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2015.09.17

元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報

以下は全て産経新聞からの転載である。歴史資料として保存することにした。

元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報

「阿比留さんだからと逃げることはない」

朝日新聞の初期の慰安婦報道に関わった植村隆元記者(北星学園大非常勤講師)が、初めて産経新聞のインタビューに応じた。インタビューは7月30日午後に札幌市内のホテルで行われた。インタビューを担当したのは本紙政治部の阿比留瑠比編集委員と外信部の原川貴郎記者。約2時間にわたってやりとりが続いた。
インタビューの詳報を10回にわたり紹介します。

「(インタビューを)産経新聞がやってくれるの想定していなかった」

植村「どうも初めまして植村です。いろいろご質問があるということなので、順次やろうと思うんですが、その前にちょっと、今回わざわざ東京から来られて、ちょっと取材経緯といいますか、意図といいますかですね、その辺のところを教えていただいて…と思うんですけど。いいですか」
阿比留「どうぞ。まず今回は、当初は植村さんに特に焦点をあてる意味ではなくして、朝日新聞による慰安婦検証記事からちょうど1年になりますので、それで1年で何が変わったか、変わっていないのかみたいなことを特集しようということになっておりました。そして、今回改めて植村さんに取材を申し込んだところ、今回はお受けいただけるということですので…。ならばそれは植村さんのインタビューをきっちり載っけたいなということですね」
植村「ああ。そうすると私のインタビューということですか? 原川さんの話だと、特集記事の中にデータとして生かすということだったんですけれども」

原川「まあ、まあ、そうですね、インタビューというか、この取材自体はもう、形式としてはインタビュー取材でしかないと思うんですけど」
植村「ええ、もちろんそれはそうですよね」
原川「形式として植村さんにお伝えしていましたように、いわゆる一般記事の中でご見解とかご発言を引用させてもらうのと、あとおそらくそれでは全て盛り込めないでしょうから、その部分は別途、その一問一答形式とかですね」
植村「そういうのを産経新聞がやってくださるんですか。今まであまり想定していなかったんだけど」
阿比留「いや、でもこれは今までも何度か植村さんには、まあそのたび違う人間かもしれませんが、取材は申し込んで…(きました)」
植村「いや、あのねえ、去年の10月くらいに申し込まれたことは一度あって、その時は書面回答させていただいて、対面取材はなかったですよね。それで1月9日に阿比留さんとお会いして、『どうぞ』ということだったんですけど、その後は申し込みはなかったですよ(注:植村氏は1月9日に文芸春秋と東京基督教大の西岡力教授を相手に損害賠償と謝罪記事の掲載などを求める名誉棄損訴訟を起こし、その後に記者会見した)」
阿比留「その後は植村さんにスポットをあてる理由が特になかったものですから、申し込んではなかったと思いますけれど。そういうわけでですね、せっかく植村さんにお話いただけるならば、今までわれわれが疑問に思っていた点も説明していただければお互いすっきりするかなあということです」

植村「なるほど。すっきりしてくれるのかしら」
阿比留「それは話次第でしょうけど」
植村「でもまあ一つは、もともといただいた質問状に書かれたのも、私が文芸春秋で手記を書いたことにかなり網羅されていると思うのですけれども。だいたい経緯は分かりました」
「取材担当者が変わった理由は?」
植村「今までいろいろなインタビューというのは…当然、僕は今すっごいバッシングを受けているんですよ。その一言、一言で激しく反応する人がいて、基本的にインタビューであればゲラをもらったりしているんですけれども、産経新聞というのはそういうことをやってくださるんですか」
阿比留「それは普段はしませんが、例えば植村さんが話した部分だけをピックアップして、それをお渡しするくらいのことはできるかと思います」
植村「ああ、そうですよね。だいたい今までどこの新聞社もそういうふうにやっていただいている。というのはご存じだと思うんですけど、あの、ひどいんですよ。卑劣な攻撃。娘が脅迫されてましてね。『殺す』というので、パトカーが家を回っているとかですね。そんなような状況なのでね、その辺は非常に配慮していただきたいというのと。分かりました。
それからもう一つお尋ねしたいのは、今日あの、今回ですね、最初の取材の時には原川さんと、もう一人の別の政治部の方が申し込まれて、僕が『(7月)29(日)か30(日)くらいだったら都合がいいですよ』ということになったんですが、突然、その、えーっと、取材担当者が変わったというのはなんか理由があるんですか」

原川「特にないですよ。まあ7月中ということでお願いしていて、どの日になるか分からないので取りあえず取材に行ける可能性が高い別の者を私の名前とともにお伝えしたところ、たまたまいただいた日にちというのがどうしてもその記者の取材が入っていて動かせないということで。そういう経緯です」
植村「ふーん」
原川「それでじゃあもう一人、原川の他に誰を取材に行かせるかということで阿比留記者になったと…」
植村「ということで」
原川「別の日程であればそのまま…」
阿比留「私は29日または31日だったらダメだったんですよ。今日30日ならあいていた」
植村「ということはもう一人の人は29日も30日もダメだった?」
原川「そうです」
植村「なんとなく裏読みする人がいてですね、阿比留記者が最初から申し込んだら植村が断るんじゃないかと」
阿比留「はは」
植村「なぜそんなことを言うかと言ったら、結構そういうのがやっぱり流れているんですよ。産経新聞から逃げ回っているというのがね。ご存じだと思うんですけれども、そういうのがありまして。僕は阿比留記者だから逃げるということはなくてですね、それは1月9日に名刺交換したとき、阿比留さんがね、『取材しますから』と言って、その後もお待ちしていたんですけれども(取材依頼が)なかったということがあったんで。別に阿比留さんが申し込んでくださっても、植村は別に、もともと逃げてなくてね、産経新聞には回答しているんですからね。その辺のところは正確に把握していただきたい」

阿比留「別に逃げられたとは思っていませんけどね。その前段階としてうちの記者が(北星学園)大学に行って(大学側と)交渉したけれど結局無理だったということもありましたからね」
植村「まあ、それは手続きはあると思うんでね。最初にどっか申し込んできたらあれだけど、突然来て大学がびっくりしたみたいで。まあ、あのよかったんです。僕は阿比留さんと実はお会いしたいと思っておりまして。というのは今日取材受けますけれども、せっかく阿比留さんが来たんで、これは私にとっても、とっても大事なチャンス。なぜなら産経新聞の方々とこうやってお話できる。で、まあ、僕は今、名誉毀損訴訟もやっていたりするんで、本来ならなかなかね、その、慎重なことにならざるを得ないんだけど、阿比留さんがいらしているということもあったんで。ちょっとまあ、インタビューに入る前に一つだけ阿比留さんに聞かせていただきたいことがあって」

「『歴史戦』でいきなり植村の話が出てくる」

植村「あのー、私は、『歴史戦』(産経新聞出版)という本を読ませていただいて。ここに阿比留さんの序文がありまして、ここを見るともういきなり植村の話が出てくるんですよね」
阿比留「ああ、(平成26年9月11日の朝日新聞社の木村伊量前社長の記者会見時の)質問のところですね」

植村「質問のところね。これ、阿比留さんの文章だと思うんですけど、『記事では(元慰安婦の)金(学順氏)は匿名となっていたが、親から売られたという事実への言及はなく、強制連行の被害者と読める書きぶりだった』というのが書かれていた。これについてちょっと最初に教えておいてほしいの。まあ今日の質問とも関連してくると思うんですが、やっぱりこれだけの部数の本にこういうふうに書かれているということでね。これ、一体どういうことですか。『親から売られたという事実への言及がなく』というのはどういう意味ですか」
阿比留「金さんが『母親に40円でキーセンに売られた』というふうに述べていることに関して、その時点で植村さんがですね、どの程度知っていたのか知らなかったのか分からない段階で、当然持つ疑問だと思うんですね。あと連行ということ、強制連行ということも…」
植村「ちょっと待って。要するにキーセンに売られたことが問題なんですか」
阿比留「私は重要なことだと思っているんです。それは後での質問…」
植村「もちろん出てくるんだけど。それもまあ、今ねえ、これテーマ設定ということで。キーセンに売られたということと慰安婦になったことがどういうふうに関わっていると…」
阿比留「慰安婦とは限りません。例えば売春婦という場合もありますけども、いわゆる軍関係じゃなくてですね。すでにキーセンに40円で売られた段階で、そういうふうになる可能性がですね、当時の朝鮮、日本でも似たようなものだったといいますが、あったわけですから。そういったことを個人の来歴の中ですね、どういう育ち方をしたかということについて重要だと私は考えました」

植村「可能性があるということで、個人の、まあ売春婦みたいな、可能性があるということでそういうのを書く必要があるんでしょうか」
阿比留「あのー、その人のですね、どういう立場でどういうふうな暮らしをしていたかということはやはり必要だと思いますね」
植村「ああそうですか。(言いたいことは)分かりました。じゃあ産経新聞は、親から売られたというのを当時、書かれていたんでしたっけ」
原川「キーセンについては、当時の訴訟、1991(平成3)年12月6日の訴訟を受けての記事などでは、当時は特に金学順さんだけにスポットをあてた記事ではなくて、訴訟全体を書いているものですから、そういうくだりはありませんね」
植村「個人の来歴を、もし仮に阿比留さんが必要だと思えば、当時、産経新聞は書くべきだったんですかね」
阿比留「それは、しかしその例えば、植村さんがご自身が書かれた記事は匿名ではあるけども、個人にスポットをあてた記事ですよね? 個人にスポットをあてた記事であれば、私は産経が、過去の記事全部をチェックできているわけじゃないので分かりませんけれども、書いた方が正確であろうと思います」
植村「なるほどね。書いた方が正確だったと。分かりました。それはまあ、あの、意見ですね。それからもう一つ。強制連行の被害者という書きぶりだったと。これもたぶん後で上がってくると思うんですけど、やっぱりアジェンダ設定で聞いておいた方がいいと思うんですけど。これはどういうふうに」

「『強制連行』僕は使っていない」

朝日新聞で初期の慰安婦報道に関わった植村隆元記者(北星学園大非常勤講師)が初めて産経新聞のインタビューに応じた。インタビュー詳報の2回目は次の通り。聞き手は本紙政治部の阿比留瑠比編集委員と外信部の原川貴郎記者。

「『連行』を強制連行の意味にとる?」

阿比留「もう一つ付け加えるならば、植村さんの記事は朝日新聞が(韓国女性の強制連行を証言した唯一の日本側証人、自称・元山口県労務報国会下関支部動員部長)吉田清治氏を取り上げ始めた後に出ておりますので、吉田氏が強制連行したという対象、まあ、似たような、吉田氏がやったとはかぎらないにしても…」
植村「うん、吉田清治さん、なるほどね」

阿比留「その当事者がとうとう名乗り出たかというふうに受け止められる可能性はあるわけですね」
植村「ということは吉田さんが金学順さんを連行したという…」
阿比留「いや、そういう意味じゃなくて、そういうふうに吉田さんが、もし本当に強制連行したなら個人だけじゃなくてほかに似たようなことをやった人がいるということになりますので、その誰かがということですね」
植村「連行のところ、まあこれからまたちょっと議題全体でいいんですけど。例えばね、産経の正論の筆者の西岡(力・東京基督教大教授)さんという人が、連行という言葉について、ここにこういうふうに書いているんですよ(論文集の中を示して読み上げる)『朝日に限らず、日本のどの新聞も金さんが連行されたプロセスを詳しく報ぜず、大多数の日本人は当時の日本当局が権力を使って、金さんを暴力的に慰安婦にしてしまったと受けとめてしまった』とある。この場合の連行というのは、原川さんどういう意味ですか。強制連行の意味ですか」

原川「まあ、強制連行、まあ先ほど阿比留も申し上げたように『連行』という言葉自体が、強いる、本人の意思に反して、どこかへ連れて行くという意味がありますから、ま、あの、強制連行というか、ま、あの、どこかに連れて行かれたんだろうなと…」
植村「だから僕もどこかに連れていかれたんだろうかなという、原川さんと同じ考えで使ったんですよ」
阿比留「でも『戦場に連行』と書かれています」
植村「これはどうですか。じゃあこの(西岡氏の論文中の)『連行』というのは強制連行の意味にとるんですか」
阿比留「これはしかし、個別具体に見ないとこれだけじゃちょっと分からない」
植村「分からないけれども、これは金学順さんの話ですよね」
阿比留「うん。あっ、この西岡さんが書いているもの、そのものがという意味ですか」
植村「うん、そうそう、連行の部分の…。つまり、連行というのは僕は連れていかれた、原川さんと同じような意味ね」
阿比留「それは西岡さんに直接聞いていただかないと、無責任に答えるわけにはいかない」

「挺身隊が慰安婦の意味で使われていた時代が長かった」

植村「なるほどね、分かりました。じゃあ最後に、始まる前にアジェンダ設定。『強制連行の被害者と読める書きぶりだった』とあるんですけど、私は何回も繰り返しているから阿比留さんももちろんご存じだと思うんだけど、だまされたって書いてはいるんだけど、これってやっぱり強制連行の被害者と読める書きぶりと、阿比留さんは判断される」
阿比留「やはりリード(前文)を読むとですね、『女子挺身隊の名で戦場に連行された一人が』と書いてありますので、これは強制連行というふうに普通、読めるんじゃないかなと思います」

