随筆

2014.07.15

価値判断の基準についての一考察                

      
 我々が日常生活を営んでいくうえで、我々の行動を支配し、制御しているものは一体、何であろうか。ある秋の夜半に寝つけないままに考えてみた。そのことを多少整理して記録しておきたい。

 我々の行動を支配しているものは、欲望であり、欲望を制御しているのは理性である。昔から言いふるされた諺に「衣食足って礼節を知る」というのがある。人間の基本的な欲望を食欲と衣装欲にあるとみて、この欲望が充足されればおのずから礼節は行われると考える。逆に礼節をいくら守らせようと教えても、空腹の状態では行われないということである。

 欲望には生物的なもの(食欲、性欲、安全にたいする欲求)から社会的なもの(名誉欲や人に認めてもらいたい欲求)を経て自己実現欲求にいたる重層構造をもっているという説を唱えたのはアメリカの哲学者マクレガーであるが、卓見といえよう。

 欲望が重層構造をもっている点に着眼した所は説得力を持っているが、それでは我々の日常生活において、我々が具体的な行動をとるときに個人にとっては個体の生命維持のために必要な行動であっても社会的には許されない行動もある。社会的に許さ  れる行動であるか否かを制御しているのは理性であるが、その理性が判断の基準にしているものは何であろうか。

 そこで私は、損得、善悪、快不快、真偽、好嫌、美醜、大小、多少、正邪苦楽、悲喜、合理非合理といった言葉の中に隠されている判断基準というものを考察してみたいと思った。

 ある一つの行為を考えてみたとき彼をしてその行為をとらしめた判断基準と言うものがあるはずである。その行為の選択は損か得か、善か悪か、快か不快か、真か偽か、好ましいか嫌いなことか、美か醜か、大か小か、多いか少ないか、正か邪か、苦か楽か、悲しいことか嬉しいことか合理的か非合理的かといったことを総合的に勘案して決められる筈である。どの基準にウエイトを置いて選択するかによって現れる行為の結果がその行為を選択した人のパーソナリティーを表していると見てよいであろう。

 これらの基準は定量的に示すことの出来るものもあれば定性的にしか表現できないものもある。例えば損得の基準は定量的に把握することができる。金額で表示することも出来るしある単位による数量で表示することが可能である。ところが善悪の基準は数量的な把握が難しい。我々が生活していく上でこれらの基準は我々にどのような関わり方をするのであろうか。これらの基準がどのような場面でどのような形で使われているかを具体的に考察してみれば、これらの基準を体系的に整理することができ、我々の日常生活への関わり方を明らかにすることが出来るかもしれない。

 最初に損得について考えてみよう。

 損得の基準を唯一無二の絶対的な基準としている世界は営利企業の経営の場面である。
 通常会社組織で運営されるが、会社設立の目的自体が利益の追求にあることは自明である。ここでは、損得の量が金額で明確に表示される。損をする企業は存続する価値がない。企業は利益を上げ、得をするように行動しなければならない。得をすること即ち儲けることに徹すると時として手段を選ばない反社会的な行為が現れることがある。そこで第二第三の判断基準が援用されることになる。つまり善悪、正邪、美醜等の基準によることになる。損得の基準はよく考えてみると人間のもっとも基本的な欲望を容認することを前提として成り立っている基準であることがわかる。企業活動によって儲ければ人間の持っている過半の欲望はこれを充足することが出来る。つまり、貨幣経済の世の中では、儲けは金銭で分配され分配された金銭で欲望の対象物を購入することが出来るからである。

 次に強弱、大小、多少、遅速という基準を価値判断の基準にしている世界が勝負とスポーツの世界である。

 勝負の世界という表現自体に基準が明示されている。勝つことが唯一絶対の価値でありそれ以外の価値は認められない。勝負を判定する基準として強弱、大小、多少、遅速という定量になじむ基準が用意されている。囲碁、麻雀であれば目数や点数の多少で勝負が決まる。将棋は勝ち負けの形が決まっているので定量的な判断は必要でないが勝負けを客観的に認定することが出来る。スポーツの世界では強弱で判断されるものは概ね格闘技である。柔道剣道、拳闘、レスリングがこれに該当しよう。獲得した獲物や得点の大小、多少で勝負を判定するものは球技に多く、野球、バレー、サッカー、テニスゴルフ等がある。遅速を競うものに徒競争、水泳、自転車競技、スキー、スケート等がある。

 最も判定基準が難しく、客観的な基準の設け難い世界が「真・善・美」の世界である。 先ず真偽については俗にいう嘘か本当かということであるから定量的な判断ではなく黒か白かというふうな定性的な判断になる場合が多い。本物か贋物か真実か虚偽かという判断を迫られるケ-スが多く、判断する主体に豊富な知識と経験がないと判断しにくい場合が多い。天動説と地動説との争いの如く、その社会の科学技術の発達段階の程度によって左右されることもある。

 美醜についても客観的な基準が設け難く且つ定量的な基準が設定困難な世界であり、優れて主観の支配する世界である。美醜を判断する場合に、幾つかの要素に分けて考えることは可能であるが、分析的に判断したとしても定量的ではあり得ず最終的には総合的な主観による判断にまたねばならない。要素としては、形状、色彩、色調、明暗、量感等があり、判断する主体の好みに依存せざるを得ないから多様な価値が併存する世界である。

 正邪、善悪の判断は実定法の範囲内での判断と道徳律の範囲まで踏み込んでする判断との二種類に分けて考える事が出来る。実定法に抵触する行為は通常、邪悪として排除される。そのことに対して違和感を持つ人は少ない。通常的な平均人を前提として法は作られているからである。中には法秩序自体に反対の立場をとっている反体制派の人達もいるのでその人達にとっては実定法が邪悪なりとして排除したものでも、正なりと考える場合もある。逆に実定法が正なり、善なりと判断したことであっても道徳律に照らせば邪悪にうつる場合もある。法と道徳とは概ね大筋においては一致しているが、ときに法と道徳律とが背反することもある。法律は社会現象を後から秩序付けていくという性質を持っているので、今日のように変化の激しい時代にあっては法の価値観と道徳の価値観とが乖離することが多くなってきているともいえる。

 このように考察してくると、日常の社会生活においての判断基準は平均人であれば、
第一に損得の基準を援用し、
第二に真偽の基準で検証し、
第三に正邪、善悪の基準で確かめ、
第四に美醜の基準で最終判断をしているというとになるのであろう。

 この「損得」「真偽」「正邪、善悪」「美醜」という四つの基準にどの程度のウエイトを置いて判断するかは人により異なるところであり、ウエイトの置き方の相違が価値観、人生観の相違となって現れてくるのであろう。結局、得・真・善・美をバランスよく調和させながら、過不足なく援用していくことが大切であるということになるのであろうか。
 そして強弱、大小、多少、遅速という言葉は定量可能な基準として使われ、損得や勝負を判定する補助的な基準であると言えよう。

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夢のコミュニケーション               

       
 ニフティーサーブに加入して1カ月が過ぎた。還暦過ぎてのパソコンビギナーがフォーラムの面白さに取りつかれて、今キーを叩いている。様々な分野のフォーラムが設けられているので、自分が必要だと考えたり、面白そうだと感じたフォーラムの会議室を覗いてみることから、楽しい作業が始まると言えよう。やっとフォーラムの電子会議室で発言できるようになり、せっせと発言しているところだ。パディオという面白い仕掛けが用意されているようだが、楽しみは将来に預けておいて暫くはフォーラムだけで楽しもうと思っている。

 ところで、コミュニケーションというものは将来どんなかたちになるのだろうか。正月も近いことだし、初夢でも見るつもりで、将来の姿を展望してみたいと思って、コミュニケーションの歴史を以下のように考察し、将来の夢を描いてみた。

