長編小説

2014.07.15

縁日の金魚鉢                               

1.
 年の瀬も迫った12月8日午前8時、花園マンションの215号室で中年男の変死体が発見された。
 通報を受けた渋谷中央署では直ちに係員を現場へ急行させた。
 花園マンションは、国鉄渋谷駅から徒歩で10分程のところにあり、鉄筋コンクリート造りの四階建ての建物である。マンションという名がついているが、賃貸しの高級アパートといったほうが分かりやすい。215号室で変死体を発見したのは花園マンションの管理人である。

 その日、畳屋が畳の表替えをするため、見積もりにやってきた。各部屋を見て廻った後、留守の部屋も見たいから管理人に立ち会って欲しいということになり、管理人が予備鍵を使って戸を開け、215号室の住人が死んでいるのを発見したのである。
 現場へ急行した捜査官は状況を次ぎのように観察した。

1)215号室は6畳の和室と8畳の洋間と6畳程の台所から成っており、洋式のバスとトイレがついている。
2)死体は8畳のソファの上にうつ伏せに倒れており、明らかに毒物による中毒の様相を呈している。
3)死体の周囲にも衣服のポケットの中にも毒物の残りは発見されなかった。部屋の中の屑籠、押し入れのどこにも毒物を入れた容器らしきものも、包み紙も発見されなかった。
4)人が出入りできる箇所は、
廊下側の玄関とベランダ側の硝子戸の二箇所しかないが、どちらも内側から鍵が掛かっていた。
5)上着のポケットとズボンのポケットに部屋の出入口の鍵が一つずつ入っていた。
6)部屋のどこにも遺書は残されていなかった。
7)部屋の中が荒された様子もなく、上着の内ポケットには5万3千円余入っている革の財布が残っていた。財布の中には五菱銀行新宿支店発行のキャッシュカードが入っていた。
8)机の引き出しからは、五菱銀行新宿支店の普通預金通帳が発見された。9月10日付けで口座を新規に開設したらしく、千円の預け入れ記帳がしてあった。通帳の名義人は山本太郎である。

「この部屋の借り主の名前は何という人ですか」
 捜査官は死体を発見してまだ興奮のさめやらぬ管理人に尋ねた。
「田代光一さんです」
「田代光一に間違いありませんか」
「間違いありませんとも。賃貸借契約書にはちゃんと田代光一と署名してあります」
 管理人は捜査官の質問にむきになって答えた。
「山本太郎という別名を使ってはいなかったでしょうか」
「さあ、そこまでは判りません」
「家族はいませんか」
「独身です。もっとも2年程前に奥さんと死別されたようですが」
「田代さんは何時からこのアパートへ住んでいましたか」
「丁度1年程になります」と管理人は契約書の綴りを指に唾をつけてめくりながら答えた。
「どんな仕事をしていましたか」
「なんでも化粧品のセールスをやっているということでした。ここだけの話ですがね、奥さんがいなくて不自由でしょうと言った時、化粧品のセールスをやっていると、女には不自由しませんよと冗談のように言っておられました」と声をひそめながら管理人が言った。               
「すると女出入りも相当あったでしょうね」
「ところがこのアパートへ女の人が訪ねてくるのを見たことがありません。どこかでうまくやっていたのでしょうね」               
 詮索好きな顔で管理人が答えた。
「部屋の合鍵は幾つあるのですか」
「合鍵は全部で3個あります。そのうち2個は借家人に貸してあります。残りの一つは管理人室の金庫の中に保管してあります」
「合鍵を鍵屋に頼んで作って貰うことはできますね」
「それが駄目なんですよ、刑事さん。電子キーといいましてね、磁石の原理を応用したものなんですが、300万通り以上の組み合わせがあって、合鍵の複製はできません。」
「すると215号室の室内に鍵が二つあったのだから、管理人室の鍵を使わなければ、部屋の中へ入れないということになりますね」
「そうです」
「それでは、215号室の鍵は何時使いましたか」
「田代さんが死んでいるのを発見したときです」
「その他には」
「それ以外には使った覚えがありません」
「管理人室の鍵があなたに内緒で持ち出されたことはありませんか」
「それはありえません。何故なら、金庫の開け方は私と家内しか知りませんから、他の者が 持ち出しようがありません。自殺じゃぁないでしょうか」 捜査官は管理人に田代を殺さなければならない動機も特に見当たらないので、質問を打ち切った。
 渋谷中央署では自殺、他殺の両面から捜査を進めることになった。
                                     
  2.
                          
 田代光一の死体を解剖した結果、死因はシアン化カリウムによる中毒死であることが判った。死亡推定時刻は、12月7日午前5時から午後8時までの間と推定された。捜査会議では自殺説と他殺説が検討された。自殺説の根拠は次ぎの通りである。

1)死体の発見された部屋には、外部から人の出入りできる箇所はバルコニー側の硝子戸と廊下側の玄関入り口の2ヵ所しかないが、全部内側から鍵がかけてあったこと。
2)合鍵は3個あり、そのうちの2個が死体と同じ室内で発見され、残りの一個は管理人室の金庫の中に厳重に保管されていたこと。
3)合鍵は複製不可能な電子キーであること。
4)部屋の中は荒されておらず、何も盗まれたものはなさそうであること。
5)室内に残された指紋には田代光一以外のものが発見さなかったこと。
 自殺説はかなり説得力を持っていたが、遺書が残されていないという事実は致命的であった。

 これに対して他殺説は次ぎの通りであった。
1)遺書が残されていないこと。
2)青酸カリの服毒自殺であれば、青酸カリの入っていた容器か包み紙が死体の周辺にある筈なのに、それがないことは犯人が証拠を隠すために犯行後、持ち去ったと考えられること。つまり、犯人は被害者が毒物を口中に入れ、死亡するのを確認してから現場を立ち去ったと考えられること。
3)部屋の鍵の構造はホテルの鍵と同じような仕掛けになっているので、合鍵がなくても外部から施錠できること。つまり、部屋の中に居る人は合鍵がなくても、戸を開けることが出来る。そして外へ出て戸を閉めれば、自動的に施錠できる構造になっている。従って最初部屋の中に居た犯人が、犯行後、室内から戸を開け外へ出て戸を閉めたと考えてもよいし、何らかの方法で合鍵を手に入れた犯人が、外部から合鍵を使って室内へ侵入し、犯行後合鍵を被害者のポケットに入れて部屋の内から戸を開けて脱出し、戸を閉めれば自動的に施錠できること。

 捜査は12月7日の事件当日、215号室へ出入りした者があるかどうかの聞き込みから始められた。同時に田代光一に恨みを持つ者或いは、利害関係を特別に持つ者がいないかどうかが調べられた。

 花園マンションは各階に五戸づつあり、全部で20戸あるが、居住者同志で顔を見知っている者は少なく、隣に住んでいながら没交渉の者が殆どであった。都心のアパートで地理的に便利なところにあるせいか、バーのホステスや、ハイミスのOLとか子供のいない共稼ぎの夫婦者或いは田代のような中年の男が住み着いている。住人達はどこか人生に拗ねているところの窺える人達が多かった。お互いに干渉されるのも嫌いだが、干渉するのも御免だという相互無関心の住人達ばかりであった。

 捜査官の懸命の聞き込みにもかかわらず、事件当日の215号室の人の出入りについては、目撃者も見つからず、何の情報も得られなかった。

 花園マンションの住人達の中には、田代光一に対して特別な利害関係や特別な感情を抱く者は見だせなかった。
 田代光一の勤務先、キューピット化粧品株式会社を訪問した捜査官は社長に面会した。
「田代光一さんが変死されたことについて何か思い当たることはないでしょうか」
「何も心当たりがありません。私達も田代があんな死にかたをしたので、驚いているのです」
「勤め振りはどうでしたか」
「うちのセールスマンとしては成績の良い方でしょう。販売実績は常にトップクラスにランキングされていました」
「化粧品のセールスと言えば、女子の方が向いているのではないでしょうかね」
「刑事さん、必ずしもそうではないのですよ。化粧品というのは、女性の美しくなりたいという欲望にアピールするものが好まれるものです。ところが化粧品は、種類も豊富だし、品質もどの銘柄をとってみてもそう変わりがありません。数ある化粧品がある中で、当社の扱っている化粧品を売り込むためには、セールスポイントというものが必要になります。当社のセールスポイントは、男子販売員に商品を扱わせて、女性には出来ないサービスをさせるのです」
「もっと具体的に説明してください」
「あっ、これは、変な意味ではありません。つまり、女が化粧するのは、異性を意識するからです。女が女に褒められても喜びませんが、女が男に褒められると喜ぶでしょう。その心理を逆手にとったわけです。顔だちのいいハンサムな男性のセールスマンを使って歯の浮くようなお世辞を言わせて、売り込もうというわけです」
「すると田代光一はお世辞がうまかったというわけですか」
「何しろ実績を挙げていましたからね。訪問先のお客さんには人気がありましたよ」
「訪問先のご婦人と痴情のもつれを起こして恨みを買うというようなことは考えられませんか」
「仕事がら、ご婦人と恋愛感情に陥るようなことはあったかもしれません。でもそれをうまく処理するのが、上手なセールスマンというものですよ。セールスマンというのは商品を売り込む前に、セールスマン自身のキャラクターを売り込まなければなりませんから、相手に好かれるように振る舞っていたと思いますね。そのことが恨みを買うことにはならないと思いますがね」「生活振りはどうでしたか」
「割に派手な方でしたよ。株や商品取引にも手を出して、そちらの方の副収入がかなりあったようですね。でも、最近、商品取引で大損したとこぼしていました。穴埋めするのに給料の前借りを申し出ていましたよ」
「どれぐらいの穴をあけたのでしょうか」
「何でも200万円くらいらしいですよ」
「勤め人が200万円もの借金を残すと大変ですね」
「大変ですよ。私も信用取引だけは大怪我をするから止めるように、何回か注意していたんですが。何しろ、実績を挙げているセールスマンでしたから私生活にはなるべく干渉しないようにしていました」
 社長は事件にかかわりあいになるのを避けるような言い方をした。
「田代光一の訪問回数の多かったお客の名前は判りませんか」
 社長は事務員に命じて田代のキャビネットから顧客リストを持ってこさせた。田代の使っていた顧客リストには所々,二重丸や一重丸がつけられていた。捜査官は顧客リストのコピーを貰い,印のついているお客から順番に一件ずつ当たってみることにした。
                                     
 3.
                         
 五菱銀行新宿支店を調べに行った田所刑事は預金係長に面会を求めた。
 応接室に暫く待たされた後、眼鏡をかけ頭髪を七三に分けたいかにも銀行マンらしい身だしなみのよい中年の男が愛想笑いをしながら入ってきた。
「どうも大変お待たせしました。どんな御用でしょうか」田所刑事がポケットから出して見せた警察手帳を覗き込みながら言った。
「ある事件に関係のある山本太郎という人物の身元を調べています。この普通預金通帳の名義人山本太郎さんについてお聞きしたいのですが」
「ちょっと拝見。この人は最近新しく口座を開かれたようですね」預金係長は渡された通帳をめくりながら答えた。
「住所は判りませんか」
「ちょっとお待ち下さい。資料を調べてきますから」
 預金係長が調べてくれた資料は次ぎのようなものであった。
 住所は、東京都大田区六郷○○で普通預金口座以外には取引がないこと。預金残高は千円であること。キャッシュカードを発行しており、通帳はオープンになっていること。電話番号の届け出はないこと。
「何ですか、そのオープンというのは」
「最近銀行では、お客様へのサービスと事務の合理化をはかるために、コンピューターを駆使したオンラインシステムを採用しています。つまり、五菱銀行の本支店であれば、どの支店からでもお金の預け入れ、払い戻しができるようになっているのです。オープンというのは通帳のここの所へお届け印が押されてありますね。このお届け印を使えばどこの支店からでも預金を払い戻すことができるのです」
「すると、新宿支店で口座を開いて預金した人が鹿児島支店からでも払い戻しできるということですね」
「そうです」
「となると、銀行ではこの届け印を使えば本人以外の人が引き出しに来ても払い戻しするわけですね」
「そうです。ですから私共では、お客様には万一盗難にあったときの用心に通帳とお届け印は別々に御保管戴くように呼びかけております」
「山本太郎さんから印鑑・通帳の盗難届けは出ていないでしょうか」
「目下のところ届け出はありません」
「残高は千円ということですが、お金の出し入れはありませんか」
「台帳の写しを持ってきましたが、最初千円の入金があって、その後10万円の振込が三回あります。払い戻しも10万円宛三回行われています」
                          
  日   付  お支払額  お預かり額  残高  
                          
 52. 9.10  D           1,000    1,000
 52. 9.12 FUR          100,000  1001,000
 52. 9.15  CD    100,000          1,000
 52.10. 1 FUR          100,000  1001,000
 52.10. 3  CD    100,000          1,000
 52.11. 5 FUR          100,000  1001,000
 52.11. 7  CD    100,000          1,000
                          
「日付の欄に書かれているD,FUR,CDという記号は何ですか」
「D というのは現金で預け入れしたという意味です。FUR は振込入金です。CDはキャッシュディスペンサーつまりキャッシュカードを利用して自動支払機からお客様が御預金を払い戻されたという意味です」
「なるほど、すると山本太郎なる人物は、自動支払機から三回とも金を引き出したから銀行員とは窓口で接触しなくても済むということになりますね」「その通りです」
「最初に千円預け入れしたときはどうですか」
「新規に口座を開設される場合には、色々手続きがありますので、窓口で必ず応対することになります」
「最初契約したときの書類には本人の筆跡は残されているでしょうね」
「ええ、住所氏名とお届け印を登録して戴きますので、自筆の筆跡は原簿を見れば判ります」
「それでは、本人の筆跡をコピーして下さい。それから9月12日,10月1日、11月5日の3回の振込は何処の銀行から誰が振り込んだか判りませんか」
「一寸時間がかかりますが、調べればわかります。ただ私どもではお客様の大切な財産をお預かりしておりますので、お客様に御迷惑がかかるようなことになりますと困ります。私の立場上も・・・・・・」
「勿論あなたに迷惑のかかるようなことはしませんよ。この事件には殺人が絡んでいるので協力して戴けませんか」
田所刑事の強い口調に意を決したらしく預金係長は困惑した顔をしながら女子行員に伝票を調べるように命じた。
「キャッシュカードと言うのは誰にでも簡単に使えますか」日頃銀行とはあまり縁のない田所刑事は幼稚な質問だなと思いながら聞いてみた。
「扱い方自体は極めて簡単ですから誰にでもつかえます。当店にも玄関を入った所に置いてありますから、後でご覧になって下さい」
「もしキャッシュカードを盗まれたらどうなりますか」
「盗難に気がついたら、すぐお届け戴くようにお願いしております。お届けがありますと直ちにそのカードが使えなくなるようにコンピューターに指令を出します」 
「キャッシュカードの盗難に気がつかなかった場合には」
「キャッシュカードには暗証というものがありまして、通常4桁の数字が使わています。この暗証はご本人しか知らないので、他人にはカードは使えません。それにキャッシュカードは3回間違った操作をすると以後はそのカードは使えなくなるように設計されています」
「暗証を知られてしまった時は」
「残念ながらその時はお手上げです」
「暗証が4桁の数字だと覚えておくのが大変でしょうね。本人が忘れてしまったときはどうなります」
「その時はカードは使えません。しかし忘れないように、御自分の生年月日とか御自宅の電話番号をお使いになればこのことは防げます」
「山本太郎のキャッシュカードの暗証を教えて貰えませんか」
「刑事さんそれだけは勘弁して下さい。捜査令状でもお持ちなら止むを得ませんが法的な根拠なしにそこまでお教えすると私が首になってしまいます」 田所刑事は強制捜査ではないので、それ以上の無理強いはできなかった。

    4.
                            
 田所刑事が、五菱銀行新宿支店から持ち帰った資料が捜査会議に提出された。
「山本太郎という男の身元を割り出す必要があると考えましたので、五菱銀行から聞き出してきた住所地の太田区六郷○○へ行ってみました。この番地に建物はなく、五年程前から貸し駐車場として使われています。地主は近所に住む米屋なので、山本太郎という人物が近所に住んでいるかどうか尋ねてみましたが、聞いたことのない名前であると言うのです。念のために区役所で山本太郎を同所同番地で調べてみましたが、住民登録もされていません」 田所刑事は捜査会議で考えを纏めながら報告した。

「山本太郎が実在しない人物で偽名であるとすれば、死んだ田代光一と同人物である可能性も出てきます。五菱銀行新宿支店から入手してきか山本太郎の筆跡と田代光一の筆跡を鑑識で調べて貰いましたところ、田代光一と山本太郎は同一人物の可能性が極めて強いということです。そこで、田代光一が山本太郎という偽名をつかって預金口座を開設した理由が問題になってくると思います」
「つまり、表向きに出来ない金を預けるために偽名口座を開設したということですか」田所刑事の説明をうなづきながら聞いていた青山刑事が横から口をはさんだ。
「そうです。山本太郎名義で開設された預金口座は、田代光一が人目をはばかる黒い金を出し入れするために開設したものと考えられます。しかも、預金は振込であり、払い出しはキャッシュカードが利用されています。自動支払機から現金の払い出しをすれば、伝票に筆跡も残らないし、銀行の窓口で係員に顔を見せる必要がありません。五菱銀行新宿支店で調べたところによりますと、9月15日の振込は東邦銀行銀座支店より、サカモトタカシ名義で行われていました。10月1日の振込は千代田銀行神田支店よりフジカワケンイチ名義で、11月5日のは邦国銀行川崎支店よりナカガワツトム名義でそれぞれ振り込まれていることが判明しました。なお、何れも現金で振り込まれています。これから先は私の推測になりますが、サカモトタカシ、フジカワケンイチ、ナカガワツトムも偽名ではないかという気がします。振込地銀行へ行って調べればサカモトタカシ、フジカワケンイチ、ナカガワツトムの漢字名と住所は判りますから、実在の人物か架空の人物かはすぐ判ると思います。もし、これら3人の人物が実在していれば、山本太郎こと田代光一との関係を問いただすことにより、今回の事件のある程度の輪郭がはっきりするだろうと思います」

 田所刑事の報告は捜査会議の出席者に事件解決への明るい希望を持たせるものであった。
「山本太郎名義の普通預金口座開設後、少なくとも6回金の出し入れがあったのに山本太郎は何故か通帳に記載して貰っていない。金の預け入れは他行よりの振込み、引き出しは自動支払機からとくれば、何か犯罪に利用されているという臭いがするね。しかも、死んだ田代光一は商品取引で大穴をあけているから、田所刑事のいうように田代光一と山本太郎が同一人物とすればフジカワケンイチ、サカモトタカシ、ナカガワツトム達を恐喝していたのかもしれない。先ず振込み人の身元を洗ってみよう」           
 議長は一つの捜査方針を打ち出して捜査会議を終えた。

 直ちに、東都銀行銀座支店、千代田銀行神田支店、邦国銀行川崎支店へ係員が派遣されサカモトタカシ、フジカワケンイチ、ナカガワツトムについて聞き込みが開始された。サカモトタカシは坂元高志で住所は横浜市中区寿町○○、フジカワケンイチは富士川健一で住所は東京都山谷△△△、ナカガワツトムは仲河 勉で住所は東京都千代田区丸の内×××ということが判明した。各銀行に聞き込みに廻った捜査員は振込依頼書のコピーを入手して表示されている住所地へ裏付け調査に出向いた。

 表示されている住所地はいずれも実在したが、該当する番地には坂元高志富士川健一、仲河 勉のうち誰も住んでいなかった。
 坂元高志の住所地は横浜市の簡易宿泊街で、表示されている番地には公衆便所が建っていた。
 富士川健一の住所地も東京の簡易宿泊所が多数存在する地域で、山谷△△△番地には大衆食堂「誠食堂」が労務者相手の店を出していた。
仲河 勉の千代田区丸の内×××番地は日本の代表的なオフィス街であり、示された番地には30階建ての高層ビルが建っており、昼間は1万人近くの人々が出入りするが、夜間は警備会社のガードマンが数人駐在するだけというところである。
 一方入手した振込依頼書を筆跡鑑定したところ、書体は変えてあるが、坂元高志、富士川健一、仲河 勉の筆跡には極めて高い類似性が証明された。つまり3人は同一人である可能性の強いことが示唆された。        山本太郎の筆跡は坂元高志、富士川健一、仲河 勉の何れとも類似性はなく、別人であろうと推定された。
 捜査本部では、五菱銀行新宿支店に開設された山本太郎名義の口座を介して、坂元高志、富士川健一、仲河 勉という三つの偽名を持つ謎の人物Xと死亡した山本太郎こと田代光一の間に金銭の授受があったものと推定した。 ここにきて田代光一の死亡事件は他殺の疑いが濃くなり、殺人事件として本格的に捜査することになった。
 坂元高志、富士川健一、仲河 勉という三つの名前を持つ謎の人物はミスターXと呼ばれることになり、ミスターXを捜し出すことに重点が置かれたが、捜査は最初から困難が予想された。ミスターXに関する資料があまりにも乏しかったからである。
 坂元高志、富士川健一、仲河 勉がそれぞれ、9月12日、10月1日、11月5日に立ち寄った東都銀行銀座支店、千代田銀行神田支店、邦国銀行川崎支店で当日振込依頼を受け付けた窓口の女子行員にどんな人相風体の人物であったかと尋ねたが、誰も記憶していなかった。
                                     
 5.
                         
 キューピット化粧品会社から田代光一の使っていた訪問先リストを貰ってきた青山刑事は印のついているお客から一つずつ訪問して聞き込みをして歩いた。
 田代光一のお客は何れも中流以上の家庭の主婦が多かった。子供達が小学校の高学年か中学生になって、やっと煩わしい育児から解放された年代の主婦達であった。子供を学校へ送り出し、夫を勤めに出した後、手持ち無沙汰をもてあましている主婦が田代光一のお客には多かった。

 夫は会社では中間管理職として夜の帰りが遅く、日曜祭日には接待ゴルフで家にいないことが多く、子供達は子供達で学校から帰ると学習塾へでかけてしまう。心の中に何となく空白が出来、盛りを過ぎかけた女としての自分を毎日の生活に感じ始めた年配の主婦達は、言葉巧みな化粧品の売り込みに手もなく引っかかっていた。
「いや、奥様はまだお若いですよ。これからですよ」
「奥様は美人の上に、家庭を切り回していらっしゃる主婦としての貫祿と、母としての賢さが滲み出ていらっしゃる。そういう方にこそキューピット化粧品は向いているのです」という売り込みの文句に、最初は退屈凌ぎにからかい半分応対していたのだが、いつの間にか田代の固定客にされていたのである。
 聞き込みに廻った青山刑事に警察手帳を見せられて、何を勘違いしたのか「刑事さん主人にだけは内緒にしておいて下さいね。後生だからお願いします。田代さんとのことが主人にばれたら離婚されてしまいますもの」と哀願する主婦もあり、青山刑事の失笑う買った。

 田代光一は夫にも子供にも相手にされなくなり、毎日の生活に退屈しきっている主婦達の心の空白を巧みに衝いて情事の相手役をつとめながら、化粧品の売り込みを続けてきたことが浮かび上がってきた。
 田代光一のリストに二重丸のついしいるお客は五人ほどあったが、これは肉体関係を結ぶに至ったもので、青山刑事から田代が殺されたことを聞かされると、殺人の嫌疑をかけられることよりも浮気が夫に知られることの方を恐れ、密会の場所を素直に教えた。この種の女のアリバイ調査には青山刑事も神経を使った。田代光一殺しの犯人を探し出すのが目的であり、家庭騒動を巻き起こすのが目的ではないと自分の心に言い聞かせながら。

 一重丸のついていた者は十人ほどいたが、お茶に誘ったり,ボーリングに行ったりした程度の関係であった。アリバイ調査は気骨の折れる聞き込みであったが、顧客リストに名前の載っている主婦達には、田代光一が殺された日のアリバイは何れも成立した。また、田代光一を殺さなければならない程の動機を持つ者は見いだせなかった。
 田代光一の生前からの交遊関係からは、プレイボーイ振りが浮かびあがった。しかし、相手の女性も遊びと割り切っており、キューピット化粧品の社長が言っていたように、遊びをセールスにうまく利用している点は流石であった。特に痴情のもつれとか、三角関係などという問題が浮かび上がってこないので、この面から田代殺しの犯人を捜し出すことは困難ではないかと予想された。
                                     
 6.
                         
 京浜銀行の横浜支店から300万円の現金を下ろしてきた早坂龍一は愛車のマーキュリーを運転して、産業道路の一つ手前の交差点に差しかかった。 早坂が交差点に入りかけたとき信号が変わった。いつもの早坂なら躊躇うことなくアクセルを踏み込んで通り抜けるのだが、今日は大事な現金を持っているという意識が彼の行動を慎重にさせた。アクセルを踏むべきかブレーキを踏むべきか一瞬躊躇した。ほんの僅かな時間迷った後、早坂はプレーキを踏み込んで急停車した。愛車のマーキュリーがタイヤの軋む音をたてながら静止しかけた時、後続の車に追突された。鈍い衝撃音がした。前につんのめるような衝撃をうけたが、幸い体は何処にもぶっつからなかった。衝撃の程度からして、車の後部はかなり損傷したにちがいない。

 車の接触事故が起きた時には、早く車から降りて相手の機先を制し、先に第一声を発した方が事後の交渉を有利に展開することが出来る。
 早坂は運転席から降りると大声で怒鳴った。
「気をつけろ」
 追突した車からも早坂の声に誘い出されたかのように、サングラスをかけた体格のいい若い男が降りてきた。顎には髭を蓄えている。
「どうも済みません。申し訳のないことをしました。お怪我はなかったでしょうか」体に似合わずサングラスの若い男は、頭をペコペコ下げながら謝った。
 早坂は相手から下手に出られると怒ってみるのも大人気ないと思ったので衝突部の被害の状況を調べることにした。被害者なのだから、相手に車を修理させなければなるまいと考えながら、衝突部を調べていると、突然早坂のマーキュリーが排気ガスを勢いよく吐き出して動きだした。
 追突してきた車の若いサングラスの男が何時の間にか早坂の車に乗り移っている。異変に気がついた時には、早坂のマーキュリーは現金300万円の入った紙袋を助手席に置いたままスピードを上げて走り去った。

 慌てた早坂は置き去りにされた加害者の車に乗って追跡しようとしたが、エンジンキーが抜いてある。追いかけようにも足がない。傍らを通る車は見知らぬ顔で通りすぎていく。都会の無関心であろうか、わざわざ車を止めて声をかけてくれる人もいない。
 警察に届けでれば交通事故を偽装した300万円強奪事件として緊急手配してくれるであろうし、盗まれた車はマーキュリーなので、人目につきやすい。自分の車だからナンバーも判っている。犯人は直ぐ捕まるであろう。だが盗まれた金の出所を警察に追求されると困る事情があった。
 早坂は暫く思案した。
「300万円といえば大金だ。警察というところは疑い深いところだから、確かに300万円車に置いてあったかどうか、第三者の証言か物的証拠を求めるであろう。そうすると,横山支店長に確かに300万円引き出したという証言をして貰わなければならなくなる。匿名預金の存在を警察に教えるようなものだ。新聞にも報道されるだろう。三百万円だけにとどまればいいがそれ以外のものまで調べられたら事が面倒になる。却って藪をつついて蛇を出す結果にならないとも限らない。300万円は諦めた方がよさそうだ。だが、車のほうはどうだろう。盗まれた車にはナンバーがついているから犯人はきっと車をどこかで乗り捨てるだろう。犯人の心理としていつまでも盗んだ車に乗っている筈がない。まして、300万円という大金を盗んだばかりだ。被害者から直ちに盗難届けが出されることは当然予想しているだろう。乗り捨てられた車は放っておいてもナンバーが登録してあるのだから自分のところへ戻ってくる筈だ。その時、車の盗難届けを出しておかなければ不審に思われるかもしれない。理由を調べられたら厄介だ。300万円とられたことは犯人と自分しか知らないことだ。自分さえ黙っていれば、犯人が捕まって自供しない限り、誰にも判らないことだ。恐らく追突して乗り捨てられた車も何処かから盗んできたものだろう」
 ここまで考えて早坂は結局追突事故に遭って、車を乗り逃げされたことだけを警察へ届け出た。300万円盗まれたことは自分の胸にだけ納めておくことにした。犯人の特徴は小柄で黒眼鏡をかけた中年の男と届けておいた。犯人が捕まらないで車だけ戻ってくればいいと思ったからである。犯人が捕まって早坂が300万円盗まれたことが明るみに出ては困るのである。
                                  
 早坂は小さな工事会社の社長である。鉄骨工事を得意とし、日本の高度成長期には面白いほど儲けた。早坂は要領のよい男である。人生とは演技であると信じている。悲しい振りをした方が得なときには内心で大笑いしながら悲しい振りをすることができる。楽しい振りをした方が得な時には、例え肉親が死んだ時であっても楽しくてたまらないといった表情、態度を装うことができる。それぐらいの演技ができなければ、このせち辛い世の中で成功する資格がないと信じている。うまく立ち回ることに人生の生き甲斐を感じているような男である。儲けた金を早坂は裏金として数億円も蓄えた。脱税の金である。材料の架空仕入れ、架空人件費の支払い、売り上げの過少計上等およそ企業の脱税に使われる手口は色々研究して巧妙に隠し財産を蓄えていった。
                                  
 今日盗難にあった300万円も表に出すことが出来ない金である。早坂が一番恐れているのは税務署である。ロッキード事件が発覚してから,そのとばっちりで隠し預金が見つかり、国税局の査察に入られ会社倒産の憂き目をみたという同業者の話も聞いている。早坂が今日出してきた金も京浜銀行の横浜支店に預けておいた無記名定期預金を満期解約したものである。この300万円を解約するについても、支店長と解約するか、更新するかでやりとりがあった。銀行はお客からコストの安い預金を集めて、資金需要のあるお客へ高い金利で融資し、金利差を稼ぐたとによって成り立っている事業である。一定期間払い戻ししなくて済む定期預金は安定した貸し出し資金として豊富に集めたがる。あの手この手で預金熱めに狂奔する。
「人事移動で支店長が交替したから名刺代わりに預金をお願いします」
「支店開設10周年記念キャンペーンには預金を宜しく」
「当行の合併5周年記念として預金にご協力下さい」というように事あるごとに預金を勧誘する。汚れた金であろうと清潔な金であろうと選ぶところはない。ただ預金を増やせば支店の成績が上がるのである。
                                  
 早坂も事業をやっていく上で銀行から融資を受けられないと採算の上がる利幅の大きい仕事の引き合いがあっても受注することが出来ない。
 早坂の経営する早坂建設工業株式会社は従業員70人程の小企業である。大手の建設会社の下請けをしているのだが、工事代の回収はサイトの長い手形であり、職人達に支払う人件費は現金払いである。このため、請け負い工事が完成するまでの間は立て替え払いが必要となり、工事代を回収してからも今度は受け取り手形を割引して貰わなければならない。常に銀行から融資を受けなければ会社を経営してゆけない。
 銀行から融資を受けるためには、必ず見返りに預金を要求される。一千万円の資金を調達しようとすれば、不動産担保をとられた上、最低300万円位の定期預金をしなければ資金の必要なときに直ぐ借りることができない。 早坂は表向きの資金の効率化をはかるために、裏金を取引銀行に匿名預金として預けている。小企業が銀行と対等に渡り合って金融引き締めの時期にも融資を受けることができるのは裏金預金のせいである。莫大な立て替え資金が必要となる請け負い工事を業としている小さな工事会社にとって裏金造りは必要悪である。
                                  
 早坂が車の盗難届けを出した翌日、警察から連絡があって、早坂のマーキュリーは川崎駅前に乗り捨ててあることが判明した。また早坂のマーキュリーに追突した車は、二日程前に東京都内で盗まれ、盗難届けの出ていた車であることも判明したが犯人は捕まらなかった。
             
 7.
                         
 京浜銀行横浜支店の支店長横山文蔵は、横浜中署で乗り逃げ強奪事件を担当している桑山刑事や、取材にきた新聞記者達との応接で忙しい一週間を送った。最初の事件は8月25日午後1時頃発生した。
 京浜銀行横浜支店の取引先、天川商事の社長天川啓吉は現金70万円を引き出して駐車場に止めてあった自家用車に乗り込み,五分ほど走った所で、信号にひっかかった。ブレーキを踏んで停車しかけたところを後ろからきた車に追突された。
 天川が車から降りて追突した車の運転手と短いやりとりをしてから、車の破損状態を調べているうちに追突した車の運転手が天川の車に乗り込み逃走した。置き去りにされた車のエンジンキーは抜いてあり、その後の調べで埼玉県で盗まれた車であることが判った。天川は70万円を車の物入れに入れておいたので、車と現金を盗まれたのである。天川が目撃した犯人は黒眼鏡をかけており、長髪で鼻髭を蓄えた大柄の若い男であったという。
 第二の事件はそれから五日ほどのちに起きた。京浜銀行横浜支店から従業員の給料として230万円ほどの現金を引き出して帰社する途中の佐藤産業の社長佐藤浩が全く同様の手口の盗難に遭った。犯人はやはり黒眼鏡をかけた若い男で髭をきれいに剃っていた。
 横山文蔵は、第一の事件が起きた時、中署の桑山刑事の訪問を受け、色々取り調べられた。店の外で発生した事件なので表向きは大変困った振りを装っていたが、内心では大して気にもしていなかった。「盗られる方に油断があるからつけこまれるのだ」と心の中で嘯いていた。ところが、一週間のうちに二件も続いて同じような手口の事件が続くとそうもいかなくなった。自分の店が犯罪の舞台として利用されることは、客商売上非常に迷惑なことである。二件とも銀行の外で発生した盗難なので、銀行には直接の損害も責任もなかったが、新聞に報道されたために一躍有名になってしまった。

 警察署へも何回か足を運んだし、刑事の取り調べにもつきあわなければならず、新聞記者達への応対もあった。そのことの方が煩わしかった。とりわけ桑山刑事が、手口の似ていることからこの二つの事件よりも前に発生した早坂龍一の乗り逃げ事件の犯人も今回の事件の犯人と同一人ではないかと睨んで、鋭い質問を浴びせてきたときには閉口した。
「支店長、早坂工業の社長早坂龍一氏が4~5日前に同じような手口で車を乗り逃げされています。早坂さんは、当日銀行から金は下ろさなかったのでしょうか。手口から考えると車だけ乗り逃げしたというのがどうもよく判らないのです。どうせ乗り捨てにするのですからね」
「当日、早坂社長は融資の打ち合わせに来行されただけで、お金は下ろしていません」横山は平然と答えたが肝を冷やした。
 早坂の匿名預金は何億の単位である。もし今回の事件がきっかけとなって匿名預金を徹底的に糾明されたら、隠し通せる自信がなかった。だが、警察としても被害者の早坂から現金盗難については被害届けがないのでそれ以上追求することが出来ないらしく、桑山刑事が質問を打ち切ったので胸をなでおろした。

 定期預金の中に無記名定期預金というのがある。預金者の住所氏名を伏せたまま銀行が定期預金を預かる制度である。この制度は戦後日本経済復興の過程で、家庭の箪笥に死蔵された現金を吸い上げ殖産興業に有効に利用しようという目的で設けられた制度である。預金者の秘密保持という機能があったので所期の目的を達成することができた。しかし、日本経済の復興が完了し、高度成長時代を迎えると預金者の秘密保持という副次的機能の方に重点が置かれた運用となり、資産家や成り金達の財産隠しのために専ら利用されるようになってしまった。そして脱税の金や犯罪の臭いのする金までが、無記名式定期預金として預けられている。預金を集めなければ商売にならない銀行は、お客にこの無記名式定期預金をするよう競って勧めた。銀行にとっては、札に色がついているわけではないから、この無記名式定期預金は預金量を増やすには都合のよい武器であった。

 横山文蔵は自ら勧めて早坂龍一に莫大な額にのぼる無記名式定期預金、偽名預金をさせていたので、相手がたとえ警察であっても自分の口から早坂の隠し財産の存在を匂わすような証言は信義上できないのである。ロッキード事件に関連して、右翼の大物児玉氏の裏金が司直の手による銀行調査から暴き出されたことが世間の耳目を集めた直後だけに、横山文蔵は桑山刑事の追求を恐れていたのである。桑山刑事の取り調べが終わってから密かに早坂に会った。

「早坂さん、車を乗り逃げされたとき、金は盗られなかったでしょうね。警察で調べに来ましたよ」
「そうですか。支店長、まさか変なことを喋らなかったでしょうね。私はあの日、お宅の銀行へ行きましたが、現金は下ろしませんでしたから金を盗まれる筈がありませんよ。そうでしょう、支店長」 早坂は言外に脅しの籠もった言い方をして横山文蔵の目を見据えた。

 警察の推測では犯人はどこかで車を盗んできて、京浜銀行横浜支店の近くに駐車し、銀行から出てくるお客を監視している。目星をつけたお客が車に乗るのを見届けてからこれを尾行し、交差点の赤信号で停車しかけたところを追突する。追突事故で気を逸らせておいて、相手の車に乗り込み、現金を乗せたまま逃亡する。追突させた車の鍵は抜いておいて、追跡できないようにする。逃走してからは、近くの駅へ車を乗り捨て、金だけ持って行方をくらます。実に巧妙な手口である。二つの事件に共通していることは、

1)両人とも下ろした現金を銀行名の刷り込んである紙袋に入れて手に持って銀行から出てきたこと。(犯人から見れば、現金を持っているということが一目で判る)
2)現金の入った袋は車のポケットに入れるか助手席に置いていたことなどである。
 第一の事件が起きてから、京浜銀行横浜支店では、現金を下ろして帰るお客に対して、必ず現金は身につけて帰るよう注意を喚起し、帰路万一、追突事故に遭ったときには、エンジンキーを抜いてから車を降りるように呼びかけた。一方横浜中署でも第三の事件の発生を警戒して私服刑事を張り込ませた。こうした動きを察知したのか、第三の事件は発生しなかった。
                                     
 8.
                         
「社長、山本太郎さんという方を御存じでしょうか」
 早坂がいつものように、事務所へ出勤してくると、総務課の木山みどりがお茶を盆にのせて社長室へ入ってきて聞いた。
「山本太郎ねえ。聞いたことのない名前だな」
「先程、お電話がございましたので」
「用件は」
「それが、社長に直接お話したいことがあるとおっしゃっただけで、用件をおっしゃらないのです」
「商品取引かゴルフの会員券の勧誘だろう。山本太郎という名前に心当たりはないよ」
「そうですか。それでは失礼します」
 木山みどりは丁寧に一礼すると社長室を出て行った。芳しい香水の香りが残された。木山みどりの均整のとれた後ろ姿を見送りながら、早坂はこの娘も最近とみに色気が出てきたな、恋人でもできたのではないかなとふと思った。            
 木山みどりは4年前、女子事務員募集の新聞広告を見て応募してきた。田舎の高校を卒業して、銀行へ半年程勤務したが、残業の多いのを嫌って転職してきたのである。なかなか気のきいたところがあり、どこか男好きのする顔だちが早坂の好みにあったので、総務課に配置し社長秘書も兼務させている。

 早坂は自分宛に掛かってくる電話は、社長室には直接回さないよう社員達に申しつけてある。電話回線は7本入っているが、電話交換手は置いていない。受話器についている押しボタンの操作によって通話する方式をとっている。早坂宛の電話は総務課の木山みどりに回される。木山みどりの電話応対は機転がきくし声に愛嬌があるので、客先の評判もよい。
 木山みどりは、山本太郎と名乗る男から社長宛に電話がかかってきたときその声質が彼女のボーイフレンドとあまりよく似ているので、最初ボーイフレンドが自分にかけてきたのかと思った。勤務先へはお互いに電話をかけない約束をしているので、相手の名前を確認すると山本太郎と名乗った。早坂に直接話したいことがあるという。用件を聞いても早坂に直接話さなければ判らないことだと言った。
 木山みどりが早坂の秘書として知っている早坂の交遊関係の中には山本太郎という名前はなかったので、早坂に確認してから取り次いだほうがよいと判断して社長不在ということにしておいた。

 最近不動産業者、商品取引業者、ゴルフ場の会員券取引業者が、門前払いを喰わされるのを警戒して、社名と用件を言わず自分の姓名だけを名乗ってあたかも社長と旧知の間柄のように装って電話してくるものが多い。木山みどりは,総務課へ配属されて間もない頃、早坂宛に個人名を名乗って馴れ馴れしい言葉でかかってきた電話を早坂の旧知の人と思い込み、社長へ取りついだところ、生命保険の勧誘員だったことが判り、小言を貰った苦い経験を今でも忘れていない。それ以来、得体の知れない相手からの電話は全て社長不在ということにして、相手の連絡先と用件を聞いて置くことにしている。 早坂の部屋には電話帳に登載されていない直通電話と木山みどりを介して廻されてくる電話と二つの受話器が置いてある。

 昼の打ち合わせ会議を終わって、溜まった書類に目を通しているとき、木山みどりがおそるおそる困惑した顔で社長室へ入ってきた。
「社長どうしましょうか。また山本太郎さんから電話がかかっていますが。何でもある事件のことで内密に直接社長と話したいと言っておられるのですが」早坂は面倒臭いと思ったが、ある事件のことでという言葉にひっかかった。
「そうか。出てみよう。廻してくれ」
 木山みどりは山本太郎のしつこい電話から解放されて、軽い足取りで社長室から出て行った。早坂は腰廻りの肉付きが良くなったな、きっと男ができたに違いないと又思った。
「もしもし、早坂社長さんですか」
「早坂ですが」
「やっと電話に出て戴けましたね」ハンカチでも口にあてて喋っているらしく、押し殺した声が耳に飛び込んできた。
「どのような御用件でしょうか」
「いかがですか。車の修理は終わりましたか。折入って御相談したいことがあるのですが」
「一体何のことでしょう」
「社長さん,おとぼけになっては困りますよ。何か大切な物を車の中に置き忘れたでしょう・・・・」
 早坂は一瞬絶句した。やはりあのことだと気がつくと、受話器を握る手に知らず知らず力が入って
「一体君は何者だ」声がうわずっているのに自分でも気がついた。
「どうです、社長さん。直通電話の番号を教えて下さい。また後でかけ直しますから。壁に耳ありですよ」山本太郎は勝ち誇ったような声を出した。相手の要求が判らないだけに不気味であった。直通電話の番号を教えろとか壁に耳ありとか言っているのは秘密は守ってやるということだろう。早坂は電話の相手はあの時の犯人かもしれないと考えた。
「ちょっと待ってくれ」

 早坂は受話器をそのままにして社長室の扉の窓から事務室を覗いてみた。木山みどりが一心に算盤を入れている姿が目に入った。他に受話器をとっている事務員が二人ほどいたが、現場と冗談のやりとりでもしているらしく笑い声をだしながら何か喋っている。早坂は盗聴されていないことを確かめてから、直通電話の番号を教えた。受話器の向こうに黒いサングラスをかけた若い男の姿を想像しながら受話器を置いた。気がつくと受話器が汗で濡れて黒く光っていた。

 京浜銀行横浜支店のお客が早坂の追突事故のあと続けて二件、同じような手口で盗難にあったことが、新聞に大々的に報道されたとき、早坂はまずいことになったなと思ったものである。犯人が味をしめて第三(早坂の事件を入れれば第四の)事件を起こしてくれなければいいがと願っていた。警戒も厳重になるだろうし、もし犯人が捕まれば,取り調べの過程で早坂からも、300万円盗んだことを自白しないとも限らない。そうすると早坂も取り調べを受けることになるだろう。300万円も盗まれながら何故盗難届けを出さなかったか、当然追求されるだろう。追求されると金の出所まで遡って調べられるに違いない。あれだけ新聞を賑わせた事件だから、税務署の耳にも入ることになるだろう。税務署に脱税容疑で徹底的に調べられたら今日まで営々として蓄積してきた財産は根こそぎもっていかれるだろうし、会社が倒産の憂き目をみることになりかねない。

 早坂は被害者でありながら、犯人の行方不明と不逮捕を願うという奇妙な心理状態になっていたのである。
 早坂は直通電話の番号を教えてから、電話が鳴るのを待っていた。ところが電話は一向にかかってこない。当然すぐかかってくる筈の電話がかかってこないので不安になった。
『犯人は何故電話をかけてきたのだろう。車の持ち主が私だということがどうして判ったのだろうか・・・・・・・車の登録番号を調べれば、持ち主は判るな』 早坂は目を瞑って対策を考えながら自問自答を始めた。
『被害者のところへ電話をかけてきたりしたら危険ではないか。それを敢えてしてきたところをみると何か魂胆があるに違いない。相談したいことがあると言っていた。ゆするつもりかな。とすれば、あの金の性質を知っているのだろうか。いや、そんな筈はない。あの日、私が無記名の定期預金を解約したことを知っているのは、横山支店長だけだ。金を盗られたことは、横山支店長にも話していない。横山支店長が警察に取り調べられたとき、心配して知らせに来てくれたが、金はとられていないと念を押しておいた。彼だってサラリーマンだから、自分自身は可愛い筈だ。彼の口から秘密が洩れることはあるまい。新聞に似たような手口の事件が二つも派手に報道されたから私の車の盗難事件を聞いた者が嫌がらせの電話をかけてきたのだろうか。だが、嫌がらせの電話なら、直通電話の番号を教えろという筈がない。最初電話の応対をした木山みどりの盗聴を警戒しているのかもしれない。とすればゆすりかな』

 早坂はその日予定されていたロータリークラブの会合への出席を、頭痛を口実にして取りやめ、得体のしれない電話がかかってくるのを待つことにした。ロータリークラブへ断りの電話を入れるよう命じられた木山みどりが復命にきたのをつかまえて、
「木山君、さっきの山本太郎というのは保険会社の調査員だったよ。この前の事故の状況について詳しく知りたいことがあるから教えてくれということだ。用件を最初から言えばよいのに変な奴だよ。今度山本太郎から電話があったら廻してくれ」と言った。
「かしこまりました」木山みどりは素直に返事をした。その返事からは、山本太郎からの電話に好奇心を持っている様子は窺われなかった。
                                     
 9.
                         
 翌日、昨日と同じ時刻に山本太郎から直通電話がかかってきた。
「社長さん、一寸お金のいることが出来ましてね。10万円ほど貸して戴きたいのですが」
「一体、君は何者だ。縁もゆかりもない者に金を貸す程裕福ではないよ」
「御冗談を。私は山本太郎ですよ。もうお忘れになったのですか。盗られても惜しくないお金を沢山お持ちのくせに」
「一体何の話だ」
「京浜銀行からお帰りの途中、一寸車を拝借したでしょう。あの節はお土産を沢山戴きましてどうもありがとうございました」
「それでは、君は・・・」
「そうです。山本太郎です。どうです、10万円貸して戴けませんか」
「ゆする気か、変な真似をすると警察へ突き出すぞ」
「社長さん、それはないですよ。警察や税務署に知られるとお困りになる事情がおありになるのではないでしょうか」
 言葉使いがいやに丁寧なのが、早坂の神経をいらいらさせる。弱みを握られている人間は、ゆすりたかりには抵抗力がない。まして相手の正体がはっきりしない場合には極度の不安に陥る。早坂は山本太郎が警察や税務署に連絡すると困るだろうと言った言葉にこだわった。相手は盗られた金の秘密について何か知っている。どの程度まで知っているかが判らないだけに不安が嵩じた。
「よし、電話では話が面倒だから会社へ来てくれ。会って話がしたい」
「社長さん、お互いに警察と税務署は怖い身の上です。10万円を今日中に五菱銀行新宿支店の山本太郎名義の普通預金口座3679へ振り込んで置いて下さい」
「もし嫌だと言ったら」
「そのときは、社長さん。あなたの隠し財産が国庫に帰属することになるだけですよ。いいですか、今日中に振り込んでくださいよ」
 電話はそこで切れてしまった。                   

 早坂はふうーっと大きく溜め息をついてから電話番号案内にダイヤルして五菱銀行新宿支店の電話番号を聞いた。山本太郎名義の普通預金口座は五菱銀行新宿支店に開設されていた。送金したいから山本太郎の登録住所を確かめたいと言うと女子行員は何の疑問も持たず、大田区六郷○○番地と教えてくれた。
 受話器を置くと早坂は盗人に追い銭という諺を頭の中で弄びながら、指定された口座へ10万円を振り込むために銀行へでかけた。用心のために取引銀行を使うのはやめ、銀座へ出かけて最初目にとまった銀行で偽名を使って送金手続きをした。色眼鏡をかけマスクをして、変装することを忘れなかった。帰りにその足で大田区六郷○○番地へ行ってみたが、その番地に建物はなく貸し駐車場になっていた。

 早坂は三ケ月間に山本太郎から三回金を巻き上げられた。三回とも10万円であり、金の受け渡し方法も全く同じであった。山本は決して過大な要求はしなかった。10万円という手頃な金額はゆすりが際限なく続くことを暗示していた。
 三ヵ月の間、早坂は新聞記事を注意してみていたが、銀行帰りの車が追突事故に遭い乗り逃げされたという記事も、京浜銀行横浜支店で発生した事件の犯人が捕まったという報道もなされなかった。

 早坂は山本太郎に第一回目の金をゆすり盗られた当座は、何時税務署の調査や査察があるかとびくびくしていたが、電話も問い合わせもないようだし山本に小遣いさえやっておけば、そう心配することもなさそうだと思うようになった。
 山本太郎もいい金蔓を大切にしたいという気持ちがあるのか、早坂の予想に反して密告したり、第三、第四の追突乗り逃げ事件を引き起こしたりする気配はなかった。恐喝者と被害者の間に10万円の金銭の授受を通じて奇妙な信頼関係が成立した。信頼関係というより牽制関係と言った方がより適切であるかもしれない。

       
 10.
                         
 渋谷中央署の田代光一殺人事件の捜査本部では、謎の人物ミスターXの正体を探りだそうと刑事達が懸命の聞き込みを続けていたが、めぼしい手掛かりは得られず、捜査員達に焦りの色が出始めていた。
 田所刑事は、初動捜査において現場の観察に何か見落としがあったのではないかと思い故人の霊前に線香を供えるという口実で、田代の遺骨が引き取られた実家を訪問することにした。

 富士山麓の静かな町に田代の両親は健在だった。
「刑事さん。よく来て下さいました。あの子は女運に恵まれず不幸な子でした」頭髪に白いものが目立つ老母は、目に涙を浮かべながら、田所刑事を仏壇へ導いた。線香を供えて仏前に額づいてから田所刑事は田代の遺品をもう一度見せて貰えないかと頼んだ。
「ええ、いいですとも。是非見て下さい。一日も早く犯人を捕まえて下さいよ、刑事さん。あの子の荷物はそっくりそのままあの子が学生の頃勉強していた部屋に置いてありますから」                    旧家らしく、広い庭の母屋の隣りに離れ座敷があり、花園マンションから運んできた田代光一の遺品が置かれていた。
 田所刑事は、本棚からアルバムを取り出してページをめくってみた。アルバムは学生時代のスナップ写真集4冊と新婚生活時代のものらしい写真集3冊にはいずれも一葉ずつ丁寧に脚注がつけられていた。

 田所刑事がアルバムを見ていて興味を持ったのは、車の写真が沢山貼ってあることだった。田代自身が運転していたり田代の妻が運転していたり夫婦で車の前に立っていたりした。中には、車だけを写真にしているものもあった。そして色々な車種のあることが田所の注意を引いた。田代は車にかなり興味を持っていたことが窺えた。
 書棚には新聞の切り抜き帳が置いてあった。スクラップブックにも車をテーマにした記事の切り抜きが多く貼ってあった。新車の発売ニュース、モデルチェンジの記事、車をテーマとした随筆、日本の車が地球一周ドライブをした記事が目についた。相当車に興味を持っているなと思いながらページを繰っていた田所刑事はあるページで目をとめた。そこには異質の記事が貼ってあったからである。

 京浜銀行横浜支店のお客が銀行帰りに車に追突され、車を乗り逃げされたうえ,現金を強奪されたという記事であった。車をテーマにした記事の中でもこの記事だけが趣味娯楽のカテゴリーに入らない犯罪に関係するものであるところに異質性が認められた。自動車に興味を持っていた男と自動車を利用した犯罪、何か関係がありそうであった。この記事が田代の死とどう結びつくか検討はつかなかったが、捜査の手掛かりにはなりそうに思えた。

 田所刑事はスクラップ記事を何度も読み返しながら、幾つかの推理を試みた。
『もし田代が記事に出ている追突乗り逃げ事件の犯人だとした場合には、被害者の天川啓吉にしろ佐藤浩にしろ、田代を憎いと思うだろう。田代を捕まえたら警察べ突き出すなり、盗られた金を取り返すことを考えるだろう。何らかの方法で田代が犯人であるということを突き止め、田代と金を取り返す交渉をしていて話がもつれ、殺してしまったとしたらどうだろう。しかし,この場合殺してしまうほどの動機にはなりにくい。それでは田代が乗り逃げ事件の犯人を知っていて、犯人をゆすっていたとしたらどうだろうか。このときには、犯人は田代を殺そうと考えても不自然ではないな』

 田代光一の実家からの帰路、田所刑事は天川啓吉を訪ねて質問をした。
「天川さん。この写真の男に見覚えはありませんか」
「さあ、見たことがありませんなあ」天川は写真を何度も見てから言った。

「京浜銀行横浜支店からの帰りに車を追突され、乗り逃げされたことがあるでしょう。そのときの犯人と似ていませんか」
「違いますね」
 田所刑事は第一の推理が外れていたことを確認した。田所刑事は、この事件を扱っている横浜中署へ行けば何か手掛かりが得られるかと考え、横浜中署を訪問した。たまたま桑山刑事が在署していて快く応対してくれた。
 田所刑事は事件の概要をかいつまんで説明した上で、五菱銀行新宿支店の山本太郎名義の普通預金口座に坂元高志、富士川健一、仲河 勉の名前で振込がなされ、キャッシュカードで引き出されていることを説明した。そして山本になりすました田代が乗り逃げ犯人をゆすり、ゆすられた犯人は坂元高志、富士川健一、仲河 勉という偽名を使って金を山本太郎名義の口座へ振り込んだのではないかと考えてみたと付け加えた。
「なるほど、預金の預け入れも払い出しも何故か顔を見られたくない人達がやっているという臭いがしますね」
「どうです。何か乗り逃げ事件に関して、この預金通帳と結びつきそうな資料はありませんか」
「そうだ。田所さん、今思い出したことがありますよ。実は天川、佐藤事件が起きる前にやはり、同一犯人の犯行と思われる追突乗り逃げ事件が別にもう一件発生しているのです。被害者は早坂工業の社長なのですが、金品はとられていないのです」桑山刑事は番茶を田所へ勧め、自分も飲みながら言った。
「ほう、やはり銀行の帰りに起きた事件ですか」田所刑事は目を輝かせた。「そうなんです。京浜銀行の横浜支店からの帰りに起きているのです。車の盗難届けだけは出されたのですが、その他の被害届けが出されていないのです。我々も連続して起きた似たような手口の事件なので、車以外に金銭を盗まれたのではないかと思って、早坂本人と京浜銀行横浜支店の支店長にも聞いてみました」
「それで」
「ところが早坂は車以外には何もとられなかったと断言しましたし、支店長も当日、早坂は融資の打ち合わせにきただけで、金は下ろさなかったと証言しているのです」
「なるほど、変ですね。早坂が金を盗られたことを人に知られては困る事情が何かあったとするとどういうことになりますかね」
「オーナーの事業家ですから裏金かも知れませんね」
「裏金とすれば脱税の金ですね。これは警察には知られたくないでしょう。そのことを田代が嗅ぎつけてゆすりをかけていた。これは、田代が殺される動機にはなりますね」
 田所刑事は目の前の黒雲が一挙に飛び去った気がした。田所刑事は早坂という名前をどこかで聞いたと思ったがどこで聞いた名前であるか思い出せなかった。

                   
 11.
                         
 田所刑事が聞き込んできた情報が捜査会議で検討され、早坂の身辺が洗われることになった。早坂をマークした捜査員達はまず、京浜銀行横浜支店の支店長横山文蔵を訪問した。横山文蔵は捜査員の追求にもかかわらず頑として早坂が追突事故に遭った日、本人は預金の引き出しはしていないと言い張った。
 事件当日の伝票を捜査員達はチェックしてみたが、早坂工業名義、或いは早坂龍一名義での預金の払い出しは事実行われていなかった。しかしながら膨大な枚数の伝票をチェックした捜査員は、無記名定期預金300万円が当日松山という届け出印で満期解約されていることを突き止め横山文蔵を問い詰めた。
「この無記名式定期預金300万円を解約したのが早坂龍一氏ではないのですか」
「断じて早坂さんではありません」
「それでは誰ですか」
「松山さんです」
「名前は」
「聡一です」
「本名は」  
「松山聡一という以外は判りません」
「住所は」
「鶴見区生麦です」
「番地は」
「番地は判りません」
「本名も住所も特定できない人に300万円もの大金を渡すのですか。銀行というところは面白い所ですね」
「刑事さん。無記名式定期預金というのはそういうものです。満期日に証書と届出印を持参したお客さんには、支払いを拒絶する理由がありません。これが中途解約ですと銀行としても住所氏名を確認しなければお金を渡すことは出来ませんがね」
 取り調べにあたった捜査員は無記名式定期預金という制度の壁に阻まれて松山聡一なる人物が早坂ではないかという疑念を持ちながらも確証をつかむことができなかった。
                      
 一方密かに、早坂龍一の顔写真を入手した捜査員は、東都銀行銀座支店、千代田銀行神田支店、邦国銀行川崎支店へ赴き、9月15日、10月1日、11月5日に送金係の窓口で執務した行員を集めて貰った。早坂龍一の顔写真を見せてこの男を窓口でみかけなかったかと聞いてみたが、いずれも記憶は曖昧だった。
 他方、早坂龍一の筆跡を入手した捜査員は東邦銀行銀座支店、千代田銀行神田支店、邦国銀行川崎支店で入手した坂元高志、富士川健一、仲河 勉の送金依頼書の筆跡とを鑑定して貰ったところ、似てはいるが必ずしも同一人とは断定できないという報告を受けた。早坂工業で聞き込みを行った捜査員は、総務課の木山みどりから「山本太郎」と名乗る男より,早坂宛に電話がかかってきたことがあるという事実を聞き出してきた。
 集まった資料から早坂龍一を田代光一殺しの容疑者とするにはまだ不十分であったが、田所刑事は早坂龍一に会ってみる必要があると判断した。田所刑事は早坂工業を訪ねて早坂に面会を求めた。来意を告げると田所は応接室へ通された。
「早坂さん、山本太郎という人物をご存じないでしょうか」
「知りません」
「電話で話をしたことはありませんか」
「さあ、記憶がありません。山本太郎という人がどうかしたのですか」
 早坂は怪訝な顔をして田所に聞いた。
「実は毒殺された疑いがあるのです」
「ほう、それでそのことが私とどのような関係があるのですか」
「殺される前に山本太郎があなたに電話をかけているのです」
「この私に」
「そうです。思い出して頂けませんか。捜査の手掛かりにしたいのです。あなたの秘書の木山みどりさんは山本太郎の電話をあなたに取り次いだ覚えがあると言っていますよ」
 早坂は暫く考えていたが、
「そういえば、山本太郎という名前の男から電話がかかってきたことがあります。今思い出しましたよ」
「いつころですか」
「そうですね。あれは昨年の秋だったと思いますが」
「どんな話をなさいました」
「何でも、保険会社の調査員とかで車の事故のことで聞きたいことがあるというようなことだったと思います」
「車の事故と言いますと」
「昨年の秋私の車が追突されて乗り逃げされたことがあるのです。車は翌日乗り捨てられていましたが、後部のバンパーが凹んでいました。この修理を保険でやらせたものですから、そのことについて聞いてきたのです」
「山本太郎にその件で会われましたか」
「いえ、会っていません。山本太郎の顔を見たこともありません」
「それでは山本太郎に銀行振込でお金を送金したことはありませんか」
「ありません」
「昨年の12月7日午後8時にはどこにおられましたか」
「刑事さん、私がその山本太郎を殺したとでもいうんですか。とんでもない話だ」早坂は気色ばんで答えた。
「まあそう怒らないで下さい。刑事というものは職業柄、誰にでもアリバイを確かめるという悪い癖があるんですよ。参考までに聞かせて下さい」
「12月7日というと大詔奉戴日の前日ですね。その日は名古屋にいましたよ」
「そのことを証明してくれる人がいますか」
「勿論いますよ。名古屋の『しゃちほこ』という料亭でお得意さんの接待をしていましたから」
 早坂は待っていましたと言わんばかりの口調で答えた。田代光一の服毒推定時刻は、12月7日の午後5時から午後8時までの間の時間帯である。この時間帯に早坂が名古屋で飲んでいたとすると、田代光一と早坂は接触していないことになり早坂のアリバイは成立する。
「名古屋へ行かれたのは何時ですか」                 
 田所刑事は諦めきれずになおも食い下がった。
「12月7日の午後4時発の新幹線ひかり号に乗車しました」
「それは東京駅からですか」
「そうです」
 東京発午後4時の新幹線ひかり号はダイヤの乱れがなければ午後6時過ぎには名古屋駅に到着している。早坂の主張に偽りのない場合、田代が青酸カリを服毒したと推定される12月7日午後5時から午後8時までの時間帯に早坂は西下する新幹線ひかり号の車中か名古屋の料亭『しゃちほこ』に居たことになる。
「ところで坂元高志、富士川健一、仲河 勉という人物をご存じありませんか」 
「さあ、心当たりありません」
 田所刑事は早坂龍一の表情を注意深く観察していたが、心なしか一瞬、強張ったのを見逃さなかった。田所刑事は早坂龍一が田代光一殺人事件の鍵を握っている有力な人物であるという心証を得たが、アリバイの壁に阻まれて決定的な追求ができなかった。
                                     
 12.
                         
 田代光一殺人事件の容疑者として早坂龍一が捜査線上に浮かびあがりながら決め手がないままに時間が徒過していった。
 捜査陣に焦燥の色が濃くなり始めた頃、事件解決の手掛かりとなるような事件が発生した。
 大阪で追突事故を装った自動車乗り逃げ事件の現行犯で犯人が捕まったのである。阪南銀行のお客が現金を引き出して自動車に乗り、交差点で信号待ちをしている時、後続の車に追突された。追突された車のお客が降りて後部の損傷箇所を調べているうち、犯人に車を乗り逃げされた。この時、たまたまこれを目撃した後続の個人タクシーの運転手が追跡し、車内無線で配車本部へ通報したため、高速道路の入り口で待機していたパトロールカーに捕まったのである。横浜で起きた同種の事件と手口が類似していることから横浜中署に照会があった。
 横浜中署で天川、佐藤に犯人の顔写真を見せたところ、横浜で発生した事件の犯人と同一人であることが確認された。大阪で捕まった犯人は余罪を追求され、簡単に自供した。犯人は早坂の車を盗んだ時、300万円の現金も盗んだと供述した。
 早坂龍一は横浜中署に任意出頭を求められ、大阪で捕まった犯人の顔写真を見せられ、確認を求められたが、早坂が車を盗まれたときの犯人とは似ていないと証言した。
 しかし、犯人が早坂の車を盗んだ時300万円の現金も車の中にあり、松山という名宛人の計算書が一緒に入っていたと自供しているということを聞かされ、早坂も観念したのか、事件当日京浜銀行で300万円の無記名式定期預金を松山の印で満期解約し、これを盗まれたことを渋々認めた。
 田代光一殺人事件捜査本部では、五菱銀行新宿支店の山本太郎名義の普通預金口座を媒体として、早坂龍一と田代光一の間に金銭の授受があったと断定し、早坂を厳しく追求した。最初は坂元高志、富士川健一、仲河 勉などという名前を使って山本太郎宛に銀行振込をした覚えはないと主張していた早坂も左手で坂元という字を書いてくれと捜査員から求められたとき、がっくりと肩の力を落とした。早坂が左手で書いた坂元高志という署名は、筆跡鑑定したところ、銀行振込依頼書に残されていた筆跡と同一人のものであるという判定であった。更に山本太郎名義で作られていたキャッシュカードの暗証に使われていた四桁の数字は早坂龍一の生年月日と同じであった。早坂は渋々坂元高志、富士川健一、仲河 勉の名義を使って山本太郎宛に銀行振込したことを認めた。
「刑事さん、私も男ですから妻に内緒の浮気の一つや二つはあります。あいにくそのことを田代に嗅ぎつかれて、妻に知らせるぞと脅かされたので小遣いを与えたのですよ。人を殺すなんて大それたことは神に誓ってしておりません。田代光一の死んだ時間には私は名古屋に居たんですよ。名古屋にいる人間がどうして、東京で殺人事件を起こすことができるんですか。これだけは信じてください」
 早坂は取り調べに当たった田所刑事にアリバイを主張した。捜査本部では早坂を重要人物と睨みながら、早坂の主張するアリバイが崩せなかった。裏付け捜査によって早坂の主張通り、12月7日午後4時東京発の新幹線ひかり号で早坂は名古屋へ赴き、名古屋駅前の料亭『しゃちほこ』で得意先を接待していた事実は確認された。
 師走の寒い時期に発生した田代光一殺人事件は早坂龍一に容疑がかけられながらアリバイが崩せず、未解決のままいつしか夏祭りの時期を迎えた。
 久し振りに定時に退勤した田所刑事は近くのアパートに住む青山刑事と家庭サービスのつもりで、子供達を連れて浅草のほうづき市へ出掛けた。子供達は、一年に数えるほどしかない父親との外出に、喜んではしゃぎ廻っている。
「お父さん、金魚掬いしてもいい」
「ああ、いいとも」
 田所刑事は青山刑事と顔を見合せながら微笑んだ。人垣の後ろから覗き込むと子供達は一所懸命に金魚を追っ掛けている。
「お客さん、細かいのはないでしょうか。お釣りがないんですよ」
「困ったわ。これしかないのよ」
 浴衣姿の若い女性が一万円札を出して、金魚屋の親父とやりとりしているのが目に入った。どこかで見た顔だなと田所刑事が考えていると、熱心に金魚を追っていた田所の子供が急に立ち上がった。立ち上がったひょうしに頭が浴衣姿の若い女性の伸ばした右腕にぶっつかった。
「あらっ」
 見ると一万円札が手から離れて、折からの風にあおられてひらひら舞いながら、傍らの金魚鉢の中へ舞い落ちた。人混みを掻き分けながらその女性は金魚鉢へ近づいて一万円札をつまみあげた。              
 その時、異変が起きた。                      
 同時に田所刑事はその女性が早坂工業の総務課の木山みどりであることを思い出した。今まで金魚鉢の中で元気に泳いでいた金魚が二尾、白い腹をみせて浮き上がってきたのである。
「おかしいなぁ。さっきまで元気だったのに」             
 金魚屋の親父は首をかしげながら怪訝な顔をしている。
「お嬢さん、その一万円札を両替してあげましょう」
 田所刑事は五千円札一枚と千円札五枚を取り出して木山みどりに渡した。
「あらっ、刑事さん。今晩は。どうもありがとう」
 木山みどりは千円札を一枚金魚屋の親父に渡すとビニール袋に入れて貰った金魚を受け取り、連れの若い男を促してそそくさと帰っていった。
 田所刑事が青山刑事に耳打ちすると青山刑事はうなづいて、木山みどりと連れの若い男の後ろ姿を見え隠れに追いかけて行った。
「つまらないな。もう帰るの」                    
 子供達の抗議をよそに、田所刑事は金魚屋の親父から先程一万円札の舞い降りた金魚鉢をそっくりそのまま譲り受けると帰路を急いだ。寸暇を家庭サービスに割いている父親の顔から刑事の顔に変わっていた。青山刑事のアパートへ子供を届けてから田所刑事は自宅で青山刑事から電話のはいるのを待っていた。
                                     
 13.
                         
