暮らしを楽しむ

2015.10.16

京大学生寄宿舎の舎友会に出席した。

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注 掲載した写真は田井順之先輩が編集されたものを使わせて頂いた。

平成27年10月7日(水)
朝の散歩は中止してPCに対峙して過ごし、三つ池口バス停まで送って貰った。路線バスで川崎駅へ行き、Jrに乗り換え品川駅まで。品川駅から高輪和彊会館へは坂道があるのでタクシーで行った。11時30分開会の直前に着くことが出来た。次々に懐かしい顔ぶれが駆けつけてきた。総計28名の出席で同期生は山本農、池田、石崎、宮川、大熊の五人だけ。加賀山さんが別人に見間違うほど頭髪が剥げ丸々と太っているのが印象的であった。

この舎友会は寮母の野田もとさんの謦咳に触れた舎生達がその遺徳を偲んで開催されたのが嚆矢である。

開宴に先立ち八木先輩から現代のエネルギー問題についての解説があり大いに蒙を開かれた。

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↑エネルギー問題について講演する八木先輩。


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会員が老齢化したので会の存続についての自由意見が交わされたが大方の意向は存続である。幹事役がいないのが一番困ることだが山本が手を挙げた。

最後にスクラム組んで寮歌を高唱し再会を約して散会となった。

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北親会の愛唱歌集も併せてアップしておく。

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2015.09.29

祇園の手打ち・・・京都慕情

京都大学ボート部創部百周年記念式典が2006年12月に京都大学で開催された。そのとき祇園の手打ちが演じられた。

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2011.08.23

いろは歌

鳥啼歌(とりなくうた) [編集]また、明治36年に万朝報という新聞で、新しいいろは歌(国音の歌)が募集された。通常のいろはに、「ん」を含んだ48文字という条件で作成されたものである。一位には、坂本百次郎の以下の歌が選ばれ、「とりな順」として、戦前には「いろは順」とともに使用されていた。

とりなくこゑす ゆめさませ
みよあけわたる ひんかしを
そらいろはえて おきつへに
ほふねむれゐぬ もやのうち
鳥啼く声す 夢覚ませ
見よ明け渡る 東を
空色栄えて 沖つ辺に
帆船群れゐぬ 靄の中


大為爾の歌出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
大為爾の歌(たゐにのうた)はいろは歌同様に、47文字の仮名をすべて一度ずつ用いて作られている歌。作者は源為憲ではないかと推測されるが、未詳。冒頭が「たゐに」で始まることからこの名がある。

天禄元年(970年)に源為憲が著した『口遊』(くちずさみ)という書物に掲載されている。為憲は当時普及していた天地(あめつち)の歌を引き合いに出し、これを里女の訛説として退け、この歌の方が勝っていると評したが、五七調の歌であったのが災いしたか、七五調を基調とする今様形式のいろは歌が登場するまで、手習い歌としての天地の歌の地位は不動であった。

大為爾伊天 奈従[1]武和礼遠曽 支美女須土 安佐利(於[2])比由久 也末之呂乃 宇知恵倍留古良 毛波保世与 衣不弥[3]加計奴

たゐにいて なつむわれをそ きみめすと あさりおひゆく やましろの うちゑへるこら もはほせよ えふねかけぬ

田居に出で 菜摘むわれをぞ 君召すと 求食り追ひゆく 山城の 打酔へる子ら 藻葉干せよ え舟繋けぬ

1.^ 「徒」の誤り
2.^ 原典脱字
3.^ 「祢」の誤り
なお、本歌は天地の歌と異なり、ア行のエとヤ行のエの区別を存しないが、最終句「え船繋けぬ」が連体止めになっていることに注目して、本来は「え船繋けぬ江」で、原歌の成立は平安初期にまで遡るのではないかと指摘する説もある。

関連記事 [編集]

津和野の歌

安野光雅作(2011.8.17産経新聞より転載)
ゆめにつわのを おもほえば
みよしろあとへ うすけむり
なくこねこゐぬるや さぎまふひ
えんらいそれて かぜたちぬ