1.人間の基本的機能拡張欲求と文明の利器

 我々はさまざまな文明の利器に取り囲まれて快適な生活を享受している。この文明の利器の出現過程、発展過程を考察してみると、人間の持つ基本的な機能・・・歩く、走る、跳ぶ、泳ぐ、潜る、見る、聴く、嗅ぐ、話す、食べる等々・・・を拡張したいという欲求に基づいていることが判る。即ち、1~2の例を挙げれば、「もっと遠くへ、もっと速く行ってみたい」或いは「海や河の向こう側へ行って見たい」とか「鳥のように空中を飛んで回りたい」という欲求に基づいて出現したのが、汽車、電車、自動車、汽船、飛行機等交通機関に属する文明の利器である。

 また「遠くのものを見たい」「遠くの人と話してみたい」という欲求に基づいて出現したのが、望遠鏡、モールス信号、電話、ラジオ、テレビ、ファクシミリ、パソコン通信、インターネット等の主としてコミュニケーション手段に属する文明の利器である。
 更に「もっと速く、正確に計算したい、書きたい」という欲求に基づくものが算盤、計算尺、手動計算機、電動計算機、コンピーューター等の文明の利器である。

2.人間の五覚拡張欲求とコミュニケーション

 人間には、嗅覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五つの感覚機能が備わっている。この五覚機能をも拡張したいという欲求を人間は持っている。この五覚機能拡張欲求に応えて出現し発展してきたのが、主としてコミュニケーションにおけるハードウエアとソフトウエアの領域であろうと私は考える。 コミュニケーションと言った場合、「一定の意味内容を言語その他視覚、聴覚に訴える各種の記号を媒介として伝達すること(広辞林)」と定義されている。現在出現している限りにおいては、まだ、コミュニケーションのハードウエアもソフトウエアも、人間の五覚機能拡張欲求に対して、視覚、聴覚の二機能にしか応えていない。即ち、新聞、ラジオ、テレビ、電話、ファクシミリ等の恩恵を日々享受してはいるが、寡聞にして芳香の伝わるテレビ電話等にはまだお目にかかっていない。

3.文化の伝達とコミュニケーション

 文明は前述の通り、人間の基本機能拡張欲求(五覚機能拡張欲求)を契機として出現し、発展する物質的色彩の強いものである。これに対し、文化は文明の発達の成果を取り入れて、人間の精神活動充実欲求を契機として形成された精神的色彩の強いものである。
 現在のコミュニケーションは、五覚機能のうち、視覚、聴覚の二覚にしか訴える力を持たないが、それでも速やかな文化の伝播、伝達という限りない恩恵を人類にもたらしている。

 我々は居ながらにして、チャンネルを廻しさえすれば(我々の欲する番組が用意されているという前提はあるが)世界各国の文化、風俗、習慣に画面を通して触れることができるのである。パリの最新の服飾の流行が旬日を経ずして銀座のみならず日本全国の盛り場の流行となることもあり得るのである。

4.21世紀のコミュニケーションへの期待               

 視覚、嗅覚に訴えるコミュニケーションは20世紀のものであるが、21世紀のコミュニケーションは残された三覚、即ち嗅覚、味覚、触覚をも動員して五覚備わったコミュニケーションになるであろうというのが、私の期待であり、夢である。
 素人考えに過ぎないが嗅覚に訴えるコミュニケーションは近い将来実現するのではなかろうか。

 味覚、触覚に訴えるコミュニケーションは現在研究されているのかどうか知る由もないが、「打ち出の小槌」的なテレビ(テレビとは言わないで別の名前がついているだろうが)が出現して、宮廷晩餐会の味覚を国賓諸賢とともに味わうことができるようになるであろうし、パリで催されるファッションショーに出場したトップモデルの着ているミンクのコートの手触りを、団欒の居間で楽しむことができるであろう。

 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚に訴えるコミュニケーションが実現した21世紀には立体感、臨場感も伝えることが出来るようになるであろう。例えば、我々はナイヤガラの滝をテレビの画面に色彩鮮やかに轟音とともに写し出されても、画面に触れて水の冷たさを感じることが出来ないし、立体感もないので臨場感が伝わらない。然し21世紀のコミュニケーションにおいては、画面に映し出された落ちる水に手を触れれば、水の圧力、水温を感じ、滝壺へは危なくて近寄れないという恐怖心を呼び起こすまでの臨場感溢れるものになっているであろう。

5.コミュニケーションの倫理                     

 コミュニケーションは言うまでもなく、伝える側と伝えられる側(交互に立場が入れ代わる場合も含めて)とから成り立っている。

 五覚に訴えるコミュニケーションが実現し、立体感と臨場感ををも伝えることができるようになるであろう21世紀の社会においては、学校教育のありかた、職場勤務のあり方も現在のものとは相当変わったものになっているであろう。

 学校教育においても職場においても現在のように、毎日一定の場所に、一定の時間集まって授業をし、仕事をするという形態が崩れて、人々は自宅や旅行先でコミュニケーション機器の端末機器を操作して授業を受け、課業をこなすという形態に変わっていることであろう。日常生活でもコンピューターショッピング、コンピューター決済があたりまえになって通貨は姿を消していることだろう。

 このような社会においては、伝える側の倫理と価値観が厳しく問われなければならない。個人と個人とのコミュニケーションはまだしも、人と社会とのコミュニケーション(所謂マスコミ)においては、伝える側に人間の尊厳に基づいた価値観、倫理観が厳しく要求される。また伝える側にも価値のないコミュニケーションは伝えることを許さないという毅然としか姿勢が必要である。

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オアシスと出会った頃1(昭和62年10月10日の日記)      

  
 昨夜から今日の祭日には、念願のワードプロセッサー「オアシスフロムエイト」を買いに行こうと予定していた。夜、寝ていても早く夜が明けて、明日になればよいがとまるで子供が明日の遠足を楽しみにしているような気分であった。夜中に何度か用足しに起きたが、その度にまだ空が暗いのでがっかりした。寝ていても新しいワープロを買いに行っている夢であったり、買って来たワープロを一生懸命操作している夢であったりする。

 三度目くらいに目が覚めたら、漸く東の空も明るくなって待望の朝が来ていた。時計を見ると五時半である。秋葉原の電気製品街が店を開けるのは、多分十時頃からであろうからそれまでの時間は先週の日曜日に切り落とした庭木の枝を焼却炉で燃やすことにした。 庭木を燃やすにしても、朝早い時間で隣り近所がまだ起き出さないうちでないと、煙や灰が舞い上がるので面倒なことになる。近所の洗濯物を灰で汚しでもしたら気まずい思いをすることになる。最初に木の葉を焼却炉の下の方へ入れて、次に木の枝を細かく折り、その上へ乗せる。火付きをよくするために、灯油をこの上からふりかける。こうして置いてマッチで点火すると、激しい勢いで炎が焼却炉の中で活動を開始する。煙突からは白い煙がもうもうと舞い上がる。一度火床が出来ると後はしめたもので、少々湿っている木でも葉っぱでもくべると燃えてくれる。すっかり片付くまで二時間半程費やしていた。

 今日は体育の日で、桂子ちゃんの幼稚園の運動会があるので家族の者は見学に出掛ける予定であると言う。今更、幼児の運動会を見に行く気もないので、家内に車で鶴見駅まで送って貰い秋葉原へ向かう。朝早いので、電気製品街も店を開けていない所も沢山ある。
 一~二軒覗いてみて目指すオアシスフロムエイトの定価と販売価格を比べて歩く。どこも似たようなもので大差はない。どうせ値段が同じなら、大きな店の方が何かと便利であろうと思い、宝田無線電気で十二万八千円の品を十万五千円にして貰って、買うことにした。イメージリーダーとソフトのイラスト集も一緒に買おうとしたが、在庫が無く取り寄せになると言う。一刻も早く試してみたいという気持ちがあるのと、重たい荷物をぶら下げて捜し廻るのも億劫なので、取り寄せて貰うことにした。ソフトの大辞書もまだ発行されていないという。今回求めたオアシスフロムエイトが富士通の製品の中では最新式のものらしい。何れもっと多くの機能のついた機種がもっと安い値段で出てくるであろうが、それまで待っていたのでは結局、何時までも買うことが出来ないので今回思い切って購入したのである。