 田所刑事が夜店から持ち帰った金魚鉢の水と金魚からは青酸カリが検出された。木山みどりが落とした一万円札にも青酸カリ反応があった。
 青山刑事が尾行した木山みどりの連れの若い男は刑事に尾行されているとも知らず、横浜市内の高級住宅街へ帰って行った。青山刑事が尾行した青年は早坂工業と同業の工事会社の社長の息子で、将来社長になることが約束されている男であることが判った。早坂工業へ商談できたとき木山みどりを見初めて結婚を前提とした交際を始めて入ることも青山刑事の聞き込みによって確認された。田所刑事は捜査の過程で明らかになったことを頭の中で反芻してみた。
1)田代光一が青酸カリの服毒によって殺されたこと。
2)早坂龍一の秘書木山みどりが所持していた一万円札に青酸カリが付着していたこと。
3)田代光一と早坂龍一の間の山本太郎名義口座を媒体とした金銭授受関係。4)早坂が追突事故に遭い300万円を盗まれていながら崩せない早坂のアリバイ。
 反芻しているうちに一筋の論理が紡がれ始めた。
 田所刑事は纏まりかけた推理を裏付けるために、東京駅周辺の金物屋と鍵屋の聞き込みを精力的に続けた。一方青山刑事は木山みどりの12月7日前後の行動を調べることに精力を傾注した。
 捜査会議で田所刑事は自信に満ちて自分の考えを述べた。


「私は田代光一殺しの犯人は早坂工業の社長早坂龍一であると考えます。早坂龍一は自動車追突事故に遭って、300万円の大金を盗まれましたが、盗難の事実をひた隠しに隠しておりました。ところが過日、追突事件の犯人が大阪で捕まり、早坂から300万円盗んだことを自供しました。早坂もこの事実を突きつけられて300万円盗まれた事実は認めました。何故300万円もの大金を盗まれながら盗難届けを出さなかったのか。それは脱税で蓄えられた裏金だったからです。目下税務当局でも300万円の出所について調査に着手しましたのでやがてそのことははっきりするでしょう。
                                  
 一方被害者の田代光一は化粧品のセールスマンとして早坂の自宅にも出入りし、早坂の妻とも面識がありました。これは田代光一の顧客リストに早坂三智子という名前が載っていたことから明らかであります。世間話の過程で夫が自動車追突事故に遭遇したことを聞いた田代光一は、最初大して気にもとめていなかったでしょう。その後、続けて発生した京浜銀行を舞台とする追突乗り逃げ現金強奪事件の報道を目にした田代は、悪知恵の働く男だけに早坂の自動車事故だけが新聞に報道されなかった事実に疑問を持ちました。所轄署に問い合わせましたが、盗難届けが出ていなかったのです。
                                  
 手口が似た事件なのに早坂だけ現金を盗られていない点に着目した田代は何かいわくがありそうだと考えました。ロッキード事件で政治家や右翼の大物の隠し預金が世間の耳目を集めていた時なので、田代が早坂は裏金を盗られたのではないだろうかと見当をつけるのに時間はかからなかったと思います。もし早坂が裏金を盗まれているとすれば、ゆすりの材料になると考えた田代は一計を案じたに違いありません」
 田所刑事は手帳をめくりながら続けた。               
「追突事件の犯人になりすまして、ゆすることを考えたのです。田代が声色を使い電話で試しに早坂にゆすりをかけてみたところ反応があったのです。相手に正体を見破られずに金を受け取る方法として考え出されたのが、山本太郎という架空名義の預金口座を利用した振込とキャッシュカードによる現金の引き出しです。
                                  
 一回10万円のゆすりはゆする側にもゆすられる側にも手頃な金額だったと思われます。ところが田代の側に急にまとまった金が必要になることが発生したのです。商品取引で穴をあけた田代は12月10日の決済日までに百万円ほどの金を用意しなければならなかったからです。そこで田代は早坂を恐喝して金を巻き上げることにしました。
                                  
 一方ゆすられた早坂も、馬鹿のように金だけおとなしく差し出すほどのお人好しではありません。まして、相手は自分の脱税の事実を知っている男です。当然恐喝者を密かに闇へ葬ることを考えたのです」          田所刑事はここで一息つくと湯飲み茶碗をとって冷えた番茶を一気に飲み干してから続けた。
「田代光一殺しの犯人を早坂龍一であると想定した場合、今までネックになっていたのは、12月7日の午後5時から午後8時までの時間帯、つまり田代光一の死亡推定時間帯に早坂が西下する新幹線ひかり号の車中または名古屋駅前の料亭『しゃちほこ』にいたという事実です。このアリバイが崩せないために、早坂が田代を殺す動機を充分持ちながら早坂を犯人と断定することができませんでした」
「それではアリバイが崩せたのですか」駆け出しの服部刑事が目を輝かせながら聞いた。
「そうです。田代光一の死因は青酸カリの服毒による中毒死ですが、死体の傍に青酸カリを服毒するのに使われた容器もコップも残っていないし、青酸カリの入った食べ物の残りも発見されなかったので、田代を騙して青酸カリを飲ませた犯人が証拠を隠すために、きれいに片づけたというふうに我々は考えていました。従って田代が殺されたとき、犯人は田代と同じ場所にいた筈だという前提を暗黙のうちに作り上げて早坂のアリバイにこだわり過ぎていました。
                                  
 私は木山みどりが持っていた一万円札から、青酸カリが検出されたのを知ったとき、目を開かれる思いがしました。私は一つの仮説をたててみたのです。早坂龍一が田代光一からまとまった金額の金をゆすられたのを奇貨として青酸カリを塗布した札束を田代光一へ手渡したとしたらどうでしょう。札束は新券で用意されたに違いありません。札束を受け取った田代は花園マンションの自室へ帰り、青酸カリが塗布されているとも知らず、夢中になって指に唾をつけながら札束を数えているうちに毒が廻ってそのまま絶命したのではないでしょうか」
 一息ついて田所刑事は更に続けた。
「もしこの仮説が正しいとすれば、早坂は12月7日、東京発午後4時の新幹線ひかり号に乗車する直前に田代光一に何らかの方法で青酸カリを塗布した札束を渡したであろうと考えました。そうすると、金の受け渡し場所は東京駅ということになります。ところで金の受け渡しに銀行口座の振込という慎重な方法をとっている田代が早坂に顔を見せるような受け取り方をする筈がありません。
 そこで思いついたのがコインロッカーを使う方法です。コインロッカーの鍵を予め複製しておけば、コインロッカーの番号を指定するだけで、鍵の受け渡しなしにロッカーの中に置かれた札束を受け取ることができる筈です。コインロッカーを金の受け渡し場所に指定したのが、田代であるか早坂であるかは捜査してみなければ判りませんが、田代を毒殺する意図のある早坂にとっても、コインロッカーを利用して人知れず、凶器の札束を田代に渡すことは良い思いつきだった筈です。
 そこで私は東京駅周辺の鍵屋、金物屋の聞き込みをしてみました。すると12月6日の日に田代とおぼしき男がコインロッカーの鍵の複製をしていたことを突き止めたのです。早坂は完全犯罪を狙って名古屋行きのアリバイ工作をしたものと思われます。早坂が新幹線ひかり号の車中若しくは『しゃちほこ』に着いた頃、田代が札束を前にして中毒死するという筋書きだったのです」
「なるほど、見事な推理ですね。だが、田代の部屋から毒を塗った札束が発見されなかった事実をどう説明されるのですか」
「それは、木山みどりが、花園マンションの田代の部屋を訪れ、死体の前に投げ出されている札束を着服し、素知らぬ顔で逃げ出したと考えれば、簡単に説明がつきます。浅草のほうづき市で木山みどりが青酸カリの塗布された一万円札を持っていたことに不審を持った私と青山刑事は田代光一と木山みどりの素行を調べてみました。驚いたことに木山みどりと田代光一とは密かに交渉を持ち肉体関係を結んでいることが浮かび上がってきたのです」
「田代のプレイボーイ振りは既に調査済でしたから、田代が行きつけのモーテルや連れ込み宿を中心に木山みどりと田代光一の写真を持って聞き込みをしたところ、相模原のモーテル『相模』の授業員がこのアベックには見覚えがあると証言したのです」
「田代と木山が密接な関係を持っているとすれば、木山みどりが青酸カリの塗布された一万円札を持っていた事実がうまく説明できます。つまり、商品相場で大穴をあけた田代は早坂から金をゆする一方、木山みどりにも無心をしたものと思われます。田代から言葉巧みに窮状を訴えられた木山は、惚れた女の弱みから金を用意して花園マンションを訪問したのです。部屋の鍵は予め、田代から予備鍵を預かっていたことでしょう。
 合鍵を使って部屋へ入った木山がそこに見たものは、札束を前にして中毒死している田代の死体であり、最初びっくりした木山みどりも目の前の手の届くところに投げ出されている札束をみて、邪心を起こしたのです。田代とは人目をはばかって密会していましたから二人の関係は誰にも知られて居ません。木山は札束を着服して逃げても自分が疑われる心配はないと考えました。預かっていた鍵に石鹸をつけて丁寧に洗ってから、田代のポケットへいれました。木山みどりには一つの計算があったと思います。部屋への出入りは誰にも見られていませんから、合鍵をポケットに入れておけば、捜査陣の目を誤魔化せると考えたことでしょう。我々も田代と木山のつながりは全然知らなかったのですからね。ところが、まさか札に青酸カリが塗ってあろうとは気のつかなかった木山は、浅草のほうづき市で盗んだ一万円札を金魚鉢の中へ落としてしまい、今回の殺人事件の謎を解く手掛かりを我々に提供してしまったのです」
 田所刑事はうまそうに煙草の煙を吐き出しながら説明を終えた。早坂龍一は殺人容疑で、木山みどりは窃盗容疑で逮捕された。凶器に使われた一万円札は、木山みどりの財布の中から二枚見つかった。木山みどりの預金通帳に12月10日付けで90万円預金されていることも確認された。裏付け証拠が次々に集められ、突きつけられて早坂龍一は田代殺しの犯行を認めた。
 窃盗容疑で逮捕された木山みどりは次のような供述をした。      
「私は田代さんと手を切りたいと思っていました。最近、工事会社の社長の息子さんと交際を始め、プロポーズされました。もし田代さんと関係のあったことが判ったら、この話は壊れてしまいます。たまたま、田代が商品相場で大穴をあけて金策に頭を悩ませているのを知りました。私にも金を貸して欲しいと言って来ましたので、かねて用意しておいた青酸カリを紙袋に入れて田代の部屋を訪れました。田代は札束の勘定に夢中になっていました。田代が水を飲みたいと言うので、私は丁度よい機会だと思い、青酸カリを入れた水を田代に渡しますと田代は一気に飲み干し、やがて苦しみだして間もなく死にました。証拠を残さないように後片付けをして、合鍵を田代のポケットへ入れ、札束をハンドバッグに納めて、誰にも見られないように部屋を出ました。まさか札束に毒が塗ってあり、私よりも前に田代に殺意を持っている人がいたとは夢にも思いませんでした。しかもそれが早坂社長であるとは全然知りませんでした」
 田代光一の殺人事件は落着したが、早坂龍一の札束に塗った青酸カリが直接の死因となったのか、それともコップの水に入れた青酸カリが直接の死因になったのかは判定の難しい問題として残された。
 第一の問題は田代が札束を数えるとき、指に唾をつけながら数えたかどうかということ。
 第二の問題は田代が札束をかぞえるとき、指に唾をつけながら数えたとして、指先についた青酸カリが人を殺すだけの力があるかということである。もし致死量に達しないとすれば、早坂は明らかに田代に対して殺意を持ちながら実行行為において不能な犯罪ということになり、木山みとりが田代を直接死に追いやった加害者ということになる。
「早坂という男は、悪運の強い男ですね」と田所刑事は、裁判の結果を予測するように青山刑事に言った。
「国税局が活躍し、彼を裸にするのを期待して待つしかないのかもしれませんね」
 青山刑事は自嘲するように応じた。     

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2014.07.14

秦河勝 古代大和国家の発展を陰で支えた実力者一族の頭領


吉田山の「白樺」という学生相手の飲み屋に、私達はトグロを巻いていた。
ママと高校二年生の娘が醸しだす家庭的な雰囲気に魅きつけられる何かがあっ
たのかもしれない。眼鏡の奥底に人なっつこい笑みをたたえて、広隆寺の弥勒
菩薩の素晴らしさを情熱的に語っていた秦野という学生は私と同じ法学部五組
の二回生だった。第二外国語にドイツ語を選択する学生が多い中で、フランス
語を選択した数少ない変わり種の一人であった。秦野を教室で見かけることは
少なく、秦野に会おうと思えば、夜「白樺」を覗いてみればよかった。彼は、
歴史書、美術書を片手に、京都・奈良の神社仏閣を訪ね歩くのを日課としてお
り、夜になると「白樺」へ現れ、同好の学生を相手に彼独特の見方で歴史上の
事実を解釈し、皆に披露するのであった。
夏休みになって、学生達がそれぞれ帰郷し、「白樺」が閑散となっていたあ
る日の新聞に広隆寺の弥勒菩薩に抱きついて、あの見事な流れるような線の右
手の指を折ってしまった学生のことが社会面の記事として報道された。犯人の
学生の名前は伏せられていたが、その記事を読んだとき私は何故か秦野という
学生が犯人に違いないと直観した。
「推古天皇が美人であったから、聖徳太子は半跏思惟像を秦河勝に与えたので
あり、崇峻天皇が殺されたのもそのためだ。聖徳太子が天皇になれなかったの
もその所為なのだ。美しいことは罪悪だ」と熱ぽっく語っていた秦野の言葉を
思い出したからである。眼鏡の奥底に光るあの人なっこい眼差しは彼流にいえ
ば犯罪だからである。
その夜、久しぶりに「白樺」へ行ってみたが秦野は帰郷したらしいというこ
とで、彼の姿を見かけることは出来なかった。この事件があってから私は教室
でも「白樺」でも秦野の姿をみかけることは出来なかった。
私が秦河勝についてその生涯を辿ってみたいと思うようになったのは、学校
卒業後さる大手の製造会社に就職をして二十年程経ったある日、京都の南禅寺
境内にある某僧坊で開かれた同窓会に出席し秦野に会ったからである。この僧
坊は権限の乱用で社長職を解任され世間を騒がせた有名百貨店の社長とその愛
人の女実業家が逢瀬の場所として使っていたその百貨店の元接待寮であった。
そして二十年いや二二年振りに再会した秦野はやはり眼鏡の奥に人なっつこい
笑みを湛えていた。聞けば暴力団のみをお客にとる有名な弁護士になっている
ということであった。
美しいことは罪悪だと言った彼。人なっつこい眼差しは犯罪であると思った
私。
この二人の二二年振りの邂逅が何故か私を千四五百年前の世界へ誘うのであ
る。

「この子には河勝と名付けることにしよう」と父の秦国勝(はたのくにかつ)
は皺くちゃだらけの嬰児の顔を覗きこみながら、産褥にある妻の赤子郎女(あ
かこのいらつめ)に向かって言った。
「河に勝つですか。強そうでいい名前ですこと」と赤子郎女は嬰児の頬に頬ず
りをしながら応えた。
「そうだ。桂川に先ず勝つことだ。そして世の流れという大きな河に勝つこと
が秦一族の繁栄に繋がることになるのだ」と国勝は最近氾濫した桂川を部民を
指揮しながらやっと治めた十日程前のことを思い出しながら言った。
「先祖ゆかりの地新羅が栄えるのはよいことじゃ。この子もきっと幸せを掴む
じゃろう」
秦国勝の先祖は新羅から渡来してこの葛野(かどの)の地に定着した帰化人
であったが、昨日出仕したときに、大臣の蘇我稲目から最近、任那の日本府が
新羅にうち滅ぼされたと聞かされていたので、新羅の国から渡来した遠い先祖
のことを偲びながら言った。河勝が生まれたのは五六二年欽明天皇の御代のこ
とであった。
この時代は、蘇我稲目が娘の堅塩媛(かたしひめ)と小姉君(こあねぎみ)
の姉妹を欽明天皇の大后・后として宮中に送り込み、外戚としての地位を確立
し、権勢を誇っていた時期である。
河勝は幼少の頃から聡明な子供であり、色々なことに興味をしめした。
「まあこの子はなんて勿体ない食べ方をするんでしょう。そんなに沢山飯粒を
残してからに。河勝や、御飯は一粒でも残したら罰があたりますぞ。お米が食
べられるようになるまでには多くの人々が八十八回も汗を流しているのです
からね」と母親の赤子郎女は木の椀の端に残っている飯粒を指さしながら河勝
を叱った。
「はい。ごめんなさい」と素直に謝ってから河勝は椀の端にへばりついている
飯粒を可愛らしい手でつまんでは口へ運びながら聞いた。
「八十八回の汗とはどんな汗ですか」
「お米を作るには、先ず田圃を耕して、水を引き、苗代を作ります。苗代を作
るためには草をとり、畝を作って肥やしをやり、また耕して畝を作りその上に
種籾を蒔きます。種籾を蒔いてからも種が烏や雀に食べられないように、籾殻
を焼いてその上にかぶせますのじゃ。芽がでてからも草をとったり、肥料をや
ったりして苗を育てるのです。苗が育つとこれを抜いて、田植えをします。田
植えをするためには、その前に別の田圃を耕して水を引き、準備をしておかな
ければなりません。田植えが終わってからも、田の草取りをしたり、水車を踏
んで水を田圃へやらなければならないのです。やがて稲が穂を出して実ってく
るとまた烏や雀に食べられないように、案山子をたてたり鳴子をつけたりしな
ければなりません。十分穂がみのったら今度は稲刈りです。刈り取った稲は乾
燥させて、脱穀しさらに乾燥させてから今度は籾擦りをして籾殻とお米を分離
しなければなりません。こうしてできた玄米を臼で挽き、糠をとってはじめて
お米ができるのですよ。このようにしてお米ができるまでには、八十八回も手
間をかけ汗を流しているのです。このことを忘れないように、御先祖様は米と
いう字を作られたのです。」
赤子郎女は秦一族が米作りに如何に血と汗を流してきたかを、一族の未来の
統率者に子供のうちから教えこんでおかなければならないという使命感に燃え
ていた。
「河勝や、お米は今では田圃で作りますが昔は山の中の畠で作られていたので
すよ。昔々、お米が此の国へ渡ってきた頃は山を焼いて、その跡へお米の種を
蒔き、稔ると稲穂を摘み取りその跡へは桑の木を植えたのです。桑の葉はお蚕
さんの餌になるのです。その頃はお米の収穫量はとても少なかったのです。稗
とか黍や粟のほうが作りやすく手間も掛からなかったのですよ。山を焼いて種
を蒔き、採り入れが終わるとその跡へ桑の木を植えて次の土地へ移っていくの
です。だから今のように一つの場所に留まってお米を栽培するというようなこ
とは無かったのです。」母の赤子郎女は秦国勝の許へ嫁いできたときに一族の
長老から教えこまれた米作りの歴史を最愛の息子に伝えるのに懸命であった。
「それでは何時頃から、今のように田圃でお米を作るようになったのですか」
「この国に鉄製の鍬や鋤が半島から渡ってきて畠を耕すことが楽になったころ
からですよ。今から二百年程昔のことです。その頃には山の中の畠で水を溜め
やすくまた水の抜きやすい所を選んで御先祖は稲を栽培するようになったので
す。このような畠を棚田というのですよ。水稲のほうが陸稲よりも収穫量が多
いので水田でお米を作るようになったのです。そして、農耕技術が進んでくる
と、次第に人々は平地へ下りてきて大きな水田でお米を作るようになったので
す。作物を作る場所を『畠』とか『畑』とか書きますが読み方はハタケとハタ
です。ハタケは白い田つまり火を使わないからシロイ田なのです。定まった場
所で作物を作るところつまり定畑を表し、ハタは火の田つまり焼き畑を表すの
です」母は指先に水をつけて飯台に『畠』と『畑』という二文字を書きながら
説明する。
「それでは水田で稲を栽培するようになったのは最近のことなのですね」
「そうですよ。秦氏の『秦』を今ではハタと読んでいますが昔はシンと読んで
いたのですよ。同じように秦人はシンヒトと読んでいたのです」
「何故、シンをハタと読むようになったのですか」
「それは秦氏が管理している一番大切なもの、つまり作物を作るハタと織物を
織るハタを管理している人という意味でいつの頃からか世間では秦氏のことを
ハタ氏と呼ぶようになったのです。このように秦一族にとっては農耕と機織は
それを抜きにしてはその存在価値がなくなる程大切な仕事なのですよ。更に土
木技術にも秀でていたからこそ川の流れを変え田に水を引くことが出来、飛躍
的にお米の収穫量を増やすことが出来たのです。この葛野の桂川に大堰を築き
氾濫を無くしお米が採れるようにされたのも御先祖様の努力の賜物なのです」
「御先祖様って偉かったのですね。秦氏の御先祖様はどんなかただつたのです
か」と河勝の好奇心は飛翔してゆく。
「遡れば秦の始皇帝にまで行き着きますが、弓月の君(ゆづきのきみ)という
人が秦氏の始祖とされているのです」
「もっと聞かせて」と河勝はせがむ。
「今日はここまで。もう遅いからお休みなさい。弓月の君のことは深草の長老
様にお願いして教えていただきなさい。私よりも詳しいことをご存じだから」
母の赤子郎女は我が子河勝の知識欲にたじたじとなりながら、やっと寝かせ付
けた。

日本列島に米が渡来したのは二,二00年程前だとみられている。秦河勝が
生まれた頃から数えれば約七七0年程昔のことである。米は倭人が日本列島に
もたらしたものであることが考古学・歴史学・民俗学・比較人類学等の研究の
成果としてほぼ証明されている。
そもそも倭人とはどのような人種であり、日本の経済及び文化の基礎となっ
た米と倭人とはどういう関わりを持ったのかということを辿ってみれば、秦河
勝の先祖である秦人とその子孫である秦一族が日本の農耕技術・養蚕技術・土
木技術・手工業技術に秀でたものを持っており、祭祀に重きをおく氏族であっ
て、古代大和国家の繁栄に多大の貢献をした氏族であることが理解できるであ
ろう。
米の原種は大きく分ければ、四種類位に分けられるが、アジアでつくられる
のはこのうちの長粒米(インディカ)と短粒米(ジャポニカ)との二種類であ
る。同じ米であってもこの長粒米と短粒米とでは、人間と猿くらいの違いがあ
る。即ち長粒米と短粒米とをかけあわせても、穂はできるけれども実ができな
い。つまり染色体の数が基本的に違っているからである。
この長粒米と短粒米の原種の分布を調べてみると、氾濫原では長粒米しかな
く、河岸段丘の上で作られていた米は殆どが短粒米であった。長粒米の発祥の
地はガンジス河流域のような氾濫原であり、短粒米の発祥の地はヒマラヤ山系
の谷々のような棚田である。棚田とは水を溜めれば湿田となり水を落とせば乾
く田のことである。
ヒマラヤの山奥の谷間に発生した短粒米は、だんだん谷を下りて揚子江へ至
り、南の流域一帯及びその支流あるいは広東から西へはいっていく西江の辺り
が大きな短粒米の稲作地帯となったのである。この地帯は古くは百越の国とい
われていた。越の国の人々即ち越人達が稲作技術を進化させた頃、黄河流域に
は殷や周のような強い国家ができて勢力を増していったが、彼らは畑作の産物
を食料とした。越人達は中央の強い国の文化を求めて次第に移動して揚子江や
淮河の流域に村を作った。さらに北上して山東のあたりを経て陸路は朝鮮半島
に至り、海路は日本の九州にまで至って町を作った。米作技術をもって朝鮮半
島南部や日本にまで渡来した越人はいつの頃からか倭人と呼ばれるようになっ
ていた。
倭人の稲は北九州の地へ渡来し栽培されしかも品種は短粒米(ジャポニカ)
であったことが、福岡県夜臼遺跡や板付遺跡の発掘で判ってきている。
倭人達は稲作だけでなく、漁労の技術にもたけていた。歴史上に初めて登場
する日本人は「倭人」と呼ばれている。魏史倭人伝(西暦二二0〜二八0年三
国時代の魏の国の歴史書に書かれた倭人の条のこと)によれば「禾稲(水稲の
こと)を植え」「船に乗って交易を行い」、「漁業に従い」、「水に潜って魚
を手づかみしたり、貝を採ったりすることが上手で」、「皆黥面文身(いれず
みのこと)」していたと記されている。また越南(今のベトナムの辺り)で越
人が住んだ地帯には入れ墨をする風習があったことが知られている。このこと
からも越人が北へ移動して、朝鮮南部や九州に至って植民地を作りだした頃倭
人と呼ばれだしたと言えるのではなかろうか。
倭人は朝鮮半島にも住んでいたが、九州にも住んでおり、その間を船で往来
し交易や漁労にあたっていたのも倭人であったと考えられる。
初めて大陸に統一国家を作った秦の始皇帝(西暦BC二二一-二一0)が滅
んで漢民族が覇権を握ると、秦人達は追われてその一部は朝鮮半島へ逃げて定
住するようになった。朝鮮半島は大陸からみれば辺境の地であり未開の野蛮な
国であった。秦人達は当時朝鮮半島で活躍していた倭人から稲の栽培方法を学
び、持ち前の秀でた農耕技術でこれを改良し水田耕作を可能にしていったので
ある。彼らは鉄を使う技術をもっていたから鉄の原料を産出する朝鮮半島は鋤
や鍬を作り稲の水田耕作を発展させるには好都合の条件を備えていたといえよ
う。

秦部の下僕や下女達が機織りしているのを興味深く見ていた幼い河勝を手招
いて、一族の長老秦大津父(はたのおおつち)が長い顎髭を手でしごきながら
言った。
「河勝や、今日は弓月の君のことを話してしんぜよう」
秦大津父は山背国紀郡深草里に根拠地を構えていた。葛野の秦部が織りだし
た絹や深草で醸造した濁り酒を馬の背に負わせて隊列を組み、飛鳥や伊勢へ運
んでは売り捌き、伊勢特産の水銀を仕入れて帰るという商業活動にも携わって
いた。官職は大蔵の掾であったから位は高いほうでなかったが、日本全国に広
がっていた秦人約七千戸の首領として仰がれていた。飛鳥へ行ったり伊勢へ行
ったりで、秦大津父は席の温まる暇もなかった。秦大津父は河勝の父方の祖父
の弟である。河勝の今はなき祖父秦河(はたかわ)は葛野に根拠地を持ってい
た。河勝は秦一族の直系の血筋を継いでいた。葛野から今日は深草まで父の国
勝に連れられて遊びにきていたのである。忙しい秦大津父は幼い河勝の顔を見
るのは始めてのことであった。河勝は目を輝かせて長老の話に聞き入った。
「弓月の君とはな、融通王(ゆずおう)とも言われるのじゃが、秦の始皇帝の
末裔なのじゃ。弓月の君の先祖は秦の国が滅びたとき半島に逃げ渡った秦の遺
民で、一族が離散することもなく助け合って国の再興を期していたのじゃ。弓
月の君は始皇帝の十三世孫にあたられるのじゃ。わかるかの、秦一族は皇帝の
血筋をひく名門なのだからお前もこのことは誇りにして生きていかねばならな
いのだぞ」と祖父は河勝の目を見据えながら言った。
「それでその人達はどうなったの」と河勝は先を促した。
「弓月の君の先祖は、一旦、半島に渡ったものの、当時の半島は未開の土地で
あったから、秦一族は団結して開墾に励み力を養うしかなかったのじゃ。秦一
族は大陸から移住して来たとき、鉄製の農工具とそれを作る技術を持っていた
ので、未開地の開墾は順調に進んだ。彼らは秦の始皇帝の子孫であるという誇
りを持っていたから、土着民と融合することなく一線を画して平和に生活して
いた。それは長い長い年月であった。長い年月が過ぎる内に半島にも高句麓、
新羅、任那、百済という国が誕生したのじゃ。一方、大陸では秦を滅ぼした漢
という国の次に新という国ができたが、忽ち滅んでしまって、また漢という国
が生まれたのだ。前の漢に対して後の漢という訳で後漢と呼んでいるのじゃ。
後漢という国が出来た頃から、弓月の君の先祖は、大陸へ帰って国を再興する
ことは難しいと考えるようになったのじゃ。」
「そしてどうなったの」
「半島の中でも高句麓という国は強い国でしょっちゅう新羅や百済を攻撃して
は領土をかすめ取ったのじゃ」
「弓月の君はどうなったの」
「その頃はまだ弓月の君は生まれていなかったのさ。弓月の君の先祖は、そう
さな曾祖父ぐらいになるのかな、高句麓の攻撃を避けて百済へ逃げたり、新羅
へ逃げたりしていたのだが、弓月の君の代になって海の向こうからも任那を攻
撃してくる強い国があり機織りの技術や天文、医学、暦、易のことを学びたが
っていることを知ったのじゃ。その国が大和の国なのじゃ。弓月の君は大陸へ
帰ることを諦めて、海の向こうに安住の地を求めることを決心したのじゃ。そ
の時には新羅から百済へ移り住んだばかりの時であったそうな。なにしろ腕の
良い機織り技術者と土木技術者を沢山抱えており、鉄製の農工具とその技術を
蓄えていたから、新羅の王様も弓月の君の動向に対しては注意していた筈だわ
な」長老の秦大津父は言葉を切って、土器の濁酒を口に運んだ。
「応神天皇の御代(三八二年)に、弓月の君は百済から一二0県の人夫(おお
みたから)を率いて大和の国へ移住を決行されたのじゃ。百済から加羅までた
どり着いたところ、運悪く新羅人に妨げられて人夫は加羅に止めおかれてしま
ったのじゃ。弓月の君は使いを応神天皇に出して助けを求めたところ葛城襲津
彦(かつらぎのそつひこ)が派遣されて日本へ渡るのを助けたということじゃ
が、弓月の君が連れてきた人夫はいずれも腕の良い機織技術者と土木技術者達
で、養蚕の技術も持っていたので葛野に定着してからも繁栄し今日に至ったの
じゃ。」と秦大津父は白くて長い顎髭を右手の親指と人指し指で作った輪でし
ごきながら、河勝に物語ってくれた。幼い河勝にとっては、先祖の流浪物語は
ロマンに満ちた魅力ある話であった。
「弓月の君が葛野に定着してまもなく、半島では応神天皇が軍隊を派遣し百済
・新羅を討ち負かした(三九一年)ので、弓月の君の渡来時期の選定は正しい
決断であったことが判ったのじゃ。一族の長は将来のことも見通して決断しな
ければならないから責任は重いのだよ。」と大津父はやがて一族の長になるで
あろう幼き河勝に期待の眼差しを向けながら話を続けた。
「河勝よ、弓月の君が葛野に落ちついてから間もなく、応神天皇の御代に半島
から阿知使主(あちのおみ)とその子の都加使主(つかのおみ)が党類一七県
の民を率いて渡来してきているが、この一族は、高市郡檜隅を根拠地にして栄
えている東漢直(やまとあやのあたい)氏の祖先なのじゃ。彼らは陶部(すえ
つくり)、鞍部(くらつくり)画部(えかき)、錦織(にしごり)の技術に優
れているので、我が一族も機織りという技術の特徴を生かして彼らに負けない
ように頑張らなければならないのだよ」「ほかにはどんな氏族が渡来したので
すか」
「阿知使主(あちのおみ)が渡来してのち間もなく今度は、やはり応神天皇の
御代に百済から、王仁吉師(わに)が論語と千字文を持って渡来し、朝廷に百
済王からの品部(ともべ)として献じられたのじゃ。彼らは朝廷では史(ふひ
と)としてもちいられた西文首(かわちのふみのおびと)氏の先祖で根拠地は
河内の古市なのじゃ。彼らは読み書きにあかるいので代々書記として朝廷で文
書を扱い羽振りをきかせているのだよ。お前も読み書きができるようにならな
ければのう。」
「御長老は読み書きができるのですか」
「出来るとも。大蔵掾という官職は読み書きが出来なければつとまらない役柄
なのだよ」
河勝は尊敬の眼差しで改めて大叔父の顔を仰ぎみるのであった。
「御長老わたしにも読み書きを教えてくださいませんか」
「いいとも。しっかり勉強して、一族の繁栄をはからなければならないからの
う。読み書きの勉強も大切だが、もっと大切なのは神様を崇拝するということ
じゃ。秦一族が現在繁栄しているのは、守護神を丁重にお祭りしているからそ
の御加護があり霊験あらたかなためなのじゃ。深草の里にお祭りしている稲荷
(いねなり)神は五穀豊穣の神様じゃ。葛野にお祭りしているのは養蚕の神様
だし、松尾の神様は酒造りの神様なのだ。賀茂の神様は大地の神様でこれらの
神々は秦一族が畏敬の念をもって崇拝しているのだよ」
「わかりました。毎朝四方拝をし、神様を拝むように母親から教えられていま
すのでそれを守るようにします」と河勝は言った。
「秦一族がこの地に渡来以来、おおよそ二百年足らず経ってはいるがこの間、
常に順調であったとは限らない。弓月の君が渡来してから二〜三代のうちは、
族長がしっかりしており、神様を畏敬し敬う気持ちが篤かったから繁栄してい
た。だが、そのうち心得違いをする族長がでるようになる。そうすると一族は
分散のはめになる」
「そのようなこともあったのですか」
「あれは、やはり応神天皇の御代のことであると聞いているが、須須許理(す
すこり)という酒造りの名人が百済から渡来して、旨い酒を朝廷に献上したそ
うだ。帝は喜ばれて、須須許理を秦部に下されて酒造りも秦部の大切な仕事と
なったのじゃ。そのときの族長は秦登呂志(はたのとろし)といったが自分の
子供の名前を「酒」とつけるくらいの酒好きであった。そのために、酒部の酒
造りのほうへ力を入れすぎて、秦部の機織りのほうは蔑ろにしたということじ
ゃ。万の神々を崇拝する気持ちが薄らいできたのだな。秦の登呂志は酒造りの
神様を大切にしなければいけないということだけを考えて、蚕の神様と同じお
社へお祭りしたのじゃ。こうなると蚕の神様のほうは面白くない道理じゃ。自
分の神域へ他人が入ってきたのだから意地悪をしてやろうと考えられても不思
議ではない。機織りのほうもおろそかにしたものだから機織りに従事していた
秦部の民も面白くない。次第に秦一族の中で統制がとれなくなり、秦部の民は
全国へ分散して行ったのじゃ。しかし、分散したとはいえ、秦部の民は優秀な
人々が多かったうえに、稲作りの技術や、養蚕の技術や機織りの技術を持って
いたので、分散していった土地で勝部(すぐりべ)を作り、村主(すぐり)に
なったのじゃ。勝部は稲作り、養蚕、機織りの専門技術集団のことであり、村
主とはその集団の指導者のことじゃ。
「分散してしまうと氏族としての団結力がなくなり力が弱くなるでしょうね」
と河勝が言うと長老の秦大津父は彼の利発な質問に満足げに頷きながら話を続
けるのであった。
「そのとおりじゃ。分散して勝部を作り生産に精出していた秦の人々は、秦氏
としての団結が弱くなり、勝部ごとに諸豪族に徴用され和珥氏、穂積氏、巨勢
氏、平群氏、物部氏、大伴氏、蘇我氏、羽田氏、葛城氏等に駆使される情けな
い状態になってしまったのだよ」
「困ったものですね。秦一族の危機の時代ですね」
「その通りじゃ。秦造としての役割が果たせなくなったので、朝廷への貢物も
少なくなり肩身の狭い思いをしたものと思うわのう」
「それで秦一族はどうなりましたか」
「秦酒の公という秦一族の中興の祖が現れたのじゃ。秦登呂志の子の酒の公は
琴の名手であった。酒の公は出仕するときには必ず琴を携帯していた。雄略天
皇の御代十二年の十月のことであったが、秦酒の公が出仕して造営中の宮殿の
前で工事の安全を祈願して琴を弾いていたところ、ある事件に遭遇されたのじ
ゃ」
「どんな事件だったのですか」
「大工の闘鶏御田(つげのみた)が宮殿の建物を建てていたが、梁へ上がった
り下りたりするのが、まるで鳥のように素早かった。たまたま伊勢の采女が天
皇に奉る秋の味覚を盛ったお膳を捧げて通りかかったところ、闘鶏御田(つげ
のみた)が梁へ上がるのを目撃した。彼女が今まで見たこともない敏捷さで、
闘鶏御田が上がっていったので、人間業とは思えなかったのだろう。度肝を抜
かれた伊勢の采女はお膳を落としてしまったそうな。そこで騒ぎが大きくなっ
たのじゃ。天皇に捧げるお膳を落とすとは不敬であり、不吉であるということ
になった。詮議してみると闘鶏御田が魔性をもっているのではなかろうかとい
うことになり、災いを封じ込めるためには闘鶏御田を殺して魔性を絶ってしま
おうということになったのじゃ。」
「闘鶏御田は殺されたのですか」
「天皇の前に引き出されたとき、状況がかわったのじゃ」
「どのように」
「秦の酒の公が琴を弾きながら現れて次のような歌を歌ったのじゃ」
神風の伊勢の
伊勢の野の栄枝を
五百経る析(か)きて
其(し)が尽くるまでに
大君に堅く仕え奉らむと
我が命も長くもがと
言ひし工匠(たくみ)はや
あたら工匠はや
歌の意味は工匠は天皇のために一日もはやく御殿を造ろうと努力している。そ
れなのにそれを殺そうとしている。惜しいことだということなのじゃ」
「それでどうなったの」
「天皇の前で許しもなく、かってに琴を弾いたり、歌を歌ったりすることは本
来許されることではない。不敬な振る舞いとして処罰されるのが当たり前の行
為なのだ。酒の公は余程の覚悟をきめて琴を弾かれたのであろう」
「酒の公は処罰されたのですか」
「処罰されなかったのじゃ。雄略天皇は、武勇に秀でた名君の誉れ高いお方で
あったが、人情の機微にも通じておられたのじゃな。秦の酒の公の琴の音と歌
声が天皇の心をいたく動かしたのであろうか。天皇は闘鶏御田を殺すのをやめ
て罪を許したばかりか、処罰覚悟で、間違った天皇の行為を指摘した秦の酒の
公に褒美を授けようということになったのじゃ」
「御褒美になにを貰われたのですか」
「秦の酒の公は、秦造として部民を統率して米や織物を沢山造り、天皇に貢ぎ
物を沢山奉りたいのだが、情けないことに秦人はあちこちに分散してしまい、
諸豪族の配下に入ってしまっている。そのため秦造としての職責を十分はたす
ことができない。情けないことです。どうか諸豪族の許へ散らばっている秦人
を私の管理の許に戻して下さい。それが私が願う御褒美ですと訴えられたのじ
ゃ。天皇がこれをお認めになり、調べてみたら秦一族は全国に約百八十の勝部
(すぐりべ)を作って村主(すぐり)になっていたそうじゃ」
「一族が戻ってきたということですか」
「そうじゃ、秦造の管理下に戻ったということじゃ。天皇の好意に感激した秦
造の酒の公は秦造の管理下に戻ってきた部民を督励して、絹を織り朝廷に献上
したところ、庭にうずたかく絹が積まれたそうじゃ。天皇は秦の酒の公の忠義
な心を喜ばれて酒の君に太秦という姓をあたえられたのじゃ。それ以来、葛野
の地のことを太秦(うずまさ)と呼ぶようになったのじゃ。」
「全国に散らばっていた秦人が纏まったということですか」
「その通りじゃ。住まいこそ各地に別れてはいるが、一族の長である秦酒公を
中心に置いて精神的な絆で結ばれるようになったのじゃ。産業が次第に発達し
て、人も増え機織りの部を増やさなければならない状況がでてきたということ
もあったのだが、この変化を素早く捉えて天皇に訴えでた酒の公は一族の長と
しては適切な措置をとったことになるのだよ。一族が離散する原因となったの
は蚕の神様と酒造りの神様を同じお社にお祭りしたから祟りがあったのだとい
う反省もあって、この頃秦忌寸都理という御先祖様が松尾神社を建てて酒造り
の神様だけを専属でお祭りするようになったのだよ」

河勝が深草の大津父を訪問してから一年程経ったある日河勝六歳の時、河勝
は松尾神社に父に伴われて誓願にきていた。誓願の目的は二十日程前に生まれ
た河勝の妹玉依郎女(たまよりのいらつめ)が病弱なため病魔退散、悪霊退治
を祈祷することであった。
河勝が神殿に向かってお祈りをしていると突然河勝の体がぶるぶる震えだし
顔の形が変わってきた。目はつりあがり口を尖らせて、しわがれた声で口走っ
た。
「河勝よ案ずるでない。わしはお主らの先祖の弓月の君じゃ。お主の守護神と
して物申そう。玉依郎女は健やかに成長するであろう。彼女が長じて女の印が
あった日に葛野の川で衣の洗濯をさせなさい。上流から丹塗りの矢が流れてく
るであろう。玉依郎女はこの矢を持ち帰り、寝室の入り口の戸へ刺しておくが
よい。一夜明ければ、玉依郎女は懐胎するであろう。その子は玉依郎女が丹塗
りの矢を捧げたいと思って捧げ、それを受け取った男の子である」その声はし
わがれてはいるがこの世のものとは思えない荘厳な響きをもっていた。
「あれま。若様に御先祖様の霊が憑かれた」とお守り役の下僕がはいつくばっ
て地面に頭をこすりつけながら拝み出した。
「河勝よ、心を落ち着けて、息をゆっくりはきだすのだ。御先祖様が安心して
帰っていかれるようにお送りするのだ」と父の国勝が言うと河勝は再び息をゆ
っくりはきだした。それと同時に顔つきは穏やかになり、もとの顔を取り戻し
た。息子の憑依現象を目の前に見て、秦国勝は本日の誓願の目的を息子の河勝
にしっかり教えておかねばならないと思った。秦国勝が娘玉依郎女を連れてき
たのは、病魔退散もさることながら、娘を品よく育てて将来、世継ぎの皇子の
后として入内させることであった。蘇我稲目、馬子親子の権勢をみるにつけ、
秦一族の経済力からすれば蘇我一族にひけをとることはないのだから、皇室に
どんどん入り込んで権力を掌握しなければならないと密かに考えていたのであ
る。今日の誓願はそのことに重点があった。その思いが先祖霊に通じたのか息
子の河勝の体を憑り代としてあらわれたのであろう。託宣によれば丹塗り矢が
誰であるかわからないが、玉依郎女は丹塗り矢に乗り移った男子の子を宿すと
いうではないか。願わくば、丹塗り矢の主が世継ぎの皇子であって欲しい。
この事件があってから河勝が神前で精神を集中して祈祷をすると、憑依現象
がおきることがときどき見られるようになった。
河勝は自分に霊能者としての超能力があることを自覚すると、一族の支配統
制のために最大限に活用した。祭りと政は原始社会においては一体のものであ
り、分離されることなく祭政一致で統治されてきた。裁判はすべて神前裁判で
あり、処罰処刑も神意の発現としておこなわれた。秦河勝の時代には大和朝廷
の基盤も確立し、祭祀と政治は分離されていた。分離されていたとはいえ、そ
の所管は何れも天皇家であった。政治は天皇を中心とする大和朝廷がこれを司
り、祭祀は天皇家が三種の神器を奉じて皇祖神を祭り、天神地祇を祭ることで
あった。但し、この頃になると朝廷内部の分業が進んだため、連の姓を持つ豪
族に宗教的職分や特高警察的な職分はまかされていった。前者をまかされたの
が忌部氏や中臣氏であり、後者を任されたのが物部氏であった。氏族は天皇の
臣下であり、各氏族固有の氏神を祭った。河勝に霊能者としての超能力が備わ
っており、彼が精神を集中して超能力を発揮するときは必ず憑依現象が発生し
たので、部民達は彼を一族の長として畏敬の念をもって仰いでいた。
秦人即ち秦部は大和、山城、河内、摂津、和泉、近江、美濃、尾張、若狭、
播磨、紀伊、丹波、備前、讃岐伊予、阿波、豊前と広範囲にわたって住んで
いた。特に山城盆地にははやくから住んでおり大きな勢力を持つようになって
いた。日本書紀によれば欽明天皇元年に秦人、漢人ら諸蕃の帰化したものを国
郡にそれぞれ定住させて戸籍を編んだところ秦人の戸数は七千五十三戸にのぼ
ったと記されている。この頃秦河勝の大叔父大蔵掾秦大津父は秦伴造に任命さ
れている。

秦河勝と聖徳太子との関わり合いは河勝が一二才になったときから始まる。
この年五七四年(敏達天皇三年)聖徳太子が、橘豊日皇子(たちばなとよひの
みこ・用明天皇)を父とし、穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのひめみこ)
を母として誕生した。
「若様、そろそろ昼餉の時間です。あの桜の木の下で一休みしましょう」と馬
で大原近くまで遠乗りをした河勝に供の下僕が言った。今日は河勝の十二才の
誕生日を記念するために乗馬の訓練も兼ねてここまでやってきたのである。
「今日は天気もいいし、陽気もよくてよかったね。腹も減ったしそうしよう」
と河勝は馬から下りて手綱を桜の木の枝に結んだ。
「こんなに遠くまで来たのでさぞ腹もすいたでしょう。しっかり食べてくださ
い」下僕は竹の皮に包んだ握り飯を差しだしながら勧めた。
「ああ、美味しい。握り飯がこんなに美味しいと感じたのは今日が初めてだ」
と河勝は下僕の差し出す竹の筒に入った水を飲みながら言った。
「若様が、こんなに遠くまで出掛けられたのは今日が初めてなので、きっとお
腹がすいたのでしょう。お腹のすいたときは何を食べても美味しく感じるもの
ですよ」

「お米の神様に感謝しなければ」そう言うとと河勝は苗代にすくすくと伸びて
いる緑の稲の苗に向かって手を合わせた。暫くお祈りをしていた河勝の顔つき
が変わった。目はつりあがり口を尖らして、嗄れた声で喋りだした。憑依現象
が始まったのである。「汝に告げる。都で世継ぎの皇子が誕生された。汝はこ
の皇子に臣従すべし」
「ああ、若様に神様が憑いた」と下僕は地面にはいつくばり、頭を地面にすり
つけて河勝を拝み出した。やがて、憑依現象は収まったが、河勝には臣従すべ
しとお告げのあった世継ぎの皇子の名前は判らなかった。しかし,河勝の心は
まだ見ぬ主の姿形をいろいろ想像しては満たされた気持ちになるのであった。
聖徳太子の幼名は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれたがこれは母親の穴
穂部間人皇女が、池辺雙槻宮(いけべのなみつきのみや)の庭を散歩中、にわ
かに産気づき厩戸の前で出産したので厩戸皇子と名付けられたという。
穴穂部間人皇女の母は、堅塩姫の同母妹の小姉君(こあねぎみ)であり、と
もに欽明天皇の后である。
聖徳太子の生まれた五七四年(敏達天皇三年)といえば大和朝廷は内外とも
に、多くの難問を抱えていた。
対外的には五六二年(欽明天皇二三年この年秦河勝誕生)に新羅に奪い取
られた任那の奪回、百済の軍事的救援と百済や新羅の大和朝廷に対する朝貢体
制の維持強化が、最大の課題であった。
国内的には大和朝廷内における天皇専制の確立であった。継体天皇の御代に
中央権力の強化策として、政治組織は氏姓制から官司制へと、改革されていた
が、まだ天皇専制が確立されていたとはいえなかった。敏達天皇の朝廷には二
つの中心勢力が拮抗していた。一つは天皇、一つは官司制の指導者蘇我氏であ
る。
天皇の意図する方向は天皇専制であるが、蘇我氏との間で幾重にも絡み合っ
た姻戚関係はこれに制肘を加えていたのである。蘇我氏は天皇を上にいただき
ながら、朝廷のありかたとしては、豪族連合政権の性格を強く打ち出し、自分
が連合政権の指導者になろうとしていた。連合政権を固めるため波多、平群、
紀、巨勢、葛城等の大和朝廷を構成する主要豪族は、自分と同じ祖先を持つ同
族であるという系譜を作り上げようとさえした。そして帰化系氏族を配下に置
き、官司制を掌握することにより連合政府の指導者として実権を握り天皇を飾
りものにしようと画策した。その最たるものが蘇我稲目が欽明天皇に対してと
った外戚政策である。即ち自分の娘である堅塩媛・小姉君という同腹の姉妹を
欽明天皇の妃として送りこんだのである。
国内問題としてもう一つの大きな問題は仏教の受容をめぐって、崇仏派の大
臣蘇我氏と排仏派の大連物部氏とが対立を深めつつあった事である。
当時の大和朝廷では皇祖神(天照大神)と地主神(倭大国魂神)二柱の神を
祭っており、奉安されている三種の神器の八咫鏡・八尺に曲玉・草薙剣は統治
権の正当な継承者即ち天皇の地位と権威の象徴であった。国神(くにつかみ)
の司祭者としての天皇家が他国神(あだしくにのかみ)である仏教をただちに
受容することは天皇家の権威にかかわることであり、容易に決断出来る問題で
はなかった。万物には神が宿るという考え方は皇室を始め一般民衆にいたるま
で素直に信じられていた。農耕の豊かな収穫は神の恩恵であった。穀物の霊も
神と仰がれた。山の神、水の神、河の神、森の神、大地の神、神の憑り代とし
ての樹木や岩石などが神として崇拝された。言葉にも霊が宿るという言霊思想
も流布していた。神々は各氏族集団の祭祀の対象であり、守護神としての氏神
になるものもあった。
そもそも、日本の氏族には連姓を持つものと臣姓をもつものがあった。連姓
は神話の世界である天上の高天原において、中臣、忌部、猿女、鏡作、玉祖と
いう各氏族の祖先が天皇家の伴(とも、隷属者)として発生した。これらの伴
は五伴緒(いつとものお)と呼ばれた。天孫降臨のとき護衛をつとめた大伴氏
や、神武天皇にいちはやく帰順した物部氏は神代時代から天皇家の家臣である
と位置づけられていた。五伴緒の鏡作、玉祖の二氏は祭具の製作に携わった。
中臣、忌部、猿女の三氏は司祭者であり、天皇家の伝統と権威の源泉である神
宝を奉祭することで天皇に仕えた。是等の氏族は職掌柄他国神を受容すること
はできなかった。
他方、臣姓の氏族は本貫の地名を氏の名とする在地性の強い集団である。大
和朝廷が統一王朝を確立するまではこれに対抗するだけの力を持っていた。彼
らは帰順した服属集団であり葛城、平群、巨勢、和珥、蘇我等の氏族である。
中でも蘇我氏は古くから帰化人の東漢氏や西文氏らとの接触を通じて、大陸の
事情にも明るく大陸文化の優越性を認めていたから仏教の受容についても積極
的な姿勢を示していた。そこへ仏教が仏像という具体的な形をもったものとし
て外国から入ってきたのだからその受容をめぐる争いは崇仏派と排仏派の対立
を産み出し、皇位継承問題と絡んで壮絶を究めるものとなった。
一般民衆にとっては神であろうが仏であろうが祟りさえなければよかった。
お加護があればそちらのほうがよかった。しかし、権力の中枢にあるものにと
っては崇仏派に属するか、排仏派に属するかは将来の生き残りをかけた死活の
問題であった。
五三八年に百済の聖明王から欽明天皇に仏像と教典が献上された。聖明王は
使者を遣わして、次のように言上した。
「この法は諸法の中で最も優れております。見かけは解りにくく、入り難くて
かの賢人周公・孔子もなお知り給うことができないほどでしたが、この仏像を
拝みさえすれば無量無辺の福徳果報を生じ、無上の菩提を生じることができる
のです。例えば、人が随意宝珠(物事が思うがままになる宝珠)を抱いて、何
でも思い通りになるようにするようなものです。この法は遠く天竺から三韓に
至るまで、教えに従う人々に尊敬されています。それ故百済の王である私は侍
臣を遣わして、御地の朝廷にこの有り難い仏像と経論を伝え国中に流布させて
頂き、お釈迦さまが願われたことを実現したいと思うのでございます」
これを聞き天皇は欣喜雀躍して百済の使者に言った。
「私は今までこのような尊い妙法を聞いたことがなかつた。すぐにでも入信し
たい気持ちだ。しかし大和朝廷の天皇としては影響するところが多いので、採
否をいますぐ決定し返答することは差し控えたいと思う」
次いで、天皇は聖明王の使者接待のために集まってきている群臣達に下問し
た。
「諸卿に聞くが西の国から伝わった端麗な美を備えたこの仏像を祀るべきかど
うか意見を述べて欲しい」
「おそれながら、天皇が天下を大王として統治していらっしゃるのは、常に天
地社稷の百八十神を春夏秋冬お祀りなさっているからでございます。このたび
仮初めにも蛮神を拝むことになると、必ず国つ神の怒りを受ける事になるでし
ょう」と中臣鎌子が他国神を祭ることに反発し、物部尾輿も拒否を表明した。
これに対し蘇我稲目は崇仏を主張して言った。
「西の国では諸国が皆仏を礼拝しています。豊秋の日本だけがなんで拝まない
で済まされましょうか。大いに礼拝すべきです」
天皇は三種の神器を奉安し、天神地祇を司祭する立場にあったから中臣鎌子
や物部尾輿の意見はよく理解できた。一方では進取の気にも富んでいたから、
蘇我稲目の意見にも心を引かれた。
しかしここでは自分の意思を明確に表示することは賢明でないと判断し、目
先の効く蘇我の稲目に仏を預け自分の態度を明確にしないほうが得策であると
考え次のように言った。
「それでは願い人の蘇我稲目に仏と教典を預けて、試しに礼拝させてみよう」
蘇我稲目は天皇のこの言葉を聞くと跪いて仏像と教典を恭しく拝受し、お礼
をいった。
「必ず仏法がこの国に根づくと信じていますが、それまでは私がお預かりしお
守り致しましょう」
贈られた仏像は、悉達太子の半跏思惟像であった。蘇我稲目は取り敢えず豊
浦にある小墾田の家を清めてその仏像を安置したが、やがて向原の家を寺とし
てこれを祭った。ここに於いて日本における最初の仏教帰依者が誕生したので
ある。
彼が仏像礼拝を始めてから一年程経った頃、疫病が流行して多数の死者が出
た。崇仏派攻撃の口実を捜していた物部尾輿と中臣鎌子はこれにとびついた。
疫病流行の原因は、蘇我稲目が他国神である仏像を祭ったからだというのであ
る。これに対して蘇我稲目は、疫病流行の原因は他国神拒否による無礼な措置
が仏の祟りとして現れたのだと主張した。疫病がはやったり、飢饉がおきたり
するとその度に原因をめぐって崇仏派と排仏派が論争を繰り返した。

五七十年(欽明天皇三十一年)三月に蘇我稲目が死に、稲目の後を継いで馬
子が大臣に就任した。稲目の死とあい前後して尾輿も死んだ。後を継いで大連
となった物部守屋は予てから崇仏派の祭る仏像を破棄してやろうと機会を窺っ
ていたが、稲目の死亡がチャンスとばかり蘇我氏の向原の家を襲って仏殿を焼
き、聖明王から献上されて祭られていた仏像を持ち帰ると自宅近くの難波の堀
江に流した。人間が被る災禍や疫病の穢れは、禊や祓によって清められるとい
う日本古来の神道の考え方による行動であった。
蘇我稲目の逝去に先立つ五七十年正月、八才になった秦河勝は父に連れられ
蘇我稲目の向原の自宅を年賀に訪れ、仏像を拝まして貰った。予てより仏教に
関心を示していた父秦国勝が、年賀にことよせて稲目の崇拝する仏像を拝観さ
せて貰おうと、秦大津父を通じて稲目に渡りをつけておいたのである。河勝に
とっては父と一緒の初の大和路への旅であった。秦氏の一族は大和にも住んで
おり、父が出仕するときに利用する館も大和に用意されていた。
河勝が初めて仏像を拝観したときの気持ちは荘厳なものであり、人間の顔を
した外国の神様はやさしく微笑んでいた。
「ありがたい仏様だ」と国勝は魂を奪われ、恍惚境に彷徨った。
「私も仏像をお祭りできるようになりたい」と河勝は祈るのであった。
「河勝よ仏像を将来お迎えすることができたらお寺を建てよう」と国勝が言っ
た。
「是非そうしましょう」河勝は将来仏像を我が手で祭ることを夢みながら頷い
た。
蘇我稲目の死去を狙って決行された物部守屋らの排仏運動もひとたび火のつ
いた崇仏派の求法の情熱の火を消すことはできなかった。帰化人達は崇仏の念
厚く蘇我氏を支援した。特に飛鳥に本拠を置く鞍作氏(司馬氏)は積極的に蘇
我氏を支援した。
この年病床にあった欽明天皇は、太子の淳中倉太珠敷皇子(ぬなくらふとた
ましきのみこ)を枕頭に呼び、任那の復興を託して、翌年四月、金刺宮で崩去
した。
淳中倉太珠敷皇子が即位し敏達天皇となった。欽明天皇と宣化天皇の皇女石
姫との間に生まれた第二皇子であった。
豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)は十八才の時敏達天皇の皇后となっ
た。幼少の時は額田部皇女と呼ばれ、才気煥発の人でその質問には侍女達もし
ばしばたじたじとなることが多かった。
「どうして女は天皇になれないのじゃ」
「昔々からのしきたりでございます」
「何故そのようなしきたりができたのじゃ」
「皇祖の神武天皇以来,天皇は皇子が継承することになっているのでございま
す」
「私は天皇になりたい」
「皇女様が今度お生まれになるときは皇子としてお生まれになることですね。
天皇にもなれますよ」と乳母達は自己顕示欲の強い姫を宥めるのが精一杯であ
った。
長じてからは容姿端麗で、立ち居振る舞いにはメリハリがきいており、数多
い同年代の皇子皇女達の中では一際目立つ存在であつた。母は蘇我大臣稲目の
娘堅塩媛で欽明天皇との間に七男六女をもうけた子福者であった。他にも異母
兄弟姉妹が大勢いたが、小姉君を母とする茨城皇子、葛城皇子、穴穂部皇子、
泊瀬部皇子の兄弟達とはうまがあわなかった。穴穂部間人皇女の美貌は許しが
たかったが、控えめな性格は自分の性格と裏腹であるため絶好のいじめの対象
であった。
額田部皇女が十三歳のとき聞かされた姉磐隈皇女の受難の物語は本能的に彼
等を毛嫌いさせた。
「伊勢大神宮にお仕えなさっている磐隈皇女がお役を解かれたそうですね。お
気の毒なことです」と侍女が言った。
「まあ、姉君が。何故なの」
「神に仕える身でありながら、人間と通じ、汚れたからです」
「あの潔癖好きな姉君が男と通じるなんて信じられないわ。どうしてなの」
「皇女様もそう思われるでしょう。私達も口惜しいですわ。ある皇子から何度
も歌を贈られたけれど磐隈皇女は神に仕える身であることをよく弁えておられ
るので、無視し続けられたそうです」
「巫女としては当然の事でしよう」
「返歌のないのを逆恨みされて御寝所に忍びこまれて無理やり犯されたという
ことです」
「一体相手は誰ですの」
「茨城皇子ということです」
「茨城皇子といえば私にも歌を贈ってきたことがありますわ」
「皇女様、あの兄弟は程度が悪いから気をお付けになってくださいませよ」
「それで茨城皇子はどうなりました」
「お構いなしです」
「磐隈皇女はどうなさいましたか」
「臣下の大伴氏へ下げ渡されました」
額田部皇女が十五歳になったとき、茨城皇子からの相聞歌が届いたが姉磐隈
皇女の受難の物語を思い出しこれを無視した。神に仕える巫女を犯すような粗
野な行為が許せなかったので、返歌を贈ろうという気すら起きなかった。やが
て、茨城皇子の弟の穴穂部皇子からも相聞歌が届けられるようになったが、こ
れも無視し続けた。小姉君を母とする皇子達兄弟はいずれも粗野で向こう意気
ばかり強く品位にかけていた。それにひきかえ淳中倉太珠敷皇子は母が宣化天
皇の二女であり立ち居振る舞いには洗練されたところがあり、文章をよくし史
学を愛するインテリであったので豊御食炊屋姫の好みにあっていた。欽明天皇
が崩御されると、淳中倉太珠敷皇子が即位し敏達天皇となられた。皇后を立て
られることもなく、先帝の皇后石姫を敬って皇大后と称していたので、炊屋姫
は自分が皇后になれるかもしれないと、密かに胸をときめかせていたが、息長
真手王の女広姫が皇后と決まったと聴かされてがっかりした。しかしながら間
もなく、広姫が一男二女を残して薨去し、炊屋姫が皇后に立てられたときには
炊屋姫の自尊心は大いに満足させられた。天皇そのものではないが、皇后とい
う天皇に最も近い立場になれて、幼少の頃の夢の一部がかなえられたからであ
る。

五八三年(敏達天皇十一年)都に疫病が蔓延した。秦河勝は、二三才であっ
た。
この年の夏、父国勝が体調を崩して床についたので、河勝は父国勝の名代と
して大和の要人のところへ貢物を届けて、葛野の里へ帰ってくると、村人達が
集まって噂をしている。
「深草の里では病が流行って、沢山人が死んだそうじゃ。熱が出て腹を下し物
が食べられなくなるそうじゃ。この里にもやってくるかもしれんぞ」
「水を飲むと腹をこわして下痢が止まらなくなるそうじゃ。熱くても水は沸か
してお湯にして飲んだほうがよいそうじゃ」
「何でも都では人間の顔をした神様をお祭りしなかったため祟りで、病が流行
りだしたということじゃ。若殿、都の様子はどうですか」と中年の百姓の男が
河勝に聞いてきた。
「腹が痛くなり、下痢をする病が流行っているのは確かじゃ。人も沢山死んで
いる」と河勝は道端に転がっていた乞食の死骸を思いだしながら言った。
「人間の顔をした神様なんてものがあるのじゃろうか。神様のお姿はわしらの
目には見えないものじゃと思うとりましたがのう」
「私は子供の頃、父に連れられて蘇我稲目大臣の向原のお寺で初めて仏様を拝
ませて戴いたが人間の顔をしておられた。それは清々しいお顔じゃったという
印象をうけたものだが、この度も拝ませて戴いた。心が洗われるような気持に
なったよ」とその時の光景を思いだしながら河勝は言った。
「わしらもどげなお姿なのか見てみたいものじゃのう」
「将来、私も仏様を迎えてお寺を建てたいと思っているよ」と河勝が言った。
「その時には是非とも拝ませて下さい」
「いいとも」
「海の向うから渡ってこられた神様は御利益の多い神様のようじゃな」
「御利益が多いからこそ粗末に扱うと祟りが大きいそうじゃ」
「祟られるようなことを誰がしたのじゃろうか。若殿は遠出されることが多い
から何か知っておられるじゃろう。教えてくださらんか」と機織りの男が言っ
た。
「都で聞いた噂では大連の物部守屋様が蘇我氏の屋敷を襲って仏様をお祭りし
てある仏殿を焼き払い、仏像を堀に流されたのでその祟りがでたということじ
ゃ」と河勝は最近仕入れた情報を公開した。
「そりゃ何時頃のことですかのう」と機織りが聞いた。
「もう十年以上も昔のことじゃそうな」と河勝が答えた。
「随分執念深い神様じゃのう」とさきほどの機織りが慨嘆するような口調で言
った。
「その仏様とやらいう他国の神様を祭ったから、逆にこの国の神様が妬んで祟
りをなされたのではなかろうか。わしはそう考えますがな」と年寄りの百姓が
言った。
「どだい、お姿が見えないから神様なので、人間の顔をした神様なんかはいか
がわしいと、わしゃ思いますがの」と信心深い籠作りが言った。
「わしら、祟りさえなければ、神様でも仏様でもお祭りしますがな。のう、皆
の衆、そうじゃろうが」と壺作りが言った。
「そうじゃ」
「そうじゃ」
秦河勝は父の名代として用事を済ませたのでその報告のため、病床に父を見
舞った。
「父上、只今帰りました。蘇我馬子大臣には、父上の贈り物をお渡しし、お願
いもしてきましたが、大臣はただ聞いておくといわれただけで、特にどうしろ
という御指示はありませんでした」
「そうか。玉依郎女にも、そろそろ月のものがめぐってこよう。それまでに入
内の話が決まればと考えているのだが」と国勝は病床から河勝の報告を聞きな
がら言った。
「丹塗りの矢が流れてくるまでに決まればよいですね」と河勝は松尾神社で受
けた先祖霊の託宣のことを思いだしながら言った。
「そのことよ。わしも、最近鴨氏の若い衆が夜、通ってきては、機織女達にち
ょっかいをかけているので、変な虫が玉依郎女につかなければよいがと心配し
ているところなのだ」と国勝が言った。
「鴨氏の嫡男が最近、夜這ってきているそうですね。玉依郎女が狙われている
かもしれませんよ。私はあてにならない入内の機会を待っているよりも、鴨氏
の嫡男を婿にして、賀茂神社の祭祀権を握ったほうが将来得策だと思いますが
ね。そうすれば、葛野と北山背を支配していくのに良い条件が整うと思うので
す。仏教がこれから主流になるでしょう。しかし内国神を疎かにすることはで
きません。我々氏族には先祖霊がついており、氏神として祭ってきたのです。
秦一族の氏神は深草に稲荷神社、葛野に蚕の社、松尾に松尾神社として祭られ
ているのですから、今、鴨氏と縁戚関係ができれば、山背国全体を覆う祭祀を
主催できることになるわけです」
「それはそうかもしれないが、やはり天皇の后を狙うべきだと思う。それだけ
の力は養ってある筈だから」と国勝は娘入内の希望をすてきれない。
「仮に入内がうまくいったとしても、皇子が生まれるかどうか判りませんよ」
「秦一族の場合は女で子を生まなかった者は今まで一人もいなかった。とにか
く入内することが、今一族にとって一番大切なことだ」
「父上、玉依郎女を入内させて、皇子が誕生したとしてもその皇子が天皇に必
ずなれるという保証はないのですよ」
「それはそうだが、入内できなければ何事も始まらない。経済力では蘇我氏に
も物部氏にも決して劣らない。ただ官位だけが不足しているのじゃ」
「父上、官位が欲しいお気持ちは分かりますが、考えてみて下さい。大伴氏や
物部氏等の連姓の氏族は、天地開闢以来天皇家の臣下であることが運命づけら
れていますから、彼らの娘達は皇后や后にはなれなかったでしょう。我等秦氏
は帰化人だから土着の豪族蘇我氏とは格が低いと見做されているのですよ。と
ても玉依郎女が入内出来るとは思えませんがね」
「なに、秦氏の先祖は秦の始皇帝にまでたどりつくのだ。帰化人とはいえ、格
からいえば天皇家に匹敵する筈だ。ましてや、地方の一豪族であった蘇我氏よ
りも由緒ある氏族だと思うよ。だからこそ、秦氏の実力を認めさせるためにも
、秦氏から皇后や后を出して、天皇家の外戚にならなければならないと思う。
私の代で実現できなければ子孫の代には是非実現してもらいたい。これは、私
の悲願であり、子孫に語り継いで貰いたい一族の目標であると思ってくれ」
「お言葉を返すようですが、私は秦一族は政治には関与しない方が賢明であろ
うと考えております。政治に関与するとどうしても皇位継承権を目指して血生
臭い争いの中に巻き込まれてしまいます。政権争いに負けると一族全員が破滅
するか地獄をみることになると思います。葛城氏、平群氏、吉備氏、大伴氏等
不幸な例は沢山あるでしょう。むしろ政治には直接関与せず、経済の面で力を
蓄え、祭祀を司るほうが、子孫の繁栄に繋がると考えます。そしてお寺を建て
て、仏教を広めるのです」
「お前は未だ若いのに闘争を恐れてどうする。農耕、養蚕、機織、醸造、土木
とあらゆる分野において、第一の力を蓄えている秦一族が何で政治の面でも第
一人者となれないのか。挑戦してみるがよい。私の言いたいのはそういうこと
だ」
「父上のお考えはよく分かりました。御期待に添えるように努力してみたいと
思います」
「それにお前も、深草の大叔父の勧める娘を早く娶って私の目の黒いうちに孫
の顔を見せてくれ」
「承知しました」
河勝と国勝親子の間でこのようなやりとりがあってから、数日後に国勝は流
行病に侵されて死亡した。
国勝が亡くなって半年ほど経った頃玉依郎女に初潮があった。
玉依郎女の乳母からこの報告を受けた河勝は赤飯を炊かせて玉依郎女が大人
になった祝いの宴を一族で営んだ。祝い膳が終わって食器を屋敷の前を流れる
桂川で女達が洗っていた。玉依郎女も女達に混じって手伝いをしていた。族長
の娘ではあるが大人になった証明として家事の手伝いをしてみせるという一種
の通過儀礼であった。その時玉依郎女の目の前を丹塗りの矢が上流から流れて
きた。
「あれ、姫様、丹塗りの矢ですよ」と乳母が言った。
「はやくお拾いください」と別の女が言うのも待たず玉依郎女はいち早く矢を
右手で掴んでいた。
「この矢は御寝所の入口に突き刺して今宵はお休み下さい」と乳母が教えた。
この丹塗りの矢は夜這って来ていた鴨氏の嫡男に玉依郎女から渡されて鴨一
族と秦一族の絆が発生したのである。丹塗りの矢は河勝が密かに手下に命じて
河の上流から頃合いを見計らって流させたものであった。

