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2015.08.16

京大吉田寮老朽化により解体まじか

産経新聞に以下の記事が掲載された。昭和35年、36年とこの寮で生活経験のあるOBとしては感無量の思いである。たまたま吉田寮の後輩達が吉田寮50年記念の文集を編集するということで投稿することにした。併せて掲載しておくことにしよう。

吉田寮の募集停止求める…最古の学生寮「耐震性欠き、命に危険」 京都大


2015年7月30日 11時27分
産経新聞

 京都大は29日、大正年間に建設された現存する日本最古の学生寮とされる吉田寮(京都市左京区)について、耐震性を欠くことなどから寮生の募集停止を求める通知を同寮の自治会に出したことを明らかにした。

 吉田寮は、キャンパス内にある木造2階建て延べ約3800平方メートルの建物で、定員は約150人。大正2(1913)年の建築で老朽化が進んでおり、平成17年度と同24年度の耐震診断で「耐震性を著しく欠く」とされた。京都大は以前から建て替えを検討しているが、寮生の反発もあり結論は出ていない。

 今回の通知は、杉万俊夫副学長名で7月28日付。吉田寮自治会に対し、今年度の秋季から入寮者の募集を行わないこと▽寮生の退寮に伴う欠員補充の募集を行わないこと-の2点を求めている。学生寮をめぐるこうした通知は異例だが、強制力はないという。

 京都大は「今のままでは大地震が発生した場合、寮生の生命が危険にさらされる。学生寮について管理の責任を負う大学として、寮生は新棟に順次転居してもらうことが必要と考えている」としている。以上産経新聞からの転載。


筆者注

次の写真は新しく完成した吉田新寮である。画像と写真の説明は朝日新聞2015.4.21付記事から転写した。
Photo

京都大学吉田寮の新棟(左)。右のイチョウ並木の奥にあるのは築100年を超える現棟=左京区


以下は吉田寮50年記念文集への投稿

元祖同釜会会員の軌跡と「野田のおばちゃん」のこと

同釜会と称する懇親会は日本国内に沢山あるようだ。その意味するところは同じ釜の飯を食った仲間達ということのようであるが、ドウフカイと読ませたりオナカマカイと読ませたりしている。

ところで京都大学の関係で同釜会と称するものが二つある。その一は我が吉田寮(大正2年建設)同釜会でありその二は熊野寮(昭和39.40年建設)同釜会である。

 さて吉田寮同釜会の会員は、昭和33年に京都大学に入学し一年間宇治分校で授業を受けた。学生寮は黄檗山万福寺の近傍に南北二棟の木造二階建ての宇治寮がありここで生活した。二回生に進級すると宇治寮生の過半の者は下阿達町に新設された吉田西寮に移住した。

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 ↑吉田寮西寮の寮生
  
入寮希望者に対する選考面接は学生寄宿舎近衛寮(後に吉田寮と改称)の学生委員により行われた。当時施設管理は大学が行い、寮生活の運営は入寮・退寮の決定を含め寮生の自治に委ねるという不文律が存在したからである。

ところで吉田西寮は木造二階建て南北二棟からなっており京都織物株式会社の女工寮であったものを大学が購入し学生寮に転用したものである。我々が初代入居者となった。宇治分校が昭和36年5月に廃止されるのに備えた措置であった。この西寮は相部屋で六人に対し18畳敷の部屋を階上階下に一室ずつ計二室が貸与された。二階は勉強部屋、一階は寝室に供された。食事は近衛町の寮内食堂で、昼食と夕食が供された。食堂への往還にはアルトハイデルベルグ(末尾記載の歌詞)を高唱しながら歩いたものである。朝食は大学構内の生協食堂で喫食し入浴は銭湯を利用した。

三回生になると近衛町の吉田寮へ移住し二人に8畳の部屋一室が割り当てられた。四回生になると6畳の個室が与えられた。

春が来たかと 吉田のお庭に サーコリャ 
桜散った 散った ステネコシャンシャン
夏が来たかと 吉田のお庭に サーコリャ
蛍飛んだ 飛んだ ステネコシャンシャン
秋が来たかと 吉田のお庭に サーコリャ 
紅葉散った 散った ステネコシャンシャン
冬が来たかと 吉田のお庭に サーコリャ
雪が降った 降った ステネコシャンシャン