 今まで使っていたオアシスライトは画面に僅か八文字しか表示されない機種で、昭和五十九年六月の発売のものである。たった三年の間にこれほど機能が増えて使い易くなったのだから、この先どんなものが出てくるのか楽しみである。おそらく次は言語認識のワープロになるであろう。使い古したオアシスライトは志奈にはらいさげることにしよう。
 オアシスライトの初期のものであったが、トミヤの店頭で売れ残ったのをたった一万円で譲り受け、若い頃の記録や、つれづれに書き溜めた原稿を清書して「獅子が谷雑記」と名付けた冊子四巻を編集するのに活躍した。パーソナルユースの懐かしい品であった。

 オアシスと出会った頃2(昭和62年10月11日の日記) 早島 潮
                          
 昨日昼過ぎ、何となく疲労感を覚え、一寝しようかなと思っているところへ賑やかな声がして、運動会へ行っていた家内と志奈、亮子ちゃんとその母が帰って来た。暫く一緒に相手をしていたが、女達の話は取り留めもなく、何時果てるともしれないので、そっと抜け出し、オアシスライトフロムエイトの操作方法をマニュアル片手に勉強を続けることにした。
 風邪でもひいたのか、後ろ頭に鈍痛がする。グラフの作り方を試しているうちに眠たくなってしまった。折り良く夕食の用意が出来たというので、食堂へ下りていくとまだ都支が運動会のあと、学校の図書館へ調べものをしに行ったまま帰って来ないという。最近、誘拐事件や殺人事件等殺伐な事件が多いので、用心にこしたことはないが、もう一人前の大人になったのだから、自分の行動に責任と自覚を持っているのであれば、はたからあれこれ言ってもあまり効き目はない。就床して眠りに入りかけたところへ、都支が帰って来た。八時であった。

 今朝は、目が覚めたのが既に、七時半であった。夜中に二回ほど用足しに起きたが、よく寝たものである。早速、ゴルフの練習場へ久し振りに出掛けた。ニュー鶴見ゴルフは事務所改造工事中であったが、既に打席は満員で暫く順番を待たねばならなかった。やはり早起きは三文の得で、早朝に来なければ、すぐ練習することはできない。暫く振りにクラブを手にしたのだが、ボールを二箱も打つうちに良い球質の打球が飛んでいくようになった。腰をあまり動かさなかったせいか、体の節々が痛くなり、体全体になんとなく疲労感が漂う。

 庭の片隅に切り落とした枝葉で、昨日燃やしきれなかったのがあるので、これを片付けようと作業をはじめると
 「火を燃やすのは止めて下さいよ。ご近所に御迷惑ですから」と家内が大声で抗議するので、折角仕事も佳境に入って来て、焼却炉の火床も出来、残念であったが中止することにした。

 再び、オアシスライトフロムエイトの試運転をしていると志奈が英語のレッスンを終えて帰ってきたので、昨日まで愛用していた古いほうのオアシスライトを譲り渡した。嬉しそうに小脇に抱えて、用紙とインキリボンをついでに強奪して自室へ引き上げて行った。 色々な機能を確かめながら機械を操作していると、つい時間が経つのも忘れて夢中になってしまう。思えば、初めてワードプロセッサーを操作したのは、同じ富士通のオアシス百であった。日本で初めて日本語ワードプロセッサーが登場したのは、昭和54年か55年のことであり、会社で逸早くこれを導入した。当時シャープが書院と称して、漢字の音読み一覧表をライトペンで捜し出して漢字を拾っていく方式の機種を売り出していた。私達の世代は活字人間であったから、これが非常に馴染みやすくスピードも早いのではないかと思っていた。導入にあたり、実際にかな漢字変換方式とペンタッチ方式とを比較してみようということになり、シャープの書院と富士通のオアシス百を並べて皆に操作させ比較してみたことがある。結果はかな漢字変換方式の方が良いという結論になり、オアシス百を採用したのである。当時はビシネスショーにおいてもデータショウにおいても、まだペンタッチ方式による機種が沢山展示されていた。ところが現在ではペンタッチ方式は影を潜めかな漢字変換方式が主流になった。

 会社で導入したオアシス百は、当時の値段で三百万円もした図体の大きなものであったが、何回かのバージョンアップを行い、現在でもまだ活躍している。導入当時は、罫線を引くにしても、縦線、横線、十字、左括弧、右括弧、下向き丁字、上向き丁字、左向き丁右向き丁字等とカーソルをひとこまずつ動かして引いたものである。計算機能、グラフ機能、分類検索機能等も購入後のバージョンアップで次々に拡張してきたものである。

 それが、現在のハンデイタイプのこのオアシスライトフロムエイトには全て備わり、縮小文字縮小表示、イメージリーダー等当時の機種には付いていなかった機能まで付加されているのである。しかも、記憶容量は数倍大きく、フロッピーの大きさも三・五インチの小型になっている。使用されているICの性能が向上したせいであるが、技術革新のスピードを実感として体験した思いである。やがてワープロも電卓が辿ったと同じような運命を辿ってスーパーストアやガソリンスタンドで安売りされるようになるのであろうか。
 
 昼食後、再びワープロで機能確認の操作をしていたが、久し振りでウイスキーをお茶に少しばかり入れて飲んだのが、効き目を表したのか眠くなったので、無為自然を口実として、午睡した。一時間半程の眠りであったが、頭痛もなくなり気分爽快である。再び、ワープロで止まるところなく文章を書き続けているのである。


 オアシスと出会った頃3(昭和62年10月12日の日記) 早島 潮

 今朝は雨である。天気であれば、いつものように三池公園を通り抜けて、歩いて出社するのだが、雨に濡れながら歩く元気もないので、家内に車で送って貰うことにした。
 雨が降って一番喜ぶのは、志奈である。車に便乗して、鶴見駅まで送って貰えるのだから。学生の身で楽な方法ばかり選択する癖がついては困るので努めてバスで登校するように仕向けているが、二番目の子供となると、つい甘くなり、口実を設けては車に乗りたがる。また母親のほうも、理由をつけては車に乗せたがる。今日は、連休明けの雨の日のせいか、何時もより道路が混み、車も渋滞していた。

 会社では支払いの為の準備作業で忙しく、雑用も合間に片付けなければならないので、物事をじっくり考えている暇はない。とにかく片っ端から処理していかないと、先へ進まない。毎日がこの繰り返しである。本質的に経理総務の仕事というのは、毎日の積み重ねの上に成り立っているのだから、致し方ないといえばそれまでのことではあるが、十五年以上も同じことをやっているといい加減飽きてくる。中小企業であるから、仕事の選り好みの出来ないのが辛いところである。まあ、自分の意志で進路変更して選択した道であるから耐えていくしかないのであろう。

 山崎鉄彦君が秋葉原の客先へ出向く用事があるというので、オアシスライトフロムエイト用のカード、毛筆、ゴチック、まる文字、葉書宛名印刷を買って来てくれるように頼んだ。昨日一日で操作方法を殆どマスターしたので新しいことにトライしたいからだ。

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囲碁と将棋と恩師                                         

 私が、世の中に囲碁や将棋というゲームがあることを知ったのは、小学生の低学年の頃であったと思う。多分、北朝鮮の鎮南浦時代も終戦直後から引き揚げまでの極く短い期間のことであろう。この時代の在留邦人は、祖国が戦争に負けたので、早く故国へ帰還できることを唯一の目的にして、竹の子生活を送りながら無聊をかこっていた。囲碁や将棋の出来る人達は、退屈凌ぎに一畳台を表に持ち出して、誰彼となく相手を求めては、勝負を競っていた。相手のいないときは腕白坊主達を集めて、指し方や打ち方を教え、時間潰しをしていた。この時代、私は、将棋を覚え夢中になって指し、相当腕を上げた。囲碁の方は五目並べ程度で本格的な囲碁の手解きを受けたのは、中学生になってからである。