植村「読めるんじゃないかなと。もう一つ質問させてほしいんですが、強制連行って、僕は使っていないと言うんだけど、阿比留さんはずっと強制連行だというふうに言ってる。ところで強制連行って書いたらまずいんですか」
阿比留「強制連行? まあ、主語が問題ですよね」
植村「まあ、主語というか、普通、『強制連行』とよく書きますよね、日本の新聞はね。金学順さんは、僕は強制連行と書いたつもりはないんですよ。だけど阿比留さんたちはいつも強制連行の被害者うちの一人と。じゃあ僕がもし仮に強制連行と書いていたとしてなんか問題があるんですか」
阿比留「要するに、ここが植村さんと後で話をしようと思ったんですけれども、要は主体がですね、軍や官憲による強制連行であるか、あるいは民間の業者や、女衒その他もろもろが無理矢理引っ張っていったと。無理やり引っ張っていったのを強制連行という言葉を使うとするとそれも強制連行になるんでしょうが。主語、主体が誰によるかによって全然話が違ってくると思っているんですね」
植村「なるほどね。全然話が違ってきて、そうすると、何が、軍が主体だったら強制連行、事実じゃないとかそういうこと」
阿比留「そうですね」
植村「ん~。民間業者は強制連行じゃないと」
阿比留「民間業者のことは、一般的に強制連行という言葉を使うかどうか分かりませんが、強制連行とまあ、仮に言っても構わないと思いますけども、一般的には使っていないですよね」
植村「軍がやる?」
阿比留「軍や官憲ですね。官憲というのはこの場合は主に警察を指しますね」
植村「なるほど。で、私の記事も軍や官憲が強制連行したみたいな書きぶりだったというふうに解釈された?」

阿比留「最初の女子挺身隊の名で戦場に連行され、と書くと、軍や官憲が主体であろうと普通は考える。それは植村さんの意図がどこにあったかは、これから、後で話していただければいいんですけど。そう読み取れるということです」
植村「そうするとやはり金学順さん、軍や官憲じゃないのにあれを書いたから強制連行と読める書きぶりだったというふうに書いているわけだね」
阿比留「まあそれもね、実は(本の記述は平成26年9月11日の木村伊量前朝日新聞社長の記者会見の)全文(掲載)じゃなくてちょっと縮めてるからそうなっている部分もあると思うんですけどね…」
植村「だけど縮めているったって僕はこれしか読めないからね。そしたら、ほかの新聞も強制連行といっぱい書いているんですよ。これね。阿比留さん、資料集(植村氏の支援団体作成)を見ていただければ。当時、まあいっぱい書いているの。それでね、後でゆっくり見といていただければと思いますが…。参考メモで、『挺身隊=従軍慰安婦』という図式で。まあ、見ていただくと当時、多分、阿比留さんはご存じだと思うんだけど、女子挺身隊とか挺身隊が慰安婦の意味で韓国で使われておった時代が長かったんでね。まあ、それはちょっと参考なんですが」

「(産経の報道は)間違っている?どこが間違っている?」

植村「一つお聞きしたい。そうしたら、阿比留さん、この記事はどう読む?(平成3年12月7日付の産経新聞大阪本社版記事を示す)」
阿比留「ああ、(記事は)間違っていますね」
植村「間違っている?」
阿比留「はい」
植村「間違っている?」
阿比留「間違っていると思いますね」

植村「どこが間違っているんですか?」
阿比留「『日本軍に強制的に連行され』」という(部分)」
植村「これは産経新聞の記事ですね?」
阿比留「だから、うちが間違っているんですね」
植村「訂正かなんかやられたんですか」
阿比留「これは今日、初めて見ましたから訂正したかどうかはちょっと分かりません」
植村「これ、間違っているんですか」
阿比留「間違っていると思いますね」
植村「2回も書かれていますね?」
原川「別の記事ですか」
阿比留「これですね。この部分のことを言っているんですか」
植村「いやいや、その日本軍に…」
阿比留「あっ、こっちか」
植村「日本軍に強制的に連行、とありますよね」
阿比留「うん。間違っていると思います」
植村「間違っている! これは『金さんが17歳の時、日本軍に強制的に連行され、中国の前線で、軍人の相手をする慰安婦として働かされた』というのを書いた12月7日の産経新聞大阪版。これは金学順さんの記者会見の時の取材で書いていますね。これ間違っている?」
阿比留「うん」
植村「間違っている? これはね93(平成5)年8月(31日付の産経新聞大阪本社版)の記事。(記事を読み上げる)太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年ごろ、金さんは日本軍の目を逃れるため、養父と義姉の3人で暮らしていた中国・北京で強制連行された。17歳の時だ。食堂で食事をしようとした3人に、長い刀を背負った日本人将校が近づいた。『お前たちは朝鮮人か。スパイだろう』。そう言って、まず養父を連行。金さんらを無理やり軍用トラックに押し込んで一晩中、車を走らせた」って出てるんですけど、これも強制連行ですね。両方主体が日本軍ですけど、それはどうですか」

阿比留「間違いですね」
植村「間違いですか? ふ~ん。これがもし間違いだったら、『朝日新聞との歴史戦は、今後も続くのだと感じた』って阿比留さんは書かれているんだけど、産経新聞の先輩記者と歴史戦をまずやるべきじゃないですか。原川さんどうですか」
原川「私、初めて見ましたので、どういう経緯でこうなったか、どこまで調べられるか。これはちょっと日付をメモさせてもらって」
植村「いや、あげます。調べて、間違いだったらそれがどうなのか、どうするのかも含めて知らせください。歴史戦というのは、もし歴史戦を皆さんがやっておられるんであれば、たぶん真実のためにやっておられると思うんです。皆さんがね。であれば、先ほど間違ったとおっしゃったことに対しても、謙虚に向かうべきだと思います」
阿比留「そうですね」

「日本のジャーナリズム史に残る取材だ」

植村「阿比留さん、やっぱり今回の取材というのは日本のジャーナリズム史に残る取材だと思うんです。なぜならば、やはり阿比留さんがこういうふうな形で、私はだまされて慰安婦にされましたと書いているにもかかわらず、強制連行の被害者と読める書きぶりだったというようなことで本を出されている。僕は非常にそれによってやっぱり迷惑をこうむっている。
僕はだから言論戦できちっと今日、説明しますけど、それと同時にあなたたちの会社、そしてあなたたちの言動もまた歴史に検証されるということを理解していただければと思います。今回のインタビューは、私も発表させていただきます。そういうことであります。じゃあ、あの、長々としゃべりましたけれども。ちょっとじゃあ、阿比留さんどうぞ」

「(証言テープは)持っていない」

阿比留「まずですね、(昨年12月発売の)文芸春秋に発表された手記の中でですね、平成5年8月11日付の初報の記事(※植村氏の署名記事。「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、『韓国挺身隊問題対策協議会』が聞き取り作業を始めた。同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。-中略-尹代表らによると、この女性は六十八歳で、ソウル市内に一人で住んでいる。-中略-中国東北部で生まれ、十七歳の時、だまされて慰安婦にされた」と記述)ですね。これは、『テープを聞いた日のことはいまでも忘れられない』と(手記に)書かれているのですが、(元慰安婦と最初に名乗り出た金学順氏の)証言テープというものは今どこにあるんでしょうか」
植村「あ、これはもちろん僕は持っていません。それはだって、韓国挺身隊問題対策協議会のテープでありまして」
阿比留「持っていないわけですね」
植村「持ってないです」
阿比留「つまり、聞いたのはその時一度だけということでしょうか」
植村「そうですね。はい」
阿比留「そうすると、あまり細部のことは、記事にした以上のことは明確に覚えていない部分もあるということになりますか」

植村「そうですね」
阿比留「それでですね、私ども、ちょっと不思議なのはですね、誰とも分からない、挺対協が出元とはいえですね、誰とも分からない、名前も分からない、証言テープだけですね、しかも1回聞いただけでですね、このような記事にできるものかなあと不思議なんですね」
植村「うーん、なるほどね」
阿比留「記者の作法としてですね」

「状況を分かって☆ミいんだ、阿比留さん」

朝日新聞で初期の慰安婦報道に関わった植村隆元記者(北星学園大非常勤講師)の産経新聞インタビュー詳報の3回目は次の通り。聞き手は本紙政治部の阿比留瑠比編集委員と外信部の原川貴郎記者。

「テープだけ聞いて書いたわけではない」

植村「(言いたいことは)分かりました。それが、まあ、いつも阿比留さんがおっしゃっていたことなんで、ここで言いましょう。阿比留さん、僕の記事(1991年8月11日付朝日新聞大阪本社版社会面記事)って読まれたことあります?きちんと」
阿比留「きちんとと言うか、どの記事ですか」
植村「だから僕のその、批判されている記事」
阿比留「ああ、読みました」
植村「じゃあ、ちょっと見てみましょう。(資料集の)5ページですよねえ、どうぞ。この記事というのはですねえ、まあ阿比留さんも新聞記者を長くやられているから分かると思いますけれども、信頼できる韓国の団体が慰安婦のおばあさんの証言を取り始めた、というのがメーンの記事ですよね。前文にありますよね、女子挺身隊の名で戦場に連行された朝鮮人慰安婦のうち一人がソウルに生存していることが分かって、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が聞き取り調査を、作業を始めたと。まあ、要するに新聞で言うところの一報なわけですよね。その場合、当然信用できる団体が調査しているということで取材に応じてくれた。そして記事を見ていただくと分かりますけれども、これ『尹(貞玉)代表らによると』というのがずっと長くあって、つまりテープだけ聞いて書いたわけではないのです。突然僕が一人の部屋に置かれて、テープだけ聞いたわけじゃない。テープを聞きながら解説をしてもらうわけですよね。調査団体に」
阿比留「テープを聞きながら解説をしてもらったわけですね」

植村「テープを聞きながらというか、先に解説してもらってテープを聞かせてもらったんだと思いますけど。同時にやると、だって二重の言葉になって、聞き取れないでしょ。だから要するに、何かテープだけで書いたとか、よく、たぶん言われるんですけれども、テープだけじゃなくて、当然、調査団体の調査結果というのは聞いているじゃないですか。それはここの部分ですよ。原川さん、ちょっと見てください。『尹代表らによると』というのがあるでしょ? ここは要するにテープじゃなくて尹代表の情報でありますよね。だからほら、僕らの取材ってそうじゃないですか。テープ一つ聞いて勝手に書けとかいって調査団体は言わないよね。ということ」

「最初から『チョンシンデ(挺身隊)のハルモニ』」

阿比留「うーん。それでですね、そのテープの中には、西岡(力・東京基督教大教授)さんがよく指摘していることでもあるんですが、挺身隊の名で連行されたという、『挺身隊』という名前は出てきているんですか」
植村「それは、阿比留さん、1月9日(の提訴後の記者会見時)に聞かれた(質問)ですよね」
阿比留「ええ」
植村「だからまあ同じ答えです。それはやっぱり、あの、定かじゃないですね。で、なぜ定かじゃないかと言ったら、当時、あの、もうこれ、何回も言いますけど、韓国では女子挺身隊とか挺身隊がイコール慰安婦だったんで、僕も尹貞玉さんの取材をするときに、チョンシンデ(挺身隊)のハルモニというわけですけどねえ。チョンシンデハルモニの取材をするということで。向こうもチョンシンデのハルモニが証言したということでやっているわけだから、当然最初からもう、まあ慰安婦という言葉じゃなくて、チョンシンデのハルモニの話だということでずっと聞いていたから、所与のものと言いますか、もう前提というか、そういうこともあるし、当時、韓国では尹貞玉さんの取材をした人たちは皆、資料集の中にも書きましたけど、3ページね。もう、いろんな形で、当時使っていたわけですよね。挺身隊。だから尹貞玉さんの話を聞けば、だいたいそういうふうに書いていた。だから…」

阿比留「あのー、分かります。その事実関係は分かります。それでお聞きしたいのは、女子挺身隊と慰安婦の混同が韓国でかなりあったというのは分かるんですね。で、植村さん自身はどう思われていたんですか」
植村「僕もね、それは手記でも書いていたんだけれども、当時、韓国に行ったら分かるんですけど、挺身隊イコール慰安婦という形で使われておったんですよ」
阿比留「はい」
植村「この3ページのところに、まあ、植村はこんなことを、ほかの新聞社をあげて言ったとか言われるとあれだけど、まあ、要するに当時、そういう状況だった。で、それね、なんでかといったら、これもちょっと阿比留さんにあげようと思って持ってきたんですけど、これ見て(平成3年9月3日付産経新聞大阪本社版生活面の記事を示す)」

「読売とか産経とかに出ている」

植村「産経新聞だと思うんですけれども、まあ、挺身隊の名で戦場になんとかなんとかみたいな言い回しの記事というのは当時、読売とか産経とかいろんなところに出てるんですよ。つまり当時はどこでもそういうフレーズがあったの。私もそれが全く前提でしたね」
阿比留「弊紙がどこまで使っていたか分かりませんが、使っていたとして責任逃れする気は全然…」
植村「責任逃れとかじゃないの!阿比留さん! 僕はそれで捏造記者って言われているんですよ。ねっ? だけどそういう時代状況だったということを分かってほしいんだ、阿比留さん」
阿比留「ええ。だけど、そういうことは分かるんですが…」
植村「じゃあ、これ産経新聞なんだけど、これ尹貞玉さんにインタビューして書いた記事だよ。つまり、当時、尹貞玉さんたちは、そもそも(韓国)挺身隊問題対策協議会と書いているじゃない? だから挺身隊ということで慰安婦のことをずっと語ってきていたから、これがあったんだよね」