夢に津和野を 思ほへば
見よ城跡へ 薄煙
泣く子寝ぬるや 鷺舞ふ日
遠雷それて 風立ちぬ

囲碁松風歌
まつかぜさわぐ むらなれば
ゐろりびもえて ねずうちぬ
いしおとたえぞ こゑをきけ
ぼんぷゆめみる あのよにや

松風騒ぐ 村なれば
囲炉裏火燃えて 寝ず打うちぬ
石音妙えそ 声を聴け
凡夫夢みる あの世にや

囲碁の歌(1995.5.11日経朝刊より転載)

中山典之作
みそらをかけて やまのはへ
しすむつきさえ ゐこにゑふ
いろあせぬゆめ ほんねなり
われうちとくよ おもひたる

美空を翔けて 山の端へ
沈む月冴え 囲碁に酔ふ
いろ褪せぬ夢 本音なり
吾打ち得よ 懐ひたる


中山典之作
いろはのかなに ちゑねりぬ
ゐこをみつめる くとすべし
せんそもあきれ おほわらひ
うたよまむふて さえやゆけ

いろはの仮名に 知恵ねりぬ
囲碁を見つめる 句とすべし
先祖もあきれ 大わらひ
歌詠まむ筆 冴えや行け

中山典之作
ちるよさくらに ねすあゆみ
はなおもふとて そまうせぬ
えんやめしろへ われもゑひ
つきかたむけり ゐこのいほ

散る夜桜に 寝ず歩み
花を追ふとて 杣失せぬ
宴止めし炉辺 吾も酔ひ
月傾けり 囲碁の庵

中山典之作
るらふのたひは おもしろや
ゐこうつゆゑえに ときわすれ
あさいちをよく ねりてなむ 
せそんへまみえ めけぬかほ

流浪の旅は おもしろや
囲碁打つゆえに 時忘れ 
浅い智をよく 練りて南無
世尊へまみえ めけぬ顔 

中山典之作
われもうみよりゐこすらひて
ろをまかせゐぬ おきつしほ
ふえのねむけん たそやこく
はなちるゆえに あめいとへ

我も海より さすらひて
櫓を任せ居ぬ 沖つ潮 
笛の音夢幻 誰そや漕ぐ
花散るゆえに 雨いとへ


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2010.06.15

日本に於けるスパゲッティ・ナポリタンの発祥地といわれているホテルニューグランドで昼食を摂った。

みなとみらい地区と山下公園を散策した後、 ホテルニューグランドでスパゲッティ・ナポリタンを賞味した。

このホテルには第二次世界大戦終了後の占領期間中マッカーサー総司令官が執務した部屋も残されている。

ナポリタンの起源

ウイキペディアによればナポリタンの日本における起源は次のように説明されている。

以下引用
ナポリタンの起源には諸説ある。
第一次世界大戦に連合国側で参戦した日本が地中海に艦隊を派遣した際にイタリアに寄港してトマトベースのパスタに触れたというものや、日本海軍の食事などで大正時代には既に今のナポリタンと同じような料理が出されていたなどがある[1]が、横浜山下町にあるホテルニューグランド第2代総料理長・入江茂忠が最初に考案したとの記録が残っており[2]、現在ではこれが最も有力な説である。
同ホテルは戦後まもなくGHQに接収され、マッカーサーが滞在していた部屋が現在でも残っているなど以後7年間米軍によって使用された。当時の米軍ではスパゲティをトマトケチャップで和えた物が一般的な兵営食でレーション(缶詰の戦闘食)としても供給されており、同ホテル駐在の兵士たちも軽食や夜食として良く食べていた。接収解除後の同ホテル倉庫には、保存の利くスパゲティーの乾麺と瓶詰ケチャップが大量に残されており、当時の日本では珍しかった両者を組み合わせた料理をホテル再出発の看板にしようと料理長・入江が思い立ち、ナポリタン開発に取り組む事になる。
入江はケチャップだけでなくトマトピューレなどの調味料や具材を加え、本格的な料理に仕上げた。当時の日本人はアルデンテに馴染みが無く試食会では不評だったため、日本人の嗜好に合わせるべく7割方茹でたスパゲティを冷蔵庫に一晩置いてうどんのような食感にする調理法を編み出し[3]、かつてナポリでトマトソースのスパゲティーが屋台で人気だった故事とアメリカ風にケチャップを使う点に因んで、英語で「スパゲティナポリタン」と命名しメニューに載せた。このスパゲティナポリタンはその後大衆化したナポリタンとは違い、フランスのスパゲティ・アラ・ナポリターナに近い料理であり、現在も同ホテルで提供されている。