 早島中学に通っていた頃、社会科の教諭に久保田 修先生がおられた。この先生には、感受性の強い時期に色々のことを教えられたし、人格形成の上でも多大の影響を受けたと思っている。この先生が当時囲碁に凝っていて、宿直の日等には弁論部の生徒達の指導を終えてから、宿直室で囲碁の手解きをされた。私の記憶では一回か二回、石の活き死にや「こう」のルールについて教えて戴いたような気がする。

 この先生との触れ合いの中で鮮明な思いでとして脳裏に焼き付いていることがいくつかある。

 その一は、弁論大会で優勝したことである。久保田先生は社会科を教えておられたが、三年生のクラス担任で、進学指導、就職指導もしておられた。当時私は二年生であった。 この久保田先生は早島中学に弁論部を創設され見込みのありそうな生徒を集めてはテーマを与えて原稿を書かせ、これを修正加筆したうえで、演説の仕方を指導された。校内で弁論大会を開き、入賞者を特訓して、天城高校で行われる学区内弁論大会に出場させて初出場にもかかわらず、優勝の栄誉を獲得した。この初出場で優勝したのは三年生の谷本義博先輩であった。

 谷本先輩が卒業してから、白羽の矢を当てられた私は先生の特訓を受けて「三十八度線の思いで」という演題を携えて出場し、天城学区弁論大会で見事優勝し先輩の掲げた「早島中学に弁論部あり」の名声を汚すことなく継承し、次の学年の太田州彦君に引き継ぐことが出来た。この太田州彦君も翌年の天城高校の弁論大会で優勝し、早島中学の名声に磨きを掛けて呉れた。
 なお、この久保田先生は私が早島中学を卒業して30年以上になるが、その後転任された各学校で弁論部を指導され、優勝回数100回近くになり,今では岡山県下では誰一人知らない人のない程、有名な弁論の神様になって定年退官され、奥様の位牌と共に世界の仏跡巡りに精を出しておられると聞く。 

 その二は、谷本先輩達が早島中学を卒業して高校生になった年の夏休みに弁論部で練習した部員達を集めて、天然記念物の象岩で有名な六口島で三泊四日のキャンプ生活を営まれたことである。このキャンプは一年上の学年が主体となって企画されたものであり、高校入試の束縛から解放された高校一年生が青春を謳歌する意味のものであった。幸いなことに、弁論大会で優勝し、先輩の築いた名声を守った私も、仲間に入れてやろうという先生の計らいで私もこのキャンプに参加することができた。このキャンプ生活の中で、私は色々な人生勉強をする機会を与えられた。長いようで短い貴重な青春時代の思いで深い数コマとなったのであるがその一つが、このキャンプで本格的な囲碁の打ち方の基本を教えて貰い、囲碁がどのようなゲームであるかを知ったことである。

 その三は、久保田先生自詠の歌集を中学二年の時、戴き、人それぞれに、その時々の感情や、感傷、印象を歌にしたり、詩にしたり、文章にすることの大切さを教えられた。先生の歌集は、奥様との恋愛時代の相聞歌が中心であったが、非常な刺激と感動を受け、自分も何時の日か必ず、自分の著作、自分の歌集を発行しようと心に決めたのである。

 その四は、先生から人を愛することの大切さ、恋愛感情の素晴らしさということを教えられたことである。どちらかといえば、生真面目で、律儀な性格の私は傍目からは、石部金吉の朴念仁と見られがちである。相聞歌集を下さったり、弁論大会の練習をさせたり、キャンプに誘って下さったりしたのは、私のこのような性格傾向に影響を与えてやろうと意図された教育的配慮があったのであろうと感謝している。「君の年令で好きだと思う女の子がいないことはない。その感情は、何らかの形で素直に表現しなくてはならない。それが文学になり、人間を成長させる肥料になる。もし君の同級生の中に恋愛感情を持っている人がいるなら、何時でも相談にのってあげるし、提灯持ちもしてあげるよ」と言われたことがある。当時から規範意識と道学意識の強かった私は恋愛問題で先生のお世話になることはなかったが、生徒それぞれの個性を見抜いて、適切な助言をされた久保田先生は優れた教育者であると尊敬している。残念ながら、先生とは最初に手解きを受けただけでその後囲碁で対戦したことがない。

 囲碁にしろ、将棋にしろ少年期に覚えれば、相当腕も上がるのであろうが高校時代は囲碁将棋に馴染む機会が皆無で、再び囲碁に触れたのは大学に入学してからである。
 京都大学に入学して宇治寮で生活するようになった時、寮生仲間で腕自慢が娯楽室に集まって、囲碁を打っているのを見て、興味が沸いた。当時寮生の中で初段程度の実力を持っていたのは、猪原伸彦、斉藤万之助、岩見清次松岡直方等の諸君であった。加茂川喜朗、中田克彦、山口英雄、春日 進君等は私と同様に囲碁の打ち方を知っているという程度の初心者であった。斉藤万之助君や猪原伸彦君が対戦しているのを観戦しながら、囲碁の面白さ奥行きの深さを知った。斉藤君に井目置いて何回も対戦したが、歯がたたなかった。

 宇治寮から吉田寮に移ってからは、囲碁の強い新入寮生が加わった。杉山勝彦君、池田裕夫君、池谷 浩君等である。吉田寮で覚え、腕を上げた寮生に高橋 健、沖本一宏、水島章隆、渡辺正美、山本哲彦、大場克彦、八本木 浄、斉賀 修、重川直広、安田清彦君等がいる。昭和61年の秋に安田清彦君の招きを受けて、青山の碁会所でかつての宇治寮、吉田寮の同窓生が数人集まり、旧交を温めたことがあるが、猪原君、安田君、高橋君、水島君、中田君、小生で数局打った。この時は猪原君が日本棋院の六段の免許を貰った祝いも兼ねていた。中田君四段、安田君三段、高橋君初段、水島君初段の有段者ばかりで昔の仲間がそれぞれの道で活躍しながら囲碁でも力を付けているのに感銘を受けた。その中田君も鬼籍に入ってはや7年程になる。月日が経つのは速いものである。

 旭硝子時代には会社で囲碁を打った記憶がない。環境が飲むか麻雀かテニスか野球かというものであったから、自ら機会を求めて囲碁相手を捜し腕を磨くということをしなかった。たまに岳父と四子置いて対戦するぐらいのことであったから、力がつかないのは当然と言えば当然のことであるが、久し振りに同窓生に会って、昔同程度の力で張り合って勝ったり、負けたりしていた相手なのに、実力に差がついてしまった自分を発見したとき、一抹の寂しさを感じると同時に、これからでも遅くないもう少し強くなろうと決意を新たにしたものである。

 ここ12~3年ほど横浜信用金庫潮田支店の同好会から独立した棋道会に入会し、月1回の例会に参加しているが、皆さん強くて中々勝てない。勝っている碁を終盤に凡ミスで負けるケ- スが多い。棋道会に入会したので少し強くなり、せめて3段ぐらいにはなりたいと思って、新聞の棋譜を切り抜いて並べてみたり、解説書を見ながら石を並べているが思うようにいかない。 会社を卒業して自由人の身分になったのだから今度こそ本気で、囲碁に力を入れようと思っているのだが、パソコン通信を始めたり、世界漫遊旅行に出掛けたりとそれなりに忙しい。それでもそろそろ吉田寮の仲間が、会社を卒業する年代になってきたので、つい最近二カ月に一回、京浜地区の同行の士7~8人が集まっては旧交を温めながら囲碁を楽しむ会を発足させた。それにつけてももっと強くなって相手をギャフンと言わせてやりたいと密かにビデオを見たりして、特訓に励んでいる今日この頃である。

 囲碁に関する格言はいろいろあるが、私が最近身につまされて感じていることをいくつか挙げてみることにしよう。
 1) 勝っている碁を勝ちきるのは難しい。優勢な碁には緩みと欲が禁物。 2) 二手攻めたら一手守れ。攻めのみに急だと必ず崩れる。
 3) 切る前に必ず「しちょうは」と顧みよ。無意味な切りは敵を助ける。 4) 巨石を取ろうと思うな。巨石を逃がすと被害が甚大。
 5) 「こういけば、こうくる、そこでこういく」の三手読みの励行。
 6) 目数を数える習慣をつけよ。計算なしでは勝負に勝てない。
 7) 欠け目を作らず欠け目を作らせよ。
 8) 上手を怖がるな。下手を侮るな。

