から移築された由緒ある建物で、「承秋門院(じょうしゅうもんいん)の旧宮殿」の一部である。

2014.5.24 18:00 (3/3ページ)[山上直子の【誘惑する京都】]


 その修理に協力するかたちで京都市のブライダル会社が「実相院 床みどりフォトプラン」を発売、話題になっている。最近、京都で結婚式を挙げる人が増えているが、普段は撮影禁止の場所での婚礼写真…って、プレミアものかも。

新緑が美しい「糺の森」=京都市左京区(岡本義彦撮影)
【下鴨神社】

【実相院】

山上直子
産経新聞編集委員兼論説委員。平成3年入社、大阪新聞経済部、産経新聞京都総局、文化部を経て現在に至る。京都出身、大阪育ち、現在は京都在住。歴史と文化、グルメ、グッズ、その他もろもろ詰め込んで、「魅力と魔力に満ちた京都」をご案内。


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京都慕情二部No4

Back to the 祇園祭(下)今夜まさに“ほこ天”…「後祭」効果ゆったり宵山

2014.7.15 16:30 (1/4ページ)[山上直子の【誘惑する京都】]

「前祭」の宵々山で歩行者天国となった四条通をそぞろ歩きする多くの人々=15日午後、京都市下京区(恵守乾撮影)

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(上)「本来の姿に戻す」後祭…から続く


 駒形(こまがた)ちょうちんの灯の横を、車のヘッドライトが通り過ぎる-。今までにない眺めとなった14日、京都市中心部で行われる祇園祭(前祭)の宵山が始まった。人出は例年の半分ほどだそうだが、今夜(15日、16日)からは例年通りの歩行者天国になる。49年ぶりの後祭復活で変わる祇園祭の楽しみ方は…。


ゆったり宵山…今夜のオススメ歩き方


 「なんや、今年はちょっと余裕のある感じですなぁ」。いいのか、悪いのか。やっぱり、うれしいのだろう、知人がそんなあいさつを返して人混みに消えていった。地元でも、今年は初めてのことが多いのだ。

 14日は歩行者天国も設定されず、露店もなし。既存の飲食店などが店頭にドリンクや食べ物の屋台を出し(コンビニでも!)ているくらいで、むせかえるような屋台の匂いもない。四条通や烏丸通など、大通りは車やバスがノロノロと鉾の横を通り過ぎ、バスの中から鉾の写真を撮っている人もいた。

 今年は「前祭」と「後祭」に分かれているため、現在、建つ山鉾(やまほこ)は前祭の23基。東西の通りでいうと、蛸薬師通(たこやくしどおり)が山鉾の北限になる。山鉾がある通りは通行止めになっているから、露店がないぶん、ゆったりと歩きやすい。

2014.7.15 16:30 (2/4ページ)[山上直子の【誘惑する京都】]

 今夜(15日夕)からはホコ天になるので、おすすめルートを。まずは、四条烏丸の交差点から、まっすぐ西へ向かって通称「鉾の辻」と呼ばれる四条室町の交差点へ。この辻に立つと、東西南北(東に函谷鉾、西に月鉾、南に鶏鉾、北に菊水鉾)に大きな鉾が見える。ここを起点に、どの方向へ向かっても2つや3つは山鉾に出合える。


「後祭」の楽しみ方


 17日の前祭の巡行が終わると、いよいよ49年ぶりという「後祭」だ。といっても、特別なイベントがあるわけではなく、前祭同様に山鉾建てが始まって、21~23日が宵山、24日が後祭の山鉾巡行である。

 後祭の山鉾は10基。復活した「大船鉾」だけが四条通より南にあるが、あとの9基は錦小路通から北のコンパクトな地域に集中しているので、そぞろ歩きながら全部を見て回ることも可能だろう。

 全部回ってもらおうと、「後祭十ヶ町集印」企画もあるそうだ。配布されている台紙に山鉾10基の御朱印を集めると、記念てぬぐいがもらえる。先着2000人(有料)。

 この1週間しか見られない「四条御旅所」(四条寺町)の眺めもおすすめ。17日に八坂神社を出たおみこしが24日までとどまり、夜間はこうこうと灯がともっている。「無言でおまいりすれば願いが叶う」という、祇園祭最大の、しかも期間限定のパワースポットである。


2014.7.15 16:30 (3/4ページ)[山上直子の【誘惑する京都】]


 【祇園祭のお菓子】

 定番の「祇園ちご餅」。甘い白みそを求肥で包んだ名物菓子で、昔は鉾に乗るお稚児(ちご)さんのための菓子だったという。(三條若狭屋、3本入り、388円)

2014.7.15 16:30 (4/4ページ)[山上直子の【誘惑する京都】]


 【前祭】14~16日、宵山(ただし歩行者天国は15~16日のみ)▽17日午前、前祭の山鉾23基が巡行、夕に神幸祭

 【後祭】21~23日、宵山(歩行者天国および露店はなし)▽24日午前、後祭の山鉾10基が巡行、夕に還幸祭


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京都慕情二部No3

Back to the 祇園祭(上)山口百恵も女心を…山鉾2回!半世紀ぶり復活「後祭」は見逃せない

以下産経新聞からの転載である。

2014.7.2 16:30 (1/2ページ)[山上直子の【誘惑する京都】]


八坂神社で祇園祭「お千度の儀」に臨む稚児の平井誠人君(中央奥)ら=1日午前、京都市東山区(恵守乾撮影)
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 49年ぶりに「後祭(あとまつり)」が復活する京都・祇園祭の幕が開けた。1日には祭りの無事を長刀鉾の稚児(ちご)が祈願する「お千度の儀」が行われ、いよいよ京都の市中は祭り一色だ。今年は現代の祇園祭にとって特別なメモリアル年なのだが、全国的にも有名な「山鉾巡行(やまほこじゅんこう)」が17日と24日の2回行われる…ということを、どのくらいの人がご存じだろう? まずは、今年は特に見逃せない理由から。


復活の後祭


 「昔は山鉾巡行は前と後と2回あってな…」と、話に聞くだけだった「後祭」の復活は、大ニュースだった。古来の祭りが変遷していくのはよくあることだが、“元に戻る”ことは少ない。

 しかも、山鉾町の長老たちが「後祭の風情はよかったなぁ」と口をそろえるのを聞いてきたから、見てみたかった…と思うのは当然ではないか。その痕跡を探して行き当たったのが、川端康成の小説「古都」の中の一文だった。

 《宵山、それに、十七日の山鉾の巡行が終わっても、まだ、後の祭りがつづく。店を開けはなって、屏風(びょうぶ)などをかざる…》(新潮文庫「古都」より)

 物語は京都の移り変わる四季をたどりつつ双子の美人姉妹の数奇な運命を描いたもので、生き別れになった姉妹が再会するのが祇園祭の夜…という設定。昭和38(1963)年には岩下志麻が、55年には山口百恵が一人二役で主演して映画化されたのでご存じの人も多いだろう。余談だが、姉妹のうち山鉾町で育った姉・千重子の幼なじみは子供のころに長刀鉾の稚児を務めた…という設定で、このあたりもいかにも山鉾町らしい。


主役は「おみこし」


 さて、では49年の歳月を経てなぜ後祭が復活するのか? もちろん、山鉾町の熱意が大きく、それは「本来の姿に戻す」という理由から。それも単に昔のかたちに戻すということだけではなく、そもそも山鉾巡行は、八坂神社のおみこしが動く(渡御する)ときの先触れ、にぎやかしとして行われるようになったという歴史的な背景がある。

2014.7.2 16:30 (2/2ページ)[山上直子の【誘惑する京都】]

 そのおみこしはといえば、17日に八坂神社を出て(神幸祭=しんこうさい)市中に1週間とどまり、24日に還る(還幸祭=かんこうさい)。つまり、それを祝って、おみこしが動くときに前それぞれの山鉾がにぎやかに巡行するのが祇園祭なのだ。山鉾巡行ばかりがニュースに取り上げられて有名になり、巡行イコール祇園祭と思われているフシがあるけれど、祇園祭の主役は「おみこし」であり、本来の祭りの姿というのもそういうことだ。 

 さて、今年は慣れないこともあってスケジュールがわかりづらい。以下をご参考に。

 【前祭】14~16日、宵山(ただし歩行者天国は15~16日のみ)▽17日午前、前祭の山鉾23基が巡行、夕に神幸祭

 【後祭】21~23日、宵山(歩行者天国および露店はなし)▽24日午前、後祭の山鉾10基が巡行、夕に還幸祭

=続く

(下)ゆったり宵山…京都ツウ記者がイチ押し、オススメ歩き方は


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京都慕情二部No2

猛夏やっぱりキュウリ効く?京のパワーアイテム、究極やっぱり…

2014.7.28 16:30 (1/3ページ)[山上直子の【誘惑する京都】]

以下産経新聞からの転載である。

八坂神社境内の摂社、疫神社で行われた夏越祭の茅の輪くぐり

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 梅雨もあけて暑~い、夏到来。クーラーのない時代、昔の人にとって暑さは生死にかかわる問題だったから、この時期、病気封じや健康を願う風習が多い。もちろん、1カ月にわたる祇園祭も「疫病退散」のお祭りだ。きょう28日は祇園祭の終盤イベント、八坂神社の「神輿洗式(みこしあらいしき)」が四条大橋の上で、31日には境内の「疫神社(えきじんじゃ)」で「夏越祭」が行われる。1カ月にわたる「祇園祭」がついに終幕するのだが、このお祭りのパワーアイテムが「茅(ち)の輪」ということはご存じだろうか。


 「疫神社」という名前自体がすごいと思うのだが、まさしく、疫病と深く関わるお社である。31日、ここに大きな「茅の輪」が据え付けられ、参拝者はこれをくぐると病気から逃れられると信じられてきた。

 6月末にも大きな茅の輪をくぐって半年の無病息災を願う「夏越祓(なごしのはらい)」という風習があるが、どちらも同じ茅の輪。茅とは「ちがや」という植物のことで、ツーンととがった葉っぱが特徴だ。かつては強壮薬としても使われていたそうで、“強い”イメージからか、邪をはらう力を持つと信じられた。

 「茅」にまつわる説話が、祇園祭の「蘇民将来(そみんしょうらい)」の物語である。正直者の蘇民将来という男が、疫病から逃れることができる目印として、スサノオノミコトから茅の輪を授かり、腰に付ける…つまり、病気にならないお守りが茅でつくった輪なのだ。

 夏に病気にならない…夏ばてしない…というわけで、夏ばてのお守りとして「茅の輪」をいただいて帰ることにしている。


きゅうり封じ


 ちょっとかわったおまじないのような風習がこちら。京都市右京区の五智山蓮華寺の「きゅうり封じ」(28~29日)だ。


2014.7.28 16:30 (2/3ページ)[山上直子の【誘惑する京都】]


 弘法大師・空海に由来し、キュウリに病を封じこめて、仏様に病気が治るのを祈願するというもの。名前や病気名などを書いたキュウリを、祈祷(きとう)してもらったあとに持ち帰り、それでからだの悪いところをさする。4日目の朝に土に埋めると、病気が去る…とされている。ここでのパワーアイテムは、なんとキュウリ。

 現代人の感覚では、夏野菜はからだを冷やす効果があるし、熱中症対策には水分の多い野菜や果物がよいそうである。人形などに病をうつす信仰はあちこちにあるが、昔の人はキュウリにもパワーを感じたのだろう。


カボチャ供養


 夏野菜といえば、こちら、左京区・安楽寺の「鹿ヶ谷カボチャ供養」も有名だ。「夏の土用にカボチャを食べると中風にかからない」と信じられ、25日には参拝者に京野菜の「鹿ヶ谷カボチャ」をたいたものが振る舞われてた。

 中風という病気じたい、多くは脳出血後に残るまひ状態をいったそうだ。医学知識が発達していなかった時代は、栄養をつけるくらいしかなかったろうから、ビタミン豊富なカボチャがきく…と信じられたのではないかと勝手に納得している。

猛夏やっぱりキュウリ効く?京のパワーアイテム、究極やっぱり…

2014.7.28 16:30 (3/3ページ)[山上直子の【誘惑する京都】]


 夏の暑い時期、京都観光の際は水分補給をお忘れなく


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朝日新聞の従軍慰安婦記事の誤報判明=終戦記念日に共感できる論説に巡り合った。

以下は産経新聞からの転載である。


終戦の日と「靖国」 いつまで論争続けるのか

2014.8.15 03:09 (1/4ページ)[主張]

この時代に「軍国主義」とは


 毎年、この時期になると、さきの大戦で戦陣に散った人々を偲(しの)ぶ物語がメディアを賑(にぎ)わす。いつの時代になっても、国のために命をささげた人たちのドラマには胸をうたれる。

 本紙7月30日付「教育再生考」で紹介された植村真久少尉(戦死後、大尉)の遺書もその一つである。特攻隊を率いて戦死した少尉は、生後6カ月の愛娘(まなむすめ)にあて、「大きくなって父に会いたいときは、九段へいらっしゃい」と言い残す(學藝書林、「証言 私の昭和史」)。

 ≪歴史認識は入り込めぬ≫

 その東京・九段の靖国神社ではきょう、多くの人が亡き父、夫、兄弟の霊にぬかずき、国に殉じた人たちに哀悼の誠をささげる。

 今の時代、「死者との対話」は静かに行われるべきだ。歴史認識や外交上の配慮、政治的な思惑など入り込む余地はない。

 中国や韓国は、日本の指導者の参拝を容認しない。「日本の軍国主義が行ってきた侵略戦争の象徴」(秦剛・中国外務省報道官)だという。念頭にあるのは、いわゆるA級戦犯の合祀(ごうし)だろう。だが、首相はじめ日本国民が靖国に詣でる目的は、ただ戦没者への哀悼の表明である。

2014.8.15 03:09 (2/4ページ)[主張]


 靖国に祀(まつ)られることをひたすら念じて逝った人々が、残した家族と「再会」できる唯一の厳粛な場を、「軍国主義の象徴」と糾弾する-。この大きすぎる認識の差こそが靖国問題の本質だ。

 靖国の杜(もり)には、ふだんから参拝客が訪れる。そういう人たちの何人が、合祀の是非論や歴史認識を意識してお参りするだろうか。参拝した人自身が自問すれば、答えはおのずと明らかだろう。

 毎年7月の「みたままつり」には、大勢の若い女性が浴衣にうちわという姿で訪れ、女御輿(みこし)が露店の参道を練り歩く。「軍国主義の象徴」などとは無縁の光景だ。

 安倍晋三首相は昨年暮れに参拝した際、「戦犯崇拝という誤解に基づく批判があるが戦争で人々が苦しむことのない時代をつくる決意を伝えるため」と内外に説明した。残念ながら中国や韓国の納得は得られなかった。国民はいいが、指導者は許せないということだろう。

 同盟国の米国も「失望」したという。日本の首相が参拝すること自体への不快感ではなく、中韓の反発による東アジア情勢の不安定化への危惧ではあろう。


2014.8.15 03:09 (3/4ページ)[主張]


 「中国は歴史問題を日本批判の材料に使う。罠(わな)にはまってはいけない」(ハーバード大、ジョセフ・ナイ教授)という忠告もある。責められるべきは罠をかける方だ。不当な批判を恐れていては、先方に屈し続けることになる。

