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2015年5月

2015.05.17

話題の人‣・・植村隆とは如何なる人物かを調べてみた。

以下は全てウイキペディアからの転載である。


植村 隆(うえむら たかし、1958年(昭和33年)4月 - )は、北星学園大学非常勤講師、元新聞記者、元朝日新聞社社員。1991年(平成3年)、いわゆる従軍慰安婦問題において虚偽の報道をした。当該報道は朝日新聞の吉田証言報道とともに慰安婦問題に関わる最初期の報道であったが、2014年に朝日新聞は、吉田証言報道は虚偽であったとして記事を取り消し、植村記事は挺身隊と慰安婦の混同があり誤用があったとして訂正した[1][2][3][4][5]。元慰安婦が親によって売られたことを訴状に書いていたにもかかわらず、そこに触れずに作成された記事であったため、意図的な捏造であったと指摘されている(#記事に対する批判参照)[6][7][8][9]。

慰安婦問題の取材のため訪韓をした際に、従軍慰安婦への日本からの補償に取り組む活動家で「太平洋戦争犠牲者遺族会」幹部の梁順任の娘と結婚している[10][11][1][12]。


経歴[編集]

1958年4月に高知県で生まれる。土佐高校、早稲田大学政経学部政治学科を卒業し、1982年に朝日新聞社入社。仙台支局、千葉支局に勤務し、1987年8月に韓国の延世大学に留学。1988年8月に東京本社外報部に戻り、1989年11月から2年5ヶ月間大阪本社社会部に勤務し民族問題や被差別部落の問題を担当。この期間に問題となった記事を書いた。その後、東京本社外報部に戻り、1993年8月にテヘランの特派員となりソウル、北京特派員を歴任。ソウル特派員時代に従軍慰安婦に関する記事を19本書いた。最後は北海道支社函館支局長を勤め、2014年3月早期退職した。延辺科学技術大研究員や早稲田大学現代韓国研究所客員研究員も勤めた。仙台支局時代に結婚したが離婚。現在の妻は1990年に韓国取材中に出会った当時太平洋戦争犠牲者遺族会幹部梁順任の娘であり、周囲の反対を押し切って1991年に結婚した [13][14][15]。妻女の母、梁順任(ヤンスニム、양순임)は同団体会長であり、日本から補償費金を受け取るとし訴訟参加人を募集、その訴訟費用を詐取した件で韓国国内で摘発・立件されていることで知られている[16][17]。(2014年2月、証拠不十分で無罪[18]。)

1991年(平成3年)8月11日、朝日新聞にて大阪社会部時代の植村は「思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」とのタイトルで、金学順が韓国挺身隊問題対策協議会に元慰安婦として初めて証言した録音テープを聞きその記事を書いた。金学順が日本政府を提訴後の12月25日には、本人を直接取材した記事を出した。これらは、聞き取りに関しては義母の梁順任から便宜を図ってもらったのではないか、記事に関しては金学順がキーセン学校に通っていたことが伏されていることから、故意に隠して強制連行されたように書いたのではないか、慰安婦と挺身隊を混同しているのではないか、と批判されている[1]。 これらの点は1992年から有識者により疑問が呈されていた[19][20]。特に慰安婦と勤労動員によって工場などで働いた女子挺身隊との混同が「戦場に連行」という強制連行を連想する表現とが後に問題化し「捏造ではないか」と疑問視されるに至った[21]。こうした中で朝日新聞は長らく記事訂正を行ってこなかったが、記事の掲載から23年後の2014年8月5日、記事の一部に誤用(挺身隊と慰安婦の混同)があったとする旨の検証記事を掲載した[1]。訂正の遅れについて、朝日新聞上にコラムを持っていた池上彰は同検証記事において「朝日新聞は93年以降、両者(慰安婦と女子挺身隊)を混同しないよう努めてきた」とも書いています。ということは、93年時点で混同に気づいていたということです。その時点で、どうして訂正を出さなかったのか。それについての検証もありません。」と述べ、訂正が遅きに失したこと、訂正するのであれば謝罪もするべきではないかと書いている[22]。なお、このコラムについて、朝日新聞は当初掲載を見送っていたが、社内での検討や池上との話し合いの結果、掲載するに至っている。池上は朝日新聞が当初の掲載見合わせという判断の誤りを認めたため掲載認めた[22]。 この訂正の遅れにより慰安婦問題は国際問題化していったとも指摘されており[20]、朝日新聞社第三者委員会も、挺身隊と慰安婦を混同する誤報(植村記事も混同と釈明[23])を吉田清治の捏造証言よりも国際社会に与えた影響が大きいと批判している[24][注釈 1]。

2008年(平成20年)11月、朝日新聞にて2007年(平成19年)4月から翌年3月まで連載された「新聞と戦争」取材班の一員として、第8回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞している[25][26]。

2014年(平成26年)3月、朝日新聞を早期退職。同年4月より神戸松蔭女子学院大学教授に就任予定[6]であったが、当大学は就任前に雇用契約を解消した[27]。

現在は北星学園大学で非常勤講師として国際交流科目の講義を担当し[28]、主に韓国からの留学生を対象に韓国語で講義を行っている[7]。

問題となった「従軍慰安婦」記事[編集]

内容[編集]

植村は署名入りで朝日新聞大阪社会部時代の1991年(平成3年)8月11日と12月25日に元慰安婦金学順の記事を書いたが、捏造が判明している吉田清治証言との直接的な関連はない[29]。しかし、「「女子挺身隊」の名で戦場に連行され」と書かれており、元慰安婦があたかも吉田清治が主張していた「女子挺身隊としての連行」の被害者であるかのように、虚偽の経歴を付け加えたともされている[20]。

読売新聞は、こうした読売新聞の一連の朝日新聞による慰安婦報道を評して、「日本軍に組織的に強制連行された慰安婦」という虚構は、1990年代後半以降に韓国だけでなく、国連、米国などにも拡散していき、国際問題化する過程では、朝日報道を韓国メディアが引用して取り上げることで、韓国世論で日本への批判が高まり、さらに朝日がそれを報じるということが繰り返される朝日と韓国のメディア、世論による一種の「共鳴」とも言える状況がみられたとしている[30]。

植村が1991年8月11日に執筆した記事は以下のとおりである。


元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く
日中戦争や第二次大戦の際、「女子挺(てい)身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、十六団体約三十万人)が聞き取り作業を始めた。同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は「思い出すと今でも身の毛がよだつ」と語っている。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた。

尹代表らによると、この女性は六十八歳で、ソウル市内に一人で住んでいる。(中略)女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、だまされて慰安婦にされた。ニ、三百人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。慰安所は民家を使っていた。五人の朝鮮人女性がおり、一人に一室が与えられた。女性は「春子」(仮名)と日本名を付けられた。一番年上の女性が日本語を話し、将校の相手をしていた。残りの四人が一般の兵士ニ、三百人を受け持ち、毎日三、四人の相手をさせられたという。「監禁されて、逃げ出したいという思いしかなかった。相手が来ないように思いつづけた」という。また週に一回は軍医の検診があった。数ヶ月働かされたが、逃げることができ、戦後になってソウルへ戻った。結婚したが夫や子供も亡くなり、現在は生活保護を受けながら、暮らしている

— 植村隆、朝日新聞大阪版27面 1991年8月11日

植村の記事中にある「女子挺身隊」は戦時法令により軍需工場などに徴用された一般女性労働者であり、慰安婦とは異なる。また、記事にある女性とは金学順であるが[31]その証言と、アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件における金学順の陳述には異なる点も多い[32]。

報道から23年後の2014年(平成26年)8月5日になって漸く朝日新聞は植村記者が資料を誤用し、間違った内容を記載したと訂正記事を掲載した[33]が、長きにわたり訂正記事が出ない間に、本記事および同じく朝日新聞に掲載された吉田清治の証言記事は、日本の教育分野のみならず、国際社会においても、いわゆる従軍慰安婦問題として、日韓関係や国連をも巻き込んだ外交問題に至るまで様々な方面に影響を与えるなど日本に対する誤った認識を広めた一因となり、結果として日本の国家イメージに多大なダメージをもたらしたと指摘されている[34][35][36]。

「金学順」、「吉田清治 (文筆家)」、「クマラスワミ報告」、「マクドゥーガル報告書」、および「アメリカ合衆国下院121号決議」も参照

また、本記事は、宮沢喜一首相の訪韓の直前に報じられ、批判が取りざたされる河野談話の発火点となったとも指摘されている[35]。

記事に対する批判と検証[編集]

批判[編集]
西岡力は「すべては朝日新聞の捏造から始まった」[9]、山際澄夫は『朝日新聞こそ「従軍慰安婦」捏造を謝罪せよ』との論説を掲載している[37]。これに対して、山口智美はジャパン・タイムズで西岡たちの植村に対する論説を中傷(vilification)と批判している[38]。
本郷美則(元朝日新聞研修所長)は、植村のこの金学順についての記事を、「その連中は、日本から賠償金取ってやろうという魂胆で始めたんだから」と、渡部昇一との対談で発言している[39]。
週刊文春とFLASHは、植村隆については「従軍慰安婦捏造 朝日新聞記者」や「自らの捏造記事」として、植村は捏造を行ったという記事を掲載している。これについて、朝日新聞側は「捏造はなかった」として抗議するとともに訂正を求めている[40]。
自民党の石破茂前幹事長(現・地方創生担当大臣)は、植村を参考人として、国会に証人喚問するよう主張している[41]。
八木秀次は、植村への脅迫は許されないが執筆の経緯は本人が説明すべきで、当事者の朝日が報じることに疑問を呈している。古谷経衡は、脅迫は許されないし「愛国」を謳った行動が保守派から批判がされないことは問題だとしているが、朝日の慰安婦報道が国際社会での日本の評価を下げたとしている[42]。

担当デスクの証言[編集]

植村記者の義母が慰安婦訴訟提訴後の、1991年12月25日に「かえらぬ青春 恨の半生 日本政府を提訴した元慰安婦・金学順さん」との記事を朝日新聞に掲載したことについて、この記事を紙面化した大阪本社の担当デスクはその経緯について「植村氏からの売り込み記事だった。彼は義母が遺族会幹部であることを言わなかったし、私も知らなかった」と述べており、知っていたらと尋ねると即座に「原稿は使わなかった」と答えたという[43]。

朝日新聞による2014年8月の検証記事[編集]

朝日新聞は、2014年8月の検証記事中において、(1)元慰安婦の裁判支援をした団体の幹部である義母から便宜を図ってもらった(2)元慰安婦がキーセン(妓生)学校に通っていたことを隠し、人身売買であるのに強制連行されたように書いたという二点の批判に対し、(1)については、「挺対協から元慰安婦の証言のことを聞いた、当時のソウル支局長からの連絡で韓国に向かった。義母からの情報提供はなかった」と植村が否定したことを根拠に便宜供与はなかったとし、(2)についても「証言テープ中で金さんがキーセン学校について語るのを聞いていない」「そのことは知らなかった。意図的に触れなかったわけではない」という植村本人の説明を元に「事実のねじ曲げは意図的に行われていなかった」「義母との縁戚関係を利用して得た情報には特別な情報はなかった。」と結論付けた[1]。

朝日新聞社の「第三者委員会」[編集]

朝日新聞は植村の記事を含む慰安婦記事などの記事作成や訂正の経緯、記事が日韓関係などに与えた影響を検証するために社外の歴史学者、ジャーナリストなどに依頼し第三者委員会を立ち上げ、検証を依頼した[44][45][注釈 2]。

ただし、朝日新聞「慰安婦報道」に対する独立検証委員会[注釈 3]は、第三者委員会にはそれまでに朝日の慰安婦報道を批判してきた側の専門家は入っておらず、ヒアリング対象にも選ばれなかったことについて本当の意味での「第三者」と言えるのだろうかとの疑問を提起している[20][46]。

朝日新聞社「第三者委員会」の検証結果[編集]

第三者委員会は検証の結果、1991年8月15日と12月25日の記事に関して、義母に便宜を図ってもらって情報を得たのではないかとの指摘があるがそのような事実は認められない。「だまされた」と記載してあるとはいえ「女子挺身隊」として「連行」との記述は、強制的に連行されたという印象を与える安易かつ不用意な記載で読者の誤解を招く。12月25日の記事では、すでに訴訟が始まっていた時期であり、訴状にあるキーセン学校に通っていた事実を書かなかったことで、読者に全容を正しく伝えられなかった可能性があるので、事実を伝え読者の判断に委ねるべきであった。一方、他紙の報道と比べて特に偏りがあるとはいえない。ただし、2014年の自社の検証は、意図的な事実のねじ曲げがあったとは認められないと判断しただけで終わるのではなく、読者に正確な事実を伝えるという観点でもっと踏み込んで検討をすべきであった、としている[47]。

産経新聞は、12月25日の記事について『この元慰安婦がキーセン学校に通っていた経歴を知りながら触れなかったことについても、第三者委は「書かなかったことにより、事案の全体像を正確に伝えなかった可能性はある」と批判していた』としている[48]。

第三者委員会報告書格付け委員会による検証[編集]

朝日新聞が慰安婦報道問題を検証するために設置した第三者委員会の報告について評価を行なうために弁護士、学者などのグループで作られた「第三者委員会報告書格付け委員会」は、五段階評価の「格付け」を公表、結果はメンバー8人のうち、不合格のFが5人、残り3人がそれより一つ上の評価であるDであった。メンバーからは「第三者委の独立性と専門性に疑念がある」との批判が相次いだ[49]。格付け委員会委員長の弁護士は「非常に評価が低い」「箸にも棒にもかからないと言わざるをえない」、「(慰安婦報道は)ずっと放置されていたという組織的な原因があったが、その部分についての調査がなされていない」と批判、「しっかりした第三者員会の報告書は公共財になる。メディアの信頼はどのように回復できるのかと期待したが、結果は残念なものだった」と述べている[49][50][51]。

朝日新聞「慰安婦報道」に対する独立検証委員会による検証[編集]

朝日第三者委員会の検証結果について、外部の有識者で作られた「朝日新聞『慰安婦報道』に対する独立検証委員会」は
1.朝日及び第三者委の検証の問題点
2.朝日報道の対外的影響

の二点について検証を行った。朝日第三者委が朝日報道に「強制性」について「議論のすり替え」があったと認めたことを、独立検証委は肯定的に評価し、一方で、朝日の慰安婦報道がおかしくなった背景への分析がなく、国際社会に与えた影響をについては委員会としての見解をまとめられず、各委員の異なる見方が併記されるなど、不十分なものといわざるを得なかったとし、また、その報告を受けた朝日新聞社の対応についても批判した。さらに、独立検証委は朝日新聞社に対し、「プロパガンダ」と「議論のすりかえ」がどの様なプロセスで作られていったのか明らかにしていないと批判した。[52][53][20]。

独立検証委員会は植村の記事について、「「女子挺身隊」の名で戦場に連行され…」と書かれており、元慰安婦があたかも吉田清治が主張していた「女子挺身隊としての連行」の被害者であるかのように、虚偽の経歴を付け加えたとしている。また、彼女が貧困の結果、母親にキーセンの置屋に売られ置屋の主人に慰安所まで連れて行かれたことを訴状や会見などで繰り返し話していたのに対し、訴状提出後の1991年12月25日付記事でその重要な事実を書かず、強制連行の被害者であるかのようなイメージを造成したとしている。また、植村が裁判を起こした団体の幹部の娘と結婚していた点をあげ、元慰安婦らが起こした裁判の利害関係者だったとし、植村が紙面を使って自分の義理の母が起こした裁判に有利になるような報道を行ったのではないかと疑問視している[20]。