阿比留「ただね、朝日新聞の中でも波佐場さんのですね、挺身隊と慰安婦…(注:朝日新聞の波佐場清ソウル特派員は平成4年1月16日付朝日新聞朝刊のコラムで、「慰安婦」と「挺身隊」が混同されていると指摘していた)」
植村「まあもちろん、それはその後にはそういうことがあったでしょう。しかし、これは混在していた時代の話ですよね。で、これだって同じ時期」
阿比留「いや、だからね、私はね、これを書いた記者は、ちょっと署名が入っていないから分かりませんが…」
植村「これはどうですか? 阿比留さんから見たらこんなのやっぱりどう思うのかな。僕は、当時は当然、産経もそういうことがあったんだろうなあと思って。ちょっとそれも今日聞こうと思ってね」
阿比留「まあこれもなんか少し逃げた書き方ですけど、間違っているかもしれませんけどね。ちょっと、あの、それでね…」
植村「まあ、だから時代状況で…」
阿比留「はいはい」
植村「…植村も韓国でそういうふうに使われていたのを使っていたということです。もう、それを理解してほしい。だからそれをあなたたちが判断するのは自由だ。だけれども、自分たちもこういうふうな慣用句を使っていたのにもかかわらず、僕だけをそういうふうに言うというのは一体どういうことなの?」
阿比留「それはね、植村さんが韓国留学経験もあって、一応韓国の専門家だと思ってるからですね、一般の記者だから許されるという話じゃないけども…」

植村「いやいや、だから一般の記者だったら許されるとか許されないじゃないと思うんだけれども…。韓国留学経験でおっしゃると、阿比留さんね、(資料集の)7ページ見てもらえます? これは北海道新聞の記者が(平成3年)8月14日の(金学順氏の)単独インタビューの時に書いている記事ですね。原川さん、ちょっと見ます? それでね、7ページを見るとね、(読み上げる)≪戦前、女子挺身隊の美名のもとに従軍慰安婦として戦地で日本軍将兵たちに凌辱されたソウルに住む韓国人女性が14日、韓国挺身隊問題対策協議会に名乗り出、北海道新聞の単独インタビューに応じた≫とあるわけですよね? 同じ…、まあ、ちょっと違うけど、女子挺身隊の美名のもとにというふうな表現がある。つまりこの人は韓国語ができるソウルの支局長ですよ。で、この人に僕は聞いた。それは文春の手記にも出ていると思うんだけど、この筆者は『あなたがそんな取材をしていることは知らなかった』というのです。あれ大阪の記事ですからね。やっぱ当時、そういうふうなのが使われていた」
原川「当時、女子挺身隊と慰安婦の混同が韓国において見られて、それをそのまま当時は植村さんも…」
植村「うん、僕もそういうふうに。そうやったね」
原川「この(産経新聞大阪本社の)記者がどういうことでか、分からないけれども、他紙にも同じ…」
植村「まあ、当時だから、僕、思い出すと、当時、ほとんど挺身隊という言葉を使った。つまり、その時に、まさか阿比留さんに、二十何年後に攻撃されると思っていないから、普通にその慰安婦の意味で挺身隊という、僕は『チョンシンデハルモニ』とかいう言葉を使っていて、それが普通だったんだ。ソウルの一般記者であろうと、まあ、一般記者は分からないかもなんだけど、韓国語が分かる記者たちは。そういう時代だったんだよね」

阿比留「われわれね、その時代にね、私はもう社会部にいたか、地方支局記者だったか覚えていませんけど、当然、知る由もないわけですが、植村さんが言うことはなるほどと思う一方でね、例えば毎日新聞の元ソウル支局長の下川正晴さんとかが、一生懸命に挺身隊と慰安婦との混同を間違っていると言おうとしていたと」
植村「言っているのかい」
阿比留「言っていたらしいですね。挺対協にも申し入れしたし…」
植村「ああ、そう。それはちょっと下川さんに聞いたらいいと思うんだけど、僕はちょっと下川さんのその状況は分からない」

誰にだまされたのか「分からない」

原川「それで、1番目の質問のその記事ですが、これはテープにおいて金学順さんは具体的にどう言っていたかは先ほどの表現だと、定かではないと?」
植村「そうですね。それはもう(今年)1月9日に答えていますので」
原川「一緒に説明をされていた尹貞玉さんとか、挺対協の人たちは、テープの主は女子挺身隊として戦場に連行された人だと、そういう説明はして…」
植村「いや、女子挺…、あの、挺身隊のおばあさんだよと」
阿比留「挺身隊のおばあさんね」
植村「おばあさんね。まあ、それは挺身隊のおばあさん、チョンシンデ(挺身隊)ハルモニと言うんですが、これはまあ一つの用語なんですよ。いわゆる日本語で訳すと慰安婦のおばあさんというんですかね」
原川「強制という言葉は使われていないですが、そのチョンシンデハルモニが戦場に連行されたというこの表現はどこから? どういう情報を得てこう書かれたんですか」
植村「いや、まあだから、それは、だって、あの、本人がだまされて、行った先が戦場なわけじゃないですか。中国だけどね。だから、そういうことですよね。だって慰安婦というのは戦場以外には普通ないじゃないですか」

阿比留「あのお、それでだまされたということは最初の記事にもですね…」
植村「出てる」
阿比留「出てますけど、これ、誰にだまされたと言ってたんですかね」
植村「いや、それは分からない」
原川「だまされたとしか言ってないんですか…」
植村「まあ、だから、阿比留さん、僕から言わすと、まあ、かなり、そのまあ、非常にディテールの質問だと思うんだけど、それは分からない。僕はその時にだまされて慰安婦にされたおばあさんだな、ということがあって…。えー、でもね、考えてみたら17歳の女性がね、韓国では17というのは16くらいかな、日本で。どういう形で行ったかという、何十年前のことを正確に果たして言えるかどうか。で、金学順さんは強制連行されたというふうに受け止められる証言をずっとしているんですよ。だから産経新聞の記者も(産経新聞大阪本社版の1991年12月7日付や93年8月31日付記事を念頭に)間違いじゃない。その時はそういうふうに言っていたはずなんですよ。一番最終的な記録もそうなってる。誰にだまされたというのはもちろん聞いてません。つまり、だまされたということは、意に反して慰安婦にされたということだから」

「嫁さんとの結婚前から慰安婦取材していたる。」

朝日新聞で初期の慰安婦報道に関わった植村隆元記者(北星学園大非常勤講師)の産経新聞インタビュー詳報の4回目は次の通り。聞き手は本紙政治部の阿比留瑠比編集委員と外信部の原川貴郎記者。

「強制連行みたいなことはイメージなかった」

植村「産経新聞は日本軍に連行されたとはっきり2回も書いているよね、金学順さんのことを。僕は、日本軍にだまされたかどうか分からなかった。そんなふうなことは分からなかった。あとの取材で見るとね、日本軍にだまされたわけでもないというのが分かってくるんだけど」
阿比留「(文芸春秋の)手記にも書かれていたように、つまり、当時の認識として、いわゆる今で言うところの強制連行のようなものではなかったという認識だった?」
植村「うん、もう、それはねえ、どこかに書いたと思うんだ」
阿比留「手記に書いてあります」
植村「書いてあるよねえ。その言葉(『暴力的に拉致する類の強制連行ではないと認識していた』)。僕は吉田清治さん(※ 韓国済州島で女性を強制連行したと証言。朝日新聞は平成26年8月、吉田氏の証言を虚偽と判断し、記事を取り消した)の影響を受けていないから。取材したこともないし、記事を書いたこともないので。まあ、だからそこは、あんまりその強制連行みたいなことはイメージなかった。その、いわゆる古典的な意味でのね、ずっと吉田さんが言っていたような。吉田さんに会ったことないから、僕は」

阿比留「なるほどね。さてそこでですね、(平成3年)8月19日にですね…」

「当時の報道を踏まえた上で歴史戦をやってほしい」

植村「あー、その前に、ちょっともう、ついでに言っておくわ。それでね、本人(金学順さん)も、記者会見で挺身隊だったとかいろいろ言っているんだ。それは、当時の新聞記事を見るとよく分かる。ついでに、(北海道新聞の過去記事を示して)北海道の新聞なんてあまり見ることないと思うんだけど。やっぱり僕のテープのところでは定かじゃないんだけど、北海道新聞の記者が直接取材したときは、本人がそういうふうに言っていたみたいだね。言っていたと北海道新聞は書いているんだよ。
だから、阿比留さん、もう何回も言うように、僕を標的にしていじめるのはまあ、しようがないけれども、しかし、当時の時代状況を見て、自分のところの新聞、読売新聞、北海道新聞を見ればどういうことか、僕は責任転嫁しているわけじゃないんだよ。阿比留さんみたいな影響力のある人が、強制連行みたいに書いたということで、ばんばんばんばん盛り上がるわけだけど、じゃあ当時の報道はどうですかというのを冷静に踏まえた上で、歴史戦をやってほしいんだ」
阿比留「ええ、自社もそうですし、私も読売新聞の事例も書いたことありますしね」
植村「だからそういうふうにやってほしい。つまり、植村をやるのはいいけれども、その当時の時代状況がどうだったのかというのを、原川さん、だってそういうことでしょ? やっぱり、ジャーナリストとして。違います?」

原川「まあ、時代状況はそうですね。ただ…」
植村「時代状況を説明しないとその時代にどういうふうなことがあったか分からない」
原川「ただ、挺身隊と慰安婦という言葉については、やはり毎日新聞の元ソウルにおられた下川さんとか、あるいは先ほども名前が出た波佐場さんですか、あるいは、やはり元朝日新聞の特派員の前川恵司さんですか、当時はソウルにおられなかったですけども、韓国のことを、歴史を勉強している方からすると、挺身隊と慰安婦が混同されているなというのがよく分かっていて、それが問題だなというふうには思っておられたそうですから」
植村「まあね」
原川「そういう時代、そういう人たちも…」
植村「そういう人もいるけど、まあ、多分、そうじゃないという人もいるでしょうから。もうちょっと広く取材されればいいと思いますし。(週刊)金曜日なんかは、1960年代ぐらいから挺身隊の名で連行みたいな記事が(韓国に)あるというのが出ていましたよね。吉方(べき)さんという人の記事かな。もし必要だったら参考に送りますけど。まあそんな感じの時代ですよ」

遺族会幹部の義母への取材「特権的ではない」

阿比留「さて、それでですね、関連してまず、これは西岡(力・東京基督教大教授)さんが言っていて、それを否定されているし、朝日の第三者委員会も関係ないとした最初の(平成3年8月11日の)金学順さんの記事を書くにあたって、何らかの関係者からの便宜があったんじゃないかということは否定されました。私も、前後関係からいってそうだろうと思います」

植村「ああ、そう。一つ、ぜひ、書いてよ。阿比留さんみたいな、影響力のある人がそれ、書いてくれるの、すごく…」
阿比留「ただね、一方で(3年)8月19日の『朝鮮人慰安婦 補償求め提訴へ』という記事は、これは太平洋戦争犠牲者遺族会の話なのでですね、これはやはりちょっと一応はっきりさせておいた方がいいと」
植村「ああ、もちろん、もちろん。これはだから、ここにも、記事も書いてますけど、これは取材して書きましたよ。それで、まず大前提として、1990(平成2)年の夏ぐらいから私は韓国に2週間行って、夏にですね。慰安婦のおばあさんの証言を集めようとしてたというのは理解してもらえますよね。で、その時に、(後に韓国挺身隊問題対策協議会代表になる)尹貞玉さんとも知り合いました。それから、遺族会にも当然行きました。遺族会にも聞きました。そういうふうなことですよね。
で、あのー、当然、遺族会と知り合いになりますよね。うちの家内がまあ、そこにいたから、僕は知り合うわけだけれども、うちの嫁さんと結婚する前から僕は慰安婦の取材をしておったんですよね。つまりそういうこと。当然、まあ、金学順さんが記者会見して、それで、金学順さんの記者会見はね、結構やっぱり影響力があったんですよ。本当は僕もそこにいればよかったんだけど、手記にも書いたけど、まさかその本人が突然(8月11日の記事が出た)3日後に記者会見するとは思わなかったから、(日本に)帰って。それで、やっぱりこれみたら、当時のだから、記者会見ですよね。なんか、日本政府相手に損害賠償訴訟も辞さない決意を明らかにしたと出てるんです。これ、北海道新聞のここ(過去記事)にね。
つまり、やっぱりもう、その時に挺対協とかそういうのが盛り上がっていたわけですよね。そういう中で慰安婦の裁判をやるということで、遺族会がそういうような動きをしているというのは(弁護士の)高木健一さんってご存じですか」