 ≪理解は得られつつある≫

 徐々にではあるが、変化は生じてきている。

 ことし5月、シンガポールでのアジア安全保障会議で講演した安倍首相は、中国側出席者からの質問に答え、靖国参拝について「国のために戦った人たちの冥福を祈るのは世界共通のリーダーの姿勢だ。(戦後の)日本は平和国家として歩んできた」と強調して、大きな拍手を浴びた。

 首相は集団的自衛権の行使容認が閣議決定された直後の先月、豪州を訪問した。アボット首相は「日本は戦後ずっと本当に模範的な国際市民だった。過去ではなく現在の行動で判断されるべきだ」とわが国の歩みをたたえた。

 来年は戦後70年を迎える。歴史認識についても、再検討されるべき時だろう。中国、韓国、そして日本国内の一部の人たちは、「戦後秩序への挑戦」などと非難するが、先日の朝日新聞の慰安婦報道に関する検証はどうだろう。

2014.8.15 03:09 (4/4ページ)[主張]


 世論をリードする有力なメディアの記事が虚構であったという事実は、内外で広く流布されてきた「歴史認識」の見直しが必要であることを示している。根拠のない記事は、靖国に祀られている戦没者を含む多くの日本人を貶(おとし)めることになりかねず罪は重い。

 靖国論争も、そろそろ終止符を打つ時にきているのではないか。中国や韓国は、かたくなな態度をとり続けるのではなく、日本人の心情を酌み、理解してほしい。

 安倍首相は、きょう参拝するかどうか、明らかにするのを避けている。見送るなら外交的配慮による苦渋の決断だろう。天の時、地の利、そして人の和が備わる時まで信念を持ち続け、再びそれを実現してもらいたい。

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北朝鮮日本人妻の真実とは 「アキとカズ 遥かなる祖国」

1945.8.9.長崎への原爆投下、ソ連軍の参戦。1945.8.15ポッタム宣言受諾、無条件降伏。
敗戦直後の樺太在住の日本人の嘗めた辛酸、同じく朝鮮在住日本人同朋の苦悩、そして阿漕なソ連人達や在日朝鮮人共の狡猾さを見事に剔抉してみせる傑作の梗概である。

以下産経新聞からの転載である。図表は複雑な登場人物の相関図である。


北朝鮮日本人妻の真実とは 「アキとカズ 遥かなる祖国」いよいよ物語は佳境

2014.8.13 11:03 (1/4ページ)[アキとカズ 遙かなる祖国]

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 昭和元(1926)年生まれの双子の姉妹を主人公にした本紙連載小説『アキとカズ 遥(はる)かなる祖国』は100回を超え、物語は佳境に入ります。カズは日本人妻として北朝鮮へ。樺太のアキは祖国へ帰れなくなった人を救うために立ち上がる…。まもなく終戦から69年。2人の物語を通して激動の昭和史がよみがえります。(「アキとカズ」作者、喜多由浩)

 現在、ヤマ場を迎えている日朝協議では、拉致被害者とともに、帰国事業で北朝鮮へ渡った日本人妻(夫)の日本への帰国問題も焦点のひとつとなっています。

 「日本人妻カズ」は、なぜ北朝鮮へ渡らねばならなかったのか? 北朝鮮ではどんな過酷な運命が待ち受けていたのか? 物語では、脱北してきた元日本人妻の実際の証言や記録をもとにして、リアルかつ詳細に描いてゆきます。

 一方、アキが立ち上がる樺太の残留者問題は、大切な人権である「自由」を奪った共産主義者の独裁政権との闘いです。その恐ろしさが骨身に染みているアキは、北朝鮮への帰国事業を知り、懸命にストップさせようとするのですが…。

 アキの活躍を借りて、樺太残留者問題の「真実」も明らかにしてゆきます。政治、外交問題化し、日本に責任がないのにもかかわらず、謝罪と補償を求められているのは「慰安婦問題」とそっくり同じです。


2014.8.13 11:03 (2/4ページ)[アキとカズ 遙かなる祖国]

 アキとカズの新たな「恋の行方」や、子供たちとの葛藤。さらには“現代編”で徐々に明らかになってきた「奇妙な遺書」のナゾ、日本を封じ込めようとする中、韓との情報戦、宣伝戦、日本人救出にかける武(たけし)と外務官僚、福田父子の思い…。現在進行中の動きも随所に盛り込んでゆく予定です。

 ご期待ください。


 ≪これまでのあらすじ≫

 物語は、現在の日本から始まります。

 大阪・天満の老舗の元主人、武のところへ脱北者の男が「奇妙な遺書」を持ってくる。「にほんにかえりたい。おかあちゃんがにくい」…。ひらがなで書かれたボロボロの遺書を見て、武は幼いころに里子に出され、その後、帰国事業で北朝鮮へと渡ったという「妹の並河和子(カズ)ではないか?」と疑うのです。

 双子の姉、寺谷昭子(アキ)は、やはり幼いころに里子に出され、戦前、日本領だった南樺太に養父母とともに移り住む。昭和20(1945)年夏、樺太に突然侵攻してきたソ連軍は、8月15日以降も一方的な殺戮(さつりく)、暴行、略奪をやめず、樺太は地獄絵図と化してしまいます。

2014.8.13 11:03 (3/4ページ)[アキとカズ 遙かなる祖国]

 勝ち気なアキは、前線に取り残された後輩の救出に向かったり、遊郭でソ連軍将校イワノフに見事な金的蹴りを食らわし、大活躍を見せますが、大切な人である誠との間にできた“一粒種”の崇をイワノフの妻に奪われてしまいます。

 一方のカズは、20年3月10日の東京大空襲で養父母を失い、食べるためにヤミ市のかつぎ屋に。幼なじみの婚約者、松男は戦地から帰らず、カズはヤミ市で知り合った在日朝鮮人、李哲彦(イチョルオン)と「同居」を始めます。

 だが、「3年間は松男の帰りを待つ。その間は指一本触れない」という約束は守られず、カズは哲彦に強引に体を奪われてしまう。やがてカズは、松男がフィリピンの軍事法廷で他人の身代わりとなって、絞首刑の判決を受け、死のふちに立たされていることを知り、愕然(がくぜん)とするのです。


 ■読者の声

 4月の連載開始以来、読者からたくさんのお便りを頂きました。この場を借りてお礼申し上げます。お便りの一部を紹介させていただきます。



 「87歳の一老生でございますが、28歳のとき産経新聞に接し、以来59年間、貴紙を愛読しております。連載中の『アキとカズ』ですが、心服しつつ拝読、朝4時の配達を待ちかねてポストに向かいます。実録でつづられた、知られざる多くの出来事が、私の心の琴線に迫って参ります」(神奈川県横須賀市・男性)

 「『アキとカズ』、歴史に弱い私は今さらながら勉強も兼ねて拝読しております。東京大空襲の夜、杉並区にいた私たち一家は少し離れたキャベツ畑で、真っ赤に煙る都心の空を見上げながら一夜を過ごしました。8月15日の終戦は、歴史上明らかですが、それ以降にソ連が攻め込んできた事実を日本人は忘れてはならないと思います」 (東京都八王子市・女性)

 「私は樺太で生まれ育ち、終戦時には、恵須取(えすとる)中学(旧制)の学徒戦闘隊として13歳で戦争体験をし、戦後抑留され、昭和23年8月に引き揚げてきました。『アキとカズ』の連載を読み続けている中で、『よくぞ書いてくださった』と樺太人ならではの感動と感謝の気持ちでいっぱいです」(堺市・男性)


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2014.08.14

京都慕情No12

(12)本居宣長 飲む打つ買う…しまくった誘惑の都を活力に「古事記」究めた。
以下産経新聞からの転載である。

2014.8.11 16:30 (1/3ページ)[ベテラン記者コラム]

江戸時代の国学者、本居宣長

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 綾小路通新町(京都市下京区)は四条烏丸の交差点から、南西に30メートルほど入った一画にあたる。繁華街のすぐ裏手なのに、ほんの30年ほど前までは、2階部分の軒を低くした京風の町家がまだ多く残っていた。夜になると、ひっそりとした雰囲気がただよっていた。

 いまはビジネスホテルやオフィスビル、マンションなどが建ちならんでいる。阪急や市営地下鉄の烏丸駅まで5分ほどで行けるので、急速に開発がすすんだ。そんなビルの手前に、だれも気がつかないような小さな石碑が立っていた。

 「本居宣長先生修学之地」

 とあった。宣長は宝暦2(1752)年3月7日、23歳のとき、出身地の伊勢松阪から、「青雲の志」をいだいて、京都にやってきた。

 京都は学生の町でもある。いまでも春4月には、まだ田舎臭さを残した若者たちであふれかえる。だが1~2カ月もたつと、髪を茶色に染め、こじゃれたファッションの、どこにでもいる若者に変身してしまう。「青雲の志」など、ハナからないのであろう。

 宣長はこの地にあった儒学者、堀景山の塾に寄宿し、医学を中心に、儒学や漢籍、万葉集や源氏物語といった古典など、多方面にわたる学問に打ちこんだ。

 文芸評論家、小林秀雄の晩年の大著『本居宣長』にも、「学問の為に京に上った時には、既に、彼の学問への興味は、殆(ほとん)ど万学に渉(わた)っていたと言って過言ではない」と書かれている。ようするに天才だったのである。

 瞠目(どうもく)すべきなのは、後年の宣長のキーワードとなる「もののあはれ」と、畢生(ひっせい)の大著『古事記伝』となって結実する「古事記」の重要性に早くも目覚めていたことであろう。

 「もののあはれ」は師の景山から学んだ。景山の著書『不尽言』には、「恋せずば人は心のなからまし物のあはれはこれよりぞ知る」という藤原俊成の歌を引用し、「左ノミ秀歌ニハアラズトモ、ソノ意趣向上ナルコトニシテ、人情ニヨク達シタルコトナリ」という評をくわえている。ほとんど宣長の「もののあはれ」とかさなる。

2014.8.11 16:30 (2/3ページ)[ベテラン記者コラム]


 「古事記」には「神書といふすぢの物」(『玉勝間』より)に多く目を通すことによって、たどりついた。「漢意(からごころ)」に満ちた正史「日本書紀」よりも、「古事記」のほうが日本という国の本当の姿を伝えていると、『古事記伝』にいたる萌芽(ほうが)的な発想をすでにいだいている。

 和語で書かれている「古事記」は、当時、学者のあいだでは、そんなに重視されていなかった。偽書説もあった。

 だが5年間の京都遊学時代、謹厳実直、がむしゃらに学問だけに打ちこんでいたわけではない。いまの茶髪の学生たちと同じように、けっこう遊びまくった。京都は、遊ぶのにふさわしい誘惑にみちみちた町でもあった。

 まず、酒。大酒飲みであったことは宝暦6年7月、母親の「かつ」からの手紙で裏づけられている。

 「酒のみ申され候毎ニ、おやふかうと、われらか事もおもひ出し候て、さかつきニ三つよりうへ たべ申されましく候(中略)かたくかたくつゝしみ申さるへく候」

 酒ばかり飲んで、この親不孝者め、という母親の、怒りまじりのせつせつとした思いが伝わってくる。だが宣長が酒を断った形跡はない。

 タバコもよく吸った。能や芝居、相撲の見物、花見や紅葉狩りや月見、さらには三味線などのけいこ事にも打ちこんだ。きわめつけは茶屋遊びである。宣長の『在京日記』には、

 「此池のほとりの水茶屋にやすみて、しばしゆきゝの人など見侍る。妓など多くまいる」

 とあり、その方面にも通じていた。綾小路通新町から近い島原や祇園だけでなく、私娼窟にも出入りしていたらしい。遊興費が足りなくなって、再三、臨時の仕送りをせまり、困りはてた「かつ」は借金までして金を送ったほどである。

(12)本居宣長 飲む打つ買う…しまくった誘惑の都を活力に「古事記」究めた

2014.8.11 16:30 (3/3ページ)[ベテラン記者コラム]


 たっぷり遊びまくったためなのか、京都遊学を終え、松阪に帰ってからは、死ぬまで研究と門人たちへの講義とに明け暮れた。享和元(1801)年初夏、京の門人たちの再三にわたる勧誘で、約40数年ぶりに上京した。

 2カ月間ほど滞在し、公開の講義などを行った。だが門人のなかには、身分の高い公家たちもおり、だいぶ神経を使ったらしい。知人への手紙には「あまりあまり心くばり多く、気分つかれ、暑さにも成候故、一日も早く帰りたく存候」と書かれている。

 松坂に帰ってまもなく死去、71歳だった。若いころの京都遊学時代は楽しい日々だったが、二度目の京都滞在は気苦労が多く、それが死を早めたのかもしれない


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京都慕情No11

(11)川端康成 京都ブームを生んだ駄作『古都』…を生んだ偏執「捨て子」

以下産経新聞からの転載である。

川端康成の小説「古都」の映画化、制作発表に臨む歌手の山口百恵=昭和55(1980)年5月

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 まがりくねった周山街道は神護寺付近で清滝川沿いの道になり、栂ノ尾(とがのお)の高山寺(京都市右京区)をすぎると、川をはさんだ両側の山々は低木や高木をまじえた杉がびっしりと茂っている。杉の木と木との間隔は、きれいにそろえられている。

 北山杉と呼ばれる。幹の下部がていねいに枝打ちされ、細いロウソクのようなかたちをしている。フシが少ない丸太は、数寄屋風情の柱などに使われる。

 清滝川に沿って、車でさらに30分ほど行った山あいに「中川」という小さな里がある。すっかり川幅が狭くなった清滝川にかかる木橋をわたったところに、「北山杉資料館」があった。

 この里を舞台にして描かれたのが、川端康成の長編『古都』である。昭和36(1961)年に朝日新聞に連載され、いまもつづく「京都ブーム」のキッカケともなった。

 現在は休館中だが、雑草などが生いしげった広い庭には、大きな石碑が立っていた。『古都』の一節が、川端の自筆でこう刻まれていた。

 「杉山の木末が、雨にざわめき、稲妻のたびに、そのほのおは、地上までひらめき、二人の娘のまわりの、杉の幹まで照らした。美しく真っすぐな幹の群れも、つかのま、不気味である。と思うまもなく、雷鳴である」

 京都の老舗の呉服問屋の娘、千重子は捨て子であった。あるとき、友人と北山杉を見るために、この里にやってきた。そこで自分とそっくりの苗子という村娘と会う。その出会いのシーンである。ふたりは双子の姉妹だった。

 岩下志麻や山口百恵主演によって映画化をされた作品だから、これ以上のストーリー紹介はいいだろう。というよりも、『古都』はタイトル通り、京都そのものが「主人公」のような作品であった。

 北山杉だけでなく、春の桜、鞍馬の竹伐り会、葵祭、祇園祭、五山送り火、北野踊、時代祭、事始め、といった行事。平安神宮、嵯峨野、仁和寺、円山公園、西陣、上七軒、青蓮院などの社寺や名所旧跡が、もりだくさんに紹介されている。錦市場やチンチン電車(京都市電)まで登場する。

 いわば京都のガイド本のような作品なのだ。チンチン電車など、すでになくなってしまったものもあるが、いまでもじゅうぶんにガイド本として通用する。49年ぶりに復活した祇園祭の後祭の説明もある。

2014.7.29 16:30 (2/3ページ)[ベテラン記者コラム]

 ハッキリ言って、多くの川端作品のなかで、名作とはとても言えない。理由は簡単で、京都のガイドばかりなのである。読者に対するサービスだろうが、京都で7年間も学び、働いた筆者などは退屈で仕方がなかった。

