旅行・地域

2014.07.15

民族舞踊のビデオクリップ付き紀行記

民族舞踊のビデオクリップ

http://hayashima.cocolog-nifty.com/essay/cat554841/index.html

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2011.01.24

【変わりゆくブータン~桃源郷の今】

2011.1.24日付けの産経新聞に【変わりゆくブータン~桃源郷の今】という記事が掲載された。筆者の紀行記を紐解き目次を作成した。

神秘の王国ブータンの旅N013・・・遊牧民の踊りと歌のビデオクリップ
神秘の王国ブータンの旅No12・・・マスクダンスのビデオクリップ
神秘の王国ブータンの旅No11・・・民族舞踊のビデオクリップをユーチューブにアップした
神秘の王国ブータンの旅No10・・・ピカサでウエブアルバムを試作
神秘の王国ブータンの旅No9・・・纏め
神秘の王国ブータンの旅No8・・・聖地タクツァン僧院
神秘の王国ブータンの旅No7・・・国是であるGNHの実現に励んでいる国
神秘の王国ブータンの旅No6・・・プナカ~ウオン デイボダン
神秘の王国ブータンの旅No5・・・ ティンプー の観光名所巡り
神秘の王国ブータンの旅No4・・・テインプーの市街
神秘の王国ブータンの旅No3・・・パロの弓場と野菜市→テインプーの宿
神秘の王国ブータンの旅No2・・・バンコク空港~パロ空港
神秘の王国ブータンの旅 ブータンの伝統建築は究極のエコロジーハウス

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2009.12.18

バングラデッシュ周遊の旅をした

暫くこのブログの更新をさぼってしまった。旅から帰宅しても紀行記を纏めたり写真をピカサアルバムにアップしたりビデオをユーチューブへアップしたりしていたためである。

Map

以下に簡単な概要を書いておくことにしよう。

 2009.11.21~2009.11.29の期間バングラデッシュ周遊の旅をした。入国経路は成田→クアランプール→ダッカ。主たる訪問地は
【ダッカ】ショナルガオン(イスラム、ヒンズ-)、オールドダッカ(ヒンズーの廃墟)、ショドルガート。【フルタラ村】グラミン組織の民家訪問
【クルナ】シュンドルボン国立公園、バーゲルハットのイスラム教史跡、【ラジシャヒ】ラロン聖者廟、ヒンズー教遺跡、【プティア】ヒンズー教寺院群、
【ラングプール】カンタナガールのヒンズー教寺院、【ボグラ】バハルプールの仏教遺跡、マハスターンの仏教遺跡、【タンガイル】紡織工場。

 28日がバングラデッシュの年一回の祭日(牛祭り)にあたるため満員バスの屋根上にまで乗客を満載した帰省ラッシュの光景と道端で牛を屠殺し解体する光景を至る所で目撃した。同行者男9名、女4名。主催者は西遊旅行。

 この日の成田空港は異常な混雑であった。イスラム圏の国へ帰国するモスリム達が多いせいである。
 メッカのハッジの日が11月27日であり、バングラデッシュでは28日が大祭礼なのでこの日に照準を併せて帰省するモスリム達が多い。



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2009.09.24

チベット・ラサは今

チベット・ラサは今no1.
チベット・ラサは今no2.

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写真は青蔵鉄道車両内に掲出される走行地点の海抜である。

産経新聞2009.9.22付けの表記記事に触発されて思い出したことが二つある。

その一つは青蔵鉄道でチベットへ流入する漢民族の乗客達の傍若無人な振る舞いとマナーの悪さである。

二つ目にはチベットの独自の伝統文化とダライラマを渇仰する宗教心の篤さは中国共産党政権の意図に反して弾圧されればされる程強固になるであろうという思いである。

その一つについては青蔵鉄道試乗記に以下の如く感想を記述している。


平成19年5月22日(火)                
 今日は今回の旅行の目玉である青蔵鉄道でゴルムドからラサまで1142kmを駆け抜ける列車の旅である。
まだ暗い中をゴルムドの駅に到着すると駅舎の中では撮影禁止だと言う。添乗員の説明では写真撮影可能と聞いていたのでがっかりする。見渡しても撮影禁止の標識はどこにも見当たらない。
 制服制帽に身を包んだ駅舎係員の気分で今日は撮影禁止にしたのではないかとの疑念が湧いてくる。公務員の権威主義を見る思いであった。