 夜も更けてくると廊下が俄かに騒がしくなりパンツ一枚になった酔漢達(中寮のパンツストームが有名であった)が肩を組み上記の歌詞を歌いながら各部屋へコンパ後の挨拶に回ることがある。旧制三高時代の遺風を引き継いだストームである。「友よ、高揚して愉快な今の俺のこの気持ちを共有しようではないか」というのがその心である。寮で同僚と顔を合わせたときには先輩後輩の区別なく「オッス」と言葉を掛け合って挨拶に代えるのも寮の慣習であった。

昭和36年にNHKから放映された「現代の素顔・学生寮・・・・大学における人間性回復の方向」と題する動画を次のURLで見ることができる。当時の学生寮の生活の実態やストームの様子を窺うことが出来る。

https://www.youtube.com/watch?v=p11lC1_h0b4&feature=youtu.be

 吉田寮の生活で忘れることの出来ないヒロインがいる。「おばちゃん」の愛称で寮生達から慈母の如く慕われた寮母の野田もとさんである。昭和15年から昭和36年まで約20年間学生寄宿舎に勤め、この間延べ1200人余りの舎生がお世話になっている。

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 野田さんは昭和14年45歳のとき夫に先立たれ、一人子の長男をも昭和21年に失いその後は殆ど孤独のうちに過ごされた。おばちゃんの在職された時期は激動の時代であり、舎生達の青春の生き証人として学徒出陣、敗戦、食糧難、天皇事件、滝川事件、荒神橋事件、60年安保騒動等のはざまに浮き沈みする舎生達の生活を見守ってこられた。舎友名簿には戦死と記載されている先輩の名も多い。

おばちゃんに初めてお目にかかったのは、吉田寮の事務室へ寮費を納めに立ち寄った昭和34年4月のことであった。「上着を脱いで御覧なさい、ボタンが取れていますよ」と、今では前世期の遺物となってしまった学生服を剥ぎ取り、老眼鏡をかけていそいそとボタンをつけて下さった。その時、慈母に接しているような甘えに似た感情を抱いたことを今でもはっきり思い出すことが出来る。我が子に接するのと変わらない愛情は、数多くの舎友に等しく注がれ舎友達の心の支えとなった。病気の舎生の看護・洗濯、針仕事などの他に、食糧難の時代におばちゃんの自宅に連れて行かれ、手料理を御馳走になり衰弱した体に元気が蘇ったとその想い出を「われ汝を見捨てじ」と題する追悼集に寄せた舎友も多い。

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卒業して何年か後に同窓会を開いて学生時代を懐かしむ舎友の集いの中には必ずおばちゃんが招待されていた。高齢になっても日曜毎に教会へ通うことを楽しみに、一人暮らしを続けるおばちゃんの生活を気遣って、多くの年輩の舎友達が援助の提案をされた。しかし頑張れるだけ頑張って人に迷惑をかけないよう一人で生き抜きたいという強い意志を最後まで貫き通し昭和59年6月に90歳の天寿を全うされた。遺書の一節に「すべてをなし終えたら臨終の床だ。来たれ我が友よ。われ汝を見捨てじ」と記されていた。遺言により自宅をはじめつつましやかな遺産は社会福祉事務所に贈られた。京大医学部には自ら献体されて医学の研究の一助になろうとの意思を示された。おばちゃんの逝去は「90歳で紅燃ゆる丘に眠った京大寮母の生きざま」という題名で同年7月15日のサンデー毎日でも報道された。

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 さて以下は同釜会元祖と僭称する理由である。
 昭和33年入学入寮の寮生達が平成2年7月に文集を発行し、文集の題名を「同釜」とした。爾来、同期寮生の集いは同釜会と呼ぶようになり、隔年毎に京都と東京で懇親会を続けている。また分科会として囲碁部を設け東京・横浜で毎月例会を開き常時10名前後の集まりがあり懇親と情報交換を続けている。

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 我々が吉田寮で生活した同世代の寮生でマスコミに露出頻度の多い寮友には元最高裁判事・泉徳治氏(昭和32年入学)、家庭裁判所判事として酒鬼薔薇聖斗事件を裁いた井垣康弘氏(昭和33年入学)、ニホンザルの生態研究で著名な宮城教育大学名誉教授の伊沢紘生氏(昭和33年入学)がいる。          