 こだわりたいのは、千重子を「捨て子」と設定したことだ。なぜなら川端もみずからを「捨て子」だと意識していたからだ。

 明治32(1899)年、大阪天満宮ちかくで、医師の長男として生まれた川端は3歳のとき父親、4歳のとき母親、12歳のとき姉が死んだ。現在の茨木市に住んでいた祖父母に引き取られるが、その祖父母もまなく死んでしまう。

 中学生にして、身寄りのない天涯孤独の身になってしまった。「捨て子」ではなく、「孤児(みなしご)」だが、生涯にわたって「捨て子」の意識を持ちつづけた。

 初期の作品に『骨(こつ)拾い』という、祖父の葬式のもようを描いた作品がある。骨拾いを終え、家にもどったあとに続いて、こう書かれている。

 「家に残った連中も、祖父に死なれてただ一人の私が、これからどうなるだろうと、同情のうちにも、好奇心をまじえているように思われる」

 そうとうに屈折している。これに母親の死を加味させれば、川端の尋常ではない女性に対する意識が生まれる。交友があった石原慎太郎は、文壇回顧録『わが人生の時の人々』のなかで、その姿をなまなましく描いている。

 ある女性編集者が川端宅に訪れたところ、応対した川端はじっと食い入るように編集者を見つめつづけ、なにも言わない。その気配に押され、女性編集者は「とうとう泣き出してしまった」という。


2014.7.29 16:30 (3/3ページ)[ベテラン記者コラム]


 同じように石原自身の母親や、電車のなかで見かけた女性をしつこく見つめつづけた。「川端さんには母親への思慕などにとどまらぬ、女に対する何か強烈で複雑な潜在心理構造(コンプレックス)があったに違いない」と、石原は推測する。このコンプレックスには、もちろん「捨て子」の意識も含まれているはずである。

 最近、旧制高校時代の川端のラブレターが発見されたと、大きく報じられた。婚約者から返信が来ないことについて、「病気ぢゃないのかと思ふと夜も眠れない」「泣き出すほど気にかかる」と、あられもない文章がつづく。

 この偏執ぶりは、婚約者に対する「思慕などにとどまらぬ、女に対する何か強烈で複雑」な意識に拠るものであろう。

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2014.08.13

京都慕情No10

(10)小野小町 花の色は33都府県またに駆けりな絶世のコーマン美女の「ながめ」せし婆に

以下産経新聞からの転載である。

2014.7.16 16:30 (1/3ページ)[輝く女性]

フランス国王・ルイ16世の王妃、マリー・アントワネットが愛用した筆入れ。小野小町の姿に和歌が彩られている=仏ルーブル美術館所蔵、ドイツの漆工芸博物館(関厚夫撮影)

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 小野の里は山科盆地の南側に位置する。西側は東山の山並みがつづき、東側は近江との境にあたる山々がふさがっている。山科盆地と呼ばれ、おなじ京都でも、冬の底冷え、夏の蒸し暑さが、市街地よりもきつい。

 現在は住宅街がつづくが、古代、あたりは有力豪族の小野氏が蟠踞(ばんきょ)していた。小野氏といえば、聖徳太子に仕えた小野妹子が有名である。もともとの本拠地は近江国滋賀郡小野村(現・大津市)だったが、山科周辺までその勢力をのばしたとも考えられる。

 小野小町は、その小野氏の出身であろう。実在はしたが、その実像を確実な史料でたどっていくと、家系不明、経歴不明、生没年不明と「不明」だらけである。

 わずかに仁明朝期(833~850)、宮中にいた女官という史料が残っているていどである。それなのにナゼ、「絶世の美女」という伝承が生まれたのだろうか。

 小野の里を南北につらぬく旧奈良街道沿いに、随心院という真言宗系の古刹(こさつ)がある。東側には高塚山の秀麗な山容がせまっている。山肌は初夏の陽をうけ、まばゆいばかりにひかっていた。

 境内に入ると、すぐ右手の竹やぶのなかに、古ぼけた石垣にかこまれた井戸があった。かたわらに「小野小町 化粧の井戸」とあり、「この附近は小野小町の屋敷跡にして古風な井戸が使用されたものと傳ふ」と記されていた。

 築地塀に沿って、寺の裏手の小暗い森のなかに入った。「小野小町 文塚」という、土饅頭(まんじゅう)の上に小さな五輪塔が立っていた。小町にあてた男たちの文、つまりラブレターを供養するための塚だという。千束にのぼった。

2014.7.16 16:30 (2/3ページ)[輝く女性]


 なぜ供養するのか。小町に捨てられた男たちのウラミを鎮めるためであろう。ようするに、それだけモテたというわけである。

 文を寄せた男たちのなかに、深草少将にまつわる説話がある。小町に求愛するため「百夜通い」をすることにしたが、途中で倒れて死んでしまうという悲話である。

 小町は和歌の名手でもあった。藤原定家撰の「小倉百人一首」にも選ばれた、

 花の色は移りにけりないたずらに わが身世にふるながめせしまに

 という歌が有名である。単純に解釈すれば、桜を眺めて暮らしているうちに、私の美貌もすっかり衰えてしまった、という意味である。「世にふる」を「降る」と「古る」、「ながめ」を「眺め」と「長雨」にかけた、いかに定家好みの技巧的な歌である。

 この歌ひとつで、小町という絶世の美女の高慢さが色濃くただよってくる。深読みすれば、こんなにも美しいために、それに見あった男がなかなか見つからず、いたずらに時は過ぎてしまった、ということになるだろう。

 小町をめぐる逸話は、平安から鎌倉、室町にかけて次々と、しかも日本の各地に生まれた。とりわけ東北・陸奥には小町の墓をふくめ、多くの伝承が残されている。その範囲は33都府県にまたがるというから、ハンパではない。

 なにしろ能だけみても、「通小町」「卒塔婆(そとば)小町」「鸚鵡(おうむ)小町」「関寺小町」など7曲もつくられた。ふられた男のウラミがつのれば、小町を高慢ちきのイヤミな女にさせることも、醜い乞食(こじき)の老婆(ろうば)にさせることも、死後には野ざらしのドクロにさせることもできる。

 理由は、なんとなくわかるような気がする。絶世の美女と同時に、小町は「拒む女」だったからである。しかもその拒み方が、なんとも思わせぶりなのだ

2014.7.16 16:30 (3/3ページ)[輝く女性]


 昔も今も、男はこういう女に弱い。この「拒む女」に家系不明、経歴不明、生没年不明という要素を加えれば、伝承や逸話が肥大していくのは当然であろう。

 あまりにも拒むので、「肉体的欠陥」説まで生まれた。「小町針」という穴のない針ができたゆえんである。

 --随心院には、卒塔婆小町座像が残されている。醜悪な老婆の姿である。歯が欠け、額から頬までシワが何本もきざまれている。

 だれが造ったのかは不明だが、かなり悪意がこめられているような気がする。あるいは「絶世の美女」についてのイメージが浮かばなかったため、わざとそこいらにいる老婆の姿をモデルにしたのかもしれない。

 観光コースになっているため、訪れる客も多い。世の美女たちにとっては、必見の像であろう。

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京都慕情No9

(9)白川静 「今の大学は集塵器」鉄パイプ殴られも研究に没頭した漢字学者

以下産経新聞からの転載である。

2014.7.3 16:30 (1/3ページ)[ベテラン記者コラム]

まさに「怪物」だった漢字学者、白川静=平成9(1997)年、京都市西京区

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 1968(昭和43)年から翌69年にかけ、京都の多くの大学は騒乱状態のなかにあった。とりわけ京都大や同志社大、立命館大は混乱をきわめ、反日本共産党系の全共闘の学生たちによってバリケード封鎖された。

 砦(とりで)のようになった学内では、封鎖を解除しようとする日共系の学生たちと血なまぐさいバトルが繰りひろげられた。全共闘の内部でも内ゲバが頻繁に起きた。

 もっとも多くの血が流されたのは、京都御所に接した立命館大であろう。69年5月には、キャンパスに通じる門のわきに立っていた反戦平和の象徴「わだつみの像」が、全共闘系の学生によって倒され、破壊された。かれらにとっては、戦後民主主義そのものが、ギマンであった。

 そのころ、他大学の学生の間で「立命館には怪物みたいな老教授がいる」というウワサが流れた。

 学生たちによる大衆団交でつるしあげを受けても、鉄パイプで殴られてケガをしても、その老教授は自分の研究室にもどり、夜の11時すぎまで研究に打ちこんだ。ゲバルト学生たちも一目置くようになり、老教授の研究室だけは避けるようになった。

 そのうちバリケードは解除され、全共闘系の学生たちは学外に追いやられた。老教授にまつわる神話のようなエピソードも忘れさられた。一般には無名の学者であったからだ。

 白川静という漢字学者が注目を集めるようになったのは、それから10数年後の80年代になってからである。なにしろ一般向きの著書を書きはじめたのが還暦を迎えたころで、『字統』『字訓』『字通』という中国の学者でもなしえなかった漢字3部作が出版されたのは80年代半ばから90年代にかけてであった。すでに70歳をこえていた。

 「怪物」といわれた白川が当時、研究室にこもりつづけたのには理由がある。日本経済新聞に連載された「私の履歴書」で、こう書いている。

 「私は(略)出校を続けた。家が老朽化していて、多くの書を収めることができず、専ら研究室で仕事をしていたからである」

 さらに、「これは大学に籍をおいて以来の、私の生活習慣であった。私の生活習慣を破壊する権利は、誰にもなかった」と続けている


2014.7.3 16:30 (2/3ページ)[ベテラン記者コラム]

 当時、こういう教授はたいてい「学者バカ!」と罵倒された。白川のすごいところは、学生たちそう言わせない、研究者としての断固とした誇りがあったからであろう。罵倒されたら、その魁偉(かいい)な容貌を怒りでふるわせ、「学者バカのどこが悪い!」と言い返したにちがいない。

 白川は全共闘系にも代々木系にも、紛争を収拾しようとする大学当局にもくみしなかった。家が貧しかったので、戦前の立命館大学専門部(夜間)卒という学歴もあり、「私は学内では、戦前派として常に疎外される立場にあった」とも書いている。

 この闘争が現在も意味を持っているとすれば、白川がこのときの体験をもとにして、『孔子伝』という名著を書いたことである。芥川龍之介ふうに言えば、立命館闘争は『孔子伝』1冊に如(し)かず、ということになる。

 白川が着目したのは、中国・春秋時代、魯(ろ)の国で周公の理想的な政治を実現しようとして失敗した孔子の10数年におよぶ漂泊の旅がもつ意味であった。この「決定的な敗北」がなかったら、「敗北の書」である『論語』は現在まで残らなかったと断ずる。

 漂泊の日々における孔子の言動のいちいちを記す必要はないだろう。『論語』を徹底的に読めばいいだけだ。『孔子伝』で読まなければならないのは、時たまフトこぼれる白川のナマの言葉である。

 「(今の大学は)地方から若者を集めて、それを大都市に吐き出す集塵(しゅうじん)器に近い」

 「邪悪なるものと闘うためには、一種の異常さを必要とするので、狂気こそが変革の原動力でありうる」

 この鋭い批判は、もちろん今も通用する。それどころか、大学はますますオートメーション化され、学生という「商品」をのみこむ集塵器そのものとなった。もっともこの「商品」は当時にくらべ、ずっと「粗悪品」になった。大学を変革しようとする「狂気」など、どこにもなく、どこのキャンパスも平和でノンビリとしている。

 白川は76年、66歳で定年退職した。その後も研究生活を続け、89歳からは、京都で一般を対象にした「文字講話」をはじめた。2時間ぶっ続けで語るのだから、まさに怪物であった.

2014.7.3 16:30 (3/3ページ)[ベテラン記者コラム]

--生涯にわたって研究室に「籠城」し続けた白川は2006年10月、死去、96歳だった。籠城先の立命館大広小路キャンパスは、いまはない。

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京都慕情No8

(8)大伴家持 今造る京は…遷都の旅、終わりなき一首

以下産経新聞からの転載である。

2014.6.20 16:30 (1/3ページ)[ベテラン記者コラム]


少女の足元に咲くカタカゴの花を見て、歌をよむ大伴家持の像。家持は、越中国守として高岡の地に5年間在任していた=富山県高岡市のJR高岡駅前


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 木津川沿いの伊賀街道から京・山城国に入ると、加茂の里(木津川市)で川は大きく蛇行する。川の流れが山でふさがれているからだ。

 恭仁(くに)大橋の欄干に身をもたせ、川のほぼ正面にある山のなだらかな山容を眺めた。鹿背山という。鹿の背に見えないこともない。

 古代には「賀世山」とも呼ばれた。いかにも美々しい名前である。「賀(よろこば)しい世」を望んで名づけられたはずである。

 だが天平12(740)年12月15日、武装した兵士たちに守られた聖武天皇の一行がこの地にやってきたとき、九州・太宰府では大規模な反乱が起きていた。とても「賀しい世」ではなかったのである。

 聖武は木津川の右岸、ちょうど鹿背山を南東に望む台地にみやこを造ることを決意した。恭仁京である。

 この恭仁京にはじまり、紫香楽(しがらく)京、難波京とつづく「さまよえるみやこ」は、その所在地をふくめ、古代史上の大きなナゾである。いまも、発掘調査が進められているみやこもある。

 聖武はその2カ月まえ、「朕(ちん)、意(おも)ふところあるによりて、今月末、しばらく関東に往(い)かむとす」と公卿(くぎょう)たちに告げ、この恭仁京にやってきた。だが九州の反乱が鎮圧されても、奈良のみやこに戻ろうとはしなかった。

 「意ふところ」とはいったい何か、だれも分からなかった。いまでも古代史家のあいだには諸説がある。

 遷都のたびに、同行させられた官人たちは「やれやれ、またか」というタメ息をもらしたにちがいない。

 恭仁京の新都建設は、翌天平13年1月から本格化した。厳寒のなかでの大規模な土木、建設作業は過酷をきわめた。『続日本紀』には、

 「用度費すところあげて計(かぞ)ふべからず」

 とある。畿内を中心に5500人もの雇夫(こふ)が集められた。多くの公卿も移り住み、天皇とみやこをたたえる歌をつくった。たとえば田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の長歌の一節--。

 「山並(やまなみ)の宜(よろ)しき国と 川波の立ち合う郷(さと)と 山代(やましろ)の 鹿背山のまに 宮柱 太敷(ふとし)き奉り 高知らす 布当(ふたぎ)の宮は」

2014.6.20 16:30 (2/3ページ)[ベテラン記者コラム]


 公卿のなかに、まだ23歳の大伴家持もいた。だが愛する人は平城京に残してきた。切々とした心情を吐露した歌を書いた。

 今造る久邇(くに)の京(みやこ)に秋の夜の 長きに独り宿(ぬ)るが苦しさ

 だがタテマエとしては、新都をたたえる歌も詠まなければならなかった。たとえば、こんな歌だ。

 今造る久邇の都は山川の 清(さや)けき見ればうべ知らすらし

 愛する人への歌にくらべ、いかにも平凡である。目のまえで繰りひろげられている土木工事をながめながら、タメ息でもつきながら詠んだのであろう。

 だが恭仁京は天平15年12月、突然、造営が中止され、みやこは紫香楽京に遷(うつ)ることになった。3年にも満たない王城であった。

 恭仁大橋をわたり、田野にかこまれた住宅街を15分ほど歩くと、恭仁京跡の台地についた。高さ20メートルほどの柿の巨木を背にしたところに、「史跡 山城国分寺跡」の石碑があった。碑の前には直系1メートルはある礎石があった。恭仁京の跡地に造られた国分寺の礎石とあった。

 ちいさな小川をわたると恭仁小学校があり、西側の野原に「恭仁京大極殿址」の石碑が立っていた。一画に、幹のほうから枝分かれしたクスノキの巨木が立ち、きつい風にあおられ、さわさわと揺れていた。

 家持は遷都のたびに、紫香楽京、難波京、平城京と、居をうつした。越中守や薩摩守などに左遷されたこともあった。大伴氏は武人の家系で、家持は多くの歌を残しただけでなく、陰謀じみた政治工作にも奔走した。

 あわただしいなかで、古来よりの歌をせっせと集め、日本最古の歌集『万葉集』となって完成するのは、淳仁天皇の代になってからである。すでに40歳を過ぎていた。

 家持は淳仁の3代あとの桓武天皇の時代まで生きた。このとき、みやこは長岡京に遷っていた。これだけ多くのみやこに移りすんだ公卿も珍しいだろう。

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京都慕情No7

(7)小林秀雄 信長の叡山焼き討ち…ひらめく無常、逃避者は歴史にハマる.
以下は産経新聞からの転載である。.