また1992年に植村が外部からを批判を受けて、社内用報告書を書いた結果「内容に問題はない」という結論に至ったとされるが、第三者委員会はその内部調査についてまったく検証していないとし[20]、内部調査が行われたのは遺族会の身内であることが問題となった疑いがあるとしている[20]。

疑惑に対する植村本人の反応[編集]

植村は2015年1月の訴訟までの約1年、日本メディアの(慰安婦記事についての)取材を拒否し手記も公表していないが、米韓の新聞や外国特派員協会の会見などでは、批判の対象にされた1991年の朝鮮人慰安婦第1号に関する記事の不備は誤用や混同で、意図的な捏造ではないと釈明していた[54]。

2014年12月2日には、朝日新聞と提携関係のあるニューヨークタイムスの紙上では「記事を捏造した事実は断じてない。」「(安倍首相ら国家主義的な政治家たちが)脅迫的な手法で歴史を否定しようとしている」「(右派が)われわれをいじめて黙らせようとしている」などの主張を行っている[55]。

2014年1月発売の週刊文春では、「記者だったら、自分が書いた記事ぐらいきちんと説明してもらえませんか」という文春記者からの問いかけに対し植村はタクシーに走って乗りこみ、質問に答えることなく逃げたという[6]。同年9月発売の週刊新潮では、記者の直接の取材要請に対し、「取材はお断りします。朝日に出ている通りです。広報を通してください」と取材を拒否している[56]。

2015年1月9日、植村は有楽町の外国特派員協会で記者会見を開き、自身に向けられた捏造批判について反論を行った[57]。

植村は、文藝春秋2015年新年特大号、岩波書店『世界』2015年2月号、月刊『創』2015年緊急増刊に反論を載せている[58][59][60]。

2015年5月、植村はニューヨークにて安倍首相及び櫻井よしこを批判し、「私は闘い続ける」と述べている[61]。

植村擁護の見解[編集]

この一方、2015年1月宮台真司、神保哲生らは、慰安婦問題報道の責任を植村個人に向けること自体が本来事実誤認にもとづくものであるとしている[62]。

植村による訴訟[編集]

2015年1月10日、植村は自身が関わった記事を「捏造」と決めつけたとし週刊文春の発行元、文芸春秋社と西岡力東京基督教大学教授に対し1650万円の損害賠償などを求める訴えを東京地裁に起こし、司法記者クラブ 東京都内で記者会見した[63]。植村は、23年前に自分が書いた2本の記事が「捏造」と批判され続け、家族や周辺まで攻撃が及ぶとし「私の人権、家族の人権、勤務先の安全を守る」と訴えた[64]。

本訴訟に際し、植村側は170人に及ぶ大弁護団を結成した[65]。弁護団は「インターネット上で植村氏や家族を脅迫する書き込みをした人たちも捜し出し、一人残らず提訴していく」と発表したという[66]。

この訴訟に対し産経新聞は植村が朝日新聞や第三者委員会の判断や指摘をも受け入れておらず、自身や家族、大学に対する脅迫や中傷と、言論による批判を混同しているのではないかと疑念を表明[48]。言論に対しては言論にて反論するのが筋であり、自らに対する批判記事などが脅迫を招いたとする訴訟理由には首をひねると報道している[48]。また、被告側も「十分な根拠をもとに批判をした。言論には言論をもって対応すべき」、「脅迫を教唆するようなことは書いていない」と反論している[54]。

秦郁彦は植村による訴訟について、言論(記事批判)と原告に対する人権侵害(脅迫)との間の因果関係が疑わしいことや、弁護団による会見時の「その他の被告となり得る人々についても弁護団の弁護士が力を尽くし、順次訴えていく」という宣言や「(170人が)ネット上で脅迫的書き込みをした人たちを探し出し、1人残らず提訴していく」と発表したことを根拠としてあげ、批判者への威嚇効果を狙ったスラップ(恫喝・威圧)訴訟(裁判によって批判者に金銭、時間、精神的負担を強いて、批判を抑圧する)と判断される可能性について指摘するとともに170人にも及ぶ大弁護団がこのようなスラップや訴権の濫用が考慮される訴訟に乗り出したことについてその真意が不明と指摘[54]。3万5千人の弁護士が所属する日弁連の自浄能力に期待したいとしている[54]。

朝日新聞社への経営的打撃[編集]

2014年に植村の虚偽報道問題が露になり東京電力の吉田調書誤報問題と重なって朝日新聞の契約数は減少している。同年6月では740万部あった契約数が同年12月で約680万部まで減少している(日本ABC協会調べ)[67][68][69][70]。販売部数の減少等により、同社の同年9月中間連結決算では営業利益が50.5%減となった。同社広報部は慰安婦報道・原発報道の問題の影響につき「中間決算には限定的だったが、通期では一定程度の影響が出るものと考えられる」と説明している[71][72]。長年同社の販売部門を担当し新体制において会長職に就いた飯田真也は、新聞販売所や取引先から厳しい叱責を受けていると説明している[73]。

「朝日新聞#慰安婦「強制連行」報道」も参照

北星学園大学講師就任と脅迫事件[編集]

2012年(平成24年)から植村は北星学園大学で講師を勤めていたが[29]、同年5月と7月に大学宛に植村を辞めさせなければ天誅として学生に危害を加えるとの脅迫文が届いた[74]。 また、朝日新聞による同年8月の検証記事後に「なぜ捏造するような人物を採用するのか」という趣旨の抗議が大学に殺到した。同年9月30日、北星学園大学の田村信一学長は「従軍慰安婦問題ならびに植村氏の記事については、本学は判断する立場にない。また、本件に関する批判の矛先が本学に向かうことは著しく不合理である。」として、植村に2014年度後期の授業を継続させることや、来季以降の授業契約を検討することを公式声明として発表した[75]。同年10月6日には、植村との契約を継続するように同大に求め、植村を支援するための「負けるな北星!の会」が学者や弁護士、ジャーナリストらを中心に結成された[76]日本共産党の機関紙赤旗は呼びかけ人として内海愛子、桂敬一、田中宏一、海渡雄一を挙げている[77]。

同年10月31日、北星学園は警備強化の財政負担、抗議電話への教職員の負担、入試への影響を考慮し、また現在の契約期間が今年度末で終了することから、来期は植村との雇用契約を結ばない考えを明らかにした[78]とされるが、大学側は「最終的な決定ではない」としている[79]。

朝日新聞の11月4日の記事の中で田村信一学長が言うところでは、教職員からは賛否が様々であったいう。一方で学生からは「就職活動に悪影響が出る」「(雇用継続は)日本人としておかしい」等の雇用継続に否定的な意見が出ていたと言う。田村学長は、学生が「大学の自治を守る」という意見に同意しておらず、それはネット社会の発展に拠るものだと指摘したという。又、植村元記者を擁護する側からの批判については雇用契約の中途解除でない為、外部圧力による雇い止めではないとし、雇用継続は過大要求であると話したという[80]。

同年12月17日、北星学園は当初の方針を変更して植村の雇用継続を発表した。田村学長は変更の理由について、文部科学大臣の脅迫事件に対する批判や全国の弁護士からの刑事告発などがあったことを挙げている[81]。

脅迫事件[編集]

青木理のインタビューによると植村は、神戸女子松蔭女子学院大学の教員に内定し朝日新聞社を退職して教鞭を執る予定であったが、2014年1月末、週刊文春2014年2月6日号に植村について書かれた「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」との記事が出た後、大学に対して「なんでこんなヤツを採用するのか」「右翼が街宣車で行くぞ」といった内容の電話やメール(1週間で250本)があり、大学と話し合って雇用契約を解消したと述べている[14][82]。

植村が非常勤講師として勤務する北星学園大学では、2014年3月中頃から大学や大学教職員宛に、元朝日新聞記者の植村が書いた慰安婦記事は捏造なのでそのような人物を採用しないようにとの趣旨の電話、メール、FAX、手紙等が多数送られてきて、大学周辺で政治団体によるビラまきや街宣活動も行われた。さらに、5月と7月には脅迫状が届き、電話では「大学を爆破する」との内容の物もあり、これらに対して大学は被害届を出して警察に捜査を依頼し、電話で爆破予告をした犯人は逮捕起訴され、11月14日に札幌簡裁は罰金30万円の略式命令を出した [83] [84] [85] [86] [87]。

田村信一学長は10月31日に植村の雇用は継続しないと発表していたが[14]、 11月に全国の弁護士380人が脅迫状事件として札幌地検に刑事告発したこと、下村博文大臣が記者会見で、脅迫は許されない、負けないように対応を考えて欲しいと発言したことを受けて、雇用を継続することになった [88] [89] [90] [91] [92]。

2015年1月8日には学生に危害を加えることを示唆する脅迫状が届き捜査中であることを北海道警が発表した [93] [94] [95]。

翌日9日に植村は外国特派員協会で記者会見を開き、家族にまで脅迫が及んだと話し、「匿名性に隠れた卑劣な脅迫行為は、絶対に許すことができない」と発言している [96] [97] [98] [99] [100] [14]。

2月3日に新たな脅迫文が届いたことを大学が発表した [101] [102] [103]。

東京弁護士会は、北星学園大学や教員に対する脅迫行為を批難する声明と、植村の代理人を務める弁護士の事務所に大量のFAXを送る業務妨害が行われたことを批難する会長声明を出している [104] [105] [106]。

受賞[編集]
2002年度新聞協会賞 - 連載「テロリストの軌跡 モハメド・アタを追う」[注釈 4][107][13]
第8回(2008年度)石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞 公共奉仕部門大賞 - 連載「新聞と戦争」[注釈 5][108][13]

著書[編集]
『ソウルの風の中で』(1991年, 社会思想社)
『マンガ韓国現代史 コバウおじさんの50年』(作画:金星煥, 2003年, 角川書店)

注釈[編集]

1.^ 朝日新聞第三者委員会報告では委員会として見解がまとまらず、各論併記となっており、総論としては国際社会に与えた影響は限定的としている。
2.^ 委員長は元名古屋高裁長官で弁護士の中込秀樹、委員は外交評論家 岡本行夫、国際大学学長 北岡伸一、ジャーナリスト 田原総一朗、筑波大学名誉教授 波多野澄雄、東京大学大学院情報学環教授 林香里氏、ノンフィクション作家 保阪正康
3.^ 委員長 中西輝政(京都大学名誉教授)、副委員長 西岡力(東京基督教大学教授)、委員 荒木信子(韓国研究者)、島田洋一(福井県立大学教授)、高橋史朗(明星大学教授)、事務局長 勝岡寛次(明星大学戦後教育史研究センター)
4.^ 取材班デスクだった
5.^ 取材メンバーだった

脚注[編集]

1.^ a b c d e 「元慰安婦 初の証言」 記事に事実のねじ曲げない朝日新聞デジタル 2014年8月5日05時00分
2.^ 谷垣幹事長「真摯な反省を」 朝日新聞の慰安婦報道:朝日新聞 朝日新聞 2014-09-16
3.^ 従軍慰安婦問題、河野談話で曲解広まる (2013年5月14日 読売新聞) "記事中には「主として朝鮮人女性を挺身(ていしん)隊の名で強制連行した」などと、戦時勤労動員制度の「女子挺身隊」を“慰安婦狩り”と誤って報じた"
4.^ 「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断 朝日新聞 2014年8月5日
5.^ 産経ニュース 2014.5.23 08:32 (1/4ページ)「事実をねじ曲げて伝えた朝日新聞平成3年8月11日付朝刊(大阪版)の植村隆(今年3月退社、大学講師)の署名記事」
6.^ a b c “慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に週刊文春 2014年2月6日号 p.28
7.^ a b 慰安婦火付け役 朝日新聞記者はお嬢様女子大クビで北の大地へ 週刊文春WEB 2014年8月6日
8.^ 光文社 FLASH 2014年8月19日・26日合併号 p.90 「従軍慰安婦ねつ造」朝日新聞記者の“教授転身”がパー
9.^ a b WiLL, 2007年8月号増刊 pp.72-85 西岡力『すべては朝日新聞の捏造から始まった』
10.^ 「韓国団体、「河野談話」作成過程の聞き取り調査映像を公開」 News i - TBSの動画ニュースサイト 2014年9月15日 『この映像は1993年の7月に行われた元従軍慰安婦からの聞き取り調査の一部を収めたもので、 調査に協力した団体の「太平洋戦争犠牲者遺族会」』
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66.^ 車学峰「慰安婦:元朝日記者「脅迫には絶対に屈しない」」『朝鮮日報』2015.1.10
67.^ 「朝日新聞が無料で配られた」ネット報告続々 信用低下で部数減り、困ってやった? 2014-10-23 J-cast
68.^ 「朝日新聞」8月は部数減に歯止めだった「ABC調査」の奇怪――「朝日新聞」偽りの十字架(5) 週刊新潮 2014年10月2日号
69.^ 朝日新聞、新社長が謝罪「根底からつくりかえる」 2014-12-05 スポニチ
70.^ 読売新聞広告ガイド
71.^ 朝日新聞、営業益半減=慰安婦、吉田調書問題も影響-9月中間 2014-11-28 時事通信
72.^ 朝日新聞、営業益半減 吉田調書、慰安婦問題も影響 2014-11-29 zakzak by 夕刊フジ
73.^ 朝日新社長会見・詳報(4)「信頼回復、容易ではない」飯田真也新会長 2014-12-05 産経新聞
74.^ 毎日新聞 北星学園大:脅迫文2通 元朝日記者講師の辞職要求毎日新聞 2014年09月30日 19時20分(最終更新 09月30日 23時54分)[5]
75.^ 2014(平成 26)年 9 月 30 日 本学学生および保護者の皆さまへ [6]
76.^ 学者や弁護士ら、脅迫状届いた大学を支援する会 朝日新聞デジタル
77.^ [7] しんぶん赤旗 2014年10月7日[北星学園大学問題 教員ら「会」結成]
78.^ 脅迫受けた大学 元記者を雇用しない考え伝える
79.^ 本日、一部メディアで報道されたことについて 北星学園大学 2014/10/31
80.^ 北星学園大学長「学生安全確保、悩んだ」 朝日新聞デジタル 2014-11-04
81.^ 元朝日記者の雇用継続を正式発表…北星学園大 2014-12-17 読売新聞
82.^ 教員人事に関するお問い合わせについて - 神戸女子松蔭女子学院大学
83.^ 北星大学 - 2014年(平成26年)9月30日 本学学生および保護者の皆さまへ 北星学園大学 学長 田村信一
84.^ 北星大学 - 2014年(平成26年)10月24日 本学に対する脅迫電話の容疑者逮捕について 北星学園大学 学長 田村信一
85.^ 朝日新聞 - 北星学園大脅迫、男に罰金30万円の略式命令 札幌簡裁
86.^ 産経新聞 - 元朝日記者勤務の大学脅迫 男性に罰金30万円の略式命令
87.^ 時事通信 - 北星学園大脅迫の男に罰金=元朝日記者が勤務-札幌簡裁
88.^ 朝日新聞 - 下村文科相「負けない対応を」 脅迫巡り北星学園大に
89.^ 読売新聞 - 元朝日記者の雇用継続を正式発表…北星学園大
90.^ 朝日新聞 - 元朝日記者、雇用継続へ 北星学園大脅迫問題 学長「社会が支援」
91.^ 毎日新聞 - Listening:<記者の目>北星学園大・元朝日記者雇用継続=山下智恵(北海道報道部)
92.^ Record China - 北星学園大、慰安婦問題を広めた元朝日記者の雇用継続=韓国ネット「韓国の真の敵!」「一筋の光が見えた」
93.^ 47NEWS(共同通信) - 北星学園大にまた脅迫文 慰安婦問題元記者が講師
94.^ 朝日新聞 - 北星学園大にまた不審な文書 威力業務妨害容疑で捜査
95.^ 日経新聞 - 北星学園大にまた脅迫文 朝日元記者が講師
96.^ 弁護士ドットコム 「私は捏造記者ではない」慰安婦報道の植村隆・元朝日新聞記者の会見スピーチ(全文)
97.^ 朝鮮日報 - 慰安婦:元朝日記者「脅迫には絶対に屈しない」
98.^ 東スポ - 朝日関係者100人以上に殺害予告 某記者が「身の危険」
99.^ 朝鮮日報 - 慰安婦:朝日新聞への脅迫を助長する日本メディア
100.^ J-CAST - 娘の写真がさらされ、「自殺するまで追い込むしかない」 慰安婦報道の植村元朝日記者、ネットでの誹謗中傷明かす
101.^ 朝日新聞 - 北星学園大に新たな脅迫文 「受験生らに危害加える」
102.^ Christian Today - 入試狙い北星学園大学にまた脅迫状 田村学長「このような卑劣な行為許されない」
103.^ 北星大学 - 2015年(平成27年)2月3日 本学に届いた脅迫状と一般入学試験の実施について 北星学園大学 学長 田村信一
104.^ 朝日新聞 - 元朝日記者弁護団に大量のFAX 弁護士会が非難声明
105.^ 朝日新聞元記者の弁護団事務局長に対する業務妨害事件に関する会長声明
106.^ 北星学園大学及びその教員らに対する脅迫行為等に関する会長声明
107.^ 新聞協会賞受賞作 - 日本新聞協会
108.^ 石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞 これまでの授賞作 - 早稲田大学