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我が愛用の一品                            

             
 机の上の筆立てに一本の耳掻き棒がある。茶色の革製のサックの中に入れられているこの耳掻き棒は、銀製でゴルフクラブに擬して作られており、永年の使用に耐えて表面が酸化し、黒色に輝いている。耳掻きのサックには、金色の字で、1971.10.19.ホールインワン記念・相模原CCアウト3番147YD:K.S と記されている。今から27年昔、関西から横浜へ引っ越してきてから間もなく、同業者のK.S 氏から記念に戴いた物である。

 1971年10月19日に行われた同業者のゴルフコンペでK.S 氏と同じ組になった私は三番ホールで、KS氏より先にショットしたのであるが、運良くピン側1mにワンオンすることが出来た。

「ナイスオン」の声とともに拍手が沸いた。脱帽して答礼したとき、急に耳が痒くなった。小指を突っ込んでほじくり、痒みが止まった時K・S氏がショットした。この時のショットが見事なホールインワンとなったのである。 ホールアウトしてからのパーティーで、お祝いを述べることになったとき私は耳が痒くなると何か良いことが起こるという即興的なスピーチをしたのである。

 この私のスピーチにヒントを得たということで、K・S氏はゴルフ仲間への記念品として銀製のゴルフクラブに擬した耳掻きを調整し贈呈されたのである。以来、この耳掻き棒は我が愛用の一品となったのであるが、考え事をしたり、判断に迷ったりしたとき、この耳掻き棒を取り出して使用すると不思議に良いアイディアが閃いたり、適切な判断ができるから不思議である。    

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スミスとマルクスの勝負                 

 予てからの念願がかなって、時間や仕事に制約されない自由人として、世界各国を巡り歩く夫婦二人旅ができるようになった。
 メキシコから始まり、東ドイツ、チェコ、オーストリア、ハンガリー、ミャンマータイと廻ったところで、管見にすぎないが、富裕と貧困、発展と停滞、自由と統制、伝統と刷新ということについて考えさせられた。

 東ドイツのドレスデンはエルベ川の川畔に位置する美しい街である。十六世紀以降ザクセン王国の首都として発達したが、アウグスト一世、通称アウグスト強王(一六七十~一七三三) の時代に繁栄した。この王の在位中にドイツバロック建築の傑作、ツヴインガー城やビルニッツ城が建てられた。世界的にも貴重な絵画のコレクションやマイセンの陶磁器の開発と発展も同王の時代に行われた。

文化の都ドレスデンは多くの芸術家を輩出し、かつ迎え入れた。シラーは「ドン・カルロス」をこの地で書き上げたし、リヒャルトワーグナーは「さまよえるオランダ人」や「タンホイザー」をこの地のゼンパーオペラ劇場で初演した。「二人のロッテ」で有名な作家エーリッヒはドレスデンの生まれである。 「エルベ川のフィレンツェ」とも謂われたこの美しいドレスデンの街は第二次世界大戦中の一九四五年二月の空襲で、一夜にして灰塵に帰した。戦後の復興は今なお続いているが、ツヴインガー城始め、多くの歴史的建造物は散乱した瓦礫を集めて、あたかもジグゾーパズルのこまを嵌め込むようにして復元されたのである。 

 それは、それは気の遠くなるような作業であるが、輝かしい歴史と伝統ある文化遺産に誇りを持つ市当局は、根気よく元通りの姿を蘇らせている。フラウエン教会は現在、このような復元工事の最中である。
 ところでドレスデンの街中には古い建物が沢山残されて実用に供されているが、中には壁が剥げ落ちたり、硝子窓が壊れたままになっていて無人であることが、一目で判る建物があちこちに散見される。美しい街並であるだけにこれは痛ましい光景である。  

聞いてみると、一九八九年の自由化以前の時代に、自分の所有物でない建物の補修には、居住者自身が自らの手で補修する程の熱意がないし、国や市にも補修にまで予算が廻らないという財政事情があって荒廃が進んだということである。しかも、自由化の時代がきて経済の混乱のため、東側では元の国営企業が倒産したり閉鎖されたりで、職を失った市民が西側へ移住し、住民のいなくなった建物の廃墟化が進んでいるというのである。

 マイセンの陶磁器工場の見学を終えて、広大で豊穣な田畑や林を窓の外に眺めながら、バスはドイツとチェコの国境近くにさしかかった。自動車道路の道端に美しく着飾り、厚化粧の若い女性がちらほらと佇んでいる。一時停車した自家用車の運転手と窓越しに話をしている者もある。ガイドの説明によれば、自由化以降に出現したチェコの売春婦であるという。言われてよく目を凝らすと、簡易宿泊所のような建物もあり、店先にはやはり着飾ったそれとおぼしき女性が椅子に腰掛けていた。   

 自由化の影響で、統制からの解放を謳歌するためか或いは、経済混乱のため職を失ったためなのか判然とはしないが、若い女性が春をひさぐために国境線で道端に立つようになったのである。   

 プラハの街も美しい街並である。 プルタワ川の両岸に広がる街は「百塔の街」とも称えられ、塔が林立しており、バロック、ゴシック、ルネッサンス、アールヌーボー等中世以来のあらゆる建築様式をみることができるのであるがここでもドレスデンで見たと同じような、無人化した廃屋が散見されて痛ましい光景を点映している。これと同じようなことはブタペストの市内においても散見された。  

 オーストリヤのウイーンは森が深くて、水が綺麗な音楽の都であり、ハプスブルグ王朝の文化遺産を温存している歴史の街である。政治的には中立を守り世界の趨勢に立ち遅れることなく先進国の都市として繁栄している。  

 ミャンマーのヤンゴンで見たシェッダゴンパゴダは金色に輝き、天高く聳える沢山の塔を持つ、華麗で巨大な寺院であった。何度もの地震に耐えてきたこのパゴダの原型は、十五世紀中期に栄えたパゴーの女王シン・ソービューによって完成されたという。

 このパゴダの華麗と荘厳に比較して、街中を走行する日本製の中古車のトラックバスは常に、乗客で鈴なり状態であり、乞食や多くの幼い子供の物売りが観光客に群がる貧困さは痛ましい。一トン積みのトラックに四十人乗客を詰め込んで走るのが、通常であるという。また街中を往来する車は全て日本製の中古車であり、日本の看板がそのまま残っている。例えば、横浜市の市バスがヤンゴン市内を走っているとの錯覚に陥るが如きである。

 ミャンマーの古都ペグーのビルマ料理屋で昼食をしたときのこと。二階へ上がる階段の入り口で、民族衣装を纏った四~五歳と見受けられる女児が、入ってくる日本人のお客にひとりひとり丁寧にお辞儀をしていた。その店には冷房設備が申し訳のようについてはいたが機能しておらず、大きな扇風機が生暖かい空気を、徒にかき混ぜていた。部屋に入った途端、異臭が鼻をついて、吐き気を催しそうになる程であった。     
 それでも料理が運ばれてくると、珍しさも手伝って、箸は皿から口へと自然に動いていた。そのうち涼しい風が背後からするので振り返ると、先程入り口で丁寧にお辞儀をしていた女児が額に汗しながら、団扇で一生懸命私を扇いでいるのである。親に強制されて、そうしているのか、自発的に親の家計の一助にと思ってそうしているのか、定かではないが、そのいたいけなさに、自分の孫の姿が重なって、思わずなにがしかのチップを握らせていた。これを受け取った時の彼女の嬉しそうにはじける笑顔はあどけなく、とても美しかった。

