神秘の王国ブータンNo9・・・民族舞踊のビデオクリップをアップした。


神秘の王国ブータンの旅ではビデオ撮影もした。
特に民族舞踊の記録としてその声と動きを記録に残しておこうと考えたからである。

youtubeのサイトを利用すればこの動画を公開することも出来る。

ところがビデオテープ→動画のファイル→youtubeにアップロード
と手順を記せば簡単であるが初めての試みなので実際にやってみると、これがなかなか面倒であり膨大な時間を要するのである。

試行錯誤を繰り返してやっと乙女達が神に感謝する歌のビデオクリップをアップロードすることが出来た。

ユーチューブへ動画をアップする手順もなんとか理解できるようになった。日本での公演の実績をもつ舞踊団の仮面舞踏をアップした。この舞踊団の名はクジュ・ルナンと称し孔雀の羽という意味である。仮面舞踏は季節の祭り=ツェチュに際して催される。

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神秘の王国ブータン旅No8・・・ピカサでウエブアルバムを作った。

ブータンの旅では民族舞踊をビデオで撮影した。You Tubeで動画をアップしようとトライしているがなかなかうまくいかない。試行錯誤の過程で写真アルバムを簡単に編集できるピカサという無料ソフトがあるのを知った。

試しに作成したのがピカサで編集したブータンの旅のアルバムである。使い方も飲み込めたので逐次写真の説明を追記していく予定である。

故障の時の用心にデジタルカメラを二器持参した。予備用には富士写真フィルムの旧式ファインピックスであるが日付セットの確認を怠ったために写真の配列が実態と異なってしまった。次回は日付のセットの確認が肝要ということを学習した。

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神秘の王国ブータンNo7・・・旅の印象の纏め

平成21年6月20日(土)
8日間のブータンの旅を終えて、鶴見の自宅に辿りついたのは午前11時であった。

 史跡や訪問先の静止画像の説明や感想はバックデイトしながらゆっくりと時系列に沿って記述していくこととし、今日のところは取り急ぎ記憶の薄れないうちに旅の全体的な印象を纏めておこう。                                     
ウイキペデイアに前国王の人柄を説明した以下の一節がある。

また2009.6.5付けの産経抄にはブータンの雷龍王3世のことが以下の如く紹介されている。

以下ウイキペデイアからの引用1989年2月24日、34歳のジグミ・シンゲ・ワンチュク国王が昭和天皇の大喪の礼参列のため、民族衣装「ゴ」の礼服姿で、数人の供を連れて来日した。他の国の首脳の多くが、日本から経済的な協力を得るために葬儀の前後に日本政府首脳と会談した。しかし、ブータン国王はこうした「弔問外交」を行わず、大喪の礼に出席して帰国した。新聞記者が理由を尋ねると、国王は「日本国天皇への弔意を示しに来たのであって、日本に金を無心しに来たのではありません」と答えた。一方、日本政府はブータンの正装である「刀」を銃刀法違反として預かったため、国王は丸腰のまま葬儀に列席した。ブータン国民は、平民のような姿にされた国王の姿を見て嘆き悲しんだ。 引用終り。                                              
以下産経抄からの引用
23年間にわたって発展途上国の経済開発をサポートしてきた、西水美恵子・前世界銀行副総裁は、数えきれないほどのリーダーと出会ってきた。その西水さんをして、「とことんほれた」と言わしめたのが、ヒマラヤの小さな王国、ブータンの雷龍王3世だ。
 ▼1952年に王位に就くと、翌年に国会を設立するなど、政治改革に取り組んだほか、農奴を解放し、長かった鎖国を解いた。44歳という早世が惜しまれる。弱冠16歳で後を継いだ4世は、国民総幸福(GNH)という理念を打ち出したことで知られる。
 ▼初めて外国紙のインタビューを受けたとき、国民総生産(GNP)よりGNHの方が大切だと、語呂合わせをしたら、定着してしまった。4世は笑いながら、西水さんにそう打ち明けたという(『国をつくるという仕事』英治出版)。
 ▼国民の大多数が王制の存続を望んでいるというのに、4世は民主化をさらに推し進めた。行政権を手放して、首相職を置き、初の総選挙を成功させ、成文憲法の制定へと導いた。何より国民を驚かしたのが、3年前に突然、26歳の皇太子に王位を譲ったことだった。   引用終わり                                
上記二つの引用を踏まえて、筆者の印象を一言に纏めれば、国民総幸福量という指導理念を持つ賢明な国王に統率されて、自立の精神を持った誇り高い国民が伝統と自然を守りながら平和に暮らしているのがブータンという国なのだということである。


そのことを具体的に説明すれば管見ながら旅行中筆者が至るところで目撃した以下の事象である。                                                 
1.物乞いがいない。                         
2.商品の押し売りがない。                                   
3.人物の写真撮影に気持ちよく応じてくれる。中国やインドなどではしつこくチップを要求されて辟易させられるがそれがない。 

4.国王を国民が敬愛している様子が随所に窺える。                        
5.ゾーンには敬虔な信者達が参集し、或いはマニ車を廻しながら、或いは五体投地しながら仏陀に敬虔な祈りを捧げている。

6.ゾーンには6歳以上の僧侶が多数住み込んで修業している。                   
7.大人と学童とを問わず民族衣装を愛用している。                        
8.交通信号がない。首都のテインプーにさえ信号器がない。               
9.田植え風景は一族総出の共同作業であり日本の昭和20年代まで見られた農作業の原景が残っている。
10.インドから多くのインド人が出稼ぎに来ている。
11.野良犬が大切されているので安心しきって至るところで腹を見せながら昼寝している。

パロの野菜市場


プナカ・ゾン



キチュ・ラカンより国立博物館を望む


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神秘の王国ブータンNo5・・・国の指導理念と国民生活

平成21年6月17日(水)
 朝8時にウオンデイボダンのYTホテルを出発し、来た時と同じ道の復路をテインプーへ向けてバスは疾駆するが曲折の多い田舎道なので最後尾の座席の揺れと振動は激しい。小型のバスを観光用に転用しているのでシートベルトも装備されていないし冷暖房機器も装着されていない。バスが段差を通る度に体が跳ね上がりウッといううめき声が自然に洩れ冷汗が吹き出す。炎天下の日中走行の車内はとても暑い。

観光立国としての発展を国策とするならばこの国は道路の整備と観光客の車中の安全対策と車中温度管理対策に課題があると思った。ついでに言えばゾンはじめ観光地における手洗い所の新増設が喫緊の課題であろう。

バスで移動中、ガイドのシェラブさんからブータンの国の指導理念であるGNH国民総幸福について簡単な紹介があった。
纏めれば四個のキーワードに集約できる。
1.自然の恵を大切にする
2.伝統の風俗や文化を大切にする
3.良い政府であること
4.自給自足

短い滞在であったが、これは類例のない斬新な国家経営の指導理念であり国王を敬愛する国民が国是の実践に努力している真摯な姿を随所に垣間見ることが出来たと思う。

上記GNHの話題に関連してブータンの現況に付いてガイドから聞き出した事項を列記してみると

1.医療制度について
ブータン国民は全て無料で医療を受けることが出来る。ブータンでは受けられない高度な医療を外国で受ける場合でも無料である。
外国籍の者がブータン在留中に医療機関で受けた治療費は本人負担なしである。

2.税制
・勤務者の所得税は所得により税率は異なるが最高税率は8%である。
・タクシー運転手は所定の登録料を納めておけば売り上げに対して税金はかからない。
・自営の農業従事者には税金は課せられない。

3.平均月収
日本円で約3万円

4.教育費は大学まで無料である。

5.出家者の数は全人口の約2.5%である。

6.原資は国連からの援助が大きいし国で経営する水力発電の電力をインドに輸出した収入も大きい。

筆者の印象ではこれほどの福祉政策を実現するには原資の面の説明が怪しげに思えた。

本日のメニューと訪問後のコメントは以下の通りである。   

・テインプー市内の紙漉き工房見学
工房へ辿りつくまでの曲がりくねった細い道を、脱輪することなしにバスを運転するには高度の技術が必要である。

紙漉き工房

原料の三椏とじんじょうげの皮を煮る釜

この道17年の紙漉き職人

工房には島根県で石州和紙の技術を学んだという日本人そっくりの顔をした日本語を流暢に喋る次期社長の営業部長がいて、工程の説明をしてくれた。黒い着衣の人。

・民族博物館見学
                     
テインプー市内にある。 ここは王妃の発案と出資で伝統的なブータンの民家をそのままの姿で保存し調度品や生活用品、衣装などを収集保存している。

交通整理中のお巡りさん。

首都ティンプーにも交通信号が一つも設置されていない。


・パロへ移動

僅かに顔を見せたチョモラリ


                                          
・国立博物館見学 

当初はゾンの見張り台として設置したものであるが、歴史的建築物として保存するため博物館に転用された。

・パロゾン見学

国立博物館から見下ろす位置にあり宗教施設と行政施設が一体化したゾン

・国技の弓道の実技体験                  
射程距離15m程の弓場で竹製の弓を用い試射したがなかなか的には当たらない。  

・パロの宿泊先のマンダラリゾートに到着。

国王の記念写真は至る所に掲示されている。これはバンコクで開催されたアジアの25ケ国の王族会同の記念写真。ブータン国王と今上陛下と皇后が出席されている。

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神秘の王国ブータンNo4・・・プナカとウォンディボダン

平成21年6月16日(火)
二連泊したホテル・ドラゴン・ルーツともお別れである。荷物の整理を終えたころモーニングコールの電話が鳴った。6時30分である。                        

 本日のメニューに従ってコメントすれば以下の如くである。 

・シムトカ・ゾンの外観観光=チベットの高僧ガワン・ナムゲルが1629年に建てた城(ゾン)で現在は仏教とゾンカ語の学校として存続している。

テインプーのホテルを出発して最初の小休止でシムトカゾンを遠望した。が何故か撮影した筈のシムトカ ゾンの写真が消滅していた。不要の写真を消去した時、間違えてシムトカゾンの写真も一緒に消去してしまったものらしい。便利なようでうっかりしていると貴重な記録まで失ってしまうのがデジタルカメラであると知った。

シムトカゾンについてはウエブ上で見つけた写真のURLを記すに留める。                    

・海抜3,150mのドチュラ峠越え=晴れであればヒマラヤ山脈の諸峰を望見。

ドチュラ峠に到着し小休止した時にはヒマラヤ山脈の方面には霧がかかっていて全然見通しがきかなかったのは残念!帰路に再度この場所は通るのでその時までお預けである。

ドチュラ峠のビューポイント=晴れなら7000m級のヒマラヤの山々が見える方向という。


このURLには見事にヒマラヤ山脈の高峰が捉えられている。

ドチュラ峠には多数のチョルテンが立ち並んでいた。

霧がかかっていたのでバスに乗ったまま三回半廻って形ばかりの横着な儀礼をおこなった。

近くのレストランでお茶をしながら霧の晴れるのを待ったが神様は意地悪である。
ついにヒマラヤの山々を望見することはできなかった。                

レストラン入り口

レストランに掲げられていた四代目国王と四人の王妃。王妃は六人姉妹の内の四人が選ばれた!!。

果物を売るチベット人

・プナカ・ゾンの観光=ここは1955年にテインプーが通年の首都と定められるまで、冬の間の首都であった所。プナカにあってモ・チュ(母川)とポ・チュ(父川)の合流地点に立つゾン。  

田植え風景

 チミラカンを遠望しながら画趣あふれる田園風景を堪能しているうちにプナカゾンに到着した。プナカゾンを見下ろす位置にある公園で全体像を眺めてからゾンの内部を見学した。ゾン内の建物を巡る回廊の壁面には六道輪廻を解説する仏画などが描かれている。  

プナカ・ゾン

プナカ・ゾンの壁面に描かれた六道転生を説く画像

 ロペサからプナカ方面へ向かう沿道には田植えの終わったばかりの小規模な稲田が幾枚も展開していた。
               

プナカ・ゾンに咲くジャカランタ


・チミ・ラカンの観光=田圃の畦道を丘上に建つチミ・ラカンまでハイキング。この寺はDrukpa Kinleyによって建てられた子宝の寺である。Drukpa Kinleyは1455年にチベットで生まれプナカへ移住し、肉食妻帯もした破天荒な僧であったと言われる。   

 プナカゾンの見学後チミラカンまで田圃の畦道をハイキングした。

高校生達が植林実習をしているのを見かけて「グズナンボー」(おはよう)と声をかけると嬉しそうに微笑みながら「グズナンボー」と返ってくる。

倉庫に転用されている農家の建物

チミ・ラカン

チミ・ラカン近くの民家の壁には巨大な男根が描かれているので度肝を抜かれる。成る程子宝の寺に縁のある画像だなと納得する。面白いことにブータンにおける男根崇拝思想を考察した人もいた。

・ウオン デイボダン・ゾンの観光=絶壁に建つゾン。

この街は小さな町であるが東のトンサ、ブムタンへと続く道の要衝の地にあり、尾根の上に立地するため非常に風の強い町である。

 ゾンの内部に入ると沢山の小僧達が赤い衣装を纏ってそこかしこで戯れているのが目についた。彼等はこのゾンの中に居住し修業しているのである。年に一度だけ親元へ帰ることが許されているがそれ以外にはこのゾンのなかで修業すると言う。