崇仏派の雄、大臣蘇我馬子は五八四年(敏達天皇十二年)に鹿深臣が百済か
らもち帰った弥勒石像一体と、佐伯連が百済から将来した仏像一体を二つとも
貰い受け、石川の自宅に仏殿を造って安置し法会を営んだ。これと前後して司
馬達等の娘嶋(善信尼、出家当時一一才であったという)・漢人夜菩の娘豊女
(禅蔵尼)・錦織壺の娘石女(恵善尼)の三人を出家させ彼女らに法衣を供し
仏像を祭らせた。このようにして馬子は仏教の受容を積極的に勧めた。
ところが翌年(五八五年)再び疫病が大流行した。排仏派の物部守屋と中臣
勝海は疫病が発生したのは馬子が異国の神である仏像を拝んでいるせいである
と主張し敏達天皇に仏法の禁止を奏請した。敏達天皇は疫病の蔓延を阻止する
には仏法を破断するしかないと判断し、大連物部守屋に仏法の処断を許可した
。守屋は中臣連磐余等を率いて、大野丘の北の仏塔を切り倒し蘇我馬子が建て
た石川の仏殿を焼き、再び仏像を難波の堀へ棄てた。善信尼ら三人の尼は法衣
を奪われ、海石榴市に監禁され尻や肩を笞うたれた。このようにして破仏は実
行されたが疫病は終焉しなかった。そればかりでなく,仏像を焼き、尼を罰し
たことが仏の祟りとして現れ、疫病をますます流行らせる原因となったという
う風評が流布した。また、敏達天皇が破仏を許可したことも非難の対象となっ
た。そのうえ敏達天皇と蘇我馬子とが相次いで疱瘡に冒され床についた。
馬子は自分の病は重く、仏の加護を受けなければ治らないと思うので仏法に
帰依することを許可願いたいと天皇に懇願した。天皇は譲歩してこれを認めた
が馬子一人だけに許すので他の人には認めないという条件がついていた。三人
の尼も馬子に返された。
馬子の病気はまもなく快癒したが天皇はやがて崩御した。馬子の病気回復は
仏の恵みであり、天皇の崩御は排仏の祟りであると当時の人々に思われた。こ
うして他国神の威力が国神を圧倒することが証明された。
大臣の蘇我馬子が卜占せしめたところ、父稲目が祭った他国神(仏)の祟り
であることが明らかとなった。その神は十二年前に難波の堀に流されて以来、
ずっと祭られておらず、いま自己の祭祀を要求したのである。仏の要求をいれ
て祭るなら国内の災禍は消えるであろうと。
敏達天皇には皇子が何人かおり広姫を母とする押坂彦人大兄皇子(おさかひ
こひとおひねのみこ)が母の身分も高く、最年長でもあったので次期天皇とし
ては有力な候補であった。しかし、古代の天皇家では皇位は兄弟相続で継承さ
れることが多く、有力な弟がある場合には弟に皇位が譲られるのが普通であっ
た。敏達天皇には異母兄弟が多く、堅塩姫を母とする橘豊日皇子と小姉君を母
に持つ穴穂部皇子が皇位を争うことになった。堅塩姫、小姉君はともに蘇我稲
目の娘であり欽明天皇の后であると同時に蘇我馬子の姉と妹であった。橘豊日
皇子の同母妹にあたる炊屋姫は故敏達天皇の后であった。このような複雑に血
筋の絡み合った人脈の中では、皇位の継承は天皇家内部の問題に止まることが
出来ず、崇仏・排仏論争とも関係して豪族層も巻き込んだ政治問題となってい
た。橘豊日皇子は母の身分も高く天皇の兄弟の中では最年長であったし予てよ
り仏教に関心を寄せていたので敏達天皇の后炊屋姫と大臣蘇我馬子との支持を
得て対抗馬である穴穂部皇子を蹴落とし磐余の池辺雙槻宮で即位することがで
きた。用命天皇である。
穴穂部皇子は皇位への希望を絶たれたあと次の機会を待って排仏派の有力者
である大連物部守屋に接近し皇位争奪の秘策を練っていた。当時天皇が崩御
するとその死を悼んで、葬送の時まで遺体を安置する殯宮(もがりのみや)が
営まれる習わしであり、敏達天皇の殯宮は広瀬(奈良県北葛城郡)に造営され
た。后の炊屋姫は殯宮に侍して悲嘆にくれていた。
穴穂部皇子は異母妹にあたる炊屋姫にかねてより想いをかけていたが、炊屋
姫が敏達天皇の后として入内してからは、相聞歌を贈ることもかなわず片思い
に終わっていた。殯宮で悲嘆に暮れている炊屋姫にお悔やみを述べ、慰めると
ともに長年の思いもぶつけてみたいと考えた穴穂部皇子は使いを出して、弔問
の意を伝えようとしたが、大三輪逆の手のものが、粗野な野心家で通っている
穴穂部皇子の下心を見抜いて取りつがなかった。使いの者から門前払いの扱い
を受けたとの報告を受けた時、皇子のプライドはいたく傷つけられるとともに
疑心暗鬼を生じた。自分が皇位継承で破れたのは炊屋姫が反対に廻ったからだ
という思いにかられ、憎悪が嵩じた。用命天皇の次の天皇候補者は敏達天皇の
皇子の押坂彦人大兄皇子にいくであろう。そうなると小姉君系の皇子が天皇に
なるチャンスは薄くなる一方である。ここで一騒動起こして、世の注目を引い
ておかなくてはならないという思いも心の隅に潜んでいた。殯宮に押し入りや
るかたない憤懣をぶちまけるとともに長年の思いを遂げようと行動に移した。
穴穂部皇子は自ら手兵を率いて殯宮に赴き、門衛の兵士に尋ねた。
「この宮門を守っているのは誰か」
「大三輪逆がお守りしています」と門衛は答えた。
「門を開けよ。私は皇子の穴穂部皇子だ。殯宮の庭で誄(しのびごと)を読み
上げ皇太后にはお悔やみを申し上げたい」
「主命により開けられません」
「主とは誰か」
「大三輪逆です」
「臣下のくせに皇子に対して無礼であろう。早く門を開けよ」
「開けられません」
このような押し問答が七回も繰り返されたが、門は遂に開かれなかった。炊
屋姫の寵臣大三輪逆が敏達天皇の遺命を帯して護衛の兵士達に殯宮の門を固め
させたからである。
大三輪逆は敏達天皇が生前皇后の炊屋姫と皇位継承に関して交わした次の会
話を先帝の遺命であると心に刻み日記に記録したことを今思い出していたので
ある。
「朕の崩御後は、皇位継承の古来の慣行に従い兄弟相続を第一原則とし、第二
原則としては兄弟が老齢で激務に耐えないとき若しくは幼少のときは先帝の直
系の皇子に皇位を継承することにしたい」と敏達天皇が言われた。
「そうしますと次期天皇候補者はお上の異母弟の橘豊日皇子になりますね」と
炊屋姫が質問した。
「その通りだ。そなたの同腹の兄上が、天皇になれるのは喜ばしいことであろ
う」
「お上のご配慮に御礼申し上げ、感謝致します」
「母親の格、本人の年齢からいえばこれが一番納得できる選択だと信じている
よ」
「その次はどのようにお考えでしようか」と炊屋姫は自分が腹を痛めた竹田皇
子の顔を瞼に描きながら質問した。
「橘豊日皇子がそんなに早く亡くなるとは考えたくないが、もしそのときは、
年齢、母たる皇后の格からいって第二原則を適用して押坂彦人大兄皇子が適任
であろう」
「第二原則の時、竹田皇子は如何ですか」
「チャンスはあるが押坂彦人大兄皇子のほうが年長者だから第二候補というこ
とになる」
「でも押坂彦人大兄皇子は病弱ですわ」
「押坂彦人大兄皇子が亡くなれば竹田皇子と厩戸皇子が有力だ」
「第一原則適用の時、穴穂部皇子はどうですか」
「橘豊日皇子が長命であれば、穴穂部皇子のほうが押坂彦人大兄皇子よりだい
ぶ若いからチャンスはあるだろう」
「でもあの皇子は下品だから駄目ですわ」
「そのときには泊瀬部皇子か宅部皇子がいる」
「母親が小姉君ですわ」
「欽明天皇の妃であったから格式では問題がない」
「小姉君の系統が天皇になるのは我慢なりませんわ」
「堅塩姫と小姉君は同腹の姉妹だよ」
「女の姉妹は対抗意識が男より激しいものですわ」
「そういうものかね。それではその時はそなたが先帝の皇后として即位すれば
よい」
「女が天皇になった先例はありませんよ」
「それでは第三原則を作っておこう。第一原則、第二原則でも選定できないと
きは先帝の皇后が即位するということだ。このことは、私の遺命として大三輪
逆に記録させておこう」
大三輪逆は炊屋姫の寵臣として秘密を知っていたので穴穂部皇子を殯宮に入
れることは断じてできることではなかった。
怒り心頭に達した穴穂部皇子は、蘇我馬子と物部守屋の両名を呼んで大三輪
逆は皇子に対して無礼な態度振る舞いをしたので、切り捨てたいと言うと二人
とも「御随意に」と言った。炊屋姫の寵臣大三輪を穴穂部皇子に殺させるのは
蘇我馬子の策謀であった。炊屋姫の穴穂部皇子に対する怒りを増幅するためで
ある。
一方、穴穂部皇子は、協力者の支援を取り付けて次期天皇になろうと企んで
いたので、何かと邪魔をする大三輪逆を口実を設けて殺そうと考えていたので
ある。大臣と大連の同意を取り付けた穴穂部皇子は、物部守屋と共に兵を率い
て大三輪逆を討つべく磐余の池辺を包囲したが、大三輪逆は本拠地の三輪山に
逃れた。形勢不利とみた大三輪逆は夜陰に乗じて、炊屋姫の海石榴市宮に保護
を求めた。炊屋姫のかねてよりの寵臣として姫の信頼を受けているという自負
と殯宮では、穴穂部皇子の毒牙から姫を守った功績が大三輪逆の拠り所であっ
た。それに皇位継承に関する故敏達天皇の遺命を書き記した詔勅を炊屋姫へ渡
さなければならなかったからである。ところが何時の世にもあることであるが
、窮地に陥った人間の足を引っ張って、手柄にしようという輩が現れるもので
ある。大三輪逆の一族の白堤と横山が大三輪逆の居所を物部守屋へ内通したの
で、物部守屋の兵に捕まり斬り殺された。寵臣の大三輪逆を失った炊屋姫は穴
穂部皇子と物部守屋に対する恨みを心の中に蓄積した。
そ用命天皇は即位後、僅か二年で病に倒れた。天然痘であった。蘇我の馬子は
用命天皇の叔父にあたるので、一年前仏に帰依して病気平癒した馬子にあやか
り天皇も仏に帰依しようと決意した。
「朕は仏・法・僧の三宝に帰依したいと思うので、卿らも承知して欲しい」と
侍仕する群臣に言われた。
仏教伝来以来初めて天皇が自らの意思で仏教を受容したのである。
「畏れ多くも、三種の神器を奉安し天照大皇神を司祭する立場にある天皇が国
神に背いて他国の神を敬う等ということが許されてよいものでしょうか。この
ようなことは前代未聞でございます。お立場をお弁え願わしゅう存じます」と
大連物部守屋と連中臣勝海が口を揃えて言った。
「天皇の御意思は尊重すべきであると存じます。臣達はすべからく詔に従って
御協力申し上げるべきだと存じます」と蘇我馬子大臣は誇らしげに言った。
穴穂部皇子は早速豊国法師をつれて天皇の元へ伺候したので、これを見た物
部守屋は穴穂部皇子の後ろ姿を睨みつけながら言った。
「実にけしからん」心の中では、用明天皇の対抗馬として皇位を争ったとき世
話になっておきながら、また私が仏教に反対しているのを知っていながら、法
師を連れてくるとは何と恩知らずな皇子であろうかと悔しい思いをしていた。
排仏派の雄であった物部氏も天皇が自らの意思で仏に帰依すると表明してか
らは立場が苦しくなった。身の危険を感じた物部守屋は本拠である河内の渋川
に引上げ軍勢をあつめて警戒体制に入った。排仏派の有力者中臣勝海も兵を集
め物部支持の準備をし更に太子押坂彦人皇子と竹田皇子の人形をつくって呪詛
した。彼らは次期天皇候補として第一、第二順位に位置していたからである。
穴穂部皇子を擁立するためには、これらの皇子達は邪魔になるのである。と
ころが中臣勝海は物部側の形勢が悪くなったと気がつくと寝返って、押坂彦人
皇子の水派宮に司候した。舎人の跡見赤寿は無骨者であったが、忠義一筋の武
辺の男であったから、変節漢の中臣勝海を許すことができなかった。中臣勝海
が押坂彦人皇子のもとから退出するところを狙って切り殺してしまった。
物情騒然となってきた中で物部守屋側には物部一族の他に大市造・漆部造の
一部等が加わってきた。一方蘇我馬子側には大伴比羅夫が手に弓矢と皮楯を
持って馬子の身辺警護にあたった。このように緊迫した状況の中で、用明天皇
の病気は進み豊国法師らの懸命な治療と祈祷の甲斐もなく五八七年(用明二年
)四月に崩御した。天然痘の業病であったので早々に磐余池上陵に葬られた。
次の天皇は用明天皇の甥であり皇太子である押坂彦人皇子が有力であった。
しかし皇室に関しては兄弟相続が過去にも例が多かったので、堅塩媛系の用
明天皇の次は小姉君系の皇子を支持する氏族も多かった。この空気を察して守
屋は小姉君系の穴穂部皇子を擁立して即位させよう調したのが宣化天皇の子の
宅部皇子であった。ここにまた堅塩媛系と小姉君系との争いが始まったのであ
る。
と画策した。この動きに同調したのが宣化天皇の子の宅部皇子であった。ここ
にまた、堅塩媛系と小姉君系との争いが始まったのである。
蘇我馬子が物部守屋に勝って権勢を保持するためには、崇仏の念の強い姪の
炊屋姫に取り入って穴穂部皇子の失脚を狙わなければならなかった。その妙案
が穴穂部皇子の同母弟にあたる泊瀬部皇子を皇位継承者として擁立し小姉君系
の結束を揺さぶり、分裂させることであった。
「皇太后には兄上の先帝がお隠れになってお寂しゅうございましょう。心より
お悔やみ申し上げます。ところで穴穂部皇子が皇位継承者として大連物部守屋
と共謀し兵を集めているのをご存じでしょうか」と大臣の蘇我馬子が眠ったよ
うな顔をして言った。
「聞いています。またあのづうづうしい皇子が性懲りもなく画策しているので
すか。宅部皇子までが同調しているというではありませんか、困ったものです
。竹田皇子はまだ幼少で帝には無理だろうし、厩戸皇子も聡明とはいえこちら
も幼すぎるし」と炊屋姫が言う。
「そこでございます。あの目立ちたがり屋で、粗野な穴穂部皇子が天皇になれ
ば、後は小姉君系の皇子に皇位は盥回しされて、竹田皇子や厩戸皇子が成人さ
れてもそのチャンスは失せるでしょう」と馬子が唆す。
「何か良い方策はないものでしょうか」と炊屋姫
「私に妙案があります」と馬子
「是非聞きたいですね」
「穴穂部皇子と宅部皇子討伐の詔勅を下して戴くことです」
「理由は」
「皇太后に対して不敬の振る舞いがあったということと、先帝の寵臣三輪逆を
物部守屋に命じて殺害させたということで十分でしょう」
「それでは、次の天皇は誰にするのですか」
「泊瀬部皇子です」
「小姉君の皇子ではありませんか」
「竹田皇子や厩戸皇子が大きくなられたときのためです」
「厩戸皇子は小姉君系でしょう」と炊屋姫
「いかにも、しかし同時に堅塩媛系でもあります」
「判りました。用命天皇が亡くなられて、穴穂部間人皇后はまだお若いのにお
気の毒です。多目皇子の妃として輿入れさせようではないですか」と炊屋姫が
澄ました顔で言った。心の中では美貌の誉れ高い穴穂部間人皇后にこれで辛い
思いを味わわせることができるのは痛快なことだと思っていた。
「少し残酷ではないでしょうか。多目皇子は穴穂部間人皇后の義理の子にあた
られるのですよ」と馬子
「多目皇子は亡き用明帝にそっくりの顔形をしておいでです、穴穂部間人皇后
の寂しさを紛らわすのには良い考えだと思いますわ」
「成るほど。厩戸皇子が成人した時の用心のため、皇太后としての力を蓄えて
おかれるおつもりですな。穴穂部間人皇后には私から話しましょう、その代わ
り穴穂部皇子と宅部皇子討伐の詔勅は戴けるのでしょうな」
「そうしましょう」
穴穂部間人皇后はこうして用明帝の喪も明けないうちに義理の子つまり用明
帝と蘇我稲目の娘石寸名との間に生まれた多目皇子の妃として嫁がされ佐富女
王を生むことになるのである。
詔勅は秦河勝を使いとして佐伯連丹経手・土師連磐村・的臣真噛等の氏族に
届けられた。彼らは炊屋姫の詔勅を奉じて両皇子を攻め殺してしまったのであ
る。馬子に先手をとられ、肝心の穴穂部皇子を失ってしまった物部守屋は孤立
してしまった。これに対し馬子は、物部守屋を攻めるのは今がチャンスと秦河
勝を使って、朝敵穴穂部皇子に加勢した物部守屋一族を討伐しようとの檄をと
ばした。檄に応じて、泊瀬部皇子をはじめとして敏達天皇の子の竹田の皇子・
秦河勝は馬子の檄文を携えて飛鳥へ赴き厩戸皇子と出会ったときのことが忘
「物部守屋討伐の檄を預かって参じました」と河勝が言った。
「このたびの戦の大義名分は何か」と厩戸皇子は質問したが、一四才とは思え
ない風格があり、威容辺りを圧する荘厳さを備えていた。
「伯母上にあたられる炊屋姫が出された、穴穂部皇子を討伐せよとの詔勅でご
ざいます」
「穴穂部皇子は征伐されたではないか」
「御意。しかしながら朝敵に加担した大連物部守屋が討伐されておりませぬ」
「皇位継承の争いが原因か」
「御意。もう一つ崇仏か排仏かの争いに決着をつける意味もあります」
「大連物部守屋は排仏を唱えているのであったな」
「御意。仏法の教えを広めるためにも大連物部守屋は討伐せねばなりませぬ」
「おことは崇仏か排仏か」
「内国神も認めた上での崇仏の立場でございます」
「仏像を拝観したことがあるか」
「ございます」
「それは何時のことか」
「子供の頃と、つい最近のことですが蘇我大臣の向原のお屋敷で二度程拝観し
たことがございます」
「それでは仏の教えの神髄は何か」
「恥ずかしながら判りません」
「一つだけ教えよう。捨命と捨身とは皆是死也」と厩戸皇子が言ったとき、河
勝には言葉の真意は分からなかったが、厩戸皇子の姿が神々しくみえ思わず手
を合わせた。この時河勝に憑依現象が起こった。手足が震え顔がこわばると、
耳の奥で声が聞こえた。それは遠い昔、大原の桜の木の下で聞いた先祖霊の言
葉と同じ声音であった。
「汝の臣従すべき皇子が今姿を現された」と

泊瀬部皇子を筆頭とする諸皇子の他に、紀、巨勢、膳、葛城、大伴、阿倍、
平群、坂本、春日の諸豪族が蘇我馬子側についた。大和、河内の主要な豪族う
ち揃っての軍団編成であった。とりわけ先鋒隊をつとめた大和檜前の東漢氏の
軍勢は、優秀な武器・武具で装備された精鋭部隊であった。
これらの軍勢は蘇我氏を中心とし、諸皇子や紀・巨勢・膳・葛城の諸氏から
なる主力軍と大伴・阿倍・平群・坂本・春日の諸氏からなる第二群とに分かれ
て進軍した。主力軍は、飛鳥で勢揃いし奈良盆地南部を西進してから、逢坂
越えをして国分から船橋へ出て物部氏の軍に攻めかかった。第二軍は大和川北
辺を通る竜田道を越えて信貴山西麓の志紀の地に出て、一気に渋川の物部氏の
本拠を横あいから急襲した。
物部守屋は稲を積んで砦を作り、子弟と奴からなる軍を率いて防戦したが、
不意をつかれたために、渋川の本拠を放棄して、北方の衣摺まで後退して戦っ
た。このあたりは泥深い沼のある地帯で馬子軍も攻めあぐんだ。大連の物部守
屋は、大きな榎の木に登って馬子軍を俯瞰し、泥沼で足を取られ動きの鈍い馬
子軍に雨の如く矢を射かけたし、よく訓練されて戦上手の物部氏の兵達が頑強
に戦ったので、馬子軍は三度も退却しなければならなかった。
厩戸皇子は瓠形の結髪をして馬子軍の後方に従っていたが、味方が三度も退
却するのをみて何となく不安になった。厩戸皇子の側には秦河勝と跡見首赤寿
(とみのおびといちい)が従い護衛していた。
「大勢がよくない。何か手をうたないとこの戦は負けるかもしれない」と厩戸
皇子が言われた。
「仰る通り形勢は、我が軍に不利のようでございます」と跡見首赤寿が同意し
た。
「この戦に負けると仏の教えは広まらない。仏教を守護する四天王に願をかけ
よう。誰か、仏像を彫る木を捜してきて欲しい」
河勝が近くの山へ入ると直ぐ目の前に身丈程の白膠木(ぬりで)が生えてい
たのでこれを切り取ってきて捧げた。
「これは縁起がよい。白膠木は勝軍木ともいい、霊木じゃ」
「おお、それは縁起がよい」と周囲の者も喜んだ。
「司馬達等を呼んでくだされ」
「はい。御前に」
「仏師は参戦しておらぬか。四天王の像を彫ってもらいたいのだが」
「生憎、仏師は参戦しておりませんが、それがしにも仏像作りの心得はありま
す。やってみましょう」司馬達等が言った。
「非常の時だから、簡単なものでよい。形が出来ただけでよい」
厩戸皇子は、出来あがった四天王の像を束髪の上に乗せ誓いを立てて言われ
た。
「この戦は仏法を護るための戦です。持国天、増長天、広目天、多聞天の四天
王よ、我が軍を守り勝利を与え賜え。もし自分を敵に勝たせて下さったら、必
ず護世四天王のため寺塔を建てましょう」
このとき秦河勝も皇子と一緒に願をかけたが、憑依現象は起きなかった。厩
戸皇子の超能力の方が秦河勝のそれを凌駕していたものであろう。
「諸天王・大神王たちが我を助け守って勝たせて下さったら、諸天王と大神王
のために、寺塔を建てて三宝を広めましょう」と蘇我馬子大臣も誓いをたてて
言った。
誓いを立て終わって、士気の高揚した馬子軍は、武備を整えなおして進撃を
開始した。
跡見首赤寿が狙いをつけて物部守屋に矢を射かけると見事命中した。榎の木
股から落ちてきた物部守屋の首を秦河勝が打ち落とした。これによって物部軍
は自然に崩れて兵士は四散した。この戦で物部氏は没落し渋川の邸宅、難波の
管理事務所や、支配していた田荘は全て没収された。物部氏が滅亡してはじめ
て蘇我氏および崇仏派は自由に活動することが出来るようになったのである。
仏教の興隆を志す馬子は、飛鳥の真神原に本格的な寺の建設を始めた。法興
寺(飛鳥寺)である。これより後、飛鳥時代の仏教の中心的存在となる寺であ
る。
十一
物部一族が討伐されて間もなく、八月二日炊屋姫と群臣達は泊瀬部皇子に勧
めて天皇即位の礼を行った。同じ月に倉梯に柴垣宮を造営したが現在の桜井市
から多武峰街道を寺川沿いに遡った山峡にある倉梯の集落は、視界を妨げられ
る山ふところに位置しており、山々に囲まれたその場所からは、大和朝廷の心
の故郷である三輪山の姿は全く見ることが出来ない。まさに幽閉の場所であっ
た。
崇峻天皇は即位した翌年春三月に大伴糠手連の女小手子を立てて妃とした。
即位したものの、政治の実権から切り離され、馬子の采配によって政治が進行
し、異母姉の炊屋姫からは皇太后の立場を楯に何かにつけて、口出しされるの
で、政治を傍観するしかなく、馬子と炊屋姫に対する反感が鬱積していった。
妃に立てた小手子の父の大伴糠手は連姓の氏族であり、本来皇后を立てられ
る氏ではない。今では大連の地位からも外され、蘇我氏の手足となることに甘
んじている二流の氏族であり、大臣蘇我馬子に対抗していくだけの実力もなく
頼りにならなかった。小手子は天皇との間に一皇子、一皇女をもうけたが、次
第に天皇の寵愛が薄れて馬子の娘である妃の蘇我嬪河上娘に移っていくのを恨
んでいた。それに蘇我嬪河上娘のところへは舶来の香料・衣等の貢ぎ物が頻繁
に届けられるのに小手子のところへはそれが無かった。足しげく貢ぎ物を運ん
でくるのは東駒直という帰化人でいろいろ半島の風俗・習慣等の話を面白おか
しくしているらしいと侍女達から漏れ聞くのも癪の種であった。小手子は親の
実力の相違がこのように、貢ぎ物にまで影響を及ぼし、天皇の愛情にまでおよ
ぶものかと慨嘆してだけはいられなかった。親に力がなければ皇后という立場
を利用して、機会を見すまして実力者である大臣蘇我馬子に命じ、天皇をいさ
めて貰おうと考えていた。
五九一年(崇峻天皇四年)天皇の詔によって任那再興軍の派遣が決まり、紀
臣男麻呂・巨勢臣猿・大伴連噛・葛城臣烏奈良らを大将軍としてその他の諸氏
からも兵を集め、二万余の軍勢が筑紫へ出兵した。ここに名を連ねた各氏族は
その殆どが物部守屋との戦で馬子を支援しているので、遠征軍は馬子の呼びか
けに呼応したものであり、詔も馬子に勧められて下されたものであった。秦河
勝も九州の秦一族に号令して任那再興軍に参加させていた。
崇峻天皇は統帥権さえも大臣蘇我馬子に握られている傀儡政権であった。
十二
五九二年(崇峻天皇五年)の冬、秦河勝は飛鳥の橘宮へ厩戸皇子を表敬訪問
した後葛城山の山奥で捕獲した猪を天皇に献上した。
献上された猪を見て天皇は
「元気のよい猪だね、どこで捕れたのか」と河勝に聞かれた。
「葛城山の山中でございます」
「葛城は蘇我大臣馬子の本貫の地ではないか」
「御意」
「今宵の夕餉には久しぶりに膳部に命じて猪肉の串焼きをつくらせよう」
「光栄至極でございます」
「それにしても、いつの日かこの猪の首を切るように憎い人の首を切りたいも
のだ」と漏らされた。
「おそれながら、お心のうちは、お漏らしにならぬが賢明かと存じ上げ奉りま
す。それがし、只今のお言葉、聞かなかったことに致します」河勝はいまただ
ちに厄介な事件に巻き込まれるのは御免だという思いをこめて言った。心の中
では天皇は蘇我馬子を成敗したいと考えて、私にそれとなく謎をかけて唆せて
いるなと受け止めていた。「ところで、筑紫の国へ沢山の軍勢が出征している
ので、宮城の護衛の兵士の数が少なくおぼつかない。身辺警護の兵を増やした
いが精鋭の部隊を派遣しては貰えぬか」と天皇もさりげなく河勝に言った。
「東漢直駒という戦上手の帰化人がおりますがその手のものでは如何でしょう
」と秦河勝は天皇の腹のうちをさぐるつもりで答えた。
「どのような素性の者か」
「お上も御記憶にあろうかと思いますが、物部守屋の討伐戦の時、新しい武具
で装備し、先鋒隊を務めた騎馬軍団の首領が東漢直駒です。武力だけが取り柄
の人間ですが、お上に忠義を尽くしたいと日頃申しております」と河勝が答え
た。
河勝としては十九歳の厩戸皇子が皇位につくためには、崇峻天皇にもう二〜
三年在位していて貰わなければ困るのである。そのためには、強い武力を持っ
た東漢直駒であれば、馬子に命じられた暗殺団が襲撃しても防戦し、天皇を守
ることができるであろうという思いと場合によっては天皇を奉じて豪族を糾合
し、馬子を征伐できるチャンスが生まれるかもしれないという思惑もあった。
秦河勝の脳裏には天皇家と姻戚関係をもちたがっていた父国勝の遺志が稲妻の
ように駆けめぐった。今天皇を奉じて蘇我一族に立ち向かったらどれだけの豪
族がついてくるだろうかとも考えてみた。現在の兵力、経済力を比較したとき
秦氏と蘇我氏とどちらが優位だろうか、経済力では秦氏が絶対的に優位だが兵
力では蘇我氏に劣るかもしれない。さればこそ、軍政官の地位を苦労して手に
いれ諸豪族に多少睨みが効くようになったのだが、諸豪族は秦氏の実力をどこ
まで評価しているのであろうか。そこが問題だが、諸豪族を糾合できればある
いは蘇我氏を征伐できるかもしれない。もし蘇我一族を征伐できたら、その時
には彼が尊敬してやまない厩戸皇子を皇太子に擁立して、崇峻天皇の次の天皇
に推挙するのである。厩戸皇子が即位すれば自分の立場は現在の蘇我馬子のよ
うに朝廷のあらゆる実権を掌握できるかもしれない。ここは慎重に冷静に対応
しなければならないと心に言い聞かせるのであった。
「私の命令はなんでも素直に聞くだろうか」
「それは忠義一途の者ですから、お上の命令ならなんなりと仰せつけ下さい」
と河勝は答えたが、天皇はもしかすると駒に命じて蘇我馬子の謀殺を企んでい
るのではないだろうか、そうであれば蘇我一族を征伐するきっかけが出来ると
心臓の動悸が高まるの禁じえなかった。
「あの時の先鋒隊か、雨のように飛んでくる矢をものともせずに、血路を開い
た働きは見事であった。そのものを配置してくれ」と崇峻天皇は言われた。
河勝は伝令を飛ばして東漢直駒の手のものを配置した。
秦河勝と天皇のやりとりを聞いていた妃の大伴嬪小手子は、蘇我の馬子大臣
に訴えて、天皇を懲らしめて貰うには絶好の機会だと単純に考えた。小手子は
早速馬子の許へ使いを遣わした。
小手子の使者は馬子に訴えた。
「天皇の許へ猪を献上する者がありました。天皇は猪を指さして(猪の頸を切
る如くに、いつの日か私が憎いと思っている人を斬りたいものだ)と言ってお
られました。どうか懲らしめてあげて下さい。それに何をお考えなのか東漢直
駒の兵を宮城へお集めになっております」
密告により、天皇が馬子を憎み攻撃しようとしていると判断した馬子は、直
ちに東漢直駒を呼んで素知らぬ顔で相談した。
「駒よ。天皇が私に兵を向けて戦を仕掛けてくる用意をしているようだ。どう
したらよいか」
「そんなことがある筈はありません」
「何故判る」
「秦河勝様より要請を受けて天皇の身辺警護のために手勢のものを配置したば
かりです」と東漢直駒は何がなんだか判らずに目を白黒させながら答えた。
「そうか。秦河勝の指図で動いたのか。他に何か命令されていないか」
「主上を警護奉れと言われただけです」
「実は天皇が私の首を切りたいと言っていると密告してきたものがいるのだ」
「誰ですか」
「皇后だ」
「ははあ。私が貢物を河上嬪にしか持っていかないので、つむじをまげました
か」
「天皇が私を討つためにお前に兵を集めさせているとも言った」
「それは違います。私は軍政官の秦河勝の指示に従っただけです」
「そういうことか。お前は軍政官の秦河勝と私とどちらが大切だと思うか」
「勿論大臣です」
「それなら、何故宮城へ兵を配置した」
「秦河勝に言われて天皇の身辺をお守りし忠節を誓うためです」
「お前の気持ちは判った。改めて命令する。策は秘なるがよい。兵をいますぐ
引き上げよ」
「それはまずいでしょう。天皇に気づかれると騒ぎが大きくなりますし、秦河
勝が疑いをもちます」
「成るほど。秦一族を敵に廻すと面倒なことになるな」
「御意」
「天皇を弑逆奉る決心をした」
「恐れ多いことです。逆賊になりますよ」
「私が天皇になるのだ」
「本気ですか」
「本気だ。こんなこと冗談でいえることではない」
「そこまで覚悟されているなら、天皇に気づかれぬことが肝要です。私の兵は
そのまま警備させておいたほうがよいでしょう素早く手練を使って一人で行動
することが肝要かと思います」
「なるほど。よく判っているな。その役はお前が果たすのだ」
「恐れ多いことでございます。私が逆賊になってしまいますが」
「私は司法権も掌握している。お前を罪人にすることはない」
「どのようにして天皇に近づきますか」
「十一月三日に東国より調を奉納する儀式を催すことになっている。東国は天
皇の所領の多い所だから必ず天皇は出席なさるであろう。そこでお前は天皇が
着席なされたら、直ちに刀を抜き喉元を突いて弑逆奉ってくれ」
「承知致しました。殺し屋は私の得意とするところです。ところで報酬には何
を戴けますか」
「天皇の嬪河上娘をお前の妻にしてもよい。宮城から略奪しても構わない」
「本当ですか」
「本来なら、お前の一族は帰化人だから皇室と縁組することはできない。だが
河上娘は我が娘であり皇后ではないが妃であり身分も高い。やがて私が天皇に
なれば、お前は天皇の娘を妻にもつことになる。帰化人のお前の一族がこの国
で繁栄していくためには格もあがることになるのだからよい報酬であろうが」
「有り難き幸せでございます」
このような謀議があって駒の手によって天皇は殺された。秦河勝はこの儀式
に天皇を警護する役割で陪席していたが、瞬時の出来事であった。河勝が異変
に気づき、駒を取り押さえようと倒れた天皇の側へ駆けつけたときには一足早
く、駒は戸外へ飛び出し待たせてあった馬に乗って逃げ去ってしまった。
群臣の面前で天皇を殺害したことは蘇我馬子の権力と威厳を示すのに役だっ
た。天皇の遺体は殯宮が営まれることもなく即日倉梯岡陵に葬られた。この時
代の天皇で殯宮も営まれずその日のうちに葬られた例はないから庶人並の扱い
を受けた存在感のない惨めな天皇であったといえよう。
崇竣天皇暗殺の衝撃は大きかった。秦河勝のうけた衝撃もまた大きかった。
天皇の護衛につけた駒が天皇を弑逆するとは考えてもみなかったことである。
群臣達の間からも駒を処罰すべしとの声が高まった。流石の独裁者蘇我馬子も
群臣の面前で天皇を暗殺した駒を庇うことはできなかった。駒を天皇暗殺の下
手人として糾弾しさらに、その妃を盗んで妻としたことを臣下としてあるまじ
き行為だと宣言して兵を差し向け駒を殺させた。駒を処刑したことで日本史に
も稀にしか例のない天皇暗殺の責任は首謀者である馬子に対して問われること
もなくうやむやのうちに不問にふされることになってしまった。
この事件のため任那への外征は中止となったが、馬子は筑紫に派遣されてい
た将軍達に急使を派遣し、内乱のために外事を怠るなと言って動揺を静めた。
二万の軍隊は筑紫に滞留したままで推古朝を迎え五九五年(推古三年)に大和
へひきあげることになる。
崇竣天皇が暗殺された現場に居合わせた河勝は蘇我馬子の凄腕を思いしらさ
れた。天皇から馬子謀殺の謎をかけられたとき、冷静に逃げたことは一族存
続の為にも賢明な対応であったと秘かに胸をなで下ろした。猪を献上したとき
天皇の暗示にうっかり乗って馬子に立ち向かっていたらいまごろは命がなかっ
たであろうと冷や汗をかくのであった。駒の軍団を警護に派遣したのは賢明な
判断であつたと思った。駒が犠牲になって蘇我氏対秦氏の紛争を未然に防止す
ることになったのである。それにしても天皇を弑逆することを思いつくとはと
んでもない悪玉だといまさらのように馬子の悪辣暴虐振りに思いを致すのであ
った。
同時に彼の心従する厩戸皇子にも皇位継承のチャンスが到来したと秘かに喜
んだが即位の時期が問題であると読んでいた。
このとき、後継天皇候補としての有力者は三人いた。敏達天皇の子で早くか
ら太子の地位にあった押坂彦人皇子、用明天皇の嫡長子である厩戸皇子、敏達
天皇と炊屋姫皇后との間に生まれた竹田皇子の三人である。
河勝としては、皇位継承問題がこじれずに厩戸皇子が即位するためには、次
の次をねらうのが得策であると判断していた。このとき厩戸皇子は十九歳であ
ったからただちに即位するには若すぎるであろう。三人の中で一番年長者であ
る押坂彦人皇子がまず即位し、病弱故に治世は長くないであろうからその次に
厩戸皇子が即位するのが理想的と考えていた。問題は、竹田皇子との関係であ
る。英明なことでは厩戸皇子のほうが勝るが、長年皇后の地位にあり発言力の
強い炊屋姫は自分の腹を痛めた竹田皇子を即位させたいであろう。
秦河勝は厩戸皇子の所へ駆けつけた。
「皇子いよいよ天皇御即位のチャンスが到来しましたね」と河勝。
「私には政治をしたいという欲望はない。願わくば御仏の教えをひろめること
に力を注ぎたい」
「勿体ないことでございます。皇子のように聡明なお方が天下をしろしめされ
なくて誰ができましょうや」
「世間は虚仮。唯仏是真」と聖徳太子。
「難しい言葉ですね。世間が虚しく仮の姿であったとしても、御仏の教えを広
めるためにも即位される必要があるのではないでしょうか」と河勝。
「機会に恵まれれば即位しても構わないがその時は、捨命と捨身は皆是死也と
いう心境で統治してみようと思う」
十三
大臣蘇我馬子は炊屋姫のもとへ伺候して次期天皇の人選で相談をした。
「今度の天皇は古来の慣行からすれば、先帝の兄弟に適格者がないため第一原
則の適用はない。第二原則の適用で先帝の直系の皇子ということになると押坂
彦人皇子か厩戸皇子ということになりますが、押坂彦人皇子は病弱で激務に耐
えられないでしょうから厩戸皇子が最有力ということになりますね」と馬子が
炊屋姫に言った。馬子からすれば、父母ともに蘇我一族の血を引く厩戸皇子が
皇位につくことが蘇我一族の繁栄のためには一番良いことだと判断していた。
「竹田皇子だって先帝の直系の皇子ということでは、厩戸皇子と条件は変わり
ませんわ」と炊屋姫がまけてはいない。
「厩戸皇子は十九歳だから天皇になるには若すぎるくらいだと考えております
が、適任者がいないのでここへ落ちつかざるを得ないと思います。竹田皇子は
厩戸皇子より更に若いので厩戸の次ということになるでしょう」と馬子が言っ
た。
「それでは、先帝の皇后が皇位につくことにしては」と炊屋姫は思惑通りこと
が運びそうなので内心笑みをたたえながら言った。
「先帝の皇后が天皇になるという先例はありませんが」と馬子。
「これは敏達天皇在世の頃、私に示された原則です。言わば敏達天皇の遺命と
いってよいでしょう」と炊屋姫
「大三輪逆がそのようなことを言っていたが、書いたものでもあるのでしょう
か」と馬子。
「大三輪逆は敏達天皇の遺訓を書き留めて私のところへ持ってきましたわ」と
炊屋姫は手文庫の中から書きつけを取り出して広げた。
「皇后の期間が長かった点ではそなたということになるでしょうな。穴穂部間
人は、皇后の期間が僅か二年しかなかったから問題にならないでしょう」と馬
子。
「それに穴穂部間人は多目皇子と再婚しているのですから天皇というわけには
いかないでしょう」
「それでは、そなたが天皇として即位されたうえで厩戸皇子を皇太子に指名さ
れるという手順を踏んだほうがよいでしょう。しかし、女帝は初めてのことだ
から群臣に推されて即位するという形をとつたほうがよいと思います。私が推
薦者になりますから一〜二度は辞退されて三回目くらいにお受けになったほう
がよいでしょう。反対がでたときには証拠として敏達天皇の遺訓を開示しまし
ょう。そのときのためにもその文書は、私が一時保管しておきましょう」と馬
子。
「それでは、これを預けましょう」と炊屋姫。
馬子には群臣達の中から女帝の先例はないから如何なものかという異論が必
ず出てくるのに違いないという思惑があった。敏達天皇の遺訓を認めた文書は
馬子の手中にあるのだし、これを記録した大三輪逆はこの世にいないのだから
闇に葬ることができる。そのときには厩戸皇子が皇位につくことになる。これ
は蘇我一族にとって外戚としての地位が永続することを意味する。
群臣の前で蘇我馬子が発言した。
「この度崇竣天皇が崩御されて、次期天皇には候補として押坂彦人皇子に厩
戸皇子と竹田皇子がおわしますが、押坂彦人皇子は御病弱であらせられるし、
厩戸皇子と竹田皇子は重職を担われるにはお二方ともお若過ぎる。ここは、皇
后として長年政務にもかかわられた炊屋姫に御即位願うのが最も良い方法であ
ると考えますので御推挙申し上げます」
群臣達は意外な発言にどよめいたが異議を唱えるものもいない。
「私には任が重すぎるので辞退します」と炊屋姫。
「対外的にも任那の再興等重要な時期なので是非お受け戴きたい」と馬子。
「辞退したい」と炊屋姫。群臣達は隣の人と囁きあっているが意見をいうわけ
でもない。大臣馬子の真意を計りかねてただ顔を見合わせている。
「それでは百官が上奏文を奉ろうではないですか。ここは多事多難の折りです
が、是非お受け下さい」と大連の某が大臣蘇我馬子にとりいるような素振りを
みせながら一方では群臣達の意見を取り纏めるような言い方をした。
「それがよい。皇祖の霊に上奏文を奉ってお受け戴こう」と群臣達は口々に言
った。三度目の要請で炊屋姫は即位することを受諾した。このようにして、
推古天皇が日本史上初めての女帝として誕生し、十二月八日豊浦宮で即位され
た。翌年四月十日厩戸皇子を皇太子にたてられて、摂政とし国政を全て任され
た。
秦河勝は厩戸皇子に皇太子就任のお祝いに駆けつけて日頃気にしていること
を申し述べた。
「皇太子様、今回推古天皇が即位されましたが、崇竣天皇の暗殺はどうも臭い
と思いますがどのようにお考えでしょうか」と河勝。
「東漢直駒が大臣蘇我馬子の命令によって暗殺したのであろう」と太子。
「世間ではそのように考えられているようですが、私の見方は一寸違います」
と河勝「ほうどのように」
「さればでございます。私の見るところこれは皇位纂奪の仕組まれた武力行使
だったと思います」
「おだやかでないね」
「大方の見方は厩戸皇子が即位されて、推古天皇は後見されるとみていました
が、そうはならなくて、いまだかって例のない女帝が即位されました。これは
なにかいわくがありますよ」
「推古天皇が首謀者だったというのかね」
「御意」
「根拠は」
「美しいが故の傲慢さです。皇子も十分気をおつけになって下さい。崇竣天皇
の二の舞にならぬよう御注意が肝要です」
「何故そのようなことを言う」
「竹田皇子が天皇として即位できる年齢になられるまでにあと四〜五年ありま
すがそれまでの繋ぎの即位なのです」
「私が皇太子だが」
「そこが問題なのです。竹田皇子は推古天皇が腹を痛めた皇子です。厩戸皇子
より五歳年下でございましょう。親心としては竹田皇子を即位させたいのはや
まやまですがまだお若い。おそれながら、厩戸皇子も竹田皇子より五歳年長と
はいえ即位するにはまだ早い。そこで摂政という立場をお与えになった。これ
は罠です。厩戸皇子を貶めようとする仕掛けです。きっと暗殺団が太子を狙う
でしょう」
「何故だ」
「厩戸皇子がこの世にいなくなれば竹田皇子に皇位が廻ってくるからです」
「天皇は私の叔母だよ。蘇我大臣は大叔父だよ」
「皇位争奪戦となれば肉親も兄弟もなくなるのです。崇竣天皇だって皇子の頃
兄弟の穴穂部間人皇子の討伐戦に参加したではありませんか。しかも推古天皇
は討伐の詔書までお出しになっている。そのことをよくお考えになってくださ
い」
「人間の心はそんなに虚しいものなのかね」
「皇太子の母上の穴穂部間人妃は用明帝崩御のあと異腹とはいえ子供のところ
へ娶られていかれたのですよ。どなたの差しがねだと思われますか」
「悲しいことだが、大臣蘇我馬子が考えたことでしょう」
「多分、推古天皇の思いつきでしょう」
「何故わかる」
「先の皇后が天皇になる前例をつくるときに対抗馬があっては困るからです」
「そこまで、考えるものだろうか」
「馬子大臣の感化を受ければそうなるでしょう」
「それに美しい人は美しさも幸せも自分で独占したいものなのです。そのため
には、穴穂部間人妃のような美しい人は不幸にならなければならないと思って
いるのです」「なんと恐ろしいことを」
「美しいことは罪悪を作るのです」
「世間虚仮。唯仏是真という言葉が仏典のなかにあるがこのことだね」
「御意。仏の教えを広めねばなりません。恐れながら皇太子が難波に四天王寺
を建立なさったことは仏法を広めるうえからも素晴らしいことでございます」
「物部守屋討伐の折り、四天王に誓ったことだから当然のことだ」
「その当然のことが出来ないのが口先だけで政治を行おうとする野心家達なの
です」
「人の心を捉えなければ政はできないと思う。人の心を支配しなければ
天下の統治は難しいということだろうか」
「恐れ多いことですが皇太子を取り巻く人間関係には非常に難しいものがあり
ますので十分気をおつけになってください。ところでこのような中でどのよう
な方針で政務を行われるお積もりですか。及ばずながら秦河勝は皇太子の為に
一肌脱ぐ積もりでおりますのでお漏らしください」
「まず天皇の権威を高めることだろうね。臣下が天皇を殺そうと思ったりする
ことのできない程、天皇の権威を高めることが必要だと思う」
「仰るとおりです。大臣蘇我馬子も朝廷内の権力を握りこれを強化発展させて
いくためには天皇の伝統的な権威を利用しようとするでしょう。そして官司制
を整備したうえで豪族連合を強化し実際政治の上で実権を握ろうと画策する筈
です。そのためには天皇の地位は尊重しながらも不執政の地位に押し上げよう
と考える筈です」
「崇竣天皇に対してとったと同じ手法によるだろうね」
「推古天皇は女帝だし、大臣の姪だという血族的な関係を考えてもその傾向は
ますます強くなると考えなければなりません」
「されど大臣蘇我馬子と摩擦を起こすことは得策ではない」
「そうです、天皇権力を強化するということを常に頭におきながらも、官司制
を整備し朝廷権力を強化するという大臣の方針には協調姿勢をしめすことが必
要でありましょう」
「そうなると精神面で天皇の権威をたかめることに力を注ぐことを考えなけれ
ばならないということになる」
「推古天皇は直接政務を執られることはないでしょうから、蘇我大臣が実質的
に朝廷を動かすことになるでしょう。しかし、皇太子は将来、天皇になられる
わけだから即位されてからのことを考えて蘇我氏から全ての権力を奪回し、専
制権力の確保を計るよう常に考えておられなければなりませんぞ」
「私は精神面で天皇の権威を高めるためには隋国との外交と仏教の興隆がもっ
ともよい方策だと思っている」
「私が思いますに隋国には早い機会に使者を遣わし挨拶をしておくことが皇太
子の権威を高めることになると思います。その使者には僧侶を同行させ隋国に
おける仏教興隆の実情をつぶさに観察せしめることも肝要かと心得ます」
「使者には国書と貢物を持たせることにしよう」
「それがよいかと存じますが、天皇の権威を示すためには相手が大国であって
も遜ってはなりません」
「私もそう思う。国書を持たせれば返書を持ち帰るはずだから文面はよく考え
なければなるまい」
「それに新羅征伐のことも、隋国に対して理解を求めておくことが大切でしょ
う」
「その通りだ。早く隋国へ使者を派遣する準備を始めることとしよう。それに
は大海原を航海する船を作らねばなるまい」
「御意」
「船は誰に作らせればよかろうか」
「王辰爾の手の者が船作りは上手です。しかし、王辰爾の一族は船氏を名乗っ
て蘇我氏の配下になっておりますが」
「蘇我氏の力をこの際は借りることにしよう。私のほうから依頼しておこう」

「皇太子、隋国に使者を派遣するのも大切ですが、その次に必要なのは新羅征
討軍を臣・連姓氏族から組織するのではなく国造や伴造の部民から徴兵する必
要があると思いますが」
「そうだ。指揮官にもこれまでのように臣・連姓氏族を当てるのではなく皇族
を中心にして編成してみよう」
「それと百済、高句麓に対しても使者を送り、朝貢を求めることが天皇の権威
を高めることになると思います。是非ご検討ください」
「判った。よく考えてみよう。武力で服従させるのではなく心を支配して従わ
せることはできないものだろうか」
「仏の教えの神髄を極めてこれを万民に施せば可能なのではないでしょうか」
「そのためには先達を迎えて仏の心を学ばねばならないね。合わせて、お寺を
各地に建てて仏法を広めなければならない」
「私も仏像を迎えてお寺を建立したいという夢を持っています」
「なかなかよい心掛けじゃ」
十四
新羅征討は崇峻朝からの継続事業であった。馬子の采配で五九一年(崇峻四
年)に筑紫に派遣された二万の大軍は、現地へ滞留のまま天皇暗殺事件を経て
推古朝を迎えたわけだが、渡海することなく、五九五年(推古三年)には大和
へ引き上げた。軍事的には成果が挙がらない作戦であったが、新羅に対する威
圧効果は十分あったものと思われる。五九七年(推古五年)に吉士磐金を使者
として新羅に遣わすとその翌年、新羅は鵲二羽を献上し続いて孔雀を奉り恭順
の意を表した。五九九年(推古七年)には百済からも駱駝一頭、驢馬一頭羊
二頭、白雉一羽が献上された。九州出兵の成果といえよう。
新羅は珍しい動物や鳥を献上し、大和朝廷のご機嫌をとっていたが、貢物は
朝廷を満足させるほどの量ではなかったし、併合した任那を返還しようとしな
かった。
六百年(推古八年)大和朝廷は再び任那復興を目的として蘇我馬子主導のも
とに大将軍に境部臣・副将軍に穂積臣を任命し兵力一万余を預けて新羅攻撃を
決行した。この遠征は成功し新羅王は殆ど抵抗なしに白旗を掲げて、多多羅、
素奈良、弗知鬼、委陀南加羅、阿羅の六城を日本に割譲した。しかし任那とし
て復興したわけではなく割譲の条件は六城の地から産出する金、銀、鉄等の大
和朝廷にとって貴重な金属やその製品、また錦、綾等の高級な織物を新羅が任
那に代わって貢物として献上するという程度の内容のものであった。形の上で
は恭順の姿勢はみせていたが、新羅はこの頃百済と戦って勝っており、国力も
上昇していたので、たやすく大和朝廷の言いなりにはならないぞという気概を
もっていたのか、なかなか約束通り貢ぎ物を送ってこなかった。
推古朝廷ではこの年、六百年に隋に使者を送っており、隋の役人の問い対し
て「倭王は姓は阿毎(天)あめ」「名は多利思比孤(帯彦)たりしひこ」と答
えている。これは天下を統治する天皇厩戸という意味である。この六百年の新
羅遠征は隋に対して新羅を大和朝廷が実力で討伐することの承認を求めようと
する意味を持つものでもあった。
六百二年(推古十年)に推古朝廷はみたび、軍衆二万五千人編成で新羅攻撃
を計画したが、将軍は聖徳太子の同母弟の来目皇子で軍団編成は諸々の神部お
よび国造、伴造等からなり、臣・連姓氏族は参加していなかった。今回の遠征
は摂政として次第に実力を養ってきた聖徳太子が、朝鮮問題の主導権を蘇我氏
等の有力豪族の手から天皇家のもとへ奪回しようとの意図のもとに計画された
ものであった。今度の作戦では渡海準備中に総指揮官の来目皇子が陣中で病死
し、後任に聖徳太子の異母弟当麻皇子が任命された。当麻皇子は難波より乗船
し播磨までさしかかったが同伴した妻の舎人姫王が明石で死んでしまい皇子は
大和へ引き上げた。竹田皇子は今回の作戦が計画された時病の床にあり、本来
であれば来目皇子よりも前に総指揮官に任命されるところであったが、病は回
復せず死んでしまった。このような事故が続いたので遠征は中止されたが皇族
将軍のもとで、大軍の組織化に成功したことの意義は大きかった。
百済と高句麓に対しては新羅遠征軍派遣に先立って、六百一年(推古九年)
に使者を送り任那復興に協力するように要求した。両国とも新羅が力をつけて
くるのを恐れていたから推古朝の申し入れには友好的であった。六百二年には
百済から僧観勒が暦天文・地理の書を携えて来日した。同時に兵術・仙人の術
を伝えた。高句麓からも僧の僧隆と雲聡が来日して帰化しているので両国との
関係は友好的なものであった。僧観勒を謁見した聖徳太子は周囲に居合わ
せた諸太夫に言われた。
「観勒師の三論、成実の高説を教わるにつけ仏に帰依し仏法をますます広めな
ければならないという気持ちはいやますばかりです。私は長年慧慈師に仏法を
教わりましたが、今日はまた観勒師より三論、成実の教説を教わり目から鱗が
落ちた心地です。何か功徳を施さなければと考えますが、幸い私は尊い仏像を
持っています。この仏像を丁重にお祀りし仏の功徳を広めたいと思う者があれ
ば授けたいと思っています。誰か希望する者はいないでしょうか」と聖徳太子
がなみいる諸太夫に聞かれた。
「私にお授け下さい。葛野の地へお寺を建ててお祀りし、このお寺を我が秦一
族の氏寺にしたいと思います」と秦河勝が目を輝かせながら申し出た。
「その方ならきっと大切にお祀りして呉れるであろう。この仏像は弥勒菩薩と
言って百済から将来した有り難い仏像です。ゆめゆめ粗末に扱ってはなりませ
ぬぞ」と聖徳太子は侍従に運ばせてきた仏像を拝みながら秦河勝に向かって言
った。
「有り難いことでございます。長年の願いが叶いました」と秦河勝が弥勒菩薩
に対峙して手を合わせると憑依現象が起こった。秦河勝の体がぶるぶると震え
だし「蘇我一族の未来に何か不吉なことがおきるぞ。因果応報は三世の摂理」
と嗄れた声で喋りだした。事情のわからない諸太夫はざわめいた。
「秦造に神がとりついた」
「神でなくて、異国神がとりついたのであろう」
「物部守屋大連の顔付きによく似ているぞ」
「蘇我氏に余程恨みを抱いているのだろう」
「そうだ、守屋大連の顔と同じだ。恨めしそうな表情をしていることよ」と諸
太夫は口々に騒ぎだした。
「静かに。仏法の功徳で霊にお引取頂きましょう。南無釈迦牟尼仏。南無帰依
仏。南無帰依法。南無帰依僧・・・・・・・・・」と聖徳太子がお経を唱える
とたちまち秦河勝の顔は穏やかになり元の形に戻った。
この場には蘇我氏はいなかったのでことなきを得たが、蘇我氏が居合わせれ
ば秦河勝との間で一騒動おこる託宣であったといえよう。
秦河勝はこの弥勒菩薩を太秦へ持ち帰り蜂岡寺を建立し奉安した。現在の広
隆寺である。
十五
六百七年(推古七年)聖徳太子は第二回目の遣隋使として皇帝煬帝のもとへ
小野妹子を使者として送った。
「海の西の貴国には菩薩のような立派な天子が仏教興隆に励んでおられると聞
いております。私たちは入朝の使者として派遣されてきましたが、仏教をもっ
と学ぶために僧侶数十人も連れてきました」と使いの一行は隋の役人に言って
国書を提出した。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」という言葉が
国書には記されていた。隋からいえば東夷の一つに過ぎない日本が隋を対等に
扱ったこのような文意の国書を提出してくるということは、国際関係に無知で
無礼な態度であるといえた。当然のこととして煬帝は怒った。
「蛮夷の書、無礼なる者有り、またもって聞するなかれ」と煬帝は国書を見て
鴻臚卿(外務大臣)に言った。
この年七月に隋に派遣された小野妹子は半年も経つのにまだ帰ってこなかっ
た。往復の途中で船が難波したのではなかろうか、或いは国書の内容が煬帝の
怒りに触れて使者が抑留されてしまったのではないだろうかと聖徳太子は心配
な日々を過ごしていたが、六百八年四月、妹子一行が筑紫に到着したという速
報が斑鳩宮で待ちわびる聖徳太子の許へ届けられた。
「小野妹子一行の遣隋使が筑紫に帰着しました」と飛報をもたらした使者が言
った。「大儀。小野妹子は無事か」と聖徳太子は使者を労いながら言った。
「はい。隋国よりの使者裴世清様一行十二人を伴われました」
「そうか。あの大国の隋が使者を差し向けられたか。早速国使を歓迎する準備
にかからねばなるまい。まず難波吉士雄成を出迎えのため筑紫へつかわせ。次
に国使を歓迎する館を難波に建てよ」と聖徳太子はテキパキと指示をした。
妹子の一行は筑紫で雄成の出迎えをうけてから大和へ向かった。豊前から再
び船に乗り瀬戸内海を通って六月十五日には難波の津へ入ったが津の入口には
飾り船三十艘が出迎えるという国をあげての大歓迎であった。国使は新築なっ
た迎賓館にはいり、中臣宮地連麻呂・大河内直糠手・船史王平が接待に当たっ
た。中国語の話せる船史王平が通訳にあたった。
隋の国使が難波で歓待を受けている間に、小野妹子は一足早く飛鳥の都へ戻
り、復命した。
「只今、帰国致しました。国書は確かに隋国王煬帝に提出致しました」
「煬帝のご機嫌は如何であったか」と聖徳太子が聞いた。
「使者は直接皇帝と謁見することはゆるされませんでしたが、鴻臚卿を通じて
煬帝のご機嫌は上々と承っております。返礼の国使を差し向けられたことをご
覧になればそのことは御理解戴けるものと存じます」
「煬帝からの国書は」
「私が帰還の時、授かりました。まことに申し訳ないことですが、帰国途中百
済国を通っているときに、百済人の襲撃を受け国書を奪われてしまいましたの
で残念ながら提出することができません。同行した裴世清が同じ内容の国書を
持って参ります」
「他国宛の国書を盗んでも何の役にもたたないと思うが」
「百済国では東方の大国大和と西の大国隋が軍事同盟を結んで百済国を襲撃す
るとでも思ったのではないでしょうか。そのために煬帝からの国書は是非見て
みたかったのだと思います」
「盗んで見たはいいが、内容は儀礼的なことばかりでがっかりすると同時に安
心もしたことであろう」と聖徳太子が言った。
「いずれにしてもけしからん。使者たるものは命をかけても大国の国書は守る
べきなのに、怠慢も甚だしい」と大臣蘇我馬子が言った。
「そうだ。国使の任務をなんと心得る。厳罰に処すべきでありましょう。流刑
に値いしましょう」と群臣の一人も賛同した。
「少しまたれよ。その考えかたは如何なものでしょうか。遣隋使は大変な危険
を冒して使命を果たしたのです。そのことは隋国の使者を一緒に連れて帰国し
たことで証明されているでしょう。国書を盗まれたことは確かに失策ではあり
ますが、その影響を考えたとき、百済国に日本の国威を見せつけることにこそ
なれ、これを損なうことはない筈です。功績は失策を相殺してあり余りましよ
う。その功績をこそ評価してしかるべきだと考えますが如何でしょうか」と秦
河勝が言った。
「小野妹子が国書を失ったのは確かに罪ではあるが、隋国の使者が多数滞在し
ている折りでもあり、軽々しく罰することはできない。使者達への聞こえがよ
くない」と聖徳太子は仰った。妹子達遣隋使一行の苦労を理解した上で秦河勝
の意見を採り入れた処置であった。
隋の使者達は難波で一月半も待たされたのち、八月三日に大和へ入ることに
なり、飾り馬七十五頭に迎えられて大和へ入り、海石榴市に到着した。出迎え
て挨拶したのは額田部連比羅夫であった。十二日隋の国使一行は阿部臣鳥と物
部依網連抱の案内役に導かれて朝廷に入った。諸皇子・諸王・群臣がそれぞれ
に黄金の髪飾りを頭につけて着飾っている。ある者は錦や紫地に刺繍をした手
の込んだ衣服を着、あるものは五色の綾・薄絹を纏っている。盛装した貴賓列
座の中を国使の一行は庭中に進み大門の前に置かれた机の前で立ち止まった。
裴世清は捧げ持った献上品を置き、やおら国書を懐から取り出して捧げ持ち、
再拝を二度繰り返して使いの旨を言上した。満場寂として声なく裴世清の朗々
とした中国語が響きわたった。
「隋の皇帝から倭の皇(すめらみこと)にご挨拶をおくる。使者の大礼小野妹
子らが訪れてよく意を伝えてくれた。自分は天命を受けて天下に臨んでいる。
徳化を広めて万物に及ぼそうと思っている。人々を恵み育もうとする気持ちに
は土地の遠近はかかわりない。倭の皇は海の彼方にあって国民を慈しみ、国内
平和で人々も融和しているし、皇には深い至誠の心があって、遠く朝貢される
ことを知った。懇ろな皇の誠心を自分は喜びとする。時節は漸く暖かで私は無
事である。鴻臚卿裴世清を遣わして送使の意を述べ別に贈り物を届けさせる」
と国書には書かれていた。
裴世清の国書朗読が終わると阿部臣が国書を受け取り、大伴連囓が取り次い
で机の上に置き後刻天皇へ侍従が奏上することになる。この儀式には推古天皇
は姿をみせていない。隋の煬帝と同格である以上、国使に天皇が親しく謁見す
ることはできないのである。このあたりは聖徳太子が秦河勝と相談して隋使に
与える印象と列席した諸皇子、諸王、群臣に天皇の権威を実感させるよう計算
して作り上げた儀式の運営方法であった。馬子を始め蘇我氏一族もこの隋使送
迎の儀式には姿をみせていないのであるが、これは聖徳太子が企画し実施した
対隋外交の進展を蘇我氏が快く思っていなかったことの現れであった。隋使の
一行は数日間朝廷での饗宴に臨んでから難波に戻り、九月十一日帰国の途につ
いた。この時、再び小野妹子を大使として遣隋使が派遣された。このとき煬帝
にあてた国書には次のように記されていた。
「東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます。使者鴻臚寺の掌客裴世清らがわ
が国に来られて、久しく国交を求めていたわが方の思いが叶いました。この頃
漸く涼しい気候となりましたが、貴国はいかがでしょうか。当方は無事です。
今大礼小野妹子、大礼難波吉士雄成らを使いに遣わします。意を尽くしません
が謹んで申し上げます」
このとき隋に派遣されたのは、学生倭漢直福因、奈良訳語恵明、高向漢人玄
理、新漢人大圀、学問僧新漢人日文、南淵漢人請安、志賀漢人慧隠、新漢人広
済ら合わせて八人であった。
隋からの使者を送りだしてから二年ほど経った六百十年に今度は百済と新羅
からの使者が筑紫にやってきた。蘇我馬子は迎えの使者を筑紫へ派遣した。十
月八日新羅と百済の使者が都に到着することになったので、額田部連比羅夫を
新羅の客を迎える飾り馬の長に任命した。百済の客の担当には膳臣大伴を任命
し同じく飾り馬で迎えさせることとした。両国の使者は大和の阿刀の河辺の館
に旅装を解いた。翌日十月九日には秦河勝と土部連莵が新羅の導者、間人連塩
蓋・阿閇臣大籠が任那の導者に任命されて朝廷の庭で使者謁見の儀式が行われ
た。
両国の使者は導者に案内されて、南門から入って粛々と進み御所の庭に立っ
た。頃合いを見計らって、大伴咋連、蘇我豊浦蝦夷臣、坂本糠手臣、阿倍鳥子
臣らは席から立って中庭に平伏した。両国の使者は拝礼して使いの言葉を言上
した。四人の太夫は前に進んで今聞いた言葉を蘇我大臣に申し上げた。大臣は
起立して政庁の前へ進んで使いの言葉を聞いたのち両国の使者へ贈り物を授け
た。今回の儀式には聖徳太子は姿を見せず蘇我馬子を中心に儀礼が行われた。
隋国使者裴世清を迎えたとき、聖徳太子の儀式運営が天皇の権威発揚に大いに
預かって力あったことに対抗する意味もあって、今回の外国使者謁見の儀式は
蘇我一族が取り仕切ったのである。聖徳太子の寵臣である秦河勝が新羅の導者
に任命されたのは、隠然たる勢力を養ってきた秦一族の実力を流石の馬子も無
視できなくなっていたからである。
十六
聖徳太子の生母穴穂部間人皇后が六百二十一年の暮れに崩御された。その
翌月の正月に聖徳太子は母の後を追うかのように悪性の癌にかかって床につ
いた。知らせをうけた秦河勝は病床に太子を見舞った。
「太子の御容態は如何ですか。お見舞い申し上げます」と太子の枕元で看病
している妃の一人である膳大郎女に秦河勝は声をかけた。
「これは秦河勝殿。太子の容態は良く有りません。看病していても居たたま
れない程のお苦しみようです」と膳大郎女は看病で窶れた顔で秦河勝に訴え
た。
「それはいけませんな。私に代われるものなら替わって差し上げたいもので
す」
「私もそう思っているのですが、こればかりはままなりません。太子のお苦
しみようを見るのが切なくて」と目に涙を湛えている。
「どうでしょうか。太子と等身大の釈迦像を造って差し上げて仏の功徳をお
願いしては」と秦河勝が提案した。
「そうだ、よい所に気がつかれた。早速発願し造仏にとりかかりましょう」
と見舞いのために枕辺に侍っていた膳大郎女の兄が賛意を表した。
「それがいい。もしもこの病が現世で治らないものであるならば、早く成仏
して御霊が極楽浄土に安住できますようにとの願いを込めて差し上げましょ
う」と山背大兄皇子はじめ太子ゆかりの皇子、王妃達も賛同した。
しかしながらその甲斐もなく寝ずの看病をしていた膳大郎女も病に倒れ、
太子と枕を並べて病臥することになってしまった。一族、群臣の願いも虚し
く膳大郎女が二月二十一日に崩御し、後を追うように翌日、聖徳太子も薨去
した。大和朝廷における天皇の権威を高めることに挺身し、遂に天皇になる
ことができず皇太子のままで生涯を終えた四十九才の人生であった。
秦河勝の落胆は大きかった。信仰上の先達であり、天皇となり理想を実現
する日を夢見て後ろ楯となって支えてきた太子のいないこの世は生きていく
に甲斐のない世界であった。河勝は蜂岡寺に籠もり聖徳太子から授かった弥
勒菩薩の像と対峙してひたすらに太子の御霊が西方の極楽浄土へ昇華安住さ
れるようにと祈るのであった。
日本書紀は万民の嘆き悲しむ様子を次のように記録している。(講談社学
術文庫宇治谷孟現代語訳日本書紀下巻より抜粋)
「天下の人民は老いたものは愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえも
分からぬ程であった。若い者は慈父慈母を失ったように悲しみ、泣き叫ぶ声
は巷にあふれた。農夫は耕すことを休み、稲つく女は杵音もさせなかった。
皆が言った。(日も月も光を失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰
を頼みにしたらよいのだろう)と」翌年の秋七月に新羅と百済は大使とし
てそれぞれ奈末智洗爾、達率奈末智を遣わし共に朝貢し、泣き弥勒の仏像一
体及び金塔と舎利を献上した。仏像は秦河勝が聖徳太子の菩提を弔うためひ
たすら祈りを捧げている葛野の蜂岡寺へ安置された。また金塔と舎利は四天
王寺へ納められた。
秦河勝は蜂岡寺で聖徳太子の菩提を弔う瞑想の日々を送りながら聖徳太子
の事跡を回想する。既に六十才になっており頭にはいつしか白いものをのせ
ていた。
「聖徳太子の生涯は蘇我氏との戦いであったと一言で総括できるのではない
か。蘇我一族の血が流れる父母を持ちながらなお天皇家の一員として、天皇
家の絶対的権威を高めるために蘇我一族の叔父、兄弟達と対峙していかなけ
ればならない宿命を心の中ではどのように消化しておられたのであろうか。
蘇我馬子は老いたとはいえ、まだその勢力は衰えていない。彼の地位は冠位
を超越しており、官司制の統率者として、依然として官僚達を牛耳っている
し、豪族連合の上に張りめぐらせた権力基盤は聖徳太子の努力によっても殆
ど微動だにしていない。しかし、この二十年程の間に何かが変わってきてい
る。太子は対隋外交に積極的に取り組まれた。天皇から隋国皇帝にあてた国
書は対等な立場に立った文面であり、隋国皇帝の怒りを買ったとは言うもの
の、大国の隋から日本の天皇宛に使者を出させるという快挙をなし遂げられ
た。官吏達は、さすが太子様だ、天皇様だとその力量を評価し有り難がるよ
うになってきている。その天皇の有り難さを思い知らせるようにと天皇の歴
史や国の歴史、臣・連以下の諸氏族の歴史の編纂までおやりになった。この
歴史の編集には蘇我馬子も参加させたが歴史の古さとなると現在権勢を誇る
蘇我一族といえども天皇一家には及ばない。蘇我一族と対抗するため、自分
の先祖は昔、天皇の皇子であったとか御落胤であるといいたてるものまで現
れてきている。それだけ天皇一家の権威が高まってきた証拠ともいえるのだ
ろう。そういえば、仏教興隆についても数えれば、四天王寺、斑鳩寺、中宮
寺、橘寺、池後寺など多くのお寺を建立されているので、その信心深さから
いけば蘇我氏を凌駕するまでになったのではなかろうか。排仏だ崇仏だと騒
いでいた頃は蘇我氏が排仏派の妨害をうけながらも仏教をこの国に広める中
心的役割を果してきた。仏教への最初の帰依者は蘇我氏であったということ
を人々は忘れて、仏教興隆と言えば聖徳太子とイメージするまでになってき
ているではないか。こう考えてくると現実政治面・物質面では朝廷内におけ
る蘇我氏の優位は動かし難いが少なくとも精神面での天皇の権威は蘇我氏を
上回るようになってきている。このことが、蘇我氏のあせりとなって遺児で
ある山背大兄皇子一家に災いを及ぼすことにならなければいいのだが・・・
馬子は老齢だから円くなってきており、もうあくどいことはしないだろう。
蝦夷は比較的公平・慎重な性格で温厚な人柄だといわれているが、まだまだ
油断はできない。その子の入鹿は若いのに傲慢・勝気で自尊心が人一倍強い
ようだから特に警戒が必要だ。そうだこのことも祈念しておかなければなら
ないだろう。それにしても、推古天皇はもう七十才が近い。随分年をとられ
たものだ。自分が腹を痛めた竹田皇子に皇位を譲りたいばかりに、自ら天皇
になるという策謀をたてて、うまくいくようにみえたが、頼みとする竹田皇
子はあえなく病で倒れてしまった。ご自分自身こんなに長生きするとは思わ
れなかったのだろうが、いままた聖徳太子にも先立たれてしまわれた。これ
が人間の業というものであろうか。推古天皇が御健在のうちに早く、山背大
兄皇子を皇太子に指名して戴くよう運動しなければなるまい。これが聖徳太
子の菩提を弔う最善の方法かもしれない」
六百二十八年推古天皇は後継者を決めないまま七十五才で崩御した。三十
六年間に及ぶ治世であった。推古天皇の遺詔をめぐって始まった皇位継承の
争いは、敏達天皇崩御後の争いと同じような性格のものであるとしか秦河勝
の目には映らなかった。河勝は皇位継承をめぐる争いがおきるのは天皇が生
前、勇気をもって皇太子を指名しておかないことに最大の原因があると考え
ていた。またしても推古天皇は皇太子を決定しないで争いの種を残したまま
他界してしまわれた。河勝は推古天皇が即位したとき聖徳太子に「美しいこ
とは罪悪です」と言ったことを思い出しながら、このドグマは正しかったこ
とが証明されたと思った。
皇位は聖徳太子の長子の山背大兄皇子と押坂彦人太子の子の田村皇子を支
持する二派に別れて争われることになった。山背大兄皇子は用明天皇の孫で
あり、田村皇子は敏達天皇の孫で年はいずれも同年の三十六才なので血統の
良さでも年齢の点でも甲乙つけがたかった。この頃馬子は既に世になく蝦夷
が大臣になっていた。蝦夷の叔父境部臣摩理勢が山背大兄皇子を支持して運動
を始めたので、これが刺激となって蝦夷は境部臣摩理勢を強引に攻め殺して田
村皇子を即位させた。舒明天皇である。舒明天皇は十三年程の治世ののち皇太
子を定めないまま六百四十一年崩御した。後継天皇の候補者には舒明天皇の皇
子として古人皇子と中大兄皇子の二人がいた。そして舒明天皇と皇位を争った
聖徳太子の皇子山背大兄皇子も健在で有力候補に数えられていた。三者三竦み
の状態にあり、群臣会議では天皇を決めることができず、舒明天皇の皇后宝皇
女が皇位を継いで六百四十一年皇極天皇となった。推古天皇が即位したときと
全く同じパターンの女帝の出現であった。
蘇我蝦夷は六百四十三年病気と称して参内せず大臣のしるしの紫の冠を天皇
の許可なく入鹿に授けて大臣の地位を与えた。入鹿の専横がはじまったのであ
る。その手始めに入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇太子にするために
は有力な対立候補である山背大兄皇子を倒すことが必要だと考えて、巨勢臣徳
太・土師娑婆連を斑鳩に送り込んで山背大兄皇子の宮を不意打ちさせた。入鹿
側の攻撃に対して奴の三成をはじめ舎人数十人が防戦した。攻撃側の土師娑婆
連を討ち取り攻撃を一時中止させるまで善戦したが、城砦ではないので防ぎき
れず、山背大兄皇子は隙をみて妃や側近を連れて生駒山に逃れた。
「ひとまず、深草の屯倉まで落ち延び、そこから馬を乗り継いで東国へゆき、
領地の乳部を根拠地にして兵を集めて反撃すれば必ず勝つことができます」と
三輪文屋君が再挙を勧めた。
「お前の言うように場所を選んで挙兵すれば、あるいは勝つこともできるだろ
う。深草へいけば秦河勝の一族もいるし、山背から兵を集めて助力してくれる
であろうが、戦場になった場所の無辜の民に苦しみを与えることになる。それ
は私の信条に反することである。私は潔くこの身を逆賊共に与えることにした
い」と山背大兄皇子は言って山から下り、再び斑鳩寺へ入って子弟、妃ともど
も従容として自決の場へ臨んだ。太秦にひきこもって隠遁生活を送る河勝
のもとへも都の惨事は伝わった。
秦河勝は山背大兄皇子一族の自決の様子を伝え聞いて、「捨命と捨身とは皆
これ死なり」という聖徳太子の思想を悟得し実践したのは山背大兄皇子であり
一族が従容として死に赴いたのは菩薩行の実践であったのかと今、初めて理解
し粛然とした気持ちになるのであった。
秦河勝は自らの人生を顧みて、政治の表舞台に飛び出したいとはやる心を戒
めて常に裏方に徹し奢ることなく、経済力の向上に力を注いできたことが秦一
族の存続繁栄にとって如何に賢明な選択であったかを思うのであった。思えば
父の国勝は蘇我氏の真似をして娘を入内させて天皇の外戚として権力を握ろう
と夢みていたことがあったが、自分は必ずしも気乗りがしなかった。政治に手
をだしたくないという気持ちが本能的に強かった。崇竣天皇から唆されたとき
が一番危なかった。もしあの時、蘇我氏と対峙していたら今頃は山背大兄皇子
一家のような運命になっていたであろう。以後秦河勝は努めて政治や軍事の表
舞台にでることは避けて仏法の興隆にこそ精を出そうと決心したのである。
十七
大化の改新の始まる直前の六百四十四年東国の富士川のほとりで虫を祭る新
興宗教が流行の兆しを見せていた。教祖は大生部多といい、祭神は常世の神と
称する虫であった。その虫は長さ四寸あまりで親指ぐらいの太さで緑色に黒い
斑があり蚕によく似ていた。教祖の大生部多は人の心を捉えるのがうまく、常
世の神を祭れば富と長寿が得られると説いて回っていた。「常世の神に捧げる
お布施の量が多ければ多い程、貧しい人は富を得、老人は若返る」という神の
お告げがあったと巫女達にしゃべらせていた。この言葉に乗せられて村里の善
男、善女達は、家財を投げ出し、酒や野菜や馬、牛、羊、豚、犬、鶏等の家畜
を道端に並べて「新しい富が入ってきたぞ」と連呼しては歌い踊りながら屯宅
の方へ誘導されていくのである。群衆は煽動されているのもわからずに、恍惚
として屯宅を襲い、手当たり次第に米や布を持ち出す暴徒の集団になっていっ
た。大生部多が巧みに民衆の心をつかみ、唆して仕組んだ朝廷に対する反逆で
あった。規模が次第次第に大きくなっていくが首謀者の大生部多は巧みに隠れ
て指令を出しているので騒動は収まらず、東国の国造の手では鎮圧することが
できなかった。
「利益誘導して人心を惑わせるようなものは神でも仏でもない。大生部多は世
の秩序を破壊し人心を惑わす邪教の元凶であるから成敗しなければならない。
それが神祇を司り、仏教を崇拝する秦一族の務めであろう。私が世の中にお返
しする最後のお務めとなろう」と宣言して秦河勝は精鋭の手勢を連れて出動し
た。秦河勝が念力をかけて透視すると大生部多は富士山麓の溶岩の中を迷走す
る風穴の中に潜んでいることが分かった。大生部多は秦河勝の手の者に捕まり
成敗された。
人々は「太秦は神とも神と聞こえくる常世の神を打ちき罰ますも」という歌
を作って秦河勝の功績を讃えた。歌の意味は太秦の河勝は神の中の神という評
判が聞こえてくるよ。常世の神といいふらした者を打ち殺したのだからという
ことである。
このとき河勝は八十二才の高齢であった。精力を使い果たしたのか凱旋する
と病床についた。
六百四十五年六月十一日に秦河勝は「明日、大変なことが起きる」と言い残
して病没した。奇しくも蘇我入鹿が大極殿で中大兄皇子らに暗殺される日の前
日であった。
十八
京福電鉄嵐山線帷子ノ辻駅から徒歩で十分程の所に「蛇塚古墳」と呼ばれる
横穴式の前方後円墳が残されているがこれは秦河勝の墓とみられている。巨石
を積み上げた幅四米、高さ五米、奥行き六米の石室が残されている。これは蘇
我馬子の桃原墓に擬されている奈良の石舞台と同年代の七世紀頃に作られた古
墳であり、その規模の大きさから秦氏の実力の程が窺われる。蛇塚古墳の東方
にも天塚古墳が残されており、秦氏一族の古墳とみられている。
また京福電鉄嵐山線蚕の社駅から北へ徒歩五分のところに「木島坐天照御魂
神社」があるが俗に「蚕の社」で通っている神社である。本殿東側にある養蚕
神社は生糸を扱う人の信仰が厚く、秦氏の本拠地に鎮座していることは養蚕と
機織りの技術に秀でた秦氏になんらかの形であやかろうとして建立されたもの
であろう。(了)

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無縁仏の来歴・・・或る労災事故の顛末


1.
播磨平野の風物詩は塩田である。イオン交換膜を利用した製塩工場で塩が造られるようになってからは、あの広大な塩田にも所々住宅や工場が立ち並び始めていた。それでも未だ姫路近郊にある極東硝子高砂工場のだだ広い敷地の隣には、川を隔てて流下式塩田が涯てし無く拡がり、長閑な景色を作りだしていた。塩田ののどかさとは対照的に、ここ極東硝子高砂工場の構内はショベルカーが蟷螂のようにショベルを持ち上げ、ダンプカーが慌ただしく出入りしている。整地の終わった一角には、クレーン車が鉄骨や機器を吊り上げており、ヘルメットをかぶった作業員達がせわしなく立ち働いている。クレーン車の隣には建て方の終わったスレート葺きの硝子工場の建物が威容を誇っている。

新鋭の硝子工場の建設現場から1㎞ほど手前の一角には古ぼけた耐火煉瓦工場がほこりにまみれて新工場を羨むかのようにみすぼらしく立ち並んでいる。

「今日は応募者は一人もありませんでした。明日は10時から梅田の阪神デパートの選考場へ行ってきます。あまりあてにしないで下さい」と部下の白石がハンカチで額の汗をぬぐいながら報告した。夏だというのに、煉瓦工場の粉塵が舞い込むので窓を開けることが出来ない。扇風機は徒に生暖かい澱んだ空気を掻き混ぜているだけである。