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2010.02.27

分進秒歩で進化する携帯電話

携帯電話はドコモのムーバD252iを5年ほど愛用した。ところがこのムーバは来年サービスを終了するという。フォーマに機種変更するようにとさまざまな特典を付与して勧誘がある。

携帯電話に付加されている機能は多種多様でなかなか使いこなすことが難しい。

ムーバでは通話、メール、静止画カメラ、スケジュールを多用していた。ところがカメラ機能が使えなくなって久しい。カメラは常時携帯しているので携帯電話からカメラ機能が消失しても痛痒を感じなかった。

ところが最近スケジュール機能が使えなくなってしまった。これが潮時かなと思いついにフォーマのP-10aに機種変更した。試してみてその多機能振りに驚いた。とても使いこなせないのではないかと思う。

それでもチャレンジしてみようという気持ちだけはまだ失ってはいない。そんなときに発見したのが【ケータイ生活】という携帯活用術である。

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2010.01.02

東国三寺社へ初詣

元旦に成田山新勝寺、鹿島神宮、香取神宮をバスで駆け巡る日帰りの初詣をした。
Jr川崎駅西口前を8時に出発して
新勝寺→成田ビューホテル昼食→鹿島神宮→香取神宮→佐原市の東薫酒造の樽酒鏡開きとめぐり、
Jr川崎駅西口に19時30分に帰着した。
クラブツーリズムの主催するバスツアーに参加したのである。参加者は35名。

バスツアーによる元旦の初詣は昨年,日光東照宮ツアーに参加したのがはじめてであったが元旦の早い時間帯だったので道路は空いており快適な初詣を体験できた。これに味をしめて今年は未参詣の新勝寺も含まれている上に日帰りで鹿島神社、香取神社まで参詣できるのが魅力なのでこのツアーを選択した。残念なことに折角撮影した写真を操作の手違いですべて消去してしまった。

▼成田山新勝寺
 開基940年の歴史を持つ関東三大不動尊の一つ。平将門の乱を鎮圧後に新しく開基されたので新勝寺と命名された。初詣者数番付上位に毎年顔を出す名刹なので永年の経験から蓄積したノウハウを駆使して参詣客や車両に対する誘導体制と警備体制は見事である。

▼成田ビューホテル

▼鹿島神宮
 日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社。地震の守り神。

▼香取神宮
 日本全国に約500社ある香取神社の総本社。武神を祭る大社。著名運動選手がよくお参りする。

▼鹿島立ち(かしまだち)という言葉について
 意味:旅に出かけること。
 類:●旅立ち●出立 用例:菟玖波集-羇旅「これぞこの旅のはじめの鹿島立」 
★鹿島・香取の二神が、天孫降臨に先だち、鹿島を発(た)って国土を平定した故事によるとも、
また、防人(さきもり)や武士が旅立ちの際、鹿島の阿須波明神に祈りをささげたこと
に基づくともいう<国語大辞典(小)> 
用例の出典:菟玖波集(つくばしゅう) 最初の連歌撰集。書名は、連歌の起原とされる記紀の
「新治(にいばり)筑波を過ぎて…」の問答に因(ちな)む。20巻。
二条良基、救済(ぐさい)撰。
文和5年(1356)成立、延文2年(1357)勅撰集に准ぜられる。
古来の連歌二千余首を収集。

▼東薫酒造
文政8年(1825年)創業の佐原市の老舗醸造所。

★感想
・各寺社に共通していることは初詣の老若男女、善男善女の数が夥しく多いことである。
本堂や本殿へ至る参堂には恐怖を感じるほど多人数の行列ができており押すな押すなの大盛況ぶりであった。
この参詣者数の多さに辟易しながらも行列に並んでお賽銭を奉納した後、寺では合掌して般若心経を読経し、神社では二礼二拍一礼の誠を捧げ国家の繁栄、家内の多幸、我が身自身の健康を祈念した。
・往復のバスの車窓から観察していて日章旗を掲揚している建物が皆無と言っても過言とは言えないほどの少なさは驚きであった。初詣の多さに比べこの現象をどのように理解すればいいのだろうか。
祝日とは俗に旗日とも言われる。元旦は祝日法に祝日と明記されている。国旗掲揚に反対する日教組の亡国の思想が浸透して日本の良風美俗を破壊してしまったということなのか。