ウオン デイボダン・ゾン内の小坊主達


ウオン デイボダン・ゾン構内の点景

  たまたま読経の時間に堂の中の見学を許された。50人近くの若い僧侶が老僧の読経に従い教典を捲りながら唱和していた。中には携帯電話で通話している不真面目な修学僧もいた。                                                                                         

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スロージョギング

健康法のために毎日一万歩歩くように努めている。
NHKの「試してがってん」で2009.6.10に放送された「脳いきいきダイエット超らくジョギング革命!」はウオーキング愛好者には衝撃的ななレポートであった。別名スロージョギングという運動法で知る人には知られていた健康法であるらしい。早速試してみたがなかなか魅力ある運動法である。ネット上にもこの放送を見た視聴者からの意見や感想が多数寄せられている。

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五山送り火

 京都へ行くと鴨川の畔を散策する。その時必ず見えるのが比叡山と大文字焼きの火床である。
 盆地の地形を利用して気宇壮大なショーを案出した先人の智恵には感心するばかりである。

 大文字山登山口近くには今でも足利氏の再興を願っている一族が住みついているようだ。そして大文字は京都御所に向いているのではなく、足利氏の菩提寺である相国寺の方を向いていると信じているという。
如何にも千年の伝統の都京都らしい。

夜空に浮かぶ大文字 京都で「五山送り火」


五山送り火

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選手に先駆け日本人優勝

2008年7月31日付けの産経ニュースをウエブ上で閲覧していたら

選手に先駆け日本人優勝 北京で国際下着コンテスト  というニュースに目がとまった。
クリックしてみると美女の写真が沢山並んでいる。朝から目の保養をさせて貰った。
とりわけ優勝した日本人学生・松尾みどり嬢の作品は意表を突く大胆さと奇抜さで金賞受賞ももっともだと思った。

【明日へのフォーカス】編集委員・高畑昭男 国の将来握る「新日本人」
という2008.8.1産経新聞の所説にも共感するところが多い。

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ばら寿司を調べる

昔、ばら寿司という随筆を書いたことを思い出した。読み返してみてばら寿司の起源などを調べてみようと思った。

 酢でもんだ御飯の中に具として、さわら、鎮台貝、干し椎茸、干瓢、人参、銀杏等を混ぜ合わせ、ゆり輪の中へ敷きつめて、上には線切りにした薄焼き卵、紅しょうが、さやえんどうを色鮮やかに飾りつけたばら寿司。岡山県は早島町で収穫を祝って営まれる秋祭りの御馳走である。この地方では、誕生、七五三、入学、卒業就職、結納等の人生の節目毎に行われる祝い事の時に欠かすことの出来ない料理として位置づけられている。
 
 私にとってばら寿司は北朝鮮鎮南浦から早島町へ大戦後引き揚げのため、夜間銃声に怯えながら三十八度線を徒歩で突破した逃避行の想い出と結びついている。それは飢餓の旅でもあった。

 空襲の虞れがあるので疎開するため家財一切を先に送り出し、二日後には出発という日に終戦を迎えた。外地における敗戦国の国民は惨めなものである。在留日本人は手持ちの品を売り喰いしながら飢えを凌ぐ生活が始まったが、我が家では疎開地へ送り出した家財が返ってこないので売る物がない。父は出征していたので、当時七才の私を頭に四才の妹と生後十ケ月の妹を抱えた母は、女手一つで家族を養うべく、朝鮮人の経営する農園へ草取りの手伝いに出掛けた。賃金の替わりに貰ってくる白菜、大根、コ-リャン等が育ち盛りの私達兄妹三人の糧であった。必然的に栄養失調となり骨と皮だけのみじめな姿であった。このような生活が一年程続き漸く引き揚げることになった。

佐世保港へ上陸した私達一家はDDTで体中を真っ白に消毒され、長時間石炭の煙に咽びながら列車に揺られて、伯母の待つ早島町へ明け方近く到着した。表戸を激しく叩いて家人を起こし、再開の涙にくれたのである。前日がたまたま早島町の秋祭りの日であったため親戚一同を招待した残りのばら寿司を御馳走になった。この時のばら寿司の味は一生忘れられない。                          98.7.11 脱稿

くらしきばら寿司フェアにホテルや旅館、料亭が出品したばら寿司は豪華である。

寿司の歴史によればばら寿司の発祥は次のように説明されている。

岡山城主の池田光政は、領民の贅沢を戒めるため、「一汁一菜」の令を発した。つまり、食事の際の副食は、汁物を除いて一種類に限るというのである。日常においても領民もこれに従っていたが、年に一度の祭りの日にもこれを適用されてはたまったものではない。そこで、「せめて祭りの日くらいはおかずの品数を増やしてほしい」と願い入れたが、藩はこれを拒否。やむにやまれぬ領民側がひねった知恵が、飯の中に山海の味覚を混ぜ込んでしまう方法であった。これならば、おかずの皿数は増えず、「副食」にはカウントされないというわけだ。かくて生まれたのが、具がいっぱい入ったばらずしである。重箱に詰める場合は、底に豪華な具を敷き、上に質素なすし飯を置く。表面的には質素に見えるわけで、これを「もぐりずし」と呼ぶ。

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野菜不足の日本人

  産経ウエーブで探したが今日の「親父の知恵袋」で表題の野菜不足の日本人は掲載されていない。掲載されていたのは 2008.1.13 12:22付けの【おやじの知恵袋】みそは万能調味料であった。

  産経ウエーブの管理もリアルタイムではなされていないことが判明した。

  致し方ないので野菜不足の日本人は紙版の切り抜きをスキャンした。

Yasaibusoku


  追伸
 上記の書き込みをした後、産経ウエーブを見ていたら、2008.1.20 13:43付けの記事を見つけた。
 日曜日だが産経ウエーブ担当者が遅ればせながらこの記事をアップロードしたものと思われる。

野菜不足の日本人

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今春の杉花粉は3倍!!

 昨年夏の猛暑で杉花粉の飛散量が3倍になるという予想がある。
 製薬会社だけが喜ぶ憂鬱な季節になるのだろうか。

Sugikafun1



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近未来の家電の姿

家電商品がタッチパネル方式になってボタンが機器からなくなるという。
惚け防止のために敢えて毎日手指を動かしてキーボードのボタンを叩いているのだが、ボタンがなくなったら惚けの進行が早まるのではないかという一抹の不安が残る。

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見直される風呂敷の効用

筆者が子供の頃は風呂敷を愛用した。折り畳めてどのような形にも包むことができ重宝した。長じるに及んで風呂敷は手提げ袋や鞄にその場を奪われ我が家でも風呂敷をついぞ見かけることがなくなった。

最近風呂敷の効用が見直されてちょっとしたブームになっているという。
先人が生活の智恵として編み出した一つの文化である。風呂敷の使用が普及するようこの風潮を大切に育てていきたいと思う。

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七種粥のこと

 正月も明日は七日。七種粥を食べる日である。
 産経新聞に解説記事が載っていた。

この記事に記載されていないことを大日本歳時記・講談社より引用しておこう。

七種粥は正月七日(昔は正月・初子・はつね・の日)の粥に七種の菜を入れる風習で全国に普及している。地方によっては雑炊であり雑煮である。

菜は六日の晩に俎板の上で叩くが、そのとき「七種なずな唐土の鳥が日本の土地に渡らぬさき七種なずな」と言ってはやす。もと鳥追の文句であろう。

とある。そして同義語の季語として七草粥、七日粥、七種はやす、なずなはやす、七種打ち、なずな打ち、なずなの拍子、宵なずな、若菜迎え、叩き菜、七草祝い。七雑炊、七種貰い、二なずな、七種売り、若菜売り、なずさ売りを上げている。

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日本の郷土料理百選


農林水産省がふるさとの味として郷土料理百選を発表した。未だ訪問していない県があるから近い将来、訪問した時には是非賞味してみたい。

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フェルメール展を見てきた。

 
フェルメール展 を見てきた。

 日展を見るつもりで出かけたがフェルメールの牛乳を注ぐ女が展示されているので日展はやめてこちらを見た。

 それにNHKの迷宮美術館でフェルメールの話を聞いたばかりだったので迷わずフェルメール展の方を選択した。

 デンハーグのマウリッツハイス美術館を訪問した折りにデルフト風景と真珠の耳飾りの女はここで見ていたが、牛乳を注ぐ女とは今回初対面である。デン・ハーグを訪問したのは平成13年4月であったからもう5年以上の時が流れた。

 今回は作品説明のイヤホーンを借りてゆっくり見ることができた。 
 作品解説も至れり尽くせりで名画を堪能した。

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華乃会の発表会

 華の会(若柳恵華日本舞踊勉強会)の第2回公演会が日本橋劇場で開催された。

 招待状を高校時代の級友で若柳流名取の雅三津女史から頂いていたので会場へ駆けつけた。この日は雨の日で毎週参加しているボートを漕ぐ会のモーションも中止になったので時間にゆとりを持って鑑賞に駆けつけることが出来た。同級生が11人程声援に集まった。

 若柳雅三津名取の出番の時はここぞとばかり大声で声援した。
 演技も円熟味が加わって幽玄の趣が感じられた。

 日本舞踊にはしきたりとか慣行があるのであろうが、門外漢にはそのような知識は持ち合わせない。

 そこで一般の観客として感じたことを列記してみた。

1.劇場の中へ入って座席に座ろうと思い空いた座席へ行ってみて驚いた。空席の椅子にはハンカチや手提げ袋が置いてあり全て塞がっているのである。舞台で演技が始まってもその席には誰もこない。自分のひいきの演者が出演するときだけ、この席へ戻り鑑賞するのであろう。ために立ち見を強いられてしまった。この自己中心な観客のマナーの悪さは一体なんであろうか。

  会の主催者も開場を視察して空席にハンカチや荷物を置いたまま主のいない席は整理して立ち見の観客に着席させる配慮が必要であろう。少なくともアナウンス位はすべきではなかろうか。

2.舞台に演目の表示がないので現在舞台で演じられている踊りがプログラムのどれに当たるのかが判らない。落語では演題の看板が出されているがあのような方法はとれないものか。
  少なくとも演目についてアナウンスする必要があろう。

3.日本舞踊は観客数の面からいえばマイナーな芸であろう。日本舞踊を普及発展せしめようとするならば素人の一般客にも判り易くとりつき易いように上記指摘の2点は改善しなければなるまい。

 




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野猿峠の野鳥料理

八王子の野猿街道の野猿峠近くに野鳥料理を食べさせてくれる店がある。今は峠と言っても大きな道路が走っており峠の面影はない。しかし街道から一寸入ると小高い丘が残っていて見下ろすと八王子の市内が展望できる。鳥山と称している山らしい。

 毎年ボートのオフシーズンになると漕友仲間がこの鳥山に集まり雀、鶇等の野鳥を囲炉裏の炭火で焼いて杯を交わしながら懇談し賞味する。雀と日本酒の取り合わせがまた実にいい。

 料理屋も昔ながらの板張りの建物で部屋や囲炉裏にも山家の雰囲気が残っている。冬場の寒い時でないと営業していない。

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春が来た

暖冬異変があちらこちらに起きているが、畠一面に咲き乱れる菜の花や皆民の軒先に咲く梅の花を見ると何となく心まで華やいでくるから不思議だ。





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ミイラと古代エジプト展

 上野の国立科学博物館へ、大英博物館所蔵の【ミイラと古代エジプト展】を見に行ってきた。

この展示会では冒頭に立体映画で約20分程、展示物の概要についてガイダンスを受けることになるが、この映画こそが今回の展示の大きな見どころであるといえよう。

以下は上記サイトからの抜き書きである。

幅14mの大型スクリーンを備えた約400人収容の3Dシアターを会場内に特設。 古代エジプトのミイラ・ネスペルエンネブウのCTスキャンデータとCGなどを組み合わせた3D映像”Mummy:the inside story”(ミイラ:その内側に秘められた謎)をご覧いただけます。約20分間で、ネスペルエンネブウの体内の秘密や当時の生活の様子などを紹介します。最先端テクノロジーと考古学研究の融合が、ミイラの包帯を解くことなく、3000年前の謎を解き明かすことを可能にしました。

科学技術の進歩はここまで出来るのかと感心した一日であった。古代エジプト人は魂の不滅を信じてミイラを作ったと言われるが、神官であったネスペルエンネブウはミイラになりながら現代に蘇ったと言えなくもないと思った。

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新横浜駅の変貌

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久し振りに新横浜駅へ行った。まるで様相を一変している。大きな駅舎の骨格を見せているのだ。つい先月12月10日に新横浜駅を利用した時には工事中だということは判っていたが平面的でどんな工事が行われているのかは部外者には判らなかった。