7時13分に到着した電車は7時33分には発車した。ポーターの若い男性3人が汗を流しながらスーツケースを運び込み昇降口のあいた空間に24個の荷物を積み重ねてくれたので助かった。
 硬座の指定席なのに我々の座席の上の網棚は大きな荷物で占領されており手荷物を置く隙間もない。
それでも現地ガイドのペルマさんが喧嘩腰で目にあまる大きな荷物を三個程移動してくれたので手荷物をやっと網棚に乗せることができた。

列車が発車すると給湯室へ水筒やカップラーメンを手にした現地人乗客たちの往来がひっきりなしに始まる。        
 窓側の席には小さなテーブルが設置されているがここもカップラーメンの容器や水筒で占領され尽くしていて、外国人は使用できない。
 更に手洗いに行くために隣の車両を通り抜けようとすると勇気がいる。座席に寝転んで足を投げ出しているものや通路に足を投げ出して平然としている。しかも向日葵の種やその他の種類の皮を所構わず吹き捨てるのである。
 公共施設を利用するマナーが全然できていない。中国人民の公徳心の欠如にはほとほと驚かされてしまった。こんな状態で北京オリンピックが開催できるのであろうか。出発して暫くは窓の外の景色はかすんでおり、残念ながら玉珠峰(6178m)や崑崙山脈や崑崙峠(4767m)はかすんでいてはっきり目撃できなかった。
それでも午後からは雲一つない紺碧の空が現れ名も判らぬ山々を隋所に見ることができた。
まだ雪の残っている荒野や砂漠を駆けぬけながら、夕闇迫る頃電車はラサ駅に滑り込んで15時間に及ぶ青蔵鉄道の旅は終わった。
この間食堂車で昼と夕と二回の食事を摂ったが、時間帯を予め決められた予約制になっており、追い立てられるようにして食べる食事は美味しいものではなかった。

この列車の印象はもう二度と乗りたくはないとの一言に尽きる。

二つ目については次の三個のURLで記述し掲載している写真にみられる民衆の篤い宗教心である。


掲載した写真に見られる如くお寺に参集した善男善女の宗教心には篤いものが窺われる。

 ポタラ宮の観光は1日2300人(グループ1800人+個人と信者500人)に制限されており見学時間も当局の指定した時間内で終了しなければならないからこの機会を逃したら二度と見学することが出来ないと言う思いも心に拍車をかけた。
ガイドの話によれば入場券を闇で販売するダフ屋も横行しているらしい。
 ポタラ宮に入場して先ず驚いたのは顔を覆面で隠し、杖を片手にお題目を唱えながら小刻みに動いている現地人信者の集団である。
そこには宗教的な熱気のようなものが迸りでていた。   

 チベットは様式文化の国であり個性の発揮は疎んじられる。タンカの制作は定められた通りの形状に定められた通りの描法で描かなければならない。
 チベットに伝えられるタンカ等の芸術的な名作には作者の署名がないので誰が作成したものか不明のものが沢山ある。
 個性が疎んじられるからチベットには伝記が残されていない。そして墓がない。
 遺体は鳥葬に付され骨は土に混ぜて土偶にし峠などに放置され土に返るのを待つことが多い。
 遺体は川に流されることもあるので、魚は遺体を食べていると信じており魚を食べることを嫌う人が多い。
 空気が乾燥しているので入浴の習慣がない。
 中国政府はチベット人民を奴隷社会から解放したと宣伝するがチベット人の本心は政治・宗教の権限を持つダライ・ラマ制度の復活を心密かに待ち望んでいる。 


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2009.09.02

アルメニアの旅の追憶

2009.9.2付けの産経新聞にトルコとアルメニアが国交を回復するという記事が載った。コーカサス三国を旅したのは2007.4.1~4.9であった。アルメニアの首都エレバンでは虐殺記念館も訪問しその惨劇の記録写真や物証の展示物に胸の潰れる思いをしながら見学した記憶が蘇った。
アルメニア訪問の旅日記を繙いてみたが大虐殺については記述していなかった。