 社会主義体制をとり、今なお軍事政権下にあって厳しい統制の中で貧困に呻吟するミャンマー人の苦悩を感じる。

 タイのバンコックは近代化され、高層建築が立ち並び繁栄を誇っているかのように見える都市である。 

 タイのアユタヤで、ワットマハタード、ワットラハバーナ等の遺跡を見学した。これらの遺跡は十四世紀にシャムに興ったアユタヤ王朝によって建立され繁栄した仏教寺院であるが、十八世紀に創建されたビルマ王朝のアラウンパヤーによって攻撃され、一七六七年にアユタヤの王宮が陥落炎上したときに、一緒に破壊された。

 現在では、陸続きで隣接している両国でありながら、ミャンマーとタイではその近代化の進み具合や経済的な繁栄度において、格段の差が生じている。タイは世界の先進国の仲間入りが出来る程に発展しているが、ミャンマーは世界の最貧国の一つに数えられ、まだまだ多くの難関を潜らなければならない後進国であるといえよう。


僅か七か国の表面だけから見た、旅行者としての瞥見にすぎないが、豊かな国と貧しい国の違いは何に由来するのか考え込まざるをえない。
 一九一七年のロシア革命から一九九一年のソ連崩壊まで、七十年余の壮大な社会主義の実験は文化遺産の破壊と精神の荒廃という負の遺産しか残さなかったような気がしてならない。

 一九八九年に東ヨーロッパ諸国で市民と労働者の変革運動が相次いで、ソ連型社会体制を崩壊させていったが、社会現象としてはドレスデンやプラハやブタペストで私が垣間見た、建物の荒廃であり、売春婦の出現なのであろう。

 豊穣の大地に恵まれ、歴史上の一時期には隣国のタイを支配下においたこともある、ミャンマーの現在の姿は貧困と停滞そのものである。私が瞥見した社会現象は乞食や子供の物売りであり、乗客で鈴なりのトラックバスの往来である。これは頑に、社会主義に拘り、軍政を敷いて民衆の苦悩を省みない、為政者の無策無能に起因するものであると言わざるを得ない。

 私流にいえば、見えざる神の手にその支配を委ねた市場原理と自由を、基本理念とするアダムスミスと、生産手段の公有化と労働者階級の独裁を、基本理念とするマルクスとでは、アダムスミスに軍配が上がったといえるのではなかろうか。

(筆者注)本記事はグロ

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ポット出法の授業                                    

 「さあいいか、今日皆に書いて貰った作文の中で参考になるのを一つ紹介しよう。これから読んでみるからよく聞いておくように」と言われて、新進気鋭の久保田修先生が一つの作文を声を上げて読み始められた。

『日は暮れてくるし、あたりには人影さえも見えない。坂を下ってきたところで自転車のチェーンが切れてしまったのである。・・』 先生の声を聞いて私はびっくりした。なんとそれは制限時間がきたため、尻切れとんぼで自信のないままに提出した私の作文なのである。課題は「私の或る日曜日」というものであった。私は最初何を書いてよいか分からず、思い悩んだあげく制限時間近くなってやっと一つの事件を思いだした。昨年秋の或る日曜日に一山越え、五里程離れた母の実家の祖父の許へ自転車に乗って柿を貰いに行ったときのことをである。
 
 荷台の竹籠に柿を一杯積んで貰って家路を急いでいるとき人家の無い山中で自転車が壊れて立ち往生してしまった。その時の名状し難い心細い気持ちを書こうと思ったのだが、意をつくせぬ儘に時間がきてしまって纏まりのつかないものを提出せざるを得ないという羽目に陥ってしまった。 私が何を書くか思い悩んで呻吟しているとき周囲の級友達は既に書き終えていたから、その時の私の焦燥感は今思い出しても年を経て蘇ってくるのである。
 昭和26年私が岡山県の早島中学へ新入生として入学して間もなく、初めての社会科の時間の時のことであった。
 出来の悪い例として教材に取り上げられてしまったと私は覚悟したものである。作文は小学校の頃から苦手で時間ばかりかかっていつも叱られていたからである。

 ところが意外なことに先生はこう言われたのである。
「君達はポット出法というのを知っているかな。知っている人は手を上げて」
「・・・・・・・・・」
「なるほど誰も知らないようだね。この作文はポット出法を使って上手く書かれている。『日は暮れてくるし、あたりには人影さえも見えない。坂を下ってきたところで自転車のチェーンが切れてしまったのである』と言われると君達聞いていてさあ次はどうなるのだろうと思うだろう。
 こういう風にいきなりポット事件を持ち出してくる書き方を先生はポット出法と呼んでいるのだ。他の人達の作文は君たちが日曜日に朝起きて寝るまでに何をしたかを真面目にかいてある。朝、起きました。歯を磨いて顔を洗いました。朝御飯を食べました。便所にいきました。友達のところへ遊びにいきました等々。だがこれでは当たり前のことで読んでいて面白くない。しかしこの作文は次はどうなるのだろうという興味と期待を読む人に与えるだろう。こういう書き方をしなければならない。

 文章を作るには起承転結ということを考えて書かなければ良い文章は書けない。今日は『起』の良い例として『ポット出法』のことを話したが次回は『承』について君たちの作文から例を引いて説明することにしよう」

 私は面目を施した上にこのことがあって以来文章を書くということが好きになったし楽しくなったのである。
 中学2年に進級したある日の授業で人間は人それぞれに、その時々の感情や感傷、印象を歌にしたり、詩にしたり、文章にしたりすることの大切さを説かれた。そして自詠の歌集の中から何点かを披露された。非常な刺激を受けた私は特に先生に請うてその歌集の一部を戴いた。その歌集は奥様との恋愛時代の相聞歌が中心であったが、これに触発されて自分も何時の日か自分の著作、自分の歌集を発行しようと心に決めたのである。

 また先生はその頃この中学に弁論部を創設され、見込みのありそうな生徒を集めてはテーマを与えて原稿を書かせ、これを修正加筆したうえで、演説の仕方を指導された。校内で弁論大会を開き、入賞者を特訓して、天城高校で開かれる学区内中学弁論大会に出場させ初出場にもかかわらず、優勝の栄誉を獲得した。優勝したのは3年生の谷本先輩であった。
 谷本先輩が卒業してから、白羽の矢をたてられた私は先生の特訓を受けて、「38度線の思い出」という演題で出場して翌年の大会で優勝した。先輩の獲得した「早島中学に弁論部あり」の名声を汚すことなく継承し次の学年の太田州彦君に引き継いだ。この太田君も翌年の大会で優勝し母校の名声に磨きをかけてくれた。

 この久保田先生は、その後転任された先の各学校で弁論部を指導されて優勝回数百回以上を数えるに到り、岡山県下の教育関係者の中で誰一人知らない人はない「弁論指導の神様」となり10年ほど前に定年退職された。
 今は亡き奥様の位牌を抱いて世界の仏跡巡りをされていると聞く。 98,5,5脱稿

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 ばら寿司  


 酢でもんだ御飯の中に具として、さわら、鎮台貝、干し椎茸、干瓢、人参、銀杏等を混ぜ合わせ、ゆり輪の中へ敷きつめて、上には線切りにした薄焼き卵、紅しょうが、さやえんどうを色鮮やかに飾りつけたばら寿司。岡山県は早島町で収穫を祝って営まれる秋祭りの御馳走である。この地方では、誕生、七五三、入学、卒業就職、結納等の人生の節目毎に行われる祝い事の時に欠かすことの出来ない料理として位置づけられている。
 
 私にとってばら寿司は北朝鮮鎮南浦から早島町へ大戦後引き揚げのため、夜間銃声に怯えながら三十八度線を徒歩で突破した逃避行の想い出と結びついている。それは飢餓の旅でもあった。