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ウズベキスタンの旅16・・・サイルガーフ通り

今までは買い物といえばバザールであったが、この地ではスーパーマーケットもあり立ち寄って見学をした。

サイルガーフ通りは別名ブロードウェーとも呼ばれ絵画や露店が並んでいて原宿のような雰囲気がある。

サイルガーフ通りの店屋



サイルガーフ通りの店屋




サイルガーフ通り




ザイルガー通りの絵画屋




チムール広場ではチムールの騎乗姿のチムール像を撮影できた。

チムール広場で騎乗姿のチムール像。昔はレーニン広場と呼ばれたいた。



チムール広場に現れた地元の青年



タシケント市には地下鉄も開通しており、どんなものか入場券だけ買って見学した。
撮影は厳禁されているので画像を示すことがで きない。
かなり大がかりなもので空襲の時、防空壕にも使用することを想定して作られているようだ。

空港近くの中華レストランで中華料理を堪能して17日間にわたった中央アジア五ケ国周遊の旅は終わった。

タシケント市内。前方の建物内に中華レストランがある。





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ウズベキスタンの旅15・・・ナボイ劇場

ナボイ劇場はこれら日本人捕虜達が使役に使われて建設した劇場であるが、
捕虜の中にいた建築士達の技術が優秀だったせいか、
この地を襲った大地震のときにもこの建物だけは倒壊しなかったという。
爾来日本人は優秀だという評価がこの地に定着した。

ナボイ劇場



ナボイ劇場の天井の装飾



ナボイ劇場で稽古している演劇志望の若者達。カメラを向けると門衛のポーズをとってくれた。



日本人達がナボイ劇場の建設に携わったことを記した碑文



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ウズベキスタンの旅14・・・日本人墓地

バザールの花屋へ立ち寄り花束を購入して日本人墓地へ墓参した。



日本人墓地へ参詣する時通る門



日本人墓地に建てられている碑。埋葬されている人達の氏名、年齢、出身地が記されている



<
ここにはソ連軍によって捕虜となった日本兵が強制労働に従事しながら
望郷の気持ちも虚しく病死した人達が眠っているのである。

墓前には花束を供え、般若心経を読経して犠牲者達の菩提を弔った。

日本人慰霊碑





日本人墓地に隣接してあるイスラム教徒達の墓。遺影が刻まれているのはお国ぶりか。



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ウズベキスタンの旅13・・・工芸博物館

タシケント市内に到着し工芸博物館に立ち寄り見慣れたスザンニ等の作品を鑑賞した。

スザンニ



陶器



陶器の飾り物



工芸品



工芸博物館のテレビ受像機。日本のODAで購入した印がついている。



 ロシア人の高官ポルブフの宮殿にはイスラム風の豪華な装飾の部屋があった。

豪華な天井の装飾





暖炉のある豪華な装飾の部屋



工芸博物館の前の瓦を使用した建物

中央アジア五ケ国滞在中唯一目撃した瓦葺きの屋根。
但し瓦が使われているのは塀の部分だけ。他はカラー鉄板を瓦風に加工したもの。



 

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ウズベキスタンの旅12・・・タシケントへの道中

道中目撃した鉄道駅近くの光景。乗客が道路をまたぐ架橋を歩いている。



正午過ぎにシルダリア河を渡ってタシケント州に入った。

タシケント市内に入ってバーホールレストランで昼食を摂った。
結婚式の披露宴にも使われているという豪華な部屋
ビーフのサイコロステーキを賞味した。



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ウズベキスタンの旅11・・・チムールの門

8時にホテルを出発してタシケントへ向かった。本日も300㎞のバスによる移動である。

走行中、お茶休憩したところで焼いていた串焼き
燃料に石炭を使っていた。




タシケントへ向けてのバスドライブでは車窓にこのような光景が続く。
畑の中には大勢の農夫・農婦が種蒔きをしている姿が認められる。



一時間強走行したところでチムールの門と呼ばれる地域にさしかかった。
左にトルキスタン山脈、右手にザラフシャン山脈を望むところである。
チムールが遠征する時通ったからチムールの門と呼ばれるようになった。



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ウズベキスタンの旅10・・・チムールの座像

サマルカンドで三連泊したアフラシャブホテルを出発する前に光線の具合が悪く
撮影していなかったチムールの座像を撮影に行った。

サマルカンドで宿泊したアフラシャブ・ホテル




チムールの座像




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ウズベキスタンの旅9・・・シャーヒジンダ廟2

2006.5.3

韓国製の車
ウズベキスタンではフェルガナに韓国のDawoo社と地元資本の合弁会社があり、韓国製の車が多いとガイドは説明してくれた。




シャーヒジンダ廟内の博物館を見学するお登りさん達。いずれも敬虔なモスリムである。




シャーヒジンダ廟の装飾の一例



シャーヒジンダ廟の装飾の一例



シャーヒジンダ廟から眺めたサマルカンド市営墓地の墓標



シャーヒジンダ廟周辺に住む子供達



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ウズベキスタンの旅8・・・シャーヒジンダ廟

2006.5.3

  シャーヒジンダ廟群はよくもこれだけ豪華な廟が群集しているものだと感心する場所である。歴史的文化遺産というのは一般的には墓が殆どであるといってもいい。しかし、これだけ沢山の大きく豪華な廟が群集しているのを見たのは初めてである。




















 ホテルへの帰路交差点で一時停止を求められ暫く待たされることになった。市内で行われたマラソン大会のための交通規制の余波が残っていたようだ。

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ウズベキスタンの旅7・・・アフラシャブの丘

 太陽の傾くのを待って3時に再びホテルを出発し、アフラシャブの丘博物館、ウルグベクの天文台跡、シャーヒンダ廟群と巡り、夕食を御馳走になるため、漆喰職人クリエフさ宅を訪問した。とても広大で豪華な造りの屋敷であった。いわばこの土地の資産家といった感じの家であった。

 アフラシャブの丘はサマルカンドの中でも高台の上にあり、開発すれば高級住宅地になるであろうと思われる立地である。ここにはサマルカンドの歴史的遺産が沢山埋蔵されており、歴史的な文化遺産として保存され開発行為は禁止されている。

アフラシャブの丘





アフラシャブの丘の用水路の跡



 ウルグベグ天文台はチムールの孫であり、優れた天文学者であり、統治者でもあったウルグベグの業績の一端を垣間見ることのできる史跡である。



韓国製の車。ウズベキスタンで韓国製の車が多い




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ウズベキスタンの旅6・・・サマルカンド

2006.5.3

 昨夜の夕食には旅行社の添乗員山口嬢が日本から持参した冷しソーメンが食卓に並んだ。外国の旅も毎日人参のサラダを主とする野菜類や羊、牛等の肉類とパンのメニューが続くと二週間程日本の味覚を口にしていないのでこのソーメンのもてなしは非常に嬉しかった。あっさりしたつゆですするソーメンにそぞろ里心も沸いてこようというものである

 宿泊したアフラシャブホテルはその昔、王宮が営まれた跡地でグル・エミール廟にも近い立地である。

アフラシャブホテル



グル・エミール廟



グル・エミール廟の入場門



 朝9時にホテルを出発してグル・エミル廟、レギスタン広場のウルベク・メドレセ、ティラ・カリ・メドレセ、シェルドル・メドレセ、ビビ・ハニム・モスク、シャブバザールと見学し昼食はホテルに戻りビュッフェ形式のものを摂った。

レギスタン広場から見た光景。
左 ウルベク・メドレセ(1420)
中 ティラカリ・メドレセ(1660)
右 シェルドル・メドレセ(1636)


 グル・エミル廟は1404年に創建された。この廟はチムールが最愛の孫、ムハマド・スルタンのために建てたもので、翌年チムール自身もここへ葬られることになった。

中央の黒い墓石がチムールの墓



この建物の中の装飾は豪華絢爛としていて美しい。似たような形の建物が多く模様も似たものが多いので建物の固有名詞と撮影した写真を特定するのがなかなか難儀な作業である。

グル・エミール廟の天井の装飾


グル・エミール廟のミヒラブ



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ウズベキスタンの旅5・・・シャフリサブス2

2006.4.27

次いでハズレティー・イマーム・モスク(19世紀創建)の堂内を見学した。この廟は戦闘で亡くなったチムールの息子ジャハンギールのために建てられたものであり、地下にはその墓が設置されている。この廟の入り口近くに生い茂っている楡の大木は壮観である。また室内の装飾も青色を基調としたアラビア模様で彩られている。

ハズレティー・イマーム・モスク前の楡の巨木



ハズレティー・イマーム・モスク



ハズレティー・イマーム・モスクの全景



左側二つがチムールの父タルガイとチムールの息子の廟。右側の大きいのがチムールの孫で天文学者ウルグベクの廟のあるモスク



チムールの孫ウルベグの廟



ジャハーンギル廟のチムールの息子の墓



コク・グンバズ・モスクは1,437年に創建されたものであり、木と花の装飾がふんだんに取り入れられている。チムールの父・タルガイとチムールの孫ウルベクの墓がある。

コク・グンバズ・モスクの中



コク・グンバズ・モスクの天井の装飾


昼食に立ち寄った民家の近くにはソ連製の三輪車がまだ現役で活躍していた。

ソ連時代の三輪車



再び車上の人となりなだらかな丘陵と草原を眺めながらサマルカンドに到着した。それにしても9時間にも及ぶバスドライブは老体には厳しい道行きである。

サマルカンド近くの村で休憩した時集まってきた子供達




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ウズベキスタンの旅4・・・シャフリ・サブス1

2006.4.27

  朝ブハラのホテルを出発してサマルカンドを目指す540㎞の大移動である。キジルクム(赤い砂)を通過し、チャイハナでお茶の休憩をした。車窓には緑化しかけた砂漠に牛、羊が放牧されている。駱駝の群れがのんびりと道路を横断したりする。飽きることもなく草原を眺めながら過ごしているうちに正午にパペーダ・チムール広場に到着した。


バベーダ・チムール広場のチムール像



  ここは自由化まではレーニン・広場と呼ばれた所である。まず我々観光客の目を引きつけるのは巨大な門アク・サライ(白い宮殿)を背負うようにして佇立するチムールの立像である。

アク・サライ



アク・サライのはげ落ちたタイルを敷いた展示用の床



この地はチムールの故郷であり、1,380~1,405年まで宮殿が営まれた所である。このアク・サライの塔の現在の高さは37mであるが盛時には57mの高さを誇っていた。塔には登ることが出来るが残念ながら脚を痛めていたので大事をとって登らなかった。

アク・サライの塔の入場口



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ウズベキスタンの旅3・・・ブハラ2

2006.4.26

ホテルで休憩し、太陽の勢いが衰え掛けた15時に再びホテルを出てブハラ最後のアミール(王)の夏の離宮を見学した。薔薇の花があちらこちらで咲き誇っていた。



シトライ・ホイ・モサのハーレム


 ポイ・カラ・コンプレックス、カラーン・モスク、カラーン・ミナレット、ミル・アラブ・メドレセ、タキ・テル・パクフルシャーン、マユギ・アッタリ・メドレセ、リャビ・ハウズと周り最後はナディル・ディバンベキ・メドレセで民族舞踊とファッション・ショーを見ながら夕食を摂った。

ポイ・カラ・コンプレックスのカラーンミナレット



ミル・アラブ・メドレセ



タキ・テル・パクフルシャーン



ナディル・ディバンベキ・メドレセで民族舞踊を見ながらくつろぐ観光客


ナディル・ディバンベキ・メドレセの民族舞踊


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ウズベキスタンの旅2・・・ブハラ

2006.4.29
 トルクメニスタンの観光を終えて、ブハラパレスホテルに到着したのは、夕方7時半を過ぎていて、チェックインの時間に重なったせいか観光客でごったがえしていた。初老の客が多くフランス語が飛び交っていた。部屋に荷物を置いて直ちに食堂へ急ぐとここもラッシュであった。ビュッフェ形式の夕食である。



 割り当てられた部屋は七階であったが吹き抜けになっている中庭を見下ろすとバー休憩所の光景が面白いアングルから見えた。







 翌朝ホテルを9時に出発し、アルク城へ赴いた。ここでは、エミールのモスク、戴冠式のホール、歴史博物館、アルク城の広場、屋上からの展望、バラ・ハウズ、チシュマアイユーブ廟、イスマル・サマニ廟、サマニ公園、チャルミナルと見学した所で昼食となった。

アルク城



アルク城内部の店先



アルク内の障壁


アルクの屋上はまるで荒野


アルクの屋上から展望したブハラ市内



バラ・ハウズの舞台


チャシュマアイブ廟


イスマイル・サマニ廟



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トルクメニスタンの旅3・・・メルブ、マリイ、アシハバード

2006.4.28

 アシハバードのニサホテルを早朝5:30に出発しトルクメンバシ国際空港へ急いだ。6:55には予定より5分早くT5127便は離陸した。空港は夜が明けたばかりである。マリイ空港には7:35に到着。尿意を催しトイレットを探して駆け込むと、これが観光都市の空港かと思う程の粗末さである。