以下はアルトハイデルベルグの歌詞

遠き国よりはるばると
熱河の流れ懐かしく
岸に来ませし我が君に
今ぞ捧げんこの春の
いと麗しき花飾り。

いざや入りませ我が家に
されど去ります日のあらば
忘れたもうな若き日の
ハイデルベルグの学び舎の
幸ち多き日の思い出を。      

昭和33年頃の京大生の標準的な服装・・・園遊会にて

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吉田寮内の歌唱愛好会のコールポコチの記念文集に投稿した原稿を見つけたので併せて記録に留めておくことにする。

コールポコチと寮生活の思い出と余生 
    宇治寮、西寮、北寮昭和37年卒。大熊 尭

 「女工哀史」で有名な京都織物の旧女工寮(左京区下阿達町)を大学が買収し昭和34年4月に吉田寮西寮を開設した。筆者はこの西寮の第1期入寮生である。過半の西寮生は宇治寮からの転入であったが新規に西寮に入寮した寮生もいた。

施設管理は大学が行っていたが「自治寮」を標榜していた京都大学学生寄宿舎近衛寮では入寮希望者の選考を寮生である学生の手で行い大学は関与しないという不文律があった。筆者も吉田寮入寮希望者選考委員会の一委員として選考に加わった栄誉を有す。

西寮の開設に伴い近衛寮も呼称を吉田寮と変更し吉田寮には3回生と4回生が生活することになった。西寮には2回生だけが生活した。3回生になると吉田寮に転寮し4回生になると待望の個室が与えられた。部屋備え付けの電熱器は重宝であった。

 西寮では6人の相室で2階に12畳の勉強部屋、1階に12畳の寝室が与えられ6人で
2部屋を使用した。食堂は西寮には設置されていなかったので吉田寮まで食べに通った。

 吉田寮事務室には寮生に慕われた野田のおばちゃんが健在でその謦咳にも触れることができた。おばちゃんが退官されたのは昭和35年であったと記憶する。

 食事に毎日通っているうちにコールポコチという歌う会のあることを知った。「ポコチ」とは何ぞやときくと「ポコチとは本人は真面目に真剣にやっているつもりでも傍からみると何処か抜けていておかしい」という意味だ。と解説してくれる人がいた。生来の音痴を自認している身にとっては多少でも音痴が矯正されるのであればポコチで皆と歌うのも良かろうと判断しコールポコチに入団することにした。

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↑ 1959.11.文化祭に出演後

 何回か練習にも参加し女子団員との合同練習にも参加したことがある。吉田寮の同一構内にある部活用の建物であったか医学部構内の教室であったか記憶は定かでない。

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↑青谷療養所慰安演奏後・カルテットのメンバー 昭和34年10月


 女子部員と合ハイに出かけて楽しかったと述懐する寮友が多いが筆者には合ハイに参加した記憶がない。多分運悪くアルバイトの日程と競合して参加できなかったのであろう。

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↑ 1959.12 クリスマスパーティー 生研会館

 ミレニアム記念で2000年に京都でコールポコチの会合が土曜日に催された時には昭和37年卒寮生の同期会である「同釜会(どうふかい)」が前日の金曜日に開催されたので遠来の参加者に便宜であり初参加した。この時参加者が百名近い大盛会であったことは驚きであり、卒寮以来初めての先輩諸賢や後輩諸君と旧交を温めることが出来たのは嬉しいことであった。

 寮生であった弁護士の守井雄一郎氏が「余生に遊ぶ幸せ論」の中で述べているように人生を三分割して捉えてみれば、
第1期の親の脛を齧りながら愚行を重ねつつコールポコチにも出会いひたすら学んだ時期。

第2期は子孫を残し家族を養う時期であるがこの時期はポコチのことも忘却の彼方へあった。

第3期の全ての柵から解放されて自分のために多くの時間を割ける余生の時期に、忘却の彼方にあったコールポコチが蘇り再び平成20年4月5日コールポコチの皆さんと再会できたことは余生を楽しむ身にとって、日々の思い出に輝かし一齣を付け加えてくれた。幹事各位のご尽力に感謝しつつ筆を置く。


         