門川久の執務している事務所は、事務所というにはあまりにもみじめな建物で木造の倉庫を改造した、台風が来る度に屋根が飛ばされやしないかと心配になるほどの代物である。
「そうか、今月はまだ10人しか採用出来なかったわけだね。九州の方は確率がいいようだね。矢吹君からは、昨日博多で3人応募者があったという連絡があったよ。こうなったら手と足さえ付いていればよしとしなければならないね」
門川久は自嘲するように言った。
門川久は大学を卒業すると極東硝子へ入社した。最初の任地は横浜の硝子工場であった。労務課に配属になり、一年半ほど労務管理の基本的な業務を実地に体験した。その後、定期人事異動で本社に転勤となり二年間人事企画の仕事に従事した。彼が本社で人事企画の仕事に従事している頃、日本は高度成長の波に乗っており、彼の会社も設備投資を積極的に行い、耐火煉瓦の単一工場であった高砂工場の構内の空閑地にカラーテレビのブラウン管用硝子バルブの製造工場を建設することになった。

カラーテレビは造れば造る程売れ、ブラウン管用バルブの増産を電気メーカーから求められ、シェアーの拡大を図って、次々に新鋭の設備を作る競争をしているかの如き観を呈していた。工場が稼働する一年前に門川久はこの地へ転勤を命ぜられ、着任と同時に新しい工場の充員のために、西へ東へと走り回った。とにかく一人でも多くの若い従業員を採用することが使命であった。人事管理の高邁な理論も理想もそこでは通用しなかった。

人、人、人、集めることこそが会社における正義であった。しかも、極東硝子の作業は三交代勤務であり、高熱環境下作業である。作業環境はすこぶる悪い。今日3人採用したと思ったら次の日には5人辞めていた。いくら採用しても人数は増えなかった。若い労働者は少しでも賃金の高い会社へ移動していく。就職支度金欲しさに応募してくるずるい者もいた。

組合は新工場の稼働を目前に控えて、人数が増えるどころか逆に少なくなる現状に対して、定員制を盾にして激しく会社の無策振りを攻撃してきた。
「現有設備の定員さえ、満足に確保できていないのに、新設工場の人手は確保出来るのか」
「定着対策をもっと充実させなければ、いくら人を採っても、辞めていく人間が多くて会社の充員活動は徒労に終わるのではないか」などと言うのである。

一方、新工場臨時建設部の担当者は、半年後の稼働を目前に控えて、新規労働者の訓練をしたいから早く人を入れてくれと催促してきている。
久は労務課の充員担当者として針の筵に座らされているような気持ちでこれらの言葉を毎日聞いていた。そのうえ、基幹要員を九州の工場から受け入れるための集団転勤の仕事も忙しさに拍車をかけた。受け入れ施設を整えるために鉄筋アパートも5棟建設中であり、建設業者との打ち合わせが毎日行われる。

地域の住民からは、日照権についての苦情もくる。やっと地域住民との応接を終わって、帰社すると会社を辞めたいから話を聞いてくれと言って、若い従業員が久の帰りを待っている。労務課の若手の係員はそれぞれに、九州、山陰へと人の募集に散っているから、いきおい、久が一人一人と応対して、ダメと判りながら説得しなければならない。欠員の補充さえ十分出来ない状況だから、無理な人員編成をして現場で怪我人が出る。怪我人が出れば、監督署へ届けたり家族との応対で余計な仕事が増えてくる。定着対策の一環として行っている若年層従業員のクラブ活動、懇親会という名目の宴会にも付き合わなければならないので、体が幾つあっても足りないと思えるのである。労務課員は課長、係長から係員の女子に至るまで過労気味であった。製造サイドは製造サイドで、新工場の建設と既存設備のフル操業のため忙しく立ち働いており,工場全体が一種の狂乱状態に陥っていた。

このような忙しい毎日の生活が続き、毎晩遅く疲れて独身寮に帰ってくると、久は自分は何のために働いているのかと自問してみるのであった。
新しい工場が稼働を開始すれば、今ほど雑用は多くはないであろうが、人の採用の仕事はもっと、増えてくるだろう。一体あと半年の間に新工場を動かせるだけの人員が確保できるであろうか。常に久の頭から離れることのない悩みであった。

新工場の編成人員は、500人でそのうち基幹要員として、九州から150人の集団転勤を受け入れることになっている。残りの350人のうち、150人は来年3月に高校を卒業してくる新入社員である。戦力として使えるまでには入社後、少なくとも半年はかかる。不足する200人は中途採用で充足しなければならないが、まだ、50人ほどしか採用できていない。あと150人集めることは不可能に近い。脱落する者を考えれば、300人は採用しなければ安心できない。6ケ月間に300人採用するとなれば、毎月50人宛である。ところが現実に、毎日採用面接を三箇所で行っているが、応募者の数自体が一日平均二人で、一ヵ月に採用できた人間は20人ほどである。とても無理な相談のように思われる。

久は何回か現在の労働情勢、雇用情勢についてレポートを書き、現在の生産計画、新工場の建設計画自体に充員の面で無理があるから計画の変更乃至は、世間相場を無視した大胆な労働条件の改訂、少なくとも賃金水準の全面的な改訂が必要である旨の報告を行った。しかし、新工場の計画通りの稼働は至上命令であり、労働条件の改訂は全社的な問題に波及するから出来ないというつれない回答を貰っただけであった。そして与えられた条件のもとで与えられた目的を達成するのは、社員の務めであり、腕の見せどころであるという冷たい補足がつけられていた。

久は、その年の自己申告用紙に再び現在の雇用情勢下では、現在の条件のままで、予定されている新設工場の予定通りの操業開始は雇用面で困難であるから、既設の工場から、集団転勤者の人数を増やすか、或いは操業開始時期を半年遅らせるか検討して欲しい旨を書いて提出した。

自己申告書は課長を経て本社の人事部長にに提出される建前となっているが、久の自己申告を読んだ課長は久を呼んで言った。
「門川君、君の気持ちはよく判るし、私自身、君の意見に賛成したい。だがね、サラリーマンというのは我慢が大切なのだ。君の自己申告を本社へそのまま提出したら、君の無能力振りを公表する結果となるよ。君が無能だとは僕は思っていないが、結果としてそういう評価になってしまうのだよ。考え直してみてはどうだ」
「課長、お言葉ですが今のままの状態が続いたら、この工場の管理部門の人0は皆潰れてしまいますよ。まるで気違い沙汰じゃぁないですか。明けても暮れても、人、人、人。人を採用するためには、学校の先生に女まであてがってまるで女郎屋のやりて婆さんじゃありませんか。そのうえ、組合のダラ幹共と取引をして、攻撃の矛先を変えさせようとしたり、全く吐き気のする状況ですよ。そう思いませんか。こんなことになるのも、要は現在の工場新設計画に無理があるんですよ」久は堤防が切れたように喋りだした。
「君は若いな。もっとよく考えろよ。君は独身で家族がいないから無鉄砲なことが言えるけれども、この世の中は喰うか喰われるかなんだ。我慢してとにかく頑張るしかないんだよ。結果として人が集まらなくて、工場が動かなかったとしても、稟議経営のもとでは責任は分散されてしまうんだ。君がよしんば正義漢ぶって正論を唱えると、御政道を批判したことになって君の立場もなくなるし、第一、上司である私の立場が困るじゃぁないか。サラリーマンとはそのような宿命を持っているんだよ」
「課長、私はもう疲れたんですよ。皆も疲れているでしょう。言うだけのことを言っておかないとあいつは駄目な奴だったと言われるだけで終わりになってしまうでしょう」と久は反駁した。
「それは、言っちゃぁ悪いが、君の自惚れというものだよ。ごまめの歯ぎしりとしか聞いては貰えないよ。ここは忍の一字さ」と悟りきった顔で課長は言った。
「でも課長、今の工場の状態はまるで、気違い沙汰じゃあないですか。労務課員は人集めで皆疲れている。製造は増産に次ぐ増産の指令に追いかけ廻されている。臨時建設部は工期の短縮で疲れている。誰かが言わなければ工場全体がのびちゃいますよ。製造の作業員は定員割れのところへ増産を割り当てられ残業の連続ですよ。今に不満が爆発して大変なことになりますよ」
久はいい加減うんざりした顔になってきた課長になおも食い下がった。
「とにかく、工場新設計画の延期は絶対に出来ないことなんだから、黙っていたまえ。疲れたのなら一週間休暇をとりなさい。人間忙しい時ほど休養が必要なのかもしれないからね。もう一度だけ言っておくが、君の自己申告書は書き直したほうがいいよ」
課長はそう言い残すと席を立った。

久は釈然としないけれども自己申告書を書き直して提出することにした。
久は自己申告書を課長に指摘された通り書き直しながら、何というつまらない制度を会社は作ったのだろうかと思った。そもそも、久が本社で労務管理の勉強をしていたとき、得た知識から言えば自己申告は自分が会社に対して言いたいこと、聞いて貰いたいことを素直に書くところにその本来の趣旨があった筈だ。久は本来の制度の趣旨に則って言いたいことを書いたのだ。
ところが課長は書き直しを命じた。建前と本音の乖離。日本的発想の形式がここにあった。本音は決して正面切って打ち明けてはならないのである。正論として吐くのはあくまで、建前の議論でなくてはならない。本音は胸の奥底に秘かにしまっておいて心ある人に察してもらうしかないのである。何という非合理な表現の形式であろうか。本音を察して貰える人があればよいがもし上司に鈍感な人がいて本音を察して貰えず、建前の議論をま正直に受け取られたとしたら何という滑稽な悲劇がそこに起こることであろうか。

久は自己申告用紙に次のように書いて提出することにした。
『現在当工場は建設の槌音も高く、新鋭工場の早期稼働に向かって、臨時建設部、製造部労務部ががっちりスクラムを組んで多忙を極めている。現在の雇用情勢下にあっては、短期間に500人の編成人員を充員することは至難のことであるが、当工場の使命の重大さを考えるとき、泣き言を言っている場合ではない。何としても工場が稼働を開始するまでには、目標の500人を揃えるべく、求人活動を精力的に展開している。当工場における労務部の使命は充員を一日も早く完了することであると認識している。』

久は白々しい気持ちで、以上のように書き終えると我ながら抽象的で中身のない文章だなと思うのである。久は書きおえた自己申告書を封筒に入れて課長に提出すると、一週間ほど休暇を戴きたい旨申し出て休養することにした。

人、人、人に明け暮れて過労気味だったので、一週間の自由な時間は限りなく貴重な時間だと思った。

仕事を離れてホットした時、頭の中へヒョコッと浮かんだ想念がある。この想念は夏の空に突然わきでた入道雲のようにむらむらと大きく勢いを得て久の頭の中一杯に拡がった。煩わしい人間関係から抜け出して、責任も何ももない気儘な生活をしてみたいという願望にも似た想念である。
これから一週間という自由な時間を気儘に過ごしてみようと思い立った。
久は独身寮の管理人に一週間程休暇を貰ったので実家へ帰ってくると言い残して旅行鞄一つを持ちタクシーを拾った。

2.
門川久はここ一ヵ月ほど散髪していないのに気がついた。何ものにも束縛されない気儘な一週間を過ごす前に、まずこざっぱりした気持ちにならなければならないと思った。タクシーを駅前で乗り捨てると「いらっしゃいませ」という元気な声に迎えられ、理容院の客となった。

駅前の理容院にしては、お客もたてこんでおらず、三つほど空いていた椅子の一つに座ると目を閉じた。これから何をしようという当てがあるわけでもなかったが、自分で自由にできる時間が七日間もあると思うと気持ちが豊かになった。散髪をしてもらいながら一週間をどうやって過ごそうかと考えていた。両親の許へ帰ってのんびり過ごすのもよかろう。或いは行きあたりばったりに行く先を定めずに足の赴くまま、気の向くままの旅に出るのも悪くないなと考え巡らせていた。と、突然隣で外人の声が聞こえた。
「ウオッシュアンドカット、プリーズ」
何げなく声のする方を向くと空いた椅子を前にして髭もじゃの背の高い赤毛の若い外人が、手真似で理容師に散髪方法の注文をつけている。相手をしている理容師はこれも手真似で一生懸命応答しているが、どうも意思が通じないらしく首をかしげて困った顔をしている。
久が横から英語で外人に問いかけてやるとその外人は喜びを顔面に表し、頭髪を鋏で刈って頭を洗って貰いたいと思っているのだが、そのことをこの人に説明してくれという。髭は剃らなくてよいと伝えてくれと言っている。
久がその旨通訳してやると、今まで困った顔をしていた理容師は大きくうなづいて俄に元気づいた。
「シャンプーネ、ヘヤーカットネ、オーケーネ」
その理容師は自分も片言の英語なら喋れるぞということを誇示するように知っている単語を並べ立てた。
「サンキュー」と外人は人なつっこそうな笑顔を久の方へ向けて、両手を大きく開き肩をすぼめて見せた。
「お客さん、随分英語が達者なんですね。商社へお勤めですか」と久の顔を剃っていた理容師が話かけてきた。
「いや、大したことはないよ。学生の頃、外交官を志したことがあってね、多少英会話の勉強をしたことがあるだけさ」
「それにしても大したものですよ。私なんかチンプンカンプンで、何を言っているのかさっぱり判りませんでしたよ。お蔭で助かりました。あれだけ英語が喋れれば一人で外国へ行っても不自由しないでしょうね」
「それが残念ながら、外国へは台湾にしか行ったことがないんでね。でも英語なんてものは、心臓で喋るようなものだと思うよ。外人をみかけると誰彼となく話しかけてみると結構通じるものだよ。ジェスチュアーを交えながら単語を並べるだけで意思は通じると思うよ」
「そうなんですってね。私の友人で鉄工関係の仕事をしている人が横浜にいるんですがね、東南アジアへ工場の建設のために、若い職人を連れてよく出張しているんですよ。その友人が外国語は心臓で喋るものだということを言っていましたよ。何でもその友人は中学を出るとすぐ鍛冶屋の職人になって国内のあちらこちらの工場建設をやって歩いたらしいんですが、外国へ行ってみたいと思っていたそうです。ある日、タイで工場建設の仕事があるから行ってみないかと仲間から誘われたので二つ返事で行くことにしたそうです。まだ外国へ行くのは珍しい時代だったので、親兄弟は英語も喋れないのに外国へ行くのはやめろと反対したそうです。ところが、その友人は手真似足真似でも意思は通じる筈だと頑張り通して、タイへ二年も行って来たそうです。確かに最初は不便を感じたそうですが、心臓強く体当たりでやっているうちに英語とタイ語が喋れるようになったということですよ。今ではそのことが箔になって、まだ30歳そこそこだというのに職人を30人も使って請け負い工事をやっているそうです。請け負い工事というのは儲かるそうですね。その友人は最近、いい所に土地を買って立派な家を建てたらしいですよ。車なんかでも凄い外車に乗っていますよ」 理容師は話好きらしく、我がことのように得々と喋っている。
「へぇー、建設関係の仕事というのはそんなに儲かるのかねぇ。私なんか一生働いたって、自分の家なんか建てられないかもしれない」
「今は建設関係はいいらしいですね。その友人の話だと電気熔接工とか配管工、鳶工などの職人は一日の日当が五千円もするんだそうです。私なんかももう少し若ければ、理容師なんか止めて熔接でも覚えて商売替えしたいですよ」
「へぇー、技能工の賃金は高騰したとは聞いていたけれど一日五千円もとるのかねぇー」
久は頭の中で自分の給料を日当に換算してみるとその半分にも満たない。
「だから、最近ではメーカーの工員なんかで会社勤めを辞めて職人になる人が増えてきたんですってね」
「なるほどねぇ、そんなに日当が高いのなら、流れ作業なんかに従事しているより、余程面白いから、若い人達は転職するだろうね」
「また職人の世界というのが面白いんですね。腕のいい職人はあっちの親方こっちの親方というふうに渡り歩いて腕を磨いていくんですね。そして独り立ちすると若い衆の何人かを使って請け負い工事をやって儲けるんだそうです。その友人なんか、外国へ行ってきて英語も喋れるというんで、あちこちの大手のプラントメーカーから引っ張りだこだそうですよ。確か又近いうちにイランへ行くとか言っていましたよ」
「ふうん、建設労働者の世界を研究してみる必要があるなあ」「すると、お客さんは人事関係のお方ですか」
「そうなんだよ。硝子会社の人事をやっているんだけど、人が集まらなくて困っているよ。最近では手と足さえついていれば、どんな人間でも採用したいくらいの気持ちだよ」
久は散髪をして貰いながら、理容師の話を聞いているうちに職業意識が頭をもたげてきて、建設労働者の労働市場のことを調べてみなければならないなと思った。何にも束縛されないで気儘な一週間を過ごしてみたいと考えていたのに、何時の間にか自分の仕事と結びつけて話を聞いていた。
「お客さんの会社なら日本でも超一流の会社だから希望者はいくらでもいるでしょう」
「ところが、そうでないから苦労しているんだよ。何か人がうまく集められる方法はないものかねぇ」
「そうですね。今はどこも人手不足で困っていますからね。でもこれも又、その友人の話ですがね、石油会社や化学会社では年に一回は、定期修理工事いうのをやるんだそうですが、どこで集めてくるのか、短期間に随分多くの人足を集めるそうですよ。何でも一ヵ月の間に、工場の装置を止めてしまって、点検修理する大変な仕事だそうですが、一ヵ月の間に、500人近い人間を集めるそうですよ」
「そんな芸当みたいな事が現実の問題としてできるのかなあ。夢みたいな話だよ」
久は自分がこれから採用しなければならない人間の数を思い出しながら言った。
「どんな方法で集めるのかはよく知りませんが、その友人のの話だと結構集めているらしいんですよ。いよいよ、集まらない時には、簡易宿泊所の近くの風来坊を連れてくることもあるそうですね」
その理容師の話に久は目を開かれる思いであった。建設業と製造業とでは業種業態に相違があるとしても僅か一ヵ月の間に500人からの人間を集めるという話は驚異であった。話半分に聞いたとしても、建設関係の業者の動員力は研究してみる価値があると思った。職人という言葉がしきりに使われているので、職人の労働市場も調べておく必要があると思った。
どうせ気儘な一週間を送る予定で貰った休暇なので、建設業の職人の世界へ飛び込んで、一ヵ月で500人集める仕組みを、調べてみようと思いついた。それには,自分で作業員になりすまして、建設現場へ入り込むことが一番手っとり早い方法だろう。
久は簡易宿泊所へ投宿して様子を窺うことにした。久は横浜にやってくると寿町の簡易宿泊街で福寿荘という看板を出している宿に旅装を解いた。立ち並んでいる簡易宿泊所の中でも小奇麗な感じがしたので福寿荘を選んだ。
かねて港湾労働者や建設労働者は簡易宿泊所に起居しているものが多いということを聞いていたので、とにかく泊まってみようと思い立ったのである。
宿帳に松山一朗と記入して宿の主人に何か良い仕事があったら世話して欲しいと頼んでおいた。宿の主人は久の身なりを見ながら、意味ありげに頷いて久の頼みを聞いて部屋から出て行った。久のことを何かいわくのある人間だというふうに感じたらしい。やがて宿の主人は、屈強な体格で目つきの鋭い一人の男を連れてきて言った。
「松山さん、この人が犬山組の番頭さんで菊池というお方です。今関東石油の定期修理工事で人を探しておられるそうだ。よく話を聞いてご覧なさい」
久は一週間だけ仕事をしたいと言うと、菊池はそれでは明日、マイクロバスで迎えにくるから、作業服に着替えて、朝7時に宿の前へ出て待っていろと指示して帰っていった。日当は毎日仕事が終わって帰る時に千五百円を払ってやるということであった。
久には求人がこんなに簡単な手続きでてきることは驚きであった。

3.
今日も朝からしとしと雨が降り、空はどんよりと曇っている。門川佳子は硯で墨を擦りながら床の間に飾ってある条幅に目を投じた。
杜甫の詩『春望』が草書で流れるような線によって書かれている。落款には門川孤舟と記されている。この軸は孤舟と号した兄が東大在学中、ある新聞社の書道展で特選をとった記念の軸である。
兄、久が失踪してから何年になるのだろうか。久の失踪が判ったのは、東大を卒業して昭和40年に極東硝子へ就職し、3年ほど経ったときの、丁度今日のようにしとしと雨の降っている日だったと思う。兄の会社の人事課から電話がかかってきたのである。
「もしもし、こちら極東硝子の人事課でございます。門川久さんのお宅でしょうか」
「はい。門川でございます。いつも兄がお世話になっております」
「久君はおられますか」
「いえ、兄は会社へ出勤している筈ですが」
「えっ。久君は休暇をとってお宅へ帰っておられる筈でしたが・・・どちらかへおでかけでしょうか」
「何ですって。兄は最近こちらへは帰ってきておりませんが。何か」
「おかしいなあ。仕事に疲れたから両親の許へ7日ほど休養に帰ってくると言われて、10日ほど前に帰郷した筈ですが・・・7日過ぎてもなんの連絡もないのでどうしているかと思って電話したのですが、そうですか。そちらへは顔を見せませんでしたか」
それから大騒ぎとなった。兄は正月に帰ってきて以来,今日まで帰郷していなかったのだ。
佳子も両親も元気に会社勤めをしていると思っていたのに、突然、会社からおかしな電話がかかってきたのである。
父が急いで兄の任地へ飛び、極東硝子を訪問した。上司や同僚に会っていろいろ聞いてみたが、仕事に疲れたので暫く両親のもとで静養してくると言って、7日間の休暇届けを出して帰郷したということしか判らなかった。久の住んでいる高砂市の独身寮に行って荷物を調べても衣服類はきちんと洗濯して押し入れの中に仕舞ってあり、書類も本棚に綺麗に並べられている。
部屋の中では書き置きらしきものも発見されなかった。同室の同僚に尋ねてみてもスーツケース一つをぶら下げて実家へ7日ほど帰ってくるよと言い残して出掛けたのでてっきり帰郷しているものと思っていたということである。
直接の上司である労務係長の話では、最近急激に工場が膨脹し、充員、定着対策、複利厚生施設の建設、労働組合対策、集団転勤の受け入れ等と難しい問題を抱え、毎日遅くまで仕事をし、疲れていたのは事実である。しかしそのことが、原因で失踪してしまうということはあり得ないということであった。
門川家でも心当たりへは全て連絡し、会社でも久が立ち寄りそうな所へは残らず連絡をとったが、消息は不明であった。
警察へ捜索願を出したが、久の行方は杳として判らなかった。失踪の動機も判らず、久からは会社へも実家へも何の音沙汰もないまま、いつしか3年が過ぎていた。佳子は兄が失踪したときはまだ、短大へ入学したばかりであった。優しかった兄が動機の判らないまま行方不明になったことにショックを受けた。
父や母の嘆きもまた大きかった。あの事件以来、父や母はひどく老い込んだように見える。母は毎朝、背広姿の兄の写真に陰膳を供えることを欠かさない。めっきり白髪の増した母が口の中でぶつぶつお経のようなものを唱えながら、陰膳を供えている姿は痛々しくて、佳子は見るに忍びない思いをしている。
佳子の実家は父、作造が包丁一本で築き上げた寿司屋である。働き者の父は九州の片田舎から単身大阪へでてきてあちこちの料理屋へ勤め、腕を磨いた。難波で修業しているとき、大きな寿司屋で女中勤めをしていた母を見初めて世帯を持ったと聞いている。生来働き者の父と母はせっせき働いて小金を蓄え、繁華街で店を持つことが人生の目標だったそうである。

出征中は父は内地勤務で通信兵として葉山の通信学校へ勤務したらしい。母は兄と生まれて間のない佳子を九州の父の実家へ連れて行き漁師の手伝いをしながら二人の兄妹を育てたということである。
戦後復員すると、父は大阪と九州を担ぎ屋として往復し、水団やら蒸かし芋を売って元手を作り、大阪の現在の土地を購入しバラック建ての一膳飯屋からスタートして、今の店に作り上げたのである。今では板前10人を置く寿司屋を本業としながら、レストラン、喫茶店、ビジネスホテルの経営やらで相当の所得を得ている。
佳子は父や母には言えないが、ひょっとすると兄の失踪の原因は両親の家業にあったのではないだろうかと内心秘かに思っている。そう思わせる出来事が過去に幾つかあったのである。
両親に似て頭の良かった久は、中学、高校とも首席で通し語学には特に才能のあるところを示した。父が家業を継がせようとするのを嫌って、東大へ進学し家庭教師のアルバイトをしながら大学を卒業したのである。大学に進学するについては、寿司屋の伜に学問は不要だとする父と、寿司屋のような水商売は嫌いだという兄が口論し、担任の先生のとりなしに折れた父が、自分の力で進学し、就学するなら認めようという事件があった。
また語学に堪能で政治に興味を持っていた兄が大学へ進学してからは、外交官になるのだと言って、一生懸命勉強していた一時期があった。ある晩コンパでひどく酔って帰り,
「うちが水商売では、毛並み第一の外交官にはなれないよ」とコップに水を持っていった佳子にポツリと寂しそうに言ったことがあった。
最近では正月に帰省したとき、母が沢山用意した見合い写真を見せると写真を一瞥しただけで、
「寿司屋風情には良家の子女は寄りつかないよ」と言って母に写真をつき返した。

これを傍らで聞いていた父が激昂し、
「その言いぐさは何だ。寿司屋風情とはなんだ。親の職業を愚弄するような言い方は許せん。寿司屋だって立派な生業だ。人様に迷惑をかけるわけじゃあなし。もう一度言ってみろ・・・これだから、なまじ端学問をした奴は始末に終えん」
「済みません。私の言い過ぎでした」
流石に気が咎めたのか兄が素直に謝ったのでその場は納まったが、父と母は兄の言葉を非常に気にしているようであった。
その晩、兄と二人だけになったとき、佳子に述懐した兄の言葉はいまだ鮮明に頭に焼き付けられている。
「佳子。親父やお袋が気を悪くするから内緒の話だが、良家の子女との縁談が会社で幾つかあったけれど、一つも実らなかったよ。見合いになるまでに話が立ち消えになってしまうのさ。よく調べてみると、どうも実家が水商売をやっているということが判ると先方で敬遠してしまうらしいのだ。佳子もよく知っているように、俺は実力主義,人物主義ということで、今まで通してきたが、こと縁談となるとそうもいかないところがあるもんなんだ。ケネディ家でも大統領を出すのに三代かかっているようなものさ。俺は今でも恋愛結婚よりも見合い結婚の方が合理的だという持論なんだけど、これは一般論にしか過ぎず、俺の場合には当てはまらないようだ」
誇り高くて気が強く、自分の思ったことは大体押し通してきており、挫折ということを知らない兄の言葉としては弱気だなと思いながら聞いたのであった。
しかし、見栄坊な所のあった兄にしてみれば案外、結婚問題に関連して実家の家業が、普通の人が考える以上に、大きな悩みであったのかもしれないと、強いて兄の失踪の動機づけを考えてみるのであった。
「佳子、何をしているの。下へ降りていらっしゃい。桑山さんが遊びに見えていますよ」
階下から呼ぶ母の声に佳子は我にかえった。今度の展覧会に出品するため条幅を10枚ほど書いたところであった。
「はーい。只今」
佳子が急いで片づけて階下へ降りて行くと、新聞記者の桑山が、応接室のソファーに腰を下ろして美味そうにお茶を飲んでいる。
「やぁ、ヨッちゃん。頑張っているそうだな」
桑山はにこにこしながら右手を上げた。
「珍しいこともあるんですね。桑山さんが、明るいうちにいらっしゃるなんて」
「何を寝惚けているんだい。ヨッちゃんに素晴らしいプレゼントを持ってきてあげたんだよ」
「まあ、嬉しい。どこにあるの」
佳子が桑山の身の回りを見渡してもそれらしいものはない。
「そんなにキョロキョロしても、ここにはないよ。さあ、出掛ける支度をはじめた。始めた」
「何処へ行くんですの」
「それは内緒。行ってみてのお楽しみ」
「まぁ。桑山さんたら、人をじらしておいて。教えて下さいな」
「ヨッちゃんが怒るの図か。悪くないな。ハッハッハッ・・」
「佳子、桑山さんがね、三王商事の岡元常務さんのお宅へ連れて行って下さるそうよ」
と母親が側から口をはさんだ。
「あの岡元克彦ですか。書の蒐集家の?」
「そうだよ。前々から一度自慢の書を見せて欲しいと頼んでおいたのだが、とても忙しい人でね。なかなか時間を割いて貰えなかったんだが、今朝急に電話があって、午後3時に見せてやると言うんだ」
「まあ、嬉しい。流石新聞記者は顔が効くのね」
「まあね」
「桑山さん何でもっと早く知らせて下さらなかったの。3時とすればあと2時間しかないわ。美容院へも行けないじゃぁないの。新聞記者のくせに気が効かないわね」
「おいおい、ヨッちゃん、変な言いがかりはよして呉れよ。夜討ち朝駆けが新聞記者の本性だよ。東に事件があればすっ飛び、西に騒動があれば馳せ参じる」
「判ったわよ。また始まった。時間がないので支度をしてくるわ」
佳子は満面気色を帯びて浮き立つような足取りで二階へ駆け上がって行った。
桑山由雄が東京本社から大阪支社へ転勤になったのは一年ほど前である。
桑山は寿司が好きなので、夜食には寿司屋へ立ち寄ることが多い。あちこちの寿司屋を食べ歩いて見て、何故か角寿司へ足繁く通うようになった。
新聞記者という職業柄夜遅く食事をとりながら一杯飲むことが多い。桑山が角寿司へ通うようになったのは佳子のせいだと思っている。佳子が店にでることは滅多にないが、桑山が初めて角寿司に入った時、いつもは帳場に座っている佳子の母親が風邪で寝込んでいたため、佳子が臨時に帳場へ座っていたのである。その日桑山はうっかりして財布を忘れているのに気が付かず勘定の段になって慌てた。ポケットにあちこち手を突っ込んでいる桑山の姿を見てすかさず佳子が言った。
「お客さん勘定はこの次で結構ですよ」
「だって、君初めてこの店へ来たのだよ。そうだ。明日必ず届けるから、この時計を預かってくれないか」
「いえ、結構ですわ。お客さんは良い人ですから、明日きっとまたいらっしゃるわ」
こんなやりとりがあって桑山は角寿司の常連になったのである。
「桑山さん、あの娘も年頃ですからどなたかいい人をお世話して下さいよ」
佳子が二階へ支度に行っている間、母親はお茶を勧めながら謎をかけた。
「私でよかったら、いつでもどうぞ。でもヨッちゃんには新聞記者の女房は勤まらないでしょう。それに、この店だってあることだし。まあ心がけておきましょう」
桑山は本気とも冗談ともとれるような言い方をした。門川久枝は夫の作造とも相談して、息子の失踪のことは店の者達にも禁句にしていた。桑山は佳子を角寿司の一人娘だと思っているような言い方をしている。久枝は桑山と
佳子の間がかなり接近してきているので、いつ兄久の失踪のことを桑山に切り出すか悩んでいた。
「どうもお待たせしました。桑山さんたら、急なお話なんですもの。私あわてちゃったわ。もっと前もって知らせて下さればもっとお洒落ができましたのに」
佳子が大急ぎで身繕いしたらしく、ハンドバッグの中を覗き込むようにしながら階段を降りてきた。
「白状すると、実は昨日大学時代の同窓会があってね。大蔵省へ勤めている友人が岡元克彦の娘と結婚していることが判ったのさ。それでよっちゃんのことを思い出して、親父に会わせろと頼んでみたわけさ。すると奴も気の早い男だから早速話をつけて今朝電話をかけてよこしたという次第なのだよ。ハッハッハッ」
「それでは新聞記者の顔ということではなかったのね」
「そういうことになるね。でも、日本の名筆コレクションが拝めるんだからいいじゃあないか」
「ありがとう。素敵なプレゼントだわ。早く行きましょうよ」
佳子は桑山をせかせて出掛けて行った
二人の後ろ姿を見送りながら久枝は、失踪した久が桑山に姿を変えて帰宅し妹を連れてでかけたのではないかという錯覚に陥るのであった。桑山と佳子との周囲には、そのような肉親の間にだけ漂う親しい暖かな雰囲気があった。

4.
武庫川の川沿いの閑静な所に、緑に囲まれて豪華なマンションが建っている。このマンションの日当たりの良い二階に岡元克彦は住んでいた。
「結構なお住まいですね。今日は、素晴らしいコレクションを拝見出来ると楽しみにして参りました」
名刺交換を終えると桑山は新聞記者らしいはきはきとした口調で切り出した。
「いや、これはどうも。最近東京から引っ越してきましてね。家財は東京へ残したままなので、何のおもてなしも出来ないと思いますが、ゆっくりしていって下さい。幸い書を集めるのが私の道楽でしてね。書だけは持ってきてありますから御覧にいれましょう。美代子、桑山さんにビールでも差し上げなさい」
岡元克彦は最近専務に昇格して、関西支社を統括するため大阪へ転任となったのである。一人娘の美代子が大蔵省へ勤務する原良彦へ嫁いで間もなく発令された人事であったが、女婿の原も同じくして大阪国税局へ転勤となったので、山王商事で岡元克彦のために用意したこのマンションへ新婚の娘夫婦が同居することになったのである。岡元克彦は要職にあるため、夜は帰りが遅く、原夫婦は新婚生活を邪魔されることもなく、優雅な生活を送っていた。岡元は実の娘と同居できるので、何かと便利でマンションの生活を喜んでいた。
「はじめまして、原の家内でございます。主人からかねがねお噂は聞いておりました。何のおかまいもできませんが、どうぞごゆっくり」美代子はビールを盆に乗せてくると桑山由雄と門川佳子に挨拶をした。
岡元克彦は平沼騏一郎、犬養木堂、勝海舟、佐久間象山等の軸を出してきては、一つずつ来歴をいかにも楽しそうに説明してくれる。
佳子はいずれも名筆家ということで名前だけは聞いて知っていた大家の作品が次から次へと出てくるので、圧倒されてじっとそれらの作品に見入り、岡元の熱っぽい解説にじっと聞きいっていた。初めてみる作品ばかりであっ
た。ふと気がつくと桑山も原夫妻も感心したような顔は装っているが、あまり興味はなさそうなので、もっとゆっくり見せて貰いたいと思ったが、他の人に悪いような気がしてきた。
「どうも貴重な作品を見せて戴きありがとうございました。良い目の保養ができました」とお礼を言った。
「若いのに書に興味を持たれるとは失礼だがなかなか殊勝な心掛けですね。
自分でもお書きになるのですか」
と岡元克彦が聞いた。
「ええ、兄の影響で、真似事だけはしております」
「それはますます感心した。うちの美代子なんか、私がいくら勧めても、万年筆とタイプライターの時代に古臭い書なんか時代遅れだと言って馬鹿にしているんですよ」
「まあ、お父様たら。何も皆さんの前で、そんなことを仰らなくても・・」
と美代子が抗議した。
「ヨッちゃん。今、お兄さんの影響でと言ったね。お兄さんがいたのかい。知らなかったなあ」
桑山が真剣なまなざしを佳子に向けた。佳子は桑山に見つめられて桑山の視線が眩しかった。桑山には兄の失踪のことは勿論、兄がいることも話していなかった。兄の失踪のことを話したら桑山が自分の許を離れていきはしないかという虞があった。今なにげなく兄の影響で書道を始めたと洩らしてしまった。迂闊だったと後悔した。何れ判ることとは言え、何も初対面の岡元克彦の前で真相を語る必要もない。佳子はさりげなく言った。
「桑山さんにはお話していませんでしたが、私の兄は兵庫県で硝子会社に勤めているんですよ」と答えて俯いた。
「おいおい、桑山、新聞記者にしては呑気だな。恋人の家族関係もまだ判っていないのかい」と今度は原良彦がからかった。
「そんなんじゃぁないんだ。この人は私の行きつけの寿司屋さんの看板娘でね、書が好きだというので今日連れてきただけなんだ」と桑山が弁解した。
「そうむきにならなくてもいいよ。心臓の強いお前にしては、うぶな所があるんだね。佳子さん、こいつは案外純情な所があるんですよ」と原良彦が佳子の手前、少し桑山をからかいすぎたと思ったのか桑山をたてるような言い
方をした。
「ほんとですわ。お似合いのカップルができあがりますわ。ねぇ、お父様」
と原美代子が同意を求めるように父の方を見た。
「あらっ。困りますわ。私」佳子は赤面した。現在の自分の立場が、同席の皆に誤解されていると思った。今まで、桑山のことを結婚の対象として意識したことはなかった。兄の久が失踪して寂しく思っていたところへ現れた桑山は、洋子にとって兄のような存在だった。今日も何気なく兄について展覧会にでもでかけるようなつもりでついてきたのである。ところが、岡元克彦はじめ、原夫妻も桑山と佳子を恋人同志のように理解して応対しているのである。佳子の体中にジーンと熱いものが流れた。それは今まで経験したことのない甘酸っぱい感情の波であった。そして、兄のことが話題に登らなければいいがと祈るような気持ちであった。
ところが一座の者には佳子の態度が乙女の恥じらいとして映り好感を与えた。
「桑山さんも良い人を選ばれた。書は人と為りを表すと言って書をたしなむ人に悪い人はいない。自分が書が好きだからいうわけではないが、書を書くときには無心になれる。邪心を捨てなければ素直な書は書けない。そういう
意味で書を書く人に悪人はいない。特に若い女性が書を書くのはいいことだと思います。女性の綺麗な筆跡は見ていても実に気持ちがいい。桑山さんも門川さんからラブレターを貰うのが待ち遠しいことでしょうな。ハッハッハ
ッ」
「そんな・・・・」
「私も美代子には書を習わせようとして、随分やかましく言ったが、この娘はテニスのほうが忙しくて、遂に書の良さを知らずに親元を離れて行ってしまった。良彦君、今からでも遅くはない。家庭に入ったら、テニスばかりしているわけにもいかないだろうから書を習うように勧めてやって下さい」
岡元克彦は若くて美しい同好の士ができたのが,よほど嬉しいとみえて能弁になった。
「そうですね。お義父さんの仰る通りですよ。書をたしなむ女性には奥床が感じられます。私の大学時代の寮での後輩に書のうまい男がいましてね書道研究会に入って展覧会などにも頻繁に出品していましたよ。学部が違っ
ていましたので、あまり親しい間柄ではありませんでしたが、何でも外交官を志望していましてね、語学が達者な男だったと記憶しています。風格のある男でしたよ。あの風格は書で養われたのかもしれませんね。美代子にもせいぜい家事の合間には手習いをさせるようにしますよ。勿論僕も暇をみて習うことにしたいと思います」
原良彦は岳父の手前調子のいいことを言っている。
佳子は原良彦がそう言った時、今彼が話題にとりあげた男というのは兄門川久ではないかと思った。いや、門川久に間違いないと思った。胸が高鳴った。兄は原と同年配で、東大の書道研究会に入部していたし、外交官を志望していた一時期があった。しかも学生寮に入寮していた。
だが、佳子はその人は自分の兄ではないかと思うということをどうしても口から出すことが出来なかった。そのことを口に出せば、兄の失踪のことをいきがかり上、説明しないわけにはいかない。兄の失踪のことを桑山に打ち明けるにしては、この場所と時はいかにも相応しくなかった。桑山を恋する女の気持ちが本能的に影の部分を隠させた。
男達は美代子の手料理に舌鼓を打ち、意気投合して杯を酌み交わしながら談笑していたが、佳子の耳にはその会話は意味のある言葉としては響かなかった。佳子は兄の安否と行方のことを案じながら桑山にどのようにして打ち明けるがを考えていた。
岡元克彦と原夫妻が名残惜しそうに引き止めるのを振り切って暇乞いをマンションを出ると外は薄闇に覆われ、武庫川の堤防の上を行き交う自動車のヘッドライトが二人の影を写し出した。丁度通りかかったタクシーを拾っ
て、西宮駅までと桑山が運転手に命じた。
「ヨッちゃん。何だか浮かない顔をしているね、どうしたの、気分でも悪いのかい」
「いいえ、一寸考え事をしていたのよ」
「何を考えているの」
「桑山さん、怒らないで聞いて頂けるかしら」
佳子が意を決したような口調になったので、桑山も身構えたような気持ちになり、佳子の顔を覗き込んだ。
桑山の頭には岡元家での会話のやりとりが瞬間的に脳裏を駆けめぐった。
女の口から言わせてはならない言葉が、出てくるのではないかと不安になった。もし佳子の口から求愛の言葉が出てくるとすれば、このタクシーの中は場所としては相応しくない。運転手が聞き耳をたてている様子が手にとるように判る。やはり桑山の方から求愛したかった。
「ヨッちゃん、ちょっと待ってくれないか。西宮駅についてから音楽でも聞きに行こうよ」
運転手の咳払いが沈黙を破った。
「運転手さん、西宮駅前の音楽喫茶へやってくれないか」
「はい」と言って運転手はまた咳払いをした。
タクシーを乗り捨てると桑山は「白夜」という看板の出ている喫茶店へ入っていこうとした。
「桑山さん、歩きながら私の顔を見ないで聞いて欲しいの」
「待ってくれ、僕から言わせてくれないか」
「いいえ、私の方から言っておきたいことがあるの。桑山さんから嫌われると思うから今まで言いだせなかったの」
佳子の口調に桑山は自分が何か勘違いしていることに気がついた。
「どうしたんだい。さあ、黙って聞いているから言ってごらんなさい」
「さっき岡元さんのお宅で、私に兄があることが話題になったでしょう。そのことなの」
桑山は佳子の語調が乱れたので、何か事情がありそうだと気がついた。佳子の兄に何か人に言えないような事情があるのではないかと思った。見ると佳子の肩が小刻みに震えている。
桑山は色々なことを想定した。兄が前科者の場合、兄が身体障害者の場合兄が妾腹の子の場合、彼女はこれから何を言おうとしているのか。彼女がこから打ち明けようとしている兄にまつわる秘密を聞いたとき、自分はそれ
を克服して愛を誓うだけの自信があるか。佳子に対する気持ちは本物の愛と言えるか。それが今試されようとしている。一瞬の間に桑山の胸中をこのような思いが電流のように交錯した。
「実は僕もそのことは初耳だったので、ヨッちゃんに是非聞いてみたいと思っていたところなんだ。お兄さんが兵庫で硝子会社に勤めておられるんだって」
「ええ、そうなの。三年前まではそうだったの」
「三年前までは・・・それでは今は」
「現在は行方不明で生死不明なのよ」
佳子は肩を震わせて泣きじゃくった。言葉に出してしまうと急に気が楽になって何でも話すことができるよしな気持ちになった。
「何だって。行方不明だって」
桑山は自分で想定していた場面よりも事態は単純なので内心ほっとした。
「桑山さんには今までこのことを隠していて、申し訳なかったと思っています。兄が行方不明だと判ったら、桑山さんに嫌われると思って、なかなか言いだせなかったわ。でもいつかは打ち明けなければならない時がくるのは判
っていたの。でもこんなに早くその時がくるとは思っていなかったわ」
佳子は泣くことによって心のわだかまりが浄化されたのか能弁になった。
兄の生い立ちから始めて、兄が大学に進学するについて、父との間に生じた小さないさかい、兄が行方不明になった日の前後の経緯等を佳子は淡々と話した。
「それで、手掛かりは全然掴めないの。行方不明になった動機も推測できないのかね」
「私なりに色々考えてみたわ。でもどうしても判らないの。毎日兄の写真に陰膳を供えている母の姿を見るのが可哀相で堪らないわ。私はもう兄がこの世に生きていないような気がするの。私にはとっても優しくて頼りになる良い兄でしたのに」
佳子がまた涙ぐんだので、桑山はポケットからハンカチを取り出して涙をそっと拭いてやった。
「事情はよく判ったよ。僕も新聞記者だから、僕なりに調べてみよう。お兄さんはきっと健在だよ」
「さっき岡元さんのお宅で原さんが書道研究会に入部して外交官を志望している語学に堪能なお友達のことを話していらっしゃったでしょう。私はあのとききっと、その人が兄だろうと思ったわ。でも、初対面の方にお話すべき
ことではないので黙っていましたの。世の中って意外に狭いのね」
桑山は佳子の打ち明け話を聞いて、門川久が生きていることを願った。
今でも佳子に好意を寄せながらも求愛できずにいたのは、佳子が角寿司の一人娘だと信じ込んでいたからである。一人娘でなく兄がいるとなれば、事情は変わってくる。正々堂々と両親に対しても佳子を嫁に欲しいと申し込むことができる。
桑山は三人兄弟の長男で姉は嫁いでいるが、下の妹は高校を卒業して九州で勤めている。両親は健在で父は九州の市役所を定年退職した後、運輸会社に再就職して事務を執っている。祖父から受け継いだ小さな家作に住んでいるが、老後を悠々自適の生活を送る程の資産や蓄えがあるわけではなく、何れは桑山が両親を呼び寄せて、老後の世話をしなければならない立場にあった。
桑山はこの立場をよく自覚していたので佳子に好意を寄せながらも煮え切らない態度をとっていたのである。角寿司の久枝から佳子にいい人があったらお婿さんを世話して下さいと謎をかけられたときも、態度をあいまいにして誤魔化してきたのである。
新聞記者という職業は自ら望んで選んだ仕事である。そして仕事に生き甲斐を感じていた。いくら佳子に好意を寄せていても、佳子が角寿司の一人娘であれば、嫁にくれとは言いだせなかった。そして望まれても、新聞記者を
廃業して角寿司へ入り婿になることは最初からできない相談であった。そこに桑山のジレンマがあった。だが、今佳子から打ち明けられて、兄がいることが判った。たとえ行方不明であっても死んでしまったという証拠はない。
佳子の兄を捜し出せば胸を張って、佳子に求愛することができる。桑山は一条の光を暗闇の中に発見した思いであった。
桑山は門川久に生きていて欲しいと願った。いや生きていて貰わなければ困るのである。いまでは佳子に寄せる愛情が、丁度雪達磨がどんどん大きくなるように、次第次第に大きくなり、加速度がついて自分の手では制御で
きない程になっていた。それと比例して佳子の兄は自分の手で捜し出してやるぞという執念のようなものが自分の体内に膨らんでいくのを感じていた。

5.
富士山へ向かって白球が飛んで行った。
「ナイスショット。部長、素晴らしい当たりでしたね」
背丈の高いいかにもスポーツマンらしい沢村勝が褒めた。
「部長、部長の球は真っ直ぐ飛んで行く、素直ないい球ですね。この調子だと優勝間違いなしですよ」
今度はずんぐりした体に猪首を乗せ、鋭い目つきの河村忠夫が負けてはならじと厚い唇の間に金歯を覗かせながらおだてた。
「なに、まだハーフ残っているから、下駄を履くまで判らんよ」
部長と呼ばれた初老の男は満更でもなさそうな顔で球の行方うを確かめてから赤いティーを拾った。
「それではオーナーに習ってひとつやりますか」
沢村勝がブラックシャフトでドライバーショットをしたが、ボールが落下点でキックしてバンカーへ飛び込んだ。
「今日はついてないな。またバンカーへ入ってしまった」
沢村の口調には余裕が窺えた。部長の薬袋浩一とは17ホール終わったところで、一打の差があった。薬袋がアウトを46、インを8ホール終わった
ところで42というスコアで回ってきたのに対し、沢村のスコアはアウト47、インでは42叩いていた。最終ホールをパーかバーディーで纏めれば薬袋と同点又は一打勝つ勘定である。
沢村は薬袋に決して勝ってはならなかった。かといって河村には負けてはならなかった。河村のスコアはアウト47、イン43で競り合っていた。薬袋には一打差で負け、河村には二打か三打の差で勝ちたかった。もう一人の
パートナーは50以上も叩いており計算にいれる必要はなかった。

富士山麓の大富士ゴルフクラブで催された「飛球会」ゴルフコンペには大日本化工機株式会社傘下の下請け会社の営業マンがそれぞれに思惑を持って参加している。
「飛球会」を主催する工事部長薬袋浩一は飛球会に集う下請け工事会社に対して絶大な影響力を持っている。薬袋の機嫌を損ねたら、まず発注単価で苛められ仕事を廻して貰えなくなる恐れすらあった。
沢村はコンペの事前に画策して薬袋と同じ組に入ることに成功した。
ラウンド6?7時間の間「飛球会」の天皇薬袋と共に過ごすことは今後の営業活動に大きくプラスになることは間違いなかった。だが、油断できない同業の競争相手がやはり、薬袋の組に入ってきていた河村忠夫である。
沢村勝は報国工業の工事担当者としては腕効きでゴルフにも相当の自信を持っていた。しかし、沢村は営業目的を考えて大日本化工機の工事部長薬袋浩一に気に入られることに専念するつもりであった。かと言ってあまり見え透いたこともできない。薬袋に一打差位でついていくことが最もうまい方法である。コンペである以上他社の手前もあり、良い成績をあげて一目おかさなければならない。
沢村がバンカーへ入ったボールを追ってくると河村が後ろへついてきている。サンドエッジう取り出してボールに近づき足場を確保してからスイングした。砂を浅くすくってうまいショットであった。
「ナイスアウト」
薬袋とキャディが声をかけた。そのとき河村のクレームがついた。
「沢村さん、いいショットだったけれど、アドレスのときクラブヘッドを砂につけていましたよ。ツウペナルティーではないですか。キャディーさんそうだろう」
「さあ、私はよく見ていませんでしたが、もしクラブヘッドが砂についていたらツウペナですね」
キャディーは河村の剣幕にあたりさわりのない返事をした。
「河村君、そんな固いことを言わなくてもいいじゃぁないか。私もよく注意していなかったからヘッドが砂にあたっていたかどうか判らないけど、素晴らしいショットだったことは間違いない」
薬袋が鷹揚に横から口をはさんだ。
「部長、でもルールはルールですから厳密にやらなければ、飛球会コンペの権威に係わります」
河村の強い口調に沢村は内心ムッとした。明らかにいいがかりをつけてきたのは目に見えている。昨日今日ゴルフを始めたばかりの素人ではないのだから、バンカーの中でアドレスするときにクラブヘッドを砂につけたりする
筈がない。然し沢村はここで怒っては相手の策に乗ることになる。じっと我慢すべきだと考えた。
「それは,気がつきませんで大変失礼しました。今後はよく注意します。ツウペナで勘弁して下さい」
沢村は素直に謝ったが河村と視線があったとき火花が散った。
最終ホールでは薬袋はスリーオン、河村はツウオン、河村はバンカーでのペナルティーのためにファイブオンであった。
薬袋は最終ホールをボギーで纏めた。沢村はロングパットを決めてダブルボギーで終わった。
河村の順番がきた。河村はバーディを狙ってしきりに芝目を読んでいる。
午後二時を回ると山間のゴルフ場ではグリーンの上に人の影が細長く伸びている。
「沢村さん、駄目じゃぁないか、ライン上に影を作っては。飛球会のゴルフは田舎ゴルフとは違うんだよ」
河村のオクターブの高い声が飛んできた。また言いがかりである。
「申し訳ない」
沢村は逆らうべきではないと考え、更に後ろへ下がった。
河村のパットは狙いすぎてオーバーし、ホールから1mの距離を残した。
結局4パットで同じくダブルボギーにしてしまった。
「ラインに影を落とされて調子が狂ってしまった」
河村はキャディーにパターを渡しながら聞こえよがしにぶつぶつ言っている。
ワンラウンドの成績は薬袋93、沢村95、河村96であった。沢村は結果的には狙った通りの成績に終わったことに満足した。
プラント建設業界には石油精製会社や化成品製造会社等のユーザーを中心にその周辺に専属の下請け企業集団が形成されており、それぞれに他の業者の手出しを許さないテリトリーを持っている。
業界ではこのことを「筋」と呼んでいた。
関東石油についていえば、配管に関する構内常駐指定業者は報国工業であり、関東石油から発注される配管工事は大小を問わず、報国工業へ直接流れるのである。新たに装置を建設する場合には、大手のエンジニアリング会社建設会社に発注され、報国工業は関東石油から推薦されて、これら大手会社の下請けとして工事に従事するのを常とした。この発注形態を「紐つき」という。
このように関東石油から発注される配管工事は、発注経路の如何を問わず報国工業に最終的に流れることも「筋」という。このような「筋」は各石油精製会社、各化成品製造会社毎に出来上がっており、この筋は業者同志相互に了解されている。判りやすくいえば、縄張りでありテリトリーである。
この筋にも二通りの筋がある。
第一の筋はメーカー(石油精製会社、化成品製造会社等)から構内常駐業者に指定され、メーカーから直接仕事を貰う所謂元請け形態の筋である。
第二の筋は大手の建設会社、エンジニアリング会社との密接な取引関係にある場合の筋である。
通常報国工業程度の規模の会社では、大きなプラントの建設工事を直接受注してこなしていくだけの能力がないので、このような場合には、施工専門会社として大手建設会社の下請けとなり、工事の一部を分担施工する。この場合には大手の建設会社の傘下の一員として建設工事に参加するので、たとえ施工場所が同業者の常駐している会社であっても「念達」をしておけば問題になることはない。この念達は同業者に挨拶することであり、この度、客先の○○会社の下請けとしてお宅の常駐会社の構内で仕事をする事になったが、これは今回限りのことであって、決してお宅の縄張りを荒すつもりはないということである。
大手の建設会社、エンジニアリング会社はそれぞれに傘下に専門の施工会社を下請け業者としてかかえ、一つの企業グループを形成している。
報国工業クラスの施工専門の工事会社の場合、第一の筋と第二の筋を持っており、この筋を守って営業を行っているのである。この筋を間違えて、他業者の領域へ口出し手出しをすると,異端者として同業者からも嫌われ、客
先会社からも嫌われ、信義のない会社として信用を落とすことになる。
河村忠夫の所属する東都プラントが関東石油に食指を動かし出したのは、大日本化工機が、関東石油の横浜工場に灯軽油の製造装置を建設したときである。
関東石油の横浜工場は報国工業のテリトリーであることは業界周知の事実であった。この時の建設工事は、工区が三つのブロックに区分され、日本鉄工、大日本化工機、興国建設の大手会社が元請けとして受注し、それぞれに傘下の下請け工事会社を率いて施工した。
報国工業は日本鉄工の下請けとしてこの工事に従事した。報国工業としてはこの時期、仕事が輻輳しており、能力的に日本鉄工からの受注をこなすだけで手一杯であり、大日本化工機や興国建設からの引き合いには応じきれなかった。
東都プラントは大日本化工機傘下の業者として乗り込んできたのである。
工事完了とともに当然のことながら、各業者は引き上げた。東都プラントも引き上げたが、工事施工期間中に関東石油の工務担当者に近づき、構内常駐指定業者にして貰おうと積極的に運動した。担当者をゴルフに連れ出し、
ゴルフの帰りには自ら経営するバー「姫」、キャバレー「パッション」へ繰り込み若い担当者の買収に力を注いだ。
定修工事は毎年一回行われる。報国工業にとって関東石油横浜工場のこの定修工事は年間の工事予定の中でも、もっとも大切な工事として扱われている。工事規模の大きさ、動員する作業員数、短期間の工事であること、危険な作業の伴うことなど、一時も油断の許されない工事である。周到な工事計画と余裕をもった作業編成、細心の注意が盛り込まれた安全対策、整然とした管理体制これらが有機的に補完しあって定修工事は施工される。
特に管理監督の立場にある者相互の密接な意思の疎通が最も大切なことである。客先とか業者とかの垣根を越えてコミュニケーションが円滑に行われることが定修工事の成否を決めると言っても過言ではない。
そこで、定修工事が開始されるに先立って、関東石油と報国工業の担当者は一堂に会して、打ち合わせ会を開催するのが常となっていた。酒食をともにしながらお互いにこれから定修工事という共通の目標に向かって進んでいくという意識を共有するための日本的な儀式である。この定修工事事前打ち合わせが終わりに近づくと三々五々気の合った者同志で二次会、三次会へと流れていく。
沢村も客先の若い担当者を十人程引き連れて部下の尾崎に先導させながらゆきつけのスナックバーへ乗り込んだ。カラオケの置いてあるところが人気があった。歌は決してうまい方ではなかったが、新曲をよく知っており求め
られればどんな曲でも一通りは歌えるということで、沢村は客先の若い人に好かれていた。
「あら、いらっしゃいませ。今日は大勢で」
「ママ、今日は大切なお客さまだからよろしく頼むよ」
席に着くと皆それぞれに好みの曲をリクエストしてマイクを握り自分の声に酔ってくる。
「サーさん、今日はどちらのお客さまですか」
『貴公子』のママが沢村の隣の席へ寄ってきて聞いた。
「関東石油さんだよ」
「関東石油と言えばつい先日東都プラントの河村さんが関東石油の製造の人と『姫』に来てたそうよ。
「名前は」
「栗原さんとか言ってたわ」
「製造の人と何を話したんだろう。商売とは関係なさそうだがね」
『姫』は東都プラントがよく使っているキャバレーである。ここ『貴公子』のママの友人が『姫』に勤めているので沢村は東都プラントの動きを知るためにママを通じて情報の提供を受けている。東都プラントの河村が接待するのだから何か画策しているのであろうか。関東石油製造課の栗原を接待する狙いが判らなかった。工事に対して発注権を持っているわけでもなく、工事の監督権限や検収権を持っているわけでもない。ちょっと理解に苦しむ河村の動きであった。
関東石油の工務担当者と東都プラントの担当者との間は急速に近づいたが構内には報国工業が専属の下請けとしてにらみを効かせており、つけいる隙がなかった。そこへ降って沸いたように発生したのが、松山一朗の労災事故であった。報国工業にとってこの事故は有形無形のダメージを与えることになった。
ことあるごとに関東石油からは、松山一朗の労災事故を例証に持ち出され発注単価を値切る種に使われた。また、東都プラントを競争相手として相見積もりをとると脅かされていた。報国工業では沢村が中心となって防戦に努め東都プラントが関東石油構内へ常駐業者として食い込んでくるのを辛うじて防いでいた。