 8時には空港を出発してメルブ遺跡を目指してバスはひた走った。車窓にはカラクム運河、ザ・カスピ鉄道なども目撃することができた。

 メルブ遺跡には8:45に到着。この遺跡はBC6世紀ころから営まれ初め、最盛期は11~12世紀であった。彷徨える遺跡という別名があるように、この遺跡にはゾロアスター教、キリスト教ネストリュウス派、イスラム教、仏教と、いくつもの世界宗教がその興亡の歴史を刻んだ所である。13世紀にはモンゴル軍が80万人の軍勢で攻め寄せこの都市を破壊し尽くしたという受難の歴史ももっている。その当時メルブ周辺一帯には130万人が生活していたという。



 スルタン・カラ内のスルタン・サンジャール廟(12世紀)、エルク・カラ(BC6世紀)、グヤウル・カラ(BC6世紀)、ベニ・ハマンモスク、仏塔跡、大キズ・カラ、小キズ・カラ、ムハンマド・イブン・サイード廟(12世紀)、この廟の墓守の住居を見学してから、マリイ市のヘキシャヘールレストランでトルコ料理の昼食を摂った。豆スープ、トマトソース添えのケバブである。

スルタン・サンジャール廟



エルク・カラ



グヤウル・カラ


大キズ・カラ


小キズ・カラ


ムハンマド・イブンザイード廟


ムハンマド・イブンザイード廟の墓守の老人



 昼食後、マリイ博物館を見学した。ここにはメルブ遺跡の見取り図、出土品、トルクメン族の生活の今昔などが展示されている。

昼食のケバブ


 マリイのバザールも覗いてマリイのホテルマルグーシュに投宿した。



 翌朝8時にはホテル・マルグーシュを出発し、一路ウズベキスタンのブハラ目指して385㎞のバスドライブである。

 アブラハン・カラ(15世紀)、バイラム・カラ(18世紀)を通り越してカラクム運河の近くで休憩した。後はカラクム砂漠の風景を眺めながら終日のバス移動である。


 トルクメンアバードのレバブ・レストランで摂った昼食は米のスープ、牛タンと茸のチーズ焼き。これは美味しかった。



 乗り物に終日乗っていると運動不足になるので国境近くのアムダリア川を徒歩で渡った。橋や河の撮影は固く禁止されているので写真を示すことができない。

 国境ではトルクメニスタン側は簡単に出国できた。ウズベキスタン側の入国手続きを終えてでてきたところ、迎えのバスがきていなかった。何か手違いでもあったのではないかと情報の入らないまま、約二時間近く、入国管理所構内で無為の時間を過ごした。後で判ったことだが、ウズベキスタン側の現地ガイドがトルクメニスタンのビザを持っていないので入国管理事務所へバスを乗り入れることができなかったのだという。国境なので携帯電話も電波の規制を受けているらしく、バス備えつけの無線電話とのトランシーバーでのやりとりであったためなかなかコミュニケーションがうまくいかず、バスも無為な時間を過ごしたらしい。

 この道中でもニヤゾフ大統領の肖像画、と銅像をもう沢山といいたい程、何回も建物の壁面や検問所のゲートに見かけた。 




 
 また朝は道路を掃除する人々をあちこちで見かけた。イスラム教徒の人々は清潔好きである。そして薔薇の花が好きなようだ。



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トルクメニスタンの旅2・・・ニサ、アナウ

2006.4.28

昨夜遅くトルクメンバシ空港に着き、深夜にアシハバードのニサホテルに投宿したので、今日はいつもより遅い9時半にホテルを出発して現大統領の出身地にあるキプチャク・モスクへ向かった。



 このモスクにはニヤゾフ大統領の両親と兄弟の墓がある。ニヤゾフ大統領は幼児に両親と兄弟を失い孤児になったが、類稀なる能力を認める人の援助で大学まで優秀な成績で卒業した苦学力行の人であった。肉親に対する情愛が厚く立派な廟を建てて故人の菩提を弔ったのだという。内装は豪華絢爛の一語に尽き、権力者好みの造りであった。砂漠では貴重品の水を噴水として巧みに取り入れた設計はまさに権力者の力の誇示そのものだと思いながら見た。

 ニサの遺跡は紀元前3世紀~紀元後3世紀にかけて営まれたパルティアの初期の首都で城壁に囲われていた。




 
ニサ遺跡の方形広場




 
新ニサ市街




 

 国立博物館の一階展示室には大統領礼賛の展示物に溢れていた。受賞した勲章とか外国元首からの贈り物とか彼の著書などである。

 二階の展示室にはニサ遺跡から発掘された有名な「ニサのヴーナス」、「象牙のリュトン」、メルブの仏像と彩色の壺、民族衣装等が展示されている。

ニサのビーナス(撮影禁止なので絵はがきからの転写)


象牙のリュトン(撮影禁止なので絵はがきからの転写)



 ニサの遺跡を後にして再びアシハバードに戻り、中立広場で地震慰霊碑、黄金の大統領像、金のドームの大統領執務室、各種官庁の庁舎をバスの車窓より見学した。何故か大統領執務室の建物は撮影禁止である。

中立広場の地震被災者慰霊碑


 続いて郊外のトルクメンの名馬の飼われている厩舎を訪問した。汗血馬と呼ばれジンギスカンも欲しがったという名馬達である。アハルテケと現地語で呼ばれる名馬が約200頭保育されている。



 続いてアナウ遺跡を訪れ見学した。



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トルクメニスタンの旅1・・・クフナ・ウルゲンチ

2006.4.27

  トルクメニスタンは最近まで観光客が入れなかった国であるから今回の旅行でも楽しみな場所であった。終身大統領になったニヤゾフ大統領の専制政治が行われているが、カスピ海沿岸で産出する石油のお蔭で中央アジア五ケ国のうちでは、カザフスタンについでGNIも1,120ドルとウズベキスタン、キリギス、タジキスタンを遙に凌駕している。現実にトリキスタンの都会地では今や、高層ビルの建設ラッシュで至る所に建設用の大型クレーンが林立している。

特に首都のアシハバードは丁度東京オリンピック前の東京都内の状況と似た活気に満ちていて、建設中のビルが夥しい数である。

クレーンの林立するアシハバード市内



一方で情報統制は厳しいようで、写真撮影については充分気を配らないと撮影禁止の場所が多数あるので思わぬトラブルに巻き込まれる虞れがある。

さてウズベキスタンのヒワの観光を終えてヒワのホテルを朝8時30分に出発して陸路、国境を越えクフナ・ウルゲンチを目指す長駆250㎞のバスドライブである。

綿花畑、小麦畑、草原をひた走り国境へは9時半頃到着した。出国手続きに約一時間を費やし、緩衝地帯をミニバンで移動し、トルクメニスタンの入国審査である。ガイドがくどい程に写真撮影をしないようにと注意する。たいしたトラブルもなく正午前には国境を通過し、トルクメニスタンに入国した。

国境近くのタシャウズでナディラ・レストランというところで昼食を摂った。サラダ、らぐまん、チキンとビーフのグリルであった。赤大根を好んで食べた。ここでも恒例の人参の千切りが山ほどもでていた。葱や大蒜もサラダに添えられている。 

タシャウズからクフナ・ウルゲンチまでの道中では車窓に、ガスのパイプライン、畑、驢馬の車、時として現れる砂漠を眺めながら移動する。大きな建物や検問所には必ず掲げられているニヤゾフ大統領の肖像画をいやという程見せつけられた。

現地ガイドの説明によればこの国では、ガス、水道、電気、塩は無償で国民に支給されるという。

 遺跡のある場所クフナ・ウルゲンチに到着し、最初に訪問したのはトレベクハニム廟である。



 クフナ・ウルゲンチは2005年10月にユネスコの世界遺産に登録された。13世紀のモンゴル軍の侵略、15世紀のチムールの侵入により破壊されたが、ヒワに17世紀に遷都されるまではホラズム王国の首都であった。ヒワに遷都したのは1615年頃、アムダリア川の流れが変わり水がこなくなり沙漠化したからである。

クフナ・ウルゲチでは次いでクトゥルグチムールのミナレットスルタンテケシュ廟クルクモッラーの丘イル・アルスラン廟キャラバン・サライの入り口跡ネジメッティン・クブラー廟スルタ・アリ廟等を見学した。

クトゥルグチムールのミナレット



スルタンテケシュ廟


クルクモッラーの丘


イル・アルスラン廟


キャラバンサライ入り口の跡


道路補修工事中のネジメッティン・クブラー廟(左)とスルタン・アリ廟(右)


再びタシャウズに戻り、深夜23時発のトルクメニスタン航空でアシハバードへ飛んだ。なにしろトルクメニスタンには航空機が七機しかなくこの航空機をやりくりしながら運行しているのでタイムテーブル通り飛ぶことは少ないようである。我々の搭乗した航空機も約一時間遅れの離陸となってしまった。

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ウズベキスタンの旅1・・・ウルゲンチ、ヒワ

2006.4.26

 朝早くタシケントのパレスホテルを出発し、ヒワへ移動するため空港へ向かった。 

薄暗いタシケント空港


空港には観光客が大勢押しかけている。搭乗するための行列は先陣争いでなんとなく殺気だっている。航空機の場合、全て指定席になっているから何もあわてて搭乗する必要もないのにと日本の常識で考えていたら日本の常識の通用しない理由があった。

 搭乗券の座席指定の数字はここでは全く意味のないことであることが機内に入って判明した。つまり座席は全て自由席ということで早い者がポジションのいい座席を確保できるということなのである。

座席争奪戦の後離陸したウズベキスタン航空の機上よりタシケント市内を俯瞰



 ウズベキスタン航空のHY1051便は7時05分に離陸し、ホレズム州の州都ウルゲンチへ8時15分に到着した。

迎えのバスに乗り車窓に綿花畑、貯水池、ポプラ並木、ロバ車、トロリーバス等を眺めながらの移動は楽しい。就中、カスピ海沿岸で採掘される天然ガスを無償で供給するため、民家に配管されている光景は興味をそそった。やがてバスはヒワのホテルメドレセに到着した。

黄色い配管が各民家に施されている。


このホテルメドレセはイチャン・カラ(内城)にあり、1,853年創建の神学校である。1976年以降ホテルに転用されている。

ホテル・メドレセの入り口


神学生達が寄宿して生活していたところだからホテルに転用するのはアイデアとしては優れていると思うが二階の個室へ行くには急な狭い階段を頭上の障害物に気遣いしながら昇降したり、浴室にバスタブがなかったり、水道の水がでにくかったりと宿泊施設としての機能は充分ではない。

ホテル・メドレセの中庭


ホテル・メドレセの部屋の中とシャワー室





メドレセの中庭からも見えるカリタ・ミナール



 定められた部屋へ荷物を置いてからイチャン・カラ内の見学である。

イチャン・カラの配置図



配置図の前で説明を聞く観光客



 カリタ・ミナール、カーズイ・ハナ、クフナ・アルク、カールマルクス通り、金曜のモスク、ムハンマド・アミン・イナクの神学校、キャラバン・サライ跡のバザールと見学して、昼食は旧キャラバン・サライ内のホテル・アラカンチで摂った。

カリタ・ミナール


カーズイ・ハナはこの建物の横の狭く細い階段を下りた所にある。


カーズイ・ハナ(牢獄)の囚人の蝋人形


カール・マルクス通り・・・メインストリート


クフナ・アルクの謁見の間の舞台


 日中温度が30度近くまであがるので太陽の勢いが衰えるまで室内で休養し、16時過ぎから再びヒワの観光にでかけた。

 デシャン・カラ(外城)のヌル・ラバイ宮殿を見学してから再び内城(イチャン・カラ)に戻り、職人街を見学した。

 パフラワン・ムハド廟(13世紀)、イスラム・ホジャのモスク、タシュ・ハウリ宮殿と見て回った。

 この日の夕食はトサボーグ宮殿で摂ることになった。

 翌日は平日のため早朝は昨日の活況とはうってかわってイチャン・カラの中には観光客の姿は殆ど見られなくなっていた。

 早朝の静寂を取り戻した城内を散歩していると住民達が箒と塵取り箱を持ってせっせと観光客達が汚していった道路や広場を掃除している姿があちこちに見られた。

 8時にはホテルを出発して次なる観光地トルクメニスタンの国境目指してバスドライブである。

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カザフスタンの旅3・・・タラス

2006.4.25
  ホテル・ジャンプールを朝出発してタラス川古戦場の遺跡を見学した後、アイシャ・ビビ廟を見学した。道中大草原をバスで疾駆すればタラス・アラトー山脈が雪を頂いた美しい姿が目を楽しませてくれた。また時折牧童達の騎乗姿も目撃でき牧歌的な光景は異国ならではでの旅情をそそるに充分である。

タラス・アラトー山脈


牧童




タラス川


サッカーの練習をしていた村の子供達


 タラス川の戦いとは東洋史辞典・東京創元社によれば以下のようなものであった。

 751年(天保10年)に唐とイスラム帝国(アッバース朝)との間に行われた戦争。唐将高仙芝はイスラム軍と中央アジアのタラス河畔で衝突したが、唐軍の大敗に終わり、それより唐の西方における勢力が後退しはじめた。タラス川は東西交通の要路で、タラス城は天山北方の重要な貿易場であった。かつて西突厥が本拠を置いて威をふるったが、唐の西域経略によりその勢力はパミール以西に及んだ。あたかも新興のアラビア人がササン朝を滅ぼして東方へ伸びた。アッバース朝の時、東西両帝国の衝突となり、この戦いが起こった。このとき捕虜となった紙漉き工から紙の製法がイスラム世界に伝わり、サマルカンドに製紙工場が作られ、西ヨーロッパの印刷技術発達の伏線となった。引用終わり。