トルコ人によるアルメニア人の大虐殺の詳細はウイキペデイアに記録されている。

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2009.08.23

市民達@カナダ・ケベックの仮装行列のビデオクリップ

アメリカ語圏内でフランス語が飛び交うケベックを散策していて仮装行列に出くわした。
ケベック市内の模様を当時の旅日記から抜き書きすると以下の通りである。

ケベック州の州都ケベックシティは、フランスの植民地拠点として建設された。カナダでもっとも歴史のある町で古くからイギリスとフランスの植民地支配争奪の的となり戦いが繰り返されたところである。イギリス支配下を経た現在も住民の85%以上がフランス系カナダ人というフランス文化圏である。当然に公用語はフランス語で看板の文字も全てフランス語である。ケベック市は1985年に世界文化遺産に指定された町で18世紀の歴史をそのまま閉じ込めたような町である。

旧市街でセントローレンス川を見下ろす位置に建っているお城のような建物シャトーフロントナックはケベックのランドマークであり、フランスのシャンポール城を模して作られた重厚なホテルである。また高台にある星型の要塞シタデルの前面には総督の散歩道と称される遊歩道が設けられておりセントローレンス川の風光をめでながらそぞろ歩きをするのに相応しい場所である。すぐ近くのダルム広場では大道芸人がパフォーマンスを繰り広げており沢山の観光客が群がって楽しそうに眺めている。

カナダ・ケベックの仮装行列
カナダ・ケベックの大道芸人


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2009.08.21

中国のナイトショー

中国の三国志の時代はさまざまな類型の英雄・豪傑が闊歩する面白い時代である。
乱世を秦の王・政が統一して始皇帝を名乗る。始皇帝の墳墓である兵馬俑は圧巻の観光資源である。兵馬俑を見学した時の感想は以下の通りである。


始皇帝も当時の礼制に基づいて即位するや直ちに陵墓の築造に取組み、死後に完成している。紀元前246年に着工して前後合わせて38年間もの月日を要した。陵墓築造に携わった人夫は最も多いときで70余万人が徴発されたという。まさにアジア的専制君主が威信をかけて築造したモニュメントである。

やがて兵馬俑博物館へ到着した。この博物館は始皇帝陵墓の東側から約1.5km離れた地点にあり、史跡を保護するために発掘された俑坑の上に建てられたものである。発見の時間的な順序に従って一号、二号、三号と三箇所に別れてそれぞれ建物が建てられており建物の中では今なお慎重な発掘復元作業が行われているのである。

この俑坑遺跡は1974年初春に井戸を掘る作業をしていた三人の農民によって発見された。発見した農民の一人である楊志発さんは70才余で今なお健在である。博物館内の売店で兵馬俑の案内書にサインをする仕事に携わっている。

三つの俑坑の内最大のものは一号俑坑で東西方向に長方形をなしており、230メートル×62メートルで総面積14,260m2である。坑内には陶俑、陶馬が6,000余点、木製戦車が40余台あり、戦車と歩兵が一体となって編成された長方形の戦陣である。それは前衛、主体、脇、後衛の四部分からなっている。例えば前衛だけを少し詳しく説明すれば、俑坑の最前端には鎧をつけていない軽装歩兵俑が三列あり、横一文字に並び一列は68点で合計204点になる。

 これらの俑はいずれも兜をつけず髪を束ね、下肢にゲートルを巻き手に弓を引き、勇猛で戦上手のように見える。いずれも等身大の俑である。この前衛は殆ど完全に修復が出来ているが中に首のないものが散見される。これは元の資料が破損散逸していて復元できないものである。それにしても小さな破片になって埋もれていたものも相当あったと思われるが、よくもここまで復元したものだと、関係者の気の遠くなるような根気のいる作業には敬服する。兵士俑の平均身長は1.8メートル、馬俑の平均高さ1.7メートルというから秦の軍隊は大男だったのであろうか。俑はいずれも中空の焼き物で元のものは表面に赤、黄、緑の彩色がなされていたという。目の前にある俑はいずれも彩色が剥落して素焼きのように見えるが注意してみると着衣の箇所に原色が微かに残っているのを認めることができるものもある。