阿比留「もちろん」
植村「高木さんと私はもう、その前から親しかったので、しょっちゅう出入りしていた。それで、いよいよ、裁判準備するというので。だから、遺族会だけの情報で書いたんじゃないんです。高木健一さんの弁護団。弁護団の許可がないと取材できませんからね。弁護団。それから『ハッキリ会』。臼杵敬子さんのハッキリ会。これは市民団体なんですが、当時は弁護団の通訳なんかもやっていて、弁護団を支援する団体、それと遺族会、この3つに取材して、そういう動きがあるということで、記事を書いたのは間違いない。
で、遺族会の会長とか、あるいは(遺族会幹部で義母の)梁(順任)さんにも取材した。だけど、別にそれは特権的な取材じゃなくて、ご存じのように僕は1990(平成2)年の夏からずっと取材しているわけですよ。で、遺族会だって取材しているけど、90年の夏には(元慰安婦の女性が)出てこなかった。で、91年の8月には挺身隊問題対策協議会で、まあ、テープとそれとその調査報告みたいなものですか、そういうことだって話を聞けたんだけど、(金さんには)会えなかった。
だけれども、そういう流れの中で、遺族会もやっているというのは分かりますよね。だからその弁護士たちが行くということで、私が同行許可を高木さんにもらって、高木さんと連絡をとってましたし、私、東京によく連絡したり、行ったりしてたんで」

「8月11日の記事は挺対協」

阿比留「当時の高木さんとか福島瑞穂さんたちと?」
植村「福島さんは直接ねえ、連絡しなかった。高木さんが団長で、かつ広報担当といいますか、要するに団長が取材に応じていた。福島さんももちろんこの、8月19日の記事のときにはいたんだと思います」

阿比留「高木さんたちは8月11日の記事の報道には関係はあるんですか」
植村「いや、みんな誤解されているんだけれど、8月11日の記事は、これは韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)。これご存じですよね。遺族会もご存じですよね。違う団体ですよね。要するに、その、90年夏に2週間行って、空振りになった。でも僕がそこで一生懸命やっていたのはみんな知っているわけですよね。関係者は。尹貞玉先生とかは。なぜなら、尹貞玉先生の教え子なんかに協力してもらって、地方に出張したりしたこともあったんです。
その辺のことは『ミレ』という大阪の雑誌に書いたということも出ていますし、これ見ていただければと思います。で、結局、まあその時はダメだったんだけれども、91年の7月末か8月初めだと思うんですが、いずれにせよ、僕が取材する前にですね、ソウル支局に僕はしょっちょう電話してたんですよ。僕は、語学留学で1987(昭和62)年から88年まで1年間、ソウルにいて韓国語がよくできてて、当時、支局長と支局員の2人しかいなかった。で、僕がまあ、しょっちゅうソウルに出張していた、大阪から。
そういう関係で電話したら、支局長から、挺対協が慰安婦のばあさんの調査を始めたらしいと聞いた。で、テープもあるらしいということで始まったということがここに書いてあると思います。ま、そういう経緯であります。だから、これには遺族会の梁順任さんは一切かかわっていないのと、それで、これは遺族会とも関係ない。この時はね。なぜなら、梁順任さんの日記があって、まあ、それもいずれ資料になるんで、ちょっとお渡しはできないんだけど、これは文芸春秋の手記で見ていただければと思います。日記帳を見ると、(記事の)あとで(金学順さんと)会っている。だから、いずれにせよ教えようがないし、僕もそこから聞いたわけじゃあないんですよ」


「訴訟を有利にするつもりはなかった」

阿比留「それじゃあ、ちょっとまとめますと、(8月19日の記事は)もちろん、遺族会も取材対象だから、いろんな情報はあったかもしれないけども、特権的な取材ではなく、取材対象の一つにすぎなくて、で、特別、今言われているような利害関係者の訴訟に有利なように記事にしたということは違うということですか」
植村「あー、あの利害関係者の有利になるような記事というのは私の記事のどこの部分が利害関係者の有利になると判断されたんですか。僕はそういうつもりはなかったんですけど」
阿比留「まあ、こういう記事に対して、一般論として、こういう動きがあるということをですね。記事化することによって後押しするという」
植村「あのー、これね。当時の韓国の聯合通信の記者も取材していまして、同着になっていますね。それで、ここにも書いていますけど、つまり僕が特ダネでやるんであれば、そんな聯合通信の記者に教えるわけないわけで、やっぱり関心を持っている記者が取材をしていたというだけで、当然、この取材をしている中で出てくるわけですから。この流れを見てほしい」

「金学順さんに会ったのは、弁護士聞き取りの同席の時だけ」


朝日新聞で初期の慰安婦報道に関わった植村隆元記者(北星学園大非常勤講師)の産経新聞インタビュー詳報の5回目は次の通り。聞き手は本紙政治部の阿比留瑠比編集委員と外信部の原川貴郎記者。

「間接情報であまり答えられない」

阿比留「分かりました。それでじゃあ、一応これも、ハッキリさせておきたいので、(元朝日新聞ソウル特派員の)前川恵司さんが当時の植村さんの担当デスク、大阪本社担当デスクに取材した。そしたら、(1991年12月25日の記事は)植村氏からの売り込み記事だったと。『彼は義母が遺族会の幹部であることを言わなかったし、私も知らなかった』と」
植村「これに関しては、前川さんに僕、会っていないし、直接取材していないんだけれども、これ、大阪のデスクってどういう人ですか。前川さんから何か聞きましたか」
阿比留「まだ聞いていないですね」
植村「じゃあ、そんな間接的な情報であんまり答えられないんだけど、売り込みじゃないですよ」
原川「売り込みではない?」
植村「売り込みとかじゃないですよ。で、そのデスクの根拠って何か、産経新聞として前川さんのデータ以上にあるんですか。独自に」
阿比留「ないです。いや、だから確かめているわけですね。(当時の担当デスクは)義母が遺族会の幹部であることを言わなかったし、私も知らなかった、と」
植村「当時の社会部はですね、知っていたはずですよ。社会部のデスクですか、その人は」
阿比留「(前川氏の文章では)大阪本社の担当デスク」
植村「じゃあ、聞いてみてください、直接それは」

「金学順さんに会ったのは、弁護士聞き取りの同席の時だけ」

阿比留「で、(前川氏が)知っていたらと尋ねると(担当デスクから)即座に原稿は使わなかったとの答えが返ってきた、と。それもちょっと違うという感じですか」
植村「うん、もちろんね(違う)」
原川「この8月19日の(太平洋戦争犠牲者遺族会の元慰安婦女性が日本政府を相手取った訴訟を準備しているという)記事を書くために、平成3年の8月11日の(『元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口を開く』という)記事を書かれて、12日には確か1回、日本に戻られて、それでまたソウルに…」
植村「そうそう。おお、すごいなあ。僕の動き表をつくっているの? いいなあ。ちょっとコピーさせてよ。取り調べだなあ、原川記者(笑)」
原川「いやいや、時系列で見た方が分かりやすいと思いまして。それであのー、この19日の記事を書くにあたって何日かソウルに滞在されて…」
植村「いやいや、これは僕はよう分からんけど…、あの、まさか、取り調べとは思わなかったから」
原川「いやいや」
植村「原川さんまた別途きて、手帳があるんで、残っているんだけど、僕の記憶では要するに弁護団が入っているときに取材している記事です」
原川「細かい日にちまで、そこまではうかがわないんですけども、要はこの1回日本に戻られてまたソウルに行って…」
植村「それはなぜかと言ったら」
原川「で、その時に、金学順さんに取材は申し込まれなかったんですか」

金学順さんの記者会見は「知らなかった」

植村「ああ、その時はやらなかったね。なぜなら、8月のね、14日の、要するにそれは残念なことなんだけど。8月14日に、インタビューというか共同会見があったじゃない。普通の記者だと、当然ながら自分らが取材した、存在をスクープした、一報をスクープしてるわけだから、その人の生の声やったら聞きたい。しかし、僕は、記者会見というのを知らなかったから。知っていたら当然、大阪社会部はOK出したと思うんだけど、僕も知らなかったから、そのまま帰った。で、突然それやったみたいです。それは、あのー、多分、北海道新聞の記者にも聞かれれば分かると思います。多分、突然やったんじゃないかと思う。当時の状況を知っている人がいるはずですから」
原川「で、手記には悔しい思いを書かれてましたけれども」
植村「ああ、だから申し込まなかった。それはなぜなら、慰安婦のおばあさんたちの動きがどんどん出てきて。要するに、高木弁護士の方の動きを追っかけていたということです。簡単に言えばね。だって一旦存在が明らかになって、その人が記者会見して最低限書いているじゃない。僕は要するにその前に書いていたから。要するに、まあ、(元慰安婦として証言する女性が)一人出たと、また出るみたいな感じの話でした」
原川「で、それでこの、先ほども話に出ました12月25日の記事。この間、書かれた署名記事というのはこの2本、いわゆる金学順さんに関する署名記事というのは当初は、8月11日は匿名であったけれども」
植村「まあ、金学順さんですね。その後、金学順さん…」

原川「それと、今度は、もう、名乗り出て、訴訟も起こされた後に掲載された、この3年12月25日の…」
植村「署名がね、出ている91年の記事は多分その2つで。後ね、だから、産経も、会社で朝日のデータベースって入れます? 入ってみてください。植村と金学順を」
原川「いわゆる一般向けのデータベースですね」
植村「それでひいてみてください。そこに出てる通りで、僕の記憶ではこの2つと。その後、金学順さんが亡くなった時も書いている」

「弁護士の前での話を記録すべきだと思った」

原川「手記で書かれてたと思うが、この11月25日に初めて金学順さんと会ったと」
植村「あ、結局、僕の場合、一旦存在を書いて、そして、その後、続報という形で小さいけど、金学順さんの記者会見を追っかけた。フォローね。これね(記事を示す)。そして、まあ、じゃあ、弁護士たちが聞くから、弁護士たちの前でしゃべったことというのは一つの記録だろうと思ったんで、高木さんに同行許可をもらって同席した。だから、この辺で聞き取りしている後ろの方に僕がいた。それは多分ね、手記にもその辺の経緯は書いたと思う」
原川「その時は、金学順さんとは会われたけども、こういうような取材、質問して答えていただいて、というそういう取材は?」
植村「うん、だから、ここにこう書いているように。弁護士らの聞き取り調査に同行し、金さんから詳しい話を聞いたっていうんだけど、弁護士の質問、やり取りを僕は横で聞いていた。なぜなら、弁護士が質問しているとき、僕が質問するのは失礼だし、じゃあ、その後、別にやったらいいじゃないかと言うんだけど、僕としては法的なプロセスとして、もうこれは訴訟準備しているんで、弁護士の前で言うのが一番話としては記録すべきだろうなというふうに思ったんで、一石二鳥だからね」

原川「なるほど。で、これについては横で聞いていたものを録ったテープを再現したとありますけど」
植村「ま、テープを再現したと、ここでまたテープにこだわるけど。要するに、テープを再現した、当時ちょっと使った。要するに、あれだね、聞き取り調査を再録したというか、それを紹介するという意味の文章です」
原川「で、11月25日に初めて金学順さんに会われて、都合、97(平成9)年に亡くなられるまでに何度、金学順さんにお会いになったんですか」
植村「一度だけ。うん。なぜなら、最初の人だったけれども、その後も、何人か慰安婦のおばあさんが登場しはじめてくるから。あんまり個々の、なんというのかな、もう何回も会ったということはなかったです。それで、その後実は、まあ、ここ(文芸春秋の手記)でも書いたけど、僕は『文藝春秋』92年4月号から、西岡(力・東京基督教大教授)さんに、こういうふうに(批判を)やられていたから。そして、その時は阿比留さんと同じでさ、要するに家族がどうだみたいなことをね、遺族会の幹部の義理の息子みたいなこと。
やっぱり、僕としてはトラウマになっていた。つまり僕がどんどん書けば書くほど、同じことがやっぱり繰り返されると思って、少し距離を置いていたというところ」
原川「そうすると訴訟がその年の12月6日に、東京に原告団が来て。その時は…」
植村「ああ、そうか、そうか。ごめん、ごめん。その時は、訴訟の時はもちろん現場にはいた。そういう意味ではね」
原川「司法クラブ?」

植村「司法クラブじゃなくて、司法クラブは別に司法担当がいたから。そうだね。ちょっと今、言い間違った。こういう聞き取り調査をしたのは、1回だけれども、もちろん提訴の時は東京社会部と僕は一緒に(取材を)やったから」
原川「それは記者会見を取材したのではない?」
植村「記者会見だけじゃなくて、もちろん、記者会見というのは裁判所だけども、その動きというのも、やっぱり分担してやっていたから」
原川「じゃあ、その時も、署名ではないが記事は書かれてるんですか」
植村「まあ、社会部だから、当然チームで取材しているから。当然、だって最初から取材していて、大阪でちょこっと書いているから呼ばれて、もちろん一緒にやっていた」

訴状には「養父とはなかったね」

原川「(質問しても)よろしいですか?」
植村「それで、ちょっとここで言っておきたいんだけど、例の聞き取り調査のところ、まあ、どうせ聞かれると思うから」
原川「11月25日の?」
植村「これがね。これ1回、産経の原川さんに確か、書面でやったときに」
原川「私が朝日新聞広報部を通じて、質問をして…。まあ、あのその時は、取材申し込みの取り次ぎをお願いしますということでお願いしたら、朝日新聞社からは、植村さんからは、お受けできない旨の返答があったけれども、植村氏の見解が示されたので、それを、その資料を送ることができますということで。だから、直接は取材を受けていただいたという認識ではないんですけど」