2014.6.7 18:00 (1/3ページ)[ベテラン記者コラム]

日吉大社の山王鳥居=大津市坂本
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(7)小林秀雄 信長の叡山焼き討ち…ひらめく無常、逃避者は歴史にハマる.
 そばを食いたいと思い、琵琶湖沿いの坂本(大津市)の町に行った。そびえたつ比叡の山並みを背景にした日吉大社の大鳥居の左手に、「日吉そば」という屋号のそば屋さんが、たしかにあった。ふるい旅籠(はたご)ふうの、あじわいのある建物であった。

 文芸評論家の小林秀雄が立ち寄って食べたというそば屋は、この店にちがいない。太平洋戦争中に書かれた名作『無常といふ事』の一節には、こうある。

 「そんな経験は、はじめてなので、ひどく心が動き、坂本で蕎麦(そば)を喰つてゐる間も、あやしい思ひがしつづけた」

 建物が大きいわりには、店内はこぢんまりとしていた。ざるそばやにしんそばなどにまじり、「古代そば」というメニューがあった。物珍しさも手伝って、注文した。

 湯葉とおろしショウガを入れたシンプルなそばであった。ショウガの味が、熱いそばの汁によくあっていた。だがなぜ、これが「古代そば」という名前なのかは、よくわからない。

 坂本には、そばを食うためにだけやってきたのではない。『無常といふ事』の舞台となった比叡山から、日吉大社界隈(かいわい)を歩いてみたかったからだ。

 小林の批評には、詩的なひらめきのようなところから本題に入っていく例が散見する。たとえば『モオツァルト』には、

 「或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついてゐた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中に鳴つた」

 とある。晩年の『本居宣長』も、

 「或る朝、(略)鎌倉の駅で電車を待ちながら、うららかな晩秋の日和を見ていると、ふと松坂に行きたくなり……」

 と、この畢生(ひっせい)の大著を書くキッカケが「ふと」やってきたと書いている。『無常といふ事』もやはり、「突然」やってきた。

 「先日、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついてゐると、突然、この短文が……」

 「この短文」とは、中世の念仏行者の言葉を集めた『一言芳談抄』の一節である。それが突然、思い浮かんだので、そばを食べながらも、「あやしい思ひ」にとらわれつづけたのである


2014.6.7 18:00 (2/3ページ)[ベテラン記者コラム]

 その内容まで紹介する必要はないが、簡単に言えば、「無常」とは、「人間の置かれる一種の動物的状態」という、小林一流の逆説が説かれている。

 ひらめきが切り口になるということは、裏をかえせば、本題には正面から入って行かない、あるいは入っていきたくない、という小林の批評の姿勢のあらわれであろう。

 この姿勢が太平洋戦争を通して、文壇の大勢が「戦争翼賛」に傾いていったとき、小林を古典の世界に走らせた。「戦争といふ大事件は、いわば、私の肉体を右往左往しただけで、私の精神を少しも動かさなかつたやうに思ふ」と後年、回顧している。

 たしかに戦争が始まった昭和10年代後半、『無常といふ事』をはじめ、『当麻』『西行』『実朝』『平家物語』『徒然草』など、ひたすら古典の世界にのめりこんでいった。

 古典とは、死者たちの完結した世界のことであろう。なぜ死者たちの世界に魅せられたのか。そのヒントも『無常といふ事』の中の一節にある。小林は、作家の川端康成にこう語ったという。

 「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物(しろもの)だな。(略)鑑賞にも観察にも堪えない。其処(そこ)へ行くと死んでしまつた人間というものは大したものだ。何故(なぜ)、ああはつきりとしつかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしてゐるよ」

 年譜を読んでも、小林が京都から比叡山、日吉大社にやってきたのは、いつかは分からない。「山王権現の辺りの青葉」とあるから、おそらく昭和16~17年の初夏ではないだろうか。

 太平洋の島々や中国の戦線で、多くの兵士たちが「死んでしまつた」ころとかさなる。この時局に対する背の向けかたは、徹底している。小林は、あの戦争が「鑑賞にも観察に堪えない」ようなカタストロフィ(破局)だと直感していたのであろう。

2014.6.7 18:00 (3/3ページ)[ベテラン記者コラム]

 --小林とは逆のコースで、日吉大社の境内に入った。山道沿いには、有名な穴太(あのう)衆積みの石垣がつづいていた。自然石を加工せずに組み合わせて、幾何学的な美を生みだしている。ちいさな石は、つまんで取り出せそうだ。

 比叡山に行くケーブルに乗った。しばらく登ると、軌道わきの崖下に、おびただしい数の朽ちた墓石群が見えた。

 織田信長の叡山焼き討ちによって殺された人々の墓石だという。『無常といふ事』の一節が、小林流に突然、ストンと落ちてきた。

 「歴史には死人だけしか現れて来ない」


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京都慕情No6

(6)上田秋成 龍馬の結婚式場、ち於んゐん大伽藍…合理的ひねくれ夫の溺愛ぶり
2014.5.26 16:30 (1/3ページ)[結婚&交際]
以下は産経新聞からの転載である。

【ベテラン記者のデイリーコラム・福嶋敏雄の…そして、京都】


知恩院近くを流れる白川の柳並木。市街地とは思えない風情が漂う

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 京の七口のひとつ、粟田口から三条通りをしばらく行くと、白川という小さな川が流れている。白川橋がかかり、橋のたもとには古ぼけた石碑が立っていた。

 「是よりひだり ち於(お)んゐんぎおんきよ水みち」

 と読めた。京都に現存する最古の道標だという。維新のころ、橋のすぐたもとに、金蔵寺(こんぞうじ)という小さな寺があった。

 この寺で、坂本龍馬とお龍が結婚した。現在はユースホステルになっているが、「坂本龍馬お龍『結婚式場』跡」という、まだ新しい石碑が立っている。じっさいは寺の住職が仲人となって、簡単な内祝言をあげただけで、「結婚式場跡」はちょっと大げさである。

 琵琶湖疎水から流れてくる白川は、都心とは思えないほど水は澄み、川底の石が泳ぐサカナのようにぬめって、ひかっていた。両岸にはヤナギの並木がつづく。垂れさがる緑がすっかり濃くなり、細い葉と葉のあいだにのぞく京町家ふうの瓦屋根が白く輝いていた。

 ところどころに、人がひとりで通れるくらいの、ほそい石橋が架かっている。冬の寒い日、白い息を吐いて橋をわたる僧侶をなんどか見かけたことがあるが、一幅の絵のような眺めであったのを覚えている。

 やがて「ち於んゐん(知恩院)」の大伽藍が、緑のあいだに垣間見えはじめた。

 寛政5(1793)年6月、大坂郊外の淡路庄村から、老夫婦が白川沿いの民家に移り住んだ。国学者で、幻想的な読み本作者であった上田秋成とその妻、瑚●(=王へんに連)尼(これんに)である。「結婚式場跡」のようなリッパな碑はないので、具体的な寓居(ぐうきょ=か仮住まい)跡はわからない。

 秋成はその3年まえ、「そこひ」をわずらい、左目が失明していた。不自由な身にもかかわらず、生まれ育った大坂を離れたことについて、晩年のエッセー『胆大小心録(たんだいしょうしんろく)』で次のように書いている。

 「尼(瑚●(=王へんに連)尼)はもと京のうまれじや故、『住みたい』と云ふ故、まあこゝろみに、ちょっと智をんいん(知恩院)の前へこしかけ、あそびはじめた」

 瑚●(=王へんに連)尼にせがまれたとあるが、これは秋成の強がりだった。当の瑚●(=王へんに連)尼の書きのこしによれば、子のない秋成が溺愛していた隣家の男の子が4歳で突然、死んでしまい、大坂で住む気をなくしてしまったらしい。

2014.5.26 16:30 (2/3ページ)[結婚&交際]

 ヒネクレ者で、カンシャク持ちでもあった秋成には、心やさしい側面もあった。

 大坂時代には、すでに名作『雨月物語』や『癇癖談(くせものがたり)』などを刊行していた。筆者などが興味をいだいたのは国学者、本居宣長との一大論争である。現代の目から見れば、あきらかに秋成のほうの論が理にかなっている。

 『古事記』にもとづき、アマテラスオオミノカミはすなわち太陽であるという宣長の説にたいし、秋成は「此小嶋こそ万邦に先立て開闢(ひらけ)たれ、大世界を臨照まします日月は、こゝに現しましし本国也」などと、異国の人にどうして言えるのか、大坂人らしく合理的に論をすすめた。

 だが宣長は『古事記』に書かれている「凡(すべ)て神代の伝説(つたへごと)は、みな実真(まことのこと)」と、まったく受けつけない。

 小林秀雄の晩年の大著『本居宣長』にもくわしく紹介されているが、ようするに近代以降の論争の多くがそうであるように、完全にすれちがっているのである。だが秋成はよほどくやしかったらしく、こんな罵倒を浴びせている。

 「ひが事をいふて也とも弟子ほしや古事記傳兵衛とは人はいふとも」

 京に移り住んでからも、秋成は旺盛な執筆活動をつづけた。京には友人も多く、結局、76歳で死ぬまで住みつづけた。

 だがその晩年は、けっして仕合わせとは言えない。とりわけ瑚●(=王へんに連)尼の死の衝撃は大きかった。秋成、64歳のときで、転げまわり、地団駄(じだんだ)を踏んでくやしがって泣きわめいた、とある。

 「瑚●(=王へんに連)尼」という尼名は、秋成が「コレ、コレ」と呼んだところからつけられたという。妻へのいとおしさがうかがえる命名である。

 最晩年はカネもなく、貧窮のうちに死んだ。『胆大小心録』には「もう何もできぬゆゑに、煎茶をのんで死をきわめている事じゃ」とある。このキップの良さも大坂人らしい。


2014.5.26 16:30 (3/3ページ)[結婚&交際]


 --秋成の墓は、南禅寺ちかくの西福寺という古刹(こさつ)にある。観光客でにぎわう参道から路地に入り、民家が建ちならんだ一画でようやく見つけた。

 参拝しようと思ったが、寺の門は閉まっていた。


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京都慕情No4

(4)清少納言 御所は、スマホ。やうやう煩くなりゆく…ブス、高慢ゆえに「神は細部に宿る」

以下は産経新聞からの転載である。

時代祭に登場した「清少納言」と「紫式部」。五花街の芸妓さんが扮しているとあって、なんともあでやか=京都市左京区の平安神宮前(渡邊大輔撮影)


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【ベテラン記者のデイリーコラム・福嶋敏雄の…そして、京都
2014.5.3 18:00 (1/3ページ)[携帯・スマホ・ゲーム]


 白い砂ぼこりがカスミのようにふくらみ、ゆっくりと舞っていた。黒い靴が白く汚れ、メガネにも微細なホコリが貼りついた。

 おびただしい数の人々が、白い砂利道いっぱいに広がって歩いてきた。京都御所の「春の一般公開」にやってきた観光客たちである。

 御所とは、道路ひとつへだてた大学にかよっていたが、当時はハガキによる事前申し込み制だった。めんどうくさいうえ、そもそも御所を見物するような精神状態にはなかった。

 宜秋門(ぎしゅうもん)の前には大きな白いテントが張られ、「皇宮警察」の腕章をつけた警察官たちが一人ひとりの入場者をチェックしていた。たちまち長い列ができた。

 来るのではなかった。引き返そうかとも思ったが、列から抜けだせそうもない。うしろから押し出されるようにして、御所内に入ってしまった。

 玉砂利を敷きつめた紫宸殿(ししんでん)まで来た。そりかえった屋根の檜皮葺(ひわだぶき)がうつくしい。正面には「右近の橘」とならんで、「左近の桜」が咲いていた。

 スマートフォン(高機能携帯電話)を持った手が鶴の首のように林立し、カシャカシャと鳴っていた。うるさいうえ、よく見えない。「立ち止まらないください!」と警備員がなんども叫んでいた。桜を愛でるような状態ではない。

 細い道を30メートルほど牛歩のように進んだところで、ようやく清涼殿にたどりついた。天皇や皇后の日常の御座所にあたる。多くの女官も仕えた。

 清少納言が宮仕えのため、清涼殿に入ったのは正歴4(993)年春であった。28歳、離婚歴があった。仕えたのは一条天皇の中宮、定子だった。『枕草子』第84段--

 「宮にはじめてまゐりたるころ、もののはづかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ……」

 機知と皮肉で殿御たちをやりこめたりする彼女にしては、いやに殊勝である。だが同じ段に書かれている中宮への観察眼は、さすがにするどい。


2014.5.3 18:00 (2/3ページ)[携帯・スマホ・ゲーム]


 「さし出でさせ給へる御手のはつかに見ゆるが、いみじうにほひたる薄紅梅なるは、かぎりなくめでたし(略)かかる人こそは世におはしましけれど、おどろかるるまでぞまもりまゐらする」

 清少納言は中宮の袖口から、すうっとのびた「御手」だけを観察している。ふつうなら中宮の容姿をあおぎ見て、その高貴さをたたえるだろうが、「御手」だけを描いて、それ以上の賞賛の文章になっている。

 現代文学でも、「細部」の表現によって、その作家の力量が分かる。彼女は千年以上もまえ、「細部」を描くことの大切さを知っていた。

 だが、あまり付きあいたくない女性でもあった。いま風にいえば、高慢ちきでナマイキなのだ。下級貴族出身なのに、「下衆(げす)の家に雪の降りたる。また月のさし入りたるもくちをし」(45段)とまで書いている。「下衆の家」には、白く、美しい雪などは似合わない、という意味だ。

 容貌にも問題があった。これまた、いま風にいえば、「ブス」であった。藤原定家が『百人一首』に彼女の和歌を採用したさい、襖絵に描かせた肖像画は後ろ姿だったという有名な伝承もある。

 正面からの姿を描いたら、襖絵がだいなしになってしまうと思ったのであろう。

 下級貴族出身で、離婚歴があり、しかも「ブス」という自らのハンディをバネにしたからこそ、『枕草子』という名作を書くことができた。風景描写のたくみさにくわえ、人物批評も鋭く、辛辣(しんらつ)であった。

 中宮にも好かれた清少納言の黄金時代は、わずか7年間で終わる。中宮が病気で突然、亡くなってしまったからだ。やむなく彼女は宮廷を退出した。
2014.5.3 18:00 (3/3ページ)[携帯・スマホ・ゲーム]