二号坑は一号坑の東端、北側にあり一号坑から20メートル離れている。坑の平面は曲尺の形をなし、東西124メートル、南北98メートルで面積約6,000m2である。この坑内には車につけた陶馬が350頭、鞍をつけた騎馬用馬が116頭、各種武士俑が900余点、陶馬が1,400点ほど埋もれており発掘復元されたものは6点だけで、目下発掘復元作業が続けられているところである。

三号坑は一号坑の西端の北側25メートルにあり、平面から見ると凹状をしており総面積500m2で三俑坑中、最小規模である。ここからは陶俑66点、車を曳く陶馬4頭、木製戦車1台が出土した。

兵士俑の顔はそれぞれに異なっており、当時の兵士の表情を活き活きと伝えている。また始皇帝陵内で発見された二組の銅車馬も博物館内に展示されているが精巧に作られたその技術水準の高さと芸術性には驚かされる。

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中国のナイトショーNo1
中国のナイトショーNo2
中国のナイトショーNo3
中国のナイトショーNo4
中国のナイトショーNo5
中国のナイトショーNo6
中国のナイトショーNo7
中国のナイトショーNo8
中国のナイトショーNo9


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2009.08.20

河西回廊 裕固族の民族舞踊

シルクロードは東西の物資・文化・文明が行き交った交易路である。西安から敦煌までの河西回廊を旅した時に裕固族の歓迎を受けた。その時の状況は以下の旅日記に感想を記している。

 バスを降りて前方を見ると祁連山脈の山々を後に控えてパオが幾つも並んでいる。裕固族の村落である。手前には地域活性化の目的で観光客誘致目的で建てられたと思われる新しい建物が軒を並べている。中国沿海部の発展に刺激されて山間の僻地にも開発の波が押し寄せてこれから売り出そうという村の意志が窺える。
                       
 この村落へ向かって暫く歩いて行くとジーパン姿でほっぺの赤い若い女性が出迎えてくれてパオ村の方へ誘導してくれた。ほっぺが赤いのは化粧しているのではなく、霜焼けしているのである。パオへ到着すると5人の若い女性が民族衣装を纏って、客人一人一人に白い布を肩にかけてくれて歌を歌いながら杯に酒を酌んで勧めてくれる。
                       
 客人を歓迎する最初の儀式である。みると先程道案内をしてくれた女性も民族衣装に早変わりしている。考察してみると彼女はジーパンの上にスカートをつけているのだ。最初あったとき、なんだかお腹が膨らんでいるなという印象をもったが、スカートの裾をまくりあげて上着の下に隠していたのである。そのためお腹が膨らんでみえたという次第である。

 パオと書いたが我々が招き入れられたのは厳密にはパオではなく、仮設テントにすぎない。ここにも観光を売り物に地域活性化を図ろうとする中国人の悪しき商業主義が垣間見える。田舎者の純朴さを装った狡賢いしたたかさを感じ取ったのは筆者だけであろうか。 パオの中で椅子に着席すると、油で揚げたパンとそば粉を水に溶いたような飲み物が振る舞われた。バターも添えられている。当然の事ながら仮設テントであるから絨毯は一枚もなく、丁度品もない。従って客人は靴を脱ぐ必要もない。

 客人達が全員着席したのを見届けると、彼女達は客人に対し一人三回ずつ酌をしてまわりその都度声を合わせて歓迎の歌を歌うのである。

 歓迎の酌が終了したところで、5人の若い女性達による民族舞踊が始まった。音楽はCDに録音された曲である。三種類ほどの踊りが終了した時点で今度は客人も中に入って踊るよう誘いかけてきた。いよいよフィナーレであるらしい。旅の恥はかきすてとばかりに誘われるままに最初に踊りの輪の中に入っていくと、これに刺激されたように次から次へと客人達も加わり見よう見まねで踊り、楽しく交歓することができた。やがて終わりの時がきて今度は惜別の杯の勧めである。度のきつい白酒をしこたま飲まされて客人達は皆ご機嫌であった。
                       