注 西側 アラブ軍 統率者はクタイバ(シリヤ出身) 5万人
東側 唐軍 統率者は高仙芝(高句麗出身) 5万人
   この大激戦は五日間続いた。

古戦場跡の丘の上には11世紀に建てられたテクトルマズ廟がある。

テクトルマズ廟



アイシャ・ビビ廟は12世紀のものであるが、施された幾何学模様は様々で美しい装飾である。隣に寄り添うように乳母ババジ・ハトゥン廟がある。

アイシャ・ビビ廟



アイシャ・ビビには悲恋の伝説が残されている。以下の純愛物語である。

戦いに敗れたカラハン王子は一時サマルカンドに軍を引き揚げていた。そこで商人の娘アイシャと恋に陥るがアイシャの父は結婚を許さなかった。王子はやむなく軍とともにタラスへ戻っていった。娘を哀れに思った母親は乳母のババジ・ハトゥンをつけてアイシャをタラスへ送った。愛する王子に会う前に川で身を清めたアイシャは草の上に置かれた花嫁衣装に手を伸ばした時、毒蛇に噛まれてしまった。乳母に急を告げられた王子は川辺に駆けつけ瀕死のアイシャを抱き上げて、息を引き取る前に結婚式を挙げた。王子は彼女以外の妻を娶らないことと彼女のために立派な廟を建てることを誓った。

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キルギスの旅2・・アクベシム、ブラナ、イシククル湖

2006.4.23

  ビシケクのマナス広場を8時半に出発し、砂糖大根の産地カント、戦闘機のあるトクマクを通過してひたすらアクベシム目指した。途中キルギス・アラート山脈が目を楽しませてくれる。


アクベシムはただの原っぱでここが遺跡の跡だとはとても思えない。ただ平地に穴のあいているところがあるだけなのである。




アクベシムの砕葉城(スイーブ城)都市遺跡は657年に唐に滅ぼされるまでは西突厥の王都であった。王宮や仏教寺院も発見されているが、資金不足のためまだ9割以上が地下に埋没しているという。このスイーブ城には628年玄奘三蔵が26才の時、旅の庇護を求めて天山を越えて来場し滞在したといわれる。


次にブラナを訪問した。ここには荒野の中にミナレットが残っていた。


大きな丘にはカラハン王朝の王宮があったとされる。


イシククル湖の宿に到着する前にチョルポン・アタの岩絵野外博物館を見学した。ここには多数の岩絵が野外に放置されていたが、質のよいものはあまり見当たらなかった。


イシククル湖は空が曇っていてきれいな湖面を見ることができなかった。


早朝イシククル湖畔のホテルを出発してビシケク目指して砂漠の中を再びバスで移動した。この日の延べ走行距離は540㎞に及んだ。

ビシケクに到着しビシケク最大のオシュバザールを見学した。

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キルギスの旅

2006.4.23 
  カザフスタンのアルマトイから大平原をバスで疾駆してキルギスの首都ビシケクを目指した。車窓には天山山脈の支脈であるザイリスキー・アラトー山脈がどこまでも追っかけてくる。山頂にはまだ雪が残っていて朝の光が映えて美しい。このあたりの丘陵地帯の標高はおよそ1,230m位だという。畑には春蒔小麦が蒔かれたばかりである。馬、牛、羊がのんびりと草を食むのどかな光景が広がっている。




 やがて国境近くのコルダイ村のガソリスタンドでトイレ休憩を兼ねて給油をした。カザフスタンの方がガソリンが安いのでドライバー達はキルギスへ入国する前に必ず給油する。

 手洗いは申し訳程度の掘っ建て小屋が建っているだけでご婦人方には気の毒である。ここでは写真を撮影していると警官から叱られた。軍事施設らしきものもみあたらないのに不思議なことである。警察官の機嫌が悪くてとばっちりをうけた感じである。




 やがて国境となり、出国審査はバスを降りて一人ずつ受けることになった。中間地帯をバスで通り抜け今度はキルギスの入国審査である。ここは団体は纏めてパスポートを預け簡単に通過した。

 キルギスに入国して昼食は中庭のあるアルズ・レストランで土地の料理を堪能した。写真に示すのは羊肉入りのスープとサムサ(肉入りの揚げパン)。民族衣装を纏った給仕達。ロシア系、キルギス系等様々な人種が見られる。








 キリギス歴史博物館の一階にはネアンデタール人のミイラ、石人(バルバル)、ゾロアスター教の石棺、馬具、20世紀初頭の写真、民族衣装、刺繍、織物、世界最長の叙事詩マナズ(50万桁)等が展示されていたが撮影禁止。

  2階にはレーニンの業績を讃える展示物か多数展示されている。

博物館の正面は中央広場でここには自由の像と国旗台が建っている。元はこの位置にレーニン像が建っていたが、レーニン像は博物館の裏側に移された。時代の流れを感じさせる。




またドライブの道中に見かけた元のコルフォーズの工場が使用されないまま放置されているのも共産主義社会から自由主義社会への移行を象徴する光景といえよう。


  次いで旧国営デパート、ツムへ立ち寄り店内を巡回見学した。たまたまデジタルカメラのメディアが満杯になってしまったので、規格にあったものを販売していれば買おうかとカメラ店によってメディアを見せ同じものがあるかと聞くと台湾製の同等品を棚から取り出した。512メガのもので60ドルだという。日本よりは五割方高いような気もしたが、写真が撮れなくなると困るので一枚求めることにした。カメラは愛用しているFine Picと予備用にパナソニックLUMIXの二台を持参していたのだが、Fine Picの方が動かなくなってしまったのでメディアを補強する必要があった。

デパートで面白いと思ったのは値段交渉をして値切れるということである。残念ながら私の求めたメディアは値引きして貰えなかった。

ホテルへ帰り夕食はホテルのレストランで摂った。

翌朝はアクベシム、ブラナを経由してイシククル湖を目指して東へ長駆280㎞のバスドライブである。

朝8時にビシケクのホテルを出発してマナス広場に立ち寄り見学をしてビシケクには分かれを告げた。


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カザフスタンの旅2・・アルマトイ

2006.04.21
暑いのでホテルで暫く休んだ後、国立中央博物館、共和国広場、独立記念塔、メテオ国立公園スケートリンク場、カザフ村のユルタへと出かけた。



 国立中央博物館には馬具、武具、食器、楽器、岩絵、黄金人間のミニチュア(サカ族時代)、石人(墓石)等考古学上の発掘物などが展示されていたが撮影禁止のため写真で示すことが出来ない。
 
 国立中央博物館の構内は緑豊かで折から杏の花が桜と紛うかのように咲き誇っていたし、花壇にはチューリップが咲いていた。花壇の周辺には自家用車が次々に秩序なく駐車していくので、我々の乗ったバスが出られなくなり暫く立ち往生するというハプニングも発生した。




 共和国広場は中央広場ともいわれ、結婚式を済ませたカップルが立ち寄り記念写真をとる場所になっているようで四組の新婚カップルを見かけた。




 メテオ国立競技場は小高い山中にあり、1972年に完成したものである。ここでは日本の清水選手が2001年に新記録をだしたのでその記録板が以前は掲げられていたということであったが、今では取り外されていて目撃することができなかった。

 この後、カザフ村のユルタ(遊牧民のテント)に赴き、夕食を楽しんだ。馬乳酒(コムス)は酸味があってあまり美味しいものではなかった。


 ボルザックという揚げパンは日本の餅のような食感があってとても美味しかった。同行者の中にケーキ屋さんがいて小麦粉の粒子が細かい強力粉を使うと粘りがでるのだと解説してくれた。

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カザフスタンの旅

2006.4.20


  カザフスタンは下の地図に示すように中央アジア五ケ国の中では最も大きな国で、その面積は271万7,300㎢あり日本の約7倍の広大なものである。カスピ海に接しているため石油資源が豊富でソ連から独立後、その経済発展にはめざましいものがある。

  カザフスタンとはカザフ人の国の意味でカザフはトルコ系諸語で「放浪者」を意味するクザックが訛ったものといわれる。

  人口は1,745万人で首都はアスタナである。

  住民はカザフ人が46%、ロシア人35%で後はウクライナ人その他

 ソウルの仁川空港から深夜に飛来して入国審査で感じた印象は以下のものであった。

1.入国審査官の被っている帽子が大きく、旅行客を威圧するに充分なものであること。
2.旅行者のパスポートから記載項目を一つ一つ丹念に入力するので一人あたりの所要時間が長く、行列がなかなか前へ進まないこと。いかにも非能率的な事務処理である。

 オトラルホテルに到着した時には深夜も更けて翌日になっていた。短時間睡眠をとったホテルは部屋が狭い割りに調度品や部屋の飾りは格調の高い木製で茶色のニス仕上げであった。

 翌朝出発前にホテルの周囲を散策してみるとこの街はパンヒローフ公園の緑化事業を中心整備されたようで緑豊かな大木が鬱蒼と茂り自然環境は良好である。またソ連時代に建てられた頑丈だけが取り柄のような野暮ったいアパートでは独立の息吹が感じられるかのように人々の動きには活気があった。

 公園の中にはゼンコフ・ロシア正教の教会が派手な色彩で佇んでおり、折から黄色いチューリップが見事な花を咲かせて取り囲んでいた。この教会はゼンコフというロシアの建築家が1904年~1907年にかけて建造したもので、ロシア革命後は音楽堂として使用されていたのであるが、1991年の独立後は再び教会としての活動を開始した。教会内では熱心な信者達が集まりミサが行われていた。

 また公園の中には28人のパンヒローフ親衛隊記念像が建てられており、第二次世界大戦で首都モスコーの防衛前線として戦った兵士達の群像が彫られている。

 群像の前には追悼の永遠の火が焚かれており、外国からの要人達もこの前で哀悼の誠を捧げるのだという。周囲にはここを訪問した諸国の政治家達の記念碑がおかれている。

 中央バザールを見学した。市内では最も大きい体育館型のバザールで豊富に商品が並べられていた。ロシア人やカザフ人の売り子が多いが目を引いたのは朝鮮人達がキムチを初め肉、魚などの食料品売り場に多いことであった。


 日本人観光客に対しては概して好意的で「ヤポン」「コニチハ」と気軽に声をかけてくる。そしてデジタルカメラが珍しいらしく写真を撮ってくれとせがむものもいる。撮影した画像を見せると多数の人が寄ってきて感嘆の声をあげていた。

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アンデス高原にインカの文化遺産を探訪・・ペルー紀行

2006年2月6日(月)

このブログに収録できなかった写真をアルバムに編集してみた。


昨年4月にスロベニア、クロアチアの旅をして以来の久し振りの海外旅行である。今回の旅行は高地のクスコ、チチカカ湖等を訪問するので高山病が心配で伸ばし伸ばしにしていたのだが、体力のあるうちにと思い切って計画したのであった。高山病について色々調べてみると余程の覚悟が必要であった。
先ずはRakuda`s Travelさんのウエブサイトから借用すると高山病とは次のようなものである。

以下引用

「高山病」というのは、低地から高地に上がったときに、低気圧、低酸素に体が順応できずに起こる一連の症状の総称です。具体的には、標高1500m以下の場所から2000m以上の高地に48時間以内の短時間で到達した場合、一日に高度差500m以上上昇した時に発症し、頭痛、倦怠感、耳鳴り、腹部膨満感、睡眠障害などを起こすのが、いわゆる「山酔い」です。そしてこれがさらに重症化すると肺に水がたまる「高地肺水腫」や脳がむくむ「脳浮腫」になり、適切な治療を受けると共に、すぐに低地に下りないと大変危険な状態になり、時には死亡するケースもある。それが「高山病」です。 引用終わり

更に家内が以前、旅仲間とチチカカ湖に旅したツアーでは20名中5名も高山病の症状がでてチチカカ湖訪問を断念したという話しも聞いていた。果して自分の体力で耐えられるのだろうかという不安がつきまとう。

今回の旅行では禁酒覚悟で旅程を通そうと悲壮な決意で旅は始まった。

今回の旅程表は以下のようなものである。


今回の旅行社は日通旅行である。この旅行社は現地の土産物屋へ連れていかないので気にいっているし値段もリーズナブルである。しかも日程の組み方に工夫がなされていて、高所に体が順応していくように配慮されている。

しかも目玉であるマチュピチュを二回訪問することになっているのも魅力であった。

畏敬する旅と囲碁の友人と成田で落ち合って、成田6日の17時15分にテイクオフした。約14時間半の飛行の後カナダのトロントへ到着したが、時刻は同日の15時30分である。日付変更線を越えての旅行だから不可思議なことが起こる。
トロント空港で7時間待機して22時30分にはリマへ向けて飛び立つ予定であったが、折からの降雪で飛行機に積もった雪を蒸気で溶かす作業が付加されたために二時間遅れでやっと機上の人となった。いやはや南米への旅は遠い。