 その後の清少納言の消息は、プツンと途絶える。『無名草子』には「はかばかしきよすがなどもなかりけるにや(略)はるかなる田舎にまかりてすみける」と書かれている。

 みやこには頼みとする人もいなく、田舎にこもり住むようになった、というのである。『清少納言集・異本』にも、

 

 月みれば老いぬる身こそ悲しけれ つひには山の端にかくれつゝ

 

 というわびしい歌がのこされている。だが落魄説も老残説も、もうひとつピンとこない。

 イジワル婆さんのように元気な晩年だったとしたほうが、彼女のイメージにもあう。どこの田舎か分からないが、60歳前後で死んだとされる。



 古来、多くの文人が親しんだ京都での足跡を追います。

福嶋敏雄 福嶋敏雄
産経新聞大阪本社で運動部長、社会部長などを歴任し、現在は編集委員兼論説委員。以下は本人談。「戦後の飢えと貧しさの中では、異例なほど、すこやか、かつ、たおやかに育った団塊の世代である。いまはぽかぽかと陽があたる窓際で、『余興』のように原稿を書いている。それを『ヒマ』とみなした、かつての部下から、『大阪・関西を舞台に、何かを書け!』という指示が、老躯の背を不意に打った。大阪の町には、22歳のとき、はじめてやって来た。当初は、違和感に充ち満ちた町であったが、幾星霜を経ることによって、『愛すべき町』となったから不思議だ。いくぶんセンチメンタルな気持ちを込めた『大阪めぐり』を「川と坂の物語」として綴ってみたが、今度は『京都めぐり』を始めたい」

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京都慕情No5

(5)三島由紀夫 血したたる短刀…京大生「自由を求める自我が殺した」
2014.5.14 16:30 (1/3ページ)[ベテラン記者コラム]

以下は産経新聞からの転載である。

ベテラン記者のデイリーコラム・福嶋敏雄の…そして、京都】

映画「人斬り」で、作家の三島由紀夫が見せた血まみれ切腹シーン

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 京都を舞台にした三島由紀夫の作品は--と問われれば、だれもが『金閣寺』とこたえる。だが筆者は『金閣寺』という作品も、金閣寺というお寺も、どうにも好きにはなれない。

 金閣寺から歩いて5分ほどの安アパートに1年間ほど住んだが、いちども拝観には行かなかった。金閣を築き、天皇さんを差し置いて、「日本国王」などと名のった足利義満(北山殿)は、京都の人たちのあいだでも、あまり人気はない。

 三島の作品にちなんで、とりあげたいのは、足利義政(東山殿)が築いた銀閣寺である。もっとも寺そのものではなく、銀閣寺周辺である。

 かつてこの界隈(かいわい)には、多くの仕舞屋(しもたや)ふうの学生下宿が建ちならんでいた。京都大学まで市電で2駅、同志社大学まで5駅ほどで行けた。

 ここを舞台にして書かれたのが初期の短編『親切な機械』である。

 唐突に昭和23(1948)年4月15日付の大阪新聞の社会面記事を引用する。見出しは「京大文学部学生が女子学生を殺害」、サブ見出しは「求婚を拒まれての兇行」とある。

 「十四日午前二時四十五分ごろ京都市五條署綾小路巡査派出所前を血のしたたる匕首(あいくち)をもつて歩く青年を同派出所巡査が調べたところ、右は下京区室町通綾小路下る京大文学部史学科西洋史専攻第三学年猪口勉(二六)で、十三日夜一時半ごろ同区室町通松原上る京大文科一年山本徹子(二五)さんを殺害したことを自供、直ちに現場に急行したところ徹子さんが顔面、右耳下等を匕首で突かれ殺害されているのを発見した」(人名は仮名)

 むかしの記事が、いかにヘタクソで、わかりづらいか、よくわかる。それはさておき、京大生が起こした殺人事件のうえ、被害者も京大生だったことから、かなり世間の耳目を集めた。

 犯行理由は、猪口が「しばしば求婚したがその都度拒まれて遂に殺意」とある。いまでも時たま起きる単純な痴情のもつれということになる。

2014.5.14 16:30 (2/3ページ)[ベテラン記者コラム]


 当時、大蔵省の高級官僚を辞し、初期の代表作となる『仮面の告白』を執筆していた三島が、どういう経緯でこの事件の真相を知ったのかは分からない。とにかく『仮面の告白』の発表後、最初の作品として、この事件をテーマにして、翌24年11月、『親切な機械』を発表した。

 『青の時代』や『金閣寺』など、実際にあった事件をモデルにした一群の作品の嚆矢(こうし)となった。だがあまり注目を集めなかった。

 三島が取材のために、京都を訪れたは24年の春から初夏にかけてである。どういうツテがあったのかは不明だが、銀閣寺道近くに住み、ふたりとも知りあいの京大生の下宿に2晩ほど泊まって、聞き取りした。

 作品では「木山勉」となっているが、この京大生こそ、猪口に対し、徹子殺害をそそのかした「親切な機械」だったのである。いまで言う殺人教唆にちかかった。

 犯行現場も銀閣寺道周辺に移された。土産物店とシャレた住宅が建ちならぶ現在とちがい、界隈はまだ森閑としていた。作品でも、

こう描かれている。

 「このあたりは読書や頭休めの散歩に好適である。夜は閑(しず)かで梟(ふくろう)の声や銀閣寺の池の方角からものに愕(おどろ)かされた水鳥の叫びを聴くのである」

 木山の人物像について、三島は「大抵の人間を等しなみに馬鹿扱いにしていた」と書く。『青の時代』の東大生と同じように、典型的なアプレゲール(戦後派)のニヒリストであった。

 木山は徹子のかつての恋人で、いまは別の女子学生と肉体関係を持っている。徹子は好きでもない猪口と交際を始めるが、同時に木山の下宿にも遊びにきて、「ねえ、……私を殺してよ」と迫ったりする。徹子もアプレゲールのニヒリストであった。

 作品では具体的な「教唆」のシーンはないが、木山はみずから「親切な機械」になって、猪口にこう語る。

 「『俺が』ともし俺が言い出すだろう。そのとき俺が要求する自由は、誰かしらんこの地上で俺と対応する人間の自由を抹殺するところに立っているんだ」

 わかりにくいリクツである。言えそうなことは、人間には自らの中に、もうひとつの自由を求める自我を抱えているといったほどの意味ではないだろうか。

2014.5.14 16:30 (3/3ページ)[ベテラン記者コラム]


 その「自由を求める自我」をたとえば「親切な機械」と呼べば、三島の精神の内奥にひそんでいた「親切な機械」は21年後の昭和45年11月、三島を東京・市ヶ谷の自衛隊駐屯地に突入させた、ともいえるかもしれない。

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中国共産党の詭弁の数々


 どちらが茶番? 人民日報の「朝日新聞」批判は、目くそ鼻くそを笑う
  朝日新聞の修正記事に中国は焦燥し、悪罵を投げつけてきたが。。。


「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 

平成26年(2014)8月13日(水曜日)
     通巻第4313号  
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

***************************************

 まずは8月12日付け「人民日報」(同日本語版から引用)
 「日本の朝日新聞はこのほど、日本軍が済州島で女性を暴力で強制連行し、慰安婦にしたことを証明した1991~1992年の一連の記事の取り消しを発表した。この声明に、日本の右翼メディアは歓呼の声に包まれた。(人民日報「鐘声」国際論評)
 朝日新聞による記事の取り消しという行為は、安倍晋三氏の指導下で激化し続ける日本の右傾化の産物だ。今回の件によって国際社会は、日本が右傾化の道に沿って一歩一歩滑り落ち、暗黒国家へと変りつつあることも目の当たりにした」

暗黒国家である中国が自ら、日本の民主国家を「暗黒」というのは凄まじいデフォルメの比喩である。
ましてや日本が「右傾化」していると軍国主義国家が避難するのも笑止千万である。
同紙はさらに次のように続ける。

「しばらくの間というもの、日本のマスメディアが人類公認の正しい道理と正義に挑戦する茶番がひっきりなしに起きている。同時に、事実を捏造し、企てをもって中国と他国との関係に水を差す中国関連報道もことのほか目に余る」。

この「事実をねつ造」し、水を差す関連報道が「目に余る」という表現。そのまま中国のマスコミのことではないのか?

 さて、朝日新聞が8月5日と6日に掲載した「慰安婦問題を考える」という記事は強制連行証言の吉田氏証言などを取り消した。「女史挺身隊と慰安婦を同一視した」こともり消し、「軍が人さらいのように朝鮮、台湾で組織的連行があった」という資料は見つからなかった、など過去の出鱈目報道の誤りと認めたのだ。

 だが誤りを認めても謝罪をせず、あいかわらず詭弁を弄する朝日新聞だが、この「記事訂正事件」こそは「大事件」、今後の中国と韓国の出方が注目されるところである。

 筆者は人民日報の反論がでるまで、じつは、朝日の訂正記事を知らなかった。というのも8月7日までロシアにいたので、ロシアでは一行もこの報道がなかったからだ。
        □□

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2014.08.12

京都慕情No3

(3)中原中也 出会つちまつた京女 今日も奇妙な「三角関係」
2014.4.21 16:30 (1/3ページ)[ベテラン記者コラム]

以下は産経新聞からの転載である。

18才の頃の中原中也
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 紀伊国の熊野大社から分霊を遷した京都の熊野神社は、熊野信仰が隆盛をきわめた院政期、鴨川にいたるまでの広大な境内をかかえていた。11世紀ころで、平家滅亡を描いた『平家物語』にも登場する。

 現在は、東大路通りと丸太町通りの交差点の角にあり、境内もそんなに広くない。

 その角から丸太町通りに折れると、通りの反対側に京都大学の熊野寮の建物群がある。1960年代のほぼ10年間、京都の学生運動の一大拠点であった。盛期には巨大なタテ看板がならび、目をぎらぎらとさせた長髪の若者たちがタムロしていた。

 この熊野寮や京大キャンパスにちかいこともあり、丸太町通り周辺にはかつて京都で、もっとも古書店が多かった。いまは3~4軒ほどしかない。古書店めぐりをする学生もいなくなったのであろう。

 大正12(1923)年の秋、ぺしゃんこにした学生帽をかぶった童顔の少年が、古書店めぐりをしていた。立命館中学に通う16歳の中原中也である。

 年譜には「丸太町の古書店」として書かれていない。どのあたりにあった店なのか、いまでも残っているのか、もちろんわからない。とにかくそのなかの古書店で、『ダダイスト新吉の詩』という詩集を見つけた。

 大きな衝撃を受け、以降、ダダイズムに夢中になった。友人らも中也を「ダダさん」と呼ぶようになったほどである。

 「新吉」とは高橋新吉、大正半ば、萩原恭二郎らとならんで、ダダイズム旋風を巻き起こした詩人である。のちに禅の世界にのめり込み、「禅ポエムの詩人」として欧米でも高い評価を受けた。

 ダダイズムとは、詩の世界におけるアナーキズムとでも理解してもらえばいいと思う。たとえば中也が夢中になった新吉の代表作「皿」は、こんな調子である。

 「皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿/倦怠/額に蚯蚓(みみず)が這ふ情熱/白米色のエプロンで/皿を拭くな」

 これだけでは意味不明だが、新吉が皿洗いのアルバイトをしていたときに作ったという解説を読むと納得できる。たしかに皿洗いは「倦怠(けんたい)」をもたらすほどに退屈であり、額からはミミズのような汗も流れ落ちる。

2014.4.21 16:30 (2/3ページ)[ベテラン記者コラム]

 郷里の山口県・湯田温泉から出奔した中也の京都時代は、大正12年から14年までの2年間ほどであった。だがこの短い期間に、中也の生涯を決める決定的な出会いが3つあった。

 ひとつは『ダダイスト新吉の詩』に遭遇したことであり、残りふたつは詩人の富永太郎と、大部屋女優の長谷川泰子と知りあったことである。

 富永からはフランスの象徴詩、とりわけアルチュール・ランボウを知った。やがてママゴトのような同棲(どうせい)生活を始める3歳年上の泰子からは、もちろん「女」という不可解な存在を学んだ。

 泰子とともに東京に移った中也は、つぎつぎと詩をかきはじめる。だが生活は荒れ、酔ってはすぐにケンカをふっかけた。知人の多くはあきれはて、交友を絶った。なにしろ無頼派の太宰治すら逃げ出したほどである。

 まもなく泰子も文芸評論家の小林秀雄に奪われてしまう。小林宅への引っ越しには、中也自身も手伝った。小林自身も後年、回想しているように「奇妙な三角関係」であった。

 その後、べつの女性と結婚したが、生まれたばかりの愛児を失い、みずからもわずか30歳で結核性脳膜炎で死ぬ。風のように駈けぬけた生涯であった。

 --京都時代は習作ばかりで、取りあげるほどの作品はない。後年の作品から、京都にふさわしい作品をさがせば、やはり「汚れつちまつた悲しみ……」となる。

 

 汚れつちまつた悲しみに

 今日も小雪の降りかかる

 汚れつちまつた悲しみに

 今日も風さへ吹きすぎる

 

 京の雪は盆地のフチを、なでめぐるように降る。比叡山からすべり落ちてくる颪風(おろしかぜ)に乗ってきた小雪も、ちょうど丸太町通りあたりまで届き、ときとして中天に舞いあがり、あたりの風景をかき消す

2014.4.21 16:30 (3/3ページ)[ベテラン記者コラム]

 その中を、かつての熊野寮の学生たちとおなじように、目をぎらぎらと輝かせた中也が、トボトボと古書店めぐりをしていたと想像したい。



 古来、多くの文人が親しんだ京都での足跡を追います。

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京都慕情No2

(2)あの良寛も生死に苦しんだ桂川 ピンク爛漫のエロス

2014.4.8 16:30 (1/3ページ)[自殺問題]

以下は産経新聞からの転載である。

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さくらばな 夢かうつつか 白雲の…新古今和歌集で藤原家隆も詠んだ嵐山の桜=京都市右京区の


 桂川にかかる松尾橋にたたずんでいる。さきほどまでの雨のためか、遠くそびえる愛宕山のいただきには、白くちぎれた雲が残雪のようにかぶさっていた。

 橋をわたると、松尾大社である。そのうしろには松尾山が緑色に塗れていた。土手に沿った公園を、渡月橋に向かって歩きはじめた。先年の大雨でハンランし、あたりは泥土と化したが、だいぶ復旧されていた。

 公園のグラウンドでは、パンツとランニング姿の女子学生が走っていた。「立命館」と書かれた大きなスポーツバッグがベンチに積まれていた。

 「さっきより、5秒遅れよ!」

 タイムをとっていた女子学生が、大きな声で叫んだ。

 ランナーたちは、まだ少年のようなカラダつきだ。足が地につくたびに、太ももの四頭筋がくっきりと、えぐれた。四頭筋に引っ張られ、全身の筋もしなり、「エロス」としか名づけようがない生の躍動にみちていた。