裕固族の民族舞踊No1
裕固族の民族舞踊No2
裕固族の民族舞踊No3

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2009.08.19

中国・川劇のビデオクリップ   

中国の臥龍パンダ保護区でパンダを見学した。その後四川大地震でこのパンダ保護区は壊滅的な打撃を受けて閉鎖され新規に開設された保護区へ移転したというニュースを先日テレビで見感慨一入である。臥龍を訪問した時は川劇を観賞している。その模様は日記に以下の如く記述している。

 この頃からバスの調子がおかしくなりスピードを上げると横揺れがひどくなりだした。この時点では中国の道路というのは舗装が良くなくて道路表面に余程凹凸があるのだな位の認識で未だ車の調子が悪いとは思っていなかった。
 車の速度が遅くなったせいで夕方の「川劇」の鑑賞は幕開き直後にあわてて飛び込むという騒ぎになってしまった。
 「川劇」は琴の演奏、踊り、操り人形、変面、低所潜り抜け等と幾つかの出し物があったが、圧巻は「変面」である。役者が面を付けて出演するのであるが、見せ場見せ場で顔を振り、見栄を切ると今までつけていた赤色の面が青色の面に変わったり、黄色の面が黒色に変わっているのである。まるで手品をみているようでどんな仕掛けになっているのかよく判らない。優れた演技者は一秒間に二十回も面を変えることができるというからその技術は素晴らしい。変面の芸は一子相伝の秘技で最近では後継者難になっているという。

 中国・川劇のビデオクリップ   

Photo



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2009.08.18

中国・雲南省の民族舞踊

雲南省には多くの種類の少数民族が多様な伝統文化・伝統風俗を守りながら生活している。魅力溢れる風物に接することができる。旅する人には必訪の場所である。
石林の間一髪と名付けた名所はその素晴らしい命名に唸らされたものである。雲南省民族村訪問の感想は以下のように綴っている。


 最初昆明市内の「雲南民族村」を訪問した。これは見学者用に造られたテーマパークである。昆明市の南8kmに位置し80km2の広大な敷地の中に雲南省に居住する26民族の文化風俗を展示紹介している。

 丁度南アフリカのヨハネスブルグで訪問した民族文化村と同工異曲の公園である。

 公園の入り口には大木があり枝を張りめぐらせている。アフリカで見たバオバブの木に一見似ている。しかし近づいてよく見ると宿り木の葉の中に混じって造花らしい葉っぱがついている。更に仔細に観察すると幹なども巧妙にコンクリートで造られた造木であった。自然が売り物の公園に人工の樹木とは如何なものかと当局の人達のセンスを疑いたくなるような代物であった。

 入り口近くの人口の湖では舟を浮かべて漁師達が投網を打って魚を捕っていた。養殖の川魚だという。


 広大な公園の敷地の中に各民族の民家と生活用具が収納されて展示されていたが、実際に生活している場面は少なくて、南アフリカで見た民族文化村のような迫力はなかった。ここでは拉枯族(ラフ族)、基諾族、ワー族、タイ族のエリアを見学した。

 それでも印象に残っているのは泰族(人偏+泰、タイ族)の寝室である。一つの部屋に三代の家族が就寝するのだというから異様である。今まで部屋の中は他民族には公開されなかったのを観光客用に最近公開するようになったという。覗いてみると大きな部屋が柱で四角に囲って区切られている。その区画内に蚊帳様の布切れで囲われた室がありその中に布団が敷いてある。祖父母用、両親用、若夫婦用、子供用とそれぞれの室に布張りが設けられているのである。各布張りの室の間は廊下のように空間が設けられており、ゆったりとした配置である。部屋の外へ通じる出入り口は三カ所設けられていてそれぞれの世代の専用に供されている。

 最初は新婚夫婦を含めた三代の夫婦の雑魚寝なのかと思い、性生活のプライパシーはどのようになっているのかと心配したが、実際の部屋の中を見て他所事ながら安堵した。それにしても新婚夫婦には残酷な寝室の環境であると思った。

中国・雲南省の民族舞踊 N01
中国・雲南省の民族舞踊 N02
中国・雲南省の民族舞踊 N03
中国・雲南省の民族舞踊 N04
中国・雲南省の民族舞踊 N05
中国・雲南省の民族舞踊 N06
中国・雲南省の民族舞踊 N07

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