↓ 写真はトロント空港で撮影した成田で搭乗の飛行機



2時間遅れの出発は挽回できず、予定より2時間遅れのリマ到着となった。リマの空港には山形県出身の日系二世の遠藤氏が出迎えにきていた。

↓ 写真はリマの空港ビル



日本人のペルー移民の事情をFukuoka Latinaさんのサイトから借用して調べてみると以下の通りである。

以下は引用
ラテン諸国と日本との交流史
~日本人移民の歴史~

ペルーへの日本人移民の歴史
南米西部にあり、日本と同じく太平洋に面しているペルー。この国は、南米の中で最初に日本人移民を受け入れました。1899年に桜丸で790人の労働者が渡って以来、1923年に移民団というシステムが廃止されるまでに、実に1万8258人もの移民がペルーへと向かい(一番多いのが沖縄県の3686人で、次に熊本県の2680人、広島県の1702人、福岡県の1485人などとなっています。また、九州7県からの移民の合計は5367人(29.3%)、沖縄を入れると実に9053人(49.6%)となります)、それ以降も家族呼び寄せなどの形で移民はこのアンデスの国へと渡り続けました。そして、現在8万人の日系人がこの国に住んでいますが、この数字は130万人以上というブラジルを除けば、中南米で最大のものです。

日本人移民は農業、特に砂糖キビ園での労働を目的として移民をしたのですが、ペルーでの農業は厳しいものでした。そのため、移民の大部分は農業をあきらめ、やがて首都リマなどで床屋や商店などの経営を行うようになりました。ことばの問題などがあり、日本人同士で協力してビジネスを行い、少しずつ社会的地盤を固めていったのですが、それが一般のペルー人には、閉鎖的と思えたこともあったようです。

1941年に始まった第2次大戦はペルーの日系人社会に大きな傷を残しました。米国の支援に回ったペルーは、国内に住んでいた日本人や日系人を捕まえては、米国の集中キャンプに送り込んだのです。多くの人がようやく住み慣れたペルーから引き離されてゆきました。戦後ペルーに戻った人もいましたが、日本あるいは米国などでの生活を強いられた人も少なくなかったのです。しかし、スペイン語を母語とする2世や3世が、ペルーを代表する大学に進学してゆくようになり、日系人は次第に社会の重要なポジションを占めてゆきます。

1990年の大統領選は、日系人にとっては非常に難しいものでした。当初はスペイン語圏全体で有名な作家バルガス・リョサが当選するものと見られていましたが、日系候補アルベルト・フジモリが有力な対立候補となってきたのです。人種対立が激しいペルー社会の中で、少数派である日系人の大統領が生まれた場合、日系社会に対しての風当たりが強くなるのではないか、という不安があったのです。しかし、当時のペルーを震撼させていたゲリラの鎮圧にほぼ成功し、経済的にも安定した成長を達成しました。とはいえ、その後噴出した問題を考えると、彼について歴史的な評価を下すには、もうちょっと時間が必要でしょう。  (by Miguel) 引用終わり

遠藤氏は当然のことながら藤森支持者で、藤森元大統領の功績をことあるごとに褒めたたえていた。



2006年2月7日(火)
カナダでは雪が降っていたが、リマでは温度が高く今は雨期だという。ここリマでは年間降雨量が50㎜だというから埃っぽい印象の街である。空港で飛行機から下りた途端に汗が吹き出した。到着が二時間も遅れたのでガイドの遠藤さんとしては直ちに予定のスケジュールに従って観光に出かけたいところだが、冬支度の我々は何はともあれ旅装を解いて夏支度に改めたい。

添乗員の山口氏の指示で最初に最高裁判所と向かい合わせにあるシェラトンホテルへ立ち寄り素早く夏衣装に衣替えをした。今回の旅の仲間は26人であり、卒業旅行の男子大学生2名、女子大学生4名、初老の夫婦連れ3組、初老の婦人10名、初老の男子4名という構成である。若い大学生を除き、いずれも旅慣れた体力には自信のある面々と見受けた。


↓ 写真はホテルの真向かいにある最高裁判所



衣替えと共に気持ちも観光気分に切り替わり、遠藤さんの案内で最初に訪れたのは黄金博物館である。この黄金博物館はイタリア人の大富豪ムヒカ・ヴイオ氏が金に任せて、主としてインカ時代の財宝を集めて保存展示している博物館であるが、インカ帝国時代の黄金の財宝はその大半が根こそぎスペインに略奪されて残っておらず僅かにプレインカ時代の財宝として残っていたものを収集したのだという。この博物館には刀剣、甲冑、武器なども集められている。

↓ 写真上は黄金博物館 写真下は構内の土産物屋の展示物




綿花畠をリマ市内の至るところに保有していたのがムヒカ・ヴイオ氏である。リマ市内では都市開発が進み、綿花畠は殆ど見られなくなり街の容貌は往時とその趣をすっかり変えてしまっているようである。写真は街の佇まい



次いで天野博物館を見学した。天野博物館は若くして財をなした天野芳太郎氏が古代アンデスの遺跡を調査して歩き集めたプレインカ時代の彩土器と染織布のコレクションを展示してある博物館である。

↓ 写真は天野博物館


天野芳太郎氏が如何なる人物であるかを天野博物館発行の染織図譜に所載の年譜から引用してみると
以下の如き、波瀾万丈の人生を送った人である。

    天野芳太郎 年譜
明治31年(1898) 7月2日秋田県南秋田郡脇本に生まれる
大正5年(1916) 3月秋田工業高校機械科卒業
  9年(1920) 神奈川鋳物工場を創立、経営者となる
  13年(1924) 横浜市太田町に子育饅頭を開店
昭和3年(1928) 4月博多丸で横浜を出帆、香港、シンガポール、
        アフリカを経てウルグアイに到着。-時帰国の
        後、再び海外へ
  4年(1929) 12月パナマ市に天野商会開店
  10年(1935) ペルーのインカ遺跡マチュピチュ初登頂
  16年(1941) 日米開戦と同時にパナマで逮捕される
  17年(1942) 8月ニューヨーク発の強制送還船で横浜上陸、
        在米抑留者の帰還運動を推進する-方、日本
        各地を講演旅行
  26年(1951) 南米への夢断ち難くスウェーデン船で横浜を出
        帆するが猛吹雪のため遭難。米国船に救助され
        る。一カ月後再渡航、リマ市に居を移す
  27年(1952) この頃から古代アンデス文明の研究をすすめる
  28年(1953) リマ市北方のチヤンカイ遺跡発掘に着手
  32年(1957) 東大助教授・泉靖一(文化人類学)夫妻の訪問
        を受ける
  33年(1958) 私設の天野博物館発足。5月泉靖一らの協力
        で日本で初の「インカ帝国文化展」を開催。
        6月第一次東大アンデス地帯学術調査団に同行
  34年(1959) ペルー共和国政府から文化功労勲章受賞
  39年(1964) 天野博物館開館
  57年(1982) 10月日本と中南米の文化交流に尽くした功績で
        国際交流基金賞を受賞
        10月14日リマ市の自宅で死去
また同じく天野博物館発行の染織図譜に所載の「アンデス古代文明編年表」とペルーの地図を引用すると以下のようになる。


天野博物館発刊の彩土器のパンフレット所収の写真を四点程引用してみよう。何れもチャンカイ文化の土器である。チャンカイ文化は1000年~1400年頃ペルーの中部に栄えたプレインカ時代の地方文化である。赤、黒、白の三食で彩られた「チャンカイ三色」と呼ばれる土器はユーモラスな表現に特徴がある。



↑この写真は土偶であり、クチミルコと呼ばれている。



↑この写真は酒器である。鳥が図案化されている



↑ この写真は壺である。魚の文様が描かれている。




↑ この写真は儀礼用の人形でリャマを表わしている。アンデス地方にはスペイン来襲までは馬も牛もいなかった。

古代アンデス文明の栄えた地域は現在のペルー国を中心にアンデスの山岳地帯と太平洋海岸地帯の二つに大別できる。
山岳地帯に起こった諸文化の染織品は雨期に大量の雨が降るため殆ど出土していない。これに対して太平洋沿岸地帯は沿岸を北流するフンボルト寒流の影響で、極度に乾燥しており、長さ3,000㎞にわたって沙漠化している。年間降雨量が20㎜前後というこの地帯では染織品が腐食せず地下に保存された。

インカ帝国(1400年頃~1532年)出現直前の地方文化の一つであるチャンカイ文化の染織品を天野博物館発刊のパンフレットから数点引用すると以下の如くである。自由闊達な精神の躍動を感じさせる作品が多い。



↑ これは鳥猿複合文様・綴織である。



↑ 上左から順に、鳥文様・縫取織、鳥文様・綴織、鳥文様・紋織、鳥文様・縫取織



↑ 人物鳥複合文様・刺繍レース

昼食にはペルー名物のセビーチェとペルー風バエリアを賞味した。魚好きの筆者にはこのセビーチェは美味いと思った。またチチャも飲んでみた。

セビーチェは魚の切り身など様々な魚介類をレモンと唐辛子で柔らかくして、たまねぎのスライス、海藻と混ぜ合わせて、トウモロコシとサツマイモを添えたものである。

チチャは玉蜀黍から作るアンデス地方の酒である。


レストランの看板


原料の玉蜀黍とチチャ


セビーチェ


ペルー風バエリア


店内にある展示物


リマの中心地アルマス広場を散策した。ここには大統領府とリマ最古の大聖堂がある。この大聖堂にはインカ帝国を侵略したピサロの遺骨が埋葬されている。

ペルーと言えばインカ帝国のことを連想する。ここでインカのことについて調べてみると
インカ文明はアンデス山系の高原地帯に興ったアメリカ原住民の古代文明である。インカとはケチュア方言を話すペルーの一種族名に由来する。アジア大陸の新石器時代に農耕文化がベーリング海峡、若しくは太平洋を経て渡来しアメリカの地で独自の発展をした。人種的には黒髪、黒眼のモンゴロイドである。ティアワナコ、トルヒーヨ、ナスカの三地方を中心とした先住民の巨石文化時代を経て、1400年頃、北はエクアドルから南はチリにいたる3,000マイルの大帝国が出現した。神の化身・太陽の子インカ(国王)のもとに、オリエントや古代アジア社会に通じる専制政治が敷かれた。経済・社会組織として、農業共産制と集団労働制が見られ土地は太陽神(祭司)のもの、国王のもの、人民のものに分けられた。アメリカ原産のとうもろこし、じゃがいも、煙草が段々畑で栽培された。そのため導水路が発達した。

鉄器は知られていないが青銅器、金銀器を使用し文字はクイップと呼ばれる結縄文字にとどまった。また車の使用を知らず人力で神殿や宮殿や2,000マイルに及ぶ大幹線道路を建設した。首都はクスコ。1531から2年間でスペインからの侵略者ピサロによって滅ぼされた。



↑大統領府



↑大聖堂



↑アルマス広場1


↑アルマス広場2



↑アルマス広場3


リマ市内で恋人達の公園へ立ち寄った。この公園は大学生達が企画して作り上げた公園だという。花壇に沢山花が咲いていた。












2006年2月8日(水)
今日から高地での生活が始まる。迎えのバスに乗り込もうとすると、着用している革製のウオーキングシューズに目をつけた靴磨きの少年が靴を磨かせてくれとせがむ。終戦後には日本でも駅周辺でよく見かけた光景である。

先ず朝リマのホテルをでて空路クスコへ飛んだ。クスコ空港は標高3,150m位だから市内は3,000m以上の高地である。気のせいか空港へ降りたつと空気が薄いという感じがある。飛行機から降りると徒歩で空港建物まで行った。
そこには民族楽器で楽団が民族音楽を演奏しながら歓迎してくれた。旅情はいやが上にも高まる。

どの観光地にも現地住民が民族衣装を身に纏って民芸品を並べている。バスが到着すると一斉に寄ってきては売り込もうとする。どこの観光地でも見受けられる光景が展開する。

なにしろ高地なので走ったり、大きな声をだしたりしないで体力の温存を図ることにするから動きもスローモーで緩慢になってくる。




↑靴磨きの少年

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↑クスコ空港に到着した搭乗機




↑出迎えの楽団




↑ クスコ市内の眺望



↑ リャマを連れて民族衣装を纏い、写真のモデルになりチップを稼ぐ少女達


早速迎えのバスに乗ってインカ遺跡の観光である。
先ずサクサイワマン要塞跡を見学した。



↑ サクサイワマン遺跡前の物売り




↑ サクサイワマン要塞遺跡の全景、生憎光線の具合が悪く画面が暗い




↑サクサイワマン要塞遺跡に使われた石の中で最大のもの。一個128屯。



↑サクサイワマン要塞遺跡の門、9代皇帝イナズコ神殿の入り口




↑サクサイワマン要塞遺跡の巧みな石工技術




↑サクサイワマン要塞遺跡跡の集会所、催しごとが行われたり、兵の集合場所となった。この広場では毎年6月24日にインカ時代から続く太陽を祭るインティライミという儀式が古式に則り行われる。