植村「僕としては質問を受けて、それの答えを書いて資料を送ったということです。まあ、でも記事が出ていたんだけど。その時には、多分送ったと思うけど、これ(ハッキリ会が弁護団の聞き取りを記録した)ハッキリ通信の2号でね、念のため今日、お渡しした方がいいと思って持ってきました」
原川「この11月25日の記事について質問いたしますと、金学順さんが、慰安婦となった過程で、訴状とかその他、金学順さんが日本で講演していた時に言われていたような養父の存在がここには出てこなくて、地区の人と言って…」
植村「まあ、そうなんだよね。まあ、でも、それを言うとさ、もう何回も同じことになるんだけど、多分ご存じで聞いているだろうけど、最初、この弁護団の話し合いの時もね、結局、(ハッキリ通信2号では)これは町内の里長なんだけど、これは韓国語で言ったから訳し方はちょっと違うと思うんだけど、そういう風にしゃべっていたんで、それを僕が僕なりの言葉で書いたということですよね」
原川「ところが、この間、訴状が提出されて…」
植村「養父とはここ(ハッキリ通信2号)にはなかったね」
原川「(訴状が)提出されましたよね。で、その他、講演でも確か、提訴のために日本に来られて、その後しばらく日本に滞在されて、(12月)16日に金学順さんが帰国されるまで、数百人規模の集会を7回、関西中心に、東京でもやられたそうなんです。その時のものであろう記録を見ていると、養父ということがでてきている。仮に11月25日に養父という言葉が出てこなくても、なぜ、それをそのまま1カ月後もこの『地区の人』という、1カ月前の情報のまま書かれたのか」

植村「まあ、これは多分、いくつかの、金学順さんの講演会だけじゃなくて、いろんな記事とかも見られていると思うんですけれども、例えば、これ1991(平成3)年12月7日付の産経新聞大阪本社版記事が、12月6日のね、大阪での記者会見ですよ。ここには、『日本軍に強制的に連行され』とあるじゃないですか。この人(金学順さん)の証言というのは、ずれがあるというのはご存じですよね。
まあ、それ以上はやめましょうや。なぜなら、そういうことで弁護団の前でしゃべった、だから弁護団の前でしゃべったこと(を書いた)、そして、訴状では要するにいい仕事があると言って、養父と行ったと、養父が出てきますよね。だけど、それは、僕の目の前では言われなかったから。要するに弁護団の前でしゃべったことの記録だから、それはそうですよ。そんなことを言えば、この時は強制連行って書いている新聞だってあるわけでしょう」

「意に反して日本軍の性の相手をさせられたというところをずっと書いている」

朝日新聞で初期の慰安婦報道に関わった植村隆元記者(北星学園大非常勤講師)の産経新聞インタビューの詳報6回目は次の通り。聞き手は本紙政治部の阿比留瑠比編集委員と外信部の原川貴郎記者。

「(金さんが)言わないことは書けないと思った」

原川「でも訴状を読まれているわけですから」
植村「さまざまな例もあるけれども、(この)訴状は聞き書きのまとめではないですよね」
原川「聞き書きのまとめではなくて、さらにやっぱり裁判に訴えるわけですから、より情報に正確性を期すものだと思いますけども」
植村「民事訴訟というのはご存じですよね。刑事の起訴状とは違って、要するに弁護団の主張を書くわけですからね。私としては、ここ(弁護団の聞き取り)で養父って言わなかったから、言わないことはやっぱり書けないと思った。これは弁護団の前でしゃべったことだから、それで書いているだけ」
原川「それで、違うなということが分かると、金学順さんが当時、日本にしばらく滞在されて、関西でも何カ所か講演されているので、そういう場所に取材に行ったり、あるいは直接本人に、それだけではないだろうが、改めて取材、確認取材とか、そういう機会は設定されなかったんですか」

植村「これは、さっき言ったように、そこ(弁護団の聞き取り)の場でそういうふうに言ったということなんですよ。もっと言うと講演会で言ったこともそうですが、法廷で金学順さんが、どういうふうなことを言ったかというのはご存じ?
僕らは、弁護士の前とか、法廷とかそういうふうな所で見るから。それをちょっとお知らせしようと思って。まあ、だから、こっちの講演でこういうこと言っているからこうだとか言われても、やはり、その、なんちゅうんですかね、あの、いろんな所で多少ずれているのを、じゃあ、そのたびに違うことになるのかと言ったら、例えば、陳述書。これ平成6年6月の陳述書。それなんか見るとやっぱり、産経新聞と同じことを書いている。要するに日本軍に連れて行かれたと。まあ、養父は出てくるんですけど。それ(証言)はさまざまなずれがあると。あ、阿比留さん、金学順さんに取材したことあります?」

「慰安婦問題のスーパー記者みたいなイメージがあるかも」

阿比留「ありません」
植村「なんで取材しなかったの」
阿比留「韓国語できませんし」
植村「通訳をとか、使ってやったりもしなかった?」
阿比留「そういう機会はなかったですね」
植村「慰安婦の取材ってやられたことはあります? 直接」
阿比留「まあ、ナヌムの家に行ったりとか、そういうことはありますけどね」
植村「そこで、聞き取りとかされた?」
阿比留「まあ、テープを聞かされたんですけどね。ビデオテープ」

植村「ああ、見学に行かれたということですね。なるほどね。要するに直接、生身のおばあさんのインタビューというのは原川さん、されたことありますか」
原川「私はありません」
植村「阿比留さんは?」
阿比留「直接はないです」
植村「ですね。聞き取りというのはやっぱり(証言に)ずれがあるというのはご存じですよね。(金学順さんの場合も)それは、秦郁彦先生も本の中で書かれていると思うので、そういうことなんですよ。で、僕が言いたいのは意に反して、日本軍の性の相手をさせられたというところが共通してるんで、それをずっと書いているわけですよね、私の記事にはね。
まあ、そこのところなんで、一つ一つ証言のそこのところが出ていないじゃんとか言われても、産経新聞のこの記事と同じで、僕はやっぱり意に反して慰安婦にされたということがずっと一貫しているんで、この証言というのは記事として存在意義があるんだろうなということ」
原川「分かりました。それで、今一度確認ですが、11月25日に高木(健一弁護士)さんとかの聞き取り調査に同行されたのと、あとは12月6日に東京で提訴があったとき、その周辺で、直接は(取材は)」
植村「僕は韓国語ができますから、遺族の取材とかで。いわゆる社会部とかでいうところのそういう取材ですよね」
原川「その後、関西で講演されたりとか、東京で講演されたりとか、そこは取材されてない?」

植村「あんまりね、だから、ほら、ご存じのように、みなさん僕が慰安婦問題のモンスターみたいで、何かスーパー記者みたいなイメージがもしかしたらあるかもわかんないけれども、僕は大阪社会部で人権担当記者だったわけです。在日コリアン担当で、その流れの中でやっていて、ずっとそれ(慰安婦問題)ばっかりはやっていなかった」

「済州島取材のメモは報告した」

阿比留「ちょっと時間が押してきたので、多少、順不同になりますけど、すいません。これはね、植村さんが影響を受けていないとおっしゃっている(自称・元山口県労務報国会下関支部動員部長の)吉田清治氏についてはどのような見方をされてますか」
植村「取材したことがないので、分かりません」
阿比留「取材したことがないそうですけども、それは直接は」
植村「直接取材したことはない、もちろん」
阿比留「ですね。ただ、(朝日新聞社の)第三者委員会の報告書にもありましたように、ソウル特派員時代に、済州島に行って取材されたわけですよね」
植村「それはもうそこに出ている通りであります」
阿比留「どんな取材をして、どんな結果になったかということを少し教えていただけないですか」
植村「第三者委員会の報告書に出てる通りで、ちゃんと取材しました。だけど具体的にどうだということは、それは、新聞記者が新聞記者に聞くべき話ではないと思いますので。ただし、ちゃんと取材して上げた報告書の反映が、第三者委員会(の報告書)にも出ていたと思うんだけど、阿比留さん見なかった? それを引用していただければと思います。第三者委員会にはしゃべりましたので」

阿比留「その1999(平成11)年のですね」
植村「97(平成9)年だね」
阿比留「97年か。そうか97年か。朝日の最初の検証記事。あれには植村さんの取材成果というのは具体的に…」
植村「僕はね、メモを上げて報告はしているんだよね。朝日のあれ見ました。(以下、読み上げる)≪済州島の人たちからも、氏の著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない≫ 要するに、四行しか記事には出ていないけれども、報告書はもっと長いはずだよね。ということであります」
阿比留「つまり、そういう趣旨のことをメモ上げしたと」
植村「まあまあ、メモ上げですよね。報告、報告書と言ったのか、メモ上げか、そういう分担で。当時、ソウル支局に私はいまして、97年ですよね。確かこれ。金大中の大統領選挙の年だった。すごく忙しい中で、まあ、(済州島に)行ってくれということで行って、それでメモを上げて、報告した」
阿比留「何日間ぐらい行ったんですか」
植村「それは第三者委員会に出ていると思うけど、そんなに長くは行っていない」
阿比留「当時、ソウル特派員という形で、何かを決定する立場ではなかったと思うんですけども」
植村「そういうことです」
阿比留「どれくらいの影響があったのかなということがやっぱり気になると思うんですけど」
植村「だからここに記事が出ているじゃないですか。つまり僕はちゃんと報告しているということですよね」
阿比留「今回、(朝日は)去年の記事取り消しにあたってはですね、済州島にまた改めて人が行って、今回は虚偽であると結論したと。前回は結論していなかった。これは最初、冒頭、趣旨を言いましたように、植村さん個人というか、朝日全体のことを聞きたい」

植村「申し訳ない。それはちょっと朝日の、今回済州島に行った人とか、あるいは取材班に聞いていただければと思う。その差は私には分からない」
阿比留「分からない?」
植村「それは分からない」
原川「それでまた、8月11日付の記事に関連する質問ですけれども、朝日新聞の第三者委員会が次のようにこの記事について指摘しているが、どう思われるか。報告書の17ページにあるんですけれども」
植村「僕は、これ朝日の記事しかないから、ちょっとどんなところか読んでくれる?」
原川「(朝日の第三者委員会の報告書を読み上げる)前文は一読して記事の全体像を読者に強く印象づけるものであること、『だまされた』と記載してあるとはいえ、『女子挺身隊』の名で『連行』という強い表現を用いているため強制的な事案であるとのイメージを与えることからすると、安易かつ不用意な記載である。そもそも『だまされた』ことと『連行』とは、社会通念あるいは日常の用語法からすれば両立しない(読み上げここまで)、と指摘しているんですけれども、この指摘はどう受け止めていますでしょうか」
植村「まずね、これ阿比留さん専門家だから分かると思うんだけど、いくつかポイントがありますよね、第三者委員会の報告はね。捏造(ねつぞう)ではない、義母の便宜供与がない。そこのところもちゃんと書いてくれないかな」

「捏造記者でないことは第三者委員会の報告書からもわかる」

阿比留「いや、ちゃんと書きますよ」
植村「お願いしますよ。つまり植村が捏造記者でないということがここの第三者委員会の報告書からも分かる。そこを僕は強調したい。当時、金学順さんのことについて、さっき言いましたように、いろんな新聞がまあ、『強制連行』と書いたりしている。産経新聞は2度にわたって金学順さんを取材して、日本軍に強制連行されたと書いているわけですね。そういう時代状況の中で、安易かつ不用意で強制性みたいなことですよね。強制的な事案であるとのイメージを与えるもので、というんだけど、イメージじゃなくて、『強制連行』と伝えているメディアがあるということにも触れてほしかったなあ、と。
つまり当時の時代状況としてね、なぜなら金学順さんは、強制連行されたということを何度も言ったりもしているわけです。それを産経新聞が正確に伝えて、ああいうふうなことになっているわけだから、僕としてはだから、むしろ、やっぱり植村が捏造記者じゃない。義母の便宜供与がなかったというところが、非常に、この第三者委員会で判断としてはすごい意味があるなと思っています」

「大学には娘を殺すという攻撃があった」

朝日新聞で初期の慰安婦報道に関わった植村隆元記者(北星学園大非常勤講師)の産経新聞インタビューの詳報7回目は次の通り。聞き手は本紙政治部の阿比留瑠比編集委員と外信部の原川貴郎記者。

「大学への攻撃が続いて、大学がすごく大変なんだ」

原川「ただ、その、このだまされたというこの日本語ですよね、だまされたという言葉と連行という言葉を同時に使うのは日本語の日常の用語法上、両立しないという指摘だと思うんですけど」
植村「ああ、そうなんですか。ま、それは僕はちょっとね、分からないんだけど。ま、僕が日本語の専門家じゃないわけですけれども、別に、先ほど言った西岡(力・東京基督教大教授)さん(の過去の論文)でね、『連行されたプロセスを』ということで、これはプロセスが、あるいは人身売買だったかも分からんし、だまされたかも分からんし、強制連行かも分からんと。戦場に連れて行かれたという意味で私は書いたわけで、それがそういう意味で書いたということを繰り返したい」
阿比留「それでですね、大きな意味で、先ほどから西岡さんの名前を出されているわけですが、やはり、いろんな判断があったんでしょうが、最初に(批判論文を)書かれて、社内に報告書も上げさせられたわけですよね。結局、問題はないということになったそうですけども、その報告書では、どういうことを書かれたんですか」