6.
常泉寺は国鉄鶴見駅から山手へバス通りに沿って徒歩で7分程のところにある。寺の裏手にはスーパーマーケットの白い四階建ての建物が木立の間に見え隠れしている。
「まだ、埋葬許可は下りないのかね。沢村君」
「今、葬儀屋を鶴見警察へ交渉に生かせているのですが、本籍地照会の調査結果の連絡がまだ入らないそうなので、もう少し待って欲しいということです」
「たとえ、身元が判らなくても、仏様を何時までもこのままにしておくことは出来ないだろう。遺族が現れたときにはお気の毒だが、お骨で引き取って頂くことにしようではないか」と喪服に身を包んだ大柄な50歳前後の男が部下の沢村に結論を下すように言った。鼻の下に蓄えたちょび髭がこの男の言葉に重みを加えた。
社長に言われるまでもなく、沢村勝は先刻からやきもきしながら葬儀屋が帰ってくるのを待っていたのである。
寺の本堂には既に白木を組み合わせた祭壇ができあがり、拾い境内には受け付け用のテントも二張り張られている。気のはやい弔問客はぼつぼつ集まりかけている。弔問客と言っても会社関係の客ばかりで、故人の身内の者とか、親しい友人等は一人もいない。一風変わった葬式になりそうである。故人の写真が祭壇に飾られていないのも故人の死が異様のものであったことを物語っている。
故人の俗名は松山一朗といい、推定年齢は26歳であるが、偽名の可能性が強い。
松山一朗が京浜工業地帯の一角にある関東石油横浜工場の構内で石油精製装置の定修工事に従事していて事故死したのは五月七日のことであった。
松山一朗は当日犬山組の作業員として、ベンゾール製造装置の小型タンク内の配管を取り替えるため、マンホールから中へ入り込み作業中倒れたのである。
労災事故の発生とともに関東石油では所轄の鶴見警察署と鶴見労働基準監督署へ通報し、検死の結果事故死と断定されたが、死因については司法解剖の結果により判断されることになり、遺体は直ちに横浜市立大学の付属病院へ移送された。
事故に最初気づいたのは、松山と一緒に作業していた梅林である。
その日は朝からベンゾール製造装置の修理が予定されており、3日前から装置内のベンゾールは抜き取られていた。抜き取った後,残留ガスを追い出すため、窒素ガスを圧入し完全にベンゾールの残留ガスがなくなった頃を見計らってバルブとマンホールが開放されるのが通常のやり方である。マンホールからタンク内に入る前には空気を吹き込んで窒素ガスも追い出してしまうことになっている。酸素欠乏による事故が起きるのを防ぐためである。
松山と梅林は二人で組を組んでベンゾール製造装置の小型タンクに潜り込みタンク内のボルトを外し部品を交換する作業に従事するよう指示されていた。
石油精製工場内での作業は危険物を取り扱っているので、安全対策上色々な制約がある。作業員の動きは独自の判断が許されず必ず石油会社の担当係員の指示に基づいて工事監督が発する作業指示受けてから行動するよう義務づけられている。最も注意を要するのは火気使用である。施工上ガス切断電気溶接は不可欠の作業じあるため、ガス、電気を使うときには細心の注意が要請される。有毒スの発生、酸素欠乏状態の作業環境、高所での作業等危険な場所は至るところにある。その日松山はガス検知検査終了の指示を受けたので、先ず松山がタンクの中へ入った。タンク内中は人一人がやっと潜り込める程の広さであり、無理な姿勢で作と梅林はタンクの中へ入るに先立ち、ガス検知と酸素欠乏状態の有無の検査をして貰って、作業指示オーケ業をするのであまり長い時間入っていることはできない。松山が中へ入って暫くの間、タンクの中からは、スパナでボルトの頭でも叩いているらしくカーン、カーンという金属音が聞こえていた。
梅林はタンクの外で装置についているバルブを取り外す作業に精を出していた。五月の日差しは肉体労働をすると体に汗をにじませた。梅林は時々ヘルメットの顎紐を緩めてヘルメットをあみだにし、汗をぬぐい取った。ボルトが腐って錆びついているので、ボルトの頭にスパナをはめてハンマーで叩くのだが、作業は意外に手間取った。漸くボルトを一本抜いたところで時計を見ると松山がタンクへ入って既に30分は経過している。
「おーい、松山時間だよ。出てこい」とマンホールから中を覗き込んで声をかけたが何の反応もない。
明るい戸外で作業していたのでタンクの中を覗いても、暗くて中が見えない。
「おい、松山どうした。早く出てこい」
大声で梅林が怒鳴ると声がワーンワーンと聞こえるが松山の返事は返ってこない。暫く耳を澄ましてみたが、人の動く気配もない。漸く暗さに目が慣れて上の方を見上げると松山の足が二本垂れ下がっているが動かない。胸騒ぎを覚えた梅林は「誰か来てくれ。松山の様子がおかしい」
と助けを求めた。
梅林の声に近くで作業していた作業員が4?5人駆け寄って来た。どの作業員も汗と油にまみれ、黒く汚く汚れていた。たまたま、パトロール中の関東石油の安全担当者大浦英夫も、騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた。大浦は
ガス検知の担当者だったからもしかすると自分の手落ちで有毒ガスが残っているのに気づかずオーケーの報告をしたのではないかと内心ビクビクしていた。ガス中毒による事故でないことを願っていた。
「どうした」
と大浦が声をかけた。
「松山の様子がおかしい。いくら呼んでも返事をしないのだ」
と答えておいて梅林は同僚を救い出そうとマンホールからタンクの中へ潜り込んだ。
「危ないぞ。ガス検をして貰え」
と言って引き止めようと足を引っ張る者もいたが、梅林は意に介さなかった。狭いタンク内は梅林が入るともう他の者は入れない。梅林が小腰を屈めて上を見ると、松山はタンクの中を通っている4インチほどのパイプの上に腰を下ろして頭を前へ垂れ、うつむんたままの姿で動かないでいる。目の前に垂らしている二本の足に手をかけるとぶらぶらしている。中は狭くて松山のいる場所まで登っていくことができない。梅林は急いでタンクの外へ出て「どうも様子が変だ。死んでいるかもしれない」
と変事を告げたが自分でも声がうわずっているのが判った。
「早く助けろ。外へ引きずり出すんだ。何をボヤボヤしている」
と急を聞いて駆けつけてきた工務課の山本正が顔色を変えて怒鳴った。
山本は梅林と入れ代わりに中へもぐり込むと松山の両足を引っ張って引きずり降ろし、両足をマンホールから外へのぞかせた。外で待機していた作業員達が松山をタンクの外へ引きずりだしてみるとぐったりして死んだように動かない。このような突発的な変事が発生したときには、大勢人は集まってきてガヤガヤ騒ぐが、てきぱきと状況を判断して適切な措置を取れる人は少ない。
「救急車に電話したか」
「早く医者を呼べ」
「医務室の医者はまだ来ないのか」
「酸素ボンベを持ってこい」
と口々に騒いでいる。思い出したように、あたふたと駆けだして行く者もある。皆がてんでに自分の思いつきを実行に移すことになるので混乱を招くことになる。後で判ったことであるが、消防署へはこの事件についての出動要
請が五人の人から別々にあったそうである。五人五様に状況を説明するので混乱は増すばかりである。ある者は死んだといい、或る者は死にそうだといい或る者は怪我をしたという。
酸素を吸入させるつもりか酸素ボンベを担いできた者もいる。何を慌てたのか窒素ボンベの空瓶を運んできた粗忽者もいる。
誰もがまず思いつくことは救急車を呼ぶことである。だが自分で手を下してこの場合もっとも有効な応急手当てをすることができない。人口呼吸をしてみようということに思いつくまでにかなりの時間を徒過していた。
山本はベンゾール製造装置の直接の担当者であった。関東石油では若手の工務課員としては人当たりもよく、仕事もよくできるという評判である。下請けの作業員にも仕事は厳しいが自分達の気持ちをよく理解してくれると人決断も速いが短気で怒りっぽいのが玉に疵だと言われている。
山本は自分の担当するベンゾール製造装置で起こった事故だけに責任を感じて必死で松山を助けたいと思った。
「救急車はまだ来ないのか」
と叫びながら心臓に耳を当ててみると鼓動音が微かに聞こえている。
「まだ生きている。早く医者を」
と山本
「早く上着を脱がせて人口呼吸をしてみろ」
と誰かが叫ぶ声が聞こえた。その声に山本は大事なことを忘れていたぞと臍を噛む思いであった。人口呼吸法としては、口を相手の口へあてがい呼気を直接送りこんでやるのが一番効果的だということは、この事件の後山本が医師から得た知識である。
「医者は何している。まだ来ないのか」医を噛む思いで松山の作業衣をめくり上げ膝を折って人口呼吸を始めた。
「今日は金曜日だから、医務室には看護婦だけしかいない。今博善す病院へ者を迎えに行っているからもうすぐ来るだろう」
ピーポー、ピーポと間の抜けたサイレンを鳴らしながら救急車が到着するのと博善病院から医者が到着るのと殆ど同時であった。
その医者は白衣に身を纏い手慣れた手つきで作業を進めた。松山の右手の脈をとり首をかしげている。心臓に聴診器をあてていたが、やがて目蓋を指先で器用にめくり懐中電灯の光を当てて瞳孔を調べている。
いつしか駆けつけた工務部長、製造部長の顔も群衆の中に認められた。
皆が固唾を飲んで見守る中で駄目だという風に首を振った。医者の一挙手一投足は言葉よりも雄弁である。松山の心臓は完全に止まってしまったようである。
藁にでも縋りたい気持ちで医者の動作を見守っていた山本はがっかりしてその場へ崩れ落ちそうになる気持ちを辛うじて耐えた。心配していたことが遂に起こったというのが実感であった。
救急車は死体を病院へ運ぶこともできず空のままで帰って行った。虚しさだけが残された。
遺体は担架で医務室へ移され、警察の手によって検死を受けることになった。
沢村がこの事故のことを聞いて出先から現場へ駆けつけたときには、松山の遺体は医務室に移され顔には白布がかけられていた。松山という名前は沢村も初めて耳にする名前であった。松山の遺族の住所が判らないので、関東石油の担当者と警察官は沢村が駆けつけるのを待っていた。
それまでの調べでは松山について詳しく知っている者は皆無で同僚の梅林が、松山は一週間程前に犬山組へ臨時の作業員として雇われたらしいということを知っているだけであった。本籍、生年月日、現住所、家族などついて何一つ判っているものはなかった。本人が雇われている犬山組の親方は不在で連絡のとりようがないという。
今回の定修工事の元請け会社である報国工業の責任者沢村勝なら知っていることがあるかもしれないということで、沢村の到着が待たれていたのである。
沢村の周辺は俄に慌ただしくなってきた。
沢村が松山一朗の雇用系統を辿ってみると驚いたことに、六次下請けの作業員であることが判明した。
沢村の勤務する報国工業は石油精製装置の配管工事に関しては日本でもこの業界では名の通った創業30年になる老舗である。報国工業は職人上がりの創業者社長の実直な人柄と信用で関東石油から横浜工場の常駐業者に指定され、ここ15年来関東石油会社横浜工場の構内配管補修工事は一手に引き受けるまでになっていた。
今回の関東石油横浜工場の定修工事は報国工業が元請けとなり、五月一日から装置を止めて、五月末日までに操業を再開できるよう、装置の不良箇所の補修、装置の改造等を完了させなければならないのである。しかも、工期は通常よりも短く、ゴールデンウイークを返上して工事を行い、少しでも装置の止まっている期間を短くしたいという施主の強い要請があった。
昭和46年の5月といえば、ニクソンショック、オイルショック以前の時期であり、日本の高度成長は最盛期である。佐藤内閣の指導のもとに、日本の産業界はめざましい躍進をしていた。生活環境、生活様式も激しく変化し
ていた。
産業界はスケールメリットを狙って設備投資を大胆に行い、人手不足の経済と言われ、各産業界とも人手の確保には苦労していた。報国工業でもご他聞に漏れず、人集めには難儀していた。
工事会社の特質として固有の常用労働者は工事監督と見習いだけであり配管工、電気溶接工は一つの工事毎に職人グループの親方に話をつけて集められる仕組みになっている。
この業界では配管工、電気溶接工ともに、4?5人乃至10人前後のグループが親方と呼ばれるボスの配下にあって工事毎に請け負い契約を結び、工事完了までその工事現場で就労するのである。工事の規模が大きくなると直接職人を集めることは煩瑣になるので、同業者で自分と同等乃至は少し規模の小さい会社へ工事を分割して発注し、これを受けた会社が職人を集めて仕事を進めていくわけである。
このような仕組みの中では、資金力と信用と技術力と監督力さえあれば、相当大きな工事でもこなしていける。
報国工業が今回受注した関東石油横浜工場の定修工事は、毎年手掛けてきているので、報国工業にとっては別段難しい仕事ではなかったが、人手の確保の面と受注単価の面でかなり厳しいやりくりを余儀なくされていた。出入りの業者を傘下に相当数抱えていたので、分野分野に応じて、配管、電気溶接、機器据え付け、土木、塗装、保温、運搬というふうにそれぞれの専門業者に発注してあとはこれらの業者を組織化し、報国工業の監督のもとに工程に合わせて仕事を進めればよいのである。
だが、問題は出入り業者に職人を集める力が弱くなってきていることであった。時世というものである。人手不足の時代で、腕のよい職人は引っ張りだこであり、彼らは10円でも20円でも賃率の良い仕事へ好んで移動して
行く。雇主の迷惑など一顧だにしない。昨日まで来ていた職人が今日は顔をみせないので、親方が自宅を訪ねてみると、別の業者の所で働いているというようなことは珍しくない。
定修工事のように短期間で多数の人間を集めて、一気に片づけてしまわなければならないような工事では、職人の手間代を世間相場の五割増しから倍近くもはずまないと必要な職人の頭数を揃えることができない。腕の良い職人と腕の悪い職人とでは、仕事の能率が極端な場合、二倍も三倍も違ってくる。
報国工業では世間相場よりもかなり高い水準で、業者に発注し、質の良い職人が集められるよう特に配慮していた。沢村が松山一朗の雇用経路を辿ってみると、報国工業が熱交換機のチューブ取り替え工事等機器関係の仕事を一括発注した山中工業は更にその仕事を分割して松野組と葦原機工に発注していた。葦原機工は更に海野組に発注し、海野組は極東工業を通じて犬山組に発注していたのである。松山一朗が就労するまでには、実に六段階の経路を経ていたわけである。しかも、請け負い契約書が整備されていたのは、葦原機工までで、海野組、極東工業、犬山組の段階になると契約書はおろか、作業員の名簿や賃金台帳すら整備されていないピンハネ会社であった。調査の過程で一寸気になったのは、犬山組が東都プラント専門に人夫出しをしているブローカーであるということである。
沢村の懸命な調査で松山一朗の手に渡っていた賃金は、報国工業が山中工業に対して発注したときの基準単価の三分の一程度になっていることが判った。人手不足の時代に短期間に500人近い労働者を集めるためには、いかに老舗で名が通っているとはいえ、報国工業一社だけで、直傭の作業員を動員することは不可能である。そこで請け負いという形式によって必要な人員を集めることになる。
報国工業は工事部長の沢村が統括責任者となって、今回の定修工事を五つの工区に区分して、金山工務店、京浜工業、山中工業、宮守土建、横山管工にそれぞれの専門に応じた発注をしたのである。従って報国工業としては、直接工事を発注した五社の工事責任者に作業指示をすればいくつかの経路を経て末端の作業員に指示が流れる仕組みになっているのである。
通常、金山工務店、京浜工業、山中工務店、宮守土建、横山管工程度の規模の会社であれば、直傭の配管工、溶接工、仕上げ工、鳶工、土木工を30?40人は抱えており、出入りの親方も14?15人はいるので、500人程度の作業員を集めるには5?6社に発注すれば動員可能であった。ところが、今回松山の事故があって判明したように各業者とも人手が十分確保できなかったため、次から次へと下請け契約を重ねて六次下請けにまで及ぶ異常な形になっていた。間へ業者が入るごとに末端の作業員に渡る手間代はピンハネされて安くなっていく。電話一本と机一つだけの人寄せブローカーが雨後の竹の子の如く発生し暗躍することになり、作業員の技能の程度は度外視され、頭数だけが揃えられる。
沢村は報国工業の工事部長として、今回の関東石油横浜工場の定修工事については全責任を委ねられている。松山一朗の死亡事故が発生したからといって今回の定修工事を一日でも遅らせることは出来ない。納期は厳守しなければならない。
沢村は関東石油の定修工事を担当している主だった部下を集めて、安全作業に充分留意するよう訓示をするとともに、松山一朗の事故の処理は沢村が引き受けることを表明した。現場に対しては今回の事故で作業員の士気が低下しないよう空気を入れ、工事は納期内に完工するように特に指示した。
沢村が知り得た情報を持って関東石油に報告に行くと工場長室に工務部長製造部長、総務部長が集まってきた。ここで一番問題となったのは松山一朗の身元が判らないことである。
犬山組に残されている記録にはドヤ街にある簡易旅館福寿荘が現住所になっており、年齢26才氏名松山一朗ということだけが書かれているに過ぎない。同僚の梅林も出身地は大阪方面らしいというだけで、個人的な付き合いは全くなく、一週間程前に犬山組へ連れてこられた松山と一緒に仕事をすることになっただけであるから、何もわからないという。梅林が松山の出身地は大阪方面だとする根拠は、関西弁が会話の中に混じっていたというだけのことである。関東石油の幹部は身元のはっきりしない者が報国工業の指揮下に入って、作業していたことを取り上げて、報国工業と沢村の責任を追求した。沢村はただ平謝りに謝る他に術がなかった。
警察でも松山の身元が判らないことに対しては異常な関心を示した。
調査に来ていた刑事が「この仏は大きな山を踏んでいるかもしれんな」と洩らしたのを沢村は耳にした。
警察では府中市の三億円強奪事件が未解決なので松山の死亡を三億円事件の犯人と関係ないだろうかという観点からチェックしているようであった。
松山一朗の遺体は身元が確認されないままで、横浜市立大学の付属病院へ移送された。司法解剖するためである。身元の調査は鶴見警察で行うことになった。
身元の確認ができないままに、遺体を何時までも放っておくわけにもいかず、報国工業の手で葬式を営むことになった。司法解剖が終わったら報国工業が責任をもって遺体を預かり、法定限度一杯預かってそれでも且つ身元が判明せず、遺族が現れない時は、火葬にすることで当座の遺体の処理については結論が出された。
元請け会社である報国工業の指揮下で発生した事故なので、遺体の引き取り手がない以上元請け会社の責任において葬儀を営むことが色々な意味で問題が少ないだろうと沢村が判断し、社長の決断を得た結果である。本来であれば犬山組と雇用契約のある松山の公務上での事故死であるから、犬山組の責任において、遺体の処理が行われる性質のものであるが、犬山組には葬儀を営むだけの資力もないし暴力団に繋がりのありそうな気配が察知されたので、関東石油に迷惑がかかることを虞れたからである。いずれ遺族が現れるとしても遺骨を遺族の手に確実に渡すためには、報国工業で供養し保管するのが最善の方法と判断された。
鶴見警察では松山の身元を確認するため、松山の宿泊先である福寿荘へ係員を派遣し経営者に松山についての情報をただしてみたが、一週間程前の4月30日に投宿し、松山一朗26才と称していたということしか判らなかった。松山の宿泊していた部屋に松山の持ち物として残されていた物はスーツケース一つに詰め込まれていた背広一着と下着類5枚、セーター1枚だけであり、あとは洗面器に投げ込まれていたタオル、歯ぶらし、石鹸、安全剃刀があるだけであった。持ち物の中には身元を知る手掛かりとなるものは何一つなかった。背広にも名前の縫い取りはしてなかった。
ただ手掛かりになるかもしれないと思われるものは、スーツケースに入っていた一冊の手帳である。この手帳は神戸銀行製のものであり、手帳の中には前から五ページほどにわたって達筆で最近流行の歌謡曲の歌詞が五曲書き抜かれていた。そして手帳の裏表紙に印刷されているカレンダーには1月17日、5月26日、7月3日、7月22日の日付に○印が付けられていた。
松山は几帳面な性格らしく、スーツケースにはいっていた下着類は綺麗に洗濯してきちんと畳んで入れられていた。布団も丁寧に畳んであり、灰皿の中には吸殻も残っていなかった。
鶴見警察では松山から採取した指紋を警視庁へ送り、犯罪者台帳の指紋と照合することを依頼した。同時に兵庫県警と大阪府警へも指紋を送ると共に松山一朗名で登録されている前科者台帳と戸籍の調査を依頼した。
沢村は鶴見警察へとりありずの挨拶に行ったときに以上のような手を警察が打っていることを聞き出してきた。
松山一朗の遺体は葬儀屋の手によって翌5月8日に常泉寺へ帰ってきた。
形ばかりの通夜が遺族の参列しないまま、報国工業が施主となって寂しくとりおこなわれ、明けて5月9日午後3時より告別式と定められた。
司法解剖の結果は、外傷はなく酸素欠乏による窒息死というのが司法医の所見であった。
告別式の時間が迫ってきたが、警察の必死の調査にもかかわらず松山一朗の身元は依然として確認されない。告別式に先立ち葬儀屋が警察へ埋葬許可を貰いにいったが松山一朗の身元が確認されていないのでなかなか許可が下りず沢村はじめ関係者を慌てさせた。
常泉寺では住職が松山一朗の祭壇に向かってお経を上げはじめた。
山本正にはお経の声が一際もの悲しく聞こえた。
広いお堂には30名ばかり、喪服を着た弔問客が神妙な顔をして座っている。その中には関東石油の幹部の顔もあった。
境内にも34?5人の参会者が整列して写真の飾ってない祭壇に向かって次々に焼香を始めた。一般の葬式と違って女と子供の姿が見えず男ばかりが集まってきている。境内には花環が10本程飾られているが、報国工業、葦原機工、海野組、極東工業の会社名がみえるだけで、あとはそれぞれの会社の従業員一同という名で飾られている。関東石油と犬山組の花環が出ていないのは奇異な感じを参会者に与えた。とりわけ沢村と山本は関東石油の花環がないのを複雑な気持ちで眺めた。
「やっと埋葬許可が貰えました。三時の出棺にはどうにか間に合いました」
警察へ交渉に行っていた葬儀屋が鼻の頭の汗を拭きながら帰ってきた。
関東工業、報国工業、葦原機工からはそれぞれ20名くらいずつ、この松山一朗の葬儀に参列したが、海野組、極東工業からは代表者が焼香にきただ犬山組からは松山と一緒に仕事をしていた梅林が音頭をとって集めた職人数名だけであった。
ったらしく、作業服姿の職人が2?3人梅林とともに参列していた。参列者の注目をひいたのは両足に包帯をぐるぐる巻き、車椅子に座って威勢のいい若者達に取り巻かれている50年配の小柄な男である。この男が犬山組の親方犬山勇次である。犬山は読経も終わりに近づき出棺があと10分後に迫った頃、ドヤドヤとやってきてサッサッと引き上げて行った。
その時沢村は受け付け係として弔問客の名刺やら香典の整理をしていた。
トラックが常泉寺の境内に乗り入れられたとみるとドヤドヤと作業服姿の若い男達が荷台からとびおりた。
屈強な若者達は車椅子を荷台から取り出すとトラックの横に置き、助手席側の扉を開けた。そこには小柄な男が座っており、若者達に抱き抱えられて車椅子に移された。その男は若者達に守られるようにして受け付けまでくる
とやおら懐から香典袋を取り出して机の上に置いた。見ると三千円の札がむきだしで添えられていた。
「ご苦労さまです。どうかご署名を」
沢村がサインペンを差し出すと、犬山はジロリと沢村へ一瞥を送り金釘流の署名をした。
沢村は犬山組が今後どのような動きをするか気になった。犬山勇次は若者達を従えて、車椅子のまま仏前で焼香を済ませると不遜な態度で帰って行った。それは疾風の如く現れ、疾風の如く去っていった。
参会者があっけにとられ、静寂のあとにざわめきが起こったとき、今度は二人連れの若い男がカメラをぶち下げて受け付けへつかつかと歩み寄った。
名刺には日本新聞社社会部桑山由雄と印刷されている。
「鶴見署で聞いてきたのですが、引き取り手の無い仏の葬式というのはここですか。一寸取材したいので、葬式の責任者に会わせてくれませんか」と言う。沢村はまずいことになったなと思った。
日本新聞社は大手の新聞社であり、その社会面の記事は派手に取り扱うことで定評があったからである。関東石油では一ヵ月前にも構内の常駐清掃業者がタンク内の清掃作業中に死亡事故を起こしていたから、関東石油の安全管理体制にメスを入れた記事にされることは十二分に予想された。しかも今回の事故では引き取り手が判らないという俗受けのする記事としては恰好の材料なのである。
沢村としては関東石油の生産第一主義の管理体制に対しては常々改善方を申し入れていたし、今回の松山一朗の事故に関しても、関東石油の作業指示の仕方に過失があると考えていたので、そのこと自体を記事にされることは今後の安全管理体制の改善にとっては結構なことである。
しかし関東石油の管理体制に問題があるとはいえ、今回の事故が報国工業の配下の業者のもとで起こったものであるだけに、困った問題なのである。
あまり派手に扱われると報国工業の商売にからんでくるからである。
おそらく関東石油では自社の管理体制に問題のあったことには頬かぶりして報国工業に今回の事故の責任を転嫁してくることは目に見えていた。
沢村が工場長室へ松山一朗の事故が発生した直後、謝りに行ったときにも関東石油の幹部の言動には、そのことを予想させるに充分な兆候がみられたし、今日の葬儀に関東石油から花環が贈られていないという事実が彼の予想を裏付けている。
今回の事故の責任が関東工業にあるということになれば、構内常駐業者の指定を取り消されることさえ予想される。
報国工業に替わって構内常駐業者の指定を受けようと虎視眈々として狙っている同業者は沢山ある。特に東都プラントの動きには注意しなければならなかった。今回の事故は大騒ぎにならずに秘かに処理して貰いたいというのが沢村の偽らざる心境である。
「私が責任者の沢村ですが」
「事故の原因は何だと考えますか」
「まだ調査が終わっていないのでよく判りません」
「関東石油では4月の3日にも同じような事故を起こしていますね。同じような事故が続いているのは、関東石油の安全管理体制に何か根本的な欠陥がありそうに思えますが、あなたはどう考えられますか」
案の定、沢村が予想していた質問を発してきた。
「私共は関東石油さんから御仕事を戴いている立場ですから、関東石油さんの安全管理体制に欠陥があるのかないのか軽々しく意見を申し上げることは差し控えたいと思います。一般論でよければ,私なりの見解は持っております」
「大企業の横暴というやつですか。まぁいいでしょう。その一般論を聞かせて下さい」
「私どもは工事会社ですから、関東石油さんに限らず、他の会社からも仕事を戴いて施工をしますが、安全対策にかける予算が少ないように思います。
お客さんの立場に立てば施工上の安全対策費は事故さえ起こらなければ少ない方がいいに決まっています。安全対策費は付加価値を産みだす投資とはいえませんからね」
沢村は煙草を取り出して火をつけながら続けた。
「例えば、私どもでも架台の上にパイプを乗せて配管する場合は非常に多いのですが、高所作業なので足場が必要になります。安全確保の観点から言えば手すりをつけて足場の下には安全ネットを張れば万全でしょう。その上作業員には安全ベルトをつけさせます。ところが工事が終われば、足場は取り払ってしまうのですから、投資効率は非常に悪くなるわけです。できることなら最小限の費用で済ませたいと思うのは人情です」
「足場が不完全だったことが今回の事故の原因だということですか」
競争が行われれば採算をあげていくためには、安全対策費のようなものは最初に槍玉にあげられます」
沢村は煙草の吸殻を灰皿へ捨てて湯飲みに残っている冷えたお茶をすすった。
「人手不足のために、技能工が不足し素人が現場へきて一人前の顔をして作業しているのも、安全上は大きな問題を抱えています。このことは客先の会社についても言えることだと思います。会社の規模がどんどん大きくなり、
設備も最新鋭のものにどんどん変わっていきますが、技術者や技能者の質、量ともにこれに追いついていくことができない。それでも採算をあげていくためには、未経験の技術者でも新鋭の設備に配置せざるをえない。特に定修工事のような場合、経験不足の技術者が工事を担当すると無知なるが故の危険な作業指示を業者に与える。これを受ける業者の作業員も未熟連工が多いので危険な作業指示に対しても疑問を抱かず指示された通りの作業をして事故を起こす」
頷きながら沢村の話を聞いていた桑山由雄が更に鋭い質問を浴びせかけてくる。
「関東石油の工事発注額に占める安全対策費は何パーセントぐらいだと思いますか」
「私どもでは判りません」
沢村のところへ新聞記者が取材にきているということを聞きつけたとみえて関東石油の総務課長が血相を変えて本堂から飛んできた。
「今、取り込み中で出棺も間近だから取材は遠慮して貰いたい。沢村さんも駄目じゃぁないか、勝ってに取材に応じたりしては」
関東石油の総務課長は顔半分をひくひくさせながら桑山と沢村に食ってかかった。
「あなたが、関東石油の広報担当者ですか。よいところへ来られた。関東石油では今回の事故に対してどのような責任をとろうと考えていますか。聞け
ば遺体の引き取り手がないというではありませんか」
桑山は少しも怯む様子をみせない。
「とにかく、今は取り込み中だから帰ってもらえませんか。ノーコメントです」
暫く総務課長と桑山の間で帰れ帰らぬという押し問答が繰り返されたが霊柩車が到着して出棺の時刻となったので、桑山は取材を断念したのか、意外に素直に引き上げて行った。
このようにして前代未聞の葬儀は終わった。
野辺の送りに火葬場まで同行した沢村は梅林にお骨を拾わせて、常泉寺に持ち帰り遺族の現れるまで供養して貰うよう住職に依頼した。慌ただしい一日は終わった。

7.
翌日の新聞には『遺体の引き取り手のない葬式・・・ここにも大企業の犠牲』という見出しで松山一朗の事故と葬儀の模様が報道された。
記事は関東石油会社の安全管理体制にメスを入れるという論調で一貫しており、大企業の発展はこうした下請け企業の作業員の犠牲の上に成り立っているという論旨であった。日本新聞に記事が載った日、報国工業の沢村に警察から呼び出しがあった。
国道沿いに建っている古ぼけた鶴見警察署の長谷部刑事を沢村が訪ねていくと刑事は椅子を勧めた。隣りの机ではパジャマを着て手錠をかけられた背0の高い男が中年の刑事に尋問されていた。話の様子では空き巣狙いが捕まっ00て取り調べを受けているようである。
「報国工業の沢村でございます」
沢村が名刺を出すと長谷部刑事も机の引き出しを開けて、名刺を取り出した。
「長谷部です。ほう、重役さんですか。まあかけて下さい」
「失礼します」
沢村が腰を下ろすと刑事は世間話もないままに用件に入った。
「早速ですが、先日の松山一朗の事故死について、お聞きしたいので来て貰いました。先ず、報国工業は関東石油会社とどういう間柄の会社ですか」
「私どもは関東石油さんより,仕事を戴いて工事する配管工事の会社です。
関東石油さんの下請け工事業者です」
「報国工業に関東石油の資本は入っていますか」
「入っておりません」
「被害者の松山一朗はあなたの会社の従業員ですか」
「いいえ」
「それでは、松山一朗が従事していた仕事があなたの会社とどういう関係にあるのか説明して下さい」
「事故の発生した工事はベンゾール製造装置定修工事です。私どもは関東石油会社さんより定修工事として五つのプロックに分けて注文を戴いておりますが、ベンゾールの定修工事はその中の一つです。今回のベンゾール製造装置の定修工事は私どもが元請け会社となって山中工業に発注しました。山中工業は仕上げや機器の据え付けには定評のある会社です。私どもでは請け負い契約ですからそこから先どのような経路を辿って松山一朗のところまで流0れていったかは判らないわけです」
「山中工業とお宅の会社との間には請け負い契約が結ばれているということですね。その契約書を見せて下さい」
「そうです。契約書はこれです」
沢村は予め用意してきたベンゾール製造装置定修工事についての注文書と請け書の写しを鞄の中から取り出して長谷部刑事に渡した。この注文書も事故発生後、関東石油で慌てて作成し報国工業へ届けられたものであった。
「山中工業が更にその仕事を次の業者へ発注したかどうかについては知っていますか」
「はい、正直申し上げて、今回の事故が発生するまで知りませんでした。請け負い契約の本旨から言って私どもでは山中工業さんがどのような施工方法でやられようと仕様通りの工事を納期までに完了して納めて戴ければよいからです。勿論元請け会社ですから山中工業さんの作業についての監督は私どもでやりますが、山中工業さんが自分のところの社員の手を使ってやろうと0或いは下請け作業員の手を使ってやろうとそれに対しては口を挟むことはありません」
「それでは山中工業の発注先は判らないということですか」
「今回の事故が発生してから、仕事の流れを私なりに調べてみました。それで初めて判ったのですが、山中工業さんは更に仕事を二つの工区に分割して松野組と葦原機工に発注しております。海野組は極東工業を通して犬山組を使っていたことが判りました。松山一朗は犬山組の臨時工でした」
「すると関東石油、報国工業、山中工業、葦原機工、海野組、極東工業、犬山組という六段階があるということですね
「はあ、そういうことです」
「随分多くの手を通ったものですね。私も孫受け、曾孫受けというところまでは知っていたが、六次下請けというのは初めてだね」
「どうも申し訳ありません」
「何もあなたが謝る必要はないんですよ。沢村さん。事実を正直に話して貰えればいいんですから」
長谷部刑事はハイライトの箱から一本取り出して、口にくわえながら言った。沢村は慌ててポケットの中からライターをまさぐりだして火をつけてやった。
彼は中小企業の経営者として役人を怒らせたら、どんなに怖いかということを肌身にしみて知っているので、感情を害さないように言葉を選択しながら応答した。
「工事の発注形態については判りました。ところで、作業指示の流れといいますか、末端の作業員が仕事をするまでの流れを説明して下さい」
「客先から工事仕様書というものを頂ますので私どもでは仕様書に基づいて作業を進めます。私どもが下請け業者を使う場合にも工事仕様書を与えて仕様書に基づいた仕事をさせます。勿論仕様書の他に施工図、詳細図面、材料表、工程表といったものもありますので、これらの資料を基にして作業を進めます」
「それでは松山一朗が当日タンクの中に入って作業をするということも仕様書の中に書かれているわけですか」
「そんな細かなことまでは書かれていません」
「私が聞きたいのは一般論ではなくて、当日の松山一朗の作業は誰の指示によってなされたかという具体的なことです」
「松山一朗にタンクへ入ってフランジを止めてあるボルトを外せという指示は元請けである私どもの監督がすることになります」
「関東石油の係員は全然関与しないのですか」
「具体的には松山一朗を名指してタンクへ入ってポルトを外す仕事をせよという指示は私どもの監督がしますが、タンクへ入ってよいかどうかの指示は関東石油の担当者が私どもの監督に対して行います。何しろ有毒ガスがあったり、可燃物があったり、酸欠状態があったりしますので、関東石油の担当者より指示がなければ、作業員をタンクの中へいれることはありません。そういう意味では関東石油の担当者の指示によるということになります」
「タンクの中の状態が危険な状態であるかどうかの判断は関東石油の係員がするということですか」
「そうです。私どもは施工業者ですから装置の中にどんな物が入っているか判りません。ですからバルブの開閉とかマンホールの開放とか装置についているスイッチ操作とか装置の運転に関することは一切、業者は行いません。
仮に命令されて行う場合でも、必ず関東石油の係員の立ち会いのもとに行います。特に定修工事のように生きている工場設備を相手とするときには、作業計画上どのタンクのどのバルブを取り替えるということが判っていても業者独自の判断で着手することはありません。必ず着手前に関東石油の係員の着手オーケーの確認をとってからでなければ、たとえボルト一本でも緩めることはできません」
「松山がベンゾールタンクへ入るについては安全の確認は行われましたか」
「はい。タンクの中へ入って作業するようなときには必ず、安全担当の関東石油の社員にガス検知をして貰って安全な状態であることを確認してから、
関東石油の担当係員の作業着手命令を得た上で作業を進めます」
「当日ベンゾールタンクへ入ることを指示した、関東石油の担当者は誰ですか」
「工務課の山本正さんです」
「ガス検知をした人は誰ですか」
「安全課の大浦英夫さんと矢口弘さんです」
「山本正は誰の指示を受けて命令しましたか」
「関東石油の職制からすれば、工務課長の林田さんだと思われますが、確認0はしておりません」
この後関東石油から報国工業に対して、出されている注文書、工事仕様書,工程表、請け負い基本契約書等について調書を取られた。
沢村は二時間に渡る長谷部刑事の取り調べを終えて解放された。
警察署を出たときどっと疲れが頭から首筋を通って体中に流れ渡ったよう
に感じた。沢村は警察では関東石油の過失責任を問題にしているなという感触を得た。長谷部刑事の取り調べの態度から推すと、報国工業に対しては過失責任を問題にしていないようなのでほっとした。
沢村が帰社するのを待ちかねていたかのように、関東石油の総務部長から呼び出しの電話がかかってきた。沢村が関東石油の工場長室へ案内されると工場長を取り巻いて総務部長と工務部長が深刻な顔をして座っていた。
部屋の黒板には今まで善後策について協議していたらしく、当日の事故発生状況の図解と定修工事中の作業管理組織図が書かれていた。
「このたびは、大変ご迷惑をかけてしまいまして申し訳ございません」
「沢村さん。警察ではどのようなことを聞かれましたか」
挨拶もそこそこに総務部長が口を開いた。度のきつい眼鏡がキラリと光り眼鏡のガラスの渦巻きが沢村の目に映った。沢村は警察での供述についてかいつまんで説明した。
「沢村さん、うちの山本の作業着手許可があったから、松山に作業指示を与えたと答えたのですか。それは早まったことをしてくれましたね」
総務部長が工場長の顔をチラリと見てから沢村の方に向き直って言った。
「はい。いけなかったでしょうか」
沢村はとぼけながら、それでも恐縮した風を装って応答した。
「もっと慎重に考えて下さればよかったのに。よく調べてからお返事しますとか何とか答えておいて我々に相談してくれればよかったのに」
非難がましい口調で総務部長が言った。度のきつい眼鏡の奥にある目の表情は判らなかった。
「はあ、申し訳ありません。何しろ警察から取り調べられるのは生まれて初めてだったものですから。ありのままを話してきました。御迷惑をかけることになったのでしょうか」
「君、あんたの配下の業者が死亡事故を起こしたんだよ。関東石油の業者ならそれぐらい頭を廻してもよさそうなものを」
工務部長が苦虫を噛み潰したような顔で甲高い声を上げた。
「沢村君は頭が廻るからな」
それまで黙っていた工場長がぽつりと言った。
沢村は案の定、きたなと思った。
工場長、総務部長、工務部長の魂胆は見え透いている。今回の事故については、関東石油では全然関知するところではない。業者の報国工業が、元請けの責任において、独断で作業指示を発したということにしたかったのである。関東石油の過失を取り繕って全責任を報国工業に転嫁し、下請け業者の責任においてこの事故を処理しようと考えていたのは明白である。
「沢村君は頭が廻るからな」という工場長の言葉はそのことう裏付けるような発言であると沢村は理解した。沢村は工場長の言をかりれば頭の廻る男であった。報国工業の切れ者として同業者からも恐れられ、客先からは信頼される反面、警戒されてもいた。だが、巧みな話術とこまめに体を動かし仕事のためには、昼夜構わず動き廻る行動力は客先から重宝がられていた。
沢村は事故発生とともに、報国工業にダメージの少ない処理方法について頭をめぐらせた。一種の動物的な勘が働いた。一番最初に心配したのは、松山の遺体をどうするかということよりも、報国工業の監督が独断でタンクの
中へ入るように松山に指示したのではないかということであった。常々部下達には関東石油の係員の許可がなければ、ボルト一本でも緩めるなと言い渡してあるので、まさかとは思ったが、一番気にかかるところであった。
事故の第一報を沢村が耳にしたとき、沢村が第一にしたことは、腹心の尾崎に命じて作業指示の流れを具体的に調べさせたことである。次に東都プラントの謀略でないかというのも気になるところであった。
松山の葬儀に関東石油として花環をだすべきか出さざるべきかについて総務部長と工務部長でもめているらしいという情報をキャッチしたとき沢村は覚悟した。関東石油が責任を転嫁してきたときには断固としてこれを拒否し
なければならない。しかも後に尾をひかない巧妙な方法で。たとえ、沢村自身の立場が苦しくなろうとも、責任を転嫁されることだけは報国工業の経営者として免れなければならないと思った。もし客先大事とばかり、そのよう
な言い分を受け入れたときに待ち構えているのは、そのような重大事故を起こした業者は出入り禁止にすべきであるという声が出てくるのは火を見るより明らかであった。
それが組織の論理であり、大企業に勤めるサラリーマンの保身の論理なのである。言い含める時には、必ず面倒をみるからここは泣いてくれないかと言っておきながら、承知させてしまうと手の掌をかえしたように冷たくなる
のである。沢村は下請け業者の弱さと大企業の冷酷非情さというものを長年の経験を通して肌で感じ取っていた。
関東石油の幹部から因果を含められようと厭味を言われようと拒否すべきものは拒否しなければならない。
今回のケースでは沢村にとって、また報国工業にとってラッキーだったのは、関東石油から手が廻る前に、沢村が警察の取り調べを受け事実関係を証言したことである。
沢村はただひたすらバッタのようにお辞儀をして、仏頂面をした総務部長工務部長、苦虫を噛み潰したような顔をしている工場長に別れを告げて帰宅した。
『あなたがたは管理者だと言って威張っているが所詮はサラリーマンだ。保身の術だけ考えて小田原評定している間にこちらは生活の智慧で先手をとらせて貰いましたよ』と沢村は言葉にならない言葉を胸の中で繰り返しながら頭を下げていた。彼は葬儀を報国工業の責任において実施しようと決定した社長の見通しのよい決断に人知れず感謝した。それはオーナーだからこそできる意思決定であった。
関東石油内部で、今回の事故の事後処理について議論百出している間に、犬山組の画策を封じて素早く野辺の送りを済ませてしまった手際の良さが面倒な問題の発生するのを防止した。
葬儀の後犬山組から関東石油へ数回、嫌がらせの電話があったり暴力団らしいやくざ者が徒党を組んで関東石油へ金をゆすりに来たが報国工業に対しては何もなかった。
事故発生から二週間ほど経って今回の事故について関東石油の係員山本正が業務上過失致死の容疑で起訴されたことを沢村は知った。このニュースを聞いてから間もなく山本が退職するという噂が流れた。

8.
山本正は松山一朗の労災事故死により、業務過失致死の容疑で基礎されてから会社の冷たさを知った。関東石油では会社の幹部に責任が及ぶのをくい止めようと画策した。その画策が見え透いた露骨なものであるだけに山本はやりばのない憤りを感じた。
山本正は報国工業の沢村が出た後、入れ代わるようにして工場室へ呼ばれた。
「山本君、御苦労様。そこへかけたまえ」
総務部長が折り畳み椅子を指しながら言った。度のきつい眼鏡のガラスが
渦巻きのように光った。
「はい。今回は私の監督不十分のため会社にご迷惑をかけて申し訳ありませ
んでした」
山本は深々と頭を下げてから腰を下ろした。
「今、いろいろ対策について考えていたところだが、君は今回の事故の原因
を何だと思うかね」
「定修工事の作業工程に無理があったことが根本的な原因だと思います」
山本は工務部長の顔をみながら答えた。工務部長は山本の視線をそらすよ
うに下を向いた。山本は工務部長のそんな態度を見ながら、定修工事開始前
に行われた工程会議のことを思い出していた。
その工程会議では製造部と工務部とで、工期をめぐって、大論争が行われ
た。定修工事をできるだけ短期間で切り上げようと主張する製造部と工期を
長くしたいとする工務部との間の論争である。製造部は製造計画に基づいて
一日でも早く定修工事を切り上げて貰いたいと主張し、一日工期が延びると
一億円売り上げが減ると説いた。
これに対し工務部では安全確保上、製造部で主張している30日の工期で
は無理で、少なくとも35日は必要であると言い張った。生きている設備の
一部を止めて修理をするので、有毒ガスを完全にパージして安全な環境のも
とで工事を進めるためには、製造部のいうように五日間工期を短縮すること
は、危険であると主張した。限られた予算の中で工期を五日間短縮すること
は、作業能率も低下するし事故の発生しない保証ができないとまで言った。
工務部の中でも山本は特に強く35日説を主張した。だが、生産第一主義の
製造部が安全第一主義の工務部の意見を押し切った。
有毒ガスのパージには窒素をふんだんに使い、ガス検知と酸素濃度検定を
十二分に行えば、安全作業は確保できるという製造部の説得に首を縦に振っ
たのが工務部長であった。
「君はまだそんなことを言っているのかね。工程会議で議論をして、その問
題は充分潰した筈ではなかったのかね」
製造部長が工場長の顔を窺うようにしながら言い放った。
「はい。私は工程会議の席上で事故の起こらない保証はできないとまで言っ
た筈です。私の虞れていた通り事故が起こりました。しかも酸素欠乏状態で
の死亡事故です」
「君、問題を混同してはいかんよ。有毒ガスによる事故ではなく、酸素欠乏
事故なんだよ。有毒ガスは完全にパージされているんだ。酸素濃度検定は充
分やったのかね」
「作業着手前の酸素濃度検定ではオーケーでした」
「そうだろう。だから、作業計画に無理があったことにはならないんだ」
製造部長は自分に言い聞かせるような言い方をした。
「しかし・・・」
「どうでしょう。事故の原因を追求するのは、調査委員会を設けて究明する
ことになっているので、そちらの調査結果を待つということにしては。当面
大切なことは、警察の取り調べに対して、会社の見解を統一しておくことと
マスコミ対策だと思いますが」
工程会議での議論が蒸し返されるのをいち早く防止しようとする意思をあ
らわにして総務部長が言った。
関東石油会社は旧財閥系の山王化学の子会社で百パーセントの資本が山王
化学から出資されている。関東石油の社長は山王化学から派遣されており、
横浜工場の工場長、製造部長も山王化学出身である。横浜工場の工務部長と
総務部長は関東石油固有の社員であり、工場長や製造部長に対しては公式の
場では意見の開陳にも遠慮したところが窺える。もともと関東石油は岩原交
通の岩原一誠が自社の車両の燃料を自給しようとの考えから出発した会社で
ある。岩原が経営していた頃は京浜石油と称しており、会社の規模も現在と
は比較にならないほど小さいものであった。規模が小さくても個人の資本で
は装置産業を維持してゆくことは難しかった。
日本の産業が高度成長の時代を迎え、設備の巨大化が進むにつれ岩原一誠
は個人で石油会社を経営していくことの非を知り、採算の上がらぬまま痛手
が大きくなる前に手を引いた方が得策であると判断し、京浜石油を売りにだ
したのである。
時は産業界の資本の系列化が進んでいるときでもあり、自己の系列会社に
石油精製部門を持たない山王グループが山王化学の子会社として京浜石油を
買収し関東石油と社名を変更した。
首脳陣を山王化学から送り込むとともに、装置産業にふさわしい大型の設
備をどんどん造って現在の規模にまで膨脹したのである。山王化学が京浜石
油を買収したときには、工場は横浜工場だけであった。山王化学は間もなく
水島に最新鋭の精油所を建設し関東石油水島工場とした。
水島工場の建設には横浜工場から約半数の技術陣を転勤させた。水島工場
の建設にあたっては日本有数のエンジニアリング会社大日本化工機が設計施
工した。
現在の横浜工場の工場長も製造部長も、山王化学による買収後、三代目で
あり、総務部長と工務部長は京浜石油生え抜きの社員で、買収されたときに
は何れも係長であった。京浜石油が山王化学に買収されたときの工場長は、
関東石油本社の技術部長に収まって取締役の末席に名を連ねている。
総務部長も、工務部長も山王化学出身の工場長と製造部長の顔色を窺いな
がら自分も大きな失敗さえなければ、取締役の末席ぐらいにはなれるのでは
なかろうかという期待を持っている。それだけに陰では上に調子よく下には
冷酷だという声がささやかれている。
山王化学の人事政策は巧妙である。工場長、製造部長という要職は山王化
学よりの派遣社員で抑えるが総務部長、工務部長は京浜石油出身者に委ね重
役へ登用の道も残して、プロパー社員の士気が低下しないように配慮してい
る。
現在の関東石油本社の総務部長、工務部長は何れも関東石油の工場で総務
部長、工務部長を経験した京浜石油出身の社員であり、重役陣の中に名を連
ねさせているのである。
山本正は入社五年目である。大学は旧帝大である大阪大学の工学部を出て
いる。山本が大学を卒業した昭和40年は高度成長経済がその勢いを蓄える
ために一休みした時であった。新聞紙上で不景気と書かれた年である。
旧帝大の工学部出身である山本は不景気であっても就職に困るということ
はなかった。産業界は不景気の時代だからこそ、次の好景気の時代に備えて
優秀な人材を確保しておこうと求人キャラパンを繰り出した。特に旧帝大の
工学部出身者は一流企業からの求人をよりどりみどりであった。山本の所に
も幾つかの企業から母校の先輩を通じて勧誘があった。中にはキャバレーに
連れて行ってくれて豪遊させてくれた某製薬会社に勤めるA先輩のような人
もいた。電話がかかってきたり、親展の手紙を貰ったりもした。何れも先輩
を使っての凄まじい求人攻勢であった。
山本は先輩や友人の話を聞いて会社選択の基準を作り、基準に合わない会
社はどんどん不採用とした。まさに求職者が求人会社を採用するのではない
かと思われるような凄まじい求人難の時代であったと言える。
山本の作った会社選択の基準は次のようなものであった。
①旧帝大出身者の少ない会社であること。
②今後成長することが予想され、社歴は浅い会社であること。
③知名度もある程度高く、待遇のよい会社であること。
友人達が好んで超一流企業へ就職したのに較べれば一風変わった選択であ
る。山本は何よりも、早く出世できそうな会社を選んだのである。山本の選
択基準からすれば、関東石油はまさにぴたりの会社であった。
山本が予想したように、関東石油は山王化学の子会社であるとはいえ、旧
帝大出身者は殆どおらず急成長を遂げており待遇も良かった。入社してみて
山本を何よりも喜ばせたのは、入社間もない山本に責任のある仕事を任せて
くれたことである。そして社内でも、前途有望の青年であると期待されてい
た。
山本は横浜工場工務部に配属された。工場は拡張期のため、新しい設備が
どんどん増設された。加えて水島工場に技術陣が半数転出していたので、新
しい設備の増設工事は入社したての山本が計画段階から携わることになり、
大きな権限を与えられた。それは若い山本の野心を満足させるに充分のもの
であった。
年に一度の定修工事もやり甲斐のあるものであった。短期間のうちに五百
人を超える作業員(下請け作業員ではあったが)を指揮して意のままに動か
すことは男の本懐であるとまで思った。しかも工務部の若手のやり手という
評判があるので、下請け会社の社長や専務があの手この手でご機嫌を取り結
ぼうとするのも、若い山本の自尊心をくすぐった。
出入り業者達は競って山本に縁談を持ち込んだ。自分の姪や友人の娘、我
が娘と下請け業者の社長達は、山本に先物買いをした。だが、山本は下請け
業者の勧める縁談には頑として耳を貸そうとしなかった。業者と縁組すると
社内的に色眼鏡で見られることは確実であり、業者に対してけじめをつけて
おくことが、将来社内で出世するための一つの条件であると考えたからであ
る。
とかく業者と工務担当者との間には黒い噂が流れ勝ちであるが、山本に関
してはそのような噂は聞かれなかった。
「ところで、山本君今回の松山一郎の死亡事故については、いろいろ原因も
考えられるだろうし、会社としてもこれを今後の施策に生かしていかなけれ
ばならないと思う。事故調査委員会も活動を始めているのは君も知っている
通りだ。そこで今、大切なことは総務部長がさっき言ったように、対外的に
処理する方法を検討することだ。取り敢えず急がなければならないのは、マ
スコミと警察だと思う。それに労働基準監督署もある。忘れてならないこと
は我々は組織の一員であるということだ。会社の名誉、対外的な信用これを
損なうことなくうまく処理することを考えなくてはならないと思う。よし、
仮に会社の名誉や信用に傷がつくとしても、最小限にくい止めなければなら
ない。そのためには君にも覚悟を決めて貰わなければならないこともある」
工場長が煙草を忙しそうにふかしながら言った。ふかした煙草の煙が神経
質そうに揺らいだ。
「工場長が言われたように、社外に対する対処の仕方を打ち合わせておきた
いと思って、君に来て貰ったわけだ。一番のポイントは会社が安全をなおざ
りにしているのではないかという印象を与えることが一番困るところだ」
その場を取り繕うような言い方を総務部長がした。
「ですから、定修工事前の工程会議で申し上げたように、工期が短過ぎたこ
とが今回の事故の最大の原因だと私は思います。部長そうではないですか」
「この場合、総論の議論をしても仕方がないんだ。当面どう始末するかとい
う各論に議論の焦点を絞らなければ。さっき報国工業の沢村君がここへ来て
いたが、警察で取り調べを受けたそうだ。君にも警察から呼び出しがあると
思う。その時我々の言うことがチグハグになっては困る。方針ははっきりし
ている。関東石油に被害の及ぶことを最小限にくい止めなければならないこ
とだ。そのためには、作業計画には無理のなかったことを主張し、立証する
ことが大切だと思う。そのとき君の証言の仕方が問題になると思う。工期が
短かすぎるなどと言って貰っては困る」
製造部長が一気に喋った。
「次に作業指示の問題だ。最終的な責任は勿論工場長にあるわけだが、個々
の作業指示についてまで工場長が関与することはない筈だ。そこで大切なこ
とは君が担当者の責任において、独自に判断して作業指示を与えたことを強
調して欲しいということだ」
製造部長が続けて言った。
「ですが、作業に着手する前には、有毒ガスの検定も酸素欠乏状態の測定も
行って異常がなかったのですから、当然作業指示はゴーの指示を出すことに
なると思いますが」
「問題はその点だ。ガス検知をやってオーケーだったから作業着手許可を与
えた。しかし実際には酸欠であった。だから死亡事故が発生した。ガス検知
が充分でないのに作業指示を出した。そこに過失があった。つまり君が独断
でガス検知の結果,異常なしと思って作業着手許可を与えた。このように説
明するのが無難だと思うんだが」
「それでは全く私が悪者になってしまうではありませんか」
「その通りだ。君に悪者になって貰うのが一番良い解決法だと思う。君は不
本意かも知れないが、担当者段階でのミスとしておかないと大変なことにな
る。作業工程の妥当性にまで調査の手が伸びると操業停止にまで問題が発展
することもありうる。操業停止にでもなれば、会社の損失は莫大なものにな
る。勿論作業工程の妥当性についての検討も行われなければならないが、そ
れは社内的な問題として検討し、次回の定修工事に生かせばいいのであって
警察に関与されることは避けなければならない。君も将来のある体だから不
本意なことはよく判るが、長い目でみれば一つの経験として将来に生かせる
と思う。決して悪いようにはしないから、君の段階で責任の追求がストップ
するように考えて貰いたい。くどいようだが、君の判断で作業指示を発した
と証言して欲しいのだ」
「私も自分の担当の所で発生した事故ですからその限りでは責任を感じてい
ますし、酸素濃度検定をもっと念入りにやっておけばよかったという後悔も
しています。しかし、残念なのは工程会議で私の意見が聞いて貰えなかった
ことです。しかし、起こってしまったことを後から悔やんでみても仕方がな
いことはよく判っています。私も関東石油の社員ですから、会社に及ぶ被害
が最小限で済むよう善後策を講じなければならないということも理解できま
す。仰るように、私の段階で問題が解決されるよう努力してみます」
山本は釈然としない気持ちで答えた。工場長に一礼してから工場長室を出
たが、胸の中にはふっきれないものが残った。
翌日山本は警察に呼ばれて調書を取られた。警察で調書をとられた者は山
本の他にも工務課長の林田、安全課の大浦、矢口がいた。
警察での取り調べが終わって一週間が過ぎたが松山一朗の遺族は依然とし
て現れなかった。
工務課長の林田と山本は今回の事件で書類送検されることになった。林田
は山本の上司である。山本が書類送検されてから数日後、山本は社内でも閑
職とされている技術室へ配置替えを命じられた。林田は工場長付きの辞令を
貰った。
山本と工務課長の林田が書類送検されることで、この事件が落着するとす
れば、関東石油にとってはまずまずの結果といえるものであった。
山本は送検されることは覚悟していたが、送検された時点ですぐ閑職へ配
置換えされるとは予想していなかった。関東石油としては、官庁筋に対する
姿勢を示したものであり、社内的には一般社員に対して今回の事故の責任の
所在を明らかにするという意味を持つものであった。
山本は配置替えを申し渡されたとき、会社の措置は性急すぎると思った。
送検されるということは、業務上過失致死の容疑をかけられたということで
あって、まだ司法的な判断が下されたわけではない。容疑をかけられただけ
で誰が見ても左遷と受け取れる技術室への配置換えを会社が行ったのは明ら
かに会社が山本に責任ありと判断したことを示している。山本は冷めた気持
ちで工場長から配置換えの申し渡しを受けた。
その日山本は帰りに林田をおでん屋へ誘った。
「林田さんは今回の会社の措置をどう受け止められますか」
「人一人殺しているのだから止むを得ないと思う。僕は甘受するしかないと
思っている」
「私は直接の担当者として、林田さんにまでご迷惑をかけてしまって申し訳
ないと思っています。人一人が死んだのは事実ですから、処置自体に不服を
言うつもりはありませんが、もっと大きな責任が追求されないところが私に
は納得できないのです」
「どういう意味だね」
「林田さんも工程会議では工期35日説を主張されましたね。それに対して
製造部長は30日説を主張しました。そのことです」
「ああ、そういう意味か。愚痴になるから言いたくはないが、今回の定修工
事は製造部の横暴に押し切られた面があるのは事実だ。そのために、危険な
作業が随分多かった。だけど、一旦命令となった以上はこれに従わなければ
ならないのが組織というものだ。そこでは個人の善意や良心はどこかへ忘れ
られてしまう」
「私はそうじゃぁないと思うのです。製造部長の上向きの姿勢に問題がある
と思うんです。本社の意向ばかり気にして現場の意向は考えない。自分の保
身のことだけしか考えていないんですよ。我々が送検されることで責任を免
れてしまっている。そして追い打ちをかけるように今回の人事です」
「僕も内心では口惜しいと思っているよ。だけどサラリーマンというのは辛
いもので、君とこうやって酒を飲みながらせいぜい悪口を言って、憂さを晴
らすことぐらいしかできないんだ。君も承知のように、僕は昨年やっと念願
の家を建てた。借金だらけだ。会社の処置が冷たいと言って会社を飛び出す
ことも出来ない。50を過ぎたこの年では職を新たに見つけることも出来な
い。忍の一字しかないんだ。屈辱に耐えて会社の措置を受け止めるより仕方
がないんだ。首にならなかっただけでも有り難いと思っているんだ」
山本は、寂しい気持ちで林田と別れた。林田から激しい言葉を聞きたかっ
た。例えごまめの歯ぎしりと言われようと犬の遠吠えと言われようと、林田
と一緒に怒り狂ってみたかった。だが、現実の林田の姿は初老を迎えた生活
に追い回されている哀れな男にすぎなかった。首にならなかっただけでも有
り難いと思っているという林田の言葉が頭にこびりついた。
山本はその晩一晩まんじりともしなかった。眠らなければと気ばかり焦る
のだが、頭は冴えて色々な想念が、消えては現れ現れては消えた。
タンクの中で二本ぶら下がっていた松山一朗の足。ピーポピーポーと間の
抜けたサイレンを鳴らしながら遅ればせにやってきた救急車、松山の遺体を
取り巻きながら勝っ手なことを叫んでいる群衆、器用な手つきで松山の目蓋
を開いた若い医師、常泉寺に姿を現した車椅子に乗った犬山勇次、度のきつ
い眼鏡をかけてしたり顔に話しかけてくる総務部長、鼻の頭の汗をしきりに
拭っていた葬儀屋、工程会議で製造部に押し切られて首を縦に振った工務部
長、執拗に問い詰めてくる刑事、時間の脈絡なしに次から次へと現れてくる
のは、いずれも今回の事件に繋がりのある情景ばかりである。
山本は眠らなければとウイスキーをコップに注いで一息に飲み干した。焼
ける熱さが喉元を走り抜けた。
テニスコートにすらりと伸びた脚を惜しげもなく陽に曝して岡元美代子が
立っている。激しいラリーの応酬。岡元美代子が陽に焼けた顔に白い歯を覗
かせて打ち込んできた。茶色のアンツーカーコートの隅に白球がバウンドし
た。ラケットを右手に持って球を追っかけようとするが、足が動かない。球
は逃げてしまった。
山本は夢を見ていた。球が逃げたところで目が覚めた。時計をみると一時
間程眠りに落ちたようである。山本はここ数日、岡元美代子と会っていない
のに気がついた。
岡元美代子は関東石油の秘書課に勤めている女子事務員である。美代子は
東京女子大学の英文科を卒業して二年前に関東石油へ入社した。父が山王グ
ループの商事会社の常務取締役の要職にあり、関東石油の社長とは懇意にし
ている。
関東石油では4年制の女子大学卒業生は採用していないので、本来ならば
岡元美代子は関東石油には就職できないのであるが、父の縁故で入社したわ
けである。岡元美代子はうりざね顔の美人である。その均整のとれた体の線
とすらりと伸びた脚線美にはミニスカートがよく似合った。彼女が入社した
ときは、関東石油の独身社員が騒いだ。美代子が入社したのはどうやら花婿
候補を見つけるためらしいという噂がまことしやかに流れたからである。
サラリーマンから出世して山王商事の常務になった美代子の父は、美代子も
将来有望なサラリーマンと結婚させたいという考えを持っていた。サラリー
マンの妻となるためには、自分でも勤めの経験を持っていたほうが結婚して
からも夫がよく理解できるだろうという親心から美代子を関東石油へ入社さ
せたのである。噂は出鱈目ではなかった。
美代子は学生時代テニスをしていたので入社すると直ちにテニス部へ入部
した。関東石油のテニス部員は男子20名で女子は10名であった。山本は
学生時代テニスで鳴らした腕をもっていたので、入社してからもテニス部に
席を置き、美代子が入社したときにはキャプテンをしていた。
美代子がテニス部へ入部するという噂が流れるとテニス部の入部希望者が
急に増え、50名の大世帯になってしまった。テニスコートは本社と横浜工
場と共用で関東石油横浜工場内に設けられており、本社の部員は工場まで出
掛けてくることになっていた。
美代子はテニス部の中で一躍スターになり、女子部員の中には反感を持っ
て退部する者もいたが、女子が退部しても男子の入部希望者が多かったので
テニス部としては部員の数が増える結果となった。退部した女子はいずれも
部の中では女王的な存在であった。顔に自信があるかスタイルに自信を持っ
た女達で男からちやほやされることに生き甲斐を感じるような連中である。
彼女達が去った後にも居残る女子もいたがそういう女子部員達は平均的な
女子事務員で自ら中心になってクラブ活動を盛り上げて行こうというほどの
積極性は持ち合わせていない。テニスを楽しみ運がよければ未来の夫を見つ
けようという女達である。彼女達は美代子の周りに集まった。美代子には生
まれつき人を魅きつけるものがあった。
学生時代に鍛えただけに技術は高く男子部員でも彼女と試合して勝てる者
は少なかった。美代子がテニス部の女王になるのに時間はかからなかった。
美代子にはテニス部の男子部員からは勿論のこと、会社の独身男性から度々
誘いがかかった。美代子はそうした誘いに対しては一対一の行動はとらなか
った。必ずテニス部の仲間か、同期生の女子を伴ってグループで交際した。
彼女の行動には賢い母の躾けが反映していた。それでも山本はテニス部のキ
ャプテンの特権を行使して、美代子と二人だけで映画を見に行き夕食を共に
したことが一回だけあった。その時の短時間の語らいの中で美代子が山本に
好意を寄せているらしいことは言葉の端々に窺うことができた。
山本は次第に美代子に魅かれていった。美代子の魅力もさることながら、
美代子の父が山王グループの経営層にいることの方が山本にはもっと魅力が
あった。完成された管理社会の中で組織の頂点に早く登り着くためには、本
人の実力もさることながら、組織の頂点にいる人の引きを得ることが一つの
条件であった。
美代子が好意を寄せていると思われる男性は関東石油の中に山本を含めて
三人に絞られるようになった。本社総務課の橋本と横浜工場製油課の栗原が
山本のライバルであった。この三人のうち誰が美代子を射止めるだろうかと
いう噂が独身男子の話題に登るようになっていた。それというのもこの三人
が美代子の父から自宅へ麻雀の相手として招待を受けたからである。
山本、栗原、橋本は揃って美代子の自宅へ訪問する機会が多くなった。し
かし、彼らは一人だけで訪問することはなかった。三人の間には、抜け駆け
しないという黙契のようなものが成立していた。三人はお互いに牽制しなが
らも、美代子の父から麻雀の誘いがかかるのを期待して待つようになってい
た。山本が美代子に会ってみようと思いついたのは、その日がテニス部の練
習日だったからである。
松山一朗の事件があってからテニスの練習をさぼっていたので思い切り白
球を追っかけてみたいと思った。美代子とネットをはさんで激しく白球を打
ち合ってみたい衝動にかられた。そしてテニスの終わったあとで、次の日曜
日にいつものメンバーでマージャンをしに行ってもいいかと申し込んでみよ
うと思った。美代子とテニスをすることも楽しかったが、麻雀をしながら美
代子の父に、今回の事件についての感想を聞いてみたいという気持ちがあっ
た。山本が終業後、テニスコートへ久し振りにでかけてみると何時も山本よ
り早くきて練習をしている筈の美代子の姿が見えない。
「岡元君は」
同じ秘書課の増田貴美江に聞いてみた。
「岡元さんはお休みよ。お気の毒様」
「会社も休んだのかい」
「いいえ、会社には出勤してらしたわ」
「どうしたんだろう。岡元君がテニスをさぼるなんて珍しいな」
「テニスよりデイトの方が楽しいんですって」
増田喜美江は悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「何だって、相手は誰だ」
「まあ、そんなに怖い顔をして。山本さんは知らなかったの、最近お見合い
をなさって、交際を続けていらっしゃるそうよ。相手の方は東大出のエリー
トで大蔵省にお勤めなんですって」
「そんな馬鹿な」
「栗原さんも、橋本さんも同じことを仰ったわ。そんな馬鹿なって。山本さ
んも道化の役をやらされていたのね」
「道化だと」
思わず声が大きくなった。
「三人とも鳶に油揚をさらわれたようなものね。関東石油では栗原さん、橋
本さん、山本さんが岡元さんのお父様のお相手をするために麻雀に誘われて
いたのは有名な話だわ。皆さん鼻の下を長くしてせっせとお通いになったよ
うですけれど、とんだ見当違いをなさっていたわけね」
「見当違いだって」
「そうなのよ。だから道化なのよ。岡元さんのお父様があなた方三人をお誘
いになったのは、女姉妹ばかりの美代子さんに、男友達と親の監視のもとで
お付き合いをさせるためだったのよ。岡元さんは決して一対一の交際をなさ
らなかったでしょう。お母様のさしがねらしいわ。岡元さんのご両親は男と
いうものを研究させるために、関東石油の秘書課へ入社させたということだ
わ」
「君は誰からそんなことを聞いたのだ」
「社長からよ」
山本は痛烈な一撃を食わされた思いだった。
「山本さん。お相手をお願いします」
増田喜美江はラケットを右手に持ってアンツーカーコートを小走りに駆け
て行くとサーブの球を打ち込んできた。増田喜美江がいつもになく元気に張
り切っているのに彼は気がつかなかった。
山本の心に退職の気持ちが芽生えたのはこの瞬間であった。一度心の奥に
芽生えた辞意はほむらのようにたちまち大きくなり、動かし難い決意に育っ
ていった。山本は喜美江と球を打ち合いながら、自分は丁度テニスの球のよ
うな存在ではないかと思った。ラケットに打たれてあっちへ飛び、こっちへ
飛んでいる。自分の意思で飛んでいくことができない。
松山一朗の事故の原因は関東石油の安全よりも生産を重視した会社の考え
方に最大の原因があるにもかかわらず、それを指摘した自分が責任をとらさ
れる。そしていままた、岡元美代子の両親の考え方を知らされた。
最初から道化の役を与えられて、有頂天になっていた自分が浅ましくもあ
り、情けなかった。岡元美代子を妻にして美代子の父の威光を利用し、出世
の足がかりにしようと潜在意識の中で考えている自分の甘さを知った。
自分でどうすることも出来ない機構のことを思った。組織の固さというも
のを知った。組織というものは、要になって動かす立場にたてば組織を動か
すという面白さがあるが、現在の自分の立場は組織の中で動かされているに
過ぎない。岡元美代子の父親のように組織の頂点に立てば、関東石油の社長
を動かし自分の娘を入社させ、山本、栗原、橋本達の純真な気持ちを踏みに
じるようなことまでできる。
松山一朗の事件で示された総務部長や、製造部長のように組織の中で、何
とかして頂点に近づきたいと願い保身にだけ窮々としている管理者がいる。
また林田のように首にならなかっただけでも幸福だと考える男もいる。そこ
には主体性を持って行動する人間は見られない。山本はサラリーマンである
ことが嫌になった。少なくとも関東石油にいる限り、今回の事件でハンデキ
ャップを負ってしまったので、先の望みが薄くなってしまった。林田の姿に
自分の将来を見るような気がしてくる。
山本は大阪でクリーニング屋を大規模にやっている兄のことを思い出して
いた。兄からは自分の責任で事業をやってみるのは面白いことだから、山本
にも兄の仕事を手伝わないかと今年の正月帰省したときに冗談のように勧め
られていた。そのときは冗談として笑い飛ばしていたが、今回のようなこと
があると、真剣に考えてみなければならないことのように思えてくる。
山本は配置替えの通知を受けた翌日、辞表を提出して10日後にはさっさ
と会社を辞めてしまった。辞表を提出したとき工場長は型通り、慰留したが
結局辞表を受理した。山本が辞表を提出したということを聞きつけて同僚や
テニス部の仲間が集まり、会社の仕打ちは冷た過ぎる。組合で取り上げて問
題にしようと熱っぽくいきまき心配してくれる者もいたが、山本は丁重に断
り自分の意思を通した。
増田喜美江が山本さんが辞めるなら私もやめようかしらと言い、求愛の謎
をかけてきたのには閉口した。

9.
山本は会社から30万円ほどの退職金を受け取ると常泉寺へ出掛け松山一
朗の霊に花を供え線香を焚いて別れを告げた。住職に頼んでお経をあげて貰
った。
大阪では山本の実兄が手広くクリーニング業を営んでおり最近副業で始め
た貸しおしぼりが市内のホテルや梅田、心斎橋、難波界隈のバー、キャバレ
ー、料亭に好評で商売は繁盛していた。山本は関東石油在社中からサラリー
マンなんか辞めて兄の商売を手伝ってくれないかと何回も勧誘を受けていた
のである。
将来第三次産業とりわけサービス業の時代がくるのははっきりしており、
事務機器のように進歩の速いものや、レジャー用品、衣装類のように流行を
追い陳腐化するのが早いものはリースで間に合わせようという時代が必ずく
るから、この分野へ早く進出しておいた方がいいというのが兄の持論であっ
た。その手始めに始めた貸しお絞りがうまくいっているので、今度は貸しお
むつを手掛けてみたいということであった。資本は大してかからず商売に工
夫をすればいくらでも発展の余地があり、これからの目のつけどころは、新
興団地のアパートやマンションに出入りして注文をとることだと教えられて
いた。ある程度客層が安定すれば、次から次へと口コミで新しい客を紹介し
て貰え、一つの部門として独立することも可能であることを会う度に吹き込
まれていた。
関東石油在社中は兄の勧誘もただ聞き流していたのだが、今回の事件が起
こってから兄に相談したところ、そんな冷たい会社に義理立てする必要はな
いから明日にでも大阪へ来いと兄が積極的に勧めてくれたので、関東石油を
辞める踏ん切りがついたのである。
山本は常泉寺を後にして新幹線に乗り大阪へやってきた。
新横浜駅へは報国工業の沢村が一人だけ見送りにきてくれていた。
「山本さん。私が至らなかったばっかりにあなたにはとんだ御迷惑をかけて
しまいましたね。大きな借りを作ってしまいました。何時かきっとこの借り
はお返ししますよ。何かお役に立つことがあれば何時でも気楽に相談して下
さい」
山本は沢村の気持ちが嬉しかった。松山の事故があってからは何かにつけ
て力を貸してくれ、激励してくれたのも沢村であった。関東石油の同僚や友
人達は口でこそ、関東石油のやり方を非難し同情もしてくれたが、親身にな
って相談に乗ってくれる者はいなかった。現に大阪へ新天地を求めて出掛け
ていく山本を見送りにきてくれたのは沢村一人だけである。
「沢村さん、最後までお世話になりましたね」
山本は万感の思いを込めて沢村の手を握った。
山本が関東石油を退職するらしいという噂が流れたとき、自分の会社へこ
ないかと誘ってくれたのも沢村であった。関東石油の待遇よりも遙に良い条
件を提示され、心が動かないでもなかったが、宮仕えを二度としたくないと
いう気持ちが強かったので山本は沢村の申し出を断った。
「山本さんが強い決意をお持ちなら無理には勧めないことにしましょう。山
本さんは失礼だが、私の見るところ組織の中では納まって行けないお人だ。
御自分で何かおやりになった方が成功するという風に私は見ていました。苦
労はあるかもしれませんが、お兄さんと二人で事業をなさることはいいこと
だと思います。山本さんならきっと成功しますよ」
沢村は強く引き止めるでもなく山本の前途を激励してくれた。山本が大阪
へ引き上げることが決まると山本の荷物を送り出してくれたのも沢村であっ
た。沢村に別れを告げて車中に戻ると増田喜美江が斜め向かいの座席に座っ
ておりにこやかに会釈するのが目に入った。
「増田君どうしてこんなところへ」
「びっくりしたでしょう。私も大阪へ行くところです。関東石油は昨日で辞
めました」
「何故辞めたの」
「山本さんのいらっしゃらない会社なんかつまらないからですわ」
「会社を辞めるのはあなたの自由だが、何も私が辞めたからと言ってそのこ
とを理由にされたんでは困るじゃぁないか」
「困ってください。そのほうが楽しいわ」
「馬鹿なことを言ってはいけないよ。少なくとも私には迷惑だ」
「大阪には私の両親がいますわ」
「それではご両親と一緒に生活するんだね」
「そうです。山本さんのお役に立ちたいから、両親のところへ帰ります。落
ちつかれたら連絡して下さいね。私と交際して良かったと思う日がきっとき
ますわよ」
増田喜美江は自信ありげに言うと世話女房気取りで沢村が脱いだ背広を受
け取り折り畳んで網棚へ乗せた。(続く)
「それにしても、不思議だなあ。増田君と偶然とは言え同じ車両のしかも向
かい合った座席に乗り合わせるなんて」
「偶然だと思われますか」
「というと何か細工をしたのかな」
「ふふふっ、それは秘密」
「どういうたとなんだ」
「だって、秘書課にいますと、乗車券の手配をするのはお仕事のうちですも
の。入手しにくい切符を確保するための特別のルートを持っていますわよ。
今回山本さんの切符を手配したのは私ですから一枚余分に手配しておいただ
けのことですわ」
「それにしても唐突に会社を辞める気になったものだね」
「山本さんだって同じようなものですわ」
「それはそうだが、僕の場合は会社に見切りをつけたこととサラリーマン生
活がいやになったから、止むを得ない事情があったわけだ」
「私も会社に見切りをつけたことは同じことですし、山本さんの将来に賭け
てみようと決心したからですわ」
「これからどうなるか判らない不安定な生活に、飛び出そうとしているんだ
よ」
「そこが魅力なのよ。将来に夢があるのは楽しいことですわよ」
「僕には君の好意は判るが責任は持てないよ。後で後悔しても知らないよ。
君が大人の遊びをしようというのなら話は別だが」
「私が勝手に決めたことですから大人の遊びで結構よ」
増田喜美江は意味ありげに微笑むと、鞄から蜜柑を取り出して山本に勧め
た。大阪までの車中の時間は山本にとって一面では楽しくもあり、また一面
では、薄気味の悪いものであった。増田喜美江の真意を計りかねたからであ
る。大阪へ到着すると山本のお茶への誘いを断って増田喜美江はアドレスを
書いた紙を渡し人混みの中へ消えていった。
山本は早速兄のところへ住み込んで翌日から兄について廻り商売の見習い
を始めた。
いくら実の兄が成功し勧めるからと言っても旧帝大の工学部出身者が全然
畠の違う商売を始めようとすることは通常の常識では異常としか考えられな
い選択であった。
兄は人の生活に必要不可欠ではあるが誰も好き好んでやりたがらないこと
に目をつけて、これを企業化していくことが、これからの社会で成功するビ
ジネスであるという持論を持っていた。その手始めに弟の山本には貸しおむ
つをやらせようとしていた。この商売はこまめに客先を廻って、汚れたお絞
りやおむつを回収し新しいものと交換する。汚れたものは専門のクリーニン
グ工場へ納めればよいのである。商売のこつは、客先に気に入られて信用を
とり如何にして新しい客層を開拓していくかというところにあるように思え
た。
貸しおむつの場合には特にこのことが言えた。お絞りの場合には決まった
店へ決まった時間に廻っていけば纏まった数が捌ける仕組みになっているの
で商売自体は安定しているが、貸しおむつの場合には一件毎に扱う数が小さ
く客先も特定していないので客先の口コミによる宣伝が大切であった。
山本は兄のもとで一ヵ月程見習いをすると大体商売のやり方を覚えたので
山本自身の客を作ることに専念した。兄も早く独立させてやりたいと考えて
おり、そのことについては異論はなかった。兄は専門のクリーニング工場も
持っているので、客を開拓しさえすれば発展の余地は相当残されていると思
った。
山本は同窓会の名簿を大学、高校、中学と取り出しアパートに入居してい
る同窓生にダイレクトメールを発送し電話をかけることから始めた。卒業以
来始めて山本と交信する者が殆どであったが誰も山本の奇抜な商売に驚いて
いた。丁度山本の年代の同窓生は結婚したてか結婚後3年位の者が殆どなの
で貸しおむつの新しい客先を開拓するには好都合であった。大阪、神戸、西
宮周辺の団地のアパートや社宅に入居している同窓生は数えていけば50人
ほどいた。新しく取引の始まったお客に対しては、新しいお客を一件紹介し
て貰う毎に紹介者に対して手数料を支払うことにした。
アパート住まいの若い主婦達はこの申し出に飛びつき次から次へと山本に
新しい客を紹介してくれた。大学出の貸しおむつ屋さんという物珍しさもあ
った。持ち前の人当たりの良い物腰がアパートの主婦達に気に入られて、口
伝えに山本の客はどんどん増えていった。
1年程で山本は兄のもとから独立し貸しビルの一室を借りて配達専門の使
用人を3人雇い入れライトバンも三台持つことができるようになった。山本
はアパートの主婦対象の貸しおむつ専業ではお客の入れ代わりが激しいので
やはり兄のやっているように大口の需要があり客層の安定しているお絞りに
も力を入れることにした。喫茶店、料理屋、寿司屋、キャバレヒ、バー、ス
ナック、ホテル廻りに多くの時間を割くようにした。こういうところでは既
に同業者が出入りしていて新しく注文を取ることは難しかったが山本は根気
よく何回も顔を出して少しずつではあるが注文がとれるようになった。
山本は生来、人の心を読むのがうまかったので、こういう店へ出入りする
ときには、商売の話はしないで世間話をして帰るようにしていた。世間話の
中で必ず経営者やその家族の趣味、嗜好、誕生日を聞き出すことを忘れなか
った。
根気よく出入りを続ける山本に同情して試しにその使用量の何分の一かで
も納めてみろということになると山本はすかさず御礼と称して家族の趣味、
嗜好にあった贈り物を届け家族の誕生日にはプレゼントをすることにした。
経営者の家族に気に入られるようにすることが、商売のこつであることを山
本は信じていた。山本の根気よい営業が効果を現し逐次大口のお絞りの注文
が増えてきだした。
ある日、山本は難波の「角寿司」へ遊びにきて世間話をして、例によって
家族の趣味、嗜好、生年月日を聞き出して店へ帰ってきた。いつものように
聞き出してきた情報を山本が工夫して作った得意先帳に記入した。
門川作造。大正6年1月17日生。盆栽いじり。
門川久枝大正9年7月22日生。芝居。
門川久昭和20年1月17日生。書道。独身。関西で板硝子会社勤
門川佳子昭和22年7月3日生。書道。旅行。独身。務
注角寿司は作造が包丁一本で作り上げた。今では喫茶店、レストラン、
ビジネスホテルを経営す。職人気質の作造を攻略することに工夫を要す。
このように記入してその日の仕事を終えた。
山本は貸しおむつ屋の方は軌道に乗りかけたが、我ながら変な商売を始め
たものだと思う。兄が山本に勧めてくれて始めた商売ではあるが、商売を始
めるに先立ち
「貸しおむつ屋は主婦のサシスセソ業のセ業を分担企業化したものだ。これ
も余暇時代の産物さ」
と言っていたことを思い出しなるほどそうだと実感が湧いてくるのである。
兄の説明によればサは裁縫のサである。シは躾け、スは炊事、セは洗濯、
ソは掃除ということである。家庭の主婦は昔から家庭にあって家事に従事し
ていた。家事といえば裁縫、躾け、炊事、洗濯、掃除に尽きる。一昔前はこ
のサシスセソ業に随分時間をとられたものである。化学繊維、合成繊維はま
だ発明されておらず、靴下を一枚とりあげても、木綿製であり二日も履くと
爪先、踵の部分に穴が開いた。穴のあいた靴下の繕いをするのは一仕事であ
った。既製品の服もサイズが豊富に揃っているわけではなく、布地を買って
きて子供達の背丈を計り、肩幅の寸法をとり、胴回りに巻き尺をあてて裁断
し自分でミシンを踏んでいた。
子供達は母親のそんな姿を見て、母を尊敬し母の編んでくれた手袋をさす
ごとに母の姿を思い出したものである。
それが今は、靴下の穴かがりをする主婦はまずいない。布地を買ってきて
子供の服を縫ってやろうと考える母親もいない。靴下は穴が開けば捨てるも
のであり、子供の服はデパートかスーパーマーケットのバーゲンセールで吊
るしを買うものだと信じている。
家庭の主婦から裁縫という仕事は無くなった。
炊事も主婦の大切な仕事である。米をといで薪を割りかまどにかけて炊い
たものである。湿った薪の火付きが悪く、煙を目に入れて涙を流しながら火
吹き竹を吹いたものである。
「はじめチョロチョロ、中パッパ、赤子泣いても蓋取るな」等という飯炊き
の諺もあった。生活の智慧というものである。
ところが、今は米こそ研ぐがカップで秤量したあとは電気釜に入れてスイッ
チを入れさえすれば、立派な御飯が出来上がる。マヨネーズは食料品店で買
ってくるものだということは知っていても、卵を割ってポールに入れサラダ
油を注ぎながらかき廻して作るのだということを知っている主婦は殆どいな
い。ここでも炊事という重要な仕事が安直に片づけられるようになってしま
った。おふくろの味がなくなってハムのぶつ切り、目玉焼きと誰が作っても
同じ味覚のものとなってしまった。
洗濯にしてもたらいや洗濯板なんかは探しても見つけられない時代物にな
ってしまった。洗濯機に投げ込んでスイッチを入れておけば乾燥されて出て
くるのである。
掃除。これもまた便利な道具がある。はたきをかけて、茶殻を撒いて箒で
掃いたりすることもなくなってしまった。
裁縫、炊事、洗濯、掃除と主婦の五大家事のうち四つまでが、一昔前に較
べて手間のかからない仕事に変質してしまった。若い主婦達は便利な洗濯機
があってさえ、自分の生んだ子供達のおむつを洗うのを嫌う。貸しおむつ屋
を使い、使い捨ての紙おむつを使いたがる。
そのお蔭で山本の商売である貸しおむつ業なるものも存在理由が認められ
るようになってきた。その意味では文化生活のお蔭で主婦が楽をし楽に慣れ
てしまったから山本達の商売が成り立っていくのである。
裁縫、炊事、洗濯、掃除と四つの家事を簡単におそらく一昔前の十分の一
位の時間で済ますことのできるようになった現代の主婦達は時間をもてあま
しだした。豊富に使える余暇時間。この時間をどのように使うか。豊富な時
間は子供の躾け(教育)に向けられるようになった。ママゴン、教育ママの
出現である。
大学生の入学試験に付き添い、会社の入社試験にまで母親が付き添ってく
るようになってしまった。学習塾が繁盛する理由はそこにある。これからは
躾けに着目した産業が栄えることになるだろう。時代の背景がそのようにで
きている。
兄の説明は説得力を持っていた。自分の生業の存在理由を家庭の主婦の仕
事と結びつけて説明してくれた兄の熱っぽい口調に山本は心を動かされて、
この道に入ったのである。山本は自分の行為に理屈をつけないと行動できな
い性質の男であったといえる。いや、自分の行為に後から理由づけができな
いと不安になる男であると言った方が正確かもしれない。
サラリーマンを辞めて自分の責任において商売をすることになり、一番気
を配ったことは健康管理である。欲にかられて日曜祭日に関係なく働けば仕
事はいくらてもあったが、何でも自分で処理しなければならない事業者の立
場にたったとき体が資本だということが実感として判った。山本は近くのテ
ニスクラブの会員となり、一週間に一回はどんなに忙しい時でもテニスコー
トに通って汗を流すことにした。
いつものように、コートでボールを打ち込んで汗をかきシャワーで流した
後、楽しみの一つになっている冷えたミルクを飲んでいると後ろから声をか
けられた。
「山本さん。お久し振りですこと。お仕事の方も順調のようですね」
「やあ。これはこれは、増田さん。ここへはよく来られるんですか」
「毎日来ていますわよ」
「それは知らなかった。じゃあ、相当うまくなったでしょう」
「山本さんは毎週水曜日に来られているでしょう。今日で確か五回目の筈で
すわ」
「よく知っていますね。何故そんなことを」
増田喜美江は妖艶な笑みを湛えている。いつも増田喜美江の行動には面食
らわせられることが多い。
「びっくりなさったでしょう。貴方の行動が監視されているようで」
「全くだ。尾行されているのかもしれない」
「種明かしをすれば簡単なことですわ。このテニスクラブのオーナーは私な
のですよ」
「ほう。それは大したものだ。何時からオーナーになったんですか。社長さ
ん」
「私の父が経営しているんですよ。私はそのお手伝い」
「それでは関東石油を辞めてからここでずっと仕事をしていたということで
すか。それで貴方が突然会社を辞めた理由が判った」
「ここの他にもテニスクラブを五箇所とゴルフの練習場を二箇所、スイミン
グクラブを二箇所持っていますのよ」
「大した財閥だね。儲かってしょうがないでしょう」
「ところが、なかなか難しい問題が沢山あるのよ。良いインストラクターや
コーチを確保するのが難しいのね。山本さんのような方にテニスクラブの方
を見て戴けると助かるんですけれどね。如何ですか」
「突然のことなのでいきなりそう言われても返事のしようがありませんね」
「私は冗談で言っているのではありませんよ。お仕事のほうもあるでしょう
から良くお考えになって下さい。私は山本さんが会社を辞められた時、一緒
に会社を辞めましたが、そのときから山本さんを狙っていたのですよ」
「それはどういう意味」
「私の会社でスカウトしたいということですわ」
「考えておきましょう。食えなくなったらお世話になるかもしれない」
山本には不可解であった増田喜美江の退職の動機がやっと納得できた。