インカ帝国は14世紀半ば頃初代皇帝マンコカバックによってクスコの地に建設され、約100年間盛時には人口20万人を数える南米第一の都会であった。
1,531年スペインの略奪者フランシスコ・ピサロによって攻められ、約2年間戦ったが遂に1,533年軍門に下り、時のアタワルカ皇帝は処刑されてスペインの統治するところとなった。

しかし、1536年暮れにはインカ帝国の残党が別名鷹の巣城とも言われたこのサクサイワマン城砦を拠点としてスペイン軍を包囲し、反乱を起こしたという史実が残っている。この時の戦いはインカ軍3万人に対しスペイン軍400人であった。兵数において圧倒しながらも、馬と銃砲を持たず、夜襲という戦術さえも持たず、農夫兼兵士であったインカの反乱軍はスペイン軍の騎馬と銃砲の前にあえなく殲滅されてしまった。
その後も散発的に反乱は起こしたが1572年のビトコスの砦での反乱を最後に完全に鎮圧された。

またこのサクサイワマン城砦は9代皇帝イナズコが一日二万人の工夫を使って80年の歳月をかけて築城したと推定されており、巨大な石を三層からなるジグザグ構造に積み上げたところに特徴がある。ジグザグは22箇所にも及ぶ。


聖なる泉タンポマチャイを見学した。タンポとは宿場で、マチャイは茂みという意味である。タンポマチャイ村は宿場町であり、インカ時代の沐浴場でもあった。

ここでは水の神殿を見学した。これは聖地「ワカ」の一つで壁眼はミイラを置いた場所である。聖職者や皇帝はミイラにされ、重要な祭礼の時には埋葬地から輿ではこばれ壁眼へ安置された。この遺跡にはインカ時代のものとプレインカ時代のものとが共存している。



↑ 聖なる泉の水。



↑ 水の神殿の基礎の石組み、この沐浴場の水源は今でも判っていないという。一つの謎である。



↑壁の窪みは壁眼でここにミイラが安置された。



↑ 水の神殿の石組み。プレインカ時代のもの


午前中高度3,800m以上ある場所の観光で、高山病の症状が出だす人も現れだした。食欲不振、吐き気が最初に現れる。昼食に手をつけない人が何人かいたが、幸いなことに筆者の食欲は旺盛であったが、アルコールは自重した。
昼食はインカ帝国発祥の地アルマス広場に面したレストランで摂った。



↑ レストランで民族音楽の演奏



↑大聖堂、インカ帝国発祥の聖なる地に征服者スペイン人のカソリック大聖堂が建設されケチュア人達に支配者の交替を印象づけた。



↑アルマス広場のお巡りさんとイエズス会教会



↑アルマス広場の点景



↑アルマス広場の点景2

標高3,800m周辺の遺跡見学で体調が崩れかけた所で、本日の観光を終え、一路標高2,800m程度のウルバンバ渓谷の宿へ向かった。途中チンチェロ高原で眺望を楽しんだ。遠くには5,530メートルのサンファンガ山も見ることができた。



↑ チンチェロ高原からの眺望



↑ 車窓から目撃した氷河

ウルバンバ渓谷に入ると道路の両側の家の軒先に赤い布切れを竿の先にぶら下げた光景が眼につくようになった。これは日本でいえば酒造家の杉球に相当するもので、新酒のチチャが出来ましたという標識である。



↑ 新酒のチチャができたことを示す赤い標識

また三輪の自転車が頻繁に往来しているのも珍しい光景であった。三輪自転車のタクシーも走行していた。





聖なる谷ウルバンバ渓谷に到着した。ホテルに一旦荷物を置いてから、プレインカ時代の人々が作ったオリャンタイタンボの遺跡を見学に行った。
石積みの精緻な加工技術には感嘆するばかりであった。



↑この村の興隆の祖、オリャンタイタンボの像
オリャンタイタンボはインカ帝国の将軍であったが、村の娘と恋に陥り尾羽うち枯らしてこの村へ逃避し生活していた。ある日思いついて、この村へ関所を作り、通行税を徴収したらと考えた。このアイデアは大当たりし、村の繁栄に大いに貢献したと言われる。



↑オリャンタイタンボ村の民芸品



↑オリャンタイタンボ村の民家、インカ時代の民家の様子を現在に伝えている。



↑オリャンタイタンボ遺跡の石組み(左はインカ時代、右はプレインカ時代)



↑精巧な石工技術



↑オリャンタイタンボ村の全景



↑オリャンタイタンボ遺跡



↑オリャンタイタンボ遺跡



↑グッドバイ・ボーイ、この時は観光客が物珍しくて見物にきている地元の少年と思っていたが、彼等が「下りのバスと競争するグッドバイ・ボーイ」達であった。

2006年2月9日(木)
オリャンタイタンボの駅よりペルーレイルでアグアスカリエンテスまで約1時間40分の列車の旅である。この鉄道はオリエントエクスプレスの経営で有名なイギリスの会社ワールドが経営している。とても料金の割り高な列車である。渓谷の間を縫うように走行するこの列車を利用しないと自動車道が開通していないので、観光客ははマチュピチュへ行くことができない。観光客には有無を言わせずこの列車を利用させているのである。独占企業の横暴とでも言えようか。



↑オリャンタイタンボ駅の物売り



↑オリャンタイタンボ駅のペルートレイン



↑アグアスカリエンテスの街並み



↑アグアスカリエンテスのホテル、マチュピチュ・イン(標高約2,000m)

アグアスカリエンテスのホテルへ荷物を置いてから登山バスに乗っていよいよ今回の旅行の目玉である空中都市マチュピチュの見学である。ジグザグのヘヤーピンカーブの登山道を約30分バスでドライブしてマチュピチュ遺跡の入り口へ到着した。生憎の雨模様で小雨が降り出した。雲に隠れ気味のワイナピチュは神秘的な雰囲気を湛えていて宗教的な雰囲気が醸しだされている。折から雨期のため、雨に打たれたが幸いなことに雲に邪魔されることなく全貌を見ることができた。





↑上下の写真はマチュピチュ遺跡、 右手の高い山がワイナピチュ



↑ 登山口近くの建物、物見小屋だったかもしれない。



↑ 生贄を供える祭壇の石、右側三段の階段は神聖な場所で上段が天井の神の使いコンドルの場所、中段が陸上の神の使いピューマの場所、下段は地中の神の使い蛇の場所



↑城郭都市への入場門



↑段々畠 玉蜀黍を栽培していた。



↑ 倉庫だったと考えられている建物

2006年2月10日(金)
昨日は雨に降られたが今日は天気がいいようだ。マチュピチュ遺跡を再び訪問しインカ道を約2時間かけて太陽の門(インティプンク、標高2,720m)までのハイキングである。

マチュピチュ遺跡自体は2,400m程の標高であるが、一昨日のクスコの観光は標高が3,000mを越えていたので体調に変調を来した人が続出した。大体、下痢か食欲不振に陥るのである。中には気分が悪くなって今日の見学をパスしてホテルで休養するという人が出てきた。若い女子大生が三人と初老の婦人一人が休養することになった。

筆者も下痢気味である。正露丸を服用しておいたが登山バスの中で便意を催してきて30分の時間が随分長いものに思えた。バスの到着と同時に公衆便所に飛び込んでことなきを得た。正露丸では効かないことが判ったのでより効力の強い下痢止め薬を服用したら下痢は治まりこの日一日の工程を無事こなすことができた。



↑太陽の門を目前にして



↑太陽の門のワジ。太陽の門はクスコから巡礼に来る人々の関所として使われていたという。



↑太陽の門の標識



↑太陽の門。祭礼儀式の時には壁眼にミイラが安置される。

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↑太陽の門から遠望したワイナピチュとマチュピチュ遺跡



↑太陽の門から見たインカ道。山越えしてクスコまで徒歩四日の旅程という。



↑太陽の門近くのインカ道


マチュピチュ遺跡の中で印象に残った箇所を幾つか拾ってみよう。
太陽の神殿、インティワタナという日時計、コンドルの神殿ともいわれる牢獄、グッドバイ・ボーイの健脚であろうか。



↑太陽の神殿を上から見たところ。この太陽の神殿の様式はクスコでも再び見ることになる。太陽信仰のインカ文化の中では重要な神殿の形式である。



↑太陽の神殿を下から見上げたところ



↑太陽の神殿の基底部にある陵墓。この場所でマチュピチュの発見者ハイラム・ビンガムはこの空中都市で最も重要な人物の遺骸を発見した。



↑インティワタナ。太陽の日差しで方位と時刻を調べていたらしい。日時計か。四つ角が方位を示している。



↑ コンドルの神殿。コンドルの頭を模した石。

←コンドルの神殿。両側の岩がコンドルの両翼に見立てられている。ここには牢獄があったとも考えられている。



↑ マチュピチュ遺跡の配置図(イポカンポのガイド、失われた都市・マチュピチュより転載)

グッドバイ少年というのは、マチュピチュ観光を終えて登山バスで下車する観光客を終点まで追っかけてきては「さよなら」の挨拶をする少年のことである。登山道はつづら折れのヘヤピンカーブを蛇行しながら下っていく。グッドバイ少年は、直線の階段を駆け降り、バスの到着よりも先廻りして挨拶を送るのである。この所作が終着駅まで数回くり返される。乗客達は次の曲がり角に果して少年が先廻りしているか興味をもって見ている。少年が居ると何故か安心するのである。かくしてこの少年は健脚を披露してなにがしかのチップを稼いでいるのである。



↑終着駅近くになり、バスに乗り込んできて最後の挨拶を送る少年。現地の民謡を一曲披露した後、チップ受けの袋を手にして車内を廻るのである。

これとは逆コースを辿るグッドバイボーイをスリランカの紅茶工場へ赴くバスの中で体験したことがある。スリランカの場合は麓からヘアピンカーブを蛇行して上がっていくバスをやはり階段を直線的に駆け上がりながらバスより先回りして挨拶を送っていた。

二日間、マチュピチュの遺跡を堪能した後、午後からアグアスカリエンテスの駅から再びペルートレインに乗って、クスコへ向かった。



↑ アグアスカリエンテス駅周辺の土産物屋1




↑ アグアスカリエンテス駅周辺の土産物屋2



↑アグアスカリエンテス駅構内

約3.5時間の列車の旅である。クスコの手前のポロイ駅で下車して途中クスコの夜景が展望できる箇所に立ち寄り夜景を眺めた。イルメーションの点滅が皆無で橙色一色の都市の夜景は、味わいのある光景であった。残念ながら、写真は画面に光の筋が流れているだけで失敗作であった。

ホテルでは民族音楽フォルクローレを聞きながら夕食を摂った。



↑クスコのホテルで夕食時の楽団演奏1



↑クスコのホテルで夕食時の楽団演奏1


マチュピチュで体調を崩した三人の女子大生はホテルで酸素吸入をしたが効き目はなかったようである。
船酔いは陸に上がらないと治らないように、高山病も平地で空気の濃い所へ戻らないと治らないのだろうか。


2006年2月11日(土)

体調を崩した女子大生三人はクスコの病院で診察を受け、点滴をして貰うことになったが、うち二人は重症のため、入院して治療を受けることになった。一人は点滴を受けて元気になり夕方から皆と一緒に行動できることになった。

朝はゆっくりして11時にホテルを出て、アルマス広場の12角の石とコリカンチャ(太陽の神殿)を見学した。



↑「12角の石」の石があるハトゥンルミヨク通りの街並み



↑ハトゥンルミヨク通りの「12角の石」はカミソリの刃も通らぬ程精巧にできた石組みの一つである。




↑12角の大きな石に対比して小さな石もある。石工職人の技に対する誇りを感じさせる。



↑インカ時代の石畳みが続くロレト通り。最も美しい街並みと言われている。




コリカンチャ(太陽の神殿)




↑サントドミンゴ教会。インカ時代のコリカンチャ(太陽の神殿)のあった所。広場の中央にインカ時代に使われていた井戸がある。



↑コリカンチャの模型



↑1950年の地震で上部の増設された建物は倒壊したが、インカ時代の下部の建物は倒壊しなかったことを示す写真。



↑街中で見かけた壊れた建物

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↑アルマス広場にある噴水の像

 クスコ市の世界遺産観光地区の観光を終えて、チチカカ湖観光拠点のプーノへ向けて長駆394㎞のドライブである。昼食の握り飯を摂ったのはサンパブロ村の土産物屋であった。ここにはアルパカが放し飼いにされていた。



↑サンパブロ村で玉蜀黍を潰す作業をしている乙女



↑サンパブロ村の土産物屋の女主人



↑サンパブロ村の土産物屋の主人



↑サンパブロ村の土産物屋の庭に放し飼いされているアルパカ



↑サンパブロ村の土産物屋の庭に放し飼いされているアルパカ

プーノまでのドライブ中、車窓よりインカ時代の関所跡のルミコルカや氷河を観察することができた。屋根瓦を造っているビニパンパ村を通過し、パンで有名なオロベサの町では直径30㎝はあろうかという大きなパンを買い試食した。昼食後には標高4,335mのララヤ峠を通過した。この峠は太平洋と大西洋との分水嶺になっている。