 思わず、うっとりとなった。だが女子学生の太ももを見にきたのではない。見なければならないのは、グラウンドの反対側の桂川である。

 雑草がしげる河原がひろがっている。流れの部分は狭く、浅い。こんな浅さで、投身することなどできるのだろうか。

 寛政7(1795)年7月25日、ひとりの老人がこの川に飛び込んだ。山本以南、60歳である。

 越後・出雲崎の名主であったが、家督を息子に譲り、風流の道に入った。俳句や和歌を愛し、死の2年ほどまえから京に滞在していた。

 山本以南といっても、いまはだれも知らない。その自殺が研究者のあいだで問題となっているのは、かれが良寛和尚の実父だったからである。自殺の原因は不明とされる。

 山本家の長男として生まれた良寛は、以南に頼みこんで出家し、倉敷にある円通寺で修行をかさねた。以南が自殺したときは、四国か九州で漂泊の旅を送っていたらしい。

 死を知って、秋には京に入り、以南の跡を継いだ弟たちと法要をいとなんだ。だが以南の亡骸(なきがら)は見つからなかった。

 良寛はすがる思いで、桂川の川べりをなんどもめぐったらしい。当時は川幅も狭く、流れも急で、深かったはずである。

 生涯にわたって、多くの漢詩や和歌、俳句をのこした良寛には、だが亡父の死を悼んだ作品はない。わずかに死の直後、こんな詩を書いた。

 「苦しいかな三界の子 知らずいずれの日には休まん 遥夜(ようや)つらつら思惟(しい)し 涙下って収むるあたわず」

 名著『良寛』を書いた作家、水上勉が指摘するように、この作品は父の死というよりも、生の無常観をうたった作品であろう。

 亡父へのレクイエム(鎮魂歌)を残さなかったのは、それほど死の衝撃が大きかったからにちがいない。

 良寛は翌寛政8年、出雲崎にもどり、74歳で死ぬまで、その地を離れなかった。近所の童(わらべ)たちとかくれんぼをしたり、手まりをして遊ぶ日々であった。米や衣は喜捨にたよったが、あまった米はスズメに分けあたえた。

 漂泊の旅をやめたとき、良寛は精神のなかで、もうひとつの旅をはじめたのではないだろうか。みずから食をたった臨終の床では、こんな句をつぶやいた。

 

 裏を見せ表を見せて散る紅葉

 人生は散りゆく一片の紅葉にすぎない。裏と表を見せながら、ひらりひらりと舞ってゆき、さらりと地に落ちたときが、すなわち死であった。

2014.4.8 16:30 (3/3ページ)[自殺問題]


 --ようやく渡月橋が見えてきた。嵐山の桜は満開を迎えていた。眼のなかの虹彩にびっしりとはりつくピンクの爛漫(らんまん)からは、紅葉とはことなり、「エロス」の匂いすらただよってきた。



 古来、多くの文人が親しんだ京都での足跡を追います。

福嶋敏雄 福嶋敏雄
産経新聞大阪本社で運動部長、社会部長などを歴任し、現在は編集委員兼論説委員。以下は本人談。「戦後の飢えと貧しさの中では、異例なほど、すこやか、かつ、たおやかに育った団塊の世代である。いまはぽかぽかと陽があたる窓際で、『余興』のように原稿を書いている。それを『ヒマ』とみなした、かつての部下から、『大阪・関西を舞台に、何かを書け!』という指示が、老躯の背を不意に打った。大阪の町には、22歳のとき、はじめてやって来た。当初は、違和感に充ち満ちた町であったが、幾星霜を経ることによって、『愛すべき町』となったから不思議だ。いくぶんセンチメンタルな気持ちを込めた『大阪めぐり』を「川と坂の物語」として綴ってみたが、今度は『京都めぐり』を始めたい」


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京都慕情

(1)谷崎潤一郎も苦笑“絶対矛盾的自己同一カップル”

京都をこよなく愛するものとして大いに感情移入した記事を原文が削除される前に保存しておくことにした。
以下は産経新聞からの転載である。

2014.3.26 16:30 (1/2ページ)[ベテラン記者コラム]

満開の桜に包まれた「哲学の道」。疏水分線に沿って、銀閣寺前から永観堂までの約1.5キロにわたって続く=京都市左京区(加藤孝規撮影)

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 哲学的な思惟(しい)とはおよそ無縁な茶髪のカップルたちが、かたわらに琵琶湖疎水が流れる南禅寺から銀閣寺までの小道をぞろぞろと歩いていた。「キャハッ」という歓声をあげて写真を撮ったり、アイスクリームをなめたりしている。

 小道は「哲学の道」と呼ばれる。かつては「哲学の小径(こみち)」だったような気がする。沿道には土産物店や喫茶店などがずらりとならんでいるが、あのころは銀閣寺道のわかれめのあたりに茶店があった程度だった。

 哲学の道はもちろん、京都帝国大学教授で、名著『善の研究』など知られる哲学者、西田幾多郎がこの道を着物姿で散策し、哲学的なヒラメキが生まれたことから名づけられた。いまでは、そんなヒラメキなどは生まれようがないほどの喧噪(けんそう)である。

 泉下の西田も、すっかり観光地化した哲学の道のありさまに、「絶対矛盾的自己同一」と苦笑いしているかもしれない。「絶対矛盾的自己同一」とは、西田哲学のキーワードである。

 小道を南禅寺側に向かってしばらく歩き、鹿ケ谷側に折れた。鬱蒼(うっそう)としげる木々のあいだから、ようやく静寂がしみとおるようにやってきた。ほっとした。

 法然院という古刹(こさつ)があった。建仁寺垣の道を、寺とは反対側の墓地のほうに向かった。谷崎潤一郎の墓に詣でるためである。

 だがびっしりと立つ墓石群のまえで、茫然(ぼうぜん)となった。もちろん案内板などはない。ようやく墓前で花を供えている初老の女性を見つけ、教えを請うた。

 「あそこに茶色がかった枝垂れ桜があるでしょ。その根方のほうが、谷崎はんのお墓ですよ」

 墓は山に沿った高台の一画にあった。高さ50センチほどの自然石がふたつ並んでいる。それぞれに「寂」と「空」という草書体の文字が刻まれ、左下に小さく「純一郎筆」とあった。

 墓石のすぐうしろに、1本の枝垂れ桜が立っていた。もちろん、まだ芽吹いてもいない。

 「わび」と「さび」のなかにあるこの一画は、もうすぐモノ苦しいほどの美しさに包まれるはずである。モノ苦しいほどの美しさとは、同時に谷崎が追いもとめた文学でもあった。

 それにしても東京で生まれ育った谷崎は、なぜ京都に墓所を求めたのだろうか。


(1)谷崎潤一郎も苦笑“絶対矛盾的自己同一カップル”

2014.3.26 16:30 (2/2ページ)[ベテラン記者コラム]

 年譜によると、谷崎は1946年から10年間ほど、南禅寺ちかくなどに居をかまえた。戦後の混乱のなかにあった東京を避けたのであろう。

 居宅はいずれも「潺湲(せんかん)邸」と名づけられた。大阪を舞台にした長編『細雪』を仕上げたことでも知られる。と同時に、多くの文学者、知友なども訪れ、「文人サロン」になっていた。

 だが京都特有の冬の底冷え、夏の蒸し暑さにたえられず、やがて熱海に移転した。この熱海で書かれた『瘋癲(ふうてん)老人日記』に、京都に墓所をかまえた理由が書かれている。

 主人公の卯木督助(うつぎとくすけ)は、死期がせまった77歳の老人である。谷崎は、督助にこう言わせている。

 「己(おれ)ハコノ間モ云ッタ通リ、自分ノ墓ハ東京ノ墓地デハ嫌ダ。己ハ江戸ッ子ダガ、近頃ノ東京ハ好キジャナインダ」

 では、なぜ京都なのか。督助は言う。

 「京都ニ埋メテ貰エバ東京ノ人モ始終遊ビニ来ル。『ア、ココニアノ爺サンノ墓ガアッタケナ』ト」

 --墓地をくだっていくと、中年のカップルとすれちがった。ガイドブックをのぞいていた女性のほうが、「あのへんよ、谷崎さんのお墓は……」とつぶやき、小さな笑いを浮かべて顔をあげた。

 すっきりした横顔だった。「東京ノ人」なのかもしれない。



 古来、多くの文人が親しんだ京都での足跡を追います。

福嶋敏雄 福嶋敏雄
産経新聞大阪本社で運動部長、社会部長などを歴任し、現在は編集委員兼論説委員。以下は本人談。「戦後の飢えと貧しさの中では、異例なほど、すこやか、かつ、たおやかに育った団塊の世代である。いまはぽかぽかと陽があたる窓際で、『余興』のように原稿を書いている。それを『ヒマ』とみなした、かつての部下から、『大阪・関西を舞台に、何かを書け!』という指示が、老躯の背を不意に打った。大阪の町には、22歳のとき、はじめてやって来た。当初は、違和感に充ち満ちた町であったが、幾星霜を経ることによって、『愛すべき町』となったから不思議だ。いくぶんセンチメンタルな気持ちを込めた『大阪めぐり』を「川と坂の物語」として綴ってみたが、今度は『京都めぐり』を始めたい」


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2014.08.10

私のツイッター

ツイッター 語れ我が友へ

 = 日々の時事問題などに感想を呟くアイテムを新設した。

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2014.08.06

朝日の「慰安婦誤報」は確信犯的である

朝日新聞の罪状万死に値する。


以下の文書は渡部亮次郎氏から配信されたメルマガの写しである。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
朝日の「慰安婦誤報」は確信犯的である
━━━━━━━━━━━━━━━━━━


             杉浦 正章

国会は検証に乗り出すべきだ
 
一報道機関の誤報がこれほど国の信用を傷つけ、おとしめた例があっただ
ろうか。誤報に基づき強制連行を詫びた河野談話が作られ、誤報に基づき
「性的奴隷制度」と断定した国連報告が発表され、誤報に基づき慰安婦像
が米国各地に建造されている。

しかも朝日新聞の報道は意図的であり恣意的であり、故意に史実を曲げた
誤報であった。

その誤報を5日と6日の紙面で認めながら朝日はなお「自由を奪われた強制
があった」などと主張、強制連行の本質を、慰安婦一般の問題にすり替え
ようとしている。まさに確信犯的誤報の実態を露呈していることになる
が、「読者の皆様」への記事取り消しですむ話だろうか。

国際的に取り返しのつかない問題に発展しており、青少年の日本国民とし
ての自信喪失ダメージは大きい。

自民党幹事長・石破茂が国会での検証を唱えているが、是非実現してもら
いたい。国際的な発信も不可欠だ。

大誤報の核心は2つある。1つは1982年から文筆家・吉田清治の「済州島で
慰安婦狩りをした」とする生々しいねつ造記事を繰り返し16回にわたって
報道してきたが「吉田氏の証言は虚偽だと判断し記事を取り消す」とした
ことだ。

自民党総裁・安倍晋三が2012年の党首討論で「朝日の誤報が吉田清治とい
う詐欺師のような男の本とともにまるで事実のように広がった」と指摘し
たとおりの結果となった。“詐欺師”に踊らされたか、分かっていて利用し
たかだが、これはあきらかに両方であろう。

途中で“詐欺”と分かりながら32年間も訂正しないでおいたことからも明白だ。

もう1つは、もともと関係のない工場などに動員された「女子挺身隊」を
「慰安婦」と断定して繰り返し混同した記事を掲載したことだ。

これについて朝日は、「当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおら
ず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたこと
から、誤用した」と誤報の経緯を説明した。

しかし歴史を少しでもかじった者なら女子挺身隊が勤労動員であり、「研
究が進んでいる、いない」の問題ではないことが分かる。慰安婦に結びつ
かないことは誰でも分かる事であり、「挺身隊」という名前だけで卑しい
想像を働かせた記者と、その記事の掲載を認めた編集幹部の意図的姿勢は
まさに確信犯的である。

こうして報道史上最大の誤報事件が確定したが、問題は読者へのおわびで
済む領域を越えている。朝日の報道を真に受けた国益毀損の事態をどうす
るかだ。

朝日は首相・宮沢喜一訪韓の直前に「挺身隊の名前で連行された女性は8
万とも20万人ともいわれる」と報じたが、対韓外交に大きな影響を及ぼし
た。宮沢内閣は浅慮にもまともに朝日の報道に乗ってしまったのだ。

そして1993年の官房長官・河野洋平談話へとつながるのだ。河野談話は
「強制連行は確認できない」が基調であったが、河野は愚かにも記者会見
で強制連行の事実があったかと問われ、「そういう事実があった」と述べ
てしまったのだ。

河野談話は先に政府が実施した検証により首相や大統領まで加担した「日
韓合作」の“すりあわせ”があったことと、その隠ぺい工作が明らかになっ
た。これにより河野談話は事実上空文化の傾向を強めたが、朝日の誤報は
同談話が紛れもなく空文化することを物語っている。

さらに朝日の誤報は96年の国連人権委員会のクマラスワミ報告にも引用さ
れた。無能な3流国際官僚で形成されている国連人権委員会のクマラスワ
ミ特別報告者(スリランカ)は、報告書で、慰安婦制度が国際人道法に違
反する「性的奴隷制」だと断定し、日本政府に「法的責任と道義的責任」
があると主張したのだ。

この見解は韓国の米国内でのプロパガンダに使われ、日本軍が慰安婦を強
制連行しレイプし続けたかのような誤解が世界中に広がる原因となった。
政府は国連に対して報告書撤回と陳謝を要求すべきである。高額な分担金
を負担していながら、国連のロビー工作は昔からなっていない。

石破が朝日の“誤報声明”について「非常な驚きを持って受け止める。いま
までの報道は一体何であったのか」と指摘すると同時に「その検証は国益
のためにも必要であり、検証を議会の場で行うことも必要」と述べている。

野党は共産党などが慰安婦追及の先頭に立っていたが、論拠が崩れて追及
どころではなくなった。民主党や次世代の党などにも朝日批判は強く、国
会での検証で与野党がまとまる可能性もある。

朝日新聞関係者を招致して問題の解明を国会中心に行う必要があろう。朝
日は秘密保護法や集団的自衛権の行使をめぐっても無責任な“風評”報道を
繰り返しており、慰安婦誤報はその編集方針の一角が現れたに過ぎない。

国際社会に生じさせた誤解は甚大なものがあり、本当に反省するなら、国
会の検証に協力し、国連や関係国に向かっても「おわびと訂正」を行うべ
きであろう。

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2014.08.04

【櫻井よしこ 美しき勁き国へ】 目配り欠く女性政策

以下は産経新聞からの転載である。


【櫻井よしこ 美しき勁き国へ】
目配り欠く女性政策
2014.8.4 03:06 (1/4ページ)


 確かな戦略を感じさせる外交・安全保障政策に比べ、現在の安倍晋三政権の女性政策は目配りが欠けていないか。

 人間の生き方や価値観は極めて多様であるために、全ての女性が満足する政策を打ち出すのは難しい。とはいえ、男女共同参画路線をひたすら突っ走るような現在の政策は将来に禍根を残しかねない。なによりも、首相の掲げる美しい日本を取り戻すという大きな理念と、現在の女性政策は必ずしも一致しない。

 小泉純一郎政権のときも、夫婦別姓法案が成立しそうになった。あのとき、山谷えり子氏らが問題点を説き、自民党は踏みとどまった。いま、自民党が、日本のよき価値と伝統を重視する政党として、偏った男女共同参画路線を修正できるかが問われている。

 現在注目の女性政策は指導的地位に占める女性の割合を2020年までに3割以上に増やすというものだ。待機児童ゼロを目指して保育園をふやすことも、子供の健全な発育のために家庭教育を重視することも、配偶者控除を見直すことも、同時進行で論じられている。