 空襲の虞れがあるので疎開するため家財一切を先に送り出し、二日後には出発という日に終戦を迎えた。外地における敗戦国の国民は惨めなものである。在留日本人は手持ちの品を売り喰いしながら飢えを凌ぐ生活が始まったが、我が家では疎開地へ送り出した家財が返ってこないので売る物がない。父は出征していたので、当時七才の私を頭に四才の妹と生後十ケ月の妹を抱えた母は、女手一つで家族を養うべく、朝鮮人の経営する農園へ草取りの手伝いに出掛けた。賃金の替わりに貰ってくる白菜、大根、コ-リャン等が育ち盛りの私達兄妹三人の糧であった。必然的に栄養失調となり骨と皮だけのみじめな姿であった。このような生活が一年程続き漸く引き揚げることになった。

佐世保港へ上陸した私達一家はDDTで体中を真っ白に消毒され、長時間石炭の煙に咽びながら列車に揺られて、伯母の待つ早島町へ明け方近く到着した。表戸を激しく叩いて家人を起こし、再開の涙にくれたのである。前日がたまたま早島町の秋祭りの日であったため親戚一同を招待した残りのばら寿司を御馳走になった。この時のばら寿司の味は一生忘れられない。                          98.7.11 脱稿

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 幼年期の旅                                    

 旅という言葉はなんとなく、人をして空想の世界へ誘い、心ときめかせる作用を持っている。私が初めて、旅をしたのは、幼児の頃、両親に連れられて祖父母の待つ岡山県へ里帰りしたときである。日本鉱業の鎮南浦精練所の技術者として朝鮮に世帯を持った父が、初めて長男の私を連れて帰郷したのが、私の旅の始まりであった。この時の出来事は、鮮明に脳裏に焼き付いていて、旅という言葉を耳にしたとき、必ず思い出す情景が幾つかある。

 その一は、祖父、直次郎の背中に掴まって、川向かいの畑へ砂糖黍を取りに行ったことである。幅5メ-トル程の川には人一人が通れる程の板が、一枚渡してあって、その上を板の振動に合わせて体をゆさぶりながら器用に渡って行くのである。一歩踏み損なえば、川の中へ転落するのは明白である。川へ落ちるのではないかという恐怖が、幼い心の中に沈澱して忘れられない心象風景となったのか、或いは、幅狭い板の上を器用に渡って行く祖父のバランス感覚と運動神経が、その幅広い背中と共に頼もしさを印象付けたのかは、今もって定かではない。祖父の顔も思い出せない程遠い昔の出来事であり、他のことは全て時の流れの中で風化してしまったが、このことだけはいまだに鮮明に記憶の底に残っているのである。

 その二は、この時の帰省は秋祭りの時期にあたっていたので、祭りの鬼に脅されて、肝を潰したことである。祖父の屋敷で、砂糖黍を噛んでいると顔の先へいきなり、赤色の鬼がニュッと顔を出したのだから堪らない。傍らにいた父の胸にむしゃぶりついて、悲鳴に近い泣き声を上げたものである。私の驚きように、鬼の主も慌てて面を脱いで素顔を見せ泣きじゃくる私を宥めるのに懸命であった。周囲の大人達は爆笑していたが、このときの光景は、祭りの鬼を見る度に必ず思い出す懐かしい思いで出ある。

 岡山県のこの地方には、収穫を祝う秋祭りの時、村の青年達が鬼の装束で村や町を練り歩く風習がある。

 何故、秋祭りに鬼が出るのか史実について考証したわけではないから、以下の論述は伝聞と私の創作である。吉備の国といわれた県南には、吉備津彦命を祭神とする大きな神社が二つある。一つは吉備津神社であり、もう一つは吉備津彦神社である。吉備津神社と吉備津彦神社は吉備線の吉備津駅と備前一の宮駅を最寄りの駅として僅か一区間の距離で並立している。

 『百済の王子温羅(うら)が我が国に渡って来て、諸国を巡った後鬼の城(総社市新山)に遣ってきた。温羅(うら)は身長約四メートル、目は豹のように輝き、髪は赤色を帯びて額の上には瘤があって角のようであり、歯は上下が食い違い、物凄い様相である。その上火を吹いて山を焼き、岩を穿ち、水を汲んで油とすることが出来る。人間や猿を喰い、美しい女を奪ったりする。そのような温羅(うら)は村人達から大変恐れられていた。

 そこで、四道将軍として来た吉備津彦命が吉備中山(岡山市吉備津)に陣を張り、家来には鼓山で鼓を打たせて駆け引きをし、矢部(倉敷市庄)では矢を放って夜暴れるのを防いだ。また一瞬に百里も飛ぶ家来を遣わして岡山市足守の付近を守らせた。吉備中山の陣と温羅(うら)の籠もる鬼の城の間で戦は始まり、矢を放っても、双方の矢が途中で喰い合って落ち、勝負が付かなかった。さらに温羅(うら)は少々の傷を負ってもすぐに温泉に入って治すので、いっこうに戦力は落ちない。そこで吉備津彦命は、それらの温泉を埋めさせた(大井の粟井の湯、池田の槇谷の湯など) 。しかし、そうしている内にも吉備津彦命の勢力の方がだんだんと衰えていった。

 そのとき住吉大明神が童の姿で現れ、「一度に二矢をつがえて射よ。一矢は喰い合い、一矢が温羅(うら)にあたる」と告げた。果たしてその通りになり、このときとばかり、吉備津彦命が攻めて行くと、温羅(うら)は逃げ、姿を変えて童の姿となって、大岩の下へ隠れようとしたが、妨げられて入れなかった。そこで温羅(うら)は大雨を降らせ、その流れを利用して逃れようとした。傷の血がからくれないに拡がり、血の流水となった。( 血水川)
更に鯉に姿を変えて下るところを吉備津彦命が鵜になって喰ってしまい、ついに温羅(うら)を退治したのである。そこに社が建てられ、鯉喰宮となっている。

 温羅(うら)の首を串に刺して曝し首にした。その首は何時までたっても吠え続け、執念に燃えていた。そこで釜の底八尺掘ったところに埋めさせ、温羅(うら)が生前に寵愛していたという阿曽女に火を炊かしたところ吠えなくなったという。吉備津神社にあるお釜殿がその釜であり、現在でも吉凶を占っている。』(日本文教出版社刊、岡山の伝説より)

 桃太郎が鬼征伐をしたという民話も岡山県のこの地方の話であり、吉備津彦命の温羅(うら)退治がその源流になっていると思われるが、祭りの鬼は、桃太郎伝説に出て来る鬼のことであると考えることもできる。桃太郎伝説は岡山県、香川県の鬼が島、愛知県の犬山がそれぞれに自分のところが本家であると主張している。瀬戸内海には多数の島があり、海賊が跋扈していたであうことは容易に想像出来る。塩飽諸島は海賊達の拠点として有名である。この海賊達が鬼に見立てられ、吉備津彦命の温羅(うら)退治と結びついて桃太郎伝説の新判が流布したとも考えることが出来る。桃の産地でもある岡山県の方が桃太郎伝説の本家であるとしたほうが素直なように思う。いずれにしろ吉備津彦命の治績を讃えて、この地方の秋祭りには仮装した鬼が出るようになったのであろう。

 旅という語義を広辞林で調べてみると、故郷を離れて一時よそへ行くこととある。北朝鮮からの引き上げは私の幼年時の体験としては強烈な印象を残しているが、他の一文の中で触れていることでもあるし、「一時」という旅の要件にあてはまらないので、ここではとりあげない。

 早島小学校三年生の時の夏休みに丸千の千代子姉さんと今井のすみ姉さんに連れられて瀬戸内海の田島へ出掛けたのが、親と離れて旅した初めての経験であった。

 丸千は太田仙次郎商店の屋号である。丸千はこの地方特産の畳表の卸問屋を生業としており、父方の祖母が初代仙次郎に嫁いでいた。また母の姉が二代仙次郎に嫁いでいたので、私にとって丸千は父方からも母方からも親戚である。従って千代子姉さんは従姉弟にあたるが、私よりひとまわり程年長者である。