「大学には娘を殺すという攻撃があった」

植村「それは結論しか言えません。そこの(『文藝春秋』の)手記に書いてるのを参照してください。報告書の内容まで私が言えないじゃないですか。会社のものだから。ただし、問題がないということだった。で、確かに、その後も、ご存じのように、植村批判がずっと続いてきましたよね。だけれどもまあ、私はまあ、もちろん、最初に説明して問題ないと言っているわけですから。会社的な問題はなかった。今回はご存じのように去年、転職が決まったときに激しい攻撃が(転職先の神戸の)大学にあった。そして北星学園大学には娘を殺すという脅迫状が来た。これも阿比留さん書いてくれないかな」
阿比留「書きますよ」
植村「つまり、僕、本当に許せないんだ。阿比留さんたちはちゃんとこの記事はどうだって言っているけど、そうじゃなくて、やっぱり尻馬に乗るというかね。申し訳ないけれども、やっぱり植村が、何か問題があるんだということで、メールとかそういうことで大学への攻撃が非常に続いて、大学がすごく大変なんだ。これも書いてほしい。で、阿比留にさんに、ぜひお願いしたいのは…。あ、ちょっとごめんね(携帯電話が着信する)」

「産経新聞の私の置かれている状況を伝えてほしいんだ」

植村「まあ、とにかくそういうことで、激しい批判がでている。そこのところを産経新聞がぜひね、私の今、置かれている状況を伝えてほしいんだ」
阿比留「それは約束しますよ。でも一方でですね、例えば、確か植村さんがロサンゼルスかどこかで講演をされたときの話で、西岡さんや櫻井(よしこ)さんがそうした卑劣な動きをあおっているというような趣旨のことをですね…」

植村「ああ、あれはね、あおっているというか要するに、えーっと…」
阿比留「ちょっと言い過ぎではないかなという気もするんですよね」
植村「うん、まあ、あの要するに、『社会の怒りをかき立て、暴力的言辞を惹起しているのは朝日や植村氏の姿勢ではないでしょうか』ということを(櫻井氏が書いている)。やっぱり、それに影響されているんじゃないかと、私は怒っておるわけなんです。まあ、言い過ぎかどうかは、これはまあ、法廷でもそれが出ていますので」
阿比留「ああ、そうですか」
植村「はい、当然それは出てきますから、あの、法廷に来ていただければ、またそれもやりとりが…」
阿比留「あとですね、やはり外国での米国での講演でですね。まあ、歴史修正主義者という言葉を使いまして、代表格のようにして例えば安倍晋三首相のことを挙げられたりもしてましたけども、外国でですね、あまりよく事情を知らない人の前で、そういう文脈で話すといらぬ誤解を招くんじゃないかと思うんですけど」
植村「そもそも僕が言い出したのではなくて、多分そういうふうにずっと受け止められるような行動があったんじゃないですかね。僕が初めて言ったんでしたっけ、阿比留さん、そういうふうな表現を」
阿比留「初めてかどうか知りませんけど」
植村「違うと思います。河野(洋平官房長官)談話、村山(富市首相)談話についてのぶれと、この間の動きをみたら、そういう流れの中の人ではないかと。なぜなら、歴史教科書の問題でも中川(昭一)さんと一緒にやられてきましたよね。そういう流れを言ったわけで、それは別にどこでも言ってますんで、米国だけではないですよね」

阿比留「ただ、しかし、あの中でですね、自民党の『日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会』のことを触れられてますけども、彼らがやってきたことは、むしろその、いい意味での修正というと変な言葉遣いですけども、歴史を正しているだけじゃないかと思いますね」
植村「そこはもう、ちょっと論議が広がると思うんですけど、村山談話、河野談話という2つの談話を変えよう、あるいはそれをなき(もの)にしようという動きがありますよね。僕は、やっぱりそれは大きな意味では歴史修正じゃないかと思うんです。なぜなら、それは世界に向けた日本政府のマニフェストですよ。そして、それでいろんな外交関係、いろんなものができた。にもかかわらず、それが揺らいでいる、ということを言ったわけです」

「阿比留さんは金学順さんを何だと思っているんですか」

原川「えー、そうですねえ、いろいろ…。えっと、植村さんご自身は、慰安婦と挺身隊の言葉の混同に戻りますけども、いつ混同に気が付かれたんですか?」
植村「これがね、だから、混同ということよりも」
原川「あー、これは別のものだ、と気づかれたときがあったんですか?」
植村「いや、今でもね、慰安婦のことをチョンシンデと言う韓国の年寄りはたくさんいるんですよ。それで、おばあさんたちもそれは言う。で、気付かれたというか、どこかでこれが間違いだとかね、そういうふうな、僕は、認識じゃなくて、やっぱりそういう時代の認識で、そのおばあさんたちって挺身…、あの、金学順さんって慰安婦じゃなかったんですか?」
阿比留「ただ、でも、金学順さんは別に挺身隊じゃないんじゃないですかね」

植村「いや、だから挺身隊というふうに、ご本人が言ったり、それから周りが言ったりしている。つまり、その場合の挺身隊というのは、勤労挺身隊の意味ではないんですよ。慰安婦のことを韓国ではそういうふうに言われている。だから、当時はそういうふうな言い回しと時代認識があったということなんですよ」
阿比留「今はどうですか」
植村「まあ、今は使いませんよね、確かにね。もう使わなくなっている。それは別に私だけじゃなくて、新聞自体がね。じゃあね、それはだから、その時代はそういう風なことですよね。でも、じゃあ、金学順さんは何だったんですか。慰安婦だったんですか。慰安婦だったんでしょう、阿比留さん」
阿比留「おそらく慰安婦だったんでしょうね」
植村「で、金学順さんは強制連行で慰安婦になったんですか」
阿比留「それは分かりません。強制連行、先ほど一番最初に、広い意味でいうのと、狭い意味と」
植村「狭い意味もね。いわゆる人(狩り)。この日本軍が連れて行ったという産経新聞の報道的なものですよね。産経新聞のこのね。これは、(事実)じゃないと思っている? と、思っているよね?」
阿比留「(事実)じゃないと思います」
植村「じゃ、(事実じゃ)ないと思ってるよね。じゃあ、何なんですか。つまり、僕はだまされたというふうに本人が言いましたよ、という風に書いているんだけれども、じゃあ、阿比留さんは金学順さんを何だと思っているんですか」
阿比留「いや、慰安婦ですね」
植村「慰安婦で。慰安婦で、どうやって慰安婦になったと思っているんですか」
阿比留「親に売られてて」
植村「親にどこに売られたんですか」

阿比留「まあ、養父とされる人間に預けられた段階で、もう母親に売られているわけですね」
植村「で、キーセン(妓生)の学校ですよね。キーセン」
阿比留「ええ」
植村「阿比留さん、キーセンって何かご存じですか」
阿比留「芸妓(げいこ)、芸子。まあ、いわゆる…、植村さんは芸者という言葉を使われましたけども、芸者というのも実は簡単な意味じゃありませんけれどもね」
植村「うーん」
阿比留「それに、芸者とは、必ずしも一致しないかもしれませんが、いわゆる遊芸を売ったり、場合によっては春をひさぐこともあるような」
植村「う~ん」
阿比留「いろんな人を含めていっているのでしょうね」
植村「金学順さんは、キーセン学校のとき売春婦だったんですか。その意味でいうと。春をひさぐ」
阿比留「さあ、ただ、売春婦にする目的で、その養父が育てた可能性はありますが、そこまでは…」
植村「可能性でしょ」
阿比留「そこまでは分かるわけないですよ」
植村「分からんでしょ。じゃあ、金学順さんがどうやって、どういう経緯で慰安婦にされたんですか。人身売買ですか」
阿比留「まあ、人身売買が発端でしょうね」
植村「人身売買で、誰に売られたんですか」
阿比留「最初は母親ですね」
植村「いや、母親が誰に売ったんですか」
阿比留「だから養父にですね」
植村「で、養父は誰かに売ったんですか」
阿比留「そのへんははっきりしません。何かいろいろ…」

植村「なのに何で、それが人身売買というんですか」
阿比留「最初に母親に、もう養父の男に40円で売られたと自分で言っているわけじゃないですか」
植村「だけどそれが、それが、慰安婦になった理由ですか」
阿比留「発端でしょうね」

「僕は慰安婦担当ばかりやっていたわけではない」

植村「そしたら、この産経新聞(平成3年12月7日付の大阪本社版記事)は日本軍に連行されたと言っているんですよ。で、当時、金学順さんは最終的な法廷の陳述でも、そういうふうに言っているんですよ。何が真実か、私が間違っていて、あなたが合っているんですか? 言えないでしょう。結論でいえるのは、金学順さんが意に反して慰安婦にされて、いやだと言っていることが僕は問題だと思うんだ。そこは、阿比留さんと見解が違うかも分からんけれども」
阿比留「慰安婦という境遇に置かれた方の中で、嫌な思い、あるいはその境遇自体が嫌だと思った人がたくさんいることは当然だと思うし…」
植村「はい」
阿比留「同情もします」
植村「うんうん」
阿比留「同情だけじゃなくて、真摯に受け止めたいと思いますが、一方で、なぜ今、世界で日本が、日本だけが悪者にされているのかということは…」

植村「じゃあね、金学順さんが、どういう人だったんですか。ぼくは金学順さんのことしか、ま、ほかにも何人か書いているけれども、基本的に僕は強制連行の慰安婦に会ってないから。だまされた、と書いているんだけども。それをいうとまあ、原川さん、これ記事みた? どっかの記事に言ってたと思うんだけども、ま、要するに、もう一人の人も、これもだまされているんですけれどもね。だまされたようなケースで僕は書いているんだけれども。あの~、それのどこが問題なんですか。僕が強制連行って金学順さんのことを伝えたんですか」
原川「いや、私は当時むしろ、まだ学生でしたから、それこそ、この慰安婦のこと、特に金学順さんのこと、当時は匿名でしたけども、初めて書かれた植村さんですし、署名記事は2本とはないとはいえ、いろいろ、この…」
植村「あ~、それは90何年頃ですか。この記事が出た頃?」
原川「いや、だから、その時は、大学生ではないですね、中学生ですね。つまり、その私は当時、(金学順さんに)アクセスすることはできなかったし、この記事を果たして認識していたかといえば、ダイレクトに認識していなかったかもしれません。ところが金学順さんの記事を署名記事で2本、書かれている植村さんだから、もっと金学順さんのことをいろいろ取材されているのかなと思って」
植村「うんうんうん」
原川「いろいろ、金学順さんの記事に出ていないことを聞けるかな、と思ったんですけれども」
植村「いや、そんな、だから、書いているしかないです。僕はだから、慰安婦担当でそればっかりやっていたわけではないということですよね。で、金学順さんの証言について知りたければ、後で僕がコピーでもあげますが、法廷証言なんかがありますので。そこではキーセン学校が一体、どんなものだったのか、とかいう…」


「朝日の侵略戦争の反省を伝えようという作業に誇り」

朝日新聞で初期の慰安婦報道に関わった植村隆元記者(北星学園大非常勤講師)の産経新聞インタビューの詳報8回目は次の通り。聞き手は本紙の阿比留瑠比・政治部編集委員と原川貴郎・外信部記者。

「朝日は慰安婦問題にきちんと取り組んできた」

阿比留「さて、それでですね。今回、朝日新聞のですね、問題を、いいですか」
植村「あ、はい、はい、どうぞ」
阿比留「植村さんにお話を聞きたいことはあったわけですけども、植村さんというよりも、吉田証言の報道も含めた朝日新聞の問題をずっと関心を持って眺めているわけですが。朝日新聞の今回、いや、昨年の検証(記事)。あるいは1997(平成9)年の検証も含めて、慰安婦報道について何か思うところはありますか。それとも特にないですか」
植村「個々のことは、私、取材してないので分かりません」
阿比留「はい」
植村「分かりません。特に、私、会社も辞めているので分かりません。で、それは、朝日新聞であればそれぞれ担当の部署があるので聞いてもらえればと思うんだけれども。僕は、朝日新聞はですね、やはり、慰安婦問題についてきちんと取り組んできた。この資料集、ちょっと見ていただければと思うんですけども。
『新聞と戦争』という連載をずっと、やってたんですよ。2007(平成19)年頃かな。1年間。朝日新聞で。外報部で国際ニュース担当だったんだけど、朝日新聞の戦争責任というのを追っかけて。これ、口絵にあるんですけどね。取材班のメンバーでやった。これ、ジャーナリズム大賞とか取ったんだけど。(石橋)湛山の。ここの中に、朝鮮半島に植民地をつくった後、朝日がどんなことをやったかみたいな、ようなことをやっておった。そしたら、けっこう、朝日新聞やっぱり当時ね、侵略戦争とか、植民地とか美化しているわけだ。で、非常に僕はショックを受けて、あの~、すげえなあと思って。そういうのが、この本で、これ文庫本で出てるんで、あの、見ていただければと思いますし、データベースで出てきますけど。