10.
山本は角寿司へ顔を出した。お客として寿司をつまみながら板前相手に世
間話をしていた。山本の得意先カードに記入する情報を集めるために角寿司
の家族のことについて当たり障りのない話題から誘導していた。
「誰か来て頂戴。佳子の様子がおかしいのよ」
二階の方から突然ただならぬ女の声がした。
「お嬢さんが」
山本の相手をしていた板前が二階へ急いで上がって行った。それと入れ代
わりに角寿司の女主人が動転しながら階段を下りてきた。
「早く救急車を呼んで頂戴」
「どうされたんですか」
「佳子がガス中毒で死にそうだわ。早くお医者を」
板前が慌てて電話に飛びついた。
「ちょっと失礼」
山本が二階へ上がって行って見ると佳子と呼ばれた若い娘が書き散らした
習字の半紙の上に俯くような姿勢で横たわっている。部屋の隅には火の消え
たガスストーブが置いてある。先に上がってきた板前が開けたらしく窓は開
放されているがなす術もなく、お嬢さんお嬢さんと叫びながら体を揺すって
いる。山本は状況を見て酸素欠乏だと思った。
板前に手伝わせて佳子を仰向けに横たえると板前に脈をとるように指示し
ていきなり、口移しの人口呼吸を始めた。
「まだ脈がある。早く医者を」
板前が喜びのこもった声で叫んだ。
山本は人工呼吸を施しながら松山一朗の事故死のことを思い出していた。
あのときは、人工呼吸が遅れたために助かる命を助けることが出来なかっ
た。そのために自分は会社を飛び出すことになってしまった。今また同じよ
うな状態で妙齢の女性が死線を彷徨っている。何としても助けなければなら
ない。まだ脈は残っているのだから人工呼吸を丹念に続ければきっと助けら
れる。山本は額に汗を流しながら人工呼吸を続けた。佳子の胸の隆起が両手
の掌に奇妙な感触を与えた。
やがて近所の医者が駆けつけカンフル注射を打ち終えたところへ救急車が
やってきた。
「もう大丈夫です。人工呼吸が適切に行われたので、危ないところでしたが
命はとりとめました。やがて意識も回復することでしょう。病院まで私がつ
いて行きます」
医者はそう言い残すと慌ただしく救急車に乗り込んだ。
騒ぎを聞いて駆けつけた桑山が病室の枕元に立つと佳子はばつの悪そうな
顔をしたが、表情には喜色が溢れている。
「ヨッちゃん、大変だったそうじゃあないか。それでも命か助かってよかっ
たね。ヨッちゃんにもしものことがあったら、僕の人生に張りがなくなる」
桑山は佳子の顔を覗き込みながら形のよい唇をじっと眺めた。佳子の命を
助けたという男の痕跡を捜し出そうとする目つきであった。
「御免なさい。ご心配かけちゃって。でももうすっかり良くなったのよ。明
日は退院してもよいそうよ」
「山本という人は病院へきたのかい、どんな人か僕も会ってみたいね」
「脱サラの貸しおむつ屋さんよ。でも命の恩人ね。貸しお絞りをうちのお店
へ入れたくて、最近時々来るのよ。でも変な人。商売の話は全然しないで世
間話ばかり」
「ヨッちゃんに口移しの人工呼吸をしたんだって。憎い野郎だ」
「あら、だってあの場合仕方がないわよ。もし山本さんがあの時お店へ来て
いらっしゃらなければ、今頃私はあの世へ行っていたかもしれないわ」
「でも口移しの人工呼吸なんてよく思いついたものだね」
「前に人工呼吸をしていれば助けられた人を知識がなかったばかりに手遅れ
で死なせてしまった苦い経験があるんですって」
「なるほど、それにしても何故、酸素欠乏なんかになってしまったんだい」
「展覧会へ出す作品を書いていたのよ。寒いものだから部屋を締め切ってガ
スストーブを焚いていました。そのために部屋の酸素が不足したらしいの。
何だか頭が痛いなあと思っているうちにすっーと気が遠くなってきて、気が
ついたときにはこのベッドの上に寝かされていたわ」
「危ないところだったね」
「そうよ。母が来てくれなかったら、そのまま死んでいたでしょうね」
「お母さんと山本という男は命の恩人というわけだ」
「あの時たまたま山本さんがお店に遊びにきていらっしゃらなかったら、病
院へ運ばれる途中で駄目になっていたかもしれませんわね」
桑山は山本に対して妬ましさを覚えた。佳子の気持ちが山本に動きかけて
いる。偶然のできごとであり、あの場合それがもっとも適切な処置であった
とはいえ、佳子の唇を無断で奪った山本に対して佳子は感謝している。強力
なライバルが出現した。まだ会ったことのない山本に対して桑山は敵意を感
じた。桑山は山本に会ってどんな男か確かめてみようと思った。
この場合都合のよいことに、新聞記者という職業は桑山の意図をカムフラ
ージュしてくれる。酸素欠乏事故の取材にかこつけることができる。
桑山は体内に闘志が漲ってくるのを感じながら病院を後にした。

11.
山本は桑山という新聞記者の訪問を受けた。角寿司で佳子に人工呼吸を施
して人命を救助したことについてそのときの状況を説明して欲しいというの
である。
山本は死亡事件に至らなかったのだからできることなら記事にはして貰い
たくなかった。
「あの場合部屋の状況を判断して酸素欠乏だということが判りましたので、
何の躊躇いもなく口移しの人工呼吸をしていました。とにかく一刻も早く酸
素を供給してあげなければという考えしかありませんでした。幸い佳子さん
も元気を回復し大事に至らなかったのは何よりです。新聞に出さないで貰い
たいのですが」
「よく咄嗟に人工呼吸が必要だということが判りましたね」
「過去に苦い経験があったからです」
「新聞に書かれると何か都合の悪いことでもあるのですか」
「別にそういうわけでもありませんが、今度のことが売名行為のように受け
取られるのが困るんですよ。それにプライバシーに関することでもあります
から」
「あなたの気持ちは尊重しましょう。この程度の事件ではニュースバリュー
がないので記事にしても没になるだけでしょう。私が小耳にはさんだところ
ではあなたは、前にも酸素欠乏の人を助けようとして人工呼吸が間に合わな
くて助けることができなかったという経験をお持ちだそうですね。よかった
らそのことを話して戴けませんか」
「どうしてそんなことを聞きたいんですか。あのことは私にとっては触れて
貰いたくない厭な思い出なんです。そのために転職まですることになったの
ですからね」
「ほうそのために転職。今のお仕事の前にはどちらかへお勤めだったのです
か」
桑山はいつの間にか新聞記者の本性を表していることに気づいていない。
「関東石油の工務課にいたんですよ」
「関東石油ですか。一流会社じゃあないですか」
「定修工事中に酸素欠乏で一人の作業員が死にましてね。気の毒にその作業
員は今でも未だ身元が判らないで、遺族の手には渡っていないでしょう」
(続く)
桑山の頭の中を光のようなものが通り抜けた。
「何ですって。それではあの引き取り手のない遺体の葬式。その時の工事責
任者があなたでしたか。あの事件ならよく知っていますよ。私が取材に行っ
たんですから」
「えっ。それではあの時の記事を書いたのはあなたですか」
今度は山本が驚く番だった。
人間というものは過去に共通の体験を持っていると何故か親近感を持つも
のである。桑山と山本の関係が丁度それであった。二人の話題はいつの間に
か松山一朗の身の上に移っていった。
桑山は山本の話を聞きながら、これはもう一度現地へ行ってフォローアッ
プしてみると何か面白い記事が書けるのではないかと思った。
「ところで、山本さん。佳子さんの唇の感触はどうでしたか」
桑山は山本を試してみるつもりで軽く聞いた。
「何てことを言うんだ。生きるか死ぬかの境目にいる人間を前にしてそんな
気持ちが起きると思うかい。不謹慎な言い方はやめてもらいたい」
山本が本気で怒ったのを知って桑山はこれは相当手強い相手が出現したと
思った。
この事件があってから桑山は佳子との結婚のことを真剣に考えるようにな
った。競争相手が出現すると火に油を注ぐように恋心というものは火勢を強
めるものである。
一方山本も佳子の酸素欠乏事件があって以来、角寿司へお絞りを納品する
ようになっていた。一日に一回は当然のこととして顔が出せるようになって
いたのである。山本は角寿司へのお絞りの集配は自ら行うことにした。佳子
に会うチャンスを自分だけの手に留保しておきたかったからである。それに
事件以来父親の作造がすっかり山本を気に入ったらしく、密かに佳子の婿養
子にと考えている様子が言葉の端々に窺えるのである。生まれは何処だとか
何人兄弟だとか、好きな人がいるかとかそういう身元調査的な話題を好んで
取り上げるのである。
山本は作造との付き合いの中で作造の長男で佳子の兄にあたる人が失踪し
行方不明になっていることを知った。この話を聞かされた時、山本はふと今
常泉寺で眠っているあの身元不明の遺骨は久のものではないかと考えてみた
りした。山本は思いついて報国工業の沢村に電話してみた。
「これはこれは、山本さん。お久し振りです。すっかり御無沙汰してしまい
まして。如何ですか、ご商売の方は順調にいっていますか・・・はい、お蔭
様で私の方も貧乏暇なしであいかわらず、ばたばたしております」
如才ない受け答えを沢村はした。
「ところで沢村さん。例の松山一朗の遺骨の引き取り手は判りましたかね」
「あいにく、まだ判らないのですよ。労働基準監督署からは労災保険の遺族
給付金の受け取り手がないため、お金が宙に浮いて困っているという苦情の
電話を貰ったばかりですよ。私の方も早く遺族に引き取って貰わないと成仏
できないのではないかと気をもんでいるんですよ。警察の方へも時々問い合
わせているのですが、さっぱり手掛かりがないようです」
「そうですか、遺骨の身元を特定する遺品のようなものは何も残されていな
いのですか」
「何しろ名前が偽名でしょう。本名が全然判らないのです。それに生前の写
真が一枚も残っていないので、手掛かりが何一つ無いんですよ」
「遺品の中にも本名は残されていないのですか」
「手掛かりらしいものと言えば、警察で領置している神戸銀行製の手帳だけ
です。その手帳にはカレンダーに○印が四箇所ばかりつけてあって、ページ
の何枚かには達筆で流行歌の歌詞が書きつけてあるそうです。山本さん、ま
た何で急に思い出したように、そんなことを聞かれるのですか。何か手掛か
りでもありましたか」
「いや、私の知り合いの人で、失踪している人がいるのでね。ひょっとする
とと思っただけのことなんですよ。それでそのカレンダーの○印は何処へつ
いているんですか」
「ちょっと待って下さい。日記を調べてみますから。一度電話を切ります」
山本にはある予測があった。身元を隠して死んだ人がもしカレンダーに○
印をつけるとすればそれは家族の生年月日とか、電話番号ではないかと思っ
たのである」
やがて沢村から電話が入った。
「山本さんどうもお待たせしました。やっと見つけ出しましたよ。1月7日
5月26日、7月3日、7月22日の所に○印がついているようですね。何
の意味があるのでしょうか」
山本はメモに書き取ったカレンダーの日付を得意先台帳の門川家のところ
で並べてみた。それは見事に一致するではないか。
門川作造大正6年1月17日生
門川久枝大正9年7月22日生
門川久昭和20年1月17日生
門川佳子昭和22年7月3日生
「沢村さん、もしかすると遺骨の身元は私の知っている人かもしれない」
「何ですって。それは誰なんです。一体」
びっくりしたような声が受話器の奥から問いかけてくる。
「名前は門川久。私が今の商売で得意先を獲得するため最近出入りを始め
た角寿司という寿司屋があるんですがね、そこの長男が謎の失踪をしてから
2?3年経っているんです。今聞いた手帳のカレンダーの日付が角寿司の家
族の誕生日と一致するんですよ。門川作造、この人は門川久の父で大正6
年1月17日生まれ、母の門川久枝が大正9年7月22日生まれ、門川久
この人が長男で現在行方不明なんですがね、生年月日は昭和20年1月17
日、妹の門川佳子は昭和22年7月3日に生まれています」
山本は自分の口から出る言葉が興奮のため、うわずっているのに気がつい
た。
「なるほど。それは大発見だ。でも山本さん、偶然の一致ということもあり
ますよ」
「そうです。私も今それを考えていたところなんです。だが、それを確かめ
てみる方法があります」
「どんな方法ですか」
「沢村さん、確か今、手帳に流行歌の歌詞が書き残されていると言われまし
たね。その手帳は警察に領置されているんでしょう」
「そうか、判りました。門川久の筆跡と手帳の筆跡とを比較してみればよ
いのですね」
「そうです。門川久の筆跡の残された手紙かメモでも遺族から預かって明
日にでもそちらへ行くことにします」
「判りました。警察へは私のほうから連絡しておきましょう」
沢村も興奮した声を残して電話を切った。
山本はこの発見を桑山に教えるかどうか迷った。みたところ桑山は佳子に
相当熱をあげている。桑山は山本にとっては佳子を巡ってライバルの立場に
いる。遺骨が門川久のものであった場合の得失を山本は考えてみた。
桑山は長男で新聞記者である。もし門川久が死亡していたことになると
門川佳子は角寿司を相続することになるであろう。その時には配偶者として
は寿司屋を継いでくれる夫を望む筈である。佳子に寿司屋を継ぐ気持ちがな
くても少なくとも両親は寿司屋を継がせたいと考えるのが常識である。とな
ると新聞記者という職業を持つ桑山には佳子と結婚できる可能性は小さくな
る。一方山本の場合にはサラリーマンに嫌気がさしてお絞り屋を始めたとい
う履歴がある。しかも次男だから両親の老後をみなければならないという制
約もない。更に佳子が酸素欠乏で死線を彷徨ったのを助けたという実績があ
り、父の作造も最近しきりに謎をかけてきている。山本自身としては脱サラ
して仕事が軌道にのりかけているところだし、チャンスさえあれば仕事の範
囲を拡大していきたいという気持ちは充分ある。佳子を妻にし角寿司という
暖簾を手に入れることが出来ればこんな都合のよいことはない。
山本は桑山に会ってみることにした。
山本が日本新聞社に電話すると桑山は丁度出先から帰ってきたところであ
った。この前話題になった関東石油の例の身元不明の遺骨のことについて手
掛かりが得られたので調査方法について相談したいと言うと、桑山は新聞記
者特有の好奇心を剥き出しにして是非話を聞きたい。今急ぎの原稿を書いて
いるから二時間後に日本新聞社近くの喫茶店へ来てくれと言った。
山本は桑山と会うまでの時間を角寿司で過ごすことにした。門川久の筆
跡の残された書き物を手に入れておきたかった。
「山本さん。佳子が大変お世話になったので山本さんに何かお礼をしたいと
考えていたのですが、どうでしょう、うちのビジネスホテルで使うお絞りを
山本さんのところから納めるようにして貰えませんか」
作造は山本の顔をみるなり言った。
「それはどうもありがとうございます。ところで門川さん、こちらの御長男
の久さんの手紙がありましたらちょっと見せて戴けませんか」
山本の唐突な申し出に作造は面食らった。
「何でまた」
「久さんの手掛かりがつかめるかもしれないのです」
「ほんとですか、久は今どこにいるんです」
「はっきりしたことはまだ言えないのですが、久さんの持ち物ではないかと
思われる手帳がみつかったんですよ」
「どこでてすか」
「横浜の警察です」
「警察で。まさか久が悪いことをして捕まったんではないでしょうね。うち
にはまだ何の連絡もきていませんが」
「いや久さんの行方が判ったわけではないんです。門川久と名前の書いて
ある手帳を拾った人がいましてね」
「どこで拾ったんですか」
「横浜です。お恥ずかしい話ですがね、この前私が横浜へ行ったとき、スピ
ード違反をして鶴見警察で取り調べを受けたんです。その時財布の入った鞄
を拾ったと言って届けてきた人がいるんです。その鞄の中に手帳が入ってい
ましてね。手帳に門川久という名前が記入してあるんです。住所が書いて
ないんで誰が落としたか判らないんですよ。警察でも困っていました。たま
たま私の隣でそんなやりとりがありましたので、もしかしたらこちらの久さ
んの物ではないかと思ったわけです。住所が入っていなかったので私も何と
も言えなかったのですが、こちらへ帰ってきてから筆跡鑑定して貰えばと思
いついたんですよ。もし筆跡が一致すれば、久さんは横浜にいんることにな
る。そして落とし物に気がついて届けでるかもしれない。そんな風に考えま
してね、そのことをお知らせにきたんですよ」
山本は苦しい嘘をついた。まだあの遺骨が門川久のものであるという確
証は掴んでいない。確証をつかむための資料を入手するための嘘である。
久が失踪してから日数も経っているので作造にしてみれば、既に諦めてい
るではあろうが、確証をつかまないうちはまだ希望を残しておいてやったほ
うがよい。山本の思いやりであった。
「そうですか。横浜へ行かれたのですか」
「ええ、ちょっと親戚に不幸がありましてね」
また嘘をついた。
「門川久なんて名前は平凡ですから同姓同名は沢山あるでしょう。でも親
というものは馬鹿な者でしてね、どこかに元気で生きているだろうと思って
いるんですよ。山本さんがわざわざ心配して知らせて下さったその気持ちが
嬉しいんですよ」
作造は久枝を呼んで門川久の手紙を探させた。山本は横浜の警察へ付い
て行きたいという久枝を宥めすかして門川久から久枝宛に出された3年前
の消印のある葉書を受け取ると桑山に指定された喫茶店へ急いだ。
民芸品の調度で設えられた喫茶店はウエイトレスも絣の和服を着ており、
落ちついた雰囲気を漂わせていた。山本がコーヒーを注文し終えたところへ
桑山が入ってきた。
山本は手短に手帳のカレンダーの日付と門川一家の家族の誕生日が一致す
る事実と久枝から預かってきた久からの葉書を桑山に見せた。
山本の話を聞いていた桑山は葉書を食い入るように見つめてから言った。
「なるほど、山本さん。私もきっとその遺骨は門川久のものだと思います
ね。この葉書を鶴見警察へ持ち込んで、筆跡鑑定をして見なければ、断定は
出来ないが、まず間違いないでしょうね。それにしても門川久が何故人足
にまで身を落としてそんな所で事故死したのかが判りませんね」
「これから鶴見警察署へ行ってこようと思っています。何かそのあたりの事
情がわかるかもしれないと思うのですが」
「私が今の話を聞いて変だなと思ったのは、事故死だという前提で全てが運
んでいますが、犯罪の匂いは全然なかったのかということです。山本さん、
その点はどうなんですか」
「犯罪?」
山本は虚を突かれる思いであった。今まで考えてみさえもしなかった発想
である。
「そうです。第三者として話を聞いていると犠牲者の身元が未だ判明しない
ということは巧みに仕組まれた犯罪であったのではないかという素朴な疑問
が湧いてくるのですが」
「私は今まで、犯罪という疑問は持ったことがありませんでした」
「私は遺体の引き取り手のない葬式の取材をしたとき、極東石油の総務課長
が顔の筋肉をひくひくさせながら取材を中止させようとしていた姿を覚えて
いますよ。あのときは広報担当者として会社の不名誉になることだから、極
力取材を拒否しようとする行為だとあまり気にもしないで受け止めていまし
たが、今考えてみると不自然な気がするんですよ」
桑山は山本の顔を覗き込むようにしてじっと目を見据えた。
「そう言われると会社の幹部の対応も事故の責任を下へ下へと押しつけよう
とする態度に終始していたのが思い出されますね。私はサラリーマン特有の
保身の術だと理解していましたが、掘り下げてみれば何かが出てくるかもし
れませんね」
「犯罪には必ず動機がなければならないのですが,若し門川久の死亡事故
が殺人事件であったとして、彼の死亡によって得をする者は誰かということ
です。会社の取引で得をするも者がいるのかどうかということが一つの着眼
点でしょうね。あの事故は定修工事中の事故ですから、工事発注に関係した
損得を考えてみると判りやすいかもしれませんね。どうです、山本さん何か
思い当たることはありませんか」
「あの事故の後私は直接の担当者として鶴見警察で取り調べを受けましたが
警察では単なる労災事故という観点から業務上の過失責任を明らかにすると
いう捜査をしていたようです。殺人事件という疑いは全然持っていなかった
のではないかと思いますよ」
「まあ、それはともかくとして、松山一朗という身元不明であった仏が門川
久なのかどうかということだけでもはっきりさせる為には鶴見へ行かなけ
ればならないでしょう。私も一緒にいきますよ。ところでこの事実は角寿司
の両親や佳子さんには知らせてあるのですか」
「ただ手掛かりがつかめるかもしれないとしか言ってありません」
「その方がよいでしょう。それにしても門川久が変死していたと知ったら
両親は嘆くでしょうね。ひょっとしたら行方が判るかもしれないという儚い
希望をもっていただけにその落差は大きいですね」
桑山は職人気質の門川作造がどのような嘆き方をするのだろうかまた佳子
はどんな顔をするだろうかと、その時の場面を想像しながら言った。
「それを思うと切なくって。今から気が重いですよ」
山本は佳子の悲嘆にくれる姿を思い浮かべながら言った。
報国工業の沢村からの早く状況して欲しいとの要請を受けて、山本と桑山
は日程の調整をし鶴見警察で待ち合わせることにした。山本は新幹線で行く
ことにしたが、桑山は四国での別の取材を済ませてから高松空港から飛行機
で駆けつけることにした。
鶴見警察で落ち合った山本、桑山、沢村は長谷部刑事に門川久が母の久
枝宛に出した葉書を手渡した。警察に領置されている松山一朗の手帳の筆跡
と照合し松山一朗と門川久が同一人物であるか否かを筆跡鑑定して欲しい
と依頼したのである。
筆跡鑑定の結果は予想通り同一人物の筆跡であることが判明した。
この結果を前にして三人三様の受け取り方をした。
山本はこれで門川佳子と結婚できると考えた。山本は神の操る運命の糸を
感じざるを得なかった。自分が会社を辞めざるを得なくなった直接の原因で
ある労災事故の被害者が身元不明のまま3年過ぎていたのに、たまたま知り
合った門川佳子の行方不明の兄と同一人物であったとは。
桑山は筆跡鑑定の結果は間違いであって欲しいと願った。門川佳子の行方
不明の兄がほんとに死んだのなら、彼女と結婚できる可能性は殆どゼロにな
る。客観的な資料は、そのことを雄弁に物語っている。これは犯罪に違いな
い。門川久は殺されたのだ。殺した犯人を探しださなければならない。ひ
ょっとすると山本が犯人であるかもしれない。恋仇に対する敵意は異常な形
をとってエスカレートするものである。
沢村は長い間、無縁仏であった門川久がやっと身内のもとへ引き取られ
ることになってよかったと素直に喜んだ。そして山本が新しく開拓した分野
で成功していることを聞いて嬉しく思った。
「沢村さん、事件後定修工事の発注関係に何か変化はなかったでしょうか」
と桑山が聞いた。
「あのことがあってから、特命受注ではなくなり東都プラントと競争見積り
をやらされていつも苦戦していますよ」
と沢村が答えた。
「東都プラントの河村さんは元気ですか」と山本が懐かしそうに沢村に聞い
た。
「非常に羽振りが良くなって肩で風を切って歩いていますよ」
「東都プラントは何時から関東石油の常駐業者になったのですか」
「確かあの労災事故が起きてからです」
と沢村が答えた。
「沢村さん、その事に報国工業として東都プラントの謀略を感じませんでし
たか」
「私どもとしては他人の不幸を食い物にしやがってと口惜しい思いをしまし
たが、死亡事故を起こしたあとでもあるし、お客さまの指示ですから止むを
得ない処置であるとして甘受しました」
と沢村が答えた。
「山本さんが会社をお辞めになったのは何故ですか」
と桑山が何か思いついたように言った。
「会社のエゴイズムと上司達の責任転嫁が許せなかったからですよ。私も若
かったのですね」
「どんな責任を転嫁されたのですか」
と桑山が促した。
「定期修理工事の工程を安全重視の観点から余裕のあるものに組み直すとい
う私の提案を生産計画優先の理由のもとに検討もせずに却下したことです」
「そのことは警察や労働基準監督署の取り調べの時にはっきりおっしゃいま
したか」
「言っていません」
「何故ですか」
「私だって関東石油の管理者のはしくれです。会社が営業停止処分を受ける
ことになるかもしれないから、そのことだけは喋らないでくれと工場幹部か
ら頼まれれば喋るわけにはいかないでしょう」
「それからほかにはどんな責任を転嫁されたのですか」
「作業着手前にガス検知を充分行って基準に照らし安全圏内だったから作業
着手オーケーの作業指示を出したのに死亡事故が発生しました。つまり私が
ガス検知が充分でなかったのに、錯覚してガス検知はオーケーであると判断
した所に過失があったとして責任をとらされたことです」
「あなたは作業着手前のガス検知は充分であったと思っていたのでしょう」
「そうです」
「それなら何故ガス検知が不十分なのに充分であると錯覚して作業指示を出
したなどと自分に不利になるような証言をしたのですか」
「私が罪を被れば四方丸く納まると考えたからです」
「ガス検知結果の数値はあなたご自身の目で確認されましたか」
「勿論確認しました」
「確かに安全圏内の数値でしたか」
「そうです」
「取り調べの時にもガス検知の数値は確認されましたか」
「係官が確認しました」
「問題にはなりませんでしたか」
「安全圏をかなり上回っている数値だと言われました」
「反論しなかったのですか」
「取り調べの始まる直前の打ち合わせで測定結果の数値を安全圏すれすれの
ところへ改ざんすることになっていましたから反論することはできませんで
した。私が責任を被るにはそれが一番よい方法だったのです」
「結論はどうでした」
「私と私の直属上司が書類送検されただけでこの事件は収まりました」
(続く)
「あなたも承知の上での処置であればなにも会社を辞めることはなかったの
ではありませんか」
「その後の会社の処置が許せなかったのです。いきなり閑職への配置換えは
ないでしょう。まだ容疑者に過ぎず司法的な判断はなにも出されていない段
階でですよ。会社は今回の責任は私一人にありとしてトカゲの尻尾切りをし
たのです」
「臭いな。どうも犯罪の臭いがしますね。ガス検知が充分でなかったのに充
分であると錯覚して作業許可の指示を出したとあなたが証言するように仕組
まれた犯罪ではないかという臭いがします」
「なんですって。桑山さん、それでは仕組んだのは誰ですか」と沢山が聞い
た。
「酸素欠乏による労災事故を仕組んだのは東都プラントで、身元のはっきり
しない日雇い労働者を犠牲にすることで自社の商圏を拡大したと推理すると
この事件は説明がしやすくなるのではないでしょうか」
と桑山が新聞記者としての六勘を披露した。
「これは当時の記録を再チェックしてみる必要がありますね」
と沢村が目を輝かせながら言った。
「どうです。沢村さん、東都プラントがなにか仕組んだと思い当たるような
ことが何かありませんか」
と桑山は探偵になった気持ちで推理を始めた。
「東都プラントに縄張りを荒されて口惜しいと思ってはいますが、わざと仕
組んだと思われるようなことは何もありません」
「東都プラントの策士は誰ですか」
「そうですね。営業の河村でしょうか」
「山本さん、あなたが関東石油で事故のあった工事を担当した当時、あなた
に恨みを持っている人はいませんでしたか」
と桑山は聞いた。
「私の性格からして人から恨みを買うようなことはなかったと思います」
「それでは対抗意識を抱いているような同僚とか友人はいませんでしたか」
「そうですね。強いて言えば製造課の栗原君がライバルであったと言えるか
もしれませんね」
「ところで河村さん、事故当時の現場付近であなたが何か不審に思うような
ことはありませんでしたか」
と桑山が尋ねた。
「もう3年も前の出来事ですから記憶も薄れていますが、現場近くに窒素ボ
ンベの空瓶が一本だけ酸素ボンベに混じって置いてあったのが場違いだなと
いう印象をうけました。そのことが頭にこびりついています」
「あなたが場違いだと感じたのは何故ですか」
「工事現場には酸素ボンベとアセチレンガスのボンベが対になって台車に積
まれているのをよく見かけますが、窒素ボンベと酸素ボンベを一緒に置いて
おくことはないからです。しかも窒素ボンベには空瓶のラベルが貼ってありました」
と沢村が答えると桑山が聞いた。
「窒素ガスの比重は空気よりも軽い筈ですね。密室の中で窒素ガスを放出すれば窒素は天井の方へ溜まりますね」
「その通りです」
「それでは桑山さん。あなたはあの事故はガス検知完了後のベッセルに窒素ガスが密かに放出されたということを疑っておられるのですか」
と山本が口をはさんだ。
「そうです。窒素ガスの溜まっている所へ人間が入れば酸素欠乏のた忽ち呼吸困難になって死んでしまいます。窒素ガスには毒性はありませんが人を殺すことができるのです。今一つ判らないのは、誰がどのようにしてベッセルのなかに窒素ガスを放出したかということです」
「桑山さん、あなたの推理に乗っかって私の推理を言わせて貰いますと、ベッセルの中に窒素ガスをわざと放出したのは製造課の栗原さんでしょう。そしてこのシナリオプラントを書いたのは東都プラントの河村でしょう。栗原さんは山本さんとテニス部の女王岡元美代子嬢をめぐってライバルであったから、山本さんの担当現場で労災事故が発生することは栗原さんにとっては願ってもないことであった。一方東都では関東石油の横浜精油所に常駐業者として入りたいと狙っていたが、我が報国工業が居直っているので中々入ることができない。若し報国工業の担当エリヤで労災事故が発生すれば報国工業に代わって東都プラントが入り込む口実ができる。しかも、東都プラントの河村氏と関東石油の栗原さんとの親密な交際は事故発生のちょっと前から始まっている。どうでしょうか」
と沢村が自分の推理を披露した。
「なるほど、あの事故がそのようにして企らまれたものであるとすれば、東都プラントや栗原君の行動の意味がよく理解できますね。多分工場長や製造部長はそこまでは知らなかったでしょうね」
と山本が言った。
「はい、私も工場長や製造部長、総務部長は知らなかったと思います。彼らは御身大切だけのサラリーマンですよ」
と沢村も同意した。
「ガス検知後のベッセルにどうやって窒素ガスをいれたのかが、謎として残りますね」
と桑山が頭を振りながら言った。三人ともこの謎をどう解くかがこの事件を告訴できるか否かの鍵になるという点では意見が一致した。
角寿司へ集まった山本、桑山は両親に抱かれて4年振りに我が家へ帰ってきた門川久の遺骨に万感の思いを込めて焼香した。人生の無常、不思議な出会い、判っていながら悪を懲らしめることのできない苛立ちを象徴するかのように香煙が揺らいでいた。(了)

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2014.07.13

 三村一族と備中兵乱                       

              
 
                                 
  一、備中松山城
                                 
 備中松山城は臥牛山の上に築城された山城である。鬱蒼とした自然林に覆われた臥牛山は北から大松山、天神の丸、小松山、前の山の四つの峰からなっている。山頂には何れも城址がある。最高峰は天神丸で標高四百八十メートルに及び、現存する山城としては、日本国内では最も高い所にあることで有名である。現存の城郭は小松山と前山とにあり、天神の丸と大松山にあるものは戦国時代以前の城址である。
 城の歴史は鎌倉幕府の二代執権北条義時から承久の乱の戦功で備中有漢郷(現在の上房郡有漢町)の地頭職に任じられた秋庭三郎重信が仁治元年(一二四十)大松山に居館を築いたことに始まる。秋庭三郎重信は相模の国の三浦一族であった。大松山に居館が完成すると有漢の地から高梁の地へ移住し以後秋庭氏はここを本拠にした。
 その後、後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げたのをきっかけに(元弘の変・一三三一年)、南北朝並立の動乱の時代が始まるが、天皇が幕府方に捕らえられて隠岐に流された年の元弘二年(一三三二)に松山城には、備後の三好一族の高橋宗康が入城し、城域を小松山まで広げ城としての縄張りは徐々に拡大された。その後、高橋氏が約二十五年間在城したのち正平十年(一三五七)高師泰の子高越後守師秀が備中守護として松山城を預かることになった。彼は家臣の秋庭信盛を執事として起用した。しかし師秀は生来猜疑心が強く施政の判断にも間違いが多かったため、信盛からしばしば諌言を受けたが聞き入れず次第に主従不和となった。正平十七年(一三六二)に足利直冬ら諸国の南朝方が蜂起したとき、南朝方に帰順した山名時氏らの美作勢と備中の山名方の多治目備中守ら二千騎の軍勢を兵粮の蓄積された松山城へ引き入れたのが信盛であった。このため高越後守師秀はなす術もなく備前徳倉城へ逃げのびた。こうして再び秋庭重信の子孫の秋庭信盛が備中守護代として城主に帰り咲いたのである。
                                   
 応仁の乱(一四六七)以後戦国時代に入り秋庭元重が城主の時、一五百九年に毛利氏に攻められて敗北し秋庭氏の名前は松山の城郭史から消えることとなった。
 その後の戦国時代には将軍義稙の近侍上野民部大輔信孝の子である上野備前守頼久が鬼邑山城から入城し、以来上野氏、荘氏、三村氏と血に彩られた争奪戦が繰り広げられ、三村元親が最後の悲劇の城主として戦国時代に幕を閉じるのである。
 現在の「備中松山城」は天和元年(一六八三)に松山藩主水谷勝宗の手によって完成したものといわれており、天然の巨石を天守台として利用した木造本瓦葺、二層二階建の天守は、内部に岩石落としの仕掛けや籠城に備えた石造りの囲炉裏・落城の時城主の家族が切腹するための部屋である装束の間・御社壇等手の込んだ造りがなされている。
                          
  二、洛中
                          
「宗親よ、都の女性(にょしょう)にゃぁ、狐や狸のようなのが多いちゅうけん、誑かされんよう気ぃつけんせぇよ。都の女性は貢物だけ巻き上げてぇていつのまにかおらんようになるそうじゃけんのぉ」と久次が先輩面をして言った。
「そうだ。宗親は初(うぶ)で人がええけんのぉ」
と元資が同調した。
「わしゃぁ、女性(にょしょう)にゃぁ興味ねぇよ。それよりゃぁ折角都へ出てきたんじゃけん、良い刀でも捜して買うて戻りてぇと思よんじゃがなぁ」と宗親が生真面目な顔で応じた。
「刀なら粟田口へ行ってみんせぇ。腕のええ刀鍛冶がいる筈じゃけん。せぇにしても、街並みは随分荒れとるのうぉ。火事跡だらけじゃが。昔、朱雀大路のあたりにはぎょうさん店が立ち並んで賑わようたのにのう」
と元資が昔、都へ上ったことがあり、街の様子を多少は知っているのをひけらかすような口調で言った。
 周防国主・大内権助義興の京都における宿舎・大内館は、室町近くにあったが、その大内館の侍詰め所を根城として若武者達はそれぞれに羽を伸ばしていた。
 明応の政変(一四九三年四月将軍義材を廃立しようと、日野富子と管領細川政元が企らんだ事件)で足利義材は河内で虜囚となり、同年六月越中に逃亡した。一四九八年九月足利義材は朝倉氏の援助で越中に於いて京都奪回の兵を挙げるが成功せず、周防国の太主大内権助義興を頼って八年近い歳月を周防で過ごしていた。時の管領細川政元は新将軍足利義澄を擁立して、権力を掌握するが、永正四年六月(一五百七)家僕の香西元長、薬師寺長忠らによって入浴中暗殺された。この事件を奇貨として、再度威権を振るうべく、足利義稙(当初義材、改名し義尹、ついで義稙)は大内義興の援助を受けて山陽道及び西海道の国主へ檄を飛ばし入洛を企てた。これに応じて諸国の武将が永正五年(一五百八)六月に上洛したとき、義興麾下の備中の豪族達も、侍大将として義稙に具奉したが、その中に三村備中守宗親、荘備中守元資、石川左衛門尉久次がいた。
 彼らは血気盛りの若武者で、応仁の乱で荒廃していたとはいえ、都の夜を楽しんでいたのである。三人の中では宗親が一番若く、生真面目で備中の領国での小競り合いには常に勝ち抜き領地を次々と拡大し注目されている当節売り出し中の若武者であった。
 義稙が海路堺に到着し、堺から陸路入洛した日は六月八日で梅雨の雨がしとしと降っていた。
 備中の若武者達も相前後して京都へ入っていたが、その日、元資と久次は予て馴染みの白拍子を求めて賀茂川の川原へ繰り出したのである。宗親は都は初めてであるし、武者詰め所で無聊をかこっていた。
                              
  三、三村一族
                              
 三村氏の本貫の地は、信濃国洗馬郷(現長野県筑摩郡朝日村付近)であろうと言われている。太平記巻七の「船上山合戦事」に於いて、後醍醐天皇が元弘三年(一三三三)閏二月に、隠岐島を脱出して名和長年を伯耆国に頼り船上山に立て籠もったとき、天皇に加勢しようと馳せ参じた備中の武士達の中に三村の姓が出てくるので、三村氏はおそらく鎌倉時代の承久の乱の後に新補地頭として信濃から備中に派遣されたのではなかろうかと思われる。
 石清水八幡宮領の水内北荘(現総社市)の領地を弘石大和守資政の侵略から防いでくれるよう、三村左京亮に依頼した文書が石清水八幡宮に残されているが、その日付は貞治四年(一三六五)となっているのでこの頃から三村氏は高梁川流域に相当の勢力を持っていたことが窺われる。その後、明徳三年(一三九二~四年)にかけて三村信濃守が天竜寺領の成羽荘を侵略しようと策動していたので備中守護の細川氏から荘園侵略をやめるよう圧力をかけられたこともある。その後約一世紀に渡って三村氏の動きは史書からは読み取ことができない。
明応三年(一四九四)に三村宗親が成羽に氏神として八幡宮を勧請した記録(成羽八幡神社旧記)が残されていることからすればこの頃、父祖以来念願の成羽入りを果して、これ以後鶴首城を築いたものと思われる。
 三村氏が根拠地とした鶴首城は標高三百三十八メートルの鶴の首のような形状の山上に築かれた山城であり、城の北側に成羽川、西に二つの谷川、南から東にかけては百谷川が流れている。天然の要害であり昔から備後と備中中部を結ぶ要衝の地でもあった。
「お館様は運の強いお方じゃ。こたびの上洛でもきっと、手柄をたてて来られるじゃろう」
と三村五郎兵衛は、主の三村宗親が神前に向かって柏手を打っているのを頼もしげに見やりながら隣に畏まっている郎党の三田権兵衛に話かけた。
「ほんまにそうじゃなぁ。星田の郷よりこの成羽の地へ出てきてから一年も経たないうちに難攻不落の鶴首城を築きんさっただけでもぼっけえことじゃと思ようたのに八幡神社の勧請をなし落慶までなし遂げられたんじゃけぇのう」と権兵衛が感極まった声で応じた。
「八幡神社は弓矢の神様じゃ。せぇがまた三村一族の氏神様でもあるんじゃけぇ余計に有り難いことじゃ。こんどの戦も必勝じゃ」
「年が若いのに信心深いことじゃ」
「そりゃぁ、尼子経久の殿を手本にしようとしておられるからじゃろう。尼子の殿は出雲大社やら日御碕神社に対する崇敬の念が強いお方と聞いているし現実に領地を次々と拡大しておられるけんのう」
「ほんまに、お館様は尼子方に組するおつもりじゃろうか」
「そこが、一番難しいところじゃろう。周防の大内義興殿を頼って都から公家衆がぎょうさん落ちていかりょぅるというけん、大内殿についたほうがええんじゃなかろうかとわしゃ思うとるんじゃがなぁ」
「こたびは、都へ将軍様が攻め上られるのにお供をされるのが大内義興殿じゃ。我がお館様は大内殿の傘下で上洛されるということじゃけえ、大内方ということじゃろうが」
「それはそうじゃが、三村の殿へも将軍から直々に檄の文が届けられとるからのう。尼子殿と大内殿と同じ扱いじゃ」
「お館様も面目を施したものじゃのう」
「都へは尼子の殿も上られるじゃろうから、戦振りを見てから決めてもよかろうと思うがのう」
「賢明な殿のことじゃ。そのへんのことはよう考えて決断されるじゃろう」 
「こたびの戦勝祈願は八幡神社の落慶も兼ねて執り行われるけんこのあと色々な催しがあるそうじゃのぅ」
「今度は、都でも有名な甫一法師の平家物語の奉納じゃ。滅多に聞けない名調子じゃけぇ耳の穴をようほじっといてからお聞きんせぇよ」
と五郎兵衛が言った。
「琵琶法師様は何処からこられたんじゃろうかのう。それにしてもお館様に輪をかけてまた若い法師様じゃなぁ」
とさっきから二人のやりとりを聞いていた山形作助が五郎兵衛に聞いた。
「年はまだ十六とかで、童顔じゃが、声は美声で都でも一、二を争ったそうじゃ。こたびはお館様がわざわざ備前の福岡までお迎えに行かれて連れて来られたんじゃ」
「ここには何時までおられるんじゃろうか」
「さぁー」
「また、聞かしてもらえるんじゃろか」
「福岡まで行けば、聞かして貰えるじゃろうとおもいますらぁ」
「戦乱で混乱している都を逃れて周防の山口まで逃げて行こうとされとったんじゃが、何故か福岡が気にいられてそのまま福岡に住みつきんさったということじゃ」
                              
  四、洛中その二
                              
 宗親は備中青江の名工長谷国平が鍛えた刀を父の時親から元服の時、譲り受け、戦陣には常にこれを佩き幾多の戦功を上げてきていた。この度の遠征でも国平を持ってきていたが、機会があれば京の名工に研いで貰いたいと思っていた。また予備として京土産に良い刀を求めたいとも思っていた。聞けば、戦乱のただなかにある京であっても粟田口に名工吉光の弟子達が細々と刀を鍛えているというので、工房を訪ねてみることにした。
「御免せぇ。刀が欲しいんじゃがひとつ見せてつかぁさらんかのう」
と漸く捜しあてた刀鍛冶の工房へ宗親は入っていった。
「おこしやす」
と手をぼろ布で拭きながら出てきたのは小袖に裳袴をつけた歳の頃十六~十七でがっしりした体格だが、肌はぬけるように白い女であった。見ると部屋の隅に火床とふいごが置いてあり、焼きをいれるための細長い水槽もあるが火床には火が入っていない。砥石の側には、研ぎかけらしい刀が一本横たえられている。
「吉光刀匠の在所はこちらでしょうかのぉ」
「へい。吉光刀匠はもうとっくの昔に亡くならはりましたが、うちが直系の弟子筋にあたります」
「そうか。それゃぁよかった。刀の良いのを見せてつかぁさらんかのう。都で一番といわれる刀鍛冶の鍛えた刀を買うていきたいんじ ゃが」
「それが、今は鍛えていまへん」
「どうしてじゃ」
「戦乱で腕の良い鍛冶達は皆西国へ逃げていかはりましたさけ、今はいいものはあらしまへん。情けないことどすえ」
「せぇじゃぁ、刀は全然作りょぅらんのかのぅ」
「へぇ。折角おこしやしたのにお気の毒なことどす」
「それは残念じゃのう」
と宗親が落胆するのをみかねて慰めるような口調でその女が言った。
「お侍さんはどちらの国からお越しやしたのどすか」
「備中からじゃ」
「それでは備前の福岡は近こうおすやろ。お国で買わはったほうが良いものが手にはいるのとちがいますやろか。父の弟子達もぎょうさん備前長船へ移っていかはりましたえ」
「そうか。それではどうして、お主も備前へ行かなんだんじゃ」
「父が病気にならはったからどすえ」
「そうか、親御の看病をしょうられるんかのぉ。感心なことじゃのう」
「これも定めですさかいに。父が早う元気にならはることを念じて、励んでいますえ」と明るい声で答えた。
「ところで、あそこに研ぎかけの刀が置いてあるがあれは誰が研ぎんさるんじゃろか」
「うちどす」
「ほう」
「研ぐだけなら女でも出来ます」
「もしや、お主、刀を鍛えたこともあるんじゃろか」
とそのがっしりした体躯をみながら宗親が尋ねた。
「へい。父さまが元気で働いてはった折りには、相槌を勤めたこともおますえ。しかし、父が病気になってからはよう造りません。うちが研ぎ師の真似ごとをして世を凌いでいるのどすえ」
「今は全然作ってないんじゃろか」
「へい。あいすみません」
「父さんが元気だった頃、父さんの作ったものはないじゃろかのう。できあがった物があれば、見せてつかあさらんかのぉ」
「ろくな物はあらしまへん」
と言っていたが宗親があまり熱心に頼むものだから、娘は奥から四~五振りの刀を運んできた。
「父さまが糊口を凌ぐために泣く泣く作ったこんな物しかあらしまへん。お恥ずかしいことどす」
と娘は刀を宗親の前へ並べた。その中の一振りを取り出し宗親が懐紙を口にくわえ刀身の目効きをしていると娘が言った。
「お武家様、お腰のものをちょっと拝見させて戴くわけにはいきまへんどっしゃろか。うちら話に聞くだけの素晴らしい技物をお持ちのようなので」
「誰の作か判るかのぉ」
と宗親が佩刀を渡すと娘はおしいただいて受取り真剣な眼差しで目効きをしていたが、感極まったような声を出した。
「この刀は長船の名ある鍛冶が鍛えはったんどすやろ」
と言いながら刀に見惚れている顔には清々しいものが感じられた。
「ところが、ちょっと違うんじゃ。備中にも青江に名工がいていい刀をつくるんじゃ」
「何という名前のお方どすか」
「この刀は国平という刀鍛冶が鍛えたものじゃと、父上から聞いていますらぁ」
「ほう。国平どすか」
「そうじゃ。長谷の国平じゃ」
「お武家はん。今の京にはこれほどの刀を造れる刀匠は残念ながらいてしまへん。皆、戦を恐れて西国へ逃げていかはったんどす。悲しゅうおすえ。備前へはこの粟田口からもぎょうさんの名工達が逃げていかはりましたえ備前には福岡の市というのがおますさかいに鋤、鍬を鍛っても食べていけると言うてはりましたえ」
「どうじゃろう。この刀を研いでつかあさらんか」
「へい。有り難うぞんじます。このような名刀を研がして戴くのは幸せなことです。精一杯研がして戴きます。一晩お預かり致しますよって、替わりにこの刀をお持ち帰り下さい」
「それではお願いしますらぁ」
 宗親は刀を預けて室町の侍宿舎への帰路を急 いだ。道すがら刃先に見惚れている女の清々しい横顔が脳裏にちらついていた。宿舎へ帰りつくと部屋では元資と久次がしきりに議論をしている。
「おう、宗親よいところへ帰ってきた。お主も議論に加われ。それにしても宗親どこへ行っとったんじゃ」
と元資がかわらけを差しだし、瓠から濁り酒を注ぎながら言った。
「粟田口までじゃ」
「なんぞええことでもあったんか」
「刀を研ぎに出してきただけじゃ」
と宗親は平然さを装って言ったつもりだか、先程の女の横顔がちらつき顔が赤くなるのを自分でも感じた。それを見咎めた久次がからかった。
「お主、女と逢ってきたんじゃろ。顔に書いてあるぞ」
「いいじゃあねぇか。宗親も人の子だったということじゃ。せいぜい誑かされぬように気をつけんせぇよ」
と元資がわけしり顔でひきとった。
「そんなんじゃぁねぇ。ただ刀を・・・」
と宗親がむきになって抗弁しようとすると久次が矛先をかわした。
「それよりもさっきの話を続けよう。我等こうして、お館様に具奉して上洛し、都のありさまをみさせてもろうたが、一体世の中はどうなっていくんじゃろか。宗親よお主どう思う」
「権威と実力のある将軍がいなくなったので・・世が乱れているということじゃろうが・・・・強い将軍が出現しなければ、・・・・・世の中ますますひどくなっていくんじ ゃろうなぁ」
と宗親は注いでもらったかわらけの酒を口へ運びながらポツリポツリ言った。 「公家の 時代から武士の時代に変わったのじゃ。せぇなのに公家が経済的な基盤もないくせに権威だけをかさにきて失地挽回を図ったのが建武の中興というわけじゃ。わしゃ、そう思うとるがのぉ」
と久次が言った。
「建武中興は時代の流れに逆行した政治ということになるのかのぉ」
と元資が言うと
「そうじゃとも、実力のない者が門閥、位階だけをたよりに威張ってみても誰もそんなもなぁ認めやせんのじゃ」
と宗親も漸く議論の中へはいつてきた。
「力の強い者が古いものを壊して新しいものを創りだしていくんじゃろうなぁ」
と久次がうなづきながら言うと
「今は、破壊の時代というわけじゃな」
と元資が言う。
「そうじゃ。だから、国が乱れた」
と久次。
「将軍が弱すぎるのじゃ」
と宗親。
「そうじゃ。時代は完全に武士の時代じゃ。
 まさに乱世じゃ」
と元資 
「乱世は力の強い者が勝つ時代じゃ」
と宗親
「下剋上の時代じゃ。主殺しでさえ通る時代じゃ」
と久次がエスカレートさせる。
「とは言っても、主殺しは忠の道に反しようが」
宗親は威儀を正しながら言った。
「そねえなことを言ようたら世の中の流れについていけんようになるぞ。時と場合によっては親でも殺す」
と久次
「親を殺す等は人の道に背くことに成ろうがのぉ。畜生になりさがってしまおうが」
と宗親は納得できないという顔付きである。
「例えばの話だ」
と久次。
「何故、武士が天下を統一できないんじゃろかのぉ」
と元資。
「圧倒的に力の強い武士がいないからじゃろうが」
と宗親。
「まてよ。今度は大内義興様が頑張りょんさるからなんとかなるのではないじゃろか」と久次が言うと
「義興様は管領になられて、幕府の重要な地位を占められたので乱世は終わりになるのじゃろか」
と元資も大内義興に期待しているらしい。
「将軍の権威が失墜してしもうたけぇ、命令が守られなくなっているからのう」
と宗親。
「ひょっとして、お館様は将軍にとって替わろうとしていなさるんじゃなかろうか」
と元資は自分の願望を述べる。
「これ、滅多なことを言うんじゃねぇ」
と宗親が唇に指をあてながら元資の顔を見る。
「尼子経久殿と大内義興殿とでは尼子経久殿のほうが実力がありそうに見えるんじゃがなぁ」
と元資が話題を変えた。
「尼子殿はもう年じゃけんのぉ」
と宗親。
「大内殿は雅びに走っしもうて、もののふの心を忘れとんさるけぇ、そう長くはないんじゃなかろうか」
と久次。
「それは言えるのぉ」
と元資。
「安芸の毛利興元殿は大内殿から名前を戴いたそうじゃな。羨ましいことじゃのぅ」
と久次が言った。
「いやいや、我等弱小国人は所詮は大内氏と尼子氏の間にあって要領よく生きていくのに汲々としているだけのことじゃろが」
と久次が言った。戦乱の時代に生きる地方の若武者達の談話はおのずと天下国家に及んでいくのである。都の一夜はこのようにして過ぎた。
 翌日の夕刻、宗親が粟田口の刀鍛冶の工房へ研ぎあがった刀を受け取るために、武者詰め所をでかけようとすると荘元資がどこへいくのかと興味ありげに問いかけてきた。
「粟田口まで研ぎに出した刀を受取に行こうとしとるんじゃ」
「ほんまに、刀をとりにいくのかのぉ。誰かいい女性(にょしょう)でもできたのじぁあないのけ」
「そんなんじぁあないけん。嘘と思うならついてきんせい」  
「そりゃあ面白い。そしたらついて行こうか、わしも退屈しとるけんのぉ」 「そりゃぁ有り難い。途中物騒な森を通り抜けていかにゃあならんけん、ぼっこう助かりますらぁ」
 二人は黄昏時を連れだって、粟田口の工房へ向かった。工房近くまできたとき元資が言った。
「俺は外で待っているけんお主、中へ入って用を足してこられぇ」
と心得顔で言った。
「そうか、それではお主ここで待っていてくれ」
と宗親もさからわない。宗親が工房の中へ入ろうとしたとき異様な殺気を感じた。
「この刀は渡すわけにはいかぬ」
と咳こみながら抗う男の声が聞こえた。
「ぐずぐず言わずにこちらへ寄越せ。さもないと娘を明国へ売りとばすぞ」とだみ声が続いた。
「娘に手出しをすると容赦はせぬぞ」
と再び咳こみながら抗う悲鳴に近い男の声が聞こえた。
「押し入りか」
と思いながら刀の鯉口に手をかけたとき、工房の中から刃を打ち合わせる金属音が聞こえた。
「行くぞ。元資あとへ続け」
と叫びながら宗親は工房の中へ飛び込んだ。その一瞬、覆面をした男がふりおろした刀が対峙している男の肩を断ち切り血飛沫が上がった。
「助太刀するぞ」
と叫びながら宗親が抜き打ちに刀を一閃すると覆面の男はのけぞりかえって倒れた。胴に入った一撃で男は絶命してしまった。覆面の男が右手に持っている血糊のついた刀は、まがうかたなく昨日研ぎに預けた国平である。
「どうした。大事ないか」
肩を切られて倒れた男に駆け寄るとその後ろには、昨日の刀研ぎの女がさる轡をはめられて後ろ手に縛られて転がされている。男の体をだきおこすと、喘ぎながら
「お助け下さって有り難うございます。私は刀鍛冶の吉正でございます。長年労咳を患っておりまして、刀を鍛えることもできなくなってしまい、生恥を曝しておりました。娘がお預かりした刀を研ぎ終わり神棚へ奉納したところへ押し込み強盗に入られ、情けない姿をお見せすることになってしまいました。若い頃剣術を学んだことがありますので、無我夢中で立ち向かっていきました。お預かりした刀を賊に奪われてはならないとその一心でした。この病と傷では助かりますまい。どうか娘のことを宜しくお願い致します」
と言った。その間に元資が娘の縄をといたので娘が父親にとりすがった。
「お父さん。死んじゃだめ。」
「奈々よ。兄のもとへ行け」
と喘ぎながら吉正は娘の顔をじっと見つめて言ったが、これが最後の言葉になった。がくりと頭を垂らして息を引き取った。
「お父さん。こんな姿にならはって。あんまりどす。わてもつれていっておくれやす」と号泣が続いた。
 宗親と元資はなす術もなくしばし娘の愁嘆場を見ていた。
 やがて、娘は我にかえって人がいるのを思い出し、今度はばったのようにぺこぺこ頭を下げた。
「お許し下さい。大事な刀を盗まれてしまいました。どうかお許し下さい」と哀願するのである。
「刀ならこの通り、取り返した。だが、この刀がお主の父親を殺したとはのぉ。因果なことじゃなぁ」
と宗親も慰める言葉もない。
「お主、身寄りは」
「兄が一人」
「近くにいるのか」
「いいえ」
「遠いところか」
「はい」
「何処にいるのだ」
「備前長船です」
「刀鍛冶か」
「へい昔は」
「それでは、今は」
「琵琶法師どす」
「眼が悪いのか」
「へい、8才のとき父の相槌を打ってはったときに鉄の火の粉が眼にはいりそのまま眼が見えなくならはったんどす」
「そうか。気の毒にのぉ。それで兄者の名はなんという」
「甫一と申します」
「なに、琵琶法師の甫一じゃと」
「なんぞ、お心あたりでもおますのか」
「甫一法師なら備中にもきたことがある。わしの館に泊まったこともある」 「あんれまぁー。それでは兄者の消息を御存じで」
「しらいでか。こたびの上洛にあたっては、八幡神社で戦勝祈願をしたとき琵琶を奉納して貰ったばかりじゃ」
「神仏のお導きか。どうぞ甫一兄者に会わせてくださいませ」
「お主、備中まで行く気があるか」
「父がこのような姿になってしまはったので野辺の送りを済ませましたらきっと備中へ参ります。どうぞ兄者に会わせておくれやす」
「よし。ほんじゃ、近く備中へ帰る者がいるけえその隊列に加わりんせぇ。手紙を書いてもたせてあげますらぁ」
「おおきに。ほんまにおおきに」
「ところで、お主名はなんというんじゃ」
「奈々と申します」
                         
    五、船岡山
                        
 三村宗親は足利義稙に供奉して上洛したとき、船岡山の戦い(一五一一年)で華々しい活躍をして、荘 元資、石川久次らと共に備中武者の名を高めた。船岡山の合戦は堀越公方足利政知の子義澄を擁立する細川澄元、細川政賢らの軍勢と足利義稙を推戴する細川高国、大内義興ら西国諸将の連合軍が京都北郊船岡山で激突し義稙軍が勝った戦である。この戦では尼子経久、大内義興が先陣を争ったが細川高国の斡旋で先陣大内、二陣尼子と決定し大内義興は先陣の名に相応しい働きをして面目を施した。即ち義興は船岡山の合戦の殊勲者として永正九年(一五一二年)従三位に叙せられて田舎武士としては破格ともいえる公卿の座に列することができた。
 一方大内の後塵を浴びることとなった尼子経久はこれを不服として戦に参加せずさっさっと兵を纏めて領国の出雲へ帰国してしまった。中国制覇の準備を始めるためである。
 この戦には毛利元就の兄毛利興元も参戦しているが目だった働きはしていない。それにひきかえ三村宗親の働きは目覚ましいものがあり、義稙の近侍上野民部大輔信孝の目にとまるところとなった。
 将軍に復帰し船岡山の合戦で細川政賢・澄元軍に大勝した義稙は幕府の威権を示すために永正九年三月(一五一一年)全国の国主を集め年来の軍忠を讃え行賞を行った。このとき備中国に対しては近侍の二階堂大蔵小輔政行、上野民部大輔信孝、伊勢左京亮貞信を派遣することにし、備中の国侍達を懐柔し味方につけることが使命として与えられた。
 将軍近侍の使者達が用いた懐柔策は官位を斡旋することと戦乱の都を嫌って西国へ都落しようとする公家達の子女との縁組みを仲介することであった。官位や身分の高い公家の子女と縁組みできるという餌は田舎の国侍達には魅力的であった。備中の国人達は競って彼等に誼を通じようとした。
 上野民部大輔信孝は下道郡下原郷の鬼邑山(現岡山県総社市下原)に、伊勢左京亮貞信は小田郡江原村の高越山(現井原市西江原)に、二階堂大蔵少輔政行は浅口郡片島(現倉敷市、片島)の城に入り近隣の国人を従え領国に善政を敷いた。
 上野民部大輔信孝はかねて宗親に注目し好意を抱いていたので備中鬼邑山へ入ると自分の妹「須磨」を都から呼び寄せて宗親の正室として娶らせるよう工作した。律儀者の宗親に異存のある筈もなく、家格が上がると喜んだ。
 丁度この頃備中では北には出雲の尼子氏が西方には周防の大内氏が、東には播磨の赤松氏、南からは四国の細川氏と三好氏がそれぞれに勢力を蓄え領土を狙っていたので、備中の国人達は或いは尼子の旗下に加わり、或るものは赤松氏の麾下にはいり、細川や三好と誼を通じるものもあって国中が乱れていた。 上野民部大輔信孝は鬼邑山に砦を築いた後民心の収攬を図るため、年貢を少なくし、貧者や身寄りのない者を救済する方法として寺を活用し実効をあげていた。この頃中央においては管領細川政元の勢威が衰え大内義興が幕政を牛耳ったので、その命により上野氏は間もなく松山城へ移ることになった。信孝の嫡男上野頼久は備中の安国寺を改修して善政を敷いた。
 余談ながらこの寺は城主上野頼久の遺徳を讃え安国頼久寺と改称された。その後、慶長五年(一六00)小堀新助政次が備中国に一万石余を領し、没後一子遠州が遺領を継ぎ、禅院式蓬莱庭園を作庭し国指定の名勝になっている。
京都への遠征から帰国した宗親は席の温まる間もなく伯州へ、或いは美作へと遠征してその度に武威を高めていた。この間三村一族の所領である川上郡成羽郷で正妻「須磨」の方との間にもうけたのが嫡子家親である。幼名を虎丸といった。一年遅れて弟親頼が生まれ犬丸と称したが、彼は庶子であり、母は京都から連れて帰って側室とした刀鍛冶の娘奈々である。
「母上、お父上は何時、帰られるんじゃろうか」
と虎丸が母の須磨に聞いた。
「お父上は伯耆の国の不動嶽のお城で戦をしておられるのじゃ」
「虎丸もお父上の所へ行って戦がしてぇな」
「子供が行ってもお邪魔なだけじゃ。それよりも、早う大きゅうなることじゃ」
「どうすれば早よう大きくなれるんじゃろかなぁ」
「好き嫌いを言わずになんでも食べることじゃ」と偏食の虎丸を諭すように言った。
「でも、人参はよう食べんが」
「犬丸をご覧なさい、人参だって美味しいと言ってよく食べますよ。貴方は嫡男じゃけぇ犬丸に負けてはおえんのじゃが」
と須磨の方が言う。嫁いできたときは、都言葉を使っていた須磨の方であったが、鄙びたところで都風を押し通すことには、さまざまな摩擦があっていつしか、備中言葉も身についてきていた。
「負けりゃぁせんが。何時も泣かしているもん」
と虎丸が抗議した。
「よろしい。侍の子は強いことが一番じゃ、じゃがのう、人の道に外れるようなことをしてはなりませぬぞ」
「人の道とはなんじゃろうか」
「忠と孝と礼と信じゃ。そなたも志を大きく持って、やがては都へ出て活躍せねばなりませぬ。そのためには礼儀作法というものが必要になりますぞ。そなたの伯父の信孝殿は将軍近侍で室町礼法を心得られたお方じゃ。伯父上にお願いしてあげますからよく習われるがよかろう」
と須磨の方は幼い家親の躾けには都風で臨むのであった。松山城から室町礼式に詳しい者を招き寄せて養育にあたらせた。
 一方側室奈々はこれまた虎丸に負けない子を育てようと犬丸の養育に当たった。
「犬丸よ。乱世に生きるには強くなければなりませぬえ。親子、兄弟といえども敵として戦わねばならない時があるんですよ」
と奈々は明らかに虎丸と喧嘩して負けて帰ってきた犬丸を見る度に切なくなるのである。体は大きくて力もあるので、子供同志の喧嘩ではけっして負けることがないのに、虎丸に対してだけはいつも立ち向かっていこうとせずに勝ちをあっさり譲ってしまうのである。側室の子の立場を弁えて行動する犬丸の心情がいとおしくなる奈々である。
 親兄弟、甥伯父という肉親が相争い殺戮しあうことは悲しいことである。できれば我が子にはそのような悲しい思いをさせたくないという思いは強い。
 自分自身が混乱の都にあって、目の前で賊に父親を斬殺されるという地獄を見てきている。父の野辺の送りを一人寂しくひっそりと済ませてから、宗親が手配してくれた、備中へ帰る荷駄の隊列の中に加えて貰って成羽の鶴首城へ辿りついた。鶴首城では食客として遇されている兄の甫一にも再会することができたし、自分の身は雑役係ではあるが鶴首城へ置いて貰うことができた。これはひとえに宗親の人間味溢れる思いやりの深く優しい人柄のなせるところであった。
 奈々が鶴首城へ身を寄せてから間もなく、正室須磨の方の輿入れがあった。奈々は須磨の方お付きの侍女に抜擢された。奈々は影日向なく、常に真心込めて甲斐甲斐しく勤めたのでその明るい人柄は須磨の方にも気にいられた。都育ちであるということも都から遠く鄙びた土地へ輿入れした須磨の方には懐かしかった。何かにつけ頼もしく、頼り甲斐があったのである。献身的な奈々の接遇態度は人と所を選ばなかった。たまに戦場より帰還して息抜きをする宗親に対しては、恩義を感じているだけに誠心誠意尽くすので、宗親が側室にしたいと考えるようになるのに時間はかからなかった。
 側室になって男子を産んでから奈々の悩みが始まった。虎丸と犬丸の関係をどのように調整していくのが二人のためになるのかということである。庶子とは言え、武家の男子として生を受けたからには、戦国の世にあっては肉親同志で殺戮しあわねばならない事態が発生することも覚悟しておかなければならない。犬丸の行動を見ていると肉親同志で争うことは悪であると思い込んでいるふしが見受けられる。子供心にそう考えているのが母親としてはいじらしくもあり切ないのである。犬丸はいずれ早い時期に出家させたほうがいいのかもしれないと奈々の悩みは続くのである。
家親が二十一才になったとき父の宗親は備中制覇の野望を抱きながら、ある朝突然脳溢血で倒れてしまった。
「成羽の地を足掛かりにして備中、備後、備前を制覇するのがわしの夢じゃった。しかも一族相争うことなく、力を合わせて一族が繁栄することじゃ。わしの見るところ尼子よりも毛利のほうが有望じゃ。毛利に加担してこのわしの願いを実現して欲しい」
というのが宗親の遺言であった。
 家親は父の所領を受け継ぐと鶴首城を根拠にして備中、備後、備前の制覇に本腰をいれる決意を固めた。
 家親は、親頼、政親という弟達のほかに親房、親重等武勇に優れた親族に恵まれたことも幸いして、いつしか小田、後月、阿賀、哲多、川上等の五郡を押さえ領内に三十にも余る枝城を構え「備中の虎」と恐れられるようになっていた。備前や美作へもしばしば侵略を繰り返し、伯耆から遠征してきた尼子経久の孫晴久としばしば衝突した。
 家親が家督を継いだ天文二年(一五三三)のある日の朝、城内の庭の植木に水をやっている家親の前へ忍びに身をやつした中村吉右衛門尉家好という乱舞の芸者がやってきた。 家親が猿掛け城の動きを探る為に放っておいた諜者である。
「お館様、猿掛け城の荘為資が今宵、松山城を攻撃します」
「尼子の命令か」
「いかにも」
「上野の動きは」
「全然気がついていないようです」
「そうか。しかし、今尼子を敵に廻すことは得策ではない」
「上野を見殺しになさるおつもりか」
「止む終えぬ」
「事は急です。御指示を」
「その方の手下は何人いるか」
「五人は庭木の下に待機しています」
「ご苦労。密かに松山城へ入り若君の鷹千代丸を助けだして欲しい」
「心得えました」と諜者の家好は茂みへ消えていった。
 家親の父宗親は松山城へ将軍足利義稙の近侍として入城した上野信孝の妹須磨の方を正室としていたので鷹千代丸は従兄弟の子という縁戚関係にあったのである。
 早速、鶴首城に重臣達が集められ軍議が開かれた。
「絶好の機会じゃ、お館様も荘と組んで松山城を攻められりゃぁ、備中制覇の夢が実現しますが」
と親頼が言った。
「荘為資の父親荘元資はお館様の父上、宗親様と京都船岡山の戦の折り、苦労を共になさった仲じゃ。荘に味方して上野を攻めれば、勝利は間違いない。いわば荘氏は三村と同族のようなものじゃ」
と政親が言った。
「今、荘に加勢すれば尼子方につくことになる。尼子につくことは、将来毛利と手を組むときの障害となる」
と家親が言った。
「松山城の上野伊豆守は殿の母御前を通じて縁戚にあたられるけぇ、攻めるこたぁでけんのじゃ」
と五郎兵衛が家親の苦しい胸の内を代弁した。
「五郎兵衛の言う通りじゃ。上野は縁戚じゃが荘は縁戚ではない。しかも将来戦わねばならない相手じゃ」
と家親が言った。
「戦国の世に親族も親子も関係はなかろうがな。今は何処でもそうじゃ」
と親頼が言うと
「世の風潮がどのようなものであれ、一族が 相争わず、協力してことにあたるのが、三村一族の行き方じゃ。一族団結こそが三村一族がここまで繁栄してこられた根本精神じゃ。この良き風習をわしの代でなくすことはでけんのじゃ。ここのところをよう判って欲しいのじゃ」
と家親が額の汗を拭いながら言う。
「なるほど、今までは確かにそうじゃった。しかし、何時までも古い観念に縛られていたらこの厳しい乱世に生き残っていかれんじゃろうと思うんじゃがな。好機きたれば、親でも殺す」
と親頼が言った。
「それは暴言じゃ。人の道を外すことは断じて許すことができない。三村家の棟梁として命令する。こたびは出兵しないでこの城をかためるだけにする。荘にも上野にも味方しないで様子をみることにする。皆のものそう心得よ」
と家親が断を下した。
「心得申した」
と一座の者が唱和した。
「もし上野が負けたら荘は松山城へ入るじゃろう。そしたら猿掛け城は手薄になる。そのとき一挙に猿掛け城を攻める。そして松山城も手に入れる。そのときは尼子と一戦構える覚悟が必要となる。物には順序と時が必要じゃ」
「なるほど、お館様のほうが一枚上手じゃわい」
と五郎兵衛が感心した口調で言った。
 三村一族は鶴首城を固め、何時でも松山城へ出撃できる体制を整えたが結局動かなかった。家親が動かなかったので荘為資の松山城奇襲作戦は功を奏し、城主上野伊豆の守は植木秀長に首級を挙げられてしまった。
 植木秀長について若干説明すると、彼は荘為資の甥であった。上房郡北房町上中津井にある佐井田城は、標高二八五メートルの山の上にあったが、この城を築いたのは荘為資の弟藤資の嫡男植木秀長であると言われている。藤資は上呰部(あざえ)の植木に館を構えていたので植木藤資と呼ばれた。彼は永正十四年(一五一七)以降に植木城からこの佐井田城へ本拠を移した。植木秀長は武勇の誉れ高く、若干十八才で父藤資の代理として三好長基の軍に従い、大内勢と戦ったとき、一番槍を入れ敵を撃退している。
 家親の放った諜者中村家好を頭とする諜者軍団の活躍で上野伊豆守の嫡男鷹千代丸は無事家親の手元に届けられ、以後鶴首城で家親の子息達と同様に養育されることになった。「鷹千代丸は奈々の方に養育して貰うたほうがええと思うんじゃ。奈々の方は人の情けがようわかるお人じゃ。鷹千代丸は親を不条理にも突然失って寄る辺をなくした悲しさにうちひしがれている。この悲しさを判ってやれるのは、同じ境遇にあった奈々殿しかおりゃあすまい」
と言ったのは家親である。
「さすが殿。人の心をよく読んでおられるものじゃ。こういう殿についていく限り三村家の団結は万全じゃ」
と三村五郎兵衛がうなづきながら賛意を表明した。
「この城で生活になれてきたら、母御前には礼法を手ほどきして貰うことにしようと思うとるんじゃ。上野家は室町礼式については格式の高い家柄じゃけえのう。その美しきよき流れは、受け継いで子孫へ伝えていかねばならんのじゃ。また、三村一族も何時までも備中式に固執していたんでは都へ上がったとき恥をかくけんのう。なんでも若いうちに稽古することじゃ。若い者は志を大きく持つことじゃ」
と家親は三村一族が天下に覇を唱える志のあることを仄めかした。
 奈々の方の薫陶の甲斐あって鷹千代丸は情けのわかる武将に成人した。
 鷹千代丸の元服式の日のことである。
「ようここまで成人された。本日より鷹千代丸より名を改め、上野隆徳と名乗られるがよい。祝いに常山城を預けよう。備前常山城は三村陣営の最南端で備前の宇喜多勢とは鋭く対峙する重要な城じゃ。心してまもられよ」
と家親が言った。
「ははあ、有り難き幸せ。実の親にも勝る御配慮いたみいります」
と隆徳が応えると
「なんの、備前勢の抑えとして、それだけお主に期待しているということじゃ。ついては鶴姫と祝言をあげるがよかろう。元親とは義兄弟ということになる。いざというときには元親を助けて欲しいのじゃ」と家親が言う。
家親の信念は、一族団結こそが乱世を乗り切る秘訣であると考えているのである。
「ははあ、有り難き幸せ。重ね重ねの御恩、隆徳終生忘れませぬ」と隆徳が礼を言った。「鶴姫は気が強くて男勝りじゃが、根は優しい娘じゃ。末永く可愛いがってくれ。鶴姫さあ隆徳殿に御挨拶せぬか」と家親が言うと
「不束ものではございますが、よろしゅうお願い致します」
と三つ指ついて挨拶してから家親に向かって言った。
「父上、私にもお祝いの品を戴きとうございます」
「なんなりと申してみよ」
と末娘の頼みだけに備中の虎も好々爺ぶりである。
「先祖代々相伝の長谷の国平が鍛えた名刀を所望したいのですが」
「まて、あの刀はお奈々の方の父上の血で汚されて以来、不吉な刀として相伝することは止めにしたのじゃ」
「私は逆に、あの名刀は刀鍛冶の血で清められたと考えとうございます。是非御祝儀の品として戴きとう存じます」
と鶴姫は強硬である。
「隆徳殿如何かな」
と家親が聞くと
「名刀国平は当家の御先祖様が佩いて幾多の戦功をあげられたと聞いております。私を育ててつかぁさったお奈々の方に研いで頂いたこともある、由緒ある刀とも窺っております。鶴姫殿の申される通り、汚れたと考えるよりは刀鍛冶の血によって清められ魂を入れられたと考えるべきじゃなかろうかと思います。魔除けとしても是非所望したいと考えます。どうか鶴姫殿へ御祝儀としてお贈り下さい」
と隆徳も懇願した。このようにして国平の名刀は鶴姫に相伝された。
                              