 田島は瀬戸内海の小島で尾道から船で小一時間程の所にある漁師の島である。この田島に先代の大叔母、太田 芳が別荘を持っていた。別荘と言っても実益を兼ねたやりかたで、留守居番の夫婦に佃煮を作らせていた。私が千代子姉さんとこの島へ遊びに行った時は、この別荘を手放す予定にしており、手放してしまうと田島へ海水浴に出掛けることも出来なくなるので、私に一度、田島を見せておいてあげようということであったらしい。千代子姉さんは毎年、夏には海水浴に行っていたので、私と今井のすみ姉さんが付いて行くなら、親が行かなくても大丈夫ということで私が同行者に選ばれたのかも知れない。

 私の育った早島町には、子供達が水遊び出来るような川も池も近くになかったので、海辺で数日間を過ごせることは無上の喜びであった。戦後間の無い頃であり、水着などという贅沢品は求めようにも売っていなかった。男の子は当時サポーターと称していたが、布切れで出来た三角形の金隠しを付けて海や川に入った。女の子はシュミーズとズロースを着用していた。

 田島の海岸は遠浅で海水浴にはもってこいの地形であった。飛び込み台も一つ設けられており、島の子供達がわがもの顔で利用していた。最近の海水浴場と違って、島の子供以外には水浴客も見当たらず、閑散とした理想的なリゾートであったと思う。私はやっと犬掻き泳ぎが出来る程度であったので飛び込み台までは行くことが出来ず浅瀬でバシャバシャやっていた。今井のすみ姉さんが泳ぎは一番うまく、飛び込み台からも飛び込んでは沖の方から手をあげて岸辺の私の方へ合図していたのを覚えている。千代子姉さんは、飛び込み台までは泳いで行くが飛び込みをするほどの勇気はなかったようである。その内、潮が引き私の犬掻き泳ぎでもたどりつける距離に飛び込み台が近ずいた時、今井のすみ姉さんにけしかけられて、何回も塩水を飲み込みながらほうほうのていで飛び込み台まで辿りついた。飛び込み台の脚につかまりながら、今井のすみ姉さんにクロ-ルの要領を教えてもらい、海岸へ向けて何回も練習をした。水面から顔をあげて呼吸をすることができなくて、クロ-ルは諦め、呼吸のしやすい平泳ぎを教わった。

 今井のすみ姉さんは当時、倉敷高女の二年生であったが、海水浴を終わって、宿へ帰ると私と一緒に恥じらいもなく風呂へ入って塩水を洗い流していた姿が、漸く生え揃った恥毛とともに強烈な印象を私の脳裏へ刻みつけた。それは春に目覚める前触れの感受性がしからしめたものであったのかもしれない。

 暗闇の中で眼鏡を外して、周囲の光景を見るのと同じような不鮮明さで、微かに思い出すのは、田島から隣の島へは引き潮のときに、歩いて渡れるようになる瀬を満ち潮の時船で渡りながら、船頭からその旨教えられ、信じ難い気持ちになったことである。

 田島行きの旅はこの時が最初の最後になってしまったが、閑散とした海浜で海水浴をしたこと以外には、どんな家に泊まったのか、留守番の夫婦がどんな顔の人であったのか、どんな物を食べたのか、行き帰りの乗り物がどんな状況であったのかも覚えていない。長い歳月の流れの中では、強烈な印象だけが風化を免れて、研ぎ澄まされ記憶の中へ沈着するようである。

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定年退職万歳           


拝啓 木々の緑が鮮やかに目に映える時節となりました。
私儀
五月二十一日還暦を迎え、○○年間勤務した☆☆株式会社をかねてからの希望通り、定年退職し第二の人生へ船出することになりました。在職中公私にわたり御指導を頂き且つお世話になりましたことに対し深く感謝し厚く御礼申し上げます。
お蔭様で二人の娘達も嫁ぎ、それぞれに愛情豊かな家庭生活を営んでおりますし、私達夫婦とも目下健康体なので、後顧の憂いなく年金生活を迎えることのできる幸せを感謝しております。
これからはこれまでに社会から受けた恩恵や皆様から戴いた御恩に感謝しながら、多少なりとも社会のお役に立てるよう、ボランティア活動等にも積極的に取り組んでみたいと考えております。今後は趣味の方面にもかなりの時間が割けそうなので、生活を楽しみながら心豊かな人生が全う出来ればいいがなあと願っております。
最後に皆様の御活躍を祈念しますと共に、今後とも従前にも増した御厚誼の程をお願い申し上げます。         敬具
 
・還暦の送別会や五月晴れ      
平成九年五月吉日          
楽しきかな我が人生    
早島  潮  

この挨拶状を投函した時、私は名実共に自由人になったことを実感した。その足でこの日以降一年間だけ住まいしようと予て用意しておいた京都市内中央部にあるマンションへ妻と一緒に向かった。京都で過ごした大学時代に廻りきれなかった史蹟を探訪し、見学出来なかった四季折々の祭りや行事を堪能するためである。例えば若葉の高尾、葵祭り、祇園祭り、大文字焼き、時代祭り、鞍馬の火祭り、大原三千院の紅葉、嵐山の三船祭り、城南宮の曲水の宴、雪の金閣寺、東寺の終わりの弘法、梅の北野天神、桜の醍醐寺、京料理京の踊り等々と毎日が忙しい。健康の為、地図を片手に一日最低一万歩以上歩くことを日課としているので乗り物は市バスと地下鉄以外は殆ど利用しない。スニ-カ-を2足履き潰した程である。訪ねる先々で興趣が湧けば俳句をひねりスケッチブックには下手な水彩画を蓄えた。

京都を足場として熊野古道を歩いたり、テレビドラマ甘辛シャンを見れば丹波篠山へ行ってみたりと近畿各地の観光名所を渉漁するのも楽しいものであった。

その一方で月に二回横浜の鶴見川で催される大学時代のボ-ト部の「OBが漕ぐ会」の練習にも駆けつけてはエイトで汗を流した。約一時間半の激しい運動の後、ビァービレッジで旧友達とジョッキを傾けながら対東大OB戦に関する作戦を語り合ったり、久しく途絶えている琵琶湖周航を復活させる企画の打ち合わせをしたりするのも楽しい一時であった。こうしたとりとめのない談笑の中から夢のような話が飛び出すことがある。それは、英国のテームズ川で行われるヘンリーレガッタにOBクルーを編成して参加しようとか大学後輩の学生諸君が冬場の練習も兼ねて遠征するハワイアンレガッタにOBも応援に駆けつけ、出来ればOBクルーとしてレースに参加しようというものであった。ところがこれが実現したのである。

昨年暮れの十二月二十四日から新年一月五日まで学生クルー十五人とOBクルー十四名がハワイへ遠征し、大晦日と正月三日間にかけてアラワイ運河で行われたロイヤル・ハワイアン・ローイング・チャレンジのレースに参加した。 レースはハーバード大学、ワシントン州立大学、京都大学、カルフォルニア大学,オレゴン大学、ウエストミニスター高校A、ウエストミニスター高校Bハワイ市民ボート同好会、プリンストン大学OB、京都大学OBの10クルーで行われた。参加クルーを男子学生クルー、女子学生クルー、OBクルーの三グループに分類してハンデキャップが設けられた。二艇を並べて一五百メートルと五百メートルの二レースを続けて競い合う方式で行われた。

四日間で十レースに挑戦し、善戦虚しく一勝九敗の結果に終わったのであるが、還暦前後のOB達が体力消耗の激しいレースを誰一人故障することなく漕ぎ切って、爽快な達成感を味わい全員無事帰国したことは一種の奇跡であると言えよう。

OB達は勤務の都合もあり、選手団の滞在期間中、遅れて駆けつける者あり早く帰国する者ありと慌ただしい出入りであったが、利害打算の渦巻く俗世間のしがらみから逃れて久し振りの合宿生活で若き良き時代を偲びながら英気を養ったのである。

今年は毎月一回ずつ十日間前後のツァーを選んで参加し、世界各国を歩く夫婦二人旅を、俳句手帳とスケッチブック片手にエンジョイしようと計画している。いくら喰っても一升半天下をとっても一畳半と喝破した政治家があったが全く同感である。楽しき我が人生に乾杯。

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