 決して同じ方向を向いているわけではない政策の組み合わせだが、それでも働きたい女性、共働き世帯への熱い支持は大変結構なことだ。だが、専業主婦やパートで働く女性たちへの配慮は十分か。とりわけ配偶者控除を見直すのかと問わざるを得ない。

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 現在、妻の年収が103万円以下なら、妻は課税されず、夫の控除額は配偶者控除として38万円が加算される。妻の年収が130万円以下なら保険料負担なしで健康保険や国民年金に加入できる。だが、これは2年後、106万円への引き下げが決定済みで配偶者控除の廃止を含めた削減も検討されている。

 その一方に、女性の管理職の30%への引き上げ策があるわけだ。女性の社会進出を奨励することに異論はない。しかし、こうした施策とは別の次元で重要な役割を果たしている女性たちにも留意すべきだ。女性の家庭における役割をもっと評価すべきだと強調したい。

 いま、夫の収入だけで暮らす専業主婦世帯は総務省の調査で745万世帯である。厚生労働省の調査では独身女性の3人に1人が専業主婦を希望している。内閣府の調査では「夫が働き、妻は家庭を守る」のがよいとする人が51・6%。20代ではこの割合が約20ポイント伸びた。総務省の労働調査で働きたいと考えている女性は約300万人だが、フルタイム志望は2割以下だ。

 こうしたことは女性たちが、働くことの意味を経済性だけに求めているのではないことを示しているのではないか。子供の教育を含めた文化的価値や、高齢化時代の両親の介護など社会的価値において自分の力を生かすことを望んでいるのではないか。

 日本の戦後教育で不十分なのが家庭教育だということは多くの人が認めるであろう。であればこそ、家庭における女性の役割はもっと評価されてよい。働く女性への支援と同じく、子育てをし、家族の結びつきの中心軸となる主婦への支援を忘れてはならない。

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 経済的側面から女性の活用を急ぐ気持ちが端的に表れている女性管理職を30%にという割当枠制度について考えてみる。私は割当枠の意義を否定するものではないが、やはり順序が違うと思う。男女の違いに留意するよりも仕事ができるか否かに留意するのが先である。加えて理にかなった仕事における評価制度の確立こそが重要だ。

 北欧社会が割当枠を設けているが、彼らが教訓を示してくれている。北欧諸国の女性割当枠がすべて成功しているわけではなく、女性の企業トップへの就任は、3%未満にとどまっている。女性管理職40%という高い水準の枠を設けたノルウェーは、これが重い負担となって海外移転を進める企業や、株式上場を取りやめる企業が続出した。つまり、経済的期待には応えていないということだ。

 わが国の目標値、6年で30%を達成するには何をしなければならないか。総務省の労働力調査によると管理職に分類されている人は、現在男性136万人、女性17万人、計153万人である。管理職の数は年々減少しているが、仮に2020年も同数の管理職が存在するとして、女性30%を満たすにはざっと現在の3倍近く、46万人が必要となる。男性幹部は約30万人をクビにしなければならない。実際はこれよりひどい状況になるだろう。


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 こんな人事で社会の調和と競争力は保てるのか。第一、こんなことが可能なのか。私は大いに疑問だと思うが、百歩ゆずって、それでも困難な目標に挑み、女性を励ます価値はあるだろう。しかし、それはあくまでもバランスを保ってのことだ。共働き世帯のキャリア志向の女性同様に専業主婦世帯にも目配りを欠かすようでは社会は歪(いびつ)になる。

 政府は来年末に男女共同参画第4次計画をまとめる。ジェンダーフリーの旗だけを振るのではなく、伝統的な女性の役割を日本人の生き方のひとつの形として大切に守っていけるようなバランスのとれた計画にすべきである。

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2014.08.03

安倍氏の「第2次大東亜戦争」宣言

渡部亮次郎氏から配信されたメルマガから以下の記事を転載した。


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安倍氏の「第2次大東亜戦争」宣言
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平井 修一

欧州のマスコミが安倍首相について「平和をあれほど激しく訴えた人はい
ない」と書いていたが、これは第13回アジア安全保障会議(シャングリ
ラ・ダイアローグ)での安倍氏の基調講演(5/30)についての評価だった。

どこかに講演記録があるだろうと探したら在シンガポール日本大使館のサ
イトにあった。「アジアの平和と繁栄よ永遠なれ」がタイトルだ。以下、
転載(一部カット、小見出しは大使館が付けたのだろう)。長いが歴史的
文章だと思う、読んでほしい。「,」が多いが、安倍氏の演説は、そんな
間合いを取るので、省略していない。

この演説は外務省本省のサイトに載っていないのだが、中共を刺激したく
ない、ということだろう。ということは尖閣をめぐっては日中は「とりあ
えず刺激しない」ということで合意したのかもしれない。そうであれば小
生が靖国に祀られる可能性は小さくなるが、まあ、政治、外交とはそんな
ものなのだろう。さあ、読んでいこう。

・・・

■国際法の重要さ

以上,私の情勢認識を,皆さんと共有するためお話しました。そのうえ
で,本日第1の要点,国際法を守るべきことを,申します。

海洋には,その秩序を定める国際法があります。歴史は古く,古代ギリ
シャの昔にさかのぼるといわれています。早くもローマ時代,海は,すべ
ての人々に開放され,私的な所有や,分割が禁止されました。

いわゆる大航海時代以降,多くの人々が海を通じて出会い,海洋貿易が,
世界を結びます。公海自由の原則が確立するに至り,海は,人類の繁栄
の,礎となりました。

歴史を重ね,時として文字通り荒波に揉まれながら,海にかかわる多くの
人々の,知恵と,実践の積み重ねがあって,共通のルールとして生み出さ
れたものが,海に関する国際法です。

誰か特定の国や,集団がつくったものではありません。長い年月をかけ,
人類の幸福と繁栄のためはぐくまれた,われわれ自身の叡智の産物なのです。

今日,私たちおのおのにとっての利益は,太平洋から,インド洋にかけて
の海を徹底してオープンなものとし,自由で,平和な場とするところにあ
ります。

法の支配が貫徹する世界・人類の公共財として,われわれの海や,空を保
ち続けるところ,そこにこそ,すべての者に共通する利益があります。

■海における法の支配・3つの原則

海における法の支配とは,具体的には何を意味するのか。長い歳月をか
け,われわれが国際法に宿した基本精神を3つの原則に置き直すと,実に
常識的な話になります。

原則その1は,国家はなにごとか主張をなすとき,法にもとづいてなすべ
し,です。

原則その2は,主張を通したいからといって,力や,威圧を用いないこと。

そして原則その3が,紛争解決には,平和的収拾を徹底すべしということ
です。

繰り返しますと,国際法に照らして正しい主張をし,力や威圧に頼らず,
紛争は,すべからく平和的解決を図れ,ということです。

当たり前のこと,人間社会の基本です。しかしその当たり前のことを,あ
えて強調しなくてはなりません。アジア・太平洋に生きるわれわれ,一人
ひとり,この3原則を徹底遵守すべきだと,私は訴えます。

先日,インドネシアとフィリピンが平和裏に,両国間の排他的経済水域の
境界画定に合意しました。法の支配が,まさに具現化した好例として,私
は歓迎したいと思います。

また,南シナ海における紛争の解決を,まさに3原則にのっとり求めよう
としているフィリピンの努力を,私の政府は強く支持します。ベトナム
が,対話を通じて問題を解決しようとしていることを,同様に支持します。

既成事実を積み重ね,現状の変化を固定しようとする動きは,3原則の精
神に反するものとして,強い非難の対象とならざるを得ません。

いまこそ,南シナ海の,すべての当事国が約束した2002年行動宣言,あの
DOC(平井:ASEAN・中国間の重大文書と称えられた「南シナ海における関
係国の行動宣言」)の精神と規定に立ち返り,後戻りができなくなる変化
や,物理的な変更を伴う一方的行動をとらないという,固い約束を交わす
べき時ではないでしょうか。

平穏な海を取り戻すため,叡智を傾けるべきときはいま,です。

■不測の事態を防ぐため

世界が待ち望んでいるのは,わたしたちの海と,その空が,ルールと,法
と,確立した紛争手続きの支配する場となることです。

最も望まないものは,威圧と威嚇が,ルールと法にとってかわり,任意の
とき,ところで,不測の事態が起きないかと,恐れなければならないこと
です。

南シナ海においては,ASEANと中国の間で,真に実効ある行動規範ができ
るよう,それも,速やかにできるよう,期待してやみません。

日本と中国の間には,2007年,私が総理を務めていたとき,当時の温家
宝・中国首相との間で成立した合意があります。日中両国で不測の事態を
防ぐため,海,空に,連絡メカニズムをつくるという約束でした。

残念ながら,これが,実地の運用に結びついていません。

私たちは,海上での,戦闘機や,艦船による危険な遭遇を歓迎しません。
交わすべきは言葉です。テーブルについて,まずは微笑みのひとつなり交
わし,話し合おうではありませんか。

両国間の合意を,実施に移すことが,地域全体の平和と安定につながる。
私はそう確信しています。

■EAS強化と,軍事予算透明化

それにつけても,EAS(平井:東アジア首脳会議*)に重きをもたせると
きが来た。私はそう思います。

(*ASEAN10カ国〈インドネシア,マレーシア,フィリピン,シンガポー
ル,タイ,ブルネイ,ベトナム,ラオス,ミャンマー,カンボジア〉,日
本,中国,韓国,豪州,ニュージーランド,インド,米国,ロシア。米
国,ロシアは2011年から参加)

「ARF」(平井:ASEAN地域フォーラム)は外相レベル,「ADMM+」(平
井:拡大ASEAN国防相会議。ASEAN及び、日本を含む8カ国の「プラス」諸
国が集う新しい枠組)は,国防大臣レベルの会議です。首脳たちが集ま
り,あるべき秩序を話し合う場として,EASに勝る舞台はありません。

軍備拡張の抑制,軍事予算の透明化,あるいは武器貿易条約の締結拡大
や,国防当局間の,意思疎通の向上――。首脳同士が互いにピア・プレッ
シャー(平井:加盟国間の相互圧力)を掛け合い,取り組んでいかねばな
らない課題には事欠きません。

地域の政治・安全保障を扱うプレミア・フォーラムとして,EASを一層充
実させるべきである。そう,訴えます。

来年が,ちょうどEAS発足10周年です。まずは参加国代表からなるパーマ
ネントな委員会をつくり,EASの活性化,さらには,EASとARF,ADMM+を重
層的に機能させるため,ロードマップをこしらえてはどうでしょう。

まず話し合うべきは,ディスクロージャーの原則です。

陽の光にまさる,殺菌薬はなし,と,そう言うではありませんか。

アジアは今後とも,世界の繁栄をひっぱっていく主役です。そんな場所で
の軍拡は,元来不似合です。繁栄の果実は,更なる繁栄,人々の生活の向
上にこそ再投資されるべきです。軍事予算を一歩,一歩公開し,クロス
チェックしあえるような枠組こそ,EASの延長上に,私たちが目指すべき
体制だと,そう信じます。

■ASEANへの支援

ASEAN各国の,海や,空の安全を保ち,航行の自由,飛行の自由をよく保
全しようとする努力に対し,日本は支援を惜しみません。では日本は何
を,どう支援するのか。それが,次にお話すべきことです。

フィリピン沿岸警備隊に,新しい巡視艇を10隻提供することに致しまし
た。インドネシアには,既に3隻,真新しい巡視艇を無償供与しました。
ベトナムにも供与できるよう,必要な調査を進めています。

日本が実施する援助全般について言えることですが,ハード・アセットが
日本から出て行くと,技能の伝授に,専門家がついていきます。そこで必
ず,人と,人のつながりが強くなります。職務を遂行すること,それ自体
への,誇りの意識が伝わります。

高い士気と,練度が育ち,厳しい訓練をともにすることで,永続的な友情
が芽吹きます。

フィリピン,インドネシア,マレーシア3国だけで,沿岸警備のあり方に
ついて日本から学んだ経験のある人は,250人をゆうに上回っています。

2012年,ASEAN主要5カ国から海上法執行機関の幹部を日本へ招いたとき
は,1カ月の研修期間中,1人につき日本の海上保安官が3人つき,寝食を
すべて共にしました。

「日本の場合,技術はもちろん,1人1人,士気の高さがすばらしい。持っ
て帰りたいのは,この気風だ」と,マレーシアからの参加者は言ったそう
です。私たちが本当に伝えたいことを,よくわかってくれたと思います。

ここシンガポールでも,8年前にできた地域協力協定(ReCAAP)に基づい
て,各国のスタッフが,海賊許すまじと,日夜目を光らせています。事務
局長はいま,日本人が務めています。

日本はこのほど,防衛装備について,どういう場合に他国へ移転できる
か,新たな原則をつくりました。厳格な審査のもと,適正な管理が確保さ
れる場合,救難,輸送,警戒,監視,掃海など目的に応じ,日本の優れた
防衛装備を,出していけることになりました。

国同士で,まずは約束を結んでからになります。ひとつひとつ厳格に審査
し,管理に適正を図ることを心がけつつ進めていきます。

ODA,自衛隊による能力構築,防衛装備協力など,日本がもついろいろな
支援メニューを組み合わせ,ASEAN諸国が海を守る能力を,シームレスに
支援してまいります。

以上,お約束として,申し上げました。

■「積極的平和主義」と「安保法制の再構築」

最後の話題に移りましょう。日本が掲げる,新しい旗についてのお話です。

もはや,どの国も,一国だけで平和を守れる時代ではありません。これ
は,世界の共通認識でしょう。さればこそ,集団的自衛権や,国連PKOを
含む国際協力にかかわる法的基盤の,再構築を図る必要があるのではない
か。そう思い私はいま,国内で検討を進めています。

いま,日本の自衛隊は,国連ミッションの旗の下,独立間もない南スーダ
ンにいて,平和づくりに汗を流しています。

そこには,カンボジア,モンゴル,バングラデシュ,インド,ネパール,
韓国,中国といった国々の,部隊が参加しています。国連の文民スタッフ
や,各国NGOの方々も,大勢います。南スーダンの国造りを助けるという
点で,彼らは皆,仲間です。

ここでもし,自らを守るすべのない文民や,NGOの方々に,武装勢力が突
然襲い掛かったとしましょう。いままでの,日本政府の考え方では,襲撃
を受けているこれら文民の方々を,我が国自衛隊は,助けに行くことはで
きません。

今後とも,それでいいのか。われわれは現在,日本政府としての検討を進
めるとともに,連立与党同士の協議を続けています。

国際社会の平和,安定に,多くを負う国ならばこそ,日本は,もっと積極
的に世界の平和に力を尽くしたい,「積極的平和主義」のバナーを掲げた
いと,そう思うからです。

■「新しい日本人」とは

自由と人権を愛し,法と秩序を重んじて,戦争を憎み,ひたぶるに,ただ
ひたぶるに平和を追求する一本の道を,日本は一度としてぶれることな
く,何世代にもわたって歩んできました。これからの,幾世代,変わらず
歩んでいきます。

この点,本日はお集まりのすべての皆さまに,一点,曇りもなくご理解を
いただきたい。そう思います。

私はこの1年と半年ちかく,日本経済を,いまいちど,イノベーションが
さきわい,力強く成長する経済に立て直そうと,粉骨砕身,努めてまいり
ました。

アベノミクスと,ひとはこれを呼び,経済政策として分類します。

私にとってそれは,経済政策をはるかに超えたミッションです。未来を担
う,新しい日本人を育てる事業にほかなりません。

新しい日本人は,どんな日本人か。昔ながらの良さを,ひとつとして失わ
ない,日本人です。

貧困を憎み,勤労の喜びに普遍的価値があると信じる日本人は,アジアが
まだ貧しさの代名詞であるかに言われていたころから,自分たちにできた
ことが,アジアの,ほかの国々で,同じようにできないはずはないと信
じ,経済の建設に,孜々(しし)として協力を続けました。