  六、荘 一族
                               
 荘氏は源平合戦で活躍した武蔵七党の一つ児玉党の一員であり、荘家長が建久七年(一一九二)一の谷の合戦で平重衡を生けどった功により、源頼朝から備中四庄を恩賞として貰い、武州から移住してきて土着した。最初は幸山城(都窪郡山手村西郡)に拠ったが、延元元年(一三三六)荘左衛門次郎は足利尊氏が九州から東上した際、足利直義の旗下に加わり、備中福山城(幸山城と同じ山にあった)で足利軍が新田義貞を破った合戦に参加した功で猿掛城主になっている。
 猿掛城は小田郡矢掛町と吉備郡真備町との境に位置する猿掛山(標高二三二米)の山頂にあって昔の山陽道を眼下に見下ろす要衝の地であった。
その後、正平十八年(一三六三)足利直冬のために、一時この城を追われるが、細川頼之が備中守護職になると応永年間(一三九四~一四二八)に荘資政の代になって再び城主に復帰した。幸山城へは石川氏が入った。城主交代の背景には細川氏の政略的な意向がはたらいていたのである。
 その後の荘氏は永享年間(一四二九~一四四一)に備中守護細川氏のもとで猿掛城にあって幸山城の石川氏とともに守護代を務め勢力を伸ばした。荘孫四郎太郎資正、荘甲斐守資友、荘四郎五郎等がこの地を中心に多くの支城を築き城主となった。
 応仁元年(一四六七)に始まった応仁・文明の乱で備中守護職細川勝久は細川総領家の勝元の指揮下で東軍の有力な武将として戦った。この大乱を機に備中でも寺社領や公家領の荘園に対する土着武士の争奪戦が激化してきた。特に守護代荘元資の活動が目立ち、延徳三年(一四九一)には讃岐の香西氏と連携して守護細川方の軍勢と合戦し五百余人を討ち取った。
 在京していた守護の勝久は翌年の明応元年(一四九二)に軍勢をひきつれて備中に入国し、元資を破って反乱を一旦鎮め元資と和睦した。
 前に述べたように元資は永正五年(一五百八)大内義興が将軍義稙を奉じて上洛したとき石川久次や三村宗親らと共に船岡山の戦いに参加し武功をあげ、都の生活を経験している。
 出雲の太主・尼子晴久は天文六年(一五三七)尼子の家督を継承してから、祖父尼子経久の志を継ごうと決意した。祖父の志とは上洛して天下に覇を唱えることであった。
 尼子の軍勢は天文七年播磨に入り、播磨国守護の赤松政村を追い、八年十月には英賀城を攻略した。また赤松政村を応援するため備中に進出してきた阿波国守護細川持隆の兵を撃破して武威を高めた。伯耆・因幡・但馬の名族山名一族には既に昔日の力は無くなっていたし、今また尼子に敗れた赤松氏にはかって美作・備前・播磨を統治した名族としての権威も地に落ちたので、東部中国の諸豪族は顔色なく尼子晴久が天下の覇権を握る日は近づいていた。
 しかしながら、大内義隆を後ろ楯に持つ毛利元就の勢力には侮り難いものがあったので晴久は安芸・備後を制圧して背後の心配をなくしてから東上しようと考えるに至った。
 尼子晴久は天文八年(一五三きゅう)一族と重臣を招集して軍議を開いた。 「伯耆・因幡・但馬の山名に力なく、東に赤松を破った今、上洛して天下に覇を唱える時期が近づいたが後顧の憂いをなくする為に安芸・備後へ遠征して毛利の拠る吉田郡山城を攻めようと思うが、各々思う所を聞かせて欲しい」
と晴久が言った。
「賛成でござる。先鋒は是非それがしに」
「いよいよ天下取りに向かって御進発ですかおめでとうございます」
と大半の出席者が賛意を表明して大勢は出撃という熱い空気が漲ったとき、突如冷たい空気が流れこんだ。今まで苦虫を噛みつぶしたような顔をして黙って聞いていた晴久の大叔父尼子久幸がやおら手を上げて発言を求めた。
「皆の意見は毛利討伐に固まっているようだが、最近の戦での勝利に奢って毛利の怖さに気がついていない。毛利の城は晴久傘下の城などとは違って、簡単に落とせる代物ではないぞ。毛利元就という名大将に立ち向かって遅れをとるようなことがあっては末代までの名折れになろう。わしは今回の毛利攻めには反対だ。皆の者、もう一度よく考えてこのたびの遠征は思い止まるほうがよい」
 主戦論に水をさされた晴久は
「野州殿も歳をとられたらこうも臆病になられるものか。毛利が力をつけて強くなる前に叩いておくのが、戦略というものであろう」
と二十六才の血気に任せて諫止の言葉を押し切ってしまった。
 当時、隠居して病床にあった経久は後日軍議の様子を聞いて
「久幸の判断は、私の気持ちによく合っている。小勢であるからといって毛利元就を侮ってはいけない。私の命は尽きかけているので私が死んだら久幸を私だと思い、軍事につけ政道につけ彼の諫言を尊重して領国を治めなさい。しかし、久幸も老年なので、新宮の国久を後見としなさい。新宮党を軍事の柱として一家が和合し、お互いに尊敬しあってことにあたれば領国の民が背くこともないであろう。そもそも家が滅びるのは一族の不和が原因である。よくよくこのことに思いを致して親類を労り、尊敬してわがままの驕奢を慎まなければならない」
と尼子氏の行く末を暗示するような訓戒を言い残している。
 尼子晴久は安芸の国へ侵攻する場合、備後国比叡尾城(現広島県三次市畠敷町)が尼子軍の通路を妨害していることになり、兵糧を送るのに邪魔になるからこれを打ち従えようと考えた。そこで、天文九年(一五四0)八月尼子久幸尼子清定らを先陣として五万六千騎を率いて、府野(広島県双三郡布野村)山内(広島県庄原氏山内)へ布陣した。比叡尾城の城将は、国人の備後三吉入道とその嫡子新兵衛であった。彼らは最初数か月はよく奮戦し防戦したが、なにせ多勢に無勢である。精鋭とはいえ少勢ではこの大軍を支えきれないと判断し大内家に応援を求めた。
 直ちに大内家では幕下の国々へ廻文し、これに応じた侍大将達は備後三吉の居城へ後詰を行った。備中からは船で鞆の津へ石川左衛門尉らが六千騎の兵を率いて到着した。また陸路を三村家親、二階堂近江守、野山宮内少輔、赤木蔵人、上田右衛門、穴田伊賀の六千騎が駆けつけ、備後国東条と出雲横田を結ぶ大阪峠の難所に要害を築き、敵に備えた。
 三村家親らの南備中勢は諜者を城へ忍ばせ味方が到着したことを告げ合図をまっていたところ、
「九月二日の深夜城兵が夜討ちにでる。城内で法螺を鳴らすので、一斉に尼子晴久の本陣に攻め込んで欲しい」
という知らせがあった。
「合い言葉をかけながら、深くせめいり、浅く引き、敵を打っても首は取らないことにしよう」
と約束ごとをを決めて丑の刻に尼子の陣へ押し寄せ鬨の声を挙げた。
 寝耳に水の尼子軍が慌てふためいている所へ矢を射かけ、突きかかり多くの敵をうちとった。尼子晴久が旗や幕をうちすてて逃げるところを東条と横田の境目で待ち受けていた備中の三村家親が尼子晴久の旗本へ切りかかった。不意をつかれた尼子勢力は慌てふためいて道もない山へかけのぼり谷底へ雪崩落ちていった。中には自分の持っていた太刀に貫かれて死んだ兵も数人いた。
 天文十年(一五四一)尼子晴久は再び山陰七か国の軍勢七万騎を率いて芸州へ出陣し、毛利元就の居城吉田郡山城を攻撃した。この合戦では大内義隆卿より派遣された援軍の深野平左衛門、宍戸左衛門尉、宮川甲斐守らが尼子晴久勢の背後を襲ったが大軍でありなかなか勝敗は決しなかった。
 この時大内義隆から備中各国の麾下の侍大将に出された下知は
「尼子晴久は大軍をもって備中国をおしとおるので、各自の城を固く守り街道の要所には関番を置き雲州勢の陣所へ兵粮を送れないように妨害せよ」
ということであった。この下知に従い石川左衛門尉、二階堂近江守、高橋玄蕃上田右衛門、清水備後は荘庄太夫の居城である猿掛山城と石田の要害に立て籠もり、関か鼻をきりふさいで兵粮の通路を止めた。
 三村家親、赤木蔵人、野山宮内少輔、秋庭大膳、鈴木孫右衛門は東条へ出陣し大阪峠に要害を構えて兵粮の通路を押さえ尼子勢の往来を止めた。尼子晴久は数ヵ月にわたって吉田郡山城を攻めたが、勝利を得ることができず引き上げた。元就からは備中の侍大将達に厚礼があった。
 丁度この頃、日本の戦法に、革命的な変化をもたらすことになる武器が西洋から伝来した。ポルトガル船が種子島へ漂着し、鉄砲が日本へ伝わったのである。天文十二年(一五四三)のことである。
 備中の虎として周辺の国人達に恐れられる程の武威を誇るようになった家親は、将来、中国地方の覇者となるのは誰だろうと尼子晴久、毛利元就、宇喜多直家、松田元輝等の器量を観察したところ毛利元就がもっとも有望であると考えて、その傘下に入ることを決意した。
 使者として一族の三村五郎兵衛を元就の許へ派遣し親書を渡し口上を述べさせた。
「これまでは、どの陣営にも属さず独力で戦ってきましたが、今後は毛利の殿のお味方をして忠勤を励みたいと思います。殿は中国地方を平定され、ゆくゆくは都へも上られる器量のお方だと信じております。この家親、殿のお役にたてるよう身命をなげうってぞんぶんに手柄をたててご覧にいれましょう。そこで中国を悉く御平定なさった暁には、私が身命をなげうって切り取ったところは全て賜りたい。また天下を平定されたときは備前、備中、備後の三か国を賜りたい。家親が一人お味方につけば、殿の声望と相まって備後、備中の国人達は三年のうちに悉く我等の味方になるでしょう。そのためには先ず当面の敵である猿掛け城に籠もる荘を攻めほろぼすことが肝要です。荘が落ちたら細川、石川、伊勢の一族どもはやがて降参してくるでしょう。どうかこの趣旨を御理解願って早く援軍を賜りたい」
と申し上げたところ毛利元就は、
「家親が味方になれば、千人の味方を得たようなものだ。荘を攻める日時が決まり次第早速応援しよう」
と喜んで約束した。
                                        
                           
  七、雲州富田城攻め
                           
 周防国の太守大内義隆は、安芸、備後、出雲、石見の諸豪族ら十三人が一味同心して出雲遠征を促したので、これに応えて山口築山の屋形を天文十二年(一五四二)正月十一日出陣した。養嗣子大内晴持を始め、陶隆房、杉重矩、内藤興盛の三重臣以下精兵約一万五千がこれに従った。途中安芸の国府で毛利元就らの率いる安芸・備後の兵と合流し、雲州富田城を目指した。先鋒は三月、出羽の二ツ山に陣をしき、石見の諸将らが此処で参陣した。
 大内軍は最初の攻撃目標として赤穴の瀬戸山城を選んだ。攻撃の先鋒を命じられたのは毛利元就であった。この城は出雲、石見、備後の接するあたりに位置し尼子氏の戦略上の拠点となっているからである。雲州赤穴の瀬戸山城主赤穴左京亮光清は三千騎をもって城へ通じる道の難所に陣取り防戦した。
 この時三村家親も備中成羽から郎党百騎程を連れて参戦していた。
「又次郎、遅れをとるな。この戦いは筑前、肥前、周防、長門、石見、安芸備後、備中の武者が手柄を競う戦いぞ。初陣の手柄をたてるのはこのときぞ。怯むな」
と家親は又次郎の背中を叩いていった。
「はい。おやかた様」
又次郎は武者振るいしながら応えた。
 大内軍の三村家親、二階堂近江守、伊達宮内少輔、赤木蔵人、杉原播磨守、有地民部、楢崎十兵衛らの備後備中勢は六月先駆けして戦い赤穴光清を居城へ追い込んだ。
「血祭りにして軍神にささげよう」
と兵達は城の四方を取り囲んで弓矢を射かけて攻撃した。
 赤穴光清は名将の誉れ高く、富田城からの援将田中三郎左衛門らとともに籠城し、四方に弓の名手を配置して石弓を使って決死の防戦をするので、手負い死亡するものも多かった。
 寄せ手の大内方は城に突入することができないまま膠着状態が続いた。六月七日膠着状態に変化が現れた。
「おう、あの武者は」
 包囲した武者達の視線を一点に釘付けにしたのは武者二騎。馬上で抜刀した刀剣を夕日にきらめかせた。
「安芸の熊谷直続ではないか」
「もう一人続いているのは」
「直純の傅人兄弟荒川与三だ」
 城を取り巻く兵士達の衆人環視の中でそれは一際目だった行動であった。刀をふりかざすと突然大音声を張り上げたのである。
「我こそは、先の守護武田元繁の家臣熊谷元直の舎弟熊谷直続なるぞ。こたびの合戦では毛利元就殿の傘下で出陣そうらえども、元をただせば、室町幕府の七頭として栄し武田氏信の末裔なるぞ。そのまた元をたずぬれば、清和天皇の六代の末裔にして源の義光公こそは我等が先祖なり。赤穴の光清殿にはいでて尋常に勝負めされい」
と言い終わるや城めがけて突進したのである。これを合図に熊谷直続の手勢二百騎が直続の後を追った。
「又次郎よく見ておけ。これが礼法にかなった戦ぞ。近頃清々しい、戦いの作法よ」
「危ないですね。弓矢で射られたらどうするのだろう」
と又次郎が正直な感想を述べた。
「名乗りを挙げて、切りこむときは一騎討ちを求めているのだ。敵方の赤穴光清は出てきて熊谷直続と勝負するのが武士というものだ。者ども、射方やめー」
と家親が配下の兵に大声で怒鳴った。
 暫く矢音が止み、城の大手門がひらきかけたので一騎打ちが始まるかと期待感が渦巻いたが、門は開かず、矢が一斉に飛んできた。熊谷直続の手勢の半分ほどが弓矢で射られ倒れたところへ門が開いて赤穴勢が一千騎程城外へ打ち出してきた。
 直続は奮戦し目前の敵を討ち取ったが、多勢に無勢、だんだん追い詰められたところへ狙いすませて城の中から射られた矢を顔と喉へ射こまれて倒れてしまった。
「犬死にだ」
と又次郎は思った。
「家柄を誇り、出自の良さを自慢してみても死んでしまえばお終いだ。戦では必ず勝たねばならない。勝つことが正義だ。勝つためには弓矢の威力を十分引き出せるような戦術を考えださなければならない」
と呟いて自分に言い聞かせていた。
 双方引かぬままに再び膠着状態が訪れたが七月二十七日未明、毛利元就は大内方四万の大軍で総攻撃を敢行した。
 総攻撃では赤穴城のそれぞれの上り口に迫ったが、赤穴城からは小石が次々に飛んでくる。赤穴勢の必死の反撃に戦線を突破することができず、逆に退却した兵士も少なくなかった。合戦は長引くかと思われたが、まもなく赤穴城は陥落した。城主の赤穴光清が流れ矢に当たって無念の死をとげるというハプニングが生じたからである。総大将を失って戦意を喪失した籠城軍は光清の妻子を助けるという約束で開城し、その夜老幼合わせて三千人が月山目指して逃げていった。
 この合戦での死者は双方合わせて千数百人に及んだと記録されている。
 遠征をしないときには、家親は鶴首城に家臣達を集めて会議を開いた。この会議は寄り合いと称し、領地の経営についても家臣達に智恵や意見を出させて自由に討議させた。農作方法の改善、武器武具の改良、輸送手段の改善、築城技術の改善等まで広範な領域にわたって家臣達の意見を広く取り上げた。現代の企業経営で従業員の参画意識を高め、やる気を喚起する方法として広く用いられているTQC的な発想を用いて領内の経営にあたったのである。
 ある者が高梁川を利用した舟による交易を考え、積み荷を多くするため舟底の浅い高瀬舟を提案した。高梁川を南下すると玉島、水島を通過して瀬戸内海へ至る。高梁川の上流には良い品質の鉄鉱石が採れる千屋があり、成羽の吹屋では銅を産出したのでこれらの鉄や銅の一次加工品を舟で玉島まで運び水島灘を航行して下津井港に到り、ここに寄港する遣明船の帰り船に売り捌こうというアイデアである。帰り船は自由港堺へ向かうものであった。当時の堺は商人達が自治的な共同体組織を作り上げ、会合衆という数名から十数名の富裕な商人からなる機関が合議制で政治を取り仕切っていた。この堺の商人達は御朱印船に代わって遣明船を仕立てて対明貿易を行い、巨大な利益を得ていたのである。
 そして、高瀬舟は積み荷を遣明船に売り捌くと瀬戸内海で採れる新鮮な魚貝類や沿岸地区で生産される塩を仕入れて帰り、内陸部の高梁地区の市で売り捌こうという着想としては優れたものであった。この高瀬舟の発想は家親によって取り入れられ実施された。この高瀬舟を更に発展させたのが備前の覇者となった宇喜多直家である。その宇喜多直家の客人として一夕高梁に遊んだ河村瑞軒が高梁川を往来する高瀬舟を見て感心し、後年京都に運河を開き高瀬舟を運河に浮かべて都会地への物資の大量輸送を実現したのである。
 この寄り合いは天下の情報についての意見交換会の役目も果たした。その情報は安芸、出雲、備前、京都へもぐらせている諜者達からの報告を家親が解説する形で行われることが多かった。桶狭間で永禄三年(一五六十)織田信長が今川義元を討ち破ったこと、同年毛利元就が天皇家に対して即位資を献上したこと、長尾輝虎が皇居修理料を献上したこと尾張で永禄元年弓矢の名人林弥七郎と橋本一巴が鉄砲で決闘して鉄砲が勝ったこと等が話題となった。
「申し上げたいことがございます」
と弓衆の又次郎が寄り合いで家親に申し立てた。
「なんだ」
「お館様は鉄砲というものをご覧になったことがありますか」
「まだ、ない。しかし話によれば雷のような音がして弾丸が目にも見えない速さで飛び出し、的に命中させことの出来る武器だというではないか」
「よく御存じで。私は三村の弓衆には鉄砲を持たせたらいいのにと思っております」
「お主は鉄砲をどこで見た」
「福岡で見ました」
「堺まで行かねば見られないのによくまあ」
「実はわたしの弟が橋本一巴の弟子でして、師匠から貰ったのを持っています。それをみました」
「高いだろう」
「橋本一巴は一丁五百金で南蛮人から贖ったそうです」
「そんな高価なものは時期尚早だ」
「そうはおもいません。技術革新は早い程他に差別をつけて優位にたてると思います」
「よそで使い出してから様子をみてからにしよう」
「それでは、遅すぎます。こんなものは人に先駆けてやってこそ優位性がえられるのですよ」
「そうかそれでは試しに使ってみるか」
「御英断です」
「舶来品だというではないか。つてはあるのか」
「私におまかせ下さい。堺へ行けば手にはいる筈です」
「よし。それでは一丁見本に求めて来るがよい」
との家親の命令を受けて、又次郎は堺へ出奔した。
 三村家親は鶴首城を拠点として毛利氏と提携しながら尼子氏と戦い備中に勢力を伸ばした。また美作への侵攻を繰り返しながらさらには備前へ進出の機会を狙っていた。
 堺へ出てきた又次郎は異質な雰囲気を感じていた。何か人の精神を開放的にさせるものを町がもっていた。町に活気があった。しかも、それは何者にも束縛されないで人人が自分のために働いているのである。自立自尊の精神が横溢しているように感じとっていた。 町人達が戦国の動乱から町を守るために、濠を堀り、武装して自衛の態勢を整え、有力町人十人による会合衆によって町政を指導する自治体制を確立していた。永祿十一年(一五六八)織田信長の矢銭二万貫の要求に対してこれを拒絶するほどの力を蓄えていた。
 又次郎は弟の喜三郎を探しだした。喜三郎は師匠の橋本一巴が美濃の織田信長に鉄砲指南役として召し抱えられたので堺の鉄砲鍛冶の工房へ用心棒を兼ねて鉄砲職人として奉公していた。
「兄者久しぶりじゃのう」
「お主も達者でなによりじゃ。お主は鉄砲鍛冶で奉公しているそうじゃが、田舎へは帰らんつもりかのう」
「鉄砲鍛冶に奉公しとるんは、鉄砲の腕を磨きたいからじゃ。腕を磨いたら田舎へ帰って猟師をしようと思うとるんじゃ」
「青江で鉄砲鍛冶をやればええが」
「それも考えて奉公しとるんじゃ。わしゃ根から鉄砲が好きでのう、猟師に早うなりたいと思もよんじゃ」
「そうじゃったんか。わしも猟師になろうかのう」
「何でそねえことを言うんじゃ、兄者は三村様の御家中で奉公していたんじゃろ。何ぞ落ち度でもあったのかいな」
「そうじゃぁねぇ。堺の町を歩きょうるとのう、誰にも束縛されない生活のことを考えさせられるんじゃ。自由な生活といゃぁ田舎では猟師ぐれえしかなかろうが」
「ところで堺へは何しにきたんじゃ」
「殿の御用で鉄砲を買いにきたんじゃが」
「何丁欲しいんじゃ」
「一丁か二丁でええんじゃがのう」
「金はぎょうさん持ってきたんか」
「百貫ほどじゃ」
「それじゃ、買うのは難しいじゃろうな」
「なぜじゃ」
「一丁や二丁ならぼっこう高けえからのう」
「ほう、なぜだ」
「出回っている数が少ねえけえ高こうなるんじゃ」
「鉄砲鍛冶の所へ行けば買えようが」
「それがまた難儀じゃ」
「どうして」
「よほどのつてがねえと売ってもらえねえんじゃ」
「それはまた何故じゃ」
「大名家が纏めて買ってしまう」
「どんな大名が買うんじゃろか」
「甲斐の武田では三百集めようとしているし美濃の織田では三千集めるという話じゃ」
「お主の奉公している鉄砲鍛冶ではわけて貰えねえかのう」
「そりゃ無理じゃ。織田家の注文をこなすのに汲々しているし、第一織田以外に売ったことがばれたら首が飛ぶ」
「困ったのう。なにかええ智恵はないもんかのう」
「一丁だけなら、わしが昔使っていたのがあるが」
「使い古しじゃ、殿に渡すわけにはいかんじゃろ」
「兄者が使えばええが」
「そうじゃのう撃ち方をわしも習いたいしのう。よろしゅう頼みますらあ」 「明日手ほどきしよう」
 喜三郎から手ほどきを受けて鉄砲の扱い方は身につけたが、肝心の鉄砲が手にはいらない。そうこうしているうちに鉄砲を買うために持ってきた百貫の銭を旅籠で盗まれてしまって国へ帰れなくなってしまった遠藤又次郎である。
                          
八、猿掛け城攻め
                           
 毛利元就と誼を通じた三村家親は備中の城を殆ど制圧し、一族の豊富な人材を配置して武威を誇っていたが、荘為資の拠る猿掛け城と松山城だけが自分の意のままにならない尼子方の城であった。中国地方はいずれ、尼子と毛利の決戦で雌雄が決まると考えた家親は尼子攻略の手始めに猿掛け城を攻撃することとし、再び五郎兵衛を元就の許へ派遣し応援を頼んだ。これに先立ち荘の領地内へは中村家好を頭とする諜者団を密かに潜入させた。 この時代は謀略の時代であった。多くの紛争は合戦で決着がついたが、それは結果であって直接武力が激突する前に諜報活動が密かに繰り広げられ、諜報・謀略戦で敵方にダメージを与えておくことが、合戦の帰趨を左右した。勝つためには諜報・謀略を用いることは卑劣なことでもなく恥ずべき行為でもなく、相手の裏をかいたり奇策を用いる作戦が知謀・利巧として高く評価された。汚い手段を用いて卑怯と非難されても、恬として恥ない図太さを戦国大名達は備えていた。和睦と離反、懐柔と背信、連合と裏切りが日常茶飯事の如く、起こるこの時代においては、疑心暗鬼に陥り必要以上に用心深くなり、かえって罠にはまりやすくなることがあった。
 家親が猿掛け城に放っておいた諜者団には、琵琶法師や乱舞の芸人などがいた。また、芸州仏通寺の沙門が托鉢するのに紛れて出家を数人作りたて敵国へ潜入させもした。彼らの情報を分析して、猿掛け城を攻撃する時は今だと判断し、応援依頼の使者を派遣したのである。
 家親の依頼をうけた毛利は盟約に従い、元就、隆元、元春の親子三人で、天文二十二年(1553年) 二月初旬芸州吉田を出発した。元就隆元の二人は、備中国伊末井原に陣を張った。猛将として知られた元春は自信満々備中猿掛け近くまで打ち出した。
 三村家親は先陣として千五百騎を猿掛け城下近辺の屋陰へ繰り出し、村々に放火して相手方を挑発した。
 猿掛け城の城代は荘一族の荘実近であったが急を聞いて松山城から駆けつけた荘為資は世に聞こえた猛将だったので勇みたって城兵に下知した。
「敵に城下を焼かれるのを遠くから見ようるわけにはいかんじゃろう。すぐに撃って出て家親を追い散らし、元春と直ちに勝負を決しようぞ。まず、千余騎を従え、為資が自ら三村家親の手勢を攻撃する」
 ついで藤井四郎次郎に向かって
「お主は五百騎で三村の後陣をうつように見せかけて元春の本陣へかかれ」と命じた。そして
「自分は家親を追い散らしてすぐに元春の陣へ切ってかかる。前後からかかれば元春がいかに勇猛であろうと備えが乱れて戦にはならんじゃろう。しかし三村家親の兵が引かないうちに元春に襲いかかってはおえんぞ。引く敵と一つになつて追いかけ、不意に懸かって切り崩すんじゃ」
と作戦を立て合図を決めて敵の様子を窺っていた。
 陽もやがて西へ沈みかけたので家親は士卒に下知して兵を引こうとした。
 為資は「兵法にいう鋭く迫ってくる敵は避けて、緩んできた敵は討つべしとは、今のような状況の時のことじゃ。さあ、かかるぞ、ものども続け」
と下知して、自ら千余騎を率いて撃って出た。そして味方陣営の田治見、石賀伊達などには
「兵五六百騎を率いて右の永田山に上がって、元春の本陣へ懸かるような態勢をとるよう」
指示した。
 為資は三村勢が兵を引く後をつけて、射手を先行させて追いかけたところ家親は作戦を見破って、とって返し応戦した。
「日が暮れた。夜になってはたとえ一戦に勝ったとしても、引き退くことが難しい。敵から離れて引き揚げることにしよう」
と家親が考えていると藤井四郎次郎が半月の指し物に緋縅の鎧を着て黒い馬に跨がり五百騎ばかりの集団を率いて一挙に襲いかかった。家親も対抗する術がなく、
「ひけ、ひけ」
と下知して屋陰を目指して引き揚げた。
 吉田から出張ってきた志道次郎四郎、椿新五郎左衛門、臼井藤次郎、桜井某らは三村軍に加わっていたが、
「味方が敗北するのは口惜しい。おめおめ逃げては吉田勢の面目がたたぬ」ととって返し抗戦し四人は華々しく討ち死にした。
 藤井四郎次郎の軍勢はいよいよ勝ちに乗じて鬨をあげ、やがて元春の旗本を目指して進んできた。元春はこれを見て二千騎を二手に分けて陰陽の備えをとり射手を左右に進めて「吉川元春これにあり、恐れて逃げるか、悔しかったら引き返してきて我と戦い討ち死にせよ」
と大音声を張り上げた。この頃中国地方では大猛将として名高い元春に目の前で名乗られると藤井軍は怖じ気ついて、突撃をやめ馬を一所において徒に鬨の声だけをあげているだけであった。そのありさまは、ちょうど獅子が一吼えすれば百獣が慌てふためくようなものであった。
 このとき家親軍を援護するため河原毛の馬に打ち乗り鍬形打った甲に黒具足を着けた武者がただ一騎、道の小高い所へ馬を乗り上げ
「井上河内守はここにあり、井上の者共はここへ集まり来るべし」
と呼ばわったので源五郎、源三郎、与三右衛門、右衛門大夫、玄蕃をはじめとして五十騎ばかりが井上の周りに集まった。いずれも弓の上手であったので、鏃を揃えて散々に発射した。この井上の手ごわい反撃にたじろいで、追手の藤井四郎次郎の一団も深追いすることなく引き揚げた。緒戦はこのようにして日没引き分けとなった。
三村家親は今回の戦では吉川軍の井上河内守の弓矢の加勢によって危うく難を逃れたので吉川元春の陣屋へ御礼の挨拶に伺候した。
「この度、敵を侮って一戦を仕損じたのは私の不覚でした。もう一度猿掛け城へ押し寄せて挑戦し荘を討ち破らなければ家親の名がすたります。どうかあとは家親にお任せ願い元就公には陣を払ってお引き揚げ下さるよう申し上げてつかあさい」
と家親が言った。
「そうか、それではその旨わしからよく伝えておこう。お主の今後の働き振りはこの元春が引き続き在陣してしかと見届けようぞ」
「有り難きしあわせ」
 元春への挨拶を終えた家親は、中村家好を呼んで
「三村家親は荘との戦で負けてしまい、面目を失墜したので次の戦には玉砕する積もりで掛かってくる準備をしている」
という噂を猿掛け城内で広めるよう指示した。

 緒戦から二か月後の四月三日、三村家親の千五百騎が、先陣として先に進発
し、元春が熊谷、天野ら二千余騎を従えて後陣に控えそれぞれに井原へ布陣した。
 このことを聞いた荘為資は
「家親は先日の合戦で負けた無念を晴らすため、撃ってでたのだろう。必死の覚悟ができているから今度は手強いぞ。味方は普通の戦いをしたのでは勝ち目がない。井原へ夜討ちをかけよう」
と言って次のように下知した。
「わしは七百余騎で三村家親の陣を討つ。元春は三村の陣が夜討ちを受けたと聞いたら必ず援兵をだすであろう。藤井四郎次郎は五百騎で手薄になった元春の陣中へ駆け込んで不意に戦をしかけよ」
「村田掃部助は三百騎を率いて遙かかなたの後陣に控え、もし夜討ちに失敗した兵が引き退いてきたら、備えを固くして待ちうけ諸勢を引き取れ」
「行吉は二百騎で為資の後陣から三町ほど引き下がって備え、夜討ちが難儀のようであるならば合図を待って交代せよ。合戦は五日の丑の刻とする」
 三村家親の陣へ諜者の座頭が馳せて来て
「荘の陣では今夜、夜討ちをかける準備をしようると聞きましたけん、用心してつかあせい」
と告げた。
「そうか。噂に騙されて動きだしたか。願ってもないことよ」
と家親は言って三村五郎兵衛、篠村三徳斉、三村孫兵衛らを呼んで次々に下知した。
「五郎兵衛と三徳斉は三百騎を率いて、八町先の井谷の茂みに隠れて待機せよ。夜討ちの兵が引き揚げる所をさえぎって襲え」
「孫兵衛は松山勘解由、水落甲斐守、末田勘解由、末田縫殿助らと三百騎を従えて二町下がった民家の傍らの竹林に待機して、夜討ちの戦いが半ば頃になったら後詰めをせよ」
「熊谷、天野、香川は荘が夜討ちにでてくるところを取り巻き四方からかかれ」
 家親は千余騎で荘の本陣へ切り掛かろうと待ちうけていた。
 一方、荘ではこのことを夢にも知らず鶏が暁を告げたのを合図に先陣、後陣の順で撃ってでた。荘が敵陣五、六町まで進んだとき、隊列の中ほどへ両手を広げて飛び出してきた百姓の風体をした若い男がある。
「止まられえ。とまられえ。お館様に御注進じゃ。一大事じゃ」
「何者じゃ」
と誰何するものや槍を突きつける兵の動きで隊列の動きが乱れた。
「なんだ、お主、庭番の小田崎ではないか。慌てふためいてどげぇした」
と騒ぎに気付いた荘為資が言った。
「今宵の夜討ちの計画は敵に漏れて、敵はいろいろ先手をとって待ち構えておりますらぁ。夜討ちはおえません。おやめんせえ。危険ですらぁ」
と小田崎が答えた。
「お主誰から聞いたのじゃ」
「わたしの長年の知人が、成羽におりますのじゃが、先ほど密かに私のところへ訪れて夜討ちの事が三村方に漏れていると知らせてくれたんですらぁ」
「そうか。よく知らせてくれた。それでは敵の気がつかないうちに引き揚げよう」
と下知をだし、行吉を殿にして静かに諸軍を引き返した。
 荘軍の動きに気付いた三村の物見の者が急いで馳せ帰り家親に報告した。
「なんでそのようなことがあろうか」
と再度物見を出したが同じ報告であった。
「敵は夜討ちを止めて引いている。一気に追って攻めよ」
と家親が下知すると、一千騎が鬨の声を一斉にあげながら荘軍をおいかけたので、五郎兵衛、三徳斉らもこれを聞いて追撃に加わった。孫兵衛、松山、水落末田などの後詰隊も荘軍の横合いをついて撃って掛かった。
 攻撃を受けた荘 為資は
「一方を討ち破って引き揚げよう」
と言って兵士を一か所に集めて様子を窺っていた。
「お館様はここを引いて下さい。先方の敵の数は鬨の声からすると僅かなものだと思います。殿(しんがり)はそれがしが仕りましょう」
と為資に向かって行吉が言って引き返そうとしたとき藤井四郎次郎もこの場に駆せ寄ってきて両勢合わせて七百騎が死を決して進んで行った。家親軍がこれを迎え討ち、孫兵衛、熊谷、天野らが藤井、行吉軍へ前後左右から襲いかかり大激戦となった。荘為資も三村孫兵衛と渡りあったが次第に押されて、荘軍は引いていった。
 村田掃部助は先陣の方からの鬨の声が近くに聞こえたので心配になり物見を出した。
「味方は、敵に押されて引いているところです」
という報告なので、
「お館様のもとへ」
と叫んで馬に鞭を加えて為資軍と合流しようとした。そこへ、藤井、行吉が散り散りになって逃げてきた。為資は集まってきた藤井、行吉、村田らの荘軍と共に反撃した。両軍が切り合い、突き合いの激しい戦いとなった。しかしながら暗夜の戦いなので、敵味方の区別がつきにくく、名乗りを挙げる声や合言葉を頼りに走り廻りながら討ちあった。
 三村軍はかねて打合せた通りの戦いができたが、荘軍は不意の戦いであったから次第に押されて負けるところとなり退いた。
 家親は勝ちに乗じて逃げる者をしきりに追ったので行吉は為資を逃がすために取って返し、激しく切り結んで壮烈な討ち死にをした。
 藤井四郎次郎は大小三カ所に傷を受け郎党に助けられながら逃げのびた。為資の手の者は散り散りになってしまい為資一騎のみでようよう猿掛け城へたどり着いた。
「勝って兜の緒を締めよじゃ。戦いはこれまで。深追いするな」
と家親が言って引き返した。
 討ち取った首を改めてみると、村田掃部助行吉某、池上七郎四郎、加藤十兵衛らの大将首をはじめとして百七十余あった。
 荘為資は家親の謀略によって戦に負けたので、もう一度戦って鬱憤を晴らしたいと思った。しかし、冷静に考えてみると夜討ちをかけるという謀りごとが敵に漏れたのは内部に密通者がいるに違いない。内部を固めてからにしないとまた、負けるかもしれないと考えるようになった。
 一方の三村家親も今回は為資を討ち取ることができた筈なのに、彼が途中から引き揚げたのは、味方の兵が敵に情報を与えたからに違いないと思うようになり自重して戦を仕掛けようとはしなかった。
 為資は尼子の力が衰えてきたいま、三村と戦うことは毛利を敵に廻すことであり、いずれ家を潰してしまうことになると考え、人質を出して和睦した。
 その後毛利元就の斡旋で三村から家親の長男元祐を養子に貰い受け為資は家督を譲って隠居した。
                            
  九、松山城へ家親入城
                             
 松山城には上野氏を滅ぼした荘為資が猿掛け城から移ってきていた。この時期の荘氏は尼子氏と結んでいた。毛利元就と結んだ三村家親との二回に及ぶ戦いで決着のつかなかった猿掛け城攻防戦では、三村家親の嫡男を養子に迎えるという屈辱的な和睦を余儀なくされて猿掛け城は養子の元祐に譲って隠居したが、松山城も嫡男高資に譲っていた。猿掛け城が実質的に三村氏の支配下にはいった今、備中地方で尼子氏にとって最後の拠点となった松山城の守りを強化するために、吉田左京亮義辰が守将として派遣されていたが、城主の高資と折り合いがよくなかった。
「お館様、荘為資が死にました」
と諜者の家好が家親に報告した。
「死因は」
「卒中のようです」
「松山城の様子は」
「高資と義辰の仲がよくありません」
「不和の原因はなんだ」
「高資が備中の宇喜多直家と結ぶよう画策しているからです」
「若造め、背後から攻めようという魂胆か」
「宇喜多に対する備えをお忘れなく」
「憮川城を築城中じゃ」
「さすが、お館様。手のうちかたがお早い」
「高資は城にいるのか」
「いません」
「何処へ行った」
「備中の宇喜多に隠まわれている疑いがあります」
「為資が卒し、高資が城をでた今が攻撃のチャンスだな」
「御意」この情報を入手した家親は直ちに、琵琶法師の甫一を使者として毛利元就の許へ派遣した。知らせを聞いた毛利元就は直ちに香川光景と三村家親に出陣命令を下した。
家親は備中、備後の国人を集め、三千騎で永禄二年(一五五九)三月中旬松山へ撃って出た。
 義辰は世に聞こえた大剛の武将だったので手勢僅か三百でよく抗戦し家親、光景の軍勢をてこずらせた。しかしながら兵糧も尽きて残す所十日分ほどになったので、籠城の兵に最後の決戦を促した。
「三村軍には加勢があるので、いつもより兵の数は多く見える。城はすっかり取り囲まれたので、一人の命も助かる見込みはない。後は兵糧が尽きて身は疲れ力は落ちて、敵と太刀を交えることも出来ず、むざむざ飢え死にするだけだ。まだ精気が残っているうちに撃って出て、一方をうち破って落ちていこうと思う。もし敵が強くて切り抜けることができない時は、皆で枕を並べて討ち死にしよう」
「いざ戦おう」
「もとより覚悟の上」
と一族郎党は口々に決意を示し意気軒昂であった。
 翌日四月六日全員二日分の兵糧を持って、大手門の門を開くと、なんの名乗りもせずに三村の陣へ切ってかかった。
 これをみた三村勢は
「さあ、吉田が撃ってでたぞ。漏らさず討ち取れ」
としきりに命令して戦った。しかし、不意をつかれた三村軍は陣型を立て直すこともできず、軍旗は乱れ、弓は前後に混乱して撃てなかった。
 敵が怯んだところを吉田義辰は
「孫子十三篇にいう、虚実の二字あり。敵の備えの虚なるところを撃ってこそ、必勝の術である。者ども続け」
と一文字に切って入った。
 これに対して、真先に立ち向かった三村親房はここを破られてはかなわないと必死に切り結んだが、深手を負ってしまった。それを見た兵は気を削がれてしどろもどろになり、ついに五百騎の備えが崩れてしまった。
 三村勢が引くのに替わって香川光景の兵三百騎が戦った。吉田義辰はここを破れば取りあえず切り抜けて落ちることができると考えて、ひときわ激しく戦った。
 そこへ三村家親の隊一千騎ばかりが押し寄せ横合いから切ってかかった。戦死を覚悟した吉田が一歩も引かず戦っているうちにどうした弾みか、一隅を打ち破って、吉田は落ちていった。
 これを見た三村家親は
「吉田軍は僅か二三百の勢力であったのに、上下ひとつとなって死を覚悟して戦うので我が大軍にもかかわらず逃がしてしまった。味方は多勢を頼み死を恐れたためにこんなぶざまなことになってしまった。どんなことがあっても負けるわけにはいかないのじゃ」
と怒りを爆発させた。
 これを聞いて三村の郎党が我先にと追いかけると吉田義辰は引き返して戦った。はじめは七八十名程の兵が従っており、主人を討たせてなるものかととって返して戦い討ち死にするものもあり、或いは逃げ延びるものもあって、最後は西郷修理勝清ただ一人になってしまった。西郷勝清は主人をなんとか落ちのびさせようとして、数回敵に立ち向かい切りむすんだが股を二カ所突かれて、倒れもはやこれが最後かと思われたとき、吉田義辰が相手の敵を追い払い勝清の手を引いて落ちて行った。
 勝清は主人に向かい、
「自分はたとえ、郷里に帰ることができてもこのように、深手を受けているのでとても療養できるものではありません。ましてや、前後の敵を打ち払って逃げることは難しいことです。どうか、私を捨てて、殿一人でも国へ帰られて晴久公にお仕え下さい。臣下を救うという義のために主君への忠節をおろそかにすることは、勇士や義人の本意ではありません。早く落ちて下さい」と再三諌めた。
 しかし義辰は
「わしは戦場で討たれて、死にかけたことが何度かあったが、お前が身命を捨てて危ういところを助けられた。そのお蔭で度々功績を立てて名を上げることができた。この恩に報いないわけにはいかない。死ぬなら一緒ぞ」
と言って、手をとって肩に引っかけて落ちて行った。
 そのうちに武装した土地の百姓達が、落人があると聞いて、馬や武具を奪い取ろうとして七八百人があつまり、逃げ道を遮った。義辰は大太刀を奮って切り払い、漸く川辺まで逃げ延びた。
 一息ついて川の対岸をみると武装した百姓達二三百人が、弓矢をつがえて待ち構えている。後ろを振り返ると三村親宣が五六十騎で追いかけて来ている。 「勝清、こうなっては網にかかった魚と同じでもはや、逃れる術はない。自害しよう。お主死出の旅路の供をせよ」
と義辰が言うと
「私を打ち捨てて落ちれば、その機会は十分あったのに、自分を助けようとして敵に取り込まれるのは残念でなりません。自分の身がまともであれば、ここを打ち破って落として差し上げましょうに、却って足手まといになることが口惜しいことです。しかしながらその御志の有り難さは七世まで生まれかわっても忘れることはできません。どうか早く首を打って下さい」
と言って勝清は首を差し出した。義辰は太刀を振り上げて勝清の首を打ち落とした。そこへ義辰に縁のある禅僧が走ってきて
「まず、自分の寺に入りなさい。手だてを考えて落としましょう」
と言ったが義辰は
「命を助けようと思えば予ての謀も有りましょうが、勝清と共に死のうと決心したのでこのように敵に囲まれてしまいました。そのため貴僧にまで迷惑をかけるわけにはいきません。御志は有り難いと思いますが、どうかここは死なせて下さい。お情けあるならば一門の者へ自分の最後をお伝え下さい」
と前後の様子を詳しく語って、川中の石の上に腰を掛け大音声を張り上げた。 「吉田左京亮義辰という剛の者が切腹するのを見ておき後世の物語にせよ」と叫んで腹を十文字に掻き切り、太刀を取り直して自ら喉を押し切り、川の中へ飛び込んだ。これを見て周囲の敵の感じいった声は、しばし鳴りやまなかった。
 三村親宣は義辰の首を取って帰り、主人の家親に見せたところ、家親も
「義辰は勝れた勇士である。懇ろに葬ってやれ」
と命じて、松月和尚という曹洞宗の僧を招き寄せて義辰の供養を懇ろに執り行った。
                  
  十、 船山城攻め 
                    
 三村家親は毛利元就と同盟を結ぶと、伯耆の不動嶽に立て籠もり尼子勢と休む暇なく戦った。その後法勝寺(鳥取県西伯町)にあって武威を振るい伯州を鎮圧した。しかしながら長年の遠征で、自国の防衛に手がまわらなかった。そこへ備前へ放しておいた諜者から浦上氏、宇喜多氏、松田氏の動きについて情報が入った。
「浦上宗景と松田将元が和議を結びました。裏で糸を引いているのは宇喜多直家のようです」
「証拠は」
「浦上宗景とは犬猿の仲だった将元自身が、宗景の居城天神山城へ出仕するようになったし、直家の二人の娘のうち一人を将元に嫁がせたことです」
「それだけか」
「さらに直家はもう一人の娘を美作の三星城城主後藤勝元へ嫁がせました」 「後藤勝元は尼子の傘下だった筈だが」
「そこが直家の老獪なところで、後藤を尼子から離脱させ浦上と同盟を結び北の脅威をなくしておこうという魂胆です」
「狙いは」
「備中へ侵攻してくる準備かと」
 当初は自国の勢力を維持するだけの目的で尼子氏と結んでいた備前の松田氏であったが三村家親の不在を狙って備中に手を出して領地を侵犯しはじめた。知らせを受けた家親は尼子氏の勢力が衰え僅かに出雲の富田城一つを維持するに過ぎなくなったことでもあるし家親が伯州に留まっている必要もなくなったので暫く本国へ帰って領地を固め、松田氏を討って備中から尼子の勢力を駆逐したいと毛利元就に願い出た。
「尾張の織田信長が今川義元を桶狭間で打ち破り(一五六十)美濃をも攻略して、都を窺っています。殿も早く都を目指して下さい」
「都を目指すには、備前と播磨を攻略して置かねばなるまい」
「備前攻めはお任せ下さい。存分にお役に立ってご覧にいれます」
「頼もしく思うぞ」
「ついては、備中へ帰国することをお許しください」
「あい分かった」
 許されて備中へ帰ってみると松田氏は今まで敵対していた宇喜多直家と和睦し浦上宗景の麾下として備中進出を企てているということが分かった。浦上氏の家中では、宇喜多直家が新興ではあるが最大の実力者になっていた。浦上氏の意向もあって松田氏は直家と同盟し、三村氏に対抗しようとしたのである。 金川城主松田元輝の嫡男元賢と宇喜多直家の娘との結婚はこのような背景のもとに行われた政略結婚であった。
 帰国した三村家親は、電光石化の如く備前に進出して金光与次郎の拠る石山城(一五六三)を攻めこれを一気に落とした。次いで船山城(一五六三)を攻撃してこれも難なく落とし、須々木豊前らを降参させて備中へ引き揚げた。  永祿八年(一五六五)五月三村家親は美作へ出陣し、後藤勝元の三星城を攻めた。後藤氏の三星城は現在の英田郡美作町明見にあった山城で梶並川と滝川の合流点の西側に位置していた。城主の勝元は、金川城の松田氏と同様これまで尼子氏の支配下にあったが、尼子氏の衰退に伴って離脱し、西の三村氏に対抗するため東備前の浦上氏と結んで、東美作の地を浦上氏と分けあったのである。また勝元は宇喜多直家の娘婿でもあったから宇喜多直家は三星城への応援として馬場次郎四郎に足軽を添えて美作へ行かせた。
 五月二十四日次郎四郎は愛宕精進のため、城の前の川に出て体を清めていたところ、三村の軍勢が繰り出してきたので、城に立ち帰り甲冑をつけて城をでた。その時既に城兵一人が先に立って敵方の三村軍の兵と槍を合わせていた。この立ち合いを目撃した別の三村兵が城兵の槍脇を狙った。それを見た次郎四郎は、弓を手に持った二人の敵に突いてかかった。あまりに距離が近かったので、敵は矢を放つことができず刀を抜いて切りかかって来たが、次郎四郎は手に持った槍で強くつきたてたので敵はかなわず逃げていった。また一人の敵が槍を持ってかかってきたので、次郎四郎はこの敵と槍を合わせた。はじめ槍を合わせた三村の兵が城側の兵との勝負を止めて四郎次郎の背後から突いてかかった。次郎四郎は前後の敵を一手に引受けることになったが、少し退き二人を相手に戦った。相手の隙をみてとった四郎次郎は敵の手にする二本の槍を一つに掴んで放さなかった。そこで二の敵が跪き倒れたところを取り押さえ首をとった。
 そこへ敵兵二、三人が駆けつけ、馬場の兜をとって引き倒そうとしたが、四郎次郎がそれを切り払い、更に切りかかっていったからその勇敢さに恐れをなして近づくものはなくなった。その後も小競り合いだけで合戦らしい合戦はなく矢文の応酬があった。
 三村方からの矢文の狂歌は
「井楼を上げて攻めるぞ三つ星を天神そへて周匝(すさ)いくひ物」
というものであった。
 歌意は
「井桁に組んだ櫓を上げてさあ攻撃するぞと三星城内の敵情を観察すれば、中は天神山城からの浦上軍の応援部隊が取り巻いているではないか。まるで蒸籠の中の混ぜ物入りの不味い食べ物のようなもので実力の程は知れたものよ」と相手を挑発している。
 一方、城方からは額田与右衛門が返歌を書いて三村の陣中へ射返した。
「天神の祈りのつよき三星をなりはすまいぞ家ちかに居れ」
 歌意は
「天の神が必勝を祈願して下さった三星城は決して落城することはない。浦上軍の応援もあることだし三村軍の総帥家親は諦めて帰り、自分の家でも守っていたらどうですか」というものであり、敵味方お互いに城の攻防を楽しんでいる風情が窺える。
 三星城攻めではさしたる戦果もなく、むしろ馬場四郎次郎に功名をあげさせるだけの結果に終わって、備中へ引き揚げた。
「東海地方で織田信長が暴れまわっているらしい。やがては都へ上るばかりの勢いだという。毛利の殿もいずれ上洛の意思を固められるときがこよう。そのときに通り道に立ちはだかる備前勢を片付けねばならぬ。いずれは一戦交えなければならなくなるだろう。その前に小手試しに美作に兵を入れ、地慣らしをしておかねばなるまい」
 三村家親は一族、重臣を集めた軍議の席で口を開いた。
「それにしても、三星城の戦いではぶざまな戦をしたものよ」
と嫡男の元親が言った。
「敵を侮ったのがいけなかった」
と親成が反省の気持ちを述べると
「今度は、総力を上げてかからねばならぬ」
と家親が一同を見回しながら、毅然とした口調で言った。
「次の目当ては当然高田城ということになるでしょう」
と次男の元親が父の考えを忖度して言った。
「出雲路は概ねかたがついているので、都を目指さねばなるまい。毛利の殿からはまだ命令を頂いてはおらぬが、殿は必ず都を目指される。今のうちに高田城を落として足場を固めておくのも御奉公というものじゃ」
と言うと列座の親頼、親成、政親、親重等主だった将に異存はなく、高田城攻撃が決まった。
 軍議を決めた三村家親は鶴首城を出陣し、永禄八年十一月(一五六五)陣山から高田川を挟んで三浦貞勝の拠る高田城に猛攻撃をかけた。
 作州高田城は、大総山と称する山に築かれた山城である。別名勝山城とも称し、標高三百二二メートルの如意山に本丸があり、その前の標高二百六一メートルの勝山には出丸がある。両山とも鬱蒼とした常緑樹に覆われている。
 初代の城主は三浦貞宗で東国から地頭としてこの地に移って来て、南北朝時代が終結する頃、この地に築城した。遠祖は関東の豪族三浦大介義明である。
 三浦氏は室町時代、戦国時代にかけて、美作の真島、大庭両郡を支配し美作西部に覇権を樹立していた。しかし天文十七年(一五四八)落城の悲運に遭遇した。同年九月十六日に第十代当主三浦貞久が病死したのを奇貨として、予て美作の地を狙っていた尼子氏が攻め入ったのである。貞久の跡を相続した第十一代城主は未だ十才の嫡子貞勝であったが、伯耆国日野郡より南下してきた尼子軍に攻撃され落城の憂き目にあってしまった。尼子軍の大将は宇山久信であった。城主の貞勝は家臣達に守られ城を捨てて脱出した。高田城の守将に選任されたのは尼子軍の宇山久信である。
 尼子氏は天文十七年(一五四八)から永録二年まで十一年間高田城を占拠していた。落城後、備前や備中の山野に雌伏していた三浦一族は永録二年三月(一五五九)備前の浦上氏の援護を受けて高田城を攻撃し奪回に成功した。城の奪回戦に活躍した重臣の舟津、牧金田等の諸氏に助けられて、城主として返り咲いたのが貞勝であり二十二才に成長していた。
 貞勝は二十三才になったとき、十五才のお福を妻に迎え桃寿丸という男子を設けた。お福は絶世の美女で三浦氏の庶族三浦能登守の娘であった。
 三村家親軍の猛烈な攻撃をうけながらも、三浦軍はよく抗戦し一ヵ月が過ぎた。攻めあぐんでいる三村家親の許へ諜者の総帥である琵琶法師の甫一から耳寄りな情報が入った。予て城へ潜入させていた諜者の一人から知らせてきた情報とは次のようなものであった。
「高田城主貞勝の妹・勝つ姫に重臣の金田源左衛門が懸想していたが、貞勝がお勝を舟津弾正という重臣に嫁がせたので、源左衛門は貞勝に恨みを抱いている」
「それだけか」
と家親が聞くと
「そればかりでなく、奸智にたけた源左衛門は、恋仇の舟津弾正を誣告して切腹させてしまった。このように、自分本意の邪悪な心を持った男だから、餌を撒けば食いついてきます。今、寝返るよう説得していますから、間もなく手引きするでしよう」
「餌は何を撒けばよいのか」
「命を助け所領を安堵した上に切腹した舟津弾正の所領を与えることです。如何でしようか」
「それだけで源左衛門は動くか」
「必ず動きます」
「何故分かる」
「欲の深い人間は餌が大きい程うまく釣れます。御決裁下さいますか」
「良かろう」
 やがて、隠密裏に示し合わせた三村軍は源左衛門の手引きによって城へなだれ込み城を落とした。
 貞勝は三村軍が城内に進入してくると妻のお福へ毅然とした口調で言った。 「三浦一族は団結力を誇ってきた決死の強者揃いの軍団じゃ。しかし今度ばかりは難しそうじゃ。団結を破る内通者がでたからじゃ。浦上氏へも救援を頼んでおいたが間にあいそうもない。かくなる上は武門の意地を通して城を枕に討ち死にする覚悟じゃ。しかし福は女子じゃ。桃寿丸を護って逃げてくれ。血筋を残すのは女子の勤めじゃ。桃寿丸を無事に育てて、父の無念を晴らしてくれ」
 貞勝の反対を許さぬ厳しい言葉に促されたお福は桃寿丸を抱き、牧管兵衛、牧河内、江川小四郎ら僅かな近臣に護られて囲みを切り抜け城を脱出した。美作の国境を越え、備前津高郡下土井村まで落ちのびた。
 一方、貞勝は、敵の目を欺くために、自分達は反対側の急峻な崖を近習十一人と駆け降りたのである。そこは城の麓を西へ迂回して流れている高田川の川岸であった。
「ここまで来れば、陣山とは視界が遮られているので追手に見つかることはないでしょう川を渡れば組村です。そこまで行けば大丈夫だと思います」
と近習の一人が言った。
「組村から北の尼子領に入って暫く時節を待つことにしよう」
と貞勝主従が高田川を渡って、這いあがるところを三村の兵三騎に見つかってしまった。城主が脱出したと知った三村軍が先廻りしていたのである。貞勝は近習を指揮して戦い自らも槍を奮って敵を突き伏せた。漸く血路を開き組村へ入り、三浦谷へ逃げ込んだ。山や谷を伝って、尼子領へ逃れようと北を目指した。ようやく井原村蓬の薬師堂まで辿りつき疲労困憊した体を休めていたところを追跡してきた三村軍に襲われた。貞勝主従は最後の力を振り絞って血刀で防戦したが、運命の尽きたことを悟った貞勝は薬師堂に籠もって家臣達に言い残した。
「腹はわし一人が切ればすむ。汝らは逃げのびてくれ。必ず生きて三浦家の再興を図って欲しい。貞勝最後の頼みじゃ。逃げてくれ」
 貞勝は薬師堂で自ら腹を切り二十二年の生涯を終えた。
                      