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2015.05.16

日本をダメにした10人 1位鳩山由紀夫 2位に菅直人。小沢一郎、竹中平蔵も当選

ウエブサーフィンをしていて成程と思わせる記事を発見した。以下は全て現代ビジネスからの転載である。


決定! 日本をダメにした10人 1位鳩山由紀夫 2位に菅直人。小沢一郎、竹中平蔵も当選

2015年5月12日 6時0分
現代ビジネス

デフレ、円高、株安に震災、そして原発事故と、あまりにも試練が多すぎたここ最近の日本。いまだに垂れ込める厚い雲は、誰が吐き出したものなのか。ハッキリさせておこう。この国の未来のために。

■思いつきだけの男

せっかく景気が上向き始めたというのに、どこか気分が晴れないのはなぜだろう。株価がどれだけ上がっても、相変わらず日本社会に蔓延する「閉塞感」はいったい、どこから来るのか-。日々のニュースを眺めながら、なんとなくこう感じている人も多いはずだ。

本誌は今回、長きにわたって政界を見守ってきた識者たちに、「21世紀の日本をダメにした最大の『戦犯』は誰か」を聞いた。最も多くの識者が挙げたのは、3年と3ヵ月の間政権を担った、民主党政権の人々である。彼らは国民の期待を一身に受けながら、それを裏切り、粉々に打ち砕いた。政治評論家の田崎史郎氏がまず言う。

「そもそも、民主党に政権運営を担う実力があったのか、ということです。官僚を動かすことはおろか、党内をまとめることさえできなかった。現在の安倍政権のしたたかさと比較するならば、赤ちゃんと大人ほどの実力差があったといえます」

たった6年前、民主党は日本中の期待を一身に集めていた。政権交代以外に道はない-国民は心からそう信じ、'09年夏の総選挙に臨んだ。その結果が、308議席の圧勝と、支持率70%の鳩山由紀夫政権誕生だった。

しかし、いきなり雲行きが怪しくなる。「日本を変える」と喧伝した彼らの公約「マニフェスト」は、とうてい実現不可能なシロモノだったのだ。東京新聞論説副主幹の長谷川幸洋氏が振り返る。

「特に問題だったのは、沖縄の基地問題への対応でしょう。『最低でも県外』という言葉はあまりに有名ですが、当時、鳩山氏の発言に民主党議員からほとんど異論が出なかった。つまり鳩山氏だけでなく、民主党の公約だった。しかし、その政策が正しいのか、どうやったら実現できるのかについて議論する雰囲気さえ党内になかったのです」

政治評論家の浅川博忠氏も、こう述懐した。

「'09年当時、官邸で鳩山総理に会った時、私は『今からでも発言を撤回して謝ったほうがいい』と言いました。しかし鳩山さんは自信に満ちた表情で『そんなことはない』と答えた。『何か案があるんですか』と聞いたら、『徳之島だ』と言うんです」

当時、民主党は鹿児島県の徳之島に飛行場を移そうと考えていたが、地元の強い反対で後に断念したという経緯がある。

「私はすでに徳之島の首長が軒並み移設に反対しているという情報を掴んでいたので、鳩山さんにその旨を伝えました。でも彼は『それは違う。大丈夫だ』と言い張る。

つまり彼は、側近が上げてきた『絶対に大丈夫』という報告を信じ込み、正しい情報を全く把握していなかった。結局その数ヵ月後、発言を撤回することになるわけです」

思いつきで夢のような政策をぶち上げるが、実現のためにどう動けばいいのか分からず、現場を仕切る人材もいない。ずぶの素人が官邸の主になったも同然だった。

対案も根回しもなく「県外移設」を断言する鳩山氏に、アメリカ政府は激怒。さらに日米関係の亀裂を突くように、中国は尖閣諸島周辺の海へ船舶を次々侵入させた。裏切った期待の大きさ、そして日本の国益に与えたダメージという点で、鳩山氏は群を抜いている。

■オモチャみたいに軽い男

民主党にはムリかもしれない-鳩山政権の体たらくに、少なからぬ国民がそう気づいたが、簡単に後戻りも効かない。後を受けた菅直人総理も、悪い意味で歴史に名を残す総理となってしまった。

菅氏が東日本大震災発生翌日の'11年3月12日、ヘリで福島第一原発に降り立ち、事故現場をさらに混乱させたことは知られている。なぜ彼はこの無謀な「現地視察」に踏み切ったのか。政治アナリストの伊藤惇夫氏は「そもそも、総理としての器に問題があった」と分析する。

「私は、総理大臣には『なったら総理』と『なりたい総理』がいると考えています。つまり『総理になったら何をするか』と考えて総理になる人と、『ただ総理になりたい』というだけの人。菅さんは後者の典型で、初当選の頃から『総理になるにはどうしたらいいんだ』と人に聞いて回っていた。覚悟も理念も哲学もないから、あんなパフォーマンスに出たのでしょう」

ある意味で、東日本大震災は民主党政権にとってチャンスにもなり得たはずだった。例えば「原発を即ゼロにし、再生可能エネルギーを国の主要電源に据える」といった、自民党には実現できない大胆な改革を打ち出すこともできたのだ。しかし、菅氏も結局何もできなかった。鳩山氏と同じく、彼はビジョンも実行力も備えていなかった。前出の浅川氏がこう語る。

「本来、政権与党は役人をいかにうまく扱えるかが問われます。しかし、菅さんは彼らに無視され、踊らされただけだった。『事業仕分け』も財務官僚はせせら笑っていましたよ。『民主党には木の枝の先っぽしか見えていない。それで蓮舫(参議院議員)なんかは喜んでいる。オモチャみたいに軽い政権だ』と」

国民の期待を裏切り続け、地に落ちた民主党政権の評価。それでも国民は、実務家風の野田佳彦総理に「三度目の正直」とチャンスを与えた。

だが野田氏は、またもや国民を裏切った。それだけではない。衰弱した日本に追い討ちをかけたのだ。ジャーナリストの須田慎一郎氏が言う。

「野田政権は『消費税増税さえ決めなければ』ということに尽きます。彼が消費税増税のレールを敷かなかったら、もっと早く日本は景気回復の軌道に乗れたはずでした。

『年金・医療・介護の財源をまかなうため』という理屈は分かる。しかし、本当に日本の財政がそれほど危険だったのかどうかという点は、今も疑問が残ります。増税するにしても、景気回復を待ってからで間に合ったはずです。結局、自分が親しかった当時の勝栄二郎財務事務次官以下、財務省の言い分を鵜呑みにしただけなのではないか」

先の2人の総理は、あまりに政権運営能力がなかったために、役人たちにうまく「操られる」ことさえできなかった。だが野田氏には、中途半端に実務能力があった。結果として、彼は霞が関の忠実な僕となった。

■何もかもぶっ壊し過ぎた男

鳩山、菅、そして野田。たった3人の総理、期間にしてわずか3年3ヵ月。あれよあれよという間に、日本は後戻りのできない窮地に追い詰められた。なぜ私たちは、「民主党にやらせてみよう」と一瞬でも思ったのか-政権交代劇で暗躍したあの「黒幕」について指摘するのは、京都大学名誉教授の中西輝政氏である。

「'09年当時、政権奪取前夜の民主党内で、最大の実力者は小沢一郎氏でした。鳩山氏と菅氏は、しょせん小沢氏に使われていたにすぎません。そして民主党政権誕生をめぐる政局で、小沢氏は勝利しましたが、日本は完全に道を誤ってしまった」

自民党にいた頃から、小沢氏の行動パターンは変わらない。「見栄えがよくて軽いみこしを担ぎ、自分は裏で好き勝手に振る舞う」-民主党政権とは結局、小沢氏が権力奪取を目論んでプロデュースし、生み出した政権だったというわけだ。中西氏が続ける。

「政権交代直前、小沢氏は自公政権を揺さぶるため、国政を機能不全に陥らせたのです。'07年に自民党との『大連立』が失敗すると、翌年に日銀総裁人事に異を唱え、あえて自民党との対決を演出し、自身の求心力を高めようとした」

この時の日銀総裁人事で、小沢民主党が推した人物こそ、白川方明前日銀総裁だった。

おそらく小沢氏は、単に「自民党案に反対できれば誰でもいい」と考えて白川氏を担ぎ出したのだろう。だが、この選択が期せずして、日本経済に深刻なダメージを与えることとなる。前出の長谷川氏が言う。

「白川さんは『金融政策はデフレ脱却には効果がない』と考えていましたが、そもそも『金融政策に物価をコントロールする力がない』と考える人が金融政策を担当して、上手くいくはずがない。

金融緩和に実効性があることは、黒田東彦総裁に交替した途端、株価が上昇へ転じたことが証明しています。白川さんはその逆をやり続け、庶民を円高とデフレで苦しめた。もし彼が日銀総裁にならなければ、日本はあと5年早くデフレから脱却できていたと思います」

民主党が下野したとき、多くの国民はこう思った。「初心者」に政権を委ねたのは間違いだった。もう野党には期待できない-。ジャーナリストの鈴木哲夫氏が指摘する。

「民主党最大の罪は、国民を失望させ、結果的に現在の自民党一強体制を作り出す手助けをしてしまったことだと思います。

民主党政権は大事なときに党内をまとめきれず、自民党がマネできないような抜本的改革も、言うだけで実現しなかった。今、安倍総理の政策に各論では反対の人が多いにもかかわらず、安倍政権が高支持率を保っているのは、国民が野党ひいては政治そのものに幻滅しているからでしょう」

経済学者で明治大学准教授の飯田泰之氏も、鈴木氏と近い見解を寄せた。

「民主党政権は、国民の期待に応えるどころか、むしろデフレと増税という日本停滞の大きな要因を作ってしまいました。経済政策があまりにまずかったため、『リベラル勢力は経済に弱い』というイメージを国民に植え付けてしまったのです」

民主党政権に徹底的に裏切られた記憶が、今なお日本人最大の「トラウマ」になっているのだ。

さらに、野党の体たらくについて、少し違った角度から語ったのが評論家の呉智英氏である。

「私は、元社民党党首の福島瑞穂氏も間接的に『日本をダメにした』と考えています。彼女は理想論を学級委員のように唱えるだけで、自分の信念にもとづく政策を決して語ろうとしない。空論を振りかざすだけの姿に、有権者は『この人たちに政権を預けても、当事者能力はない』と幻滅している。そのせいで、『野党が何を言ってもムダだ』という世論まで生まれてしまったのです」

「与党に反対することが自分の仕事」と決めてかかり、無責任な立場に安住するさまは、現在の民主党も同じ。こうしている間にも有権者は「日本にマトモな野党はない」と不信を募らせているのに、彼らはそれを自覚すらしていないのだ。このままでは、再び政権を任せてもらえる日は決してやって来ないだろう。

では、一方の自民党には何の非もないのかというと、まったくそんなことはない。もとを辿れば、国民が素人集団と分かっていながら民主党に縋らざるを得なくなったのは、自民党政権で日本がガタガタになったからだ。

東京大学医科学研究所の上昌広特任教授は、医師の視点からこう語った。

「自民党政権で道を誤った政治家というと、森喜朗・小泉純一郎の両元総理が浮かびます。森政権の前後、内需拡大のために道路工事など公共事業に毎年10兆円近いカネが使われました。その借金が、いまだに国民にのしかかっている。あのとき医療や社会保障に投資していたら、ここまで日本の医療はダメにならず、地方の経済が土建依存体質になることもなかった。

さらに小泉政権は、改革の名の下に科学行政を役所へ丸投げしたので、官僚が好き勝手をするようになり、組織も人材も育たなくなってしまった。いわゆる『STAP騒動』も、過熱する予算獲得競争の果てに起きた事件という側面があります」

「改革を断行する」「自民党をぶっ壊す」と叫び、国民を熱狂させた小泉氏。だが、今振り返れば、あの頃を境に日本は完全に変わってしまった。

物事は単純であればあるほどいい。小難しい理屈は鬱陶しい。仕事がないのも、貧乏なのも、モテないのも自己責任。格差はあって当たり前-小泉氏が繰り返した「ワンフレーズ」が、日本人の新たな「価値観」になってしまったのだ。評論家の佐高信氏が指摘する。

「私は小泉氏が重用した竹中平蔵氏の存在も大きいと思います。竹中氏は『慶應義塾大学教授』と紹介されることが多いですが、一方では人材派遣会社パソナの会長を務め、かなりの収入を得ているはずです。それなのに、大学教授の肩書で中立を装って政府の審議会に参加し、労働者派遣法の改悪に手を貸して、あげく『正社員は必要ない』とまで主張して憚らない。さすがにおかしいでしょう」

■メディアを堕落させた男

そして、竹中氏と同時期に小泉氏に引き立てられた人物がもう一人いる。安倍晋三現総理である。

「小泉元総理は、自民党のいい部分までぶっ壊してしまった。党内で異論を唱える人には選挙で『刺客』を送り込んで切り捨て、結果として自民党は人材の厚みを失った。これが現在の、総理に誰一人異論をさしはさめない『安倍一強体制』の土壌を生みだしたのです」(前出・伊藤氏)

確かに今、安倍総理に対抗しうる人物は、自民党の内外を問わず見当たらない。ポスト安倍政権は「院政が始まる」とまで囁かれるありさまだ。この状況に、前出の佐高氏は懸念を強めている。

「政治家の最も大切な役目は『国民を飢えさせないこと』そして『戦争をしないこと』ですが、安倍総理は両方破ろうとしています。TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)で日本の食を脅かし、周知の通り安保法制も変えようとしている。反対意見は封じ込め、受け入れない。とても自民党本流の政治家とは思えません」