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2009.09.23

9月21日の産経新聞にグルジアの現状を紹介する記事の続編が掲載された。

9月21日の産経新聞にグルジアの現状を紹介する記事の続編が掲載された。

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ソ連時代の宗教否定政策のもとで荒れ果てていたカヘチア地方の宗教施設と牧歌的な光景を思い出す。

2007.4の旅日記には次のように書きとめている。

 カヘチア地方の旧首都テラビ近郊ではアラベルティー大聖堂とイカルト教会を訪問した。
アラベルティー大聖堂は11世紀に建造されソ連時代には宗教否定政策のもとで荒れていたが解放後は観光資源としての価値が見直されている。
周辺の牧歌的な光景は旅人の心を癒してくれる。

写真はグルジア人が好んで用いるスティーム風呂ハマムである。

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2009.09.16

新聞記事でグルジア訪問を追憶

2009.9.14の産経新聞にグルジアの記事が掲載された。この国へは2年前に訪問している。観光旅行なので観光地を訪問するだけでこの記事のような一般市民の内情にまで立ち入ることはできなかった。グルジア訪問の旅日記には以下のように記述されていた。

 グルジア最後の日はマーケットを見学してから国立博物館を見学した。マーケットには庶民の生活振りを窺わせる生活物資が並んでいる。野菜、果物、肉、魚などの生鮮食品が豊富に並んでいて買出しの人や納入の商人達で賑わい喧騒を極めていた。そこにはソ連時代の統制経済から市場原理経済に移行して自由な経済活動の恩恵を享受している庶民の素顔を見る思いがした。

 道路を隔てた対面にも中国人の経営するマーケットがあったがこちらは閑散としていた。何故そうなるのか理由はわからないが面白い現象である。マーケット内を一巡すると買いたいものがあるわけでもないので与えられた自由時間を持て余してしまう。 

 次に見学した国立博物館には考古学的な発掘物が展示されていたが特筆に価するものはなかった。強いて言えばBC7世紀~BC5世紀の頃の墓地から発掘された貴婦人の装飾品の金細工と前3世紀の馬の飾り物であろうか。撮影は禁止されていた。 

 テレビ塔のある丘からトビリシ市内を展望した。遠くにコーカサスの山々がかすんで見えていた。   

. 2009.9.14産経新聞の記事1
2009.9.14産経新聞の記事2

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2009.09.12

元気会寄席で落語を楽しんだ。

川崎信用金庫の元気会寄席で落語を楽しんだ。

9月7日の午後川崎信用金庫元気会主催の元気会寄席で落語を楽しんだ。会場は川崎市教育文化会館である。

年金の受け取り口座を川信に開設していると受けられるサービスである。川信の営業本部の説明によれば元気会の会員も最近では10万人に若干届かない程の人数にまで増えたという。

当日の出演者は古今亭志ん坊、柳家さん弥柳家小権太、ホームラン、柳家権太楼であった。


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2009.09.03

鎌倉芸術館でクァルテット・ラベルの弦楽四重奏を聴いた

「グローバル旅と音楽の集い」が鎌倉芸術館で催された。この旅行会社の企画する「サウジアラビア周遊とペトラ遺跡」の旅に参加したことがある。そんな縁で「グローバ゙ル旅と音楽の集い」が開催される都度招待券が届く。

音楽には門外漢だが旅の畏友のH氏が音楽好きなので誘って一緒に聴きに行った。鎌倉芸術座へ行くのは初めてであったが東海道線の大船駅から徒歩約10で行ける。

鎌倉芸術館近くの交差路の標識に松竹前とあったから多分松竹の映画撮影所が近くにあったのだろう。それらしきものを探したが見つからない。

周辺で大きな敷地を持つ建物はイトーヨーカードーだけなので多分イトーヨーカードーが撮影所跡地に進出してきたのであろうと憶測した。

今回の音楽会はクァルテット・ラベルが解散することになるので最後の日本公演だという。

構成員がそれぞれに多忙なため常時集まって練習することができなくなったからだ。
クァルテット・ラベルのプロフィールと演目

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