新しい日本人は,こうした,無私・無欲の貢献を,おのがじし,喜びとす
る点で,父,祖父たちと,なんら変わるところはないでしょう。

変わるとすれば,日本が実施する支援や協力は,その対象,担い手とも,
ますます女性になることでしょうか。

カンボジアで,民法をつくり,民事訴訟法をつくるお手伝いをした日本人
が,3人の,いずれも若い女性裁判官,女性検事だったことを,ご記憶く
ださい。

2011年8月のことでした。フィリピンの,ベニグノ・アキノ3世大統領と,
ムラド・エブラヒムMILF(平井:モロ・イスラム解放戦線)議長とのトッ
プ会談が,日本の,成田で実現し,本年3月には,とうとう,両者間に,
包括和平の合意がなりました。

2年後には,いよいよ,バンサモロ自治政府が産声をあげます。そのため
私たち日本の援助チームは,何に,いちばん力を入れているでしょうか。

女性たちに,生活の糧を稼ぐ実力をつけてもらうことが,そのひとつで
す。ミンダナオに,我が国は女性職業訓練所を建てました。銃声と怒号が
消えたミンダナオに響くのは,彼女たちが動かすミシンの,軽快な機械音
です。

新しい日本人とは,いままでと同じように,成長のエンジンが,結局のと
ころ人間であり,ともすると不当に不利な立場に置かれてきた,女性たち
であることを踏まえ,その,実力向上に,力を惜しまない人間です。

新しい日本人は,アジア・太平洋の繁栄を,自分のこととして喜び,日本
を,地域の意欲ある若者にとって,希望の場所とすることに,価値と,生
き甲斐を見出す日本人です。日本という国境にとらわれない,包容力ある
自我をもつ,日本人です。

中国からは,毎年,何十人かの高校生がやってきて,北から南まで,日本
列島に散らばって,まる1年,日本人の高校生と,生活や,学習を共にし
ます。

彼ら,彼女らは,例外なく,日本人の友達と結んだ友情に感動し,ホスト
ファミリーが注ぐ愛情に涙して,母国に帰ります。日本を,第二の故郷だ
と言って帰ります。

新しい日本人には,そんな,外国の人たちを慈愛深く迎える心を,いっそ
う大切にしてほしい。そう思います。

新しい日本人とは,最後に,この地域の平和と,秩序の安定を,自らの責
任として,担う気構えがある日本人です。

人権や,自由の価値を共有する地域のパートナーたちと,一緒になって,
アジア・太平洋の平和,秩序を担おうとする意欲の持ち主です。

そんな新しい日本人のための,新しいバナー,「積極的平和主義」とは,
日本が,いままでより以上に,地域の同輩たち,志と,価値を共にする
パートナーたちと,アジア・太平洋の平和と,安全,繁栄のため,努力
と,労を惜しまないという,心意気の表現にほかなりません。

米国との同盟を基盤とし,ASEANとの連携を重んじながら,地域の安定,
平和,繁栄を確固たるものとしていくため,日本は,骨身を惜しみません。

私たちの行く手には,平和と,繁栄の大道が,ひろびろと,広がっていま
す。次の世代に対するわれわれの責任とは,この地域がもつ成長のポテン
シャルを,存分に,花開かせることです。

日本は,法の支配のために。アジアは,法の支配のために。そして法の支
配は,われわれすべてのために。アジアの平和と繁栄よ,とこしえなれ。

有難うございました。(以上)

・・・

時あたかも南シナ海で緊張が高まっている時期であり、名指しはしていな
いが、中共に対する強烈な牽制、警告だ。この講演に各国の参加者は大拍
手したそうだが、朝日の6/5の記事にはそれは書かれていない。

この会議は英国際戦略研究所(IISS)主催で朝日新聞社などが後援してい
るのに、朝日が応援・代弁する中共が満座の席で「行儀を良くしろ」とた
しなめられたのだから、朝日の記者もがっくりしたのではないか。以下は
朝日の6/5報道(ごく一部)。

<シンガポールで1日まで開かれた「アジア安全保障会議」には、30を超
える国の国防相や軍関係者らが参加した。3日間にわたった議論の「主
役」は、南シナ海の領有権問題などで強硬な姿勢を見せる中国。日本から
は初めて首相が出席し、米国や東南アジア諸国との連携を訴えた。

安倍首相は集団的自衛権行使に向けた国内での検討を説明し、「米国との
同盟を基盤とし、ASEANとの連携を重んじる」と強調。「日本の『積極的
平和主義』に感謝したい」(ベトナムのタイン国防相)といった評価も聞
かれた。

米国のヘーゲル国防長官は演説で中国を名指しし、「この数カ月、南シナ
海で情勢を不安定にさせる一方的な行動をとっている」と非難した。

(中国側の反論は)「これまで14のうち12の国と友好的な協議を通じて、
国境紛争を解決してきた。武力で威嚇したり、挑発したりしたことはな
い。積極的平和主義を旗印に、地域をかき回そうとする(日本の)動きは
容認できない。領土問題で中国が最初に挑発したことはない」

(中国の)主張が理解を得られたとは言い難い。会場からは、「中国が先
に挑発したことは一度もないという主張を信じる国はない」「今回のよう
な姿勢では信頼を失う」といった厳しい声が相次いだ>(以上)

・・・

来たるべき戦争が冷戦か熱戦かは分からないが、抑止がベストなのだけれ
ど、勝っても負けても、この安倍氏の講演は「第2次大東亜戦争」宣言と
して歴史に残るだろうなあと思う。安倍氏はいい仕事をした。GJ!(2014/8/3)

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2014.08.02

中国共産党権力闘争の実態No2

以下は新聞切り抜きのコピペである。


【周永康事件の衝撃(中)】
今なぜ失脚公表? 重要証人処刑前に長老封じにかかった習指導部、抗争の火種に
2014.8.1 08:29 (1/3ページ)[中国]

 「賈慶林(中国・前全国政協主席)が内モンゴルで軍に拘束された!」「曽慶紅(元国家副主席)がクーデター計画に関与して天津で逮捕された!」

 7月初旬から中旬にかけ中国版ツイッター「微博」で、中国共産党の元最高指導部メンバー2人の失脚情報が飛び交った。

 だが、間もなくして「ガセネタ」であることが確認された。これら長老が公衆の前に姿を見せ、健在ぶりをアピールしたからだ。

 インターネット規制が厳しい中国では、政治家失脚に関するニセ情報は最大のタブーとされる。見つかればすぐに削除され、転載しただけで罪に問われる。ネット警察の厳しいチェックをすり抜け、短時間で拡散していった今回の怪情報は「当局に黙認されていた」ともみられている。

 背景について、権力闘争に詳しい党関係者は「習近平指導部による両長老への牽制(けんせい)球だ」と解説する。

 賈氏と曽氏はいずれも巨額の不正蓄財疑惑を抱えており、自身に飛び火することを避けるため、周永康・前政治局常務委員への調査に反対していた。習国家主席周辺は、彼らの動きを封じ込めるため、ニセ情報をあえて流し、「反対すれば、あなたたちもやるぞ」と脅したというのだ。

 しかし、こうした情報操作は両長老の大きな怒りを買ったとされ、党内抗争の火種は残されたままである。

□ □

 8月初め、党にとって最も重要な会議の一つの北戴河会議が開かれる予定だ。長老を含む党要人が重要方針や人事を非公式協議し、習指導部の1年間の成果と問題点も総括される。

 習氏は2012年11月の体制発足当初、長老らと良好な関係を保っていた。が、一連の反腐敗キャンペーンを強引に進めて多くの高官を摘発し、長老らの不興を買ったといわれる。

 習指導部が周氏への調査を公表したのは7月29日。つまり、長老らに阻止されないように、北戴河会議の開幕前に先手を打とうという戦術だった。

 中国の司法関係者によると、習指導部が周氏への調査をこの時期に明らかにしたのには、もう一つ重要な理由がある。

 殺人罪などで死刑判決を受けた四川省の富豪、劉漢氏の死刑執行を延期させる必要があったのだという。


 劉氏は周氏の長男のビジネスパートナーで、周氏に便宜を図ってもらい、十数年で400億元(約6800億円)もの資産を築いたとされる。昨年、逮捕され、今年5月の1審で死刑判決を受けた。

 ところが、この裁判は周氏を守ろうとする長老の息がかかった勢力が主導したといわれているのだ。法廷では周氏との癒着など経済面の不正には一切触れられず、暴力団組織を率いて犯した殺人などの罪だけが問われた。2審はすでに7月中旬に結審している。

 二審制を採用する中国では、この判決が確定すれば劉氏は処刑される。それは習指導部にとって、周氏の経済犯罪を証言する重要証人を失うことを意味する。

 北戴河会議の開幕、そして重要証人が口封じされる前に、習指導部は周氏への調査を公表せざるをえなかった。党内で十分な根回しがなされたとはいえない。

 今年の北戴河会議は、習指導部と長老らの確執がさらに深まり「紛糾する可能性もある」と予測する党関係者もいる。極めて異例の事態なのだ。(北京 矢板明夫)

【用語解説】北戴河会議

 中国共産党の実力者たちが毎年夏、渤海湾に臨む避暑地の北戴河に集まって開く非公式重要会合。建国の父、毛沢東が夏に同地の海で泳ぐ習慣に合わせ、党、政府、軍の指導者が集まるようになったのが由来といわれる。引退した指導者にも発言権が与えられる。二重権力構造への批判から2003年に廃止されたが、長老らの猛反対で復活した。

【周永康事件の衝撃(下)】

2014.8.2 09:19 (1/3ページ)[中国]

 北京市の北東部郊外、緑に囲まれた高級住宅街の中に、ひときわ目立つ敷地面積約300坪の豪邸がある。窓ガラスはほこりをかぶり、芝生は長らく手入れしていない様子だ。近所の男性によると、この建物に住んでいた中年夫婦は昨年末に突然姿を消し、それ以降、訪れる人はほとんどいないのだという。

 7月29日に失脚が公になった中国共産党の周永康・前政治局常務委員(71)の長男、周浜氏(42)の自宅である。周永康事件を取材した中国人ジャーナリストによれば、周浜氏は北京の7カ所に住宅を所有するが、この豪邸を最も愛用していたという。

 周永康氏が現役だった2012年まで、週末などによくパーティーが催され、エネルギー担当の政府高官や、国有系石油企業の経営者、石油産業に投資する富豪らが集まった。

 「周浜家のパーティーで中国全国のガソリンの値段が決められるのでは」とまで噂されていた。

 しかし、周浜夫婦は13年12月、党の規律部門の捜査員によってこの豪邸から連行された。李華林・中国石油元副社長らパーティーの常連客たちも今、ほとんど拘束・逮捕されている。いずれも、汚職などの罪で10年以上の重い懲役刑が科される可能性が高い。


2014.8.2 09:19 (2/3ページ)[中国]

□ □

 中国石油業界の「ドンとプリンス」と呼ばれた周永康氏と周浜氏。

 中国メディアは周一族の経済疑惑を大きく報じている。大手情報サイト、財経新聞網は「周永康の赤と黒」と題して、周浜氏が国有企業から数千万元(1元=約16円)で油田の開発権を手に入れてから数カ月後に、10倍以上の高値で別の民営企業に売却するなどの“錬金術”を詳報した。

 中国では昔、1人が重罪を犯すと9親等までの親族を皆殺しにするという刑罰制度があった。犯罪抑止が目的とされるが、親族から報復されないようにするのが真の狙いという。その伝統は今でも変わっていないようだ。

 これまでのところ、周永康氏の妻のほか、弟夫婦とその息子、さらには周浜氏の妻の両親ら、親族20人以上が拘束されたという。

 そして今、周親子に代わり、石油業界の新盟主として浮上したのが、習近平国家主席に近い張高麗副首相だといわれている。


2014.8.2 09:19 (3/3ページ)[中国]

□ □

 「周永康氏だけに問題があるのか」。一連の報道でこのような疑問を持つ国民が急増している。

 周永康氏一族が石油業界を牛耳ったように、李鵬元首相一家は電力業界、王震元国家副主席の家族は軍需産業など、これまで党の指導者と家族は各業界の利権を分け合ってきた。

 何より習氏自身、ひとごとではなく、姉が不動産、弟が環境ビジネス業界で大きな影響力を持っている。

 党が長年守ってきた「最高指導部メンバーの責任は問わない」との不文律は、党の威信維持を図る目的のほか、党内抗争激化を避ける狙いもあったとされる。

 習指導部が始めた反腐敗キャンペーンは今、国民の期待が高く、やめられなくなっている。しかしこれを継続すれば、習氏は党内の激しい抵抗に遭うだけでなく、自分の首を絞めることにもつながりかねない。

 「パンドラの箱を開けてしまった」(党関係者)とされる習氏。中国内外のチャイナウオッチャーが体制の行方を注視している。(北京 矢板明夫)

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2014.08.01

中国食材の危険性続報


以下は写しである。


上海食肉工場現役従業員が告発! 「腐った手羽先に消毒スプレーをかけて使用した」 | スクープ速報



 消費期限が切れた肉や床に落ちた肉を再利用していたことが発覚した中国・上海の食品加工会社「上海福喜食品」の現役従業員が、週刊文春のインタビューに応じた。

 この従業員は10年以上、上海福喜食品に勤務しているベテラン。工場内の様々な現場を見てきたという彼は、こう明かした。

「床に落ちた肉を拾うのはそもそも工場のルールなんです。機械を回しながら肉を投入するのでどうしても床に落ちてしまう。だから設置された青いプラスチックの容器に拾って入れなさい、と。容器がいっぱいになったら肉を回収し、『菌敵』という細菌殺菌薬を200倍に薄めた溶液で洗浄する。仕上げに度数70%のアルコールでさらに消毒し、再利用するんです」

 彼はさらに恐ろしい実態を明かした。

「2010年に上海万博が開催された時には、海外や国内から多くの人が上海を訪れ、ファストフード向けの鶏肉が足りなくなりました。すると、どこからか、ものすごい異臭を放つ20トンくらいの腐った手羽先の山が工場に運び込まれてきました。その手羽先に業務用スプレーで菌敵の溶液を吹き付けて消毒してから、利用しました」

「菌敵」の主成分は塩酸ドキシサイクリン。人にも動物にも使われる抗生物質だが、類似成分で催奇形性に関する報告があるため、妊娠期には経口摂取はもちろん、動物への投与作業をするのにさえ注意が必要だ。

 上海福喜食品の親会社であるアメリカの食肉大手「OSIグループ」は、上海福喜食品が出荷した全製品の回収を決定している。

 中国鶏肉の危険性について、週刊文春が約1年前に警鐘を鳴らした特集記事「あなたはそれでもチキンナゲットを食べますか? マクドナルドの中国産鶏肉が危ない! 奥野修司+本誌取材班」(2013年5月2日・9日ゴールデンウィーク特大号)は、「週刊文春デジタル」にて緊急再録され、7月31日(木)午前5時に公開される。


このスクープ記事の詳細はニコニコチャンネルの
「週刊文春デジタル」で7月31日午前5時より全文公開します
→ 今すぐ入会!

文「週刊文春」編集部

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