かつて自民党には、タカ派からハト派までさまざまな人材がひしめき、決して「安倍独裁」のような状況は生じなかった。なぜ、清濁併せ呑む「古き良き自民党」は消えてしまったのだろうか。

ひとつの大きな原因は、本来は政権の監視機関たるマスコミが、いまや完全に政権と同じ側に立ち、反対する者を袋叩きにして恥じないことである。

「読売新聞の渡邉恒雄主筆は、言論を殺したと言っていい。『言論には言論で応じる』というメディアの原則を破り、批判記事に裁判で応じるなんて、自分の意見に自信がないことの証拠です。

最近はマスコミ各社の幹部が安倍総理と頻繁に会っていますが、こうした権力との癒着も彼以前にはありませんでした。メディアの権力監視機能を壊した責任は、極めて重い」(前出・佐高氏)

二度と過ちを犯さないためには、われわれ国民が時代を読む目を、人を見る目を養うしかない。

「週刊現代」2015年5月9日・16日合併号より


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2015.05.10

【安保改定の真実(1)】・・我が青春の愚行を懐かしむ

昭和35年6月15日の未明に宇治市の縣神社周辺で夜を明かした。肌寒い朝であった。当時京都大学の三回生であった。安保改定反対デモに参加して迎えた朝、安保は改定された。今にして思えば青春の愚行であった。その愚行を想起させる記事を見つけたので記録として留めておこう。以下は全て産経新聞からの転写である。


【安保改定の真実(1)】
ホテル地下の極秘核シェルター アイクが恐れた米ソ核戦争 「共産主義者はサーベルを鳴らし続けた…」


米東部アパラチア山脈の山中にたたずむホテル「グリーンブライヤー」。地下にあった核シェルターは30年以上、存在が隠された=米ウェストバージニア州ホワイト・サルファー・スプリングス
米国の首都ワシントンから西南西に車で4時間あまり。アパラチア山脈の森を分け入ると唐突に視界が開け、ホワイトハウスを彷彿させる白亜の建造物が現れる。ウェストバージニア州ホワイト・サルファー・スプリングスの「グリーンブライヤー」。歴代大統領が避暑地として利用したことで名高い高級ホテルだが、この地下に連邦議会の巨大な核シェルターが存在することは、1992年5月にワシントン・ポスト紙がスクープするまで国家のトップシークレットだった。
バンカー(掩蔽壕)と呼ばれるこの核シェルターは、厚さ1・5メートルのコンクリートで覆われ、地下3階建て。ホテル内壁などに偽装された4カ所の鋼鉄製扉から出入りでき、居住スペースのほか、会議室や食堂、研究室、診療所、放送スタジオまで完備されている。発電機3基と約30万リットルの水タンクを備え、議員スタッフを含む1100人が2カ月以上暮らすことが可能だという。
施設の維持・管理を担う数人の政府要員は「テレビ修理工」を名乗った。78年からピアニストとしてホテルで働き、現在は広報担当のジェシカ・ライト(63)は、事務所の古ぼけたブラウン管テレビ2台を指さしながらこう語った。
「ホテルで働く人たちも本当に修理工だと信じ込んでいたんです。このようにテレビもたくさんありましたし…」

米東部アパラチア山脈の山中にたたずむホテル「グリーンブライヤー」。地下にあった核シェルターは30年以上、存在が隠された=米ウェストバージニア州ホワイト・サルファー・スプリングス
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この核シェルター建設を提案したのは、第34代大統領、ドワイト・アイゼンハワー(アイク)だった。第二次世界大戦時に欧州戦線の連合国軍最高司令官としてノルマンディ上陸作戦を成功させた英雄であり、徹底した反共主義者でもあった。
56年3月、上院院内総務のリンドン・ジョンソン(後の第36代大統領)ら議会指導者はアイクの提案に同意し、ホテル経営会社と「米議会にとって死活的に重要な事項」に関わる秘密契約を結んだ。計画は「グリーク・アイランド(ギリシャ島)」というコードネームで呼ばれ、59年に着工、61年に完成した。
アイクが核シェルター建設を急いだのは、米ソ核戦争の危機が迫っていると判断したからだった。
ソ連の最高指導者であるニキータ・フルシチョフは56年2月、第20回ソ連共産党大会で、53年に死去するまで独裁制を敷いたヨシフ・スターリンを批判し、米国との平和共存路線を打ち出した。国際世論はこれを「雪解け」と歓迎したが、アイクは決して信じなかった。回顧録ではフルシチョフをこう酷評している。
「彼は世界革命と共産主義支配というマルクス主義理論への忠誠により盲目となっていた。彼にとって世界の諸国民の将来の幸福などは全くどうでもよく、共産主義思想実現のため彼らを組織的に利用することだけを考えているのだ」


米東部アパラチア山脈の山中にたたずむホテル「グリーンブライヤー」。地下にあった核シェルターは30年以上、存在が隠された=米ウェストバージニア州ホワイト・サルファー・スプリングス
50年代後半から60年代にかけて米ソ核戦争は切迫した脅威だった。国務長官のジョン・ダレスは54年1月、ソ連が欧州に侵攻すれば、圧倒的な核戦力で報復する「大量報復戦略」を宣言したが、ソ連が米本土を核攻撃する能力を持てば、この戦略は「絵に描いたモチ」となりかねない。
「(連合国軍総司令官の)ダグラス・マッカーサーは朝鮮戦争で核兵器の使用を検討しました。アイクも同様に地域紛争が米ソ戦争に拡大しかねないと考えたのでしょう。そんな事態となっても議会という制度、そして憲法の枠組みを残さねばならないのです」
グリーンブライヤー専属の歴史家(博士)のロバート・コンテ(68)はこう解説した。
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57年に入ると、アイクを震撼させるニュースが次々に飛び込んできた。
8月26日、ソ連は大陸間弾道ミサイル(ICBM)実験成功を発表した。10月4日には人類初の人工衛星「スプートニク1号」、11月3日に「同2号」の打ち上げを成功させた。これはワシントンを含む米全土がソ連のICBMの射程圏に入ったことを意味する。これで戦略爆撃機を大量保有することにより優位性を保っていた米国の核戦略は覆った。アイクは回顧録に怒りをぶつけた。


「スプートニクは米国民の心理的な弱さを露呈させた。共産主義者たちは騒乱を扇動し、サーベルを鳴らし続けた…」
フォード財団のローワン・ゲイサー率いる諮問機関「安全保障資源パネル」は11月7日、「核時代における抑止と生き残り」と題した報告書をまとめた。
59年末までにソ連が核弾頭を搭載したICBM100発を米国に向け発射可能になると推計するショッキングな内容だった。米兵力の脆弱さを指摘し、大量報復戦略の有効性にも疑問を投げかけ、「われわれの市民は無防備状態に置かれる」として大規模核シェルター建設などを提言した。
ゲイサーから報告書を受け取ったアイクは動揺を抑えるように「われわれはパニックに陥ってはならないし、自己満足をしてもいけない。極端な手段は避けるのだ」と語り、報告書を極秘扱いにするよう命じた。ダレスも、とりわけ核シェルター建造に関する部分を問題視し「公表すれば欧州の友人(同盟国)を見限ることになる」と述べた。
11月7日夕、アイクはホワイトハウスの執務室からテレビとラジオで国民向けに演説し「核兵器の分野では質も量もソ連に大いに先んじている」と強調した。それでも「衛星打ち上げに必要な強力な推進装置により証明されたソ連の先進技術や軍事技術の能力には軍事的重要性がある」と認めざるを得なかった。(


【安保改定の真実(2)】
動き出した岸信介 「経済など官僚にもできる。首相ならば…」 ダレスに受けた屈辱バネに
スプートニク・ショック後、第34代大統領、ドワイト・アイゼンハワー(アイク)は戦略転換を迫られた。アイクはもともと、米軍の通常兵力を削減し、余った予算をICBMやSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)など戦略兵器の開発・増強に回す「ニュールック戦略」を進めていたが、この動きをさらに加速。63年までにICBMを80基に増やす計画も130基に上方修正した。
そしてアイクは同盟国との関係強化にも躍起になった。
わけても日本の戦略的重要性は抜きんでていた。日本海を隔ててソ連、中国、北朝鮮など東側陣営と対峙(たいじ)しているからだ。
駐日米大使のジョン・アリソンは、ダレスに「日本は独ルール地方と並ぶ工業地帯であり、もし共産主義勢力に乗っ取られれば、われわれは絶望的な状況に陥る」と報告していた。
にもかかわらず、日本には、冷戦下の切迫した国際情勢を理解する者はほとんどいなかった。政界は数合わせの政局に明け暮れ、メディアも安全保障や軍事には無知だった。大統領特別顧問のフランク・ナッシュはこう例えている。


人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げを前に最後の仕上げをする旧ソ連の技術者(NASA提供)
「日本は不思議の国のアリスの夢の世界のような精神構造に置かれている」
ただ、昭和32(1957)年2月に第56代首相に就任した岸信介は違った。
岸は戦前に革新官僚として統制経済を牽引(けんいん)し、東條英機内閣で商工相を務めたことから、戦後はA級戦犯として巣鴨拘置所に収監され、不起訴となった経歴を持つ。国際情勢を見誤れば、国の行く末が危ぶまれることは骨身に染みていたのだろう。
それでも岸が就任直後に掲げた公約は、汚職・貧乏・暴力という「三悪」の追放だった。安全保障に関しては「対米関係の強化」「日米関係の合理化」という言葉しか使っていない。
その裏で、岸は就任当初から旧日米安全保障条約改定に狙いを定めていた。
昭和26(1951)年9月のサンフランシスコ講和条約と同時に締結した旧安保条約は、在日米軍に日本の防衛義務がないばかりか、条約期限も事前協議制度もなかった。しかも日本国内の内乱に米軍が出動できる条項まであった。岸はかねて「これでは米軍が日本全土を占領しているような状態だ」と憂慮していた。
女婿で毎日新聞記者から秘書官となった安倍晋太郎(後の外相、現首相・安倍晋三の父)が「得意の経済で勝負した方がよいのではないですか」と進言すると、岸は鼻で笑った。


「首相とはそういうものじゃない。経済は官僚がやってもできる。何か問題が生じたら正してやればよいのだ。首相であるからには外交や治安にこそ力を入れねばならんのだ」
にもかかわらず、安保条約改定を掲げなかったのは対米交渉の難しさを実感する苦い経験があったからだ。
昭和30(1955)年8月、岸は民主党幹事長として外相の重光葵の訪米に同行した。国務長官のジョン・ダレスとの会談で、重光は唐突に「日本は現行条約下で増大する共産主義の宣伝工作に立ち向かわなければならない。共産主義と戦うための武器がほしい。これを条約改定で得たい」と安保改定を求めた。だが、ダレスはけんもほろろに言い放った。
「偉そうなことを言うが、日本にそんな力はあるのか? グアムが攻撃されたとき、日本は米国を助けに来られるのか?」
屈辱ではあったが、やりとりを聞きながら岸は「ダレスが言うのももっともだが、やはり日米安保条約は対等なものに改めなければならない」と感じ入った。
以後、岸は安保条約改定を最大の政治課題と位置づけ、首相就任直後から着々と布石を打っていくが、日米両政府が公式に改定交渉で合意したのは昭和33(1958)年9月11日。その秘密主義は徹底していた。

【安保改定の真実(3)】
岸とアイクが示した日米新時代 「ゴルフは好きな相手としかできないものだ」
昭和32(1957)年6月19日朝、米ワシントンに到着した第56代首相、岸信介がその足でホワイトハウスに向かうと、第34代大統領のドワイト・アイゼンハワー(アイク)が笑顔で出迎えた。
アイク「午後は予定がありますか?」
岸「別にありませんが…」
アイク「そうか。それではゴルフをしよう!」
サプライズはこれだけではなかった。ホワイトハウスでの昼食会では、国務長官のジョン・ダレスが「国連経済社会委員会の理事国に立候補する気はないか?」と持ちかけ、応諾すると「米国は全力を挙げ応援する」と約束してくれた。
昼食後、岸とアイクらはワシントン郊外の「バーニング・ツリー・カントリークラブ」に向かった。岸の体格にぴったりあったベン・ホーガン製のゴルフセットも用意されていた。
アイクは官房副長官の松本滝蔵と組み、岸は上院議員のプレスコット・ブッシュ(第41代大統領のジョージ・H・W・ブッシュの父、第43代大統領のジョージ・W・ブッシュの祖父)と組んだ。スコアはアイク74、松本98、岸99、ブッシュ72だった。

1ラウンド終えてロッカー室に行くと、アイクは「ここは女人禁制だ。このままシャワーを浴びようじゃないか」と誘い、岸と2人で素っ裸でシャワー室に向かい、汗を流した。
ロビーに戻ると新聞記者に囲まれ、プレーの感想を聞かれた。アイクは笑顔でこう応じた。
「大統領や首相になると嫌なやつとも笑いながらテーブルを囲まなければならないが、ゴルフだけは好きな相手とでなければできないものだ」
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まさに破格の歓待だった。アイクには、先の大戦を敵国として戦い、占領・被占領の立場をへて強力な同盟国となったことを内外にアピールする狙いがあったが、それ以上に「反共の同志」である岸に友情を示したかったようだ。
外相を兼務していた岸は21日までの3日間でアイクやダレスらと計9回の会談をこなした。アイクも交えた最後の会談で、岸はダレスにこう切り出した。
「これで日米は対等な立場となったが、1つだけ非常に対等でないものがある。日米安全保障条約だ」


ダレスは、昭和26(1951)年9月にサンフランシスコ講和条約と同時締結した旧安保条約を国務省顧問として手がけただけに条約改定に否定的だった。昭和30(1955)年に外相の重光葵が条約改定を求めた際は「日本にそんな力はあるのか」と一蹴している。だが、今回は苦笑いをしながらこう応じた。
「これは一本取られた。確かに安保条約改定に取り組まねばならないが、政治家だけで話し合って決めるわけにはいかない。日米の委員会を設け、今の条約を変えずに日本の要望を入れられるか、改正しなければならないかを検討しよう」
会談後の共同声明は、岸が唱える「日米新時代」が骨格となり「日米両国は確固たる基礎に立脚し、その関係は今後長期にわたり、自由世界を強化する上で重大な要素をなす」とうたった。安保条約に関しても「生じる問題を検討するための政府間の委員会を設置することで意見が一致した」と盛り込まれたが、会談で条約改定まで議論が及んだことは伏せられた。
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岸-アイク会談がこれほど成功したのはなぜか。
岸が、アイクのニュールック戦略に応えるべく、訪米直前の6月14日に第一次防衛力整備三カ年計画を決め、“手土産”にしたこともあるが、それ以上の立役者がいた。

岸内閣が発足した昭和32年2月25日、駐日米大使に就任したダグラス・マッカーサー2世だった。
連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官だったダグラス・マッカーサーの甥だが、軍人ではなく外交官の道を選び、北大西洋条約機構(NATO)軍最高司令官だったアイクの外交顧問を務めた。欧州での外交歴が長く知日派ではないが、前任のジョン・アリソンと違い、ホワイトハウスに太いパイプを持っていた。
だが、就任直前の1月30日に予期せぬ大事件が起きた。群馬県の米軍相馬ケ原演習場で米兵が空薬莢を集めていた主婦を射殺した「ジラード事件」だ。マッカーサーは就任前から対応に追われることになったが、おかげで岸と親交が深まった。叔父と違って物腰が柔らかく理知に富むマッカーサーは「反共」という共通点もあり、岸とウマがあったようだ。
4月13日、岸はマッカーサーと秘密裏に会い、2通の文書を渡した。
1つは沖縄と小笠原諸島の10年以内の返還を求める文書。もう1つは安保条約改定を求める文書だった。マッカーサーは即座にダレス宛てに公電を打った。
「日本との関係はターニングポイントを迎えた。可及的速やかに他の同盟国並みに対等なパートナーにならなければならない」

岸首相と会見するダグラス・マッカーサー2世駐日米大使=昭和32年3月、首相官邸
マッカーサーは、ジラード事件を通じて、日本でソ連が反米闘争を後押しし「国連加盟により米国と離れても国際社会で孤立することはない」として日本の「中立化」を促す工作を行っていることを知った。公電にも、中立化工作に危機感をにじませている。
ダレスは難色を示したが、マッカーサーは5月25日付で書簡を送り、「岸は反共主義者であり、米国の核抑止力の重要性にも理解を示している。岸とは仕事ができる」と再考を促した。
アイクの特命で米軍の海外基地に関する検証を続けていた大統領特別顧問のフランク・ナッシュも6月5日、ダレスに「岸に対する賭けは『最良の賭け』であるばかりか、『唯一の賭け』なのだ」と進言した。
ダレスの心境も次第に変わっていった。岸の訪米を目前に控えた6月12日、ダレスはアイク宛てのメモでこう進言した。
「岸は戦後日本で最強の政府指導者になる。注意深い研究と準備が必要だが、現在の安保条約に替わり得る相互安保協定に向けて動くことを岸に提案する時が来た」
協定という表現ではあるが、安保条約改定に向けての大きな一歩となった。
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岸は、饒舌で気さくな人柄で知られる一方、徹底した秘密主義者でもあった。首相退陣後は取材にもよく応じ、多数の証言録や回顧録が残るが、マッカーサーとの秘密会談などにはほとんど触れていない。

政府内でも岸はほとんど真意を明かさなかった。外務省北米2課長として岸-アイク会談に同席した東郷文彦(後の駐米大使)さえも回顧録に「首相自身も恐らく条約改定の具体的な姿まで描いていたわけではなかったのではないか」と記している。
だが、岸はマッカーサーと秘密裏に会合を重ねていた。昭和32年末には、岸が「安保条約を再交渉する時がきた」と切り出し、その後は具体的な改定案まで検討していた。マッカーサーは昭和33(1958)年2月18日に条約改定草案を国務省に送付している。
ところが、色よい返事はない。業を煮やしたマッカーサーは草案を携えてワシントンに乗り込んだ。
「ダグ、私が交渉した条約に何か問題でもあるのかね?」
ダレスは開口一番、冷や水を浴びせたが、もはや改定する方向で腹を固めていた。アイクはこう命じた。
「議会指導者たちに会い、彼らがゴーサインを出したら交渉は君の責任でやってくれ」
日本に戻ったマッカーサーはすぐに岸と面会した。吉報にさぞかし喜ぶかと思いきや、岸は浮かない表情でぼやいた。「吉田茂(第45、48~51代首相)が改定に乗り気じゃないんだ…」
マッカーサーはすぐに米陸軍のヘリコプターで神奈川県大磯町の吉田邸に飛んだ。門まで出迎えた吉田は開口一番こう言った。

「私が交渉した条約に何か問題でもあるのかね?」
マッカーサーは「ダレスからも全く同じことを言われましたよ」と返答すると2人で大笑いになった。吉田も条約改定の必要性は十分理解していたのだ。
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この間、外務省はずっと蚊帳の外に置かれていた。
外務省が「話し合いの切り出し方」をまとめたのは昭和33年5月になってからだ。しかも条約改定ではなく政府間の交換公文で処理する方針だった。
昭和32年7月の内閣改造で外相に就任した藤山愛一郎にも岸は秘密を貫いた。
藤山は、昭和33年5月の衆院選後に東京・渋谷の岸邸を訪ね「安保改定をやろうじゃありませんか」と持ちかけたところ、岸は「やろうじゃないか」と応諾したと回顧録に記している。岸とマッカーサーがすでに具体的な改定案まで検討していることを全く知らなかったのだ。
岸が安保条約改定を政府内で明言したのは、昭和33年8月25日に東京・白金の外相公邸で開かれた岸-藤山-マッカーサーの公式会談だった。マッカーサーが、旧安保条約の問題点を改善するため、(1)補足的取り決め(2)条約改定-の2つの選択肢を示したところ、岸は即答した。
「現行条約を根本的に改定することが望ましい」
交換公文などによる「補足的取り決め」での改善が現実的だと考えていた外務省幹部は仰天した。
(敬称略)

【安保改定の真実(4)】
暗躍するソ連のKGB 誓約引揚者を通じて各界で反米工作 岸内閣を“核”で恫喝

昭和35(1960)年より少し前だった。産経新聞社の駆け出しの政治記者だった佐久間芳夫(82)は、東京・麻布狸穴町(現港区麻布台)のソ連大使館の立食パーティーで、3等書記官を名乗る若い男に流暢な日本語で声をかけられた。とりとめもない会話を交わした後、別れ際に「ぜひ今度一緒にのみましょう」と誘われた。
数日後、男から連絡があり、都内のおでん屋で再会した。男は日米安全保障条約改定や日ソ漁業交渉などの政治案件について執拗に探りを入れた後、声を細めてこう切り出した。
「内閣記者会(首相官邸記者クラブの正式名称)の名簿をくれませんか?」
佐久間が「それはできないよ」と断ると、男は「あなたはいくら給料をもらっていますか。家庭があるなら生活が苦しいでしょう」と言い出した。
佐久間は「失礼な奴だ」と思い、それっきり男とは会っていないが、もし要求に応じていたらどうなっていたか。半世紀以上を経た今も、思い出すと背筋に冷たいものが走る。
昭和31(1956)年10月19日、第52~54代首相の鳩山一郎が、モスクワでソ連首相のブルガーニンと共同宣言に署名し、日ソの国交が回復した。
これを機に、ソ連は在日大使館や通商代表部に諜報機関兼秘密警察の国家保安委員会(KGB)要員を続々と送り込み、政財界や官界、メディアへの工作を続けていた。昭和32(1957)年2月に岸信介が第56代首相に就任した後は動きを一層活発化させた。
警視庁外事課外事1係長だった佐々淳行(84)=初代内閣安全保障室長=は100人超の部下を指揮してKGB要員の行動確認を続けていた。
当時、警視庁が把握したKGB要員は三十数人。その多くが3等書記官など低い身分を偽っており、驚いたことにトップは大使館付の長身の運転手だった。
KGBの工作対象は政界や労組、メディアなど多岐にわたったが、佐々はシベリアに抑留され、ソ連への忠誠を誓った「誓約引揚者」との接触を注視した。シベリアで特殊工作員の訓練を積みながらも帰国後は口をつぐみ、社会でしかるべき地位についたところでスパイ活動を再開する「スリーパー」である可能性が大きかったからだ。

晴海で初のソ連商工業見本市が開催された=昭和36年8月、晴海
外事課ベテラン捜査員はある夜、KGB要員が都内の神社で日本人の男と接触するのを確認した。男の身元を割り出したところ、シベリアに抑留された陸軍将校だった。男は後に大企業のトップに上り詰め、強い影響力を有するようになった。佐々は当時をこう振り返った。
「誓約引揚者は社会党や労組などに相当数が浸透していた。安保闘争は『安保改定を阻止したい』というソ連の意向を受けて拡大した面は否定できない」
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昭和32(1957)年6月の第34代米大統領、ドワイト・アイゼンハワー(アイク)と岸の会談は、日米同盟の絆を内外に印象づけたが、ソ連は危機感を募らせた。鳩山や第55代首相の石橋湛山が対米自主路線を掲げて、ソ連に好意的だっただけになおさらだった。
もし安保条約が改定され、日本の再軍備が進めば、オホーツク海~日本海~東シナ海を封じ込めるように「自由主義圏の鎖」が完成する。それだけは避けたいソ連は日本人の“核アレルギー”に目をつけた。

ソ連は昭和33(1958)年5月15日、日本政府に、米国の核兵器が日本国内に存在するか否かを問う口上書を突きつけた。日本がこれを否定してもその後2度同じ口上書で回答を求めた。
「日本国領域内に核兵器が存在することは、極東における戦争の危険の新たな源泉となる」
口上書でソ連は、核攻撃をちらつかせつつ「日本国の安全の確保は、中立政策を実施する道にある」として「中立化」を迫った。
日米間で安保条約改定交渉が始まるとソ連外相のアンドレイ・グロムイコは昭和33年12月2日、駐ソ大使の門脇季光を呼び出し、「新日米軍事条約の締結は極東の情勢をより一層複雑化し、この地域における軍事衝突の危険を更に深めるだけである」とする覚書を手渡した。
覚書では「中立」という言葉を4回も使い、米国主導の「侵略的軍事ブロック」からの離脱を要求。その上でこう恫喝した。
「大量殺戮兵器は、比較的小さい領土に密度の大きな人口と資源の集中度の大きい国家にとって特に生死の危険となる」


【安保改定の真実(5)】
ソ連の「中立化」戦術が奏功 政界・メディアを籠絡 闇の司祭・コワレンコは元朝日記者と「兄弟分」だった…
中立化」こそがソ連の対日工作のキーワードだった。露骨に社会主義圏に入るべきだとは言わず「中立化」という言葉を用いた効果は絶大だった。
学者・文化人の多くがまだ社会主義への幻想を抱いていた時代。終戦から15年しか経っておらず、国民の反米感情が強かった。安保条約改定に対して「米国の戦争に巻き込まれる」という宣伝は次第に効果を上げていった。
だが、ソ連が恫喝を強めれば強めるほど、岸は対米関係強化に突き進んだ。
昭和35(1960)年1月19日、岸は、病に倒れたジョン・ダレスに代わり国務長官となったクリスチャン・ハーターと新安保条約に調印した。アイクとの会談後は共同声明で「新安保条約が極東の平和と安全を大いに強化し、全世界の平和と自由を増進すると確信している」とうたった。
ソ連は怒り狂った。同年4月に漁業交渉のため訪ソした農相の福田赳夫(後の第67代首相)は、最高指導者で首相のニキータ・フルシチョフと会談した。

フルシチョフは鳩山政権時代を懐かしみ「日本はいま安保で騒いでいるが、岸が悪い。鳩山だったらあんなにソ連に挑戦的なことはしないだろう」と論難した。福田が反論すると、フルシチョフは小声で「キシ、キシ」と呟いた。ロシア語で「キシ」は「腐る」の意。こんな子供じみた悪態をつくほど岸は目障りな存在だった。
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ソ連が反発を強めるにつれ、朝日新聞を中心に多くのメディアは安保改定への批判一色となっていった。「日本は中立化すべき」「安保改定すれば米国の戦争に巻き込まれる」-。スローガンまでもなぜかソ連の主張とそっくりだった。
そもそもメディアは安保改定には無関心だった。
「日米安保条約を改定/近く米側と交渉/藤山外相 具体案の作成指示/片務性を解消へ」
産経新聞朝刊1面をこのスクープが飾ったのは昭和33年7月1日だった。記事を書いたのは産経新聞政治部記者の松平吉弘(86)。記事では、旧安保条約の問題点を指摘し、国民が米軍駐留のメリットを享受できるよう片務性を解消する方向で改定する方向だと報じた。同時に外相の藤山愛一郎が渡米し、米側と正式協議に入る見通しだと伝えた。

岸は昭和32年2月の首相就任直後から駐日米大使のダグラス・マッカーサー2世と水面下の交渉を始めたことを考えると決して早いとは言えないが、各紙はこのニュースを黙殺した。
7月3日の参院外務委員会で社会党の羽生三七は産経新聞を片手に記事の真偽を質した。藤山は「忌憚なく私が考えているところを米側に率直に言ってみる」と事実関係を大筋で認めたが、各紙はこの答弁を小さく報じただけだった。
記事通り、藤山は昭和33年9月11日、ワシントンでダレスと会談し、安保条約改定の交渉入りを合意した。各紙が安保条約改定について大きく報じ始めたのは、この前後からだった。
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1950年代後半から80年代にわたり、ソ連の対日工作の責任者は、ソ連共産党中央委員会国際部副部長などを務めたイワン・コワレンコだった。
「闇の司祭」の異名を持つコワレンコはソ連崩壊後、ジャーナリストの加藤昭の取材に応じ、加藤の監修で回顧録を残した。

コワレンコは、「灰色の枢機卿」と呼ばれたソ連共産党イデオロギー担当書記のミハイル・スースロフの意向を受け、「日本の中立化」を目指す民主統一戦線を作るべく政界や労働界を奔走したことを回顧録に赤裸々に綴った。安保闘争についても「日本の民主勢力にかなり大きな援助を与えた」と明かしている。
ソ連と日本共産党はギクシャクした関係が続いたため、コワレンコが選んだ新たなパートナーは社会党だった。回顧録でも鈴木茂三郎、浅沼稲次郎、勝間田清一、石橋政嗣、土井たか子ら歴代委員長を「ともに仕事をして実り多かった愛すべき闘志たち」と絶賛している。日ソ友好議員連盟などを通じて元労働相の石田博英ら自民党議員にも接触を続けたという。
メディア工作にも余念がなかった。
特に朝日新聞政治部記者で後にテレビ朝日専務になった三浦甲子二とは「兄貴」「弟」と呼び合う仲で「よき友であり同志」だった。「こうした協力者を旧ソ連ではアジェンダ・ブリヤーニ(影響のエージェント)と呼び、三浦の他にも財界人や学者等に多数いた」と明かしている。

同じく朝日新聞のモスクワ支局長、編集局長を経て専務となった秦正流も親しく「ジャーナリストとして非凡な才能の持ち主」「秦の下で朝日新聞の内容は一層よくなった」と称えた。昭和52(1977)年に朝日新聞は、フルシチョフ後の最高指導者、レオニード・ブレジネフとの単独会見を実現させたが、これもコワレンコがすべて取り仕切ったという。
加藤は産経新聞の取材に応じ、こう解説した。
「ソ連にとって中立化とは傀儡政権を作るという意味だ。その候補を探すのがコワレンコの役割だった。結局、社会党は日和見で力にならないから彼は自民党にシフトしていく。この時代は、米ソ冷戦の枠組みで国際情勢がすべて動いた。安保改定も安保闘争も、米ソ冷戦のあだ花にすぎないのではないか」
(敬称略)

【安保改定の真実(6)】
岸信介の誤算 社会党の転向と警職法改正で一転窮地に 禅譲密約で乗り切ったが…


 昭和33(1958)年4月18日、第56代首相の岸信介は、社会党委員長の鈴木茂三郎との会談で、野党の内閣不信任決議案提出を受け、衆院を解散することで合意した。25日、岸は約束通り衆院を解散した。この「話し合い解散」を受けた第28回衆院選(5月22日投開票)は、保守合同と社会党再統一による55年体制後初の総選挙となった。

 この時点で岸は、日米安全保障条約を改定する意向を外務省にも漏らしていなかったため、争点のない選挙となった。結果、自民党は絶対安定多数の287議席を得て大勝。他の議席は社会党166、共産党1、諸派1、無所属12だった。

 6月12日、第57代首相に指名された岸は直ちに組閣に入り、実弟の佐藤栄作(第61~63代首相)を蔵相に、池田勇人(第58~60代首相)を国務相に、三木武夫(第66代首相)を経企庁長官に起用した。自民党では副総裁に大野伴睦、幹事長に川島正次郎、総務会長に河野一郎、政調会長には腹心の福田赳夫(第67代首相)を充てた。挙党態勢の強力な布陣だといえる。

 「総選挙に示された国民の意志は、大多数が現実的かつ進歩的な政治を信頼し、急激かつ冒険的な変革を欲しないということであります。(略)わが国の民主政治の健全な発達を図るには、極左、極右の活動を抑制せねばなりません。最近ややもすれば、公然と法の秩序を無視し、集団の圧力によって国会活動を不当に掣肘するような傾向が見受けられますことは極めて遺憾であります。このような非民主的な活動には毅然たる態度で臨みます」

 6月17日の特別国会で、岸は所信表明演説で社会党や共産党との対決姿勢を鮮明に打ち出した。国民の信を得たことによる自信の表れだと言えるが、どこか奢(おご)りも見てとれる。

 そして満を持して日米安全保障条約改定に取りかかった。9月11日に外相の藤山愛一郎が訪米し、国務長官のジョン・ダレスと安保条約改定で合意、10月4日に正式交渉が始まった。

 これが岸の絶頂期だった。すべて順風満帆で死角はないように見えた-。


× × ×

 後に「昭和の妖怪」と呼ばれる岸は、権謀術数をめぐらす老獪な政治家というイメージがあるが、根は楽天家だった。安保条約改定についても、米軍の占領状態が事実上続く旧安保条約をより対等に改定するのだから、与野党はもとより、大多数の国民が支持してくれると考えていた。

 そう思うのも無理はない。社会党でさえも安保条約改定を声高に求めていたからだ。

 「8千万民族は、われわれの同胞は、他民族の軍政下にあることは忘れてはなりません。不平等条約の改正をやることが現在日本外交に与えられた大きな使命なり、と私は断ぜざるを得ないのであります」

 社会党書記長の浅沼稲次郎(後の委員長)は昭和32(1957)年2月27日の衆院本会議の代表質問で、首相に就任したばかりの岸をこう質した。

 委員長の鈴木も同月の衆院本会議で「日本民族独立のために、不平等条約の改廃を断行するため、力強く一歩を踏み出す決意を持っていないか」と迫った。後に社会党委員長として「非武装中立論」を唱える石橋政嗣も同年11月の衆院内閣委員会で「不平等条約を平等なものにしたいという国民の熱願」として安保条約改定を求めている。

 とはいえ、条約改定は相手国との合意なくしてできない。まして米国相手であり安全保障という国家の存亡にかかわる条約だ。岸は機が熟すまで安保条約改定に関して曖昧な答弁を続けざるを得なかった。回顧録でも岸は「安保条約の改定については、むしろ私の方が慎重であった」と述懐している。

 そもそも岸は、若い世代は安保条約改定を強力に支持してくれるはずだと信じていたふしがある。昭和32年6月に第34代米大統領のドワイト・アイゼンハワー(アイク)と初会談した際、岸はこう語っている。

 「憲法改正を実現するには3分の2の議席が必要なのだが、保守政党はここ数年若者に人気がない。(旧安保条約の不平等性により)日本は独立できていないと言い立てるナショナリズムがわき起こっているからだ…」


× × ×

 安保条約改定を支持してくれるはずだった社会党は態度を一変させた。

 すでに昭和33年5月の衆院選で、安保条約「改廃」から「廃止」に公約を変更していたが、まだ政府に改定の動きがなかったため、争点にならなかった。

 社会党が安保条約「廃止」に転向するきっかけとなったのは、昭和32年10月のソ連の人工衛星スプートニクの打ち上げ成功だった。これが米ソの軍事的パワーバランスを逆転させ、11月には中国国家主席の毛沢東が「東風が西風を圧した」と宣言した。

 社会党内の左派は勢いづいた。これに前後してソ連が「日本の中立化」を促す対日工作を活発化させたこともあり、社会党は反米路線を旗幟鮮明にしていく。

昭和33年5月の衆院選中には、ソ連、中国の露骨な“選挙介入”もあった。

 5月2日に長崎市内で開かれた中国物産展に男が乱入し、中国国旗を踏みつけ破損させる「長崎国旗事件」が発生すると、中国外相の陳毅は日中貿易の全面停止を通告した。ソ連が、米軍の核兵器が日本国内に存在するか否かを問う口上書を日本政府に突きつけたのも同じ時期だった。

 昭和34(1959)年3月28日、社会党は総評などとともに「安保改定阻止国民会議」を結成し、議会制民主主義を否定したかのような激しい反対闘争を繰り広げることになる。岸の社会党への淡い期待は完全に裏切られた。


× × ×

 もう一つ大きな誤算があった。昭和33年10月8日、臨時国会に提出した警察官職務執行法(警職法)改正案だ。

 警職法は、連合国軍総司令部(GHQ)占領下の昭和23(1948)年に施行され、警察官の職務権限は大きく制限されていた。岸は安保条約改定を控え、騒乱を避け秩序を維持するには、職務質問や所持品調べなど警察官の権限を強める必要があると考えたのだ。

 これに先立つ7月11日、岸は駐日米大使のダグラス・マッカーサー2世と極秘裏に会った。ここで岸は、安保条約改定に先立ち、国会に警職法改正案や防諜法案を提出し、野党・左翼勢力と対決する決意を明かした。同時に国民年金法案や最低賃金法案も提出し、一般国民の支持を得る考えだった。

 警職法改正は、岸が就任当初から掲げる「三悪」(汚職・貧乏・暴力)追放の一環でもあったが、予想以上の反発を招いた。
 社会党や総評などは10月16日に警職法改悪反対国民会議を結成した。戦時中の特高警察への恐怖が人々の心に色濃く残っていた時代。「オイコラ警察ハンターイ」「デートもできない警職法」「新婚初夜に警察に踏み込まれる」-などキャッチーなフレーズも手伝い、反対運動は一気に広がった。24日には国会周辺で8000人が抗議の提灯デモを行った。

 社会党が審議拒否に出ると、自民党の三木や池田、松村謙三、石井光次郎ら反主流派の領袖は「法案の無理強いは避けるべきだ」と申し合わせた。

 「これ以上警職法で自民党内がグラつけば安保条約改定さえおぼつかなくなる」。こう考えた岸は警職法改正を断念、法案は審議未了で廃案となった。

 だが、この譲歩が逆に自民党内の反主流派を勢いづかせる結果となった。


× × ×

 自民党内の不穏な空気を感じ取った岸は昭和33年12月、翌34年3月に予定された自民党総裁選を1月に繰り上げた。これが「対抗馬の動きを封じる策略だ」と受け止められ、池田、三木、灘尾弘吉の3閣僚が辞表をたたきつけた。

 「私が世の中で一番嫌いな奴は三木だ。陰険だよ。あの顔つきをみてごらんなさい。あの顔を…」

 後にこう語るほど三木を嫌っていた岸にとって、少数派閥の領袖にすぎない三木が閣外に去ることは別に構わなかった。だが、池田の後ろには、なお隠然たる影響力を持っていた元首相の吉田茂がいる。文相として教職員の勤務評定問題などに取り組んでいた灘尾を失ったのも痛かった。

 さらに深刻だったのは、党人派の実力者である大野が池田らと呼応し、反主流派を形成しようとしていたことだった。

 窮地に陥った岸は昭和34年1月3日、静岡・熱海の静養先で大野、河野と密かに会い、大野に「次はあなたに譲る」と明言し、政権への協力を求めた。これを受け、1月16日には東京・日比谷の帝国ホテルで岸、大野、河野に、佐藤や右翼大物の児玉誉士夫らを加えた会合を開き、政権禅譲の密約を書面で交わした。

 これで岸はどうにか総裁の座を守ることができたが、政権の行く末には暗雲が広がっていた。

 「社会党がソ連、中共の謀略に乗せられてその使嗾(しそう)のままに動く傾向が強まってきているとき、自民党の団結は、国家、民族の将来にとって最優先の命題である」

 岸は当時の心境を回顧録にこう綴っている。

(敬称略)

【安保改定の真実(7)】
先鋭化する社会党「米帝は日中の敵!」 5・19強行採決で事態一転…牧歌的デモじわり過激化 そして犠牲者が

「台湾は中国の一部であり、沖縄は日本の一部であります。それにもかかわらず、それぞれの本土から分離されているのはアメリカ帝国主義のためだ。アメリカ帝国主義について、お互いは共同の敵とみなして戦わなければならない」
昭和34(1959)年3月12日、社会党書記長の浅沼稲次郎(後の委員長)は中国・北京でこう演説し、万雷の拍手を浴びた。
人民帽をかぶり意気揚々と帰国した浅沼は数日後、駐日米大使のダグラス・マッカーサー2世に面会を申し入れ、東京・赤坂の米国大使館を訪ねた。
ほどなくマッカーサーが現れた。浅沼が立ち上がるとマッカーサーは機先を制するように問いただした。
「中国の共産主義者たちが言う『米国は日中共通の敵だ』という主張に、あなたは同意したのか?」
浅沼が釈明しようとするとマッカーサーは拳(こぶし)で机をたたき、怒声を上げた。
「同意したのか? イエスか、ノーか!」
浅沼はすごすごと引き返すしかなかった。
× × ×
中国もソ連と同様に第57代首相の岸信介が進める日米安全保障条約改定に神経をとがらせていた。毛沢東が進めた「大躍進」で餓死者が続出した混乱期にもかかわらず、昭和35(1960)年5月9日には北京・天安門広場に約100万人を集め、「日米軍事同盟に反対する日本国民を支援する大集会」を開いている。


中国の対日工作が奏功したのか、昭和34年3月の浅沼の訪中後、社会党は安保条約改定への批判を強めた。3月28日には総評(日本労働組合総評議会)や原水禁(原水爆禁止日本国民会議)などと安保改定阻止国民会議を結成。統一行動と称する組織的な反対デモを行うようになった。
ただ、運動は大して盛り上がらなかった。昭和34年の通常国会は大きな混乱もなく、岸内閣は最低賃金法や国民年金法など雇用・社会保障制度の柱となる法律を粛々と成立させている。
6月2日投開票の第5回参院選(改選127)も安保改定は大きな争点とならず、自民党が71議席を獲得した。社会党は38議席、共産党は1議席だった。
安保闘争はむしろ社会党内の亀裂を深めた。
社会党右派の西尾末広ら32人は、社共共闘を目指す左派を批判し、秋の臨時国会召集前日の昭和34年10月25日に離党した。
秋の臨時国会は、南ベトナムだけを賠償請求権の対象とするベトナム賠償協定に社会党などが反発し「ベトナム国会」となった。11月27日未明の衆院採決を機に社会党議員の誘導で安保反対派の群衆約1万2千人が国会内に乱入、300人以上の負傷者を出す事件が起きた。これが安保闘争の前哨戦といえなくもないが、議会制民主主義を否定する手法に批判が集まり、反対運動は沈静化した。

参加者たちが両手をつなぎ路上を埋め尽くすフレンチデモ。女性たちはおしゃれに着飾りまるでお祭りのようだった=昭和35年5月 有楽町・日劇前
岸は昭和35年(1960)1月16日に全権委任団を率いて米国に出発し、19日に新安保条約に調印した。この前後のデモも散発的だった。西尾ら衆参57議員は24日に民主社会党(後の民社党)を結党、社会党や労組は分裂含みの余波が続き、動けなかった。
× × ×
転換点は、昭和35年5月19日の衆院本会議だった。
第34代米大統領のドワイト・アイゼンハワー(アイク)の訪日予定日は6月19日。それまでに何としても新安保条約を承認する必要があった。社会党は審議拒否に入り、参院審議は望めず、もはや衆院で可決した条約案を憲法61条に基づき30日後に自然承認させるしかない。タイムリミットは5月20日だった。
19日午後10時半、本会議開会のベルが鳴ったが、社会党議員や秘書がピケを張り、議長の清瀬一郎は議長室に閉じ込められたまま。清瀬は院内放送で「名誉ある議員諸君、このままでは議長の行動も自由になりません」と呼びかけたが、埒(らち)が明かない。
11時5分、清瀬はついに警官隊を動員した。警官隊とピケ部隊の乱闘の中、間隙(かんげき)を突いて清瀬は本会議場に突入し、11時49分に自民党だけで50日間の会期延長を可決した。

清瀬は岸らと協議の上で強行策に出た。いったん散会を表明し、20日午前0時5分に再び開会。そこで新条約承認案を緊急上程し、強行採決した。
× × ×
「アンポ反対」「国会解散」「アイク訪日阻止」「岸倒せ」-。5月19日を境に安保闘争は、岸への個人攻撃にすり替わり、国会周辺のデモは雪だるま式に膨れあがった。
それでも当時のデモは牧歌的だった。男はワイシャツ姿や学生服、女はスカート姿も多かった。もっとも過激とされた全学連でさえ基本的には非暴力戦術をとり、70年安保闘争のようにヘルメットにゲバ棒で武装する人はいなかった。
流行したのは、両手をつないで並んで進む「フランスデモ」。仕事帰りのデート代わりにデモに参加するカップルも多く、デモの合間を縫うようにアイスクリーム屋が「アンポ反対アイス」を売り歩いた。
岸もしばらくは余裕綽々(しゃくしゃく)だった。東京・渋谷の岸邸は連日デモ隊に囲まれたが、記者団に「声なき声に耳を傾ける。今日も後楽園球場は満員だったそうじゃないか」と語り、自宅では普段通りにくつろいだ。5歳だった孫の安倍晋三(第90、96、97代首相)が「アンポ反対!」とまねたときも目を細めた。
× × ×
6月19日の自然承認。期限を切ったことは、安保闘争に「目標」を与える結果となり、6月に入るとデモはさらに肥大化した。
「至急来てくれないか」
岸から電話で呼び出された郵政相の植竹春彦は、闇夜に紛れて首相官邸に通じる裏口をくぐった。

「デモ隊がNHKを占拠して革命的放送を流したら大変なことになる。すぐに警視庁と話をしてNHKの防備を固めてくれ」
岸にこう命じられた植竹はすぐに警視庁とNHKに出向き、対応を協議した。深夜になり再び裏口から官邸に入ると、岸は首相執務室のソファで大いびきをかいていた。植竹が声をかけると、岸はむっくり起き上がり、「NHKの防備の手配は無事終わりました」との報告を聞くと「ご苦労さま」と笑顔でねぎらい、再び横になった。
外ではまだ「安保反対」「岸辞めろ」の大合唱。それでも爆睡できる岸の豪胆さに植竹は心底驚いた。
× × ×
事態は悪化の一途をたどった。6月10日、アイクの新聞係秘書(現大統領報道官)のジェームズ・ハガチーが、アイク訪日の最終調整のため来日した。
午後3時35分、米軍機で羽田空港に到着したハガチーは、デモの実態を確かめるべく米海兵隊のヘリコプターではなく米大使館のキャデラックに乗り込んだ。
だが、首都高が京橋-芝浦間で初開通するのは昭和37(1962)年暮れ。羽田から都心に向かうには多摩川の土手沿いなど一般道しかなかった。ハガチー一行の車は弁天橋手前の地下道出口で全学連反主流派に囲まれ、立ち往生した。
初めは学生たちもおとなしく、ボディーガードの靴を踏んだ学生は「アイムソーリー」と頭を下げた。だが、一人が車上に登り「ハガチー出てこい」と叫ぶと窓ガラスや車体を叩く者が続出、現場の警察官だけでは排除できなくなった。


結局、ハガチー一行は米海兵隊のヘリコプターに救出された。アイク訪日に黄信号がともった。
× × ×
6月15日夕。断続的に雨が降る中、約20万人が国会議事堂を幾重にも包囲した。全学連主流派の学生約7500人も集結した。
全学連主流派は、リーダーの唐牛健太郎ら幹部の多くが逮捕されていた。その焦りもあり、「国会突入」という過激な行動に出た。
午後5時半ごろ、学生たちは国会南通用門の門扉に張り巡らされた針金をペンチで切断。敷石をはがして投石を始め、バリケード代わりに止めた警察のトラックを動かそうとした。
国会敷地内には鉄製ヘルメットをかぶった警察部隊約3500人が待機しており、放水で応酬した。
午後7時すぎ。学生たちが雪崩を打つように敷地内に突入し、警察部隊と激しくぶつかった。
東大文学部4年の長崎暢子(77)=東大名誉教授=は、卒論用に借りた書籍を国会図書館に返却したその足でデモに参加した。
長崎は最前列から十数列後ろでスクラムを組み国会敷地内に突入した。数列前に友人の東大文学部4年の樺(かんば)美智子=当時(22)=の姿が見えた。
デモ隊と警察部隊に挟まれる形で猛烈に押され「苦しい」と思ったが、身動きできない。頭上からは警棒が容赦なく振り下ろされた。腹も突かれた。「痛い」と悲鳴を上げたが、逃げようがない。「倒れたらダメだ。死んじゃうぞ!」。誰かにこう励まされたが、長崎の意識は次第に遠のいた。

「女子学生が死んだらしい」-。午後7時半すぎ、こんな噂(うわさ)がデモ隊に流れた。午後8時すぎ、社会党議員が仲裁に入り、午後9時すぎ、国会敷地内で全学連の抗議集会が開かれた。ここで女子大生の死が報告され、黙祷(もくとう)をささげた。
集会後、学生の一部は暴徒化し、警察車両にも放火。翌16日未明、警察は催涙ガスを使用し、デモ隊を解散させた。この騒動で負傷した学生は約400人、逮捕者は約200人に上った。警察官も約300人が負傷した。
死亡した女子大生は樺だった。検死結果は「胸部圧迫と頭部内出血」だった。
長崎は入院先の病院で樺の死を知った。「まさかデモで死んじゃうとは…」とショックだった。
長崎と樺は大学1年からの友人だった。3年で長崎は東洋史、樺は国史を専攻したが、交流は続いた。樺は学者を目指して徳川慶喜に関する卒論に取り組んでいたという。
「こんな安保改定を行う岸信介はけしからん。われわれの卒論も哀れな末路をたどりそうだ。学問を邪魔するとはけしからん」
笑顔でこう語ったのが、樺との最後の会話だった。
(敬称略)


【安保改定の真実(8)完】
岸信介の退陣 佐藤栄作との兄弟酒「ここで二人で死のう」 吉田茂と密かに決めた人事とは…

昭和35(1960)年6月に入ると、社会党や全学連に扇動された群衆は連日のように国会と首相官邸を幾重にも囲み、革命前夜の様相を帯びた。安保条約の自然承認は6月19日午前0時。それまでに国会や首相官邸に群衆が雪崩れ込み、赤旗を掲げるのだけは防がねばならない。
当時の警察官数は警視庁で約2万5千人(現在約4万3千人)、全国で約12万7千人(現在約25万8千人)しかおらず、装備も貧弱だった。警視総監の小倉謙は「国会内への進入を防ぐ『内張り』だけで手いっぱいです」と音を上げた。
通産相の池田勇人(第58~60代首相)と蔵相の佐藤栄作(第61~63代首相)はしきりに自衛隊出動を唱えた。自民党幹事長の川島正次郎も防衛庁長官の赤城宗徳を訪ね、「何とか自衛隊を使うことはできないか」と直談判した。
困った赤城は長官室に防衛庁幹部を集め、治安出動の可否を問うと、旧内務省出身の事務次官、今井久が厳しい口調でこう言った。

「将来は立派な日本の軍隊にしようと、やっとここまで自衛隊を育ててきたんです。もしここで出動させれば、すべておしまいですよ。絶対にダメです!」
赤城は「そうだよな。まあ、おれが断ればいいよ」とうなずいた。それでも自衛隊の最高指揮官である首相が防衛庁長官を罷免して出動を命じたら断れない。防衛庁は万一に備え、第1師団司令部がある東京・練馬駐屯地にひそかに治安出動部隊を集結させた。
× × ×
6月15日、恐れていた事態が起きた。全学連主流派が率いる学生デモ隊が国会敷地内に突入して警察部隊と衝突、東大文学部4年の樺(かんば)美智子=当時(22)=が死亡したのだ。
樺の死を知った岸は悄然とした。反対派は殺気立つに違いない。そんな中、第34代米大統領のドワイト・アイゼンハワー(アイク)訪日を決行すれば、空港で出迎える昭和天皇に危害が及ぶ恐れさえある。
岸はアイク招聘を断念、退陣の意を固めた。だが、公にはせず、腹心で農相の福田赳夫(第67代首相)をひそかに呼び出した。
「福田君、すまんが内閣総辞職声明の原案を書いてくれ…」
「こんなに頑張ってこられたのに総辞職ですか?」

福田は翻意を促したが、岸の決意は固かった。
6月16日未明、岸は東京・渋谷の私邸に赤城を呼んだ。
岸「赤城君、自衛隊を出動させることはできないのかね」
赤城「出せません。自衛隊を出動させれば、何が起きてもおかしくない。同胞同士で殺し合いになる可能性もあります。それが革命の導火線に利用されかねません」
岸「武器を持たせず出動させるわけにはいかないのか?」
赤城「武器なしの自衛隊では治安維持の点で警察より数段劣ります」
岸は黙ってうなずいた。
× × ×
6月16日午後、岸は臨時閣議でアイクの来日延期を決定した。これでデモが収束するかと思いきや、ますます気勢を上げた。
翌17日、警視総監の小倉が官邸を訪れ、「連日のデモ規制で警察官は疲れ切っており、官邸の安全確保に自信が持てません。他の場所にお移りください」と求めたが、岸はこう答えた。
「ここが危ないというならどこが安全だというのか。官邸は首相の本丸だ。本丸で討ち死にするなら男子の本懐じゃないか」
新安保条約自然承認を数時間後に控えた18日夜、岸は首相執務室で実弟の佐藤と向き合っていた。

「兄さん、一杯やりましょうや」。佐藤は戸棚からブランデーを取り出し、グラスに注いだ。
「兄さん、ここで2人で死のうじゃありませんか」
佐藤がうっすらと涙を浮かべると岸はほほ笑んだ。
「そうなれば2人で死んでもいいよ…」
深夜になると、福田や官房長官の椎名悦三郎らが続々と官邸に集まってきた。
ボーン、ボーン…。19日午前0時、官邸の時計が鳴った。福田や秘書官らは安堵の表情で「おめでとうございます」と声をかけたが、岸は硬い面持ちでうなずいただけだった。
× × ×
自然承認といってもこれで条約が成立するわけではない。両政府が批准書を交換しなければならない。
このため、「反対派が批准書強奪を企てている」という情報もあった。自民党副総裁の大野伴睦や総務会長の石井光次郎らは批准書交換を円滑に進めるため、岸に内閣声明で退陣を表明するよう求めた。
福田は6月18日夜、東京・紀尾井町の赤坂プリンスホテルに出向き、大野らに「実は10日前にハワイで批准書交換を済ませている」と説明して納得させた。
これは岸が思いついたうそだった。日本政府の批准書は、外相の藤山愛一郎が18日に東京・青山の親族宅で署名し、菓子折りに入れて運び出していた。
批准書交換は23日に東京・芝白金の外相公邸で行われることになった。ここもデモ隊に包囲されるかもしれない。

「外相公邸の裏に接するお宅二軒にお願いして、いざという場合には公邸の塀を乗り越えて、その家を通り抜け、向こう側へ抜け出せるようにした」
藤山は、回顧録で批准書交換の「極秘作戦」を明かし、「幸い正門から出ることができた」と記した。
真実はどうだったのか。
産経新聞政治部記者の岩瀬繁(86)は外相公邸敷地内で批准書交換が終わるのを正門で待っていた。
だが、待てど暮らせど藤山は出てこない。暇つぶしに敷地内をぶらぶらしていると、藤山が外相公邸の裏の垣根を乗り越えようとして警護官に持ち上げられているのが見えた。藤山の回顧録はうそだった。「絹のハンカチ」と呼ばれた財閥の御曹司にとって、泥棒のように塀を乗り越えたことは誰にも知られたくない恥辱だったのだろう。
岸はこの日、臨時閣議を開き、こう表明した。
「人心一新、政局転換のため、首相を辞める決意をしました…」
× × ×
辞任表明したとはいえ、岸は後継問題で頭を抱えた。ソ連の「日本中立化」工作はなお続いており、自民党が政局でぐらつけば、苦労して築いた日米同盟まで危ぶまれる。この難局を乗り切れるのは誰か-。
福田は、社会党と決別した民主社会党(後の民社党)と連立を組み、初代委員長の西尾末広を後継指名する奇策を編み出した。これならば自民党の内紛を押さえ込むだけでなく社会党も追い込める。岸も乗り気となったが、肝心の西尾が煮え切らず水泡に帰した。

「外相公邸の裏に接するお宅二軒にお願いして、いざという場合には公邸の塀を乗り越えて、その家を通り抜け、向こう側へ抜け出せるようにした」
藤山は、回顧録で批准書交換の「極秘作戦」を明かし、「幸い正門から出ることができた」と記した。
真実はどうだったのか。
産経新聞政治部記者の岩瀬繁(86)は外相公邸敷地内で批准書交換が終わるのを正門で待っていた。
だが、待てど暮らせど藤山は出てこない。暇つぶしに敷地内をぶらぶらしていると、藤山が外相公邸の裏の垣根を乗り越えようとして警護官に持ち上げられているのが見えた。藤山の回顧録はうそだった。「絹のハンカチ」と呼ばれた財閥の御曹司にとって、泥棒のように塀を乗り越えたことは誰にも知られたくない恥辱だったのだろう。
岸はこの日、臨時閣議を開き、こう表明した。
「人心一新、政局転換のため、首相を辞める決意をしました…」
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辞任表明したとはいえ、岸は後継問題で頭を抱えた。ソ連の「日本中立化」工作はなお続いており、自民党が政局でぐらつけば、苦労して築いた日米同盟まで危ぶまれる。この難局を乗り切れるのは誰か-。
福田は、社会党と決別した民主社会党(後の民社党)と連立を組み、初代委員長の西尾末広を後継指名する奇策を編み出した。これならば自民党の内紛を押さえ込むだけでなく社会党も追い込める。岸も乗り気となったが、肝心の西尾が煮え切らず水泡に帰した。

「外相公邸の裏に接するお宅二軒にお願いして、いざという場合には公邸の塀を乗り越えて、その家を通り抜け、向こう側へ抜け出せるようにした」
藤山は、回顧録で批准書交換の「極秘作戦」を明かし、「幸い正門から出ることができた」と記した。
真実はどうだったのか。
産経新聞政治部記者の岩瀬繁(86)は外相公邸敷地内で批准書交換が終わるのを正門で待っていた。
だが、待てど暮らせど藤山は出てこない。暇つぶしに敷地内をぶらぶらしていると、藤山が外相公邸の裏の垣根を乗り越えようとして警護官に持ち上げられているのが見えた。藤山の回顧録はうそだった。「絹のハンカチ」と呼ばれた財閥の御曹司にとって、泥棒のように塀を乗り越えたことは誰にも知られたくない恥辱だったのだろう。
岸はこの日、臨時閣議を開き、こう表明した。
「人心一新、政局転換のため、首相を辞める決意をしました…」
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辞任表明したとはいえ、岸は後継問題で頭を抱えた。ソ連の「日本中立化」工作はなお続いており、自民党が政局でぐらつけば、苦労して築いた日米同盟まで危ぶまれる。この難局を乗り切れるのは誰か-。
福田は、社会党と決別した民主社会党(後の民社党)と連立を組み、初代委員長の西尾末広を後継指名する奇策を編み出した。これならば自民党の内紛を押さえ込むだけでなく社会党も追い込める。岸も乗り気となったが、肝心の西尾が煮え切らず水泡に帰した。


では自民党で誰を後継指名するのか。岸は神奈川・箱根温泉の「湯の花ホテル」を訪ねた。ホテルを所有するのは、西武グループ創業者で元衆院議長の堤康次郎。岸に遅れて到着したのは、第45、48~51代首相を務めた吉田茂だった。
岸は首相在任中、堤の仲介で月に1度の割合で吉田との密会を続けてきた。通算2616日もの長期政権を敷いた吉田は、有能な官僚を次々に政界に入れ「吉田学校」と呼ばれる一大勢力を築いていたからだ。
岸と吉田が後継候補で一致すれば、自民党内の帰趨は決する。堤は、吉田学校のエースである佐藤を推したが、吉田は渋い表情を崩さなかった。
「姓は違っていても岸さんと佐藤君が兄弟であることは、国民もよく知っているよ…」
岸は、吉田が誰を推しているのかピンときたが、あえて「それではどなたがよいでしょうか」と問うた。
「まあ、ここは池田君にした方がよいだろ」
岸もうなずいた。第58代首相に池田勇人が決まった瞬間だった。
× × ×
昭和30(1955)年の保守合同後、自民党には「8個師団」といわれる派閥が存在したが、それよりも深刻なのは「官僚派」と「党人派」の対立だった。
岸や吉田は官僚派であり、党人派の代表格が副総裁の大野や、農相などを歴任した河野一郎だった。

岸が政権運営でもっとも苦労したのが党人派との駆け引きだった。昭和34年1月には、党人派の協力を得るため大野と政権禅譲の密約を交わした。岸は、その後の河野の入閣拒否などにより「政権運営に協力する」という前提条件が崩れたので密約は無効だと考えていたが、後継に官僚派の池田を選んだことへの党人派の恨みは深かった。
昭和35年7月14日、自民党は日比谷公会堂で党大会を開き、池田を新総裁に選出した。午後には官邸中庭で祝賀レセプションが催された。
岸が笑顔で来客をもてなしていたところ、初老の男がやにわに登山ナイフで岸の左太ももを突き刺した。岸は白目をむいて病院に運ばれたが、幸い全治2週間で済んだ。
逮捕されたのは、東京・池袋で薬店を営む65歳の男だった。警視庁の調べに「岸に反省をうながす意味でやった」と供述し、背後関係を否定したが、永田町では「大野の意をくんだ意趣返しだ」とまことしやかにささやかれた。
× × ×
岸の退陣後、安保闘争はすっかり下火となり、ソ連や中国が狙った民主統一戦線による政権奪取は果たせなかった。
とはいえ、自民党にも後遺症が続いた。安全保障は議論さえもタブー視されるようになり、結党時に「党の使命」とした憲法改正はたなざらしにされた。
「安保改定が国民にきちんと理解されるには50年はかかるだろう…」

岸は長男の岸信和にこう漏らした。安保改定から今年で55年。確かに安保反対派はごく少数となったが、岸の孫である第90、96、97代首相の安倍晋三が進める集団的自衛権の解釈変更などへの野党や一部メディアの対応を見るとあまり進歩は見られない。日本は「不思議の国のアリスの夢の世界」をいつまで彷徨い続けるのか-。(敬称略)
=おわり

この連載は、石橋文登、加納宏幸、峯匡孝、杉本康士、花房壮が担当しました

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2015.05.06

国会はまるで「学級崩壊」…離席、読書、スマホ、居眠り…目を覆う国会議員の振る舞い

憤慨すべき記事を産経新聞の中に見つけた。以下全て産経新聞の転写である。

政界徒然草】
国会はまるで「学級崩壊」…離席、読書、スマホ、居眠り…目を覆う国会議員の振る舞い

 上西小百合衆院議員が国会を「病欠」した前後の行動が問題視されて維新の党を除名されたのは記憶に新しい。上西氏は平成27年度予算案の採決を行った3月13日の本会議を「病気」で欠席した。前夜には複数の飲食店を訪れており、国会議員としての責任感の欠如を白日の下にさらした。

 維新幹部に限らず、与野党各党は「けしからん」の一色に染まった。そういう国会議員たちは当然本会議に毎回出席しているのだろう。

 ところが、驚くべきことに衆院は本会議の議員の出欠を公式に記録していない。憲法56条1項には「両議院は、各々その総議員の3分の1以上の出席がなければ、議事を開き議決することができない」とある。「国民の選良である議員が本会議を休むはずがない」との前提で、「3分の1以上の出席」は目視で判明できるということなのだろう。

 一方、衆院のさまざまなルールを定めた衆院規則の第106条には、以下のような記述がある。

 「出席議員が総議員の3分の1に充たないときは、議長は、相当の時間を経て、これを計算させる。計算2回に及んでも、なほ、この定数に充たないときは、議長は、延会しなければならない」

 これは通常は出席者数を正確には確認していないことを意味する。国会議事堂の入り口には、議員の名前を記した「登院ランプ」がある。ボタンを押すと名前の部分が光り、登院したことを表す。ただ、ランプはあくまで議員の登院を示すだけで、本会議に出席した証拠にはならない。

 出席どころか、各議員の法案に対する賛否を確認する術も限られている。

 衆院本会議の採決には複数の方法がある。いわゆる重要法案の採決は、議員名が記された白票(賛成)か青票(反対)の札を投じる記名投票で行うので、各議員の行動を把握できる。

 ただ、一般的な法案は議長が目視で過半数か否かを確認する「起立採決」か、議長が満場一致と認めた「異議なし採決」で可決されることが大半だ。この場合、個々の議員の賛否はいちいち確認していない。

 ちなみに参院は平成10年から「押しボタン」による採決を導入しているので、デジタル化で各議員の法案への賛否は一目瞭然(りょうぜん)だ。議員が自席に着席し、名前を記した「立て札」を立てると出席が確認できる仕組みにもなっている。

 では、実際の本会議の出欠、議場での国会議員の振る舞いはどうなっているのか。4月16日午後1時から約2時間行われた衆院本会議を記者席から観察してみた。その実態は、絶句するほかなかった。

. (【】内の数字はおおよその時刻/目視で数えた空席の概数)

 【12時55分】

 本会議開会5分前。さっそく民主党のベテラン議員が堂々と携帯電話を操作している。衆院規則で携帯電話の本会議での使用は禁じているのに。開会前だからいいということか。机の下で隠れるようにタブレット端末を操作する民主党中堅議員もいる。

 【13時0分/20】

 川端達夫副議長が議場に入り、開会を宣告。町村信孝議長(後に辞任)は体調不良で欠席し、川端氏が議事を代行する。衆院規則第104条は「議長が会議を開くことを宣告するまでは、何人も議事について発言することができない」としているが、場内はざわついたままだ。

 安倍晋三首相はひな壇席に座る。最初の議題は「都市農業振興基本法案」の採決。農林水産委員会の江藤拓委員長(自民)が委員会の議事結果を報告。全会一致の「異議なし」で可決。

 【13時5分/30】

 引き続き、大手電力会社の送配電部門を発電部門から切り離す「発送電分離」を平成32年4月に実施するための「電気事業法改正案」と、29年をめどに都市ガスの小売りを全面自由化することなどを盛り込んだ「ガス事業法改正案」の審議に入る。

 宮沢洋一経済産業相による法案の趣旨説明が始まる。それが何かの合図のように10人以上が一斉に離席し始めた。

 最前列に座る民主党の若手女性議員は、真っ先に自民党議員の席へ。ある自民党議員は野党議員の席を訪ね、書類を片手になにやら話し合いを始める。与野党議員間の立ち話が実に多い。連れだって外に出ていくケースも多数。本会議は「原則」議員が全員出席するので、約束なしでもその場で直接話し合いができる好機なのか。それにしても、全く場所をわきまえていない。

 別の民主党女性議員は、民主党→維新の党→自民党の議員を次々と訪問。自民党国対幹部は所在なさげに議場内をウロウロ。自民党幹部は次々と席を離れはじめる。宮沢氏に対し「元気出せ!」の掛け声がかかり、笑いが起きる。緊張感は全くない。

 次第にやじさえ飛ばず、ざわつきだけが議場内に漂う。開会前に机の下でタブレットを操作していた民主党議員は、ついに机の上で堂々と操作を始めた。

 【13時10分/40】

 宮沢氏の趣旨説明が終わる。自民党中堅が足を組んで文庫本らしきものを読み始めた。衆院規則は「議事中は参考のためにするものを除いては新聞紙及び書籍等を閲読してはならない」と定めているが…。

 自民党の田中良生氏が質問に立つ。このころになると、外に出ていく者がさらに増える。維新若手議員は雑誌を開いたまま、頭を揺らし始めた。何分たってもページはめくられない。

 民主党重鎮は明らかに深い眠りに入った。岡田克也代表と枝野幸男幹事長は自席に着席し、じっと聞き入っている。

 【13時20分/50】

 首相が答弁し、続いて宮沢氏が答弁する。携帯やタブレットを操作する者多数。自民党中堅は「歩きスマホ」のまま外へ。

 【13時25分/60】

 民主党の田嶋要氏が質問に立つ。場内を動き回る議員が減り始める。離席を反省したのかと思いきや、今度は眠り出す人が圧倒的に増えた。それに伴い、場内のざわつきも収まる。

 少なくとも30人以上が寝ている。先輩たちに比べ、お行儀の良かった当選1回生だが、演壇の目の前の席で舟をこぐ自民党議員も。最前列の民主党女性議員は相変わらず場内を行ったり来たりで、自席にほとんどいない。

 【13時35分/80】

 首相と宮沢氏が答弁。複数の自民党幹部も深い眠りにつく。睡眠、読書、スマホ操作と、思い思いの時間を過ごす議員が増える。

 この日は週刊文春と週刊新潮の発売日。そのためか、コピーを含め雑誌を読む人が多い。よほど「議事の参考になる記事」が掲載してあったようだ。自民党席の後方(ベテラン勢)に空席が目立つようになる。

 【13時50分/100】

 維新の鈴木義弘氏が質問に立つ。いつの間にか岡田、枝野両氏がいない。菅直人元首相の姿も消えた。

 開会から約1時間が経過した時点で、一度も「席を立たない」「寝ない」「関係ない本を読まない」「携帯・タブレットを使わない」といった当たり前のことを貫徹している人は早くも100人以下に。

【14時15分/150】

 首相が答弁。場外へ消える議員が急上昇。

 【14時20分/180】

 公明党の国重徹氏が質問。公明党席から大きな拍手が起きる。これにビクッと体を動かし、驚いたように目覚める者多数。まるで目覚まし時計のよう。

 【14時30分/200】

 首相と宮沢氏が答弁。引き続き共産党の藤野保史氏が質問。とうとう谷垣禎一幹事長ら自民党三役席はすべて空席。全議員475人の4割以上が議場にいない状況に。

 【14時50分/190】

 首相が答弁。4月14日に福井地裁が関西電力高浜原発3、4号機(福井県)の再稼働を認めない仮処分決定を行ったことについて初めて言及した。

 「原子力規制委員会の田中俊一委員長から、いくつかの点で事実誤認があり、新規制基準や審査内容が十分に理解されていないのではないかとの明快な見解が示されている」

 「世界で最も厳しいレベルの新規制基準に適合すると認めた原発について、その判断を尊重し、再稼働を進めていくのが政府の一貫した方針だ」

 この時点で72人(川端氏を除く)の民主党席は約半分が空席。閣僚も数人しかいない。「脱原発」に力を入れる菅元首相の姿もない

【15時00分/180】

 議事が終了し、川端副議長が散会を宣告。終わりぐらいは着席していようとの心理か、空席が少しだけ減る。本当に少しだけ。

 川端氏が退席するのを前列の議員の多くは立って見届けるが、後方席の議員はそそくさと退席し始める。衆院規則219条は「散会に際しては、議員は、議長が退席した後でなければ退席してはならない」と明記しているが、ベテランの順法精神は相当低いようだ。


 以上が、憲法で「国権の最高機関」と位置づけられた国会のごくありふれた日常の一コマだ。記者席からは本会議場を一望できず、移動しながら目視で数えたので欠席数は正確ではない。ただ、最初から最後まで「席を立たない」「議事と関係のない本を読まない」「携帯電話・タブレットをいじらない」といった当たり前の規則を守った人は、どうみても全体の1割(47人)以下だった。無法者の集まりかと見まごうほどだ。

 学校でさえ出欠を確認するのは当たり前だ。授業中に勝手に席を立ってしゃべったり、教室を出ていったり、授業と関係ない本を読んだり、携帯電話をいじったりしている生徒を国会議員はよしとするようだ。

 ましてや国会議員には、税金で年間3000万円以上の歳費が支給される。本会議への皆勤出席は最低限の責務であり、重篤な病気や国際会議出席などの外遊などを除いて本会議に出ない選択肢はあり得ない。もし形式的な本会議への出席に意味がないというなら、ルールを変えて別のまともな議論の場を設けたらいい。

 後方支援に参加する自衛隊の海外派遣には国会の事前承認が必要だといった議論が行われているが、その肝心の国会の実態は目を覆うばかりだ。国会議員は何かあると「国会の品位」を声高に主張する。悪い冗談にしか聞こえない。(政治部 酒井充)
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2015.05.02

日米はともに戦勝国だ @ 安倍総理演説

歴史に残る名演説だと思う。以下は全て渡部亮次郎氏から配信されたメールからの転載である。

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日米はともに戦勝国だ @ 安倍総理演説
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              泉 幸男

安倍首相の「希望の同盟へ」演説をわが外務省のサイトで
読んで、目がうるうるした。まことにみごとな演説で、全文
を教科書に載せてもいいと思う。

(全文、というのがポイントで、教科書執筆者の恣意に任せ
ようものなら、自衛隊の国際貢献について具体的に語った
箇所など、真っ先に削除されかねない。)


(英文原文)
http://www.mofa.go.jp/na/na1/us/page4e_000241.html

(外務省の和訳)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/na/na1/us/page4_001149.html


前半はユーモアに満ち、米国人の心をぐっとつかむ。

安倍総理の人間味も伝わってくる語り口だ。

日本そして安倍総理と関わった大ぜいの米国人の名を挙げる
ことで、この日の演説の内容には数多くの証人がいるのだと
いう印象を与える。この構成も秀逸。 
 
一読してわかるのは、単に霞が関の外務官僚らが切り貼り
した和文を英訳したものではないこと。

英語原作の憲法はサイテーだが、英語の演説はやはり英語
原作でなければダメだ。


■ 日本は戦勝国だ ■


日米が共に戦勝国であることをうたっているのが良い。


In the end, together with the U.S. and other like-minded
democracies, we won the Cold War.
That's the path that made Japan grow and prosper.
And even today, there is no alternative.

≪そしてついに、米国および志を同じくする民主主義諸国と
ともに、われわれは冷戦に勝利しました。

この道を歩むことで日本は成長し繁栄するに至ったのです。
これ以外の道がないことは、今日も同様です。≫

(なお、和訳は泉が英文から訳した。以下、同じ)

第二次大戦時そもそも存在しなかった共産中国と韓国が
「戦敗国の日本はオレたちにひれ伏せ」と かまびすしい昨今
であるが、とんでもない話で、「冷戦終結を以て日本は戦勝

国となった。中国は、ちがうよね」という正しい歴史認識の
のろしを上げたものと言ってよろしい。

中国はもとより、韓国もすでに like-minded democracy と
は言えまい。残念なことである。


■ 自責の念は、戦後すぐの話 ■


この豊穣な内容の演説を読むにつけ、メディアがこぞって
取り上げた例の箇所をことさらに論じるのは、あまりに
「ためにする」ことと忸怩(じくじ)たる思いだが、わたし
なりに語ろう。


Post war, we started out on our path bearing in mind
feelings of deep remorse over the war.
Our actions brought suffering to the peoples in Asian
countries. We must not avert our eyes from that.
I will uphold the views expressed by the previous prime
ministers in this regard.

≪戦争直後、日本国民はあの戦争に対してやるせない自責の
念を心の中に抱きつつ歩み始めました。

われわれの行為でアジア諸国の国民に苦しみをもたらしたの
です。そのことから日本国民は目をそらしてはなりません。
この点に関してわたしは、わが国の首相たちがこれまで表明
してきた見解を引き継ぐものです。≫


 外務省訳が「戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を
胸に、歩みを刻みました」とあるが、誤訳である。
原文の英語は started out on our path とあるのだから
「歩みを刻み始めました」である。

 つまり、外務省訳にいう「先の大戦に対する痛切な反省」は、
あくまで、歩みを刻み「始めた」時点に抱いたものであり、
今日なお deep remorse を抱いているとは、どこにも言って
いない。

 それでよろしい。

今回使われた remorse という単語も、上手に選んだものだ。
 「内心に宿す自責の念」としては相当に強いことばだ。

あくまで個々の人間の内心に属する感情であり、国家機構
としての意思を言うものではない。

内心に属するものであるがゆえに、謝罪という行為とは別
である。

それでいて、安倍総理の演説を聞く米国人らは、安倍総理
自身が現在進行形で deep remorse を抱いているという印象
を持つ。

「アベはアブナイ政治家だ」と触れ回る中・韓のエージェント
らによる中傷を払拭するために大いに役立つことばを選んだ
ものだ。


■ これっきりですね、の思いを引き継ぐ ■


村山総理も小泉総理も、例の「おわび」を述べたときは、
「これっきり」と思って述べたに違いない。

ここまで繰り返し平身低頭を要求されることなど想像もして
いなかったし、ましてや サンフランシスコ平和条約や日韓
基本条約、日中友好条約を反故(ほご)にせんばかりの「賠償
要求」を受けることなど想定もしていなかった。

≪この点に関してわたしは、わが国の首相たちがこれまで
表明してきた見解を引き継ぐものです≫ と安倍総理は言った
のである。

              *

英語原文を読んでいると、東京都硫黄島(いおうとう)の
ことを Ioto と呼び、そのあと米国人の言を引用するなかで
Iwo Jima の名を使っている。

日本では硫黄島(いおうじま)は鹿児島県の薩南諸島北部
に位置する小島だ。

わが軍が祖国防衛戦を繰り広げた島は、硫黄島(いおうとう)
なのである。

ところが米国人にとっては、聖戦を繰り広げたのは Iwo Jima
ということになっていて、この日本領の島に星条旗を立てる
兵士らの姿の記念彫刻も Iwo Jima と称する。

 Iwo Jima という名称にも言及しつつ、正しい名称の Ioto
を米国で正式にデビューさせたあたりも、この演説の起草者
の偉いところだ。

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