京城支局という、朝日新聞の戦前の植民地支配時代の、まあ、あの支局がどのようなことをやっていたかというのをずっと取材していた。当時の記事をみたら、やっぱり結局は植民地支配を正当化するというか、まあ当たり前だろうけどね、当時は。そういう中での報道だから、やっぱり日本が朝鮮半島を植民地にして発展させたとか、そんな記事が多いんですよ。
で、結局、戦争協力したわけですけれども、朝日新聞は、それを戦後反省して、やはり、侵略戦争に対する反省そして植民地支配に対する反省と謝罪、おわび。そういう気持ちがやっぱり社の一つのジャーナリズムの柱だったと思う。だから慰安婦問題も多分そういう流れ。女性の人権の流れ。松井やよりさん、ご存じだと思うんですけども松井やよりさんが、80年代にさまざまな形で発掘してきた、そういう流れがあった。
そして、90年代になって韓国の民主化が進む中で、それまで沈黙していた元慰安婦のおばあさんたちが語り始めた。ご存じの通り、松井やよりさんは、(韓国挺身隊問題対策協議会代表の)尹貞玉さんとも交流があって、やっておったわけですよね。私も人権担当でした。在日コリアンとか、大阪で担当していて」

「当時どんな記者も良心に従って取材していたと思う」

植村「大阪は在日コリアンがすごく多い。僕は、(かつて猪飼野と呼ばれたコリアンタウンの)ど真ん中に住んでいて、在日コリアンの人権問題とかやっていて。そういう流れの中でこういう取材をしたわけです。やっぱり基本的に戦後、朝日新聞がやってきた、アジアへの侵略戦争の反省と、それを伝えようという作業。そういう作業というのは、僕自身、それを誇りに思っているし、ま、そういうこともあって、朝日新聞にも入ったわけですけれども。そういうことです。そういう流れのなかで、慰安婦問題に朝日新聞は多分、取り組んだんだろうなと。これ別に、ご存じのように、チームでやったわけじゃないんですよ」

阿比留「ええ」
植村「自然発生的にいろいろ。僕は在日コリアンの人権問題の中で、そういう問題に関心を持って始めた。そういう流れ。松井さんは女性の人権とかね。もちろん紆余曲折はあったけれども、やっぱりその姿勢は堅持してほしいし、これからもそういうような姿勢で報道を続けてほしいなというふうに思っております」
阿比留「まあ、大きなところでは分かりました。ただ、吉田証言を18本取り消すなどですね…」
植村「それは、僕、ちょっと記事を書いてないんで、書いた人に聞いてください。多分、前川(恵司)さんなんかも…。前川さんと交流、ありますよね」
阿比留「多少あります」
植村「じゃあ前川さんの記事も、多分12月に取り消されているんで。それで、僕の記憶では前川さんの記事が一番、最初だったと思うんですよね」
原川「ええ、川崎版ですね」
植村「(自称・元山口県労務報国会下関支部動員部長の)吉田清治さんがね、世の中に登場した。結構長い記事です。それは、だから前川さんに聞いてください。僕は関係してないことには(回答)できません。ただし一つだけ言えるのは、当時どんな記者たちも良心に従って取材をしていたと思うんです。例えば、これは産経新聞の大阪本社の人権問題取材班…もちろんご存じだと思うんですけれども。この中に吉田清治さんのことが出てくるんです。『終わらぬ謝罪行脚』ということでね。これまあ、私、記事もみてたんだけど、今、(大阪本社版の連載をまとめた)本も持ってきたんですが、吉田清治さんの謝罪の旅を紹介している記事ですね。で、その中に、まあ、尹貞玉さんのこんな話も出たり。

で、ただね、産経新聞、この当時、これは93年くらいの記事だから、『吉田さんの証言が明らかになるにつれ、その信ぴょう性に疑問をとなえる声があがり始めた。証言を裏付ける被害者側の証人が依然、現れないからだ』みたいなことが書いてある。これは産経新聞で報道されてましたよね。でも、その後、またいいことを言っている。『が、被害証言がなくとも、それで強制連行がなかったともいえない。吉田さんが、証言者として重要なかぎを握っていることは確かだ』ってことで書いているんですけども。
こういうふうな取材をした記者は朝日新聞だけじゃなくて、産経の中にもいた。僕はこういう人たちの良心に従った行動に対して、一つひとつ具体的な取材のデータが分からないから、コメントはできない。だけれども良心に従って取材はしたんだろうなと。記者精神に基づいてやったんだろうな、という。被害者の証言を聞いたり、あるいは、こういう加害者の証言を聞いたりしたんだろうなということは何か分かりました。だから、良心に従って吉田清治証言を取材したんだろうなと。多分、それは朝日の記者であれ、産経の記者であれ、やったんだろうなというふうに思っています」

「朝日新聞のどこが問題だと?」

原川「それに対して早い段階で、秦郁彦さんから疑問が呈され、訂正するまでに時間がかかったことについては。去年の確か3月までは朝日にいた」
植村「いた」
原川「長らく朝日におられた元朝日の記者としてはどうごらんになっていますか」
植村「それはもう、あの、前川さんに聞いてもらうと一番詳しいんじゃないかと思うんですけれども。前川さんが一番先に吉田清治さんを紹介した方ですよね。僕は吉田清治さんに会ったことがないのでコメントできない」

原川「吉田さんというよりも、会社、会社としての姿勢についてはどう思われますか」
植村「僕は、だから、さっき言ったじゃないですか、ね。やっぱり、あのいろんな紆余曲折はあるけれども、大きな流れの中では人権侵害の問題をやってきたということは、僕は、間違ってなかったと思いますよ。もちろん、それは吉田さんのことを取り消したということ、事実はあるからね、そういうことはあったでしょう。だけれども、だからといって、慰安婦問題すべてが間違っていたかと言ったら、全然、僕は違うと思います。あの、ここで阿比留さんにおうかがいしたいんですけれども、朝日新聞の報道のどこが問題だと? 簡単に言えば。吉田清治さんを書いたからですか」
阿比留「いや、いろんな所に問題がありますね。もちろん、これは別に慰安婦問題だけに限りませんけれども、とにかく日本と過去の日本を悪者にしたいとしか思えないんですね」
植村「過去の日本は、全く悪者じゃなかったんでしたっけ」
阿比留「いいところも、悪いところも…」
植村「そうでしょ、だから、いいところも悪いところもね」
阿比留「悪いところばかり過度にですね、取り上げようとしている」
植村「だけどさ、子供の論理だよね。侵略戦争があって、アジアに多大な被害を与えたとかいうところはもう世界の共通認識じゃない。阿比留さんはちょっとそれ違うのかな。侵略戦争とか、過去のね」
阿比留「多大な迷惑、というか被害を与えたということには何の異論もないですね」
植村「うんうん。で、慰安婦がたくさん証言して被害を(受けたと)いっているということも認める?」
阿比留「というよりも、朝日新聞が(平成4年1月の)宮沢(喜一首相)訪韓の直前にですね。女子挺身隊の名で強制連行して20万人といわれる…」

植村「(「従軍慰安婦」の用語解説として『主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる』とした平成4年1月11日付朝日新聞朝刊の)メモだね、メモだね、ふーん」
阿比留「ああいうのを長年放置したことを日韓関係も含めて、ずいぶんと悪影響を及ぼしたのは間違いないと思いますね」
植村「それ何か、具体的なデータとして、そういうのがあるんでしたっけ」
阿比留「例えばあの、えー、独立検証員会の…」

「朝日のおかげで日本がおとしめられた証拠は?」

植村「でも、60年代くらいから女子挺身隊の名前で慰安婦にされたという韓国の記事があると(週刊)金曜日に出ていた。朝日新聞のおかげで何か日本がおとしめられたとかいう具体的な証拠があったら教えてほしい」
阿比留「たとえば、前駐韓大使の武藤(正敏)さんの最近の本を読んでも、私が今、指摘したあれ(平成4年1月11日付の朝日記事)が出たことによって急激に反日感情が高まって、その後の宮沢さんが(韓国に)行って、宮沢さんが訳も分からず8回も謝罪したという…」
植村「まあ、(言いたいことは)分かりました。ただ、あのメモは僕が書いてないってことは分かっているよね」
阿比留「ええ」
植村「じゃ、もう、その話やめよう。ただ、大きな流れの中で日韓関係を朝日新聞が悪くしていると思いますか?」
阿比留「思いますね」
植村「ああ、そうですか。僕はそうは思わないんで。その辺はちょっと見解の相違だと思うんだけれども。僕は、朝日新聞はやっぱり日本と韓国の和解をするために、過去を直視していたと思う」

「捏造記者というと名誉棄損になると訴えたかった」

朝日新聞で初期の慰安婦報道に関わった植村隆元記者(北星学園大非常勤講師)の産経新聞インタビューの第9回詳報は次の通り。聞き手は本紙の阿比留瑠比・政治部編集委員と原川貴郎・外信部記者。

「米国で187人の歴史研究家の声明がありましたよね」

原川「強制的に慰安婦にさせられた、その人たちが20万人にものぼるという誤解がその世界に広がっていますけれども。こうした誤解について植村さんは慰安婦問題に取り組まれた方としてどのようにお考えなんですか」
植村「僕は何人いたとかいう話をいろんな人に聞かれたことがあるんですが。ちょっと聞きたいんですが、原川さん、慰安婦問題って何人が正しいんですかね」
原川「まあ、実態は定かではないんですよね」
植村「それ、それ、聞きたいのよ僕」
原川「しかし、まあ、日本人慰安婦の数が外国人慰安婦より多いのは確かなんだろうと思います」
植村「あの~、僕はこれを言うと水掛け論になるから言わないけど、最近、米国で187人の歴史研究者らの声明というのがありましたよね。ごらんになったと思うんだけど、そこにまさにその答えが出てる。ちょっと、これを読ませていただくと、『慰安婦の正確な数について、歴史家の意見は分かれていますが、恐らく、永久に正確な数字が確定されることはないでしょう。確かに、信用できる被害者数を見積もることも重要です。しかし、最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません』と書いていますね。つまり数の問題。まさか、300人とか400人レベルとは思っていないよね? 慰安婦って、いないんですか?」
原川「慰安婦はいたと思いますよ」

植村「だから、だから」
原川「慰安婦をいなかったというふうに全存在そのものを否定されている方っていうのは、植村さんがご存じの範囲でいますか、そういう人」
植村「いやいや、いないと思いますよ」
原川「そうですよね」
植村「だから、歴史家の中で、数字の確定ってできてないじゃないですか」
阿比留「まあ、確定ではありませんが秦郁彦さんは2万数千人と見積もっていますね」
植村「まあ、そうですね。それは多分、秦さんもいろんな変遷があったと思うんですが。それはいろんな見方があります。じゃあ2万人だったら問題ないのかということですよね。だから、数の問題はこの声明通りで僕が答えるべき話ではないと思います。
ただし、世界はそういうふうに見てはいないということがこれで分かる。これはどんな人が、声明を出したかといったら、これはもう、(米ハーバード大名誉教授の)エズラ・ボーゲルさんとか、(米歴史学者の)ジョン・ダワーさんとか、(米歴史学者の)キャロル・グラックさんとか、さまざまな知日派の人たちですよね。そういうのが出ているということを指摘することで、僕の答えに代えさせていただきたいというふうに思います」

「朝日の外に出た時に激しい攻撃があった」

原川「あの、また質問が変わるんですけども。(東京基督教大教授の)西岡力さんの92年の論文で初めて批判された。そのとき西岡さんは取材もされなかったと手記に書かれていましたけども」
植村「そうそう。取材申し込みがなかったんで知らなかった」
原川「なぜ、ごくごく最近まで20年以上も、反論はされなかったのかと」

植村「一つはさっき言ったように、もう初期の段階で、朝日新聞は別に問題じゃないとしていた。かつてその頃、西岡さんも捏造とは言ってなかったんだよ。これが、なぜか97、8年頃かな、変わってきている。まあ、それにしても、新聞記者活動をやるにおいては、いろんな人にいろんなことを言われるけれどもね。今回、やっぱり大きいのは、それは手記にも書いたけれども、僕が朝日の外に出たときに、すっごい激しい攻撃がありましたよね。
僕の娘は高校の2年生だった、去年。で、全く生まれてもない時に、おやじが書いた記事で激しいバッシングがあって、娘の顔写真までさらされて。自殺するまで追い込むしかない、ということまで書かれた。この時に僕はすごいショックを受けてね。もちろん、これは西岡さんが言ってるわけじゃ全然ないですよ。だけれども、社会的な雰囲気として、極めて異常なことが去年起きていた。それはちょっと分かると思うんだけど、朝日バッシング。家にさまざまな記者が来たり、張り込みされたり、まるで犯罪者のように書かれた。僕だけだったらまだ耐えられますよ、阿比留さん。
でも、じゃあ、阿比留さん、考えてごらんなさい、阿比留さんが多分、あれだけバシンと極言されているさまざまなこと。それに対する意見の違う人っていると思いますよね。でも、その背後勢力が娘さんを脅迫したりしたらどう思う? 阿比留さん、これはきちっとコラムで書いてくださいよ。つまりね、植村を攻撃するのはいいと。おかしいと言えばいい。だけど娘を攻撃するのはおかしいじゃないといってくれないかな」
阿比留「それはね、記事でですね、私は、こういうことは絶対に許されないということは書きました」
植村「もうちょっと書いてよ、じゃ。被害の実態も伝えてよ」