明日宿泊予定のフリアカの町も通過した。この町は創設25年の新興都市であるが、人口は25万人で今後もますます発展することが予想されている。町の印象は「針山の町」である。つまり、将来の建て増しを予定してどの建物も鉄筋を屋根の上に剥き出しのままにしているのである。中にはもうこれ以上建て増ししなくてもよかろうにと思える7~8階建ての建物にまで鉄筋が突き出してあった。都市の美観を損なう見苦しい景観だと思った。



↑ 車窓から観察した氷河

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↑ ララヤ峠、標高4,335m



↑ インカ時代の関所跡。ルミコルカ



↑ フリアカの町の点景



↑ 「針山の町」の印象の残るフリアカの鉄筋剥き出しの建物



↑ プーノの町の踊り子。プーノの町はお祭りの期間で至るところに祭りの衣装をつけた踊り子を目撃した。また祭りの人込み目当てにペルー中のスリが集まっているとも聞いた。



↑プーノカーニバルに出場する人々


2006年2月12日(日)

朝からティティカカ湖に浮かぶウロス島の観光である。ウロス島は現在23あり、一つの島には5~10家族がトトロで造った苫屋で質素な生活をしている。同じ島に住む住民は何れも血族である。ウロス島とは湖に自生するトトロと呼ぶ葦を積み重ねて造った浮き島のことである。

ウロス島に最初に住みついたインディオの人々は2,000年前からであり、当時とあまり変わらない原始的で質素な生活をしている。

チチカカ湖は塩分が1%あり、昔は外洋と繋がっていたが、アンデス山脈の地殻変動により、外洋とは切り離された状態となった。この湖は8,560平方㎞あり、水深の浅いところは3m~4m、ボリビアとの国境付近では284mもある。琵琶湖の面積の約12倍もあるし、富士山よりも高い標高3,812mの高地にこのように大きな湖があることも、日本人観光客にとっては大きな驚きである。

チチカカ湖に棲息している魚は現在5種類である。アメリカよりもたらされた鱒の養殖が現在行われている。

チチカカ湖の波止場からモーターボートに乗って最初にウマウタ島を訪問した。次いでトトロ舟でスマキリ島を訪ね、再びモーターボートでウィニャイトトラ島を訪問した。



↑チチカカ湖の波止場周辺の点景



↑湖面に顔を出している自生のトトロと後方の白い建物はヒルトンホテル



↑スマキリ島の学校



↑最初訪問した浮島ウマウタ島のトトロ舟



↑トトロ。葦の一種だが、畳表の材料になる藺草ともよく似ている。トトロは舟や、家や、マットレス、トイレットペーパーに活用されている。またトトラは3~5分で4m近くに成長する。



↑ウマウタ島の住民が広げている土産物



↑左は湖でとれた鯰科の魚カラチを焼いて干したもの、中はキヌア、右はじゃが芋
  


↑この湖に棲息する魚カラチ



↑浮島に植えてあるトトロ



↑ウマウタ島の長老



↑ウマウタ島からトトロ舟に乗って次のスマキリ島へ向かう同行の人達



↑ウィニャイトトラ島の苫屋の屋根に設置された太陽発電器、小屋の中にはテレビが置いてあった。



↑ウィニャイトトラ島に別れを告げる


ウロス島の見学を終えて、標高3,900mの丘に残るシルスタニの石塔の墓群遺跡へ向かった。



↑ チチカカ湖とプーノ市街

 シルスタニには紀元前400年頃、ティアワナコ文化とウカラ文化が栄えていた。11世紀にスペイン人がやってくると、プーノのコイヤ文化がインカ文化に征服され、インカの人々がチチカカ湖周辺に住みつくようになった。



↑ シルスタニ遺跡の遠望

見学した遺跡には11世紀に造られた、石を積んだだけのアイマラス王の墓、13世紀に造られたインカ様式の高さ12mの墓塔があった。墓に埋葬された財宝をスペイン人達が略奪するためだったのか、墓の正面は破壊されていた。太陽神殿の跡、月の神殿の跡も残っていた。



↑ 上はインカ様式の墓塔、下はプレインカの墓塔でアイマラス王の墓



↑ 高さ12mの墓塔、正面はことごとく破壊されている。



↑シルスタニ遺跡群

この遺跡には聖霊の宿る場所とされるワカの石も残っていた。



↑ ワカの石群



↑遺跡のある場所からの展望、動物はアルパカ



↑ シルスタニ遺跡前の土産物屋



↑ プーノからシルスタニへの道中で見かけた農家

昼食をフリアカのレストランで摂った後、フリアカのマンココバック空港からリマへ飛び、最初投宿したシェラトンホテルへ夕方到着した。



↑フリアカの町でよく見かける剥き出しの鉄筋




↑フリアカのレストランで食べたアルパカのステーキ
 


↑フリアカのマンココパック空港にある、マンココバック像(インカ初代皇帝)


2006年2月13日(月)
7時にリマのホテルを出発して、車窓より沙漠の光景を眺めながらナスカの地上絵を見学するためイカへ向かった。約303㎞の沙漠のドライブである。
海岸には貧しい人々の草葺の小屋やベニヤ葺きの小屋が立ち並んでいた。最初は草葺きの小屋を作り、お金が貯まるとベニヤ板になり、日干し煉瓦の家へと変わっていくという。養鶏所の鶏舎もそちこちに見かけた。また手入れのされている土地と荒蕪地の違いがはっきり判る土地の対比には人間の営為の素晴らしさを思い知らされた。



↑沙漠に建っている貧しい人々の苫屋



↑養鶏場



↑緑地と砂地が裁然と分かれている対比。緑地には水の配管が施されている。

通過したカナーテの町は1899年4月3日に日本人が最初に入植した所で今は緑豊かな農地に変貌している。昔は綿の産地であったが、現在では綿の畠は見られない。また通過したチンチャの町は黒人が住む人口2万人のワイン製造の町であるという。

航空機に搭乗するには絶好の無風晴天の条件に恵まれて11時過ぎにはイカの空港に到着した。



↑搭乗したセスナ機

この空港にはクスコで入院していた二人の女子大学生も体調回復して、車で送って貰い駆けつけてきた。何はともあれ元気に旅ができるようになったことは同慶の至りである。

飛行機に乗って約1時間半、遊覧飛行をしたが沢山ある地上絵を目視確認できたのは僅か5点程であった。カメラで撮影してはみたが判然と絵だと判るものは一枚もなかった。ここでは地上絵の写真は「イポカンポのガイド・・ナスカの地上絵」所載のものを借用することにする。



↑離陸直後、イカ空港の上空より俯瞰



↑地上絵の配置図



↑蜘蛛の地上絵



↑ハチドリの地上絵

ナスカの地上絵は紀元100年以前に広大な大平原の沿岸沙漠地帯に幾何学図形が刻まれた。何故どのように作られたのか世界の科学者達がたてた仮説は沢山あるが未だ真相は解明されていない。多くの謎と神秘に包まれた遺跡である。

ナスカ地上絵の見学を終え、リゾート地のパラカスホテルに夕方7時半に到着した。


 
2006年2月14日(火)
保養地パラカスでは高地の観光を恙なく終了したので、久し振りに痛飲した。海岸へ散歩に出ようとすると丁度入り日の時間であった。運良くサンセットを撮影することができた。

翌朝8時にはホテルを出て近くの桟橋からバジエスタ島行きのモーターボートに乗り込んだ。バジエスタ島は野鳥やアザラシ等の国立保護区になっており、かもめ、ゆりかもめ、あほうどり、海鳥、ペンギン、アザラシ等の繁殖地になっている。島へ向かう途中、船上から岩の上に描かれたカンデンブロの地上図を見学した。通称「蝋燭立ての燭台」と言われている。創作者や用途は不明である。

バジエスタ島に近づくと鳥の糞の臭いが鼻をつく。島には夥しい数の鳥達が群れていた。



↑パラカス海岸の日没



↑パラカス半島をモーターボート上から遠望



↑ カンテンブロの地上絵



↑バジェスタ島遠望



↑岩に休息する海鳥の群れ



↑ 洞門とアザラシの群れ、穴の下の黒い塊がアザラシの群れ



↑ 見学にきたモーターボートと海鳥



↑ アザラシの群れ



↑ペンギンの群れ

バジェスタ島の観光を終え、リマへ戻りリマ空港からトロント空港を経由して成田空港へ帰国した。

最後に帰路リマ市内で車窓から撮影した海岸と人家の密集した丘の写真を掲げておこう。





    完

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六義園の紅葉

  11月27日の日曜日、六義園の紅葉がライトアップされる時間を見計らって紅葉狩をした。光に照らしだされた幻想的な光景は一見に値する。それにしても大変な見物客の洪水には驚いた。

Rikugien

  六義園は徳川五代将軍綱吉の側用人・柳沢吉安が将軍家から拝領した土地を8年もの歳月をかけて完成させた江戸時代の代表的な庭園で、和歌に長けた吉安が、万葉集・古今和歌集にちなんだ景勝八十八箇所を模して造った庭園である。

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京都永観堂の紅葉

京都東山の永観堂の紅葉は素晴らしい。今年11月13日(日)に訪問したが未だ見頃とは言えなかった。昨日の日曜あたりが見頃だったのであろうか。

永観堂の紅葉

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京都龍安寺の秋景色

  11月13日の日曜日京都の秋を紅葉狩して楽しんだ。龍安寺に久し振りに立ち寄って石庭を眺めながら沈思黙考してみた。

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秋の金閣寺

  秋の日曜日所用があって大阪へ行った。途中金閣寺へ立ち寄って美しい紅葉を鑑賞した。折からブッシュ大統領の入洛に備えて全国各県の県警から動員された機動隊がものものしく警備にあたっていた。

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ジュラ紀大恐竜展

  ジュラ紀の大恐竜展が終末に近づいた8月26日にパシフィコ横浜へ見学に行った。夏休みも終盤に近いとあってちびっこ達が沢山見学に来ていた。

  会場に掲げられた説明のパネルを読んでいくと1900年代の後半に中国で新しい恐竜の発見が相次ぎ、それに伴って新しい学説が沢山生まれていることを知った。

kaijyu


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池の小鴨達

 このブログもあまり肩肘張っているとなかなか書くことができないので、気休めに散歩していて感じたこと見たことを記してみようかと思うようになった。本来ブログとは日記の形式を借りたものだからそれでいいのではないかという気がしている。

 早朝散歩で公園に行った。池の畔に大勢の人だかりができている。この場所には翡翠がやってきてカメラマンが沢山押しかける場所でもある。翡翠でもきているのかと思って覗いてみると昨日まで隣の池にいた鴨の親子が何時の間にかこの池に引っ越ししてきていたので、その可愛い水遊びの様子をみようと集まってきていることを知った。カメラを持っていたので小鴨達を撮影してみた。
 kogamo

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桔梗

 散歩をしていて民家の庭先に桔梗が咲いているのを見つけた。桔梗は秋の七草に数えられているので、今の時期に咲いているのはおかしいなと思いながらも撮影だけして帰宅し桔梗を調べてみたら、この花は夏に多く咲く花であることが判った。kikyou

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花の名前を調べる

  梅雨で雨がちであるが雨が降っていない日の早朝の散歩は楽しいものだ。今あちらこちらで色々な花が咲いている。だが浅薄な知識ではその名前の判らないものが多い。そこでデジタルカメラを携帯して珍しい花や名前を知らない花を見つけた時にはこれを撮影して帰り図鑑で調べたり、インターネット検索をして調べてみる。ところが全然名前を知らない花の場合図鑑の写真と一ページずつ比較しながら判定していくので時間がかかって大変である。
  そんなある日、ある読者から画像掲示板@植物園へようこそというサイトの紹介を受けた。早速名前の判らない花の写真を添付して投稿すると先達達が直ちに回答して下さるのである。
  今朝の散歩で見つけたパンジーゼラニュウム(フクロソウ科、ペラルゴニュウム属)の写真をアップしておこう。
  写真をクリックすると拡大される。
Panzyzeraniumu

  この花が旬を迎えた時の画像は次のURLの通り


注記  その後親切な方からこの花はエンゼルペラルゴニュームであるとのご教示を頂いた。

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工場と桜

  森永工場の構内に咲いた染井吉野

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堰堤の桜を見ながらボートを漕いだ

  絶好のボート日和であった。空は晴れ風はなく水面は鏡のように穏やかであった。漕艇場に急ぐ途中鶴見高校の校舎前の桜並木は満開であった。艇庫を対岸から望むとここにも桜が咲いていた。
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柳と桜

  今公園は芽吹き時でいろんな植物が一斉に活動を開始した。人は桜を見ようと集まって来る。しかし桜以外にも見惚れたい植物がある。柳が薄緑に若い葉をDSCF1456-30
垂れて風に揺られる風情は染井吉野の淡いピンク色と調和して美しい。こころぐの仕様が変更になったようなので試しに写真画像を使ってみた。画像をクリックすると別枠が開く。

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