  十一、興禅寺の暗殺
                      
 三浦貞勝が薬師堂で自刃したとき、お福は郎党の江川小四郎に三才の桃寿丸を背負わせ女とともに、山中を歩いて真庭郡の久世へ逃れた。その後、旭川を下り、備前領内の下土井村(現御津郡加茂川町下土井)の山中へ難を避けていた。
 遠藤又次郎は三村家中にあったとき、鉄砲隊を編成して装備を近代化するという提案を実現するため、見本の鉄砲を仕入れる目的で、堺へ行ったが、旅籠で資金を盗まれてしまった。これを機に三村家を離れ、堺で手に入れた鉄砲を頼りに故郷へ舞い戻り猟師生活をしていた。
 ある日、加茂郷の山中で猟をしていると笹の葉が揺れている。獲物の熊がいるのかと鉄砲を構えたところ、
「おなかが空いたよ」
という子供の声が聞こえた。
「若、お静かに、声を出してはなりませぬ。三村の者達が追ってきているかもしれませんぞ」
とたしなめる若い男の声が続いた。
「もうすぐ土井の婆(ばば)さまのところへ着きますからね。それまでの辛抱ですよ」と若い女の声に
「早く婆さまのところへ行こうよ」
と再び子供の声である。目を凝らして見ると笹の葉の合間から人影が見える。どうやら四人のようであるが武士は一人しかいないようである。
「こんな所で何しとる」
 遠藤又次郎は、鉄砲を構えて大声で叫んだ。
「何者だ」
不意に声をかけられて驚愕した若い武士が刀を構えて立ち上がった。
「動くな。動くと撃つぞ」
鉄砲に気がついて、若い武士は構えを崩さず言った。
「三村の者か」
「違う。この辺りを仕事場にしている猟師じゃこんなところで何しとる」
「敵に追われている。見逃してくれ」
「三浦家中の者か。落人だな」
「そうだ。拙者、江川小四郎と申す。土井一族と縁のある者じゃ」
「危ない所じゃったぞ。熊と間違えられて、ズドン」と言って笑いながら又次郎が鉄砲の構えを解くと江川も刀を下ろして言った。
「土井氏の館は近くか」
「もうじきじゃ。案内してやろう」
と又次郎が先頭に発った。
 この村の豪族土井氏を頼るためお福主従は土井までたどりついたところであった。お福の母方の里が美作勝山の三浦氏であったからその嫁ぎ先の縁故を頼りにしたのである。
「どうじゃ。この城で三浦の遺児達を匿うのは憚りが多い。そなたの兄の宇喜多直家は知恵者じゃから、沼城へ挨拶に伺候させては」
と虎倉城主伊賀久隆が妻の梢へ言った。お福主従に転げこまれた土井氏は、三村家親が探索している落人を匿っていると面倒なことが起こると考えて、いちはやく上司の伊賀氏のところへつれてきたのである。厄介者を虎倉城で預かってもらおうと、思ってのことである。
 一方、土井氏から相談をもちかけられた伊賀氏は、従来松田氏に服属し臣下の礼をとってきたが、松田氏の勢力の衰えとともに縁を切り宇喜多氏と誼を通じて、直家の妹・梢を妻として迎えていた。今、三浦一族の遺児を匿うことは三村、松田、浦上に対しても憚りがあった。できれば厄介者は宇喜多直家に預けてしまいたかったのである。結局、盥廻しさせられてお福は宇喜多直家の沼城へつれてこられた。梢が口をきいたのである。
「お兄さん、御無沙汰しておりました。お盛んなようでなによりです」
と梢が兄へ挨拶した。
「梢、久振りだな。久隆殿とは仲良うやっているか」
「はい。お蔭様で」
「子供はまだか」
「ええ、そのうち。ところで兄さんの方は後添えは如何なっておりますか」 「その話はまだ早い。奈美の七回忌も終わっておらぬ」
「何時までも奈美さんが忘れられないのね」
と言う梢の言葉に直家は表情を険しくした。
 宇喜多直家の正室奈美は沼城(岡山市沼)城主中山備中守信正の娘である。沼城は平山城ではあるが、備前の中央部に位置し屈指の穀倉地帯をその領地内に抱え、国人達の垂涎の地であった。天文十八年(一五四九)直家は若干二十一才で新庄山城(岡山市角山)に城を築き、主君浦上宗景の命により、浦上家の財務担当の重臣・中山信正の娘を妻に迎えた。新庄山城は備前の東部盆地を北方に見下ろすことができ、盆地の南端を抑える要害の地であったから中山信正にとってこの縁談は政略的にも都合のよいものであった。中山備中守信正は当時上道郡東部盆地の大半を領有する大身であったから、遠く京都の公家にも名前が知られているほどの実力者であった。蝶よ花よと何不自由なく育てられた妻奈美は気位が高く、なにかにつけ実家のことを自慢する誇り高き女性であった。
 一方の直家は幼くして父を失い、流浪生活までして辛酸を嘗め尽くした上で成り上がってきた男だけに、名門の妻を迎えた喜びは大きく、束の間ではあったが、新庄山城で送った甘い新婚の生活は戦場往来の殺伐とした気持ちに安らぎを与えるものであった。従って気位の高い妻のわがまま勝ってな振る舞いも気に触るどころか却って、自分ももっと大身になって妻から尊敬されるようにならなければと闘志をかきたてさせるのであった。夜毎同衾して、乱れ狂う奈美の白い裸身の餅肌が桃色に変わり、切なく喘ぐ声は直家の征服感を満足させるものであった。それはまた誇り高い鼻をへし折られ、羞恥の気持ちを苛まれ歓喜の世界へ誘われるのを成熟した女体が待ちのぞんでいるという合図のようにも思えるのであった。そのような新婚生活の結果として直家と奈美の間に双子の女児が誕生した。長女を美代、次女を千代と名付けたが、二人の姉妹が十一才になったとき、悲劇が発生した。
永禄二年(一五五九)正月天神山城へ伺候して、主君浦上宗景に年賀の挨拶をしたとき非情冷酷な命令を受けた。
「一大事が発生した。お主の舅、中山備中信正が首謀者として謀叛を企て島村観阿弥と結託しているという確かな情報が手に入ったのじゃ。この浦上宗景を亡きものにして、わしにとって替わろうという魂胆じゃ。信正は東大川と西大川とに挟まれた肥沃な穀倉地帯を領地に持っている。一方島村観阿弥は砥石城(邑久町豊原)にあって千町平野の肥沃地を領有しておりその収穫高は備前一だと言われている。この二人が提携して、備前を統一しようということらしい。お主の祖父の能家は島村観阿弥に弑いされて、砥石城を奪われたのであろう。お主の仇敵島村観阿弥とこたびの謀叛の張本人中山信正の征伐を命ずる」というものであった。
 古来、内外を問わず実力のない主君は、力をつけてきた家臣達を権力闘争に巻き込みお互いに覇を競わせて勢力を消耗させ、その均衡の上に立って自らの権威を維持しようとする。無理難題をふっかけられた直家は策略を巡らして二人を倒すしかないと決意した。
 直家は沼城の近くに茶亭をつくり狩猟にことよせてしばしば岳父の中山信正を茶亭に招待して供応したが、そのうち信正は城から茶亭へ遠回りするのが面倒になり、茶亭と城の間の沼に仮橋を架けるよう勧めた。内心喜んだ直家はおくびにも顔にださず、橋を架けその後もしばしば信正を招いて茶亭で酒宴を開いていた。
 永録二年(一五五九)の初秋、狩猟帰りに茶亭へ立ち寄った直家はその日獲物が多く酒宴が盛り上がり夜半に及んだので、信正に勧められるままに沼城へ宿泊した。深夜城中が寝静まったところを見計らって直家は突然信正の寝所へ襲いかかったのである。合図に従って直家の家来達は手筈通り、仮橋を渡って沼城へ雪崩れこみ信正を討ってこの城を奪取したのである。
 沼城に狼煙があがるのを見た島村観阿弥は砥石城から僅かの人数で急行したが、予ての打合せ通り出撃してきた浦上宗景の応援部隊と協同して一挙に島村観阿弥を討ちとってしまったのである。この事件によって直家は沼城の他に砥石城を手にすることになったのであるが、実の父親を夫に殺害された妻の奈美は双子の姉妹美代と千代を道連にして戦国の女性らしく自決したのである。この事件以来、直家は勧める人があっても決して後妻を娶ろうとはしなかった。 
「ところで、今日は虎倉から素晴らしいお土産を持参致しました」
と妹の梢が言った。
「ほう。何を持参致した」
「ご覧になってからのお楽しみ」
と梢が言って控えの小姓に目配せすると、次の間の障子が開かれた。そこには妙齢の婦人が三つ指ついて平伏している。
「ほう。女ではないか。面をあげい」
直家の声に応えて、女が静かに顔を上げて直家を正視した。色白で形のよい顔は鼻筋が通っており、ふくよかな頬の奥には人懐かしげな目がこころなしか潤んでいる。
「ほお。美しいお人よのう。名は何と言う」
直家は体の中を美しいものにふれた感動の波が走るのを感じていた。
「お初におめもじを得ます。お福と申します。美作勝山の三浦一族の者でございます」
「・・・・・・・・」
何か言おうと口をもぐもぐさせただけで直家は暫し言葉を失っていた。あまりの美しさに見とれていたのと、頭の中に蓄えられている近隣諸国の出来事の情報を組み合わせてお福の背景を考えていたからである。やがて
「この度の合戦では、貞勝殿が落命された由。お福殿にはご愁傷のことと思います。聞けば城内の裏切り者による内通が敗因とか。さぞ口惜しいことでござろう」
と直家が言うと
「・・・・・ 」
お福は頭を下げただけで言葉がでない。涙ぐむ様子がしおらしい。
「忠臣、舟津弾正に讒言により詰め腹を切らさせたことといい、三村家親へ内通したことといい、金田源左衛門めは八つ裂きにしても憎みたりないことであろう」
「お悔やみのお言葉かたじけのうございます」
「桃寿丸殿が成人されるまで、ゆるりと過ごされよ」
「重ね重ねの御配慮いたみいります。こたびは無念の最後を遂げた夫貞勝の忘れ形見桃寿丸ともども、御引見賜り、いままた逗留をお許し戴き有り難う存じます。お福御礼の申し上げようもござりませぬ」
「なんの、なんの。お福殿そちらは畳もござらぬ板間ゆえ、脚も痛かろう、もそっとこちらへお越しあれ」
初対面で心を虜にされた直家は、お福のほうへ立ち上がって行き、その手を取って直家の席の前へ導いた。
「あれま、はしたないことで」
と消え入りそうな風情のお福を労り、励ますように直家が囁いた。
「桃寿丸殿の将来のこととか、貞勝殿の仇打ちとか他聞を憚ることもあるので話は近いほうがよい。遠慮されることはない」
 伏目がちにしているお福の着衣から、微かに沈香の匂いが流れて、直家の鼻
孔を刺激した。近くで見ると唇に引いた口紅が薄化粧した顔に映え形のよい顔容を引き立てていた。(これは噂に違わぬ絶世の美女だ。このようなたおやかな美女ならば、後添えにしても生活に張りがでるだろう)とこみあげてくるものがあるのを直家は抑えかねて言った。
「お福殿、そなた達親子を賓客として迎えようと思よんじゃ。この城は自分のうちだと思うて気儘に振る舞われりゃよろしいが」
「これはまた、勿体ないお言葉ですなぁ、有り難くうけたまわります」
とお福が深々と頭を下げるとまたして、芳香が流れた。
「それで、お福殿この直家が力になれることがあれば力を貸しますらぁ。なんなりと遠慮のう申されりゃぁよろしいが」
と慈父が愛娘に言うような口調で言った。
「お言葉に甘えまして」
「よしよし、はっきり言うてみられぇ」
「桃寿丸のこと、行く末が案じられるんです」
「そのことよ、間もなく兵を出し、高田城から毛利の軍勢を追い散らし、桃寿丸殿を城主として送り込んであげますらぁ。勿論この直家が後見致しますらぁ」
「有り難う存じます。そのお言葉を聞いて、心が晴れました」
と婉然と微笑む笑顔がまことに魅力的である。すっかり心を奪われた直家が、
「そのほかには」
と言うと
「亡き夫の仇を討ちたいと思います。一日も早く、憎き三村家親の首を討って夫の墓前に供えとうございます」
と美しい顔が憂いを帯びてくる。
「憎い金田源左衛門ともども、三村家親もこの直家が討ち取って貞勝殿の無念を晴らしてあげますらぁ。それにしても家親は手強い相手故、暫く時間を下され。何か良い思案はないものかのう」
「そこまでは・・・」
とお福が言いかけると目で制して激しく手を鳴らした。
「お福殿がお休みになられるんじゃが。誰か案内を」
 お福と桃寿丸とは沼城で過ごすこととなったが桃寿丸は幼く可愛いかった。お福は未亡人とはいえ若く美しかった。嫡男に恵まれなかった直家は桃寿丸をわが子のように可愛がった。自分の子のように慈しむことがお福への愛情を深めさせた。沼城が明るくなって、家臣達はいつしか
「お福殿が殿の後添えになられるのでは」   
と噂しあうようになっていた。
永禄九年(一五六六)二月初旬の寒い朝、物見から帰った江川小四郎が直家の館にお福を訪ねてきた。
「お方さま、三村家親がまた美作に兵を入れました。久米郡弓削荘の仏調山興禅寺に本陣を置いて、家親はここを宿舎にしています」
と江川小四郎が言った。
「三浦の遺臣だけで家親を討つつもりか」
とお福が聞いた。
「もとよりその覚悟です。しかしながら、中々用心深く、近寄ることができません。我等人数も少なく宇喜多の殿のお力を借りることができないかお方さまに相談に参った次第です」
「わたしからお頼みしてみましょう」 
お福は直家の部屋へ桃寿丸と小四郎を伴って伺候した。
「これは、お福殿と桃寿丸殿、それに小四郎殿もお揃いで何か急な御用かな。家親が美作で動きだしたことと関係がありそうじゃな」
と直家は親子の用向きに察しをつけながら言った。
「御意。興禅寺は雪が深く、家親は暫く滞在する気配ですらぁ。警戒も薄いようなので奇襲をかけるには絶好の機会かと考え、御加勢をお願いに参上致しました」
と小四郎が言えば、
「亡き夫の無念を晴らすためにお力添えを桃寿丸ともどもお願い申し上げます」
とお福が愁訴の眼差しで直家をみあげてから、深々と頭を下げた。
「お殿様、お願い致します」
と桃寿丸も母に習って頭を下げた。
 いずれは家親と一戦交え、雌雄を決せねばなるまいと考えていたし、お福に想いを懸けるようになっていた直家としては、潤んだ瞳で懇願されると無下には断ることができなかった。
「よし。判った。一臂の力を貸しましょうぞ」
この言葉を聞いてお福の顔に喜色が迸った。桃寿丸の手をとって何度も頭を下げた。
「ありがとう存じます。流石、備前にその人ありと噂の宇喜多様でございますわ。何と頼り甲斐のあるお殿様ですこと」
とすかさず煽てた。古今を問わず、女からのこの種のお世辞は男をして、有頂天にさせ、実のあるところを示さねばならぬという気持ちにさせるものである。相手に好意を抱いていればその効果は倍加する。
 お福は天性として男を虜にしてしまう話術と仕種を身につけていたのであろう。後年、豊臣秀吉が備中高松城攻略を前にして岡山城へ滞在したとき、お福の虜になったことからも、その天稟は窺える。
 宇喜多直家は家臣の花房職勝と長船貞親を呼び家親謀殺の相談をもちかけた。
「三村家親とはいずれ一戦を交える時がこようが、今はまだそのときではない。謀略で家親めを密かにしとめるうまい手だてはないものかのう」
「忍びの者を放って暗殺するのが一策かと」
職勝が言うと
「警戒の厳重な家親の身辺近くまでうまく近づけるかのう」
と直家がこの策の難しさに言及した。
「されば、得物は鉄砲を使います」
と長船貞親が言う。
「家中の鉄砲隊の中に気の効いた者がいるか」
「そこが問題です。忍びの心得のある者でなければこの仕事はできません」
と職勝。
「心当たりはあるのか」
「一、二適当な者がおりますが、家親の顔を知りませぬ」
と職勝が困惑した顔で答えた。
「事前に忍ばせて顔を確認させれば良かろう」
「危険です。相手に気づかれては警戒されましよう。この計画は、失敗がゆるされません。一回でしとめねばなりませぬ」
と長船貞親。
「では、家親めの顔を知っており、鉄砲の使える忍びの者を探すしかないではないか」
「その通りです。私にある人物の心当たりがあります。呼んでみましょう」
との長船貞親の答に希望を繋いでその日の謀議は終わった。
「殿、この前お話した鉄砲の使えるよい人物を連れて参りました」
と長船貞親が言って一人の猟師を直家の前に連れてきた。
「遠藤又次郎です。今は猟師をしていますが、かつて三村家親殿にお仕えし、お顔も間近に拝したことがあるそうです。橋本一巴に鉄砲を習った鉄砲打ちの名人です」
と手短に紹介し又次郎を直家に引き合わせた。
 直家は近習達に人払いを命じてから言った。
「面をあげよ」
 鋭い目つきの男であった。
「他聞を憚る。もっと近う寄れ」
とその男を身近に呼び寄せた。
「そちは、備中成羽に住んで三村家親殿に仕えたことがあるそうじゃが、家親殿の面体は見知っているじゃろうな」
「はい。弓衆の一員として家親殿に仕えていましたけぇ、間近にお顔を拝し直接言葉のやりとりをしたこともありますらぁ」
「そうか。鉄砲は何処で習った」
「舎弟の喜三郎より堺で習いました」
「貞親は橋本一巴に習ったと言っているが」
「それは舎弟のほうですが。私は弟に学びましたけぇ、橋本一巴の又弟子にあたりますんじゃ」
「弓矢の名人林弥七郎と対決して勝った橋本一巴のことか」 
「そうです」
「もう一つ聞くが、その方美作の地理には詳しいか」
「はい。家親殿からお暇を頂いてから、鉄砲の腕を活かすため猟師を家業として美作、備前の山野を駆けめぐつていますけぇ、庭のようなものですらぁ」
と言ってから直家は又次郎の目を見据えた。又次郎はたじろぐことなく眼光鋭く直家の目を直視し、互いの視線が交錯して火花を散らした。
「心得ております」
「そのほう、三村家親が美作に出陣していることは知っていようの」
「はい。存じております」
「そちに頼みたいことは、三村家親の陣屋に忍び込み家親を得意の鉄砲で暗殺して欲しいのじゃ。恩賞はそちの望みのままとらせるぞ」
「・・・・・・・・・」
 さすがに、鉄砲の名手又次郎の顔色が変わった。身震いがした。備中の虎という異名を持つ知勇兼備の当時傑出した戦国大名の三村家親を暗殺せよという。しかも、かつては仕えたこともある主を闇討ちにせよとの密命である。
「どうした。怖じ気ついたか。秘密を打ち明けた以上、いやとは言わせぬ。心して返事をいたせ」 
「このような大役を新参者のそれがしに仰せ下され、恐悦至極でございます。確かに承知致しました。しかし、御依頼のことは難儀なことです。三村家親は用心深い人物で、いつも大勢の家来に護衛されている大将ですから、私一人で討ち取ることは至難のことでございます」
「何か頼みたいことでもあるのか。許すから申してみよ」
「二つばかりお願いしたいことが有りますんじゃ」
「許す。何なりと申してみよ」
「されば、このような大事、失敗は許されませぬ」
「よい心掛けじゃ」
「されば、万が一のことも考えて、私の弟喜三郎にもこの大役を仰せつけ下さいますようお願い申し上げます。私以上に鉄砲の名手にございますけぇ、私にもしものことがあれば、私に替わってやり遂げますらぁ」
「よかろう。そちひとりでは何かと心もとないであろう。成功の暁には喜三郎にも恩賞をとらせよう。後一つの願いは何じゃ」
「運悪く功を遂げずして落命した時には、残された妻子のことがきがかりです。今は一介の猟師ですから、妻子にまで累が及ぶようでは不憫でなりませぬ」
「そのことなら、心配いらぬ。妻子と縁者の行く末のことはこの直家が誓って責任をもって面倒みようぞ」
と言って又次郎の目を凝視した。又次郎の心の動きを探る鋭い目つきであった。又次郎は直家が新参者のだす条件を簡単に認めるので却って不安になった。ここまで秘密を知らされた以上断れば、直ちに殺されるであろうし、家親の暗殺に成功したとして本当に、恩賞が貰えるのだろうか、何しろ権謀術策でのし上がってきた直家のことであるから誓紙でも貰っておかなければ、安心できない。しかし、誓紙を書いてくれとも言いだしにくい。しばらく沈黙の時間が流れた後、直家が答えを促すように言った。
「どうじゃな。憎い家親めを見事うちとめたときには、そのほうに一万石を与えよう。この直家が信用できるかどうか思案しているのであれば、誓紙血判してつかわそう」
「恐れ多いことです。喜んでお引受いたします」
と言う又次郎の答えを聞くと
「よし。家族のことも心配ないから、思う存分働いてくれ。起請文を書いておこう」
と言って自ら硯を取り出し墨を磨って、筆をとるや熊野牛王に宛てた起請文を認めた。
 遠藤又次郎と弟の喜三郎は直家の密命を帯びて、美作の興禅寺を目指して沼城を出発した。吉井川を遡り、川沿いに美作の久米郡棚原を経由して栗子あたりまでやってきた。そこで鉄砲の手入れをしてから本山寺道を通って南下し右手に妙見山、左手に栗子山を仰ぎながら山狭の険しい獣道を抜けて久米南の弓削へ出た。
 三村家親が本陣を構えている下籾の興禅寺へ向かって、更に弓削から誕生寺川を下り上神目まで辿りついた時、三村家親の配下の兵が数人ずつ隊列を組んで巡回警備している姿を目撃した。いよいよ敵陣近く潜入してきたのである。
「兄者、これはぼっけぇ警備じゃのう。迂闊には近寄れんようじゃなあ」
と喜三郎が囁くと
「なあに、日が暮れれば目につきにくくなるわな。それまで動かずに隠れていよう」
と又次郎が囁きかえした。
 二人は灌木の中に姿を隠し、お互いの顔を見つめあった。これからやろうとしていることの難しさを改めて反芻したのである。このあたりは、猟場を求めてよく往来した所なので地理は頭の中に入っている。敵の監視の目をかいくぐって、じわじわと興禅寺近くまで辿りつくことができた。時刻はたそがれどきであり、身を隠すには都合のよい時刻と言えた。兄弟は寺横の竹藪の中に潜み巡回してくる警護の隊列をやり過ごしておいてから、土塀の破れより境内を窺ってみた。意外にも境内の警備は手薄のようである。定期的に二人一組で五組の足軽が交代で一定の間隔を置いて境内を巡回しているのが判った。
「これなら、暗くなるのを待って忍びこめば家親の陣屋へ潜りこめるかもしれんぞ」
「月の光も乏しいから夜になれば、勝機が掴めるかもしれんのう」
「そうじゃ、足軽の扮装をして警備陣に紛れこもう」
「うまい考えだ。こそこそやるより、敵の中へ飛び込むほうが却って怪しまれないで済むかもしれない。かけてみよう」
「逃げ道もよく調べておこう」
「夜は敵も警戒していることだから、十分気をつけるんだぞ」
 用意を整えた遠藤兄弟は月光のない二月五日、夜空のしたを、夜回りの足軽に扮装して土塀の破れから興禅寺境内へ忍びこんだ。
 草むらに身を隠して正面を見ると黒々と本堂が建っている。最初に来た警邏の足軽をやり過ごしておいてから、素早く本堂の床下に潜りこんだ。次に来た巡回の足軽を再びやり過ごしてから喜三郎を見張りとして床下に残し又次郎が本堂の濡れ縁へ上がった。縁側と座敷を隔てた格子戸に近づいて内部を窺うと軍議の最中らしい。又次郎には軍議の内容までは聞き取れなかった。
「お館様が興禅寺へ陣を張っておられるだけで、恐れをなして傘下に入りたいと誼を通じてくる国人衆もぎょうさんおります。大した御威光ですなあ」
と植木秀長が言った。
「金光宗高の岡山城、中島元行の中島城、須須木豊前守の船山城もわれらの手に落ちた今となっては、美作を平定してしまえば、都へ一歩近づいたようなものじゃ」
と三村家親が言うと 
「松田も先が見えたし、備前のことは宇喜多氏を叩ければ手に入ったも同然ですらぁ。浦上氏も宇喜多直家がいなければ、赤子も同然というものじゃろう。浦上宗景も最近宇喜多に手こずっていると諜者が報告してきておりますぞ」
と石川久智が浦上家の内紛を披露した。
「興禅寺で冬籠もりというのも無粋なものだが、兵を休養させるのも大切なことだ。たまには近くの温泉にでも漬かって英気を養っておくんじゃなあ。雪解けになったら一気に備前へ攻め入ろう」
と三村家親が言った。
「早く雪解けにならないものかのう。腕がなるわ」
と荘 元祐がいうと
「そうじゃ。わしゃ、じっとしておれん性分でな」
と植木秀長も髭をなぜながら言った。
「夜も更けたし、寒さも厳しくなった。寒さ凌ぎに一杯飲んでくれ」
と家親が言って瓠を回すと親成が杯で濁り酒を受け、おし頂いてから旨そうに口に含んで言った。
「暗いと酒が不味くなるので、明かりを大きくしましょう」
と燭台に菜種油を注ぎ、灯心をかきたてた。
 部屋の中が急にパッと明るくなった。この時一発の銃声が轟いた。
 本堂の座敷と濡れ縁を遮る障子の紙に穴を開けて家親とおぼしき人物に狙いをつけていた遠藤又次郎が明かりに照らし出された家親の顔をはっきり確かめて火縄銃を発射したのである。
 家親は床柱を背にして座っていたが、仰向けに床柱へ叩きつけられてから崩れ落ちた。 銃声を聞いて、本堂へ家臣達が殺到してきた。
「曲者だ。逃がすな」
「曲者はどこだ」
 大勢のわめき声が一段と大きくなり境内は何事が起こったのか判らないまま殺到した家臣達で混乱していた。
 軍議に参加していた親頼、親成、政親、貞親らが駆け寄って家親を抱きおこしたが、胸からは血が噴き出し手の施しようがなかった。
「医者を呼びにやれ」
と親頼が叫んだ。
「やめろ、親頼。騒ぐでない。今生の別れとなるやも知れぬが、決してわしの死を外部に悟られてはならぬ。密かに陣を払ってわしを備中松山城へ運べ」と苦しい息で近侍の家臣に指図した家親はやがて昏睡状態に陥り、息を引き取った。
 家臣達は遺言に従って遺体と共に無念の陣払いをした。
 家親が崩れ落ちるのを見届けた又次郎は、心で快哉を叫びながら闇の中を破れ土塀へ突っ走った。弟の喜三郎も床下から飛び出し兄の後を追った。二人は破れ土塀を飛び越えると本堂裏手の藪の中へ駆け込み、草の茂みに身を隠し、いつでも発砲できるように鉄砲を構えた。しばらく様子を窺っていたが、急に騒ぎが静かになった。
「どうもおかしいのう。銃声がした後、蜂の巣をつついた程の騒がしさだった寺の中が急に静かになったのは腑に落ちない。兄者、間違いなく家親をしとめたのか」
「馬鹿言うんじゃない。見事命中して前へ崩れ落ちるところまで確かめてから逃げたのじゃから」」
「闇夜だから、人間違いをしてはいないだろうな。確かに家親だったのかいな」
「燭台に誰かが油を注いで部屋が明るくなった、時はっきり家親の顔をこの目で確かめた。まぎれもなく正面から家親だと確かめたうえで引き金をひいたから、万が一、人違いであるはずがない」
「今日の首尾を宇喜多直家様に報告して約束の恩賞を頂くのが楽しみじゃのう」
「本当に恩賞は呉れるんじゃろうな」
「起請文まで自ら言いだして書いたんじゃけえ、まさかとは思うがのう」
「それまで、この鉄砲は一時たりとも手放せないぞ。第二の刺客がわれらを狙っているかも知れんしのう」
「宇喜多直家様は狡いお方じゃから、用心せにゃぁのう」
と二人の兄弟は言い交わしながら、灌木や草むらをかき分けてもと来た道を三村勢に見つかることもなく無事引き返した。
 三村家親の暗殺は宇喜多直家に二つの結果をもたらした。ひとつは三村一族の激しい憎しみである。いまひとつはお福の愛である。
 美作興禅寺本堂で三村家親が何者かによって暗殺されたことは、事件からかなりの時が経過するまで世間には知らされなかった。三村家ではこれを秘事として厳しく箝口令をひいた。
 三村家親の庶腹の弟孫兵衛親頼は、家親が暗殺されたとき、三村家の重臣達と相談して家親の遺言通り、家親の死を隠し
「家親の体調がすぐれない」
ということにして美作から兵を引いた。
 智将で鳴る親頼はもしこの事実が世間に広まれば、家中に動揺が起こり、敵に乗ぜられると判断したからである。遠藤兄弟が事件後さしたる困難もなく逃げおおせたのはその所為であった。
 喜び勇んで報告にきた遠藤兄弟の話を宇喜多直家は、半信半疑で聞き、恩賞をなかなか与えようとしなかった。
 三村家では何時までも家親の不慮の死を伏せておきたかったのだが、家親の病気見舞いに訪れた家中の者達にも顔を見せることができなかったので、いつしか家中の噂となり、隠し通せるものではない状況がでてきたので遂に家親の喪を発表せざるを得なくなった。 これを聞いて、宇喜多直家は遠藤兄弟へ約束通り知行を与え浮田の苗字を与えた。
 暫くして、宇喜多家で遠藤又次郎と弟喜三郎という鉄砲の名人が高禄で召し抱えられたという噂が備中成羽城にも流れてきた。兄は一万石、弟は三千石という破格の待遇であった。このことから三村家では家親を狙撃したのは遠藤兄弟であろうと推測し、黒幕は宇喜多直家に違いないと考えるようになった。
 そして又次郎が三村家の弓衆として在籍したことがあり、鉄砲仕入れに堺へ出奔したまま帰ってこなかった男と判って、宇喜多家に対する憎悪を倍加させていった。
 三村家親が不慮の死を遂げたという報は美作の地を再び動乱の地と化した。
 第十一代当主三浦貞勝が薬師堂で自刃してから野に潜んで再起の時を窺っていた三浦家の旧臣である牧管兵衛・玉串監物・蘆田五郎太郎らの各氏が三浦家第十代当主故貞久の末弟貞盛を擁立して永禄九年(一五六六)旗揚げしたのである。これに呼応して恩顧の国人たちも馳せ参じた。この動乱の時高田城の守将は津川土佐守であったが、蜂起軍の猛攻を受けて数十名の部下とともに壮烈な討ち死にをした。高田城は再び三浦一族の手に戻ったのである。
 この朗報は宇喜多直家の沼城で食客となっているお福のところへ牧管兵衛の使者によってもたらされた。
「お方さま、お喜び下さい。高田城が再び我等の手に戻りました。直ちにこの城を引き払い美作の高田城へ戻りましょう。牧管兵衛殿がお迎えの使者を寄越されました」
と郎党の江川小四郎がお福を促した。
「亡夫貞勝の怨敵三村家親を宇喜多直家殿が討って下されたし、もう一人の仇敵金田源左衛門はこたびの戦で三浦軍によって討ちとられたのであろう」
とお福が言った。
「いかにも」 
と江川小四郎が答えた。
「されば、もう三浦家に対する義理は何もない。お主達は貞盛殿をもり立てて下され。桃寿丸が高田城へ戻ると先々叔父にあたる貞盛殿との間がまずかろう。必ず争いの種になりましょう」
と言って沼城を離れようとはしなかった。
「お方様、我等を見捨てられるのですか」
「そうではない。家親殿の仇を討って下さった宇喜多直家殿への恩義もあるし、桃寿丸の将来は直家殿が面倒を見て下さるとのお約束じゃ。そのほうが桃寿丸のためにもいいし三浦家のためにも良いことだと思うのじゃ」
「それでは、お方様は直家殿の正室になられるという噂は本当なのですか」
「直家殿のお心次第じゃ」
とお福は頬を紅潮させながら言った。 
 その時、お福は三村家親が暗殺されたという知らせを受けた日に、直家に誘われるままに直家の寝所へ入ったときのことを思い出していたのである。
「のう、お福殿、そなたの怨敵三村家親はこの直家が確かに仇をとって進ぜましたぞ。今日は亡き貞勝殿への供養を兼ねて心ゆくまで祝杯をあげましょうぞ」
と言って杯を勧められた。
 勧められるままに気持ちよく杯を重ねているうちにいつしか酔いがまわっていた。
女盛りを空閨で過ごしてきた体が酔いの所為で行動を大胆にした。
「わしの亡き妻達は皆、女腹での七人も子を産みながら全部女児じゃった。そなたのような美しい女との間に生まれていればさぞ美人揃いであったろうに、わしの娘達はどれも皆ぶす揃いじゃ」
と直家が遠巻きに誘ったとき、
「私に生ませてみては如何でしょう」
と言ってしまったのである。
 あとは酔いも手伝ってか直家の腕の中に抱かれ、恥じらいも忘れて燃えに燃えた。それ以来お福は逞しい男の腕に抱かれる度に女としての歓びを感じていたので、沼城をでる気持ちはすっかり失せていたのである。それに桃寿丸はまだ三才なので高田城へ戻ったところで城主がつとまるわけがない。新城主は亡夫貞勝の叔父である。今更高田城へ舞い戻って家臣達の間に家督相続を巡っての紛争の種を蒔くことは賢明ではない。桃寿丸の将来のことは、直家に縋ったほうが後見人としては頼もしいし、三浦一族のほうも丸く納まるだろうと考えたのである。
                     
 十二、 明禅寺合戦
                     
 備中の松山城では、家親の喪が明けた永禄九年(一五六六)四月重臣達が集まって家親の弔い合戦のことを協議した。家親には嫡男四人と庶腹の男子二人の他女子三人が残された。嫡男は長男元祐、次男元親、三男元範、四男実親である。他に庶子としては出家した河西入道と三村忠秀がいる。女子は長女が幸山城(都窪郡山手村西郡)城主石川久式の正室、次女が月田山城(真庭郡勝山町月田)城主楢崎元兼の正室、三女が常山城(玉野市字藤木)城主上野隆徳の正室となった鶴姫である。
 長男元祐は知勇兼備の将といわれた父家親の性格をもっともよく受け継いだ人物といわれ、父家親が猿掛け城の荘為資を攻撃したとき勝負がつかず、毛利氏の斡旋で荘氏の養子となり、永禄二年から猿掛け城主に納まっていた。毛利氏の戦いには数多く参戦し勇名を轟かせた。
 備中の松山城を相続したのは次男の元親である。元親以下三男、四男はまだ若輩であった。
「亡き殿の喪も明けたことだし弔い合戦をしよう。われら三村家は備中の名門である。亡き殿は備中の虎といわれ、その武名を天下に轟かせた智勇兼備で、有徳の名将でおわした。それにひきかえ備前の宇喜多直家は浮浪者あがりで岳父を騙し討ちして沼城主となった没義道な男である。まともに戦えば勝てないことが判っている家親の殿を卑劣にも鉄砲で闇討ちした男である。一刻も早く、備中へ攻め入って仇討ちをしましょうぞ」
と強硬に弔い合戦を主張したのは三村五郎兵衛であつた。 
「偉大な殿が亡くなられた今、徒に血気にはやるのは如何なものか。敵の思う壺じゃと思わぬか。ここは一族で結束を固め、若い元親元範、実親の三兄弟をもりたてていくことが肝要じゃ。御兄弟が成人なさってから一戦を交わえるべきじゃ」
と当主が若いことを理由に時期尚早論を述べたのは、元親の叔父孫兵衛親頼である。
 親頼は三村氏が松山城へ入城した後、成羽の鶴首城を預かっていたのであるが、バランス感覚には優れたものを持っており、家親の良き参謀役であった。
 意見は即戦論と時期尚早論に別れたが、並みいる家臣達の多くが親成の時期尚早論を支持した。
 軍議も意見が出尽くして終盤になった頃、五郎兵衛は立ち上がって言った。
「成るほど大方の諸君が言われるように若い三兄弟を育てあげてからことに当たるというのは正論じゃろう。しかしながら、私は皆も知っての通り、愚昧なため忠義だけで生きてきたような男じゃ。私が生き延びても御兄弟の育成には少しもお役にたてることはないじゃろう。さればこそ、死して亡き家親殿に忠義を励もうと決意したんじゃ。皆は生き長らえて御兄弟の養育育成に功績をたてんさりゃぁよかろう。今生の別れですらあ」
と言って深々と一礼すると軍議の席から退出した。
 五郎兵衛は直ちに一族若党五十余騎の軍装を整えて出陣したので、道中話を聞いて加勢に参じた家親恩顧の国人達もあった。しかし総勢百騎にも満たない小軍団である。一同は一途に、討ち死にを覚悟して近くの禅院に赴き、松峰和尚に逆修の法事を依頼し鬼伝録に一同の名前を記してから焼香三拝した。
 三村五郎兵衛は宇喜多直家へ使者をたてて
「主君家親の無念を晴らすべく弔い合戦に出向いてきた。尋常に勝負せよ」
と挑戦状を突きつけた。
 手勢を二手に分けて、一手は矢津越えして直接沼城へ攻撃をかけさせた。もう一手は五郎兵衛が自ら率いて釣りの渡しより南へ迂回して進撃した。
 物見の兵から五郎兵衛の動きを聞いた直家は弟の七郎兵衛忠家を総大将に任命し、長船越中守、岡剛助、富川肥後守、小原新明等を配して三村軍を攻撃させた。
「五郎兵衛は三村家中でも最強の勇士であるから、彼を討ちとったら三村家の柱礎石を破壊したようなもので、その後の三村軍団の退治はたやすくなるのは必定。手柄をたてたいと願う者は撃って出よ」
と直家は下知した。
 宇喜多軍は総勢三千騎である。戦闘は最初に釣りの渡しより南へ迂回してきた三村五郎兵衛率いる五十余騎と長船・岡麾下の宇喜多軍との間で火蓋が切って落とされた。僅か五十騎の軍団ではあったが、忠義を死後の世界に残すのが武門の習いと死を覚悟した五郎兵衛の軍勢は強かった。五十余騎をひとつに纏めて、一番先に控えていた長船越中守の一千余騎の真ん中に撃って入り、暫く戦ったのちこの隊列を撃ち破り、二陣にいた明石飛騨守の隊列に切り込みをかけ、四方八方に奮戦した。さすがの宇喜多勢も浮き足たったが、やがて総大将の七郎忠家の率いる本隊が三村軍の横合いから攻めたて三村軍の背後に回り込んで攻撃したので、勢力を挽回し、さしもの三村軍も全員壮烈な戦死を遂げた。
 一方、矢津越より東進して沼城へ襲いかかった三村軍には富川平右衛門の軍勢がこれを迎え撃った。この戦いでも決死の三村軍の攻撃に宇喜多軍はたじたじとなり劣勢であったが、小原藤内の率いる後続部隊が後詰めに駆けつけたため態勢を挽回した。多勢に無勢で結局ここでも三村軍は全員はなばなしく戦死した。しかし、直家はこの合戦で家親亡きあとも三村軍は手強い相手であることを思いしらされた。戦闘に参加した宇喜多軍の将兵のうち小原藤内、高月十郎太郎、矢島源六、宇佐美兵蔵ら四十七人を失い、百余人の怪我人をだしたからである。
 近い将来、三村軍は勢力を養ってから備前平野に侵攻してくるに違いないと考えた直家は上道郡沢田村の明禅寺山に堅牢な城砦を築き始めたのである。
 明禅寺山は標高百九メートルでもと明禅寺という古い寺があったので明禅寺山と土地の者が称している古寺跡の山塊である。この城砦は備中から沼城目指して進撃してくる敵軍を俯瞰するのには最適の場所に位置していたし、備前の直家配下の諸城と連絡を取り合うにも好都合な場所であったが、直家の本当の狙いは別のところにあったのである。沼城へ進撃してくる三村軍をこの明禅寺山におびき寄せることであった。
 直家の予想では三村軍の動きは二通り考えることができた。ひとつは直家の狙い通り敵軍がこの城へ襲いかかってくれば、直家の本隊が沼城から後詰めに兵を出し背後から敵を挟み撃ちするのである。あと一つは、もし敵軍が沼城へ直接攻撃をかけてくれば、この明禅寺城から味方の兵が出撃して三村軍の背後を攻撃することが可能になるのである。
 諜者の報告により直家が明禅寺城を築いて三村勢の備前侵攻に着々と備えているということを知った三村家中では、軍議の席で主戦論が澎湃として沸きたった。
「家親殿の仇を討つために、決起した五郎兵衛達の忠心を無駄にするな」
と荘元祐が言うと石川久智がうなづきながら言った。
「城主元親殿の成人を待っていては宇喜多の勢力を強化するだけじゃ。宇喜多の汚いやりかたに家中全員が憤激している今こそ、好機ではないか。五郎兵衛達が善戦したのも、忠義の心が冷めないで燃え上がっていたからじゃ」
「岡山城の金光与次郎、舟山城の須々木行連、中島城の中島大炊等に命じて沼城攻撃の準備をさせ、この包囲網で宇喜多が動けぬよう圧力を賭けるのがよかろう」
と石川久智が提案した。
「あの連中はこうもりのように、ふらついているから油断はできないぞ」
と植木秀長が言った。
「彼らをわが陣営に縛りつけておくためにも、早く宇喜多を叩いておかなければならない」
と三村政親が尻馬に乗った。
 主君家親を卑怯な手段で謀殺した宇喜多直家憎し必ず仇を討つべしと復讐の鬼心に凝り固まった三村家中のものはことあるごとに国境を越えて備前領へ侵攻を進めていた。特に祢屋与七郎、薬師寺弥五郎は対宇喜多決戦に備えて、隙あらば明禅寺山城を攻撃し敵方勢力を削いでおこうと龍の口城に宿借りして虎視眈々狙っていたが、永禄十年(一五六七)春遂に好機が到来した。激しい風雨が荒れ狂った夜、予ての手筈通り精鋭百五十人で夜討ちをかけ沢田村を焼き払って、明禅寺山城へ攻め入ったのである。不意に寝込みを襲われた城兵達は敵味方の分別もできずなすすべもないままに散り散りとなって、南の山を越えて中川村へ逃れ漸く沼城へ引き揚げた。
 明禅寺山城が敵の三村方に渡ったことを知った直家は反間(はんかん)を放って備中勢の誘い出し作戦を開始した。
「従来、三村氏の傘下にあった岡山城の金光氏、舟山城の須々木氏、中島城の中島氏はいずれも宇喜多直家の調略に踊らされて宇喜多方へ寝返った。もし三村の軍勢が備前平野へ進撃してくればこれらの三城主は連携して三村軍を包囲攻撃するだろう」
という噂を言いふらさせたのである。
 これは直家が仕組んだデマの情報である。三村氏を後援している安芸の毛利氏が出雲の尼子氏を富田月山城で滅ぼしたあと、伊予の騒動に力いれして備前にまで手が回らないこの時期に、はやく三村氏を明禅寺山城におびき出し、打撃を与えておかなければならないと考えた直家の陰謀であった。
「宇喜多軍が岡山城の金光氏や中島、須々木の軍勢と提携してこの城へ押し寄せてくるという噂を耳にしました」
と諜者が祢矢・薬師寺の守将へこのデマ情報を報告した。小人数で強敵宇喜多氏と対峙している祢矢・薬師寺の両守将は過敏に反応した。疑心暗鬼が生じたのである。
「宇喜多攻略の橋頭堡として確保した明禅寺山城が危険に晒されています。至急援軍をお願いします」
という伝令が松山城の三村陣営に駆け込んだ。
 この祢矢・薬師寺両将による明禅寺山城奪取事件と備前の金光・中島・須々木三氏が敵方へ寝返ったという情報は、三村家中の主戦論に火をつけた。打倒怨敵直家で松山城内は沸きかえった。直ちに作戦会議が開かれ、沼城を西・北・南の三方から包み込むようにして、同時に攻撃する三面作戦がたてられた。
 総大将は三村元親である。総勢力二万人は辛川に結集して三軍に編成した。先陣は荘元祐の率いる七千余人で金光与次郎を案内者とし富山の南の野を斜めに押し進み、春日社の前の川瀬を越え、瓶井山沿いに明禅寺山への進出を図った。中軍は石川久智を指揮官として五千余人の兵員を従え、上伊福村の中道から岡山城の北にある瀬を渡り原尾島に進出して明禅寺山を攻める直家勢の背後を襲う手筈であった。
 総大将の三村元親は北軍を受持ち、中島大炊を案内人として八千余人の編成で釣りの渡しを越え、湯迫村から北の山の麓を四御神村に進み、矢津越えして沼に迫り、宇喜多勢の留守を窺い亀山城の乗っ取りを企図していた。本隊の三村元親軍は副将の植木秀長が采配を振るった。
 一方宇喜多直家の備前軍は迎え撃つに僅か五千余騎である。
 直家の頭の中には諜者から聞いた安芸の毛利元就が僅か四千の軍勢で陶晴賢の軍勢二万を厳島の狭隘な地へおびき寄せて殲滅した戦いのことが目まぐるしく駆けめぐっていた。「謀略以外に小勢が多勢に撃ち勝つ手だてはない。どのような手でいくか」
直家は寝床に入って奇策を思い巡らせるのであった。
 出撃の朝を迎えた。一番鶏の声で布団から抜け出した直家の着替えをお福が甲斐甲斐しく手伝った。 
「御武運をお祈り致しております」
と言ってお福は八幡神社で祈願したというお守りをそっと手渡した。
 直家はお守りを受け取りながらお福の腹へさりげなく視線を投じながら言った。
「必ず帰ってくるからそなたは芽生えた嬰児(やや)のためにも体をいとえよ」
「はい」
と答えて見上げるお福の瞳に光るものを認めた直家は、この戦必ず勝ってみせると自分に言い聞かせて本丸の大広間へ入っていった。そこには、武装した兵士が居並んで直家の下知を待っていた。
「敵は多勢、われは無勢じゃ。だが毛利が陶を殲滅した厳島合戦の例もある。勝算は我が胸中にある。皆の者、命は全員直家に預けてわしの下知に従え。勝利は必定じゃ」
と部屋中に響きわたる声で言った。これに応えて 
「オッー」
と全員が一斉に叫んだ。 
 直家は沼の城を出発し五千の軍勢を五隊に分けてそれぞれに部署した。敵は二万の大軍である。本陣は古都宿の山鼻に置き、主力を目黒村のあたりに配置した。古都宿は西大川の釣りの渡しを渡って沼城へ東進してくる備中勢の通路にあたる所であった。直家は先手の兵に下知して明禅寺城を攻撃させて、一戦し休息していたとき物見に出していた斥候が馳せ帰ってきた。
「後詰めの備中勢が三手に分かれて進撃してきました。一手は富山城の南、一手は首村から上伊福を経て中道へ、また一手は山裾を津島村・御野村を経て釣りの渡しにかかる様子です」
 直家は斥候から報告を聞くと事態は切迫していることを感じとり、この際一気に明禅寺城を奪取すれば必ず勝機があると思った。それは多くの戦場往来をした者だけに判る勘のようなものであった。この勘は織田信長が桶狭間で今川義元を討ち破ったときの勘、また毛利元就が厳島で陶隆房の大軍を殲滅したときの勘とあい通じるものであったろう。
「戦う時はこの一瞬じゃ。備前武者の運命はこの一瞬にかかっている。ほかには目をくれず、ただひたすら明禅寺城を奪回するのじゃ手間どっていると敵に先を越されて、捕虜となってしまうぞ。城の奪回こそ勝負の分け目じゃ。死力を尽くして城を落とせ」
と直家は馬上から大音声で叫び続けた。 
「備中勢なにするものぞ。かかれ、かかれ、勝てば恩賞は思いのままぞ」  
 直家はこう叫んで田畑の中を一直線に突っ走り明禅寺城下へ駆けつけた。
 大将に遅れてならじと将兵達も勇み立ち城に怒濤のように攻め寄せた。城兵達も必死に防戦したが、勢い負けして城は忽ちのうちに寄せ手に乗っ取られてしまった。寄せ手は櫓に火を放ち散々に切りまくった。守将の祢矢も薬師寺は必死に防戦し
「この城こそ三村の生命線じゃ。もちこたえろ。援軍が間もなくやってくる。それまで耐えろ」
と絶叫して臆する城兵を叱咤した。
 しかしながら、全軍を一まとめにして怒濤の勢いで攻め込んでくる宇喜多軍に対してさしもの祢矢と薬師寺の守衛軍も力尽きて瓶井山へ退いた。逃げ遅れた兵士は追い詰められて切り殺された。
 明禅寺城で戦闘が行われている頃、刻一刻明禅寺城へ進撃してくる二手の隊列があった一つは右翼先陣の荘元祐であり、他の一つは中央軍の石川久智である。
「あれっ、操山の向こうに煙が上がっているぞ。宇喜多勢が、攻撃している     ものとみえる。急げ、急げ」
と荘元祐は馬上から煙のほうを指さして指揮下の軍勢を叱咤した。
 作戦によれば、元祐の右翼軍と石川久智の中央軍と南北相呼応して、明禅寺城を攻撃中の直家軍を挟み撃ちするのが狙いであった。城が落ちてしまってはこの作戦は成り立たない。気ばかり焦るが複雑な地形に妨げられて中々目的地へ到達しない。ようやく瓶井寺村の南を通って操山の麓に到着したとき、運悪く敗走してくる明禅寺城の城兵とぶつかってしまった。味方の兵の敗走を見て怯んだとき、敗走軍の背後から、宇喜多軍の追撃隊が鬨の声をあげながら襲ってきたから混乱は増すばかりで、元祐率いる新手の精鋭部隊はさしたる抵抗もできないままに次々と討ち取られてしまった。
 荘元祐はそれでも馬上から
「ここで敵に後ろを見せては末代の恥辱。返せ、返せ」
と采配をうち振るったが、機先を制せられて意気消沈した味方の頽勢を挽回することはできなかった。
 元祐は家臣の有岡某と二人で五十人ばかりの旗本を従えて踏みとどまり奮戦したが、最後は浮田忠家の軍勢と切り結んで危ないところを辛うじて逃げのびた。大将が逃げたので麾下の兵は総崩れとなった。元祐を際どいところまで追い詰めたのは宇喜多勢の能勢修理という旗本であった。
 中央軍の石川久智は明禅寺城を攻撃中の直家軍の背後を突こうと原尾島村の西まできたとき明禅寺山に火煙があがったのを見た。
「これは」
と思って進軍を中止し、様子を窺っていると斥候が帰ってきて、右翼軍が敗走を始めたことを告げた。
 石川久智は中島加賀という老練な家臣を呼んで尋ねた。
「予め立てた戦略が、こうも狂ってしまっては今更直家の陣へ挑んでも勝利はおぼつかない。ここはむしろ元親の本隊へ合流して改めて直家に合戦を挑んだほうが得策と考えるがどうか」
「ごもっとも。敵の近づかぬ間に旭川の西側に撤退して、備えを固め直家が川を渡って攻めかかってくるところをその途中で迎え撃つことくらいしか、策はありませぬ」と中島は言った。しかし久智の老臣達はこの意見に従わず、軍議を開いた。
 このとき浮田元家・河本対馬・花房助兵衛が三手に分かれて石川久智の陣近く攻め寄せてきた。石川久智は進むことも出来ず原尾島村の中道に備えを設けて防戦したが、中島加賀はじめ多くの将兵が討ち死にし、石川久智は暫く留まって防戦した後、やがて引き揚げた。
 左翼の総大将三村元親はこの日の朝、巳の刻に釣りの渡しを越えて、中島大炊の先導で湯迫村より四御神村へ出た。ここから土田、古都宿を突破して沼城を襲う計画であった。 ところが、四御神村までやってきたとき、右手の明禅寺山に火煙があがっているのが見えた。さらに中央軍の石川勢は宇喜多軍に攻撃されて敗走しているという伝令が駆け込んできた。
「敵より四倍も多い兵力がありながら敗退するとは。信じられない」
と元親は絶句した。
 後続部隊では歩速が鈍り、動揺が起こったようである。背後から襲撃されるのではないかと逃げ支度を始める者もでる始末である。付近は湿地帯であったから、泥田に足を取られるものが多くなり、隊列は混乱し乱れ始めた。さすがに先頭の旗本精鋭部隊は少しも備えを乱さなかったが、後陣の乱れはひどかった。このまま当初の計画通り沼城へ進撃すれば、守備兵の少ない沼城を落とすことができたかも知れないのに、味方の敗走を見て若い元親は判断を誤った。作戦を変更したのである。
「作戦を変更する」
「これより明禅寺山へ向かい、敵の本陣小丸山を攻撃する」
と侍大将が下知を大声で伝達して廻った。
「皆のもの、急げ、遅れをとるな」
 隊列は方向を変えて明禅寺山目指して動きだした。これを小丸山から眺めていた直家は勝利を確信した。もっともおそれていた三村本隊による沼城襲撃が回避できたのである。「こわっぱ目、罠にかかったか」
と直家は口笛でも吹きたい気分であった。
 元親を迎撃するために直家は白兵戦の陣立てを敷いた。最前線には備前軍の中で最強を誇る岡剛助と明石飛騨を置いた。後陣にはついいましがた国富村で荘元祐の軍勢を叩きのめした富川、長船、延原の部隊を配置した。
 元親にとってこの合戦は父親の弔い合戦であったから、溝も畝も構わず一直線に明石、岡の備えに切り込んだ。捨て身の覚悟の突撃に明石も岡も斬りたてられて崩れ始めた。元親は今が勝機とばかり一挙に直家の旗本へ斬りかかろうとした。ちょうどそのとき、富川長船、浮田、延原の軍勢が鉄砲を撃ちながら横合いから元親軍の旗本勢へ攻めかかった。 援軍に力を得て岡、明石の兵も戦列へ復帰し三方から元親勢を攻めたから元親勢は狼狽して総崩れとなってしまった。
 元親は悲憤に堪えず 
「今こそ討ち死にする時ぞ」
と覚悟を決めて敵陣へ突入しようとしたとき、家来が馬の口をとり西へ向けて思い切り鞭をくれたので馬が狂ったように走りだした。大将が敵に背を向けたから左翼の軍勢もまた総崩れとなって竹田村の北まで引き揚げた。
 宇喜多勢はこれを追跡し三村軍の首を多数討ち取った。
 元親と石川久智は釣りの渡しを越えてほうほうの態で備中へ引き揚げた。この日の戦いを「明禅寺崩れ」といい、宇喜多にとっては躍進の三村にとっては衰退の契機となった、この時代備中地方最大の合戦であった。
 明禅寺の合戦は備前の宇喜多氏と備中の三村氏が二年間にわたって綱引きをした大合戦であった。勢力人望ともに三村氏が勝っていた。それなのに僅か四分の一にも満たない勢力の宇喜多氏が勝利を得るとは誰も想像しなかった。宇喜多方の大勝利に終わったので、いままで三村方についていながら宇喜多に内通していた金光、中島、須々木等の西備前の城主達は直家に降参した。
 この年織田信長は滝川一益を大将として伊勢の諸城を落として後、越前朝倉義景の許に身を寄せていた流浪の将軍足利義昭を美濃の立政寺に迎えて会見し多数の贈り物をして足利義昭を手厚くもてなした。義昭も信長の処遇に感激し「親とも頼る」と言っている。信長が義昭利用して上洛を意識し始めた時であった。
                        
 十三、 毛利方に決別
                        
 明禅寺合戦で三村元親に大勝した宇喜多直家は余勢をかって、備中国を切り取ろうと目論見、永禄十一年(一五六八)八月に舎弟七郎兵衛忠家を総大将として九千余騎で侵攻を開始し、佐井田城を包囲した。毛利元就が麾下の備中勢を率いて、九州大友氏征伐のため出陣した留守を狙っての作戦であった。城を守っていた植木秀長は、毛利方の備中松山城主三村元親や猿掛け城主荘元祐に救援を要請したが、彼らは九州の立花で大友氏と交戦中であったため、援軍を送ることができなかった。やむなく植木秀長は妻子や一族の安泰をはかるため膝を屈して、宇喜多陣営に加わった。
 これに対し、毛利元就は翌年毛利元清を総大将として一万余騎で備中国へ反撃を開始した。九州遠征の留守を突かれた元就が奪われた備中の諸城を奪還するためである。九州から帰還した三村元親が先鋒を務めた。元親と穂田実親らは植木秀長の籠もる佐井田城を包囲したが、宇喜多の援軍を得た籠城軍がよく奮戦した。そのうえ城は地の利を活かした要害であるためなかなか落ちそうになかったので元清は兵糧攻めを開始した。植木秀長は巧みな用兵でしばしば城を打って出て包囲軍を悩ませたが、食料が底をついてきたので峰木与兵衛を沼城の宇喜多直家の許へ走らせ更に援軍を乞うた。
 直家は一万騎を従えて自ら出馬し、佐井田城の東方一里近く隔たった丘に陣を構えて毛利軍の背後を突いた。ところが毛利軍の猛将熊谷信直と桂元隆の率いる軍勢が裏をかいて宇喜多軍の更に背後から攻撃した。敵に前後を挟撃されて宇喜多軍は百三十余人を討ち取られた。戦局は長引き長期戦の様相を呈した。戦局の膠着状態に業を煮やした籠城中の宇喜多勢が
「あと二、三日で食料が尽きる。無為に籠城して餓死するよりは、敵と渡り合って討ち死にした方がよい」 
と戦死を覚悟で一斉に城門を開いて突撃し迎え撃つ毛利軍との間で凄絶な白兵戦が繰り広げられた。
 局面が変わったのは宇喜多軍の誇る勇将花房助兵衛が毛利軍の侍大将穂田与四郎と槍を合わせてこれを討ち取ってからである。気勢を削がれた毛利軍は総崩れとなった。猿掛け城の穂田実近が戦死し松山城の三村元親も深手を負ってしまったので元清はやむなく退却した。この時宇喜多軍が討ち取った敵の首級は六百八十に及んだ。
 永祿九年(一五六六)十一月月山富田城が毛利元就の手に落ち滅亡した尼子氏は遺臣達が諸国を流浪しながら尼子再興を目指して活動していたが、山中鹿之介幸盛、立原源太兵衛久綱らが新宮党の遺児尼子勝久を擁立して旗揚げした。永禄十二年(一五六九)六月のことである。
 勝久は反毛利の宇喜多氏と提携し、秋上三郎左衛門綱平を大将として備中へ兵二千余騎を派遣した。尼子・宇喜多連合軍は幸山城(都窪軍山手村西郡)、呰部(あざえ)城を攻め、佐井田城へ迫った。城主は植木秀資で秀長の跡を継いで毛利氏に服属していた。秀資は松山城の三村元親や猿掛け城の荘元祐に援軍を求めたが、折悪しく元親は毛利輝元に従軍して出雲へ出陣中であった。猿掛け城からは荘元祐の援軍が駆けつけ秀資もよく戦ったが、結局元亀元年(一五七十)冬白旗を掲げ、尼子軍を迎えいれた。
 労せずして佐井田城を手に入れた秋上三郎左衛門綱平は尼子式部、大賀駿河守を残して出雲戦線へ復帰した。
 尼子式部、大賀駿河守の両備中派遣軍は宇喜多軍の応援を得て、備中鴨方の杉山城、備中酒津村の酒津城、備中幸山城(都窪郡山手村)を次々に落とし、城主中島大炊守元行の経山城(総社市黒尾)を攻めた。中島大炊守元行は塹壕を掘ったり矢蔵門道に陥穽を設けたり或いは橋を引き落とす工夫を施したり、農民兵を組織するなどの策略を用いて尼子の備中侵略軍を撃退した。この経山合戦で尼子軍は三百七十六人の将兵を失っている。尼子軍は大きな犠牲を払って佐井田城へ退却した。
 元亀二年(一五七一)九月、出雲戦線から帰国した三村元親の軍勢が再び総師毛利元清の率いる八千騎の先鋒として佐井田城に攻撃をかけた。このとき直家は主君の浦上宗景と提携して毛利軍に立ち向かう共同戦線を結成していたので、佐井田城の中には浦上宗景の武将岡本秀広と宇喜多直家の武将河口左馬進及び原二郎九郎の三人が城兵を率いて籠城していた。この年毛利元就は黄泉の国へ旅立っている。僅かな人数の尼子残党が宇喜多氏の加勢を得たからとはいえ、備中の諸城を攻略できたのは、毛利の偉大な指導者が死去して新体制が整備できていないという毛利の弱みにつけこむことができたからであり、三村氏が明禅寺崩れで大きな打撃を被っていたからでもある。 
 佐井田城に滞留していた尼子残党は勝久の尼子再興軍が滅亡の危機に瀕していると聞いて出雲へ帰って行った。
 九月四日、三村・毛利連合軍と浦上・宇喜多連合軍との間で決戦の火蓋が切って落とされた。浦上・宇喜多連合軍は佐井田城中から城門を開いて撃って出て、城外で白兵戦が展開された。
 三村元祐は二千余騎を率いて攻撃に参加していたが、敵の凶刃に倒れてしまった。毛利元清の陣中でも長井越前守が宇喜多軍の片山与一兵衛によって討ち取られた。三村・毛利連合軍は完敗して退却した。
 三村・毛利連合軍が備前の浦上・宇喜多連合軍に破れたことは名門毛利輝元の面目を失うものであると同時に宇喜多直家の西進への野望に自信を持たせるものであった。
 当時浦上宗景は直家と諮って豊後の大友義鎮や阿波三好氏の武将篠原長房と提携し西と南に毛利氏の包囲網を張り備中の毛利領の蚕食を始めていたので、毛利陣の先鋒三村元親は一刻も早く毛利軍が総力をあげて浦上・宇喜多連合軍を撃滅するための討伐軍を派遣するよう懇願した。
 元亀三年(一五七二)六月毛利輝元は軍議を開き、元春、隆景の両将及び重臣達の賛同を得て七月十六日に大挙して備前、備中遠征に進発すると内外に宣言した。
 標的とされた浦上・宇喜多は本格的な毛利軍の攻撃宣言を耳にして慌てて特使を京都へ派遣し将軍足利義昭に毛利氏との講和斡旋を要請した。しかし毛利輝元は将軍義昭の講和斡旋を拒否して七月二十六日備前、備中遠征の途についた。南北の毛利軍を糾合し、先鋒は隆景が受け持った。八月十五日備中笠岡に着陣し九月から東備中の城を攻撃して備前領内へ侵入を開始した。
「今までの毛利軍と違って今回は本気のようじゃな」
と浦上宗景が言うと
「さよう。伊予で大友軍と戦っていて全力を投入できまいとたかをくくっていたら、大友軍が撤退してしまったので、伊予派遣軍までが参戦しているようです」
と直家。
「まともに向かって勝算はあるか」
「無理でしょう。このままでは滅亡あるのみです」
「なんとかうまい手はないものか」
「もう一度将軍義昭様に和睦の斡旋をお願いするしかないでしよう」
 再度、急使が京都へ派遣され義昭に調停を懇願した。織田信長の援助で将軍位に復帰したものの、信長としっくりいっていなかった義昭は喜んで斡旋の労をとった。東福寺退耕庵の蔵主安国寺恵瓊を呼んで輝元宛ての将軍からの下し文を手渡すよう命じた。浦上宗景宇喜多直家と和睦するよう説得した書面である。安国寺恵瓊は将軍下し文を携えて直ちに輝元の本陣へ赴いたが、義昭は毛利が自分の新しい保護者になるよう打診させることも忘れなかった。
 輝元は安国寺恵瓊から将軍からの下し文を受け取ると急遽本陣に元春、隆景、福原貞俊口羽通良、熊谷信直、桂元延らの重臣を集めて軍議を開いた。
「宗景と直家が度々、和睦を請うてくるからには当家としもうっちゃっておくわけにも行かぬ。この際、将軍の顔をたてて有利な条件で和睦してはどうかと考えている。皆の意見を聞かせて貰いたい」
と輝元が口をきった。
 色々活発に意見がでたが総括すると
「四囲の客観情勢は当方に極めて有利であるから、これまで直家が備中において手にいれた諸城と領地を全て毛利に割譲すること。もしこの和睦条件が飲めないと言うのであれば兵馬を動かし徹底的に叩きのめす」
というものであった。
 和睦条件を示されると、全面降伏に近いものであったが、直家は止むなくこれを受け入れた。浦上宗景には既に戦意がなく宇喜多単独で戦うには相手の実力が遙に自軍を凌駕していて勝算は千に一つもないと考えたからである。
 宇喜多直家の西進政策は挫折した。
 しかし転んでもただで起きないのが直家のしぶといところである。直家は胸の内で色々と天下の情勢について思案した。
「信長が天下布武を唱え上洛したが、彼の強さは運だけではない。兵力も違えば装備も違う。隣国が互いに力を合わせて結束しておかなければ信長は山陽路へもやがて攻めてくるだろう。その時提携する相手は誰か。浦上は織田に尻尾を振って所領安堵の紙切れを貰って喜んでいるからもはや目ではない。三村はこのわしを家親の仇だと公言しているから組める相手ではなかろう。そうすると毛利しかいないことになる。織田が攻めてくる前に三村を潰しておかねばなるまい。そのためには毛利と盟約を結ぶことだ。わしが毛利と手を握ったと知ったらあの若造め血が頭にのぼって、毛利を飛び出し織田と結ぶだろう」
 直家は、早速角南如慶に恭順の意を表して毛利の麾下に入りたいという「親書」を持たせて安芸郡山へ輝元を訪問させた。
 この親書を受け取った毛利輝元は直ちに軍議にかけた。
「まことに怪しからん。宇喜多が首を洗って出てきても、三村と同席させるわけにはいかん。宇喜多は三村の仇ではないか。ぬけしゃぁしゃぁと宇喜多の神経がわからん」
と激昂したのは吉川元春であった。
「三村一族は代々、長年にわたり毛利に忠勤してきた信頼のおける家臣ではないか。それなのに宇喜多を今、毛利の麾下に組み込むことになれば、三村は毛利を離れざるを得なくなるではないか」
と毛利隆景も反対した。
 しかし、輝元はこの反対を無視して、宇喜多が毛利の麾下にはいることを認めてしまった。
「こともあろうに、三村家にとっては父家親兄元祐二代にわたる仇敵直家と同席せよ言われるか。つい先日までわれらの懇請により、宇喜多征伐の出陣をなされたではないか。毛利殿は父子二代にわたる献身的な忠節を弊履の如く捨てられるのか」
と三村一門の者は絶縁状を輝元に叩きつけて退場してしまった。
 このことを浦上宗景の放った間諜から聞いた信長はほくそえんで、密かに使者を元親の許へ派遣した。
「この度、前将軍足利義昭は毛利と結託して謀叛を企てるとのことであるが、もし貴殿がこの企てに加わらず、この信長に味方されるならば貴殿に備中、備後の両国を進呈するであろう」                                   というのである。
 天下布武を目的として都に入った信長と第十五代将軍義昭の親密な関係は長くは続かなかった。将軍とは名ばかりで実権の伴わない傀儡だと気がついた義昭は全国の豪族に檄をとばし打倒信長を画策した。
 この呼びかけにいち早く応じて、天下に覇を唱えようとしたのは甲斐の武田信玄であった。彼は天正元年四月(一五七三)三万の大軍を率いて西上の途についたが、志半ばにして信長と干戈を交えることもなく病没した。
 信玄なきあと天下を統一するのは信長であろうと目されるようになっていた そのころ山陽路では安芸の毛利備前の浦上と宇喜多、備中の三村といった新旧勢力がこの地方に覇権を唱えようとしのぎを削っていた。この中で信長の力を頼んで上洛したのは浦上宗景だけであった。元亀二年(一五七一)信長に伺候して備前、美作、及び播磨の一部を安堵するという朱印状を賜った。
 天正二年(一五七四)四月から備前の各地で浦上と宇喜多が熾烈な戦闘を始めた。明禅寺合戦で有名になり、浦上家を凌ぐ勢力を蓄えてきた宇喜多に浦上が難癖をつけたことが一つの原因であった。
 信長に追われ毛利輝元を頼って都落ちした足利義昭は備後鞆津の地から全国の豪族に対して檄を飛ばし、打倒信長を煽動していた。
 信長からの密書を受け取った三村元家は重臣を集めて評議した。
 小躍りせんばかりの口調で元親が長々と発言した。
「これは願ってもないことだ。三村一族は宇喜多直家とは戦場で敵としてしばしば戦ってきた。戦いにはまだ決着がついていない。それはそれとして、宇喜多直家はわれらにとっては父子二代の怨敵である。父家親は興禅寺で卑怯な手段で闇討ちされ、佐井田城の合戦では長兄荘元祐が戦死なされた。それなのに毛利殿は三村一族の感情を逆撫でするかのように、直家と同盟し怨念を忘れて一緒に奉公せよといわれる。はからずも、このたび織田信長殿から同盟を結び前の将軍義昭と毛利氏とに対抗しようという申し入れがあった。信長殿は最近盛名を得て行く所不可はないほどの実力の持ち主じゃ。組む相手としては不足がない。毛利氏と同盟を結んだ宇喜多氏を成敗するためにはこの方法しかない。願わくば織田殿の援助を得て浦上殿と力を合わせ、宇喜多を攻撃し年来の鬱憤を晴らしたい」
「お尋ねしたい。長年誼を通じてきた毛利殿に背くということか」
と三村親頼が尋ねた。
 孫兵衛親頼は元親の叔父にあたり、その母は奈々の方である。
「致し方ない。仇敵直家を討ち取るためには止むを得ぬ」
 と元親。
「毛利の大軍に勝てる自信がおありかな」と
今度は親成が尋ねた。成羽の鶴首城の城主で三村家の重鎮である。元親とは従兄弟にあたる。
「織田殿だけでなく、豊後の大友氏、阿波の三好氏も応援してくれる手筈になっているから心配無用じゃ」
「しかし、織田信長という人は狂気の人だという噂が多い。恐ろしい陰謀を企む人だともいうので彼と組むのは危険が多い。毛利氏にあくまで忠誠を誓うべきだ。ましてや大友三好の援軍は遠すぎる」
と親頼は強硬に反対する。親頼はバランス感覚に優れた智将で家親なきあとの三村一族を纏めてきた柱石ともいえる人物である。積極的に表面へ出ようとはせず、常に若い元親を押し立ててよくこれを補佐し、三村一族の団結を影で支えている縁の下の力持ち的な存在でありその燻し銀のような人柄は家中の絶大な信頼を一身に集めていた。滅多に元親に異を唱えたことのない親頼が今日は顔色を変えてあくまで強硬であった。しかしながら、怨敵直家憎し、打倒直家の執念で凝り固まっている元親には冷静に客観情勢を分析して年配者の助言を謙虚に聞いてみるだけの度量が失われていた。舎弟の宮内小輔元範、上田孫治郎実親らも元親に同調して孫兵衛親頼に感情的な反論をした。
「当家の運を開き、年来の本懐を遂げる好機が到来したと喜んでいるのに、同じ一族の身でありながら、怖じ気ついてしり込みするのは卑怯じゃろう。孫兵衛殿も耄碌したか」と孫兵衛を悪しざまに罵った。
「父の恨みを晴らすのに何故人の力を借りなければならんのじゃ。およそ武士の道は忠孝と仁義が基本じゃなかろうか。たとえ主君が主君らしからぬとも家臣は家臣らしく仕えるのが武士というものじゃ。信長ははじめ、将軍に頼まれ、その御威光を後ろ楯にして五幾内を討ち従えた。しかし後には逆心を起こし遂に将軍を都から追い出し我儘に振る舞っている。これは人倫にもとる所業じゃなかろうか。このような信長を大将と仰いで何の益があろうというのじゃ」
と孫兵衛はたじろぐこともなく、醇醇と説いた。
 道理を説かれて言葉に詰まった元親は強権を発動した。
「三村家の家長はこのわしじゃ。家長の決断に逆らうのは謀叛と同然じゃ。成敗してくれる。それへなおれ」と激しい剣幕で刀に手をかけた。
「もはやこれまで。後悔なさるなよ。御免」
と一礼して孫兵衛親頼と嫡子孫太郎親成は親宣とともに退座した。
 列席した重臣と諸侍は何とかして親頼と親成を席に連れ戻し、一家の和睦を図らなければないと意見したが元親兄弟は頑として聞き入れなかった。心ある人は
「和睦して欲しい。和睦できないなら親頼と親成父子は討ち捨てるべきだ。元親は親頼父子のこれまでの忠誠心に甘えてたかをくくっている。親頼が本気だということに気がついていない。大将としての器が小さいな」
と内心思ったが口にだすものはいなかった。
 元親の打倒仇敵直家の執念は胸の内でますます燃え盛り、反対する親頼、親成、親宣を殺してでも信長との盟約を実現して直家を倒そうと決意して討っ手を鶴首城へ差し向けたのである。元親が討っ手を出したという情報をキャッチした親頼は
「これは思いもしなかったことになった。我が身の浮沈はここで決まる。将軍に注進して身の難をのがれよう」
と天正二年(一五七四)十一月の夜、鶴首城を脱出して鞆の津へ馳せつけ、将軍足利義昭へ元親が謀叛を起こしたことを注進した。
 これを聞いた義昭公は驚いて、
「私が都へ帰還しようと謀をめぐらして準備 をしている時、足元に敵がいるとは思いもかけなかった。これはどういうことだ」
と早速三原の小早川隆景へ使者を走らせた。
 小早川隆景は使者から知らせを聞くと直ちに毛利輝元と吉川元春へ使者を立てると同時に
「将軍が御帰洛の計画を練っている時に、将軍家を侮り、毛利家を軽んじ敵に加担する無道者は直ちに誅罰せねばならぬ」
という将軍の御内書に自分の廻文を添え、山陰、山陽四国、九州までも早馬を走らせた。 鞆の津の将軍の許へ馳せ参ずるよう陣触れをしたのである。
 同年十一月八日には小早川隆景、口羽・福原・宍戸・熊谷の歴々が馳せ参んじ翌日には輝元も出陣した。まもなく笠岡の浦に到着した。追々諸卒も加わりその軍勢は八万余騎に達したという。
 攻撃は毛利軍が本陣を置いた備中小田の北方にある国吉城から始められた。
 作州月田山城には元親の妹婿の楢崎弾正忠元兼が在城していた。元兼は元親謀叛の知らせを聞き、急に心を翻して、元親の縁者であると疑われないうちにと宇喜多直家の軍勢を城内に引き入れ、松山城の元親に加担していないことを示した。
 荘勝資がすぐ山王へ兵を出し佐井田城を攻めると叶わないと思ったのか三村兵部之丞をはじめ城内の者は松山城へ逃げ込んだ。
 小早川隆景を先鋒とする毛利軍の備中三村氏攻撃は電撃的に行われた。そのため天神山城の浦上宗景も宇喜多直家も毛利軍による備中三村諸城攻撃には殆ど加担出来なかった。 直家が毛利軍へ協力出来たのは備中動乱最後の常山攻撃だけであった。
 天正三年(一五七五)四月七日から備中松山城の攻撃は開始された。この城は天下に知られた名城であったから、急に落とそうと思っても徒に人力を費やし、矢数を失うだけであった。ただ兵糧の道を断つことは効果のある攻め方だったので、小早川隆景は諸方の麦田を薙ぎ捨てにしようと考えた。
 四月七日松山城のうしとらの方向にあたる河面(高梁市河面町)寺山という古寺の跡に陣を移して古瀬(高梁市巨瀬町)近郷の麦を薙ぎ捨てた。
 松山城からは麦薙ぎを防ごうと兵を出したが隆景は少しも応対せずに、陣を白地(高梁市落合町福地)へ再び移して麦薙ぎを続け、二十八日成羽へ討ち入った。このため、近郷の百姓達は迷惑して、毛利方へ心を通じて城中への夜討ちなどの手引きをする者が多かった。だが城中の兵に捕らえられて獄門にかけられる者も多く、その数は落城までに三百十八にもなった。
 隆景は諸氏に命じて陣が長引くように仕向け、何処へも出向かず櫓などの増設や修理だけをさせた。これを見て松山城の男女は退屈を覚え、下端の者達は月夜に抜け穴をくぐって城外へ出る者も多かった。
 重代恩顧の者達は
「城内には兵糧や塩は沢山あり一、二年の籠城には差し支えない。このうえは織田信長に味方して後詰めの勢力をお願いする」
として少しも怯む様子はなかった。
 こうして日が経つうちに何時の世にもあるように裏切り行為をするものが出てきた。竹井宗左衛門直定、河原六郎左衛門という浪人は元親から数えきれないほどの厚恩を受けていながら、隆景の術策に踊らされて、一時の利欲に惑わされて信義にもとることをしてしまった。両人は石川久式が守っている天神丸をとろうと思い、久式に会って
「我等について、世間では逆心の噂がたっているが迷惑なことである。このことについて小松山へ行って元親殿にお目にかかり申し開きをしたいと思います」
と言った。久式もその志を感心して五月二十日、留守中の諸門の警備を厳重に命令して、宝福寺の雄西堂とともに小松山へ同道した。
 そこで両人の手の者は、予て計画の通り、野菜などを台に乗せて、天神丸の法印様に献上すると偽って開門を願った。門の守備兵も顔見知りの人なので怪しむことなく門を開いた。そこで大槻源内、小林又三郎はすぐ門の中へ入り、奥の座敷へ急行しそこにいた石川久式の妻子を捕らえた。続いて土居、工藤、田中、蜂谷、肥田、土師、神原など数百人が押し寄せてあちこちに火をかけた。このようなことがきっかけとなって、松山城は落城した。
 三村元親の自刃をもって松山城攻撃が終了すると隆景は将兵を率いて備前常山城へ向かった。
 松山城から落ちのびて父家親の墓がある頼久寺へ辿りついた元親は今回謀叛を起こした顛末を述べた輝元宛の書面を認めた後、辞世の句数句を残した。介錯は粟屋与三左衛門尉元方に依頼して検視の武士達が感嘆する見事な振る舞いで切腹した。
 ・年来の馴染み細川兵部小輔宛に
   一度は都の月と思ひしに
        我待つ夏の雲にかくるる
 ・都に住む一族の武田法師宛に
   言の葉のつてのみ聞て徒に
        この世の夢よあはて覚めぬる
 ・歌道の師大庭加賀殿宛に
   残し置く言の葉草の影までも
        あはれをかけて君ぞ問うべき
 ・老母宛に
   人という名をかる程や末の露 
        消えてそ帰る本の雫に
 備中動乱の最後の戦いとなった備前常山城への攻撃は六月四日から始まった。それまでは隆景の分遣隊と宇喜多直家軍が包囲していたのである。攻撃の主力となったのは富川平右衛門秀安で毛利軍の案内役も買っていた。
 備前常山城の城主は自刃した松山城主三村元親の妹婿上野隆徳あった。松山城が陥落して孤立無縁となった常山城の唯一の頼みは阿波三好氏からの来援であったが、毛利軍が大挙来襲すると姿を現さなかった。たまりかねた家臣が
「いっそ海を渡って四国へ渡り、三好の応援を得て、城奪回の機を窺うのが賢明かと思う」
と家臣の一人が進言したが隆徳は
「お主達の言うことはもっともであるが、毛利に弓引くように強く勧めたのはこの隆徳じゃ。その張本人が女々しく生き永らえることができようか。命の惜しい者は逃げてくれて結構じゃ。咎めはせぬ」
と城を枕に討ち死にする覚悟を披瀝した。
 これを聞いて思い思いに駆け落ちする郎党達もいた。小舟を浮かべて逃げだした者もいた。彼らは逃げる途中で敵に追いかけられ殆どのものが討ち取られてしまった。
 城の周囲を蟻の出る隙間もないほど包囲されて逃げ場を失った城兵は全員討ち死にを覚悟した。
 六月六日の暮れに小早川の先鋒浦野兵部丞宗勝が城の下に旗を掲げ先陣の兵数千人が二の丸へ攻め入り太刀を閃かし、靱を鳴らして鬨の声を上げた。
「助かろうと思う者程鬨の声に驚くものだ。明日の巳の刻(午前八時)には大矢倉で一類みな腹を切り名を後世に残したい」
隆徳は少しも騒がず静まりかえっていた。
 翌七日の明けかた、城内から酒宴の声が流れた。多くは女性の声で互いに今生の名残の杯を交わしていた。
 七日辰の刻(午前八時)に敵軍へ向かって
「一類自決する」
と告げると一類の人々が我先にと集まってきた。
 隆徳の継母は五十七才であったが先ず一番に自害した。
 自害するとき彼女は
「この世にあってこのような憂き目を見るのも前世の業が深かったためであろう。隆徳が腹を切るのをみると目を廻し気絶し、見苦しい姿を見せるのも口惜しい。暫時後に残るよりも先に自決したい」
と言って縁の柱に刀の柄を縛りつけそのまま走り掛かって胸を貫いたところに、隆徳が走り寄って
「五逆の罪は恐ろしいが止むを得ない」
と言って首を討ち落とした。
 嫡子源五郎隆透は十五才であった。父隆徳の介錯をしかたいと思ったが、少年でもあり未練が残ると思ったのか
「逆ではありますが先に腹を切りたい」
と言うと
「愚息ながら神妙な奴だ」
と扇を開きあおぎながら、つくづくと顔を見て
「生かしておきたいが、後生の障りともなるであろう」
と暫く涙を流し、袖を濡らしていた。
 隆透は俯いて涙を押し留め肌を脱いで、腹十文字に掻き切りうつ伏せになるところを
隆徳が首を打ち落とした。
 隆徳は八才になる隆透の弟を傍らに抱え心臓を二突きして殺した。
 隆徳の妹に十六才二なる姫がいた。安芸の鼻高山の親戚の許へ落ちていくように勧めたが
「思いも寄らぬことです」
と言って、老母の縛りつけていた刀で乳のあたりを貫き自害した。
 隆徳の妻鶴姫は三村元親の妹で、日頃から男に勝る勇気と力を持っていた。
「私は女の身であるが、武士の妻や子が敵の一騎も討たずむざむざ自害するのは口惜しい。女であっても、ひと戦しないわけにはいかない」 
と鎧をつけ、上帯を締め、太刀を佩き、長い黒髪を解いてさっと乱し、三枚兜の緒を締め紅の薄衣を取って着て、裾を引き揚げて腰で結び、白柄の薙刀を小脇にに挟んで広庭へ躍りでた。
 これを見た春日の局やその他の青女房、端下の者に至るまで三十余人は
「思い留まって静かに自害して下さい」
と鎧の袖を掴んだが、
「貴女達は女性の身だから敵も強いては殺しはすまい。いずれの地かへ落ち延びるか、もし自害するならよく念仏を唱えて後生を助けて貰われるがよい」
と袖を振り切って出て行った。
春日の局らは
「さては自分達を捨ててしまわれるのか。どうせ散る花ならば、同じ嵐に誘われて、死出の山、三途の川までお供しましょう」
と髪を掻き乱し、鉢巻きを締め、ここかしこに立てかけてあった長柄の槍を携えて三十余人が駆けだした。
 これを見た長年恩顧をこうむった家僕達も一緒に死のうと、八十三騎が揃って駆け出した。
 寄せ手はこれを見て 
「敵は妻子を先に立てて降伏してきたな」
と思っていたところ、女性軍は、喚声をあげながら、小早川の先鋒浦野兵部丞宗勝の七百余騎の真ん中目指して突っ込んだ。
 女を含むとはいえ、決死の勇士が死を恐れず突きたてたので、寄せ手の兵は足並みを乱し、傷を受け死ぬ者百騎に及んだ。慌てふためくのを見て隆徳の妻は腰から銀の采配を抜き、真先に進んで 
「討ち取れ、者共」
と大勢の中へ割って入った。多勢に無勢、構えを建て直した敵に追い詰めら討ち取られて味方の兵はいなくなった。
 隆徳の妻は浦野兵部丞宗勝の馬の前に立ち止まって、大音声を張り上げた。
「どうした。宗勝、西国屈指の勇士と聞いている。私は女の身ではあるが、一勝負致したい。いざ」
とわめき叫んで、薙刀を水車のように廻して攻め寄せた。
「いやいやそなたは鬼ではなく、女である。武士が相手にできる人ではない」
と身を引くと、傍らの兵五十騎が攻めかかってきたので薙刀で七騎を薙伏せた。
 自分も薄手を負ったがまた大音声を張り上げた。
「女の首をとろうとなさるな。方々」
と呼ばわり、腰から三尺七寸の太刀を抜き、
「これは、わが家相伝の、国平作の名刀である。この太刀は父家親が相伝されて、特に秘蔵していたが、故あって、私が戴いた太刀である。父親だと思って肌身離さず持っていた。三村一族が滅亡する今となっては、相伝する者もない。わらわの死後には宗勝殿に進呈する。後生を弔って賜え」と言い捨て城中へ馳せ入った。
 こうして西に向かって手を合わせ、
「夢の世に、幻の身の影留まりて、露に宿借る稲妻のはや立ち帰る元の道。南無阿弥陀仏」
と念仏を唱え、太刀を口に含んで臥し、自害した。
 隆徳も西に向かい
「南無西方教主の如来、今日三途の苦を離れ元親、久式、元範、実親と同じ蓮台に迎え賜え」と念仏を唱えながら腹を掻き切った。
 備中兵乱の悲話の中でも最も涙をそそる出来事である。
                       
 十四、甫一検校
                        
 検校にまでなった甫一という座頭の琵琶法師と中村吉右衛門という乱舞の芸者は、元親が松山城に籠城していると聞いて遠国から尋ねてきて難儀しながら松山城へ忍び込み日頃の恩に感謝した後、馬酔木門より帰ろうとしたところを悪党どもに見つかり殺されてしまった。と備中兵乱記には特記している。
                         
 十五、勝法師丸
                            
 三村元親の嫡男勝法師丸と石川久式の嫡男を備前国の住人伊賀左衛門久隆が生け捕りにして本陣に移した。久式の子は備中国の宝福寺へ送られた。勝法師丸は生年八才であったが、容貌はなはだ優れ、書は他に並ぶものがないほど上手であった。四季折々に詩歌の会を催して心を慰め、栄華の日々を送っていたが今は敵方の陣屋に捕らわれの身となっていた。
 昔、御醍醐天皇の八才の皇子が天皇と別れるのを悲しみ、 
「つくつくと思ひ暮らして入相の鐘を聞くにも君ぞ恋しき」と詠まれた歌を思い出し、過ぎた昔の哀れな話を今こそ身にしみて感じていた。
 久隆が本陣に送った時、惣金の扇に古歌を書いて勝法師丸へ与えたところ、扇を開いて「夢の世に幻の身の生まれ来て露に宿かる霄の稲妻」
とあるのを見て 
「さては、本陣に行ったなら殺されるに違いない。今脇差しを持っていれば自害するのに」
と後悔するのを見て、人々は感涙を催し
「助けておいて出家でもさせるか」
と相談していた。
 その時、また勝法師丸が、自分の見張りをしている侍に
「私が久隆に捕らえられて送られて来た時、途中で元の家人共に出会った。彼らは馬に乗ったままであり、君臣の礼儀を失っていると私は彼らに申した。背かれるほどの主人ではあるが、これほどの恥辱はない。おのおの方も前後におられるのに馬に乗ったままで行き過ぎるのは無礼であろう。どう思うか」
と話すのを聞いた人は皆舌を巻いて驚いた。
 そこで、隆景にこのことを告げたところ、
 隆景はそれを聞いて
「それほどの口才があるはずがない」
と思い、別人に尋ねたところ、本当のことであると語った。
「さては、助けておくと弓矢の種になる。事が難しくなるぞ」
と言って殺してしまった。
 一家滅亡の時であり、実に哀れな話であった。
                       
 高梁市の頼久寺には備中の虎三村家親、備中兵乱の主人公三村元親の墓が残っている。

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