「息子の友達まで巻き込まれる事態になった」
阿比留「それは今回の…」
植村「他の記者たちはみんな」
阿比留「今回のインタビューでそれはやりますから」
植村「だけど、やってないじゃない、まだ」
阿比留「今回のインタビューで、と言ってますよね」
植村「今回って、今日じゃなくて?」
阿比留「今日ので」
植村「だから、被害状況、聞いてないじゃない。僕の娘のこと」
阿比留「あ、今まさにお話になっている」
植村「今、話してるんだけど、(産経新聞が事前に植村氏に送った)クエスチョン(質問項目)に入ってなかったじゃない。だから、そんなことも産経新聞も書いてほしいんだ。つまり、産経ってすごく影響力あるんだよ。だから、僕はじゃあ、そのデータも言うからお願いしたい。つまり、僕をバッシングしたりするのね。やりたい人は仕方がない。そういう意味では。だけれども、娘まで巻き込まないでほしい。そして息子まで。息子の(同じ植村姓の)友達まで巻き込まれる事態になった。だから、簡単に言うと、こんな事態を食い止めるために、裁判を起こしたんだ。
つまり、この時代、この雰囲気。なぜなら、僕は(昨年)12月の、何日か忘れちゃったけど、今年1月号の文芸春秋に手記をすごく詳しく書いたんですよ。今日言っているようなことを。でも、その後もバッシングは続いているんだ。そして2月には、大学に『娘を殺す』という脅迫状が来たんだよ。そして警察が、パトロール、うちの娘が登下校の時には、パトカーが周辺警備するような状況なんだよ。やっぱりこれは許されないと思って、言論活動もしてます。いろいろ書いてます。インタビューにも応じている。で、ま、今回、最後にね、面談できてよかったんですけれども」
植村「しかしね、それだけではとどまらない。だから植村の、あるいは娘とか、あるいは植村が捏造記者ということを言うと名誉棄損になる、ということを社会に訴えたかった。だから(訴訟を)やった。つまり非常に激しい攻撃が北星学園大学にあり、警備費用が何千万円もかかっている。そういうふうな状況をとめるためにやったんです」
「『歴史戦』やるなら被害者の証言も聞いてほしい」

朝日新聞で初期の慰安婦報道に関わった植村隆元記者(北星学園大非常勤講師)の産経新聞インタビューの第10回詳報は次の通り。聞き手は本紙の阿比留瑠比・政治部編集委員と原川貴郎・外信部記者。

「阿比留さんは僕の敵じゃないと思う」

阿比留「今、訴えられているのは、西岡(力・東京基督教大教授)さんの他、櫻井(よしこ)さんと花田(紀凱・月刊『WiLL』編集長)さんですか」
植村「いやいや花田さんは訴えてないよね。(『WiLL』発行元の)ワックとかはもちろん、訴えていますが、花田さんは訴えてない。産経新聞にぜひお願いしたいのは、さまざまな考えはあるだろうけれども、家族までこんなふうなこと(脅迫・攻撃)を許す社会、これ、右であれ左であれ、リベラルであれ、なんであれ、やっぱり許せないと思うんですよ。だからこそ、世界が、こんなに関心もっているわけなんです。
ぜひこれを食い止めるためにお力を貸してくれないかなあ。だから、本当にそういうことをぜひやめろと。まあ、いろんな社説でもちょこっといわれたり、阿比留さんもちょこっと書かれてるけど、具体的な実態と許せない事実を書いていただいて、バンとね、阿比留さんみたいな影響力のある人が…」
阿比留「いや、まあ、影響力はともかくとして、それは書きますけども」
植村「ぜひ、お願いします」
阿比留「あと、その…」
植村「で、それから強制連行の問題の間違いとかいうこともぜひその後の調べも教えていただきたい」
植村「あのー、最後にね、ぜひ、訴えたいのは元産経新聞の正論の常連メンバーで今、そこから外れている方で、小林節さんという方がいらっしゃって、その小林節さんは私の弁護団にも入ってくださっておるんですよ」
阿比留「司法記者クラブの記者会見でひどい対応とられましたよ」
植村「何かそんなことありました。どういうひどい態度でしたっけ?」
阿比留「ええ、まあ」

植村「で、その時に、ここの(資料集の)どこかにメモがありますけど、やっぱり、その一部の人々は敵と認めたら激しく嘘をついてでも攻撃する、みたいなね。そういうような傾向に歯止めをかけたいから、われわれは裁判を起こすんだという、弁護団の思いを代弁してくださったんですが、私もまさにその同じ思いで今おりまして、それもぜひね。阿比留さんと小林さんも多分、面識はおありなんだと思うんですけど、産経の正論まで書かれていた人まで、これですよ(資料を示す)。
名誉毀損の裁判、これ多分、司法記者クラブで配ったと思うんですけれども、(読み上げる)『最初は挺身隊と慰安婦の混用・誤用の問題で、それは当時の彼国における用法と他紙の報道にならったもので、特別に批判に値しないものを、いつの間にか、悪意の捏造の話に変更され、それが攻撃の根拠にされた。しかし、重要な点は、その悪意が何ら実証されていないことである。だから、不法行為である。しかも、その架空の事実を根拠として、当人の就職先や未成年の子供にまで攻撃が向けられた。これは犯罪である。これは、冷戦時代のイデオロギー論争と同質で、相手を敵と認定したら、嘘をついてでも罵倒する手法である』」
植村「僕は、本当に、阿比留さんはね、僕の敵じゃないと思う。だけれども、阿比留さんはね、『歴史戦』ということで私をこういう形で書かれている。歴史の前に、真実の前に謙虚に、そして慰安婦のおばあさんのことも、阿比留さん、全然、取材、直接、被害を聞かれたことないと思うけれども、やはり歴史戦をやるには、そういうふうな被害者の証言も聞いてほしい。それだけじゃなくて、金学順さんを強制連行と書いた産経の記者たちにも話を聞いてほしい。つまり、当時、どういう状況だったのか、ということですよ。お願いします。本当にお願いします」

原川「あ、一点、すいません、よろしいでしょうか。91年12月25日の記事ですけれども、あの記事が掲載された段階ではすでに金学順さんを原告の一人とする訴訟ならびに…」
植村「もちろん、それ(提訴)は(91年)12月6日ですからね」
原川「ええ、で、遺族会が、実態は一体となって」
植村「うん、まあ、原告を支えるみたいな形でしょうけどね。はい」
原川「そういう意味では、義理のお母さんは、当時はもう遺族会の代表ではなく、まだ幹事の時代ですかね」

「僕が産経との間を仲介するのも…」

植村「あのときは多分、記事を見ると金鍾大(キム・ジョンデ)さんという方が会長で、主に僕はその方と非常にね、男同士で酒飲んだりして。それはまあ、さっき言ったように、僕は遺族会も取材してたし、韓国挺身隊問題対策協議会の尹貞玉さんにもお会いして。あの、阿比留さん、尹貞玉さんにお会いしたことあります?」
阿比留「尹貞玉さんはないですね」
植村「ああ、ぜひね、1回お会いされたらいい」
原川「それは例えば、植村さん経由で直接アクセスできればいいんですけれども、植村さん経由で産経新聞が取材を希望していると、それはどうですか」
植村「ああ、尹貞玉さん。それちょっと僕が、産経新聞との間を仲介するのもあれだろうから。それは自分でやられればいいと思うんだけど。まあ、ちょっとそれは僕が間に入ると不思議な感じがするんだけど、ただ、つまり、どういうことかと言ったら、いろんな人に取材をしておったということで、その一つとして遺族会の会長、それから梁順任さんにも取材した。それはだから、家族だからということではないんですよ」
原川「でも、家族が支援する裁判に関係…、その原告の一人の記事を新聞紙上に掲載することについて、詳しくはその人に聞いてくださいということでしたが、前川さんの文章によると、そのときの担当デスクが、もしそういうのだったら、もう…」

植村「まあ、だからその、これ、その前川さんと」
原川「(紙面に)載せなかったということを…」
植村「はいはい」
原川「言われていますけれども」
植村「当時の担当デスクというのは、社会部の担当デスクは僕が結婚してるのも知っているはずだしね。多分、だから社会部のデスクじゃないと思うんですよ」

「朝鮮半島を植民地化した負の遺産を見つめていかなきゃ」

原川「で、その裁判を支援する義理のお母さん、息子としての、その関係者としての一記者が、ああした記事、原告に関する記事を載せることについて、特に、そのなんでしょう、逡巡とかね」
阿比留「葛藤とか、そういうのは」
原川「葛藤というのはなかったんですか」
植村「まあ、その当時はね、最初から何回も言うけれども、僕は結婚する前からずっとこの問題を取材してきたわけじゃないですか。それはもう、大阪社会部のデスクたちはみんな知っているわけです。手記にも書いてます。
僕は梁順任さんと結婚したんじゃなくて、単にその娘と結婚したわけでね。母親と結婚したわけではないわけですし、それと僕は別に家族のために書いたわけじゃないんですよ。それはもうさっきから言いましたように、朝日新聞がずっとやってきたことと同じ、戦争中に侵略戦争に加担して、朝鮮半島を植民地化したその負の遺産に対してやっぱりきちっと見つめていかなきゃなんないなと思って、取材したんです。まあ、もう、それ以上言えない。はい。ああもう4時だな」
阿比留「じゃあ、その時間の約束なので」
植村「あ、ありがとう、あ、まあ、どうもご苦労さまでした」
植村「阿比留さん、まあ、というふうな感じなんで、ざっくばらんにお願いしますよ。今日のやつでやっぱり一番大きいのは、産経から逃げたとか阿比留さんに」
原川「あ、そうだ。すんません」
植村「何で(取材から)逃げたのかという話?」
原川「逃げたというか」

植村「逃げてはない」
原川「なぜこれまでは取材受けていただけなかったのか」
植村「まあ、(昨年)8月の段階で、朝日が、検証記事を書くまでは、僕はどこも受けなかったんだ。産経新聞からは(取材)申し込みというのは、(昨年)10月にあったんだな」
原川「10月は私ですけども。その前段にも、あの時は、大学に(別の記者が取材依頼の取り次ぎを申し込んだ)…」
植村「あれ、それはちょっと僕はよく分からんけど、正式な申し込みがあったのは、10月ぐらいだったのか。まあ、その時は申し訳ないが、ちょっとまだ、いろいろと混乱しててさ、まあ、あの文書を見た時に、まあ、これだったら、まあ、ちょっと申し訳ないけど、(文書回答のみで、インタビューは受けなかった)ということはあったけど」
原川「分かりました。では、ありがとうございました」
植村「お願いします。それでもうさっきから何度も言うように、これは歴史に検証される話ですし、僕らは要するに産経の皆さんと戦争するつもりもないし、歴史戦するつもりもないんです。ただ、やっぱりこういうふうな、娘とか大学までね、こんな(攻撃される)ようなことが起きる世の中は防ぎたい。産経新聞と朝日新聞が、(慰安婦問題の)共同の取材班をつくったらどうですか。僕もちょっとだけまだ知り合いがいるから。阿比留さんやる気ないか?」
阿比留「やるんだったらそれ全然構わないですけど。ああ、ただ、まあ、私一人じゃ決められないですけどね」

植村「もちろんもちろん。だけど阿比留さんはすごく力のある人だから、それおもしろいんじゃない。産経と朝日が共同調査チームで、どこまで分かっててどこまで分かってないかってどうですか。いや、まじめに僕。結局、そうしないと。僕ら戦争するような関係じゃないじゃない、ジャーナリスト同士で、と思ってるの。それ、どう」
阿比留「相手側に誠意があればこっちは構わないです」
植村「いやははは。朝日の連中は相手方に誠意があればとかいうと思うんだけど。多分、朝日の現場の記者たちとこんな、こう違うじゃないかってあんまりやり合わないでしょ」
阿比留「この問題ではやり合わないですね」
植村「でも、もしそういうこともあったらおもしろいんじゃないか。このままいったら、いろんな意味で日本がじり貧になるよ。本当に僕は、それすごく(心配)だから、もし、そういう気持ちある? あるんであれば、みんな素っ頓狂でびっくりするかも分からないけど。でも、阿比留記者と朝日の記者が共同でやって、どこからどこまで言えるのかみたいな形の話だったらおもしろいんちゃうかな。僕ら2人、こんな戦争ずっと続けてもさ。ひとつそれよろしくお願いします」
阿比留「朝日の記者と対談の企画があって受けたことあるんですけども、向こう側が嫌だと言ってきたことがありました」
植村「あ、対談とかも。その時はいつ頃?」
阿比留「それは、1年ぐらい前」
植村「じゃあ、阿比留さん、もしそんな話があったら」
阿比留「最後は(社内で)ちょっと詰めないとあれですけど」
植村「それは多分、対談だから、お互い。それってすごい、いいよね。ぜひ、じゃあ、それも提案しますんで」
(終わり)


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