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コメント

吉田寮のOBとして老朽化した寮の存続には関心のあるところである。そこで吉田寮の公式サイトで確認してみると、ここでも朝日新聞が誤報をしていることがわかった。

以下の記述は吉田寮公式サイトからの転写である。
https://sites.google.com/site/yoshidadormitory/

2015年4月21日の朝日新聞による吉田寮新棟記事に関する意見表明 2015/06/15
平成27年6月15日

平成27年4月21日付の朝日新聞・吉田寮に関する記事に対する意見表明
吉田寮自治会 

2015年4月21日に朝日新聞の朝刊・地域面にて吉田寮新棟に関する記事が掲載されました。確認しましたところ、この記事は甚だしい事実誤認や意図的に過去の議論の経緯を排したかのような文章であり、吉田寮自治会として大変遺憾の意とともに、以下の意見表明をします。

1 今現在、吉田寮自治会と大学当局との間で現棟の老朽化対策について、建替えではなく、あくまで補修を前提とした対策を議論している最中である。よって記事における「大学当局の主張する建替えと自治会の主張する補修との対立」という内容はまったくの事実誤認である。

2 吉田寮では自治会の代表者という概念はなく、あくまで吉田寮生一人一人を以って吉田寮自治会の構成員としている。よって記事における「自治会の代表者」という内容はまったくの事実誤認である。

3 吉田寮新棟はかつて存在した吉田寮西寮の代替として建築されたものであり、決して吉田寮本棟を解体、建替えを前提とした代替スペースではない。この記事では吉田寮本棟があたかも危険極まりなく、かつ新棟が本棟の代替スペースかのような書き方になっており、極めて遺憾である。

4 この朝日新聞の記事は過去の経緯を排しており、誤解を生む危険性が非常に高いと言わざるを得ない。具体的には1980年代に吉田寮が廃寮の危機にさらされた時(通称「在寮期限闘争」)に、吉田寮生が逮捕される事件が発生したが、なぜ逮捕されたかの経緯がかかれていないままでは、誤解を生むのは想像に難くない。また吉田寮の自治に賛成の人もいれば反対の人もいるという書き方がされているが、これらは主体が誰なのか明示されておらず、非常に曖昧である。そしてそもそも吉田寮が現在本棟の老朽化対策を大学当局との間で協議しているが、なぜ今になって協議を行っているかの経緯が書かれていない。このような曖昧な文章それらに至った経緯を排した文章では読み手に誤解を生じさせる危険がある。

5 1から4にて述べた様に、朝日新聞の吉田寮に関する記事は事実誤認や不正確な文章であり、吉田寮自治会として看過できない。よって吉田寮自治会は朝日新聞に本記事の訂正を求める。
以上

2015年4月21日の朝日新聞による吉田寮新棟記事に関する意見表明 2015/06/15
About yoshida dormitory
『在寮期限』資料集について
p003
アーカイブ
2013年度入寮パンフレット正誤表
入寮案内 2015年
吉田寮について
声明
2014年11月13日の警視庁による熊野寮の家宅捜索について
2014年11月4日の私服警察官による京都大学構内への無断立ち入りについて
2015年8月4日に吉田寮自治会が京都大学当局に対して出した抗議声明文
2015年8月4日に提出した京都大学総長山極壽一殿への公開質問状
確約集
150212確約書
150729 確約書
150730 確約書
サイトマップ

参考までに筆者は2015.4.21付朝日新聞の記事を調べてみた。以下は同記事の転写である。但し、新寮の画像はコメント欄には表示できないので本文の項へ転写しておいた。

京都)京大吉田寮に新棟完成 現棟交渉は続く
佐藤剛志
2015年4月21日03時00分

京都大学吉田寮の新棟(左)。右のイチョウ並木の奥にあるのは築100年を超える現棟=左京区


 国内にある学生寮で有数の歴史を誇る京都大学吉田寮(左京区)に新棟(西寮)が完成した。かつては学生運動の拠点となり、1980年代には廃寮を決めた大学と学生側が激しく対立。現在も築100年を超える寮の建物(現棟)のあり方をめぐり交渉が続く。新棟は3月27日に完成し、4月1日に自治会の代表者に鍵が引き渡された。

 吉田寮は東京大の駒場寮(すでに廃寮)、北海道大の恵迪(けいてき)寮、東北大の明善寮とともに「日本四大自治寮」に数えられる。寮の運営や入居者選考は寮生自身が担い、入寮者には自治活動への参加が求められる。

 3棟をE字形につなげた現棟の木造2階建ての建物は13(大正2)年に完成したとされる。巨大なイチョウ並木の奥に玄関を構えた姿は独特の雰囲気を醸し出しており、学生や地域住民から長年親しまれてきた。

投稿: 早島潮 | 2015.08